自分≠超えて
 
                   東京大学名誉教授 養 老(ようろう)  孟 司(たけし)
1937年(昭和12年)、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学医学部を卒業後、一年間のインターン(研修医)を経て1967年(昭和42年)に東京大学大学院基礎医学で解剖学を専攻し博士課程を修了、1967年(昭和42年)医学博士号を取得する。東京大学助手・助教授を経て、1981年(昭和56年)解剖学第二講座教授となる。この間、1971年(昭和46年)から1972年(昭和47年)にかけてメルボルン大学に留学。1989年から1993年(平成5年)は東京大学総合研究資料館館長、1991年(平成3年)から1995年(平成7年)は東京大学出版会理事長を歴任した。1995年(平成7年)、東京大学を定年前に退官。以後は北里大学教授、大正大学客員教授を歴任し、現在は代々木ゼミナール顧問、日本ニュース時事能力検定協会名誉会長、ソニー教育財団理事、21世紀高野山医療フォーラム理事を務めている。政府関係では農林水産省食料・農業・農村政策審議会委員を務めた。ムシテックワールド館長、京都国際マンガミュージアム館長、日本ゲーム大賞選考委員会委員長。NPO法人「ひとと動物のかかわり研究会」理事長。
                   き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  神奈川県鎌倉市。北鎌倉の谷間に東京大学名誉教授で解剖学者の養老孟司さんのご自宅があります。
 
金光:  どうも初めまして。よろしくお願い致します。
 
ナレーター:  鎌倉で生まれ育った養老さんは、ベストセラーとなった『バカの壁』を始め、多くの著書により現代社会のさまざまな問題を鋭く批評しています。人体を解剖しながら人間存在を見つめてきた養老さんが、若い頃からずっと関心を持ってきたのが「自分」という問題です。確かな「個性」とか「独創性」などといった言葉が、現代を生きる若者たちの息苦しさに繋がっているのではないかと考えています。
 

 
金光:  ひと頃「自分探し」というような言葉が、学校なんかでも随分言われたようでございますが、最近はあまり聞かないようですけれども、「自分探し」という「自分」というのは―確かに「自分は自分だ」と思っているでしょうけども―なんか自分の塊みたいなものがあるもんでしょうか。その辺は?
 
養老:  それはないですね。「自分探し」というのは、多分ですね、若い人がある日本の世間の雰囲気の中で、「本当の自分がある筈だ」という感覚を知らず知らずに植え付けられてきたと思うんですね。そうすると、その本当の自分というのは、「はて?」と考え始めるとわからなくなる。それで大きな背景はそれだと思うんですね。ご存知の通りで、古くは「自分」ということを日本の世間ではあまり良い意味で使われていない。むしろ「世のため人のため」が万事、それがいつの間にか変わってきたんじゃないでしょうかね。人が生きているのが、自分のため自分の人生を貫徹するというか、自分の人生を生きるということがいいこと、というふうに考えられて、人のいう通りになってしまうということはダメだと。それでそういうふうな教育があって、暗黙のうちに自分というものがあるという前提ができた。ところがそれをきちんと教えていませんというか、むしろみなさんあんまりこういうことは、そういう世界で生きてこなかったから困ったんじゃないでしょうか。やっぱり学生はぶっつかっていましたよ。僕は意地悪してね、「今、おまえ自分探し≠ニ言ったけど」「言いました」「じゃ、探している自分は誰なんだよ」って。「お前は誰なんだよ」って。
 
金光:  それはそうですね。
 
養老:  そこにはっきり出てくるのは、人間が殻の現在を生きている。そこがお留守になる社会があることがわかるんですね。殻の現在生きていることを考えないで、本当の自分考えていたと。これは一神教の世界を考えると、まあ当然ですね。というのは、あの世界は、いわば旧約聖書の世界ですから―根本はね―最後の審判があります。そうすると最後の審判の時に、神様の前に出る自分がいるんですよ。これは死者も全部甦って出ますから、じゃ死んだ時の状態で出るかというと、それは明らかに違うんですね。だって僕は今からアルツハイマー発病して三年後に死んで、その状態で最後の審判に呼び出されて、アルツハイマーが出ていくことになるんですね。何聞かれても「覚えがありません」という形になっちゃう。そうすると、人生一貫した本質的な自分というものがなくて、それが何かある存在として―抽象的ですけど―あるというふうに思わざるを得ないので、そういう思想の世界ではね。それが自分ということになっているんで。でもそれは具体的に考えてみるとバラバラになってしまっているんですよ。いつの自分の話だよ、ということになって、僕は中学、高等がパブリックの学校でしたからけっこう考えましたよ。探している自分は何だという疑問は絶えずありましたね。どうもどう聞いていても、あまり納得がいかないんですね。それで僕らよく読んだのは、例えば夏目漱石ですけどね。小説ではなくて、漱石の講演が残っていました。その中に、例えば「仕事と道楽」という講演をされているんですんよ。それが面白くて、僕はこの歳になってよくわかるんで、漱石が仕事と道楽をきちんと分けて、道楽は自分のためだけど、仕事は世のため人のためだと。まずそれをきちんとしてね。
 
金光:  はっきりしていますから。
 
養老:  それで常識的にはいいんだと思うんですね。だから自分探しをする若者が、ある時期やっぱりフリーターと称して仕事がないんで、その時に「何故フリーターしているんだ」と言われた時に、「自分に合った仕事を探している」。ここでも非常にはっきり出ているのは、予め設定した自分というのがあって、それと仕事が合う―そういう予め決まった自分があるというのを、いつの間にか教わっているというかね。それは戦後、あるいはもっと言えば、明治の開化以来じゃないかと思うんですね。西洋風の自分というものが、日本の世間に入ってきた。ところが今申しあげたように、例えば最後の審判が前提になっているような私というのは、日本の文化にありませんでしょう。そうすると、それはちょっと無理だと思いまして、それで私が若い頃ですと、自分について難しくいうと「西欧現代的自我」そういうものが成り立っていくのがむしろ近代だから、みんなちゃんと自分で立たないといけない。自分で立たないといけないというのは、決して間違ってはいないんです、それは社会的な意味で。漱石はそれを書いています。それは僕は面白いと思うんです。彼は最初松山の中学教師―『坊っちゃん』に書かれているような―その後熊本の高校に行きまして、それで熊本の高校で教えている時に、文部省から留学の命令がくるんですね。それでまああんまり行きたくないんだけど、彼がやろうと思っていたのは文学論だけど、どうも講義を聞いても、イギリスで暮らしてみても一向にうまくいかないというか、見付からないというか、それで帰る頃になって悩んだんですね。ほとんど帰る時期になってまあ覚(さと)るんですね。これは〈自分で考えるしかない。すべて自分で作り上げていくしかない〉と、そう思った時に、僕は、彼が自立したんだと思うんですね。それを表現としては「自分本位」「自己本位」というふうに表現した。「自分本位」という言葉は、今それだけ聞くと「自分」の意味になりませんでしょう。それは違うんで、ちょっと違う。ものを考えていく時に、人の言うことを聞いて、講義を聞いてなんか勉強していてもそれではどうしようもなくて、この先は自分だけで考えを作っていくしか仕方がないと。そこへ腹を据えたということ、これが考える人の自立だと、僕は思いますね。それはどこの国でもあるわけで、そういうものを「自己本位・自分本位」というふうに言ってもいいし、まあ僕は、「大人になる」と言ってもいいと思うんですね。それはあるんです、どこでも。西洋とか日本とかそういうこととは関係なしに、社会の中でなんか活動―まあ文学論にしても、その人が自分で立っていないと役に立たない。特に学問についてそうですね。自分でやっていく人間ですから。そうやって私も若い時にやっぱり悩んだのを覚えていますよ。それで私、解剖学をやりました。解剖学って非常に変な学問で、というのは、いわゆる解剖だけ考えたらおわかりだと思うんですけど、目の前に死体があって、それをどうするかというのは、全部こちらの仕事なんですね。これって、えらい困るんですよ。比べてみるとすぐわかるんですけど、どういう問題を扱うか、どういう問題を研究するかというんですけど、その時に臨床のお医者さんだと、患者さんが向こう来る。患者さんは問題を抱えていますから、問題自体は向こうからやってくる。ところが解剖やるって開けないといけませんから、ほんとこれで何考えればいいんだろうという、そこが非常にわからない。漱石の文学論と似たようなもんですね。
 
金光:  自分で見付けないと、
 
養老:  そうなんです。問題そのものを自分で見付けないといけないと。これが一番苦しいというか、要するに雲を掴むような話ですから、そこに何か初めっから疑問があればいいんですけど、そんなものありませんから、普通はね。
 
金光:  何をやってもいいというのも、これまた大変に難しいことで。
 
養老:  そうなんですね。だから日本の世間というか、社会の中のそういう人のあり方というか、自分のあり方と、欧米でのあり方は相当に違うと。私はこの歳になってはっきりそう思うようになりました。例えばアメリカの典型ですけども、アメリカ人のいう「自分」というのは、「自己」というのは、ある状況でものを選択していく「自」ですね。選択していく「主体」といってもいいんですけども、それが自分なんですね。選択の主体は自分であると。そしてその選択には、キリスト教では、例えば人間のすること、善悪二つの道がある。典型的な場合ですよね。善を選ぶか悪を選ぶかはあなたの番だって。これ自由意思で。だから自由意思と選択の前提には主体があって、それを選んでいく。それが非常に簡単な日常に一番よく出ているのが、お客に行った時に、「お茶にしますか? コーヒーにしますか?」と。
 
金光:  どっちを選ぶかということで。
 
養老:  そうなんです。相手の好みを聞いているんじゃないんです、あれは。つまりこの状況でコーヒーを選ぶか紅茶を選ぶかという選択肢があって、その選択肢をこの状況で選ぶ主体が存在していて、それはあなたですよと。これ押し付けなんですね。私はそれが非常に気に入らなかった、感覚的に。何故だかわからなかった、若い時から。なんか押し付けられているなと。だけど何を押し付けられているかがピンとこなかったんですね。何故かというと、日本だとちゃんと坐ったらお客さんにはお茶とお菓子が出てくるんですね。それで無理に食べろといっているんじゃないし、飲めと言っているんじゃないですね。飲みたければ飲んでくださいと。そうでしょう、食べたければ食べなさい。それが私は自由と感じるんですけど、あの文化ではいきなりコーヒーにするか、お茶にするか。だからそこで一番強く暗黙に押し付けられているもの、これは難しくいうと「メタメッセージ(metamessage:あるメッセージがもっている本来の意味をこえて、別の見方・立場からの意味を与えるメッセージ)と言うんですけど、「お茶にしますか、コーヒーにしますか」というのは、直接のメッセージですけど、その裏にというか、その上に隠れている抽象的なメッセージは、それを選ぶ主体が存在するんですよ。それが欧米の「わた(私)し」ですね。そうすると、その主体は多分最後の審判でも出てくるんでしょうね、神様の前に。ですからそれがあるということは、小さい時からほんとに全体として、僕が見ると無理矢理押し付けないといけないんですよ。だから三つか四つの子どもが誕生日のお祝いに自分が乗って遊ぶ車を買ってもらう―それは木の車でね―上に乗っかるんですね。親がなんと言っているか。ちっさい子に「この車の色を決めるのはお前だよ」と言っている。テレビで見ることがありますよ。あの歳からそれを強制されてきたら、アメリカ人は自分で選んで生きていく。こうなるのは当然ですね。ですからその結果が貧乏になろうが金持ちになろうがお前の責任だ、と言えるんですね。だからああいう社会ができてくる。でも日本はそれをやっていませんから、やっていないどころか、そういう「わた(私)し」があるかということですね。そもそもみなさん、いろんな道があって、それを自分で選択して生きていると思っている人はかなり少ないと思うんですね。これ学生にアンケート調査したアメリカの教授が―ハーバード・ビジネス・スクールの教授ですけども、京都大学とアメリカの大学と同じことをやっているんですね。それは紙を渡して学生さんに、「人生で自分で選びたいこと、自分で選択したいことを書きなさい」と。すると、日本だったら、例えば結婚相手を自分で決めたいとか、と。日本の大学生は大体二、三行書いたら終わる。アメリカ人は、裏表書いて、紙足りないからくれっていう。そこら辺に非常にはっきり文化の違いが出ているんですね。これは文化というのはもう考え方の違いであって、私どもの社会的な私というもののあり方、それから人がいつから自立するかということが随分違ってきて、案外大きな問題ですね、これは。日本でそれを欠点として言われるのは、要するに自分で考えない、debate〈論争〉ができない。それは漱石じゃないですけど、日本方の自立というのがあるんですね。それがどの社会でもなかなか難しいことだと、私は思うんです。
 

 
ナレーター:  自分とは一体何なのか。養老さんは、人体の解剖や脳の科学などの知見から独自に考察を重ねてきました。その結果自分を作り出しているのは意識の問題であり、原始仏教にも通じていると気付いたと言います。
 

 
養老:  よく思うんですけど、これもみんな笑うんですけど、半分冗談だと思って聞いて頂きたいんですけど、読売新聞がある時世論調査して、そして「何か特定の宗教を信じていますか?」という項目があって、そこに「イスラム教、キリスト教云々」とこう書いてある。ところが七割ぐらいの人が無宗教に丸付けたと。それで社の人が私のところへ聞きに来たんです。取材にきたというか。「七割が無宗教に丸付けていますけど、これはどういう意味でしょうか?」と。私は、「自分で調査したんだから、自分で考えたらいいじゃないか」って。でも私も書いたけどね。「ひょっとしてその〈無〉というのは、仏教の〈無〉じゃありませんか」と。無宗教の〈無〉というのはね。そうすると、七割仏教なんだ、無意識に。それで僕これ面白いと思うんで、日本人は宗教を基本的に無意識に入れちゃっていますですね。だから特定の時にひょっと表面化しますから、それを「困った時の神頼み」とか、悪口言っていますけど、でもズッと信心しているというのはある意味で異常で、ほんとに宗教というものが身に付いてしまうと、無意識に入るんじゃないかと。そうすると、〈無〉というのが日本人の根本にあっても一向におかしくないんで、実際に『般若心経』で、私は、〈無〉という字を数えたことがありますが―忘れちゃいましたけどね―十八か十九ありましたよ。全体が二百数十字でしょう。その前半ですから、二百に近い方ですから、そうすると一割近くが〈無〉なんですね。「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも〈無〉の字ですから、そうするとそれがそのまま無宗教となっているんじゃないかなと。
 
金光:  私は、宗派仏教でないかというふうな意味で〈無〉かと思ったのが、今の解釈の方が非常に広くて面白いですね。
 
養老:  これは先ほどの自己とも随分絡んでくるように思うんで、要するに自分を立てませんからあまりね。それはやはり仏教的ですね。無我という、無我の問題。これもよく考えると自分ってバラバラになってしまって、よく纏まらないんですよね。物があるわけではなくて、働きがあるだけですから。何となく自分が主体みたいな気がしているだけで、今、真面目になんとヨーロッパの人たちがほんとに「私・自己というのがあるか」と議論しています。最近『エゴ・トンネル』(トーマス・メッツィンガー著)という本が出たんですが、「エゴ」って自分でしょう、「トンネル」だって。中はいろんなのが通るけど、殻なんです、トンネルって。
 
金光:  そういう言葉ですか。
 
養老:  まあそういう表現を彼らはするんですけどね。でもそれはやっと気が付いたかという感じですね。昔からそうに決まっているだろう。
 
金光:  確か最初にお話になったと思うんですが、脳科学の問題。『唯脳論』という題が付いておりましたけれども、脳化社会のことを先生のお立場から現代のおかしなところ、いろんなところを紹介なさって、解説なさっていらっしゃるんですが、その後で中村元先生の原始経典の内容を、
 
養老:  『阿含経』ですね。
 
金光:  あのお経なんかをお読みになると、「自分が書いたことは何だここにあるではないか」というふうにお感じになったということで、あれっと思ったんですが、その辺はどういう感じだったんですか?
 
養老:  ほんとに素直にそう思ったんですね。日本語でものを考えると、どうしても仏教になる。これはなんと私は旧制高校を卒業した世代の私の先輩ですね。ある時聞いたことがあるんです。旧制高校では、「社会的な活動ですね、生き方についての参考を探すなら儒教。個人の生き方を考えるなら道教つまり老荘。哲学をするなら、ものを考えるなら思想的には仏教」というふうに言っていた。なるほどなと思いましたね。考えてみると、日本の抽象というのは、かなり仏教が入っているんですね。脳でもよく「意識」という言葉を使いますから。例えば『般若心経』ですよ。あそこに「五蘊皆空(ごうんかいくう)」というのがあって、「五蘊」というのは「色(しき)・受(じゆ)・想(そう)・行(ぎよう)・識(しき)」と。五つですね。「色(しき)」というのは「いろ(色)」ですから、普通「いろ(色)」というのは、男女関係で考えるのとはそれは全然違うんで、「色(しき)」というのは「いろ(色)」ですから、こうやって見た時にすべてのもの色(いろ)が付いているんですよ。ということは物ですよね。その物には色(いろ)が付いている。我々色(いろ)と受け止めていますから、いわゆる物質的な存在を、それを我々が感覚で捉えた。それを全体として「色(sき)」と言った。物質的世界といったらいいかも知れませんね。それで「受(じゆ)」―受ける。これは脳の入力です。脳は入出力装置ということができますので、入力で感覚、知覚から入ってくる。だからそれが受けるですね。その次ぎに「想(そう)」―思うというのがありますが、これは頭の中で計算が―ある意味で計算機ですから、そういう計算が起こっています。そして「行(ぎよう)」―行う。その計算の結果が外へ出る。動くことになる。お喋りにもなるし、行動にもなります。最後が知識の「識」なんですね。それ全体を意識している。「それはすべて空ですよ」と言っているんです、お経ですから。だけどともかくそれはまさに現代の脳の見方なんですよ、根本的には。だからあれは明らかに一種の脳科学ですね、そういう意識に関しては仏教というのは割合深く考えたんだと思うんです。まあ昔の人は暇だったからと、私は悪口いうんですけども。ジッと考える。そういうことをやって、ある意味で理解が深いということですね。その脳から見たもの。それとですから日本の文化は割合に親近性が近いのではないかと思ったんですね。
 
金光:  先ほど脳というのは、インプットは「色・受」とインプットとおっしゃいましたけども、インプットの中に入ってくるというものはしょっちゅう変わるわけですね。そういう意味でよく仏教でいう諸行無常と言いますか、現実というのは日々刻々と変わっているわけで、固まった現実というのは頭の中でしかないわけで。
 
養老:  そうですね。それは非常に大事なことで、これもですから自分でそう思って考えてみると、仏教が初めからそういっていることがわかるんですね。『平家物語』なんかも典型的ですけども、最初に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と。だけどあれは変な文章でね、理屈で考えると。だってあれは七百年以上前に書かれている。ところが、僕はよく後輩にいうんですけど、「あれ初めて習った時に、先生に質問しなかった?」と聞くんですね。「何を質問するか」ってね。「七百年以上経っているでしょう。でも七百年前から〈祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり〉で一言も変わっていないですよね。どこが諸行無常ですか」と。
 
金光:  なるほど。
 
養老:  つまりそういうことなんですよね。テキストというのは、あれはテキストですけど、文章によるテキストであれ、写真であれ、テレビであれ、これは全部情報ですよ。「情報は時間と共に変化しないものを指す」というのが、私の定義です。
 
金光:  なるほど。「時間と共に変化しないもの」。
 
養老:  ええ。NHKのニュースは日替わりでしょう。ニュースをデジタルにして取っておきますと、コピーさえ作っておけば永久に残ります。「0(ぜろ)」「1(いち)」のパターンで保存されているわけですね。そうすると、そういうふうにされたものが情報であって、それじゃニュースを喋っているアナウンサーは百年経ったらどこにいるかと言ったら、もう居ない。つまりそれが諸行無常なんです。人間は諸行ですが、情報が諸行には入りません。それはもっと短く言えば、古代ギリシャに同じ考えがあって「パンタレイ:panta rhei」(万物は流転する、の意。古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの思想を表現した語)ですが―万物流転するという言葉―パンタレイという言葉そのものは二千年以上経ってもそのまんま。それが言葉の恐ろしさ、おかしなところで変わらないんですね。じゃどうして情報は変わらないのかと考えた時に、初めてまた意識の問題に戻ってくるんですが、意識というものは変わらないものしか扱わないんです。扱えない。これは当たり前なんですね。映画は見るうちに変わってくるものは扱えませんから。そうすると変わらないものしか扱わないというのが意識ですから、それは〈同じ〉という働き。〈同じ〉という働きが人間は意識の中になぜか強く発生してしまうんです。私は、これが人の特徴だという結論をほとんど出しています。これ案外あまりにも当たり前だから、みなさん気にされないんですが、感覚というのはじわじわと居続けるんですよ。違った瞬間にすぐ気が付くんですね。今もこうやって照明かけていますけど、これちょっと暗くしたら、ここにいる全員がパッとわかるんです。あるいは匂いがする時は、普通は何の匂いとか、良い匂いとか、すぐ言いますけど、そうでなくて匂いがしてきたということは、実はそれ以前にその匂いがなかったということになる。状況が変わったとき起きる。知覚というのは―受というのは入れる方は常に変化なんです。だから人間はそれを頭に入れたら、今度は変わらない形に変化してしまう。これ「同じにする」と私はいうんですけど。だから今実はこの部屋に数人の人がいるわけですが、ここに家の猫は普通来ないんですね。何故かというと、これを全部猫は人として同じにすることができないんだと思う。そうすると、一人ひとりみんな違うものとして見る。その瞬間に一人ひとりが何するかわからない。用心する、逃げます、それは。それで彼らはいろんな意味で言葉が使えない。これはもの凄く深い違いで、何でもないといえば何ともないですけど、それは一言同じに尽きてしまうんですよ。例えばお喋りができないんですね、彼らは。家の猫でも十三年いるんですけども、いい加減に「オヤ」ぐらい言ってもいいんですけど、これ何度猫飼っても言いませんね。犬は「ワン」に決まっていますし、猫は「ニャン」と鳴いている。例えば感覚で言えば犬の嗅覚は人の一万倍という。人間がやっと嗅ぎ分けられるぐらいの匂いを一万倍に薄めても犬は判るというんです。そうすると、それだけ感覚が鋭いのは何故かと言いますと、言葉ができないんですね。感覚に依存するでしょう。それで例えば音ですと、彼らは端的にいって、絶対音感なんですよ。絶対音感というのは、音の振動数で音を決めてしまいますから、よく例でいうと、ウグイスの鳴き声が「ホーホケキョ」ですけど。これね日本で「ホーホケキョ」はウグイスと言ったけど、だけどウグイスは、いくら「ホーホケキョ」と私が言っても寄って来ない。なんで通じないのかというと音程がずれている。つまり音程は物理的に決まっていますから、こんな確かなことはない。だから家の猫は「マル」というんですけど、家のマルにね、お前の名前は「マル」と教えたとしても、相手が気にしているのは音なんですから、私が教えた「マル」と、女房が教えた「マル」とは違うんですよ。そうすると言葉が入らないんですよ、でしょう。なんと動物は絶対音感だとわかったとして―調べた範囲では―そうすると人間の赤ちゃんも絶対音感だろうなと想像が付きます。ということは、みなさん方どっかで絶対音感を無くしたんだなと。逆に言えば若い時から楽器の訓練した人がしばしば絶対音感を持っていますが、これは無くならなかったんだと。じゃなんでなくなるんだ。言葉ですね。お父さんが低い声で「太郎」って、お母さんが高い声で「太郎」と言っても、自分のことだとわからないと言葉通じませんね。動物はバカだから喋れないんじゃなくて同じにできないからです。感覚を優先すると同じにできなくなる。人間というのはそれをどんどん進めていきましたから、感覚を無視する世界を作っている。これが面白くて、僕は講演する時は、白板に、例えば赤いサインペンで「青」と書く。青いサインペンで「赤」と書きます。「これで犬に字を教えられると思う」と。赤字で「青」と書いて「これは青だよ」と犬に教えようとすると、犬が怒りますよね、多分。それを平気でみんなやっているでしょう。なんで「赤」という字の意味の方が目から入ってくる赤の印象よりも優先する。人間には優先です。それは勝手に優先するようになったんです、言葉を使うから。感覚はだから無視している。それを如何に無視するかということは、逆に都会に住んでいるとしみじみ判る。全部同じにしていきますから。だからオフィスに勤めている人は、朝から晩まで自分が部屋にいて、外では太陽がずっと動いているのは関わらず一切わからない。みんな当たり前だと思っているんですけど、床は全部平らで同じ堅さだ。これ山へ行ったら全部違いますから。石は転がっているし、水溜まりはあるし、傾斜は違う。なんで真っ平らにするんですか。大学の階段と言えば高さ幅が一定ですね。一段一段変えたら随分運動になると思うんですけど。だからそれは完全に意識が統制しちゃう。感覚ができるだけ出番がないようにする。私はこれが今の人を相当ある意味で傷つけていると思いますね。
 
金光:  面白いなと思ったのは、今お話になっていることが、鈴木大拙先生の言葉に、「人間の意識というのは、操作しないと焦点の当たったところしかわからないと。ところが焦点の当たる対象は無限の世界の繋がりの中にあるんだと。人間は意識の焦点の当たったところしかわからないけれども、それが一番大事だと思う。それだから現実とずれてしまう。意識で考えると妄想になると。常に現実と離れたことで、妄想は妄想を呼ぶんだけれども、また人間はそれを嬉しがる。そういう困ったものだと。それで信仰というのはそういう思い込みを外すところだと。だから宗教というのは本当は入るんじゃなくて、外れた広い世界である」。さっきおっしゃった「無の世界の方へ行って、枠のはずれた世界が本当の宗教で、思い込みは違う」と、同じような消息をおっしゃっているんじゃないかなと思いながら伺いましたが。
 
養老:  それは非常にいい言葉ですね。私も確かに何でも外していく感じはするんですね。それは先ほど、「何故解剖か」ということを逆に言いますと、問題が患者さんという形で向こうからやってくる世界が、ある意味では楽なんですね。それについて考えればいいわけなんで、だけどもそれがない世界というのは非常に大変だけども、逆に私は自由です。そこで何を考えようが、私は自由である。だからそこが西洋的な自由と日本方(がた)の自由の非常に違うところだ。東洋方(がた)の自由というのは「無」ですね。何もないところが自分が突然いくから、初めて引き算として自分が出てきますが、向こうは予め自分があってあるんですから非常に窮屈な世界に感じるんですね。
 

 
ナレーター:  養老さんの自宅近くにある建長寺(けんちようじ)。この境内に去年の六月四日「虫の日」、養老さんはちょっと変わったオブジェを作りました。昆虫採集を趣味とする養老さんならではのものです。
 
養老:  これは箱の上に置いていたんですけど、こちらに運んできたんです。虫が居そうな空間が、
ナレーター:  虫塚です。虫かごのような箱が螺旋状に配置されたデザイン。東南アジアなどにも頻繁に出掛け、たくさんの虫を標本にしてきた養老さんは、虫たちを供養しようと考えたのです。真ん中には養老さんがもっとも好きな虫、ゾウムシの彫刻です。
 
養老:  面白いですね。直線でしか組んでいないのに曲線になるんです。こちらの受け手の感覚としてね、感じが。非常に軽いんですね。これが科学の特徴ですね。トンボの羽なんかちょっと思い出します。
 
ナレーター:  養老さんは、脳が作り出す意識から自由になるために、人間はもっと自然の中に身を置き、自然を知るべきだと考えています。
 

 
金光:  無の追求というと、何もないところを探すようですけども、無限に広い世界。それだけに自由があり過ぎて、さてどうすべきかという、そういう問題が出てくるかと思いますが。
 
養老:  普通はそうなっちゃうんですね。ですから自然を見るということは、さっきも言いましたが全く今の人は見なくなりましたが、ほんとにビルの中のオフィスの中にいたらまったくないんですね。私は逆に外に出て行って、そういうものを見るとひとりでに自分が動きますね。それが大事だと思うんですね。そこには、だから自意がないというかね。虫採りもそうなんで、虫採りは一応の理由があって行くんですけども、それは本当は大した理由ではないので、現場に行けば、いろんなものがあるわけです。それを私がどう感じるかで、これはまったく無意識に処理していく。我々だって見ているでしょう。一次視覚野から取りまして、目から網膜に入ったものは一応全部見えたものは記録しちゃうんです。そして脳に送るんです。それでさっき鈴木大拙先生の話で何か集中するとおっしゃいました。意識はそれを一部を増幅するんですね。だから脳では大概自分の見ているものになっちゃう。周りのものは見ていないんですね。これは子どもは視覚中心で動物に近いとこをまだ残していますからね。よくいうのは、「間違い探し」という、そっくりな絵を何枚か並べて、二枚並べて「どこが違う?」というテストをすると、大人より子どもの成績が遙かにいいですね。やっぱり大人はこういうものだと見ちゃいますから、同じにしてしまうんですね。それを自然に見ていると、そういうことが解毒されるというか、どこを見てもいいわけですから。それでそれぞれその場所を見ていますと、あれっ!とか、こっちは思うわけですね。そうすると、それが非常にまあ今ふうに言えば健康にいいですね。というのは、どうしたって今の人から見ると、こういうことが問題だと、ああいうことが心配だとか、そっちに向かされますからね。それはどうも強制されているんですね。目の前にあるものを見て、私が何考えるか私の自由。それでここ数年ヨーロッパで納骨堂とか、お墓を見て歩いて、お墓って不思議なもんだなと、昔から思っていたんですけど、どこが不思議か?って。まあいっこうに不思議じゃないと思うかも知れませんけど、例えばヨーロッパで本屋さんへ行きますと、棚一つ伝記なんですね。だからその人についての、亡くなった方についての徹底的な記録を残せばいいじゃないかと思うんですけども墓作ります。何ですかね、それは。そうすると言葉にならないものをなんかそこに込めているような気がする。言葉にならないものがその人の一生にたくさんあるんだよということが墓でなんとなく、
金光:  いろんなタイプの墓がある。
 
養老:  そうです。もっとヨーロッパで凄いのは骨を並べていますからね。まあ極端なところは、十字軍の半ばまでやっているんですよ。それで四万体とか、それぐらいの数の骨を一箇所に納めて、その前に立っていると、まあみなさんどうお考えになるか知れないけど、まあ言葉を失いますね。でもそれでいいんで、じゃそのためというとおかしいですが、それで作っているんだと思う。ヨーロッパでは納骨堂をね―一種のお墓ですが―その前に立つと言葉がなくなりまして、まあこういうもんだよな、というしかない。その時僕初めて、それだけの人数に囲まれて、そこに立っていて、何を考えてもいいわけ。それが私の自由ですね。初めてこの人たちにもいろんな一生があっただろうなということが、それこそずっしり感じてきますね。それ亡くなっているんですけどね。そういう人生って何だったんだろうなと思うと、もの凄くたくさんのことが裏にあるというかね。
 
金光:  これ日本だと土に還ってしまうと。それこそ無に溶けちゃって無くなっていく。やっぱりヨーロッパ辺りはこの辺が違うわけですね。
 
養老:  残っちゃうんですよ。残ってしまうからしょうがないから、ああいう骨の細工というとおかしいですけども、そういうものを熟視しちゃうんだろうな。日本の場合は、鎌倉時代は―ここ鎌倉なんで―当時は風葬ですね、棄てているんですね。
 
金光:  『方丈記』なんか見ると、そういう状況がよく書いていますが。
 
養老:  お考え頂いたらわかるんですけど、一体焼くのに大変な量の薪が要ります。そんな贅沢はできませんよ。ですから当時の鎌倉でしたら、みんな穴を掘って埋める。海岸に穴がある。それ今でも出ますよ。そういうものとか、自然―骸骨も人の自然なんですけどね―自然を見るというのは、私の知覚を回復する、感覚を回復するということと、そこで自由になれるといういい意味を持っていると思います。
 
金光:  やっぱり日本だと割に亡くなった人の供養をするとか、そういう考え方がありますけれども、ヨーロッパのお墓―納骨堂なんかもやっぱりそういう考えがあるんでございましょうか?
 
養老:  そういう言葉がないと思うんですね。
 
金光:  「供養」という言葉がですか?
 
養老:  はい。これは非常に日本的ではないかと最近思うようになりまして、鎌倉の建長寺に虫塚を作りまして―作ったというのはね、私の高校の後輩の隈研吾(くまけんご)さんという彫刻家がいて、彼に「虫塚考えてよ」と言って作って貰って、虫供養をやった。これもなんということはないんですけど、私は解剖をやっていましたんで、解剖慰霊祭という、解剖された方の供養というのは、医学部では年に一度必ずやっているんですね。動物の実験施設を持っているところも、多くは動物の慰霊祭をやっていますね。面白かったのは『日本におけるキリスト教の歴史』という本を書かれたアメリカ人がいて、その人の本を読んでいましたらカーネル・サンダース事件ですね、世界中に支社を持っているけど、年に一度鶏供養するのは日本支社だけだと。カーネル・サンダース(アメリカ合衆国の実業家で、ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えて歩合を得るという新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めた:1890-1980)がそれを聞いたら墓の中でひっくり返るだろうと。この自然物が成仏するというのは、仏教では正当な教えではないのかも知れないですけど、知りませんけども、日本型のものだという考えもありますね。
 
金光:  「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじようぶつ)」なども、日本で割に盛んに言われていますが。
 
養老:  供養ということをよくやります。これなかなか理解して貰えないところがある。一つは日本人は割合にしつこくないので、加害者に相当する人が被害者を祀るような形をやりますね。それは祟りがあるからという考えもありますけど、それだけではなくて、やっぱり筆塚も針塚もありますからね。役に立ってくれたものに対して何か労いじゃないんだけど―死んでしまったものに対しても―虫なんかもそうなんですけど、平気で殺しているとこがありますから、ちょっと悪いと思っているんですよ、という気持ちを表現するものを日本人は持っている。これはあまり外国ではやらないんですね。クリスチャンによっては、それは偽善的じゃないかという話になるかも知れない。中国なんかになりますと、徹底していて「鷹は飢えて死者に鞭打つ」という言葉があるけど、それぐらいに敵を潰してしまう。根絶えしにしないとまた生えるという考え方です。これはあまりこれは日本人になくて、そういうものでも、お前の方にも一部非があるだろうと。申し訳ありませんという気持ちがこちらにあって、それは私は日本人にある意味で非常に抵抗がない考え方―供養というのはね。やっぱり供養というのはいい言葉でもあり、ちょっとやってみようかなと。これ毎年やろうかなと思っているんです。古くは神社の片隅でよくやったんでしょうね。人間がしょっちゅう神様になっていますから。
 
金光:  その辺の融通が効き過ぎるところが、最初からの主体の問題なんかで何を選ぶかみたいなのに訓練されている世界と、そうでない世界の違いみたいなところがやっぱり、
 
養老:  私はやっぱりあまいものはあまいままでいいんだなというふうに、むしろ日本人がみんな思えばいい。知り合いのニコル・ウィルスさん、あの人はイギリス人、ウエルズと言っていますけど、日本に帰化されていますけど、「日本に来て、何が良かったの?」と私聞いたことがある。即座に言われましたね。「宗教からの自由」と言われました。これはなんか非常によくわかるような気がします。
 
金光:  ある宗教の文化の中に入ると、
 
養老:  暗黙の強制があるんですね。日本にそれがない。これは非常にいい点だと思うので、それでいろいろ「主体性がない」とか言われていますけどね。私はいいところとして日本の文化として残したいなと。供養でいい加減な方がいいな。お前何祀っているんだ。よく考えよ、って言ってね。
 

 
ナレーター:  現代の日本人が探している「自分」とは、養老さんは、譬えるならば、無限に広がる地図の中で、現在位置を示す矢印のようなものであり、脳の働きがその時々の自分と外界を区別しているに過ぎないのではないかと言います。そう考える一つの例があります。アメリカの脳科学者ジル・ボルト・テイラーさん。三十七歳の時に脳卒中に見舞われました。その時左脳の機能が失われ、自分と外界との境界がなくなっていくような不思議な体験をしたと言います。
 
からだは浴室の壁で支えられていましたが、
どこで自分が始まって終わっているのか、という
からだの境界すらはっきりわからない。
なんとも奇妙な感覚。
からだが、個体ではなくて流体であるかのような感じ。
まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、
もう、からだと他のものの区別がつかない。
(中略)
奇妙ですが、幸福な恍惚状態に
宙吊りになっているように感じました。
(竹内薫訳)
 
金光:  先生のこれはご本で紹介して頂いたアメリカのジル・ボルト・テイラーさんですが、先生と同じような脳の神経解剖学者ということのようですけれども、脳梗塞を起こして働かなくなって、その途端に右脳が働いたという話ですが、そこのところほんとに面白いなと思って、日頃考えたこと、まったくなかったものですから。人間の左脳と右脳の働きを、どういうふうに考えたらいいのか、ちょっと教えて頂きたいと思うんですが。
 
養老:  これはなかなか難しいというか、いわゆる専門家の中には俗説として退ける場合もあるぐらいで、でもかなりはっきりしているのは、右と左を分けちゃいますと、我々は二つの意識を持っちゃうんですね。左脳はどちらかというと全体として考えると。言葉は、例えば左脳にあることが多いので、左脳の障害というのは言葉の障害を生むことが多いです。その時は右が残りますね、そうすると右が働く。左が比較的働きが悪くて、右が働くといろいろと面白いことが起こりますね。言葉できないのになんかいろいろわかっていますから、あるいは分離してしまったケース。左右が繋がっているんですけど、その腺だけ切れば、あるいは切ったケースはこれは古くから知られていて、その時は右と左が―これは面白いです―なんか逆なことをするんですね。すべての人がそうとは言えないんですけど、例えばアメリカ人の患者さんで、脳腫瘍のために左右の脳を切り離す結果になったんですけど、その人は靴下履くのに時間が掛かるんですよ。十分も掛かっているんですよ。何でかというと―これ本人はわからないんですね―脳をやられてから動きが悪いんだと思っているんですけど、テレビカメラでその人の動作を撮って観察しているとはっきりわかる。それは何をしているかというと、右手と左手が別のことをする。左が意識的な脳ですから、言ってみれば、これから買い物に出掛けるんで靴下履かないといけないと思っている。右手は―右利きですから―右手は靴下履いているんですね。左手がせっかく履いている靴下を脱がせるんです。時間かかるんです。結局履けるんですけど大分時間がかかる。次ぎにその人は外に出ようとするでしょう。そうするとドアのノブに手を掛けて「開かない」と言っているんですよ。これも本人は開かないと思っているんですけど、見ると一生懸命開けようとしている右手を左手が邪魔しているんです。二人居るんですよ。これねどういうことかというと、普通両方が繋がっている状態ではおそらく当人はちょっと悩んでいると思うんですね。自分はちょっと具合が悪いので、外へ買い物に出るということをしたいんだけど、いろんなことが起こりそうで心配だなとか思っちゃう。そうすると右はそれを代表して、左は行かなければいけないという、こうなっていますから、両方繋がっていれば悩むんですが、それが切れてしまうと別々になりますから、ちょうど反対のことをする傾向があるので面白いですね。
 
金光:  いろいろさまざまなんですね。
 
養老:  「エイリアンハンド(alien-hand)」というんですけどね。それは意識していない形で反対側の手がする。要するにエイリアンの手しかないんですね。それから右や左はいろいろそういう意味で、昔から言われて面白いんですけど、まあ私は私なりの解釈を持っているんですけど。何故かというと脳って無茶苦茶複雑なんですよ。だから簡単な結論を出すと必ず異論が出てくる。
 
金光:  AかBなんて言うわけにいかないわけですね。
 
養老:  滅多にない、これは。だって今神経細胞一千億と言われていて、それが全部しかも極端な数繋がっていますから。数にすると一つの細胞に一万あっても不思議はないということです。とんでもない数の連絡持っていますから、そうするとそういうふうなものって他にないので―脳以外はね―何がなんだかわからないというのが実状で、大分最近はそういう大雑把なことはわかってきて。
 
金光:  日本語では、『奇跡の脳』というテイラーさんの記録を一種のドキュメンタリータッチで書かれているのを見ると、面白いなという人間の脳の不思議さみたいなものがあるテストケースとして読むと、それはそれで面白いなと思ったんですが。
 
養老:  私もそう思いますね。凄く常識を変えさせられますね。いわゆるこれは大切なことだと思って、解釈はいろんなふうにできますから。解釈の多様性を先ず許さないといけないんで。ちょっと視野を広げてご覧になれば、人間の脳って1350グラムですからね。 自分というのも、さっきテイラーさんの本にもありますが、あれは面白いんで、特定の場所に脳出血を起こしていくと、自分が変化していっちゃうんですね。それで水になっていくと書いてある。形がなくなってね。
 
金光:  流動体になるみたいな、
 
養老:  ズーズーと広がっていくイメージですね。これは面白いんですね。自分がズーッと広がっていって、どうするか。最終的には宇宙と一体化する。宗教体験です、ほとんど。非常に気持ちがいいんです、そこは。エンドルフィン(endorphin:脳内で機能する神経伝達物質のひとつである)というんですけど、脳内の中で。これは宗教的にもそういう体験ができるんですね。病気でそうなるんですね。そういうものというのは、神様がもしかしたらそういうふうに作ったのかも知れない、ということも言えるんですけど、そういうふうに感じるのは、結局脳がそうなっているからですよ、ということは言えるんですね。だから固く自分が今あるものを固く信じるということが、脳科学をやると緩んできます。私はそう思うんですね。そこが大切なところだと思うんですね。脳科学メッセージの。あんまり固く信じられてしまうと、融通が利かないから問題が起こっちゃう。それが全てだと、人は思っちゃうんですね。だから歳もあるかと思うんですけど、若いうちはいろいろ思い込みますから。行動力もありますし、ついなんかやっちまうんですけどね。少なくとも二十五歳ぐらいまではご存知でしょう。自己にしたってそうですからね。だからそれくらいの人が極端なことに走るのは、ある程度やむを得ないとしても、それを誘導してはいけないですね、年輩者がね。
 
金光:  そういう脳科学の研究というのは、新しいにしても、言葉としては仏教なんかでは遙か昔から「自他不二(じたふに)」というような言葉が、自分と自分以外の取り巻く世界とは一体のものなんだと。これは自分の身体考えたって、自分の身体だけが独立して生きるわけではなくて、外からいろんなものを取り入れないと生きていけないというのは、そういうのに繋がっているわけで。
 
養老:  現代医学では、七年経つと百パーセント分子入れ替えると言いますからね。みなさん、なんかへたっていますわ。
 
金光:  そうですね。
 
養老:  具体的イメージないですよ。本当に鴨長明は「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」鴨川へ行ってもそこにありますけど、水はしょっちゅう変わっている。それでその一文章の後に、「世の中にある人とすみかと、またかくの如し」、人間も鴨川でしょうと言っているんです。だから近代医学に相談しなくても、あの頃の人だって、自分がどんどん入れ替わっていることを知っているんですよ。
 
金光:  ちゃんと言葉としても、はっきりそういうふうに書いているわけですし、でもそれの科学的な裏付けというのが脳科学やってくると、大体はっきりしてくるという意味では、
 
養老:  僕ね、そういうことが昔から書かれていて、科学もそういっているんだけど、それじゃみなさんの日常生活で自分がそれって鴨川の流れみたいなものだと思っていないでしょう。これがさっき言った意識は同じ。
 
金光:  そうですね。
 
養老:  自分を同じものとするんですよ。同じ自分はありませんよ、ということですね。それは極端にいうと、今までの自分が死ぬことだから。
 
金光:  そうなんですね。
 
養老:  死にたくないですね、誰もね。死ぬためには体力がいるますからね。死んで生まれ変わるわけですからね。
 
金光:  ただ意識は死んだらお終いと。死にたくないところに留まりたい。 
 
養老:  人が変わっているということを考えると、実は死ということは何でもないんですね。さっき昨日まで生きていた自分がもういないんですから。それは恋が冷めたみたいなものでね。あんなに一生懸命になっていたのは、どこの誰だという話になる。その人は死んでいないよという話。
 
金光:  そうなんですね。
 
養老:  それを今の人は、あれは一時の気持ちを自分を保存しようとしますね。そうじゃないんですよ。あそこまで一生懸命だったんだから、全体として変わったに違いない。前の自分はどこへいったって、いませんよ、それは。行く川の流れですから。そういうふうに思えば、また違ってくる。今自分が百パーセント正しいから、爆弾持って突っ込もうと思っているかも知れないけど、それは勘弁してくれという話になる。あんた、明日になったら意見変わっているかも知れないですよ、そのことは大事なことだと思うんです。その時は百パーセント思い込んでもいいけど、必ずそこに小さな恋をして、十年経ったらとんでもなく変わっているよ、ということは、年寄りが言わないといけない。年寄りが頑固になってはいけませんね。もうこれが正しいという。ムダなことを考えちゃいけないよという。一見正しく見えるんだけど、それはその場のことで、常にね。正しいことは何もないと言っているんじゃないんで。
 
金光:  それをその世界で一度思い込みが壊れると、確かに楽な世界というか広い世界に行けることは間違いないですね。
 
養老:  結局私もそれに向かって、ただひらすらやってきた気がしますね。だからあるものはしょうがないんで、あるものを見る。それを自分がズーッと見るということは、それを許容するということになりますね。
 
     これは、平成二十八年一月二十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである