いのちのあかし≠伝えたい
 
                  僧侶・写真家 岸 野(きしの)  亮 哉(りようさい)
1974年、京都市生まれ。大谷大学文学部仏教学科卒業。浄土宗西山禅林寺派の僧籍を持つ。コマーシャルスタジオのアシスタントを経て独立、フリーカメラマン。岸野写真事務所を設立、広告写真などを手がける傍ら、紛争や災害に苦しむ人々に心を寄せ写真を撮り続けている。内戦の激しいスリランカや、軍事独裁政権下のミャンマーなどに取材旅行を重ね作品を発表している。                       き き て  柴 田  徹
 
ナレーター:  間もなく五年目のあの日が巡ってくる東日本大震災の被災地です。二○一一年三月十一日、太平洋の海底を震源とするマグニチュード9の地震が発生、巨大な津波を引き起こす。東北地方を中心に多くの人が被災しました。当時大勢のボランティアが駆け付けましたが、中にはその後も東方へ通い続けている人もいます。岸野亮哉さん、四十一歳。岸野さんは京都にある寺の副住職です。震災発生直後から被災地に入り、今もほぼ月に一度は被災した人を訪ねています。
 
被災者A:  自分は生きるのに、辛いし、必死になった時もあるけれど、今はちょっと肩の荷がおりて、私には仕事があるから生きる目的というんだか、働く目的というか、そういうのがあるから。
被災者B:  五年前はやっぱり必死だよな。俺は人を探すのに必死だった。今はまた生きることに必死だべちゃ。
 
ナレーター:  岸野さんは、今、避難生活を続ける人々が、心に溜めている思いを聞き取って記録する活動に取り組んでいます。
 
岸野:  震災を通じてほんとに人の生きること、死ぬことというのを考え、自ら悲しい思いをしてきた、そういった人々から学ぶことがまだまだ沢山あるのではないのかなと。
 
ナレーター:  被災した人々から聞き取った思いを、岸野さんは機会を見付けては被災地の今の様子と合わせて多くの人に伝えようとしているのです。京都市の郊外にある専修寺(せんしゆうじ)。四百年近く続くこの寺で生まれ育った岸野さんは、住職を継ぐ前に他の世界を知っておきたいと考え、大学で仏教を学んだ後、写真家として活動しました。海外で起きた災害の被災地や内戦が続く紛争地域へも出掛けて現地の模様を記録してきたのです。
 
岸野:  ああいうふうな紛争地に何カ所か行きましたけど、伝えて欲しいと願っている人がいるんですね。この状況を世界に伝えて欲しいというふうな願いを持って協力してくれる方々がいらっしゃるんですね。ですから東日本大震災の現場で伝えるということをしているのも、そこに関係しているのかも知れませんし。
 
ナレーター:  困難な中で生きている人々の思いを、多くの人に伝えたい。我が身は京都にあっても、心は被災地の人々と共にありたいと、岸野さんは言います。今回の「こころの時代」は、東日本大震災の被災地に通って、人々の思いを記録し伝えている僧侶の岸野亮哉さんに、五年の歳月で見えてきた心の世界を聞きます。
 

 
柴田:  東日本大震災から五年という時を前にして、あの時どんなふうに地震の発生を知ったのか、先ずそこから聞かせて貰いたいんですけど。
 
岸野:  二○一一年の三月十一日ですね。私どものお寺の本山―永観堂(えいかんどう)というお寺なんですけども、そこで会議がありまして、そこにおりまして、夕方頃だったと記憶しているんですけども、ちょうど会議が終わる辺りになりまして、職員の方が「テレビの映像で―東京の最初の映像だったと思うんですけども―地震があったらしいと。煙が建物から上がっている映像がある」というふうなことを聞きまして、みんなでその本山の中にあるテレビを見まして、というのが一番最初地震を知った時でしたね。
 
柴田:  それを知った瞬間、自分の中でどういう感情が芽生えましたか?
 
岸野:  東京で最初地震があったかなと思ったんですね。お寺に帰って、テレビでニュースの映像を見ていますと、東北地方中心に大きな地震、そして津波の災害があるというふうに聞きまして、もうその映像を見て、とても驚いたと言いますか、私は揺れを感じませんでしたので、あの同じ時間帯に、そして今この時間に苦しんでいる人たちがたくさんいらっしゃるんだ、ということに対して罪悪感と言いますかね、京都はお蔭さんで被害がなかったもんですから、例えば電気も点きます、ストーブも点きます、テレビも見られます、というふうな状態で、でも東北地方中心にたくさんの方が困っておられて、未曾有の災害であるというふうなことを知った時に、ここに坐って温かい食事を食べながらテレビを見ている状態ではないと思いましたね。私は副住職なんですね。例えばお寺もそんなに大きくありませんし、勤めに出ているわけじゃないんですね。ですから明日が仕事ではないので、あの日は次の日も特に予定がなかったもんですから、これはどうしたらいいのか。東北地方にはほとんど行ったことがなかったんですけども、取り敢えず現地に入って何をするべきかを、先ず確かめるために、というのは失礼ですけども、それを知るために、先ず一旦現地に向かおうと思いましたね。それでその日の夜、岐阜、それから東京の友だちと共に―報道関係の方ですけども―と一緒に車に乗って取り敢えず東北の方に向かいましたね。
 
柴田:  その日現地までは行けなかったでしょ?
 
岸野:  そうですね。私の記憶では、それでも翌日の昼過ぎには福島の百キロ手前の高速道路の入り口辺りまでは着きましたね。
 
柴田:  ただそこで福島第一原発の事故があったわけですよね。
 
岸野:  そうですね。車の中のテレビで、爆発している映像が何回も流れたものですから、これはちょっと様子がわからないと。この後原発の状況がどうなるかもわからない。じゃここで一応引き揚げようか、ということで、その日じゅうに引き揚げて、おそらく十三日に京都に戻って来たんだと思いますね。
 
柴田:  でも冷静に考えればですよ、京都の方がその日のうちに、地震が起きた場所に行こうという行動って、もしこれ隊員だとしたらちょっとびっくりの行動じゃないですか?
 
岸野:  確かに直接知っている方が被災をなさったわけでもなさそうでしたし、行ったことがある場所でもないということではそうなんですけども、やはり私は阪神淡路大震災に何度か現地に入ったことがありますし、二○○四年の十二月に、いわゆるインド洋大津波(2004年12月26日、インドネシア・スマトラ島沖の巨大大地震で津波が発生、東南アジアからアフリカ東部まで広範囲に被害、スリランカも被害甚大)というのが起こって、スリランカ―昔でセイロン島ですね―にも二○○五年の二月に入ったことがありまして、ですのでやっぱり実際現地に入って、それから何をするべきかを考えることが大事かなというふうな、そういった経験を持っていたもんですから、それで入ったということが大きいですね。例えば今回の震災の起こる約十年前に車を買ったんですよ。その時に車でもいろんなタイプがありますね。セダンであったりワンボックスであったり、最後二つの種類のどちらにしようかと迷ったんですけども、結局底の車高が高い車にしたんです。その決め手は何かと言いますと、阪神淡路大震災のような災害があって、道路が寸断された時に入れるかも知れないという、そういうふうな思いでその車にしたんです。それが十年後その車に乗って実際岩手に入ることができたということですね。
 
柴田:  岸野さんと災害との関わりというと、やはり阪神淡路大震災がかなり岸野さんの中で大きな出来事なんですね。
 
岸野:  大きいですね。と申しますのは、あの時は二十歳だったんですけども、それまで京都も揺れたんですね。あの地震の揺れは体験したことがありませんし、京都から神戸って車で行けるんですね。九五年の二月ですね、同じ宗派のお寺さんに物を持って入った時に、ワンボックスカーを借りて、私の母親と二人で物資を積んで運んだんですけども、その時に神戸に見た光景というのは忘れられないですね。その後ボランティアという形で避難所になっていた学校で子どもたちと遊んだんですけども、その時にしっかりと阪神淡路大震災と向き合うことができたのかなという反省というのはどこかにあったと思いますね。
 

 
ナレーター:  岸野さんを東北の被災地に向かわせるきっかけと一つとなった一通の手紙。二十一年前の阪神淡路大震災の時、大学二年生だった岸野さんが、ボランティア活動をした避難所で出会った一人の少女から届きました。
 
岸野:  避難所になっていたある中学校に紙芝居をしに行ったんです。それはズッと覚えていたんですね。今回の東日本大震災が起こる前後に、机の中の箱の中から―大事なものを入れた箱があるんですけど、その中から一通の手紙が出てきたんです。久しぶりに読んだんですね。そうしますと、「あのかみしばいおもしろかったよ」―私、避難所で紙芝居をしたんですけども、それは覚えていたんですね―「あのかみしばいおもしろかたよ。また会えたらいいね。こんどの日よう来るん? これたらいいのにね。そのとき、うちのかめらでうつそうな。」と書いてあったんです。住所が書いてあり、返事待っている。その瞬間、〈あ、あの子や〉と思い浮かんだんですよ。あの子に返事書いたかな? もし返事を書いていれば、また手紙がきていたでしょうし、やっぱり自分は正直出した記憶がないんですね。それも含めて、住所が書いてあるんで手紙出そうかと思ったんです。ところがその住所をよく見ると、彼女が当時非難していた中学校の教室なんですよ。というのは、今送っても届くわけはないですね。これは当時小学校の高学年だったと思うんですけども、これは大変悪いことをした。で、当時一緒に活動に行った先輩方に、彼女が今どこにいるのかとか、元々の家どこだったか、聞いたんですが、今どこにいるかがわからないということでした。自分でも―去年かな、実際避難所の中学校の近くに行っていろいろ聞いて歩いたんですけども、結局今どこに住んでいるのか、どうしているのかわからない状態でした。やはりその手紙を見た時に、彼女に対して申し訳ないという気持ちと同時に、やはり岩手に行く大きな力になっているのは間違いないとは思いましたね。もし彼女に会うことができいたら、「あなたからお手紙頂いたが返事書くことができなかった。大変申し訳なかった」と。彼女はそれで許してくれるかどうかわからないんですけども、〈今、自分は東日本大震災の現地に行って、関わった人との繋がりを大事にしていますと。それはあなたから頂いた手紙を改めて読んで、その時の反省をし、今回はそういったことがないようにしようと思っているからです〉というふうなことを、もし本人にお会いすることができれば伝えたいなと思いますね。
 
柴田:  人の思いって、思わぬ形で凄い時間の後に、自分を突き動かしたりするんですね。
 
岸野:  仮に向こうが、手紙を書いたことを忘れていたとしても、私自身許されることではないと思っていますね。今の状況でしたら、少なくとも当時は、〈返事まだかな〉と待っていたでしょうし、手紙を出したのに返事がない。もう大人なんてそんなんだとかね、人間不信になられたりとか、そういった原因を作ったかも知れませんし、そういった罪深いことをしたなという反省はほんとにありますね。ですから彼女から頂いた手紙を手帳に挟んでいつも現地に行く時には持って行っていますね。
 
ナレーター:  地震による大津波が広い範囲を襲った二○一一年の東日本大震災。岸野さんが最初に被災地に入ったのは、地震発生から八日後の三月十九日のことでした。目指したのは避難所になっているという陸前田の寺でした。そこには四十人ほどが避難していたと言います。岸野さんは運んで来た支援物資を渡しました。
 
岸野:  私が物を持って入ったお寺さんは、陸前田の市内からまだ半島の方に行くんですけども、真っ暗で、直接津波の被災をしていないお家でも停電していまして、ほんとに真っ暗で、道も所々で通行止めになっているというふうな中で、今考えたらよく到着できたなと思うんですけども。着いた時に、境内でブーンという発電機の音がして、〈あ、ここ着いた〉ということで、消防さんの方であったり、たくさん避難されている方がいらっしゃって、「実はこうこうこうで、ご住職さん、いらっしゃいますか? 実は私はこうこうこうで物資を持ってきました。もしよろしければ」と言ったところ、ご住職さんが出て来られて、「ガソリンも少し持って来たんですけど」と言った時に、歓声が上がったのを覚えていますね。ガソリンで歓声があがるという、この日本で少なくとも京都では買いましたので、普通にですね、並ぶということもなく。これは凄いことになっているなと。それを思いましたね。ですので、帰りの最低限のガソリンだけは自分らで確保して、その日に取り敢えず向こうを発ちました。でもやはり一回行ったぐらいでは、とてもじゃないですけれどもダメだというようなことがありましたので、三月は行って帰って、行って帰っての繰り返しでしたね。
 
柴田:  その「ガソリンを持って来た」ということを、ほんとに現地の方が喜んでくださった。そのみなさんの反応を見てどう思われました?
 
岸野:  ほんとに大変なことなんだと。おそらくそのお寺さんだけでなくて、今回被災した場所、どこでもそうなんだろうと思ったんですね。ですので、避難所はたくさんありましたし、取り敢えず自分のできることをしようと思って、友だちに募金を募りまして、けっこう多額なカンパをみなさんから―檀家の方もお寺さんも含めてですけども―頂きまして、それで三月は何回も往復したという感じでしたね。
 
柴田:  それから今に至るまでに相当の回数現地に足を運ばれていますよね。
 
岸野:  お蔭さんで今年も行きましたし、間もなく六十回を迎えますかね。
 
柴田:  ただそういう大きな災害が起きた時というのは、発生直後から時間が経ってくると、その問題点が少しずつ変わってくると思うんですね。
 
岸野:  変わってきます、おっしゃる通りです。実は阪神淡路大震災で、これは私の神戸の方の「お兄さん」と呼んでいる人。神戸のお兄さんなんですけども、私より少し年上ですが、阪神淡路の時に直接被災されている方がいらっしゃる。ご自身もご自宅の下敷きになって。その方に今回言われたのは、「岸野さん、安置所にお詣りに行かなければいかんよと。岸野さんしかできないことがあるだろうと。あなた、お坊さんだろう」と言われたんです。「 そうですけども、何で?」と言いましたら、「自分は神戸の時に被災し―その方は被災なさっているんですけども―家族を亡くした方から、お坊さんはお経一つも読んで貰えんのか、と凄い剣幕で言われた」と。そのことがもの凄く印象に残っている。ご自身も安置所の設営にもあたられたそうなんですね。その時の安置所の光景、それからその家族を探す人々の気持ち、そういうのを目の当たりにされている方ですよね。その方から「行かなければいかんのや」というふうに言われた時に、〈あ、そうか。その役割もあるんだ〉と。陸前田の和尚さま方も、ある和尚様方はお寺が避難所になっていてまったく動けない。あるお寺さんは、お寺が流されている。どのお寺さんも大変な時なんですね。あ、そうか。みなさん、地元の和尚さま方もそういった安置所のお勤めを、お詣りをしたいけれども、できる状況にはない。おそらく忸怩たる思いがおありだと思うんですね。そういうこともあって、安置所のお詣りをさせて頂きました。
 
柴田:  今度は僧侶としての被災した場所への訪問が始まるわけですよね。
 
岸野:  やはり最初は、〈私でいいのかな〉って抵抗ありますよね。というのは、頼まれたわけでもない。私が存じあげている方でもないので、他の地域の坊さんが安置所に行って、その地域の方々に手を合わせることがどうなのかということもありましたし、みなさんこう棺にこういらっしゃる状態ではあったんですけどもね。身元のわかっておられる方もいらっしゃいましたけれども、たくさんの安置所があって、その中でも一番私が衝撃を受けたのは、ある場所で身元不明のご遺体を―四月になってからですけれども―体育館に集められたんですね。それで棺を数えていきますと、たくさんあって数えられないんですよ。棺の前で短いお経をあげて、一体一体に手を合わせて。これいくつあるのかなと思って、安置所を管理なさっている警察官の方に聞きますと、「三○五です」と。「三○五」という数字ですね。その時に思ったのが、今回の震災で一体いくつの命が亡くなったんだろう。いくつの安置所があって、もうほんとに安置所に行きますと、毎回お会いする方がいらっしゃるんですね。おそらくご自身のご家族を探しておられると思うんですけれども、ある方はもう探しに来られて「自分の身内は亡くなっているだろう、時間も経っているので亡くなっているだろう」と。できればご遺体見付かってほしいと。今もたくさん行方不明者の方がいらっしゃるんですけども、当時、「もうせめて骨の一つでもいいから見付かってほしいな」とおっしゃられたんですね。この人たちの何倍もの人たちが亡くなっていて、何倍の人があちこちの安置所を家族を探して歩いて、友人知人を探しておられるんだなというふうなことを思いまして、我々にとりましたら、ご遺体の番号が振ってあるご遺体なわけなんですけど、探しておられる方にとれば遺体番号ではないですね。故人を探しているわけですね。自分のお父さんやお母さん、弟や妹、友人を探しておられるということですね。それを知った時に、〈あ、そうか。ここにいらっしゃる方からすれば大変な人だな〉というふうに思いましたので、手を合わせる時も、私からすれば直接存じない方ですけれども、その探しておられる方々の分もやはり手を合わせて頂いたのかなというふうには思っておりますね。
 
ナレーター:  震災で亡くなった人たちへの読経を被災地で続けていた二○一一年の五月、岸野さんに一つの出会いがありました。陸前田の祭場で荼毘(だび)にふされる前の身元不明の棺へお経をあげていた時、喪服を着た家族の一団を目にしたのです。この出会いが被災した人たちの話を聞く活動の入り口になりました。
 
岸野:  あれっ! 身元不明のご遺体というふうに聞いていたのに、まだ身元がわかっていないと聞いたのに、〈あれっ! 何で喪服着てるんやろう〉と。男性の方がお亡くなりなんですけど、その方のご家族ですね、奥さんであったり、子どもさんであったり―えっ!と思ったんですね。わかってるんかな。で荼毘にふされる前にご遺体と別れをなさるわけですね。「お父ちゃん、お父ちゃん」と言っているんですよ。「もう間違いなく、お父ちゃんです」とおっしゃっていたんですね。最後に荼毘にふす前に棺が閉じられて、お経を称えようとした時に、娘さんがお花をお持ちになっておられたんですけども、写真がない。亡くなった方は、被災されていますので、お家も流されたそうなんですけども、もう写真がないと。どうしましょう。写真がない。私がフッと「失礼ですが、携帯電話のデータの中にお父さまの写真ありませんか?」と聞いたんですね。そうしたら、「あ、ある」。こう携帯を棺の上にポンと置かれて、こうお父さまのお写真を置かれて、ということでしたね。荼毘にふされている間少しお時間がありますので、その時は先方さんからお話をしてくださったんですね。「ありがとうございます」と。その時に「どういった方でしたか?」「お父ちゃんです。こういう仕事をしてました。状況としてはおそらくこういう状況で見付かったんだと思います」と。そういったお話を聞いた時に、これまでたくさんの安置所で、棺にご遺体番号の付いていた方々ばかりだったんですが、その時に「一個人としてですね、お名前があって、家族がいらっしゃって、お仕事何なさっていて、どこに住んでおられて、どういうふうなお人柄だったのか」ご家族からお聞きすることによって知ったんですね。この話、偶然でしたね。頼まれて火葬に立ち会ったわけではない。私が向こうに行っている時に、市役所にお勤めをさしてほしいと言った。そしてその時に荼毘にふされた方の中のお一人なんですね。偶然ですね。その方のお話を聞いた以上、偶然の出会いんんですけども、〈あ、そうか。やはり一人亡くなったということはこういうことなんだ〉ということを思いまして、できたらこの方のお話というのも書かして頂きたいなというふうに思いまして、ご家族にお話しましたところ、みなさん快く了承頂きまして。ですから記録をする。その人たちの亡くなられた方のことを記録にするということが大切なんだろうな、ということは、その後のご家族とのやりとりの中でも実感しましたね。
 

 
ナレーター:  岩手県一関市にある茂林寺(もりんじ)。岸野さんは震災の年の九月から、ここを拠点に東北の被災地を廻っています。この寺は震災の大きな被害はでませんでしたが、住職の田村純一さんが少しでも被災した人の力になればと岸野さんを応援しています。震災から五年の間、岸野さんは毎月のように京都から通い一週間ほど被災地を廻っています。
 
岸野:  はい、失礼します。
 
ナレーター:  この日先ず訪ねたのは、吉田千壽子(よしだちじゆこ)さん。被災直後に出会って以来、通い続けています。吉田さんは六十歳の頃緑内障で視力を失い、三月十一日に家と暮らしを流されました。仮設住宅での不自由な生活を経て、自宅を再建し、現在娘と二人で暮らしています。
 
吉田: 死にたくない人が死んだんだよ、みんな無理矢理。津波にのまれて。それは私とて生かされたというか、生きたんだからね。生きるということはほんとに凄く辛く苦しいものですけど、別に考えれば、先にどんなことが待っているかわからないから夢もあるじゃないですか。そう考えると楽になる。
 
ナレーター:  岸野さんが、被災地で話を聞いた人は五十人を越え、中には吉田さんのように何度も通っている人もいます。訪ねる度に新しい話が出てきますが、その裏に先が見通せない将来への不安が見え隠れするのを感じています。
 
岸野:  その方は仮設を経て、去年―間もなく一年ですね、自力再建された。元あった家とは別のとこなんですけども。災害公営というのは住みにくいんだと。何故かというと、その視覚障害を持っている人にとって、例えば三階と四階をエレベーター間違って降りた時に、部屋のノブって形状が一緒ですね。「判らない」とおっしゃるわけですよ。それ非常に不安だ。そういったこともあって、ちっさいけれども 一戸建てにしました。その方は七十代後半なんですけれど、その方とは避難所でお会いしたんですね。避難所も大変だったと思うんですよ。もともと持病を持っておられますし、お手洗いの場所であったりとか、こうやはり突然ですから、生活環境が突然変わりますので非常に大変だった。仮設も漸くなれたかなと思った時に、また環境が大きく変わる。仮設で知り合った人たちともまた別れて少し遠いところに住むことになりましたので、また一から人間関係も作っていかなければいけない。私が話しますと、「ちょっとお手洗い行ってくるわ」と言って、杖を一応ついておられるんですけども、やはりまだ迷われるんですね。こうガンと壁に頭を打ち付けられるということをなさって、「自力再建なさって、おめでとうございます。お家建てて良かったですね」とは言えないですね。
 
柴田:  命を失うことはなかったけれども、大切な人を亡くした。財産を無くした。生活を無くした。今度はそういう「生」―震災後の生きる人生と向き合うことについてはどうですか?
 
岸野:  それ一つは、お話頂く方がいらっしゃるからなんですね。今、ある大学二年生の女の子、親御さんお一人とご兄弟亡くされているんです。それで家も無くされているんですけど、彼女が高校の時から継続的にお話を聞いていまして、今大学生で、陸前田にはいらっしゃらないんですけど、よくお会いするんですね。彼女がおっしゃるのは、「自分たちのこの悲しみを苦しみを知って欲しいから喋るのではないと。私が、岸野さんに話をすることによって、例えば岸野さんの話を聞いた人が、岸野を通じて減災や防災のことを先ず考えてほしい」ということ、それから「何か話を聞いている人に役に立って欲しい。役に立つことが一つでもあるならば、私は喋ります」というふうなことをおっしゃっていまして、私は尊敬しているんですけれども。そして彼女がおっしゃっていたのが、「今回の災害というのは―関連死を含めて二万人以上というふうに言われておりますが―二万人の命が亡くなった一つの災害ではないと。一人失われた命が一人あるということが二万人あるんですよと。そしてその死を悲しんでいる人というのはさらにたくさんいらっしゃいますよ」ということを彼女が高校三年生の時だったと思いますけどね、私に話してくださいまして、そういった人々との出会いですね。勿論五年経ってもお話にならない方もおられます。よく言われる「話をして楽になる」ということもあると思いますけども、それも一つだと思うんですけど、逆に口に出すのもおぞましい。口にも出したくないし、忘れたい。「いつまでも震災、震災≠ニ言っているのも嫌だ」という方のいらっしゃると思うんですね。やっぱり一方で「自分たちのような悲しい思いを二度と他の人にしてほしくないんだ」といった思いでお話をして頂く。そう言った方は「自分がどれほど辛い目に遇ったとかではなくて、これから起こるであろう、世界各地で起こるであろう震災害に備えてほしい。何かに役に立ってほしいと。こういう悲しい思いをするのは、もう自分たちだけでいいんだと。他の人には誰にも味わってほしくない」と、そういうふうにおっしゃる方がいらっしゃいましたね。この前も別の大学生の子に言われたんですよ。「自分の人生というのは、おそらく震災がなければ命のこととか、いわゆる絆ということですかね、仲間を思いやる気持ち、家族の大切さ、日常生活の尊さということを、おそらく今よりかは気付かなかったでしょう」と。そう言った意味では、震災によっておそらく成長できた部分が本人にあるんでしょうね。しかしだからと言って勿論本人は震災に感謝しているわけではないんですけども、どうしても自分というものが震災に関する活動をする時に、震災ありきの自分と言いますか、物事を考える時に、震災というのはどうも外せないんでしょうね。そういった辛さを持ってそれを持ちつつも一歩一歩、前に前に進んでおられる姿というのは尊いと思いますね。彼女に、僕は代わってやることはできないですね。悲しんでいる人に代わってやることはできないんですけども、無理に引っ張ることも勿論できないんですけども、一人ひとり命があって、その死を嘆き悲しんでいる人たちがたくさんいて、おそらく五年経ってもまだまだ悲しんでおられて立ち直れない方も、お話できない方もいらっしゃると思いますね。
 
柴田:  一人ひとりが生きた人生を書き記したり、言葉で伝えたりしていくこと、この意味をどういうふうに受け取ればいいですか?
 
岸野:  数ではなくて、例えば安置所で遺体番号が振ってあって―お名前じゃなくですよ―お名前があって、親の願いがあったりとか、子どもたちがいらっしゃったりするわけですね。たくさんの方々が亡くなられていらっしゃるわけですから、やはりその人たちがこの世の中に生きておられたこと、生きて居られた証というのをやはり残していくということが、僕の使命なのかなとも思いますね。勿論無理にとは言わないんですけども、書き記したり、語らなかったとしても、その方々の話を聞く。自分の子どもが亡くなった話、親御さんが亡くなった話を聞くということをしっかり自分の中で記録していくということももの凄く大切なことであるというふうに思いましたね。
 
ナレーター:  人々が生きた証を残し、伝えていくことを、自らの使命と捉えている岸野さん。その根底にあるのは、大学生の時に遭遇した阪神淡路大震災と海外の紛争地などへ出掛けた写真家としての体験です。一人カメラを携え、さまざまな国や地域へ向かったのは、悲しみも苦しみも抱える人々に、宗教は何ができるのかを自らの体験で確かめて、将来僧侶として人生を歩む自分自身を磨きたいと考えたからでした。
 
岸野:  阪神淡路大震災は、大学の二年生で、あの時、カメラを実は持っていたんですよ。アルバイトをして高校の時に買ったカメラを持って行って、現地にも持って行ったんですが、この状況でシャッターを切っていいのかどうかというのを悩んだんですね。おそらく数枚は撮ったと思うんですけども、やっぱりそのレンズを向けていいのかな、そういった大きな事象があった時に、カメラを向けていいんだろうかというふうなことがあったので、伝えるというふうな方向性にはいかなかったと思うんですけども、海外の紛争地に行くようになったのは、いわゆるニューヨークの九・一一の事件ですね。あの時、私はこのお寺にいたわけなんですが、テレビを見て、ほんとにこういった表現はよくないのかも知れませんけど、いわゆるこれはほんとに起こっていることなのかと。映画のCGの世界じゃないのかなというふうに思ったんですね。
 
柴田:  何故それで実際に行きたいと思ったんですか?
 
岸野:  やはり宗教が、戦争の原因になるのかなという。人々の幸せを願う筈の宗教が、他の宗教を信仰する人、異なる考えを持った人に対して排除、あるいは武力行使、暴力を振るっていいのかどうか。イスラム教の人というのは、そういった教えをお持ちなのかなというのがありまして、当時はちょっといろいろな事情ですぐ現地には行くことができなかったんですね。そうこうしていますと、二○○三年の三月に、いわゆるイラク戦争ですね。ブッシュ大統領が宣戦布告をした。二十一世紀に戦争すると。戦争ごっこをテレビでしているということに対してまた驚きでしてね。あの時も、開戦の時には間に合わなかったんですけども、ほんとにイスラム教徒の人たちの生活、考え方、文化を知りたいと思いまして、それで二○○三年の七月に約三週間ほど一人で行ってきました。
 
柴田:  変わりましたか?
 
岸野:  それは大きく変わりましたね。実際の人々というのは、向こうでたまたま画家のグループと友だちとなったんです。同世代の人たちで、七、八人居て、アトリエを私が泊まったホテルの近くに設けていまして、そこに出入りをするようになって、約二週間、朝から晩まで誰かが行動を共にしてくれたんですね。コンサートを聞きに行ったり、大学へ連れて行ってくれたり、美術展に連れて行ってくれたりしたんですけど、その彼らに接してモスクもお詣りに連れて行って頂いたんですけども、その中で決してイスラム教徒の人たちというのは、何も他者に対して排他的な人たちではないと。私、誰からも批判されたことないんですよ。「仏教」と「仏教僧」と言った時に、みんなが「友だちや」と言って握手をしてくださったんです。そして「オサマ・ビンラディン(イスラム過激派テロリスト。同時多発テロ「9.11」の首謀者とされる)容疑者、あるいはサダム・フセイン元大統領(イラクの政治家。イラク戦争当時の大統領)をどう思いますか?」と聞いたところ、「真のイスラム教徒ではない。何故なら人を殺したからだ。イスラム教徒は人を殺したらあかんのだ」とはっきりおっしゃったんですね。またキリスト教徒の方もバグダッドにいらっしゃるんですよ、少数ですけども。別に喧嘩をしておられるわけじゃないんですね。ですから実際現地に行き、現地の、いわゆる市井の人々と触れ合い、その人たちと触れ合った結果、その人たちの生活を通して見たのは、何も宗教の対立って、僕はないんじゃないのかなというふうに思いましたね。少なくともイスラム教徒の人たちは、暴力的でもなければ、排他的でもない。もし排他的であるならば、私は彼らとは友だちにして貰えなかったというふうに思っていますね。ですから今後はそういったことも今後伝えていかないといけないなと。一般の市井のイスラム教徒の人々が、どういうふうな考え方をお持ちなのかということを、今のこのご時世だからこそ、逆にどんどん仏教僧として伝えていかなくてはいけないと思っています。
 
柴田:  最近は戦争体験者のお話も聞いて伝える活動をされていますね。これはどういうきっかけで?
 
岸野:  やはり岩手なんですね。岩手の陸前田の仮設住宅で、八十代後半の女性のお話をお伺いした時に、いろいろ話を聞きましてね、こういう生活をしていた。ご兄弟が戦死をなさっていたり、あるいは戦争中に陸前田の沿岸部で機銃掃射(機関銃による広範囲・無差別な射撃)ですね、襲撃があったんだと。釜石艦砲射撃(1945年7月14日-8月9日、太平洋戦争末期に連合国が洋上の艦艇から製鉄所を標的に砲撃、市民約700人が死亡した)というのがあって、そこは製鉄所があったので、艦砲射撃というのがあった。それは知っていたんですよ。ところが陸前田というのは、釜石から大分離れていますし、何でかな? 他のその世代の方、あるいは図書館にそれこそ行って、市史、町史、それから郷土資料を見ると、やはり記述が出てくるんですね。そういった時に、急に戦争が身近になってきたんですね。私の母方の祖父というのが、お寺の三男坊だったんですけども、大学を繰り上げ卒業をして―半年、昭和十六年の十二月頃に繰り上げ卒業し、戦地に赴いているんですね。で、お蔭様で生きて帰って来たんですよ。復員して来たんですよ。そして母親たちがいのちを授かったわけなんですけども、もし祖父が戦死していれば私の命はないんですよ。
 
柴田:  そうですね。
 
岸野:  ないんですね。で、陸前田の戦争体験をもつ女性の方から、お話を聞いた時に、そういったことがすべて頭の中にスーッと入ってきたというか、甦ってきたと言いますかね、祖父の顔が浮かんできたんですね。それで郷土資料を見たりして、実際に機銃掃射で被害に遭われた方がご健在であるというふうなこともわかったもんですから、お話を聞きに行き、例えば海軍の潜水艦に乗られた方、戦死した戦友を今でも弔っている方がいらっしゃったり、広島の部隊にいらっしゃって被爆をしてという方―もう二人とも九十代ですけどいらっしゃって、いつもお話を聞きに行くんですけどね。そういった方のお話をお聞きしまして、戦争体験の方がまだいらっしゃって、「自分だけ生き残って申し訳ない」ということをおっしゃられるんですけども、命があって、あれから七十年も経つのに未だに苦しんでおられる。私は何もそういった体験もしていませんし、平和な時代に育っていますから、物も豊富な時代に、その中でこの方々の話を自分はどこまで理解と申しますか、頂くことができるのかな。でもほんとこの前も「話したくないんですよ」と言いながら、二時間以上お話を頂けた方もいらっしゃってですね、それは単に興味だけではなくて、今後の自分の人生にもこれは繋げていかないといけないですし、語り継いでいかないと、その方々に申し訳ないというふうに思いましたね。
 
ナレーター:  戦争や震災を経験した人は、生きること、死ぬことを我が身のこととして強く意識するようになり、その人たちの言葉は生きることの素晴らしさに気付くきっかけになると、岸野さんは感じています。
 
大坂:  私は震災を経験していて、やはりいのちの大切さを感じることができました。私は小学校四年生で震災を経験、
 
ナレーター:  この日は、小学四年の時、震災に遭い、この春中学を卒業する大坂あゆみさんから、京都の小学生に向けたメッセージを収録しました。
 
大坂:  五年経った今でもこうやって支援してくださる方、こうやって話を聞いてくださる方がいるんだなというふうな、自分が嬉しいなという気持ちがあります。私は小学校四年生で被災したんですけど、その時に小学校一年生であった友だちが一人津波で家族全員亡くなってしまったという、ちょっと嫌なことがあったんですけど、やっぱりそれを通していのちの大事さを感じたりとか、また友だちが急に亡くなったら自分がどういう気持ちになるだろうかというのを深く考えることができました。みんなに大切にしてほしいな。友だちと挨拶と周りで自分のことを優しくしてくれる人、後は自分を陰で支えてくれている人、それを大切にしてほしいと思います。
 
ナレーター:  岸野さんは、東北の被災地や戦争を体験した人たちを廻って記録した話が多くの人々の心の支えになることを願っているのです。
 
岸野:  逆に私は東北から日本は変わると思っているんですよ。子どもたちが活躍できて、いろいろ新しい思想であったり、考え方であったり、哲学でもいいんですよ、宗教でもいいんですよ、そういったものの考え方ですね。根本的なものの考え方、価値観を変えていくような人々になっていくんじゃないかという、僕は期待を―期待と言ったら生意気なんですけども、そういうふうに思っていますね。逆にそれでなかったら、ほんとにこの震災はなんだったというふうに思ってしまいますので、若い方も含めて、いわゆる今回被災に遭った東北であったり、太平洋の沿岸の人々から、日本は変わっていくんじゃないのかなというふうに、私は思っていますね。
 
柴田:  そしてそれに対して、岸野さんは何かをしていきたいと?
 
岸野:  関わっていますし、関わりが深くなっている方もたくさんいらっしゃいますので、やはりその人たちが今後どう人生を歩んでいかれるか、ズッとこれからお付き合いしていきたいなと思いますね。
 
柴田:  そして仏に仕えるものとしての生き方というものを、どうでしょうか、いろんな人の死とか生とか、寄り添っていって、自分の将来像というのも少しずつ見えてきていますか?
 
岸野:  そう思いますね。やはり本来震災とか―戦争もそうですけど―なければいいんですよ。でも残念ながら震災があり、出遭ってしまったわけですね。ですからそういった方々との出会いを通じて、やはり私自身もまあ成長―自分でできたのかなと言われますと、どうかなという部分は情けない話ありますけども、やはり私が五年間向こうに定期的に通っているのは、そういったいろんなことを教えてくださる方がたくさんいらっしゃるからかなというふうには思いますね。それを糧にして自分がしっかり頂いて、ということをしなければ、やはり震災を通じてほんとに人の生きること、死ぬことというのを考え、自ら悲しい思いをしてきた、そういった人々から学ぶことがまだまだたくさんあるのではないのかなと思いますので、そういった活動をこれからも続けていきたいなと思っていますね。
 
柴田:  その人の生きてきた時間を伝えること、生きてきた意味を伝えること、改めてその意義を岸野さんの言葉で話して頂くと、どういうふうになりますでしょうか?
 
岸野:  その人たちが見たこと、体験したことは、とてつもなく悲しかった筈なんですけども、その子たちが―大人も含めてですけども―その人々が何を見たのか。どういう心の持ちようであったのか。どういった心境の変化があったのか。そういったことを残すことによって、もしかしたら次世代のどなたかのお役に立つこともできるかも知れない。それは結果的に、岩手の人々、今回の沿岸の人々から聞いたお話ですね、聞かせて頂いた方々への恩返しになるのかなと思いますね。
 
柴田:  それは生きる希望を世代を超えて繋いでいくこと、
 
岸野:  そうですね。やはりなにかしらの形で残す。あるいは講演であれば形で残ることはないのかも知れませんけども、その人の心に何かが残って貰えるのであれば、それは凄く有り難いことだなと思っていますし、たくさんの人が実際現地に行きたいと思っても、お仕事の都合とか、お家の事情とかで、距離の問題もあって、行けない中で私はやっぱり自分でわりかし自由に時間を持っている人間ですから、そういった意味では行けない人の分も含めてやっぱり自分が何かしなければいけないのかなと。それが使命かなと思っていますけどね。
 
     これは、平成二十八年二月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである