私の戦後70年「かくも長き道のり
 
                    ノ-トルダム清心学園理事長   渡 辺(わたなべ) 和 子(かずこ)
1927年、北海道旭川市生まれ。父親は当時、日本陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎で、53歳のときの子だった。1936年、成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で1mのところで、当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにした。成蹊小学校、雙葉高等女学校(現雙葉中学校・高等学校)卒業。1945年、18歳でキリスト教の洗礼を受ける。1951年聖心女子大学に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院(西洋文化研究科)修士課程修了。1956年、29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。アメリカへ留学し、1962年6月にボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得したのち、同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任。1963年に36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任(1990年に退任)。長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。1977年にはうつ病を患う。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。1990年にはノートルダム清心女子大学の名誉学長、及びノートルダム清心学園の理事長に就任。1992年〜2001年には日本カトリック学校連合会理事長に就任した
               出   演       安 田(やすだ) 善三郎(ぜんざぶろう)
               き き て       浅 井 靖 子
 
ナレーター:  今から八十年前に起こった二・二六事件。昭和維新を掲げて決起した陸軍の青年将校らが、兵を率いて軍や政府の要人を襲撃殺害した事件です。事件に加わった将校の弟・安田善三郎さんは、兄が命を奪った陸軍大将渡辺錠太カ(わたなべじようたろう)さんの墓を訪れるようになって三十年になります。兄は事件のおよそ五ヶ月後銃殺刑となりました。
 
浅井:  お詣りの時は心の中でかける言葉っておありになるんですか?
 
安田:  いやぁ、ただ黙ってお祈りするだけですね。八十六年のお彼岸には高橋少尉の弟さんと一緒に詣りましてね、それからズーッと。
 
ナレーター:  安田さんが墓詣りを始めたのは死刑となった兄たちの五十年の法要の時のこと、殺された渡辺錠太カさんの娘和子さんが、兄たちの墓に手を合わせる姿を見たことがきっかけでした。
 
安田:  やっぱり事件のことを、兄のことを忘れる日というのはないですね。ほんとに兄と一緒に過ごした時間は短いんですけども、八十年前のことを、この歳になるまで引きずって歩くというのも、見方によってはおかしいんじゃないかという人もいるかも知れませんけれども、やっぱり引きずらないで歩くことは、私はできないんですね。ただ私は渡辺先生が事件後の満五十年に法要にお詣りくださったことによって大きく救われたんじゃないか。渡辺先生によって救って頂いたんじゃないか。こういう気持ちは今も常に持ち続けております。
 

 
ナレーター:  五十年の法要に参列した渡辺和子さんは、今岡山市にあるノートルダム清心学園の理事長を務めています。二十九歳の時に修道者となり、一貫して教育の仕事に携わってきました。父を失ったのは九歳の時でした。
 
渡辺:  多分このチャペル(chapel:礼拝堂)ができた頃からあるのだと思います。マリヤ様とヨセフ様―普通マリヤ様が抱いていらっしゃることが多いんですけど、ここは不思議なことにヨセフ様が抱いていらっしゃる。
 
ナレーター:  事件から五十年の法要には、渡辺さんの父も一緒に弔うので是非にと、将校の遺族から乞われて参列しました。法要後、将校たちの墓へと促されたのは、渡辺さんにとって思い掛けないことでした。
 
渡辺:  私は一瞬〈えっ!〉と思いました。父の墓詣りならまだしも、その相手の方の墓詣り。お線香渡してくださって、入れて、お花を渡してくださって、挿して、それでまあこうやって手を合わせて〈安らかにお休みください〉って。それ心の中で呟いて、立って、こんなとこ長くいる必要もないと思って、立って、こうとんとんと二段下りて来たら、そこで二人の男の方が涙流して待っていらっしゃる。どなたか全然知らない。待っていらっしゃる。そうしたら二人の方が、「これで漸く僕たちの二・二六も終わりました」って。「僕は高橋少尉の弟です」「僕は安田少尉の弟です」。そのお名前を聞いて初めてちょっとチラッと思ったんですね。あぁ、あの時に父をとどめを刺しに来た二人の―少尉さん二人しかいませんでしたから―「これで僕たちの二・二六漸く終わりました」って、もう一度おっしゃって、安田さんが多分主になっておっしゃったと思います。「ほんとは僕たちが先に閣下のお墓をお詣りする筈なのに、今日和子さんが来られて、先に兄たちの墓に詣ってくださった。ほんとに申し訳ございません」って。「ところで閣下はどこにお墓をお持ちですか?」とおっしゃったんですね―二人で。私も忘れもしない「多摩墓地の12-1-10-15番地です」とすらすらと言った。それを書き留めていらっしゃって、「ありがとうございました」って。
 
ナレーター:  渡辺さんの父錠太カさんは、小学校も満足に出られなかった境遇から陸軍教育総監にまで上り詰めた人でした。五十二歳の時に生まれた末娘の和子さんを殊の外可愛がっていたと言います。
 
浅井:  お父さまに可愛がられたお嬢様でいらっしゃった。
 
渡辺:  これだけは自信をもって申しあげられると思います。「毎月の月給の半分が丸善に行った」とか、母が後で話してくれまして。だから本をよく読んだ人。それもいわゆる戦略とか戦術とか、そういう本だけでなくて、けっこう広く読んでいた人らしくて、ちょうど私どもの家の二階に自分の書斎を持っておりまして、ガラス戸の戸棚はもう本でいっぱいでございましたし、私だけは特別だったんですね。父が何をしていようが抜き足差し足で階段を上っていって「わぁっ!」とこう言いますと、わかっていたと思うんですよ、足音が聞こえて、それなのに「わぁっ!」と言って驚いてくれまして。それでその戸棚の隅に置いてある―今ですと鳩サブレーでしょうか、鎌倉のあそこのお菓子、ちょっとしたクッキーのようなものを私にくれて、見ててとても嬉しそうにしておりました。私も、私だけに許された特権でございましたので、その父がほんとにびっくりしたんだと思い込んで幸せだったんですね。
 
ナレーター:  幸せだった父との日々が一転したのは、一九三六年二月二十六日未明のことでした。天皇が自ら政治を行う天皇親政を求めて決起した青年将校たちが、およそ千五百名の兵を率いて軍や政府の要人の屋敷を襲撃したのです。当時陸軍トップの要職の一つ、教育総監だった父錠太カさんも兵士たちの標的となりました。東京荻窪(おぎくぼ)の渡辺邸には安田豊、高橋太郎少尉の率いる兵士たちが乱入しました。
 
渡辺:  その居間に母と私と父と、こう川の字になって寝ておりまして、で、母は多分五時頃には起きて台所の方に立って食事の準備を多分していたんだろうと思います。兄も二人おりました。私はほんとに寝ていたと思います。そして父は私を揺り起こして「和子はお母様のところに行っておいで」と。その頃はもうドンドンパチパチやっておりましたから。私は寝間着のまんま起きて、で、隣の部屋を通って、母のところへ行ったら、母はこっちを向いてもくれませんで、とにかく相手を入れまいと。ガラス戸を散々に壊してきましたけれども。それでしょうがなくて、また父が好きだったもんですから、またこう戻って来て、父のところへ戻って来た時に、ちょうど母のところへ行っている間に、父は拳銃をすぐ傍の戸棚のようなそこから取り出して、身体には掻巻(かいまき)という真綿でできている温かいものを身体に巻いてここに寝ておりまして、私がこっちから戻って来たのを見て、とっても困った顔をして、もう一言も言わないで、目顔でその陰に入れと。それで私もどういうわけか割に落ち着いていたんですね。そのまんまそこに入った途端に、ダダダダという軽機関銃の音が聞こえて、三、四人だったと思います、土足で上がって来て、もう既に死んでいると思うんですよ、機関銃でズーッと撃たれておりましたから。でもそのとどめを刺して行くのは見ました。そして多分私は間違っていなければ、ちょっと礼をして―父の死骸ですよね、もう死んでおります―入って来た廊下から帰って行った。それで私が「お父さま!」と言っても、もう何も言いませんでした。私が見た父というのは、脚がほとんどなくなっていた骨ばっかりのそういう脚と、それから天井至る所に飛び散っていた肉片でございますね。「和子はここを出なさい!」母が言ったもんですから、出て行った時に、赤い血の跡が真っ白の雪に―あれでも四つか五つ付いておりましたかね。そして午後の二時か三時頃だったと思いますけども、「お父さまお帰りよ」ということで見た時に、もうほとんど全部グルグルに巻かれていて、それでその時に開いているところといったらもう額しかなかったんですね。そこにこうやってちょっと手を当てて「お父さま」と言ったんですけど、もう冷たかったです。私は年取ってからの子どもでございますから、おじいちゃま、おばあちゃま、みんな亡くなっていたんですね。ですので、私にとっては生まれて初めて見た死でございました。こう額に手を当てて冷たいな。母が、「済んだらサッサと出て行きなさい!」という厳しい母でございましたから、そんなとこで涙なんか流されちゃ困るというような感じで「すぐ出て行きなさい」と。ほんとに私不思議だと思うんですけどね、父のその最期の姿をズッと見た唯一のその娘だった。兄たち二人も見ていない。姉も見ていない。母も兵士たちを入れまいとして見ていない。私しか父の臨終を看取ってないということが、一つは私の心の支えになったわけですね。それでしかも最後の最後まで私を案じてくれた。それがやはりいつものお父さまだなという気持ちがあって、それで〈あぁ、こういう形で死んでいらっした〉という気持ちはあっても、だから悲しいということはなかったです。あの時に身体はズタズタに弾を撃たれたけれども、有り難いことに父は一人も殺さなかったんです。それは自分の兵を殺さなかったという意味では、父は喜んでいるんじゃないでしょうか・・・わかりません。
 

 
ナレーター:  渡辺邸を襲撃した安田豊(ゆたか)少尉の弟善三郎さんは、今神奈川県葉山町(はやままち)で暮らしています。現在九十歳、事件が起こったのは十歳の時でした。これまでに集めた二・二六事件に関する本は二百冊近く、決起した兄たちは反乱軍として鎮圧され死刑となりました。
 
安田:  まあ二・二六の記録として、取っておこうかなということと、一つは兄のことをまあ読もうと思って取ったんですけどね。
ナレーター:  人を殺し、罪人として二十四歳で死刑となった兄。安田さんは、兄への複雑な感情を整理できないまま長い時間を過ごしてきました。兄豊さんは、善三郎さんとは十三歳年の離れた二番目の兄でした。
 
安田:  休暇に帰って来ておりますと、もう可愛がってくれたんですよね。一緒に川へウナギ採りに連れて行ってくれたり、親戚が馬を持っておりましたから、その馬を借りて馬に乗って私を前に乗せたり、私はその馬の後ろについて行ったりして可愛がってくれたりしていたんですよ。それで最後に会ったのが昭和八年になりますかね、夏休みに帰って来まして、私は隣村の船着き場まで送っていくつもりでズッと片棒担いで歩いて行ったんですよ。で、もう歩いて行ったら、「おまえ、遅くなるからお前帰れ」と言われて帰って来たんですけども、それほど私を―兄弟みんなそうですけども―可愛がってくれていたんです。それとあの村で士官学校に入ったのは、兄が最初なんですね。
 
ナレーター:  安田さん兄弟が生まれたのは熊本県天草(あまくさ)です。貧しい農家の十人兄弟。両親が子どもたちに高等教育を受けさせようと、わずかな田畑を耕し、米の仲買をしながら懸命に働いていました。長男は京都帝国大学へ、次男の豊さんは士官学校へと進み、貧しい中でも家族力を合わせて生きる日々でした。しかし兄が起こした事件は一家の運命を一変させました。
 
安田:  実は私の生まれた村は、人口三千人ぐらいの村でしたけども、大体旧制中学とか、あるいは旧制の女学校に行くのが、年に二人か三人いるかいないかなんですね。その中で長女は女学校まで行ったと。長男は官立の大学まで行った。次男は士官学校に行ったと。こういうことで村の人からは、一方では羨望の眼で見られ、一方では嫉妬の眼で見られたわけですね。で、二・二六が起きた時、村の人たちは、「安田は教育、教育と言っているけども、教育したって何にもらないじゃないか」と。長男はその頃京都大学、昭和五年の京大事件で、京都の警察署に捕まって一年落第しているんですね。
 
浅井:  左翼運動?
 
安田:  そうです、左翼運動です。そういう話が父の耳に直接入ってきていたわけです。私たち子どもとしては、何だか父に申し訳ないような、特に母にも―母はもっともっとぼろを着て働いていましたんですね―母にも申し訳ないような気持ちがしていまして、私はその頃親には絶対迷惑を掛けるようなことをすまいと、そういうことを子ども心にも自分に言い聞かせておりました。
 
浅井:  事件が起こった当時のことというのは覚えていらっしゃいますか?
 
安田:  鮮明に覚えていますね。二十六日の朝、学校に行きましたら、田舎ですからラジオを持っている家庭ってほとんどないんですね。一人の女の子が、「東京で大変なことがあったらしい」とこう言っていたんです。その時は何だろうぐらいに思っていたんですね。ところが二十九日の朝、朝刊が夕方配達されるんです、田舎ですから。それに「さらに五人の将校免官」という記事が出ていたわけです。その中に私の兄の名前が出て、それを見て母はほんとに半狂乱でしたね。今でも覚えていますけども、父は流石に涙見せなかった。それからが我が家のほんとに言いようのない状況が続きましたね。「教育、教育≠ニ言ったって何になるか。兄は左翼で弟は殺人じゃないか」と、そういう非難でした。
 
浅井:  事件から半年若で死刑になるということでしたけれども。
 
安田:  父は五月頃だったと思うんですけど、すぐずっと東京に出て行って、最後には終わりまでいたんですけども。「七月五日に面会さし許す」という電報が来たんです。はっきり覚えておりますけども。すぐそれを今度は東京にいる父に返電しなければいけないですね。ところが私の村には郵便局はあったんですけども、電報を取り扱えないんです。隣村まで峠を越えて行かなければいけないんですね。兄が「面会さし許す。電きた」と電文を書きましてね、電報を打ちに行った。雨の日に山越えして菅笠みたいなものを被りましてね、一軒隣の男がいましたからその子に頼んで一緒に行って貰ったんです。その電報で父に知らせて、それで父たちは面会に行ったんです。そうしたら十二日に今度は、「豊(ゆたか)従容(しようよう)として死す」と言って、電報が今度は天草に来たんです。ちょうどその日母は田植えに行っていたんです。近所の方と共同作業をやっていましたからね。電報が来たのは夕方でしたかね。そうしたら母はもう覚悟は勿論していたんですけども、やっぱり死刑になったということを聞きますと、もう嘆き悲しんでおりましたよ。で、母がその時言いましたが、「たまたま雷がなって目の前の田圃がピカピカとしてきた」というんですね。それはちょうど八時頃だった。「それが知らせだったかな」と後で言っていましたけどね。
 
浅井:  その頃はお兄様のご葬儀とか、大っぴらにはできない状況の時ですか?
 
安田:  確か遺骨が帰って来たのが―七月十二日に処刑されて―十四日だと思うんですね。それから遺骨はズーッと三ヶ月間―七、八、九、十―三ヶ月間家にあったんです。葬儀ができたのが十月の多分中旬、月夜の晩だと記憶しております。
 
浅井:  夜ですか?
 
安田:  夜です。その時もちゃんと特高(特別高等警察の略。国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者、共産主義者、社会主義者、および国家の存在を否認する者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした日本の政治警察)が来ておりましてね。豊のすぐ下の弟が僧侶でしたから、遺骨が帰って来た時の夏休みに来まして、私に禅宗のお経を教えてくれましてね、「お前はもう朝晩この遺骨の前でお経を唱えろ」と。それからズッと私は朝も晩もわけもわからないお経を唱えていたんです。たまには人間の遺骨ってどうなっているんだろうと思って、骨壺の蓋を開けまして見たことも数回あるんです。昔は今みたいに粉々になるまで焼いてなかったんですね。一番上に頭蓋骨がある。その頭蓋骨がこの辺血で赤くなっているんですね。それを見ましてね、〈あ、これは眉間を撃たれたから、その血が脳に廻ったんだな〉と思ったりしていました。これはもう私の心のありようが、そういうふうな思いにさせたんじゃないかと思うんですが、ちょうど秋でしたけども、授業が終わってから私たちみんな五十人の子どもが校庭を走らせたんですね、先生に。先生から声を掛けられて、「よし」と言われた者はみんな走りを止めてよかったんです。ところが私は走っても走っても「よし」と言われないんですね。最後まで私は残ってしまったんです。その時私はヒョッとしたら、兄の弟だからそうされているんじゃないかと。多分これは私の僻みだと思うんですけども、そう思いました。ただ中学に行ってから、そろそろ生意気盛りになりますから喧嘩もしますよね。そうすると最後に口喧嘩して、「お前の兄貴は死刑じゃないか」と言われると、もうこれで終わりなんですよ。返す言葉がない。そういう記憶は何度か経験したことがありますね。
 

 
ナレーター:  渡辺さんが、理事長を務めるノートルダム清心学園。大学の正面玄関には、ここを巣立っていく学生たちに向けた餞(はなむけ)の言葉が掲げられています。渡辺さんが学長になったばかりの頃、困難な中で一人の牧師から送られた言葉です。
 
渡辺:  これは河野進(こうのすすむ)(和歌山県生まれ。満州教育専門学校、神戸中央神学校で学ぶ。玉島教会において牧師となる。賀川豊彦より、岡山ハンセン病療養所での慰問伝道をすすめられ、50年以上たずさわる。インド救ライセンター設立の運動、またマザー・テレサに協力する「おにぎり運動」に尽力する。日本基督教団玉島教会名誉牧師、日本キリスト教救ライ教会理事、社会福祉法人恵聖会(養護施設岡山県立玉島学園、保育施設富田保育園)理事長を務めた:1904-1990)とおっしゃる、多分これはお菓子箱の裏の木だと思います。そういう点でもこう派手なことをなさらない。そこにあるものを使って、
天の父さま
どんな不幸を吸っても
はくいきは
感謝でありますように
すべては恵みの
呼吸ですから
河野進
 
学生たちに、「天の父さま、どんな不幸を吸っても、吐く息は、感謝でありますように、すべては恵みの呼吸ですから」河野先生のお言葉だけど、あなた方がこの正面玄関を出て、外へ働きに、卒業して出て行く時に、そこには大きないろんな不幸があるのよ。その時にそれをグッと吸いなさい。でも吐く時は感謝にして吐き出す。それまでには時間も掛かるかも知れない。神様はあなた方に負わせることのできない重荷は決して負わせにならないから、必ず苦しいこと辛いことがあなた方に降りかかった時には、そこを抜け出すことができる。そしてそれは「あ、感謝のお恵みだった」ということがわかる。そういうことを書いた詩なんですよ、って。
 
ナレーター:  渡辺さんは、大学で五十年以上「人格論」という講義を続けてきました。自分の身体を通して実感した生きる道を、若い世代に伝えたいと願ってきました。父が亡くなった時、渡辺さん九歳。母すずさんは二人の兄と和子さん、三人の子どもを女手一つで育てることになりました。涙一つ見せることがなかった母は、子どもたちに「これからはお父さまの分まで厳しく躾けます」そう話したと言います。渡辺さんはカトリックの学校雙葉(ふたば)高等女学校に進学。厳しい母の教えを守り、成績はいつもトップクラスでした。そんなある日、級友から思い掛けない言葉を掛けられます。
渡辺:  お友だちが困っている時に助けてあげなかったんですよ、あの勉強。私はちゃんと自分の分だけ勉強して百点取って、「和子さん、優○百点」。そして家に堂々と帰って行った。その時に口争いしていたらしくて、「和子さんは鬼みたい」とおっしゃったんです、二人がそう言って。それは私に響きました。自分が意地が悪いこと、いつも一番を取らないと母に叱られること。私はほんとに家の前を行ったり来たりして、今日は百点取れなかったから入れて貰えない。そういう時はほんとにあったんです。そのお父さまの名を汚すな。お父さまは陸軍大学校も一番だった。恩賜の軍刀を頂きになった。これこれこういう勲章も頂きになった。そういう頭が染みついていたんですね、頭に。だから「あなたは何をしても百点取って帰りなさい。取って帰って来なかったら家には入れません」って。それほど厳しかったんです。それで私はもうと思ったんですけど、一番になること、必ずしも嫌でなくて、その代わりに意地が悪かったと思います。
 
ナレーター:  雙葉を主席で卒業した渡辺さんは、清心女子学園専門学校に進みます。戦争が激化する中、このままの自分で死ぬわけにはいかないと悩んだ渡辺さんは、雙葉の恩師だったシスターの勧めでカトリックの洗礼を受けます。一九四五年四月、敗戦間際のことでした。
 
渡辺:  私たち、荻窪におりましたから、それこそ焼夷(しようい)爆弾がいっぱい落ちて、たくさんの方が死んだわけです、家の近くでも。それから隅田川に飛び込んでそのままお亡くなりになった方がたくさんおいでなった。絶えず防空壕に入ったり、警戒警報が鳴れば防空壕に入る。空襲警報が鳴れば防空壕に入る。夜も防弾チョッキを着て寝る。そういう私がその頃になってやっぱり父の死に様というものが戻ってきたんでしょうね。不思議なもんですね。父があの時の包帯でグルグル巻きになったそういう姿が街角で死にかけていらっしゃる方のお姿に重なったんでしょうね。特に父のことを思い出したというわけじゃないんですけれども、やはり真面(まとも)な死に方はしたいと思いました。それまでほとんど洗礼の「せ」の字も考えていなかった人間なんですけども、私が死ぬ時には、やっぱり防空頭巾を被ったままで、あの防空壕―家の庭に掘ってございました。割に大きな防空壕―あの中で死ぬんだろうかと。兄も二人も徴兵で取られておりましたし、だとすれば家を守るのは私しかいない。その私が防空頭巾被ってというような、その普段のプライドの高い私にしてみたら絶えられなかったんでしょうね。だからせめて洗礼を受けておけば天国へ行けるんじゃないかと。そんな虫のいいことを考えていたんだと思います。家の母が、それは怒りましてね、「家は浄土真宗だから」と言って大反対。その母が事ある毎に「それでもあなたはクリスチャン」と言って、詰(なじ)ってくれたんです、私を。
 
ナレーター:  敗戦後、渡辺さんは、軍人恩給が途絶えた一家の家庭を支えるため、学業の傍ら上智大学にできた国際部の事務局で働き始めます。当時の上司で、大学経営に手腕を発揮したアロイシャス・ミラー神父は教務や財務の仕事を与えるだけでなく、生涯にわたりクリスチャンとしての生き方を示してくれる恩人となりました。二十九歳の時、一家の働き手の役割を終えた渡辺さんは、予てから志していた修道者となる道を踏み出します。母は、「結婚だけが幸せとは限らないから」と送り出してくれました。並み得るノートルダム修道女会の修道院に入った渡辺さんは、間もなくアメリカ・ボストン郊外の修練院に送られることになります。予期しなかった慣れない外国での修道生活。さらにボストンの大学でそれまで学んだことのなかった教育学の博士号を取ることを命じられました。がむしゃらに学んだ三年間を過ごして、無事博士号を取得。帰国したのは、一九六二年のことでした。待っていたのは、岡山にあるノートルダム清心女子大学での仕事。急逝した二代目の学長に代わって、三十六歳で学長を命じられます。創立以来、ズーッとアメリカ人シスターたちが率いてきた大学に初めて誕生した年若い日本人の学長。学生たちは歓迎してくれました。かつての教育総監の末娘が学長になったということでも、世間からの注目を集めました。しかしその一方で、学園で働く年長の修道者たちとの関係は、想像以上に厳しいものでした。孤立の中、修道会を辞めようとまで思い詰めた渡辺さんは、東京のミラー神父を訪ねます。大学の玄関に掲げた言葉を贈られたのも、そうした困難の中でのことでした。
 
渡辺:  私は土地にも慣れていない、ここの大学に行っていない。そして今までもここの中学、高等学校にも行っていない。だからほんとに余所者で辛い。そうしたら神父さまはズッと聞いてくださって、そして慰めてくださるかと思ったら、あに図らんや「Unless you change」あなたが変わらなければ「nothing change」何も変わらないよ、と。その時にお恵みなんでしょうね。「目から鱗が落ちる」とよく言いますけども、自分でハッと気が付いたんです。学生たちには、「愛されるより愛することを、慰められるより慰めることを」お前は言ったじゃないか、学長になった時に。「そういう女の人になりましょうね。そういう人をここは育てるのよ」と言っておきながら、なんのざま。ちょっとのことで「あの人がいなければ」とか、「あの人が変わってくれれば」と。それを神父さまご自分も辛い目にきっとお遇いになったと思うんです。ズバッとおっしゃった。そして私二の句が継げませんでした。私、けっこう意地が悪いですから、一回そうと思えば、けっこう言い返せるんです。でも家の母が、「あなたの大きさは、あなたが言い返そうとすることの大きさだ。そんな小さなことでくよくよしていたら、あなたの大きさはこれだけよ。そんなこと忘れてしまいなさい」というようなことを随分辛いな・酷いなと思いながら母から聞いておりましてね、「慰められるよりも慰める人におなりなさい。愛されるよりも、愛する人になりなさい。理解されるよりも理解する人になりなさい」これ聖フランシスコの祈りですけども、ほんとにそれが平和への祈りというんです。すべては、つまりあなたが不幸だと思っている。それも神様のお恵みだ。あなたのために必要だったんですよと。だからある意味でバカにならないといけない時があります。ただそのいつかちょっと申しあげたように、家の母が「お父さまは良い時にお亡くなりになった。生きていらっしゃったら、きっとあれだけの頭と文学博士的なものを持っていたら、きっと戦争に巻き込まれて、縛り首になっていたかも知れない」という。随分不幸を吸ってから、恵みの呼吸だと思うまでに何十年か掛かりました。その時私はもう三十いくつかなっていたと思いますが、三十年近く掛かったと思います。でもほんとにそうだと思います。
 

ナレーター:  敗戦後、天草で父の農業を手伝っていた安田さんは、二十一歳の時に上京、大学に入学します。天草を離れても、就職し、家族を持つようになっても、兄が人を殺したということへの負い目を負い続けていました。私利私欲のためではなかったと言い分けをしてみても、かえって辛さが増すばかりでした。転機が訪れたのは、六十歳を過ぎた頃、渡辺さんと出会い、その後の交流を続ける中でのことでした。五十年の法要は渡辺さんの学長就任から二十年あまり後のことでした。
 
安田:  先生と高橋さんと私―私はそこで一緒に写真に収まっていいもんだろうかと思って遠慮していた。そうしたら先生が「一緒に撮りましょう」とおっしゃって、撮ったのがあの『文藝春秋』に載った写真なんですけどもね。もし私が逆の立場だったら、相手のお墓に詣れるだろうかと。下品な表現になりますけども、唾を吹っかけて帰るんじゃないかと。普通の人ではできないと思うんですよ。それから私は、先生がお書きになった本を読みまして、そのうちどうしてもあと一回お目に掛かりたくって、思い切って翌年の五月に手紙差し上げたんです。そうしたら六月の十七日だったと思うんですけども、「いらっしゃい」というお手紙を頂きまして、そうして家内と二人で岡山へ出掛けて、前の晩ノートルダム清心女子大学の近くのホテルに泊まりましてね、眠れないんですよ。翌朝遅れちゃいかんと思って、大学の玄関まで歩いて行きまして―時間を計りましてね、それでお目に掛かったんです。玄関を入ったところにありましたよね。
 
天の父さま
どんな不幸を吸っても
はくいきは
感謝でありますように
すべては恵みの
呼吸ですから
 
あそこの玄関まで出て迎えてくださいましてね。私の目からすると、まったく平静に受け止めて頂いたような、歓迎して頂いたような気がしております。お目に掛かった途端に、もう穏やかな気持ちになりましてね、ほんとに平穏にお目にかかることができました。
 
浅井:  ご自身が抱えてこられた苦しさとか、そういうものを聞いて頂きたいとか、
 
安田:  そういうことは一切お話しませんでした。私が仮にそういうことをお話しますと、先生だってもやはり思い出されると思うんですよね、あの苦しい時のことを。ですからそういうことには、ほんとにまったくというぐらい話はしなかったと思うんですけどね。別に避けて通るというわけではないんですけども。先生もおそらく忘れていらっしゃるわけではないと思うんですよ。私も忘れているわけではないんですけども、話題にのぼったことはないですね。
 
浅井:  安田さんにとってはどういう時間だったですか?
 
安田:  これはほんとに至福の時と言いますか、世間話とかそういうことでしたけど。お話の中でやっぱり先生の素晴らしさと言いますか、ご立派さと言いますか、そういうのを感じ取ることができるんですよね、お目に掛かっているだけで。
 
ナレーター:  安田さんは、二・二六事件の顛末を辿り、改めて兄に向き合うようになりました。事件を裁く裁判では、黒幕と疑われた軍の上層部は無罪。兄たちに率いられた兵の多くはやがて日中戦争の最前線へと送られました。渡辺さんとの出会いから十年あまり、安田さんは兄の記録を本に纏めました。
 
安田:  子どもを残さずに、それから弔ってくれる連れ合いも残さずに、ああいう形で死んでいった豊を不憫に思う気持ちがありましてね、何らかの形で彼を残してやらないかんと思って、資料を集めて、これを作ったわけです。兄の書き残した遺書とか、日記とかいっぱいありましたからね。その頃家に帰ると、それを広げたり、父に叱られるんじゃないかと思いながらそれを広げたりしておりましたから。私の兄は坂井直中尉の部下で、斎藤實子爵(内大臣・前総理・予備役海軍大将)と渡辺大将のところへ行っているわけですよね。それを割当られた時、「斎藤邸を襲撃した後、渡辺邸に行くのは、もう私は生きているかどうかわからないから行きたくない」というんですね。それでも「行け」と。「生きていたら行け」と言われて渡辺邸に行っているわけです。私は、直接兄が手を掛けようとまでは考えなかったんじゃないかと思うんです。どうしてああいう事件を起こしたんだろうかという気持ちは強いですね。彼らが信じた天皇はほんとに彼らのために、あるいは我々のための天皇だったのかと思う気持ちは強いですよね。振り返って見まして、誰でもがそういう重荷を背負っていると思うんですけどね。ですからそういう重荷を背負っているのは私だけではないんですから、過去は変えられませんしね。渡辺先生との邂逅があったということは、私にとっては私の人生でも最大の喜びでした。
 

 
浅井:  つまり私には、父を撃ったり、殺したり、とどめを刺したりする人たちは、私にとっては危機でなかったということです。だから赦しの対象ではなかった。この人たちは何をした人かということは、今日もこうやって浅井さんに申しあげるし、どなたに聞かれても、私はこの目で何人かの方が父を刺したり、とどめを刺したりするから、弾を撃ったりしたのは確かに見ました。でもだから殺した敵だという気持ちがほんとに―浅井さん不思議なんですけどね―私にはいつか申しあげたように、後ろで糸を引いていて、そしてご自分を守るために「私は何も関係がない」ということをおっしゃった方、その方はある種の憎しみを持っています。それは父を殺したからではなくて、たくさんの千何百名の兵隊たち、その人たちがやがて戦争が始まった時に、一番辛いところに送られて、それから将校たち二十一人のように位階を剥奪されて辞めさせられた。そして自分は、「自分がしたんじゃない」って、しらを切れる。切ることができる、そういう人は私の父でなくてよかったと思います。不思議のようですけど、この方が、父を殺した安田さんの弟さんだ、というような気持ちはほとんどもったことないです。有り難いお恵みだと思います。ほんとに何か私を助けてやりたいというお気持ちがあって、そしてそれがほんとにびっくりするような、例えばお家に招いて奥様のお手作りの焼き肉なんかをしてくださったり、お庭を見せてくださって、そして葉山という土地のことを教えてくださったり、それから鎌倉プリンスに一晩泊めて、そして次の朝お奥様とご一緒にお食事をして、また戻って来る。そういう普通の方から私はして頂くことがなかった親切。そういうものを―それも親切がましくなくて、時たま私が、「こんなにして頂いて」という時に、「いや、これは僕にとっては償いですからさせてください」とおっしゃって、私もあんまりその気にしないで、むしろお断りするよりも、甘えた方がこの方のためにはきっとお気持ちがすっきりなさるだろうと思んです。河野進先生が、「天の父さま、どんな不幸を吸っても、はくいきは、感謝でありますように、すべては恵みの呼吸ですから」という詩をお作りになった時に、この不幸の息を吸う時と感謝の息になる時と、時間は掛かるんですよ。掛かる時もあるんですよ、ということを、私にお伝えになりたかったと思うんですね。旧約聖書に「すべてのことには時がある」という有名な箇所がございます。そのことでないんでしょうか。そういう長さというものは、その人その人によってやっぱり違うでしょうね。
 
     これは、平成二十八年二月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである