苦と共にありて
 
                宮城県仙台市寶林寺住職  木 村(きむら)  敏(びん)
                岩手県大槌町吉祥寺住職  高 橋(たかはし)  英 悟(えいご)
                福島県南相馬市同慶寺住職 田 中(たなか)  徳 雲(とくうん)
 
ナレーター:  東日本大震災から五年。人間の力ではどうにもならない未曾有の災害を前に、多くの僧侶が自らの存在意義を問い続けてきました。被災した故郷で、あの時、何を考え行動をしたのか。そして今、どう向き合っているのか。宮城、岩手、福島の三人の僧侶です。「いのちについて考える」と題した講演会。宮城県仙台市の僧侶木村敏さんです。震災で夥しい数の死者と向き合った木村さん。普段から生と死を見つめることの大切さを訴えました。
 
木村:  もしかしたらこの「さくらんぼタントクルセンター(山形県東根市)」のホールを出た途端にダンプに撥ねられて死ぬかも知れない。わからんのです。死を意識するということが大事なんです。明日もある、明後日もある、来週も、来月も、来年も、五年後も、十年後も生きている筈だけども、もしかしたら仏さんになるかも知らんという自分というものを、いのちというものをしっかりと見つめる必要があるのかなと思っています。自分が明日どうなるかわからないいのちを抱えている。そのいのちを今生かされているということに気が付く。あと震災後と震災前で大きく変わったのは弔う儀式に関しての考えが大きく変わりました。死者を弔う。そのことと儀式というのはどうしてもご信心、お念仏、ちょうど真宗の教えですと、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」というお念仏を称えれば必ず阿弥陀如来に救いとられる頂ける身であるということ。ですからあまり儀式というものを重要視しない部分もあったわけですね。ある意味形式的な儀式というものは勤める。だけどもあの震災で多くの方が亡くなり、その身内の方がさらに多くの方がいらっしゃる。その方々の心を慰めるのは儀式だということがわかりました。
 
ナレーター:  仙台市の寺に生まれた木村さんは、副住職として父を支える一方で、二十七歳から隣の名取(なとり)市役所に勤務してきました。二○一一年三月十一日、仙台平野の南にある名取市では、市全域の四分の一以上にまで津波が押し寄せ、九一一人の犠牲者が出ました。当時、環境対策を担う課長だった木村さんは、震災当日の夜開かれた災害対策本部で自ら遺体安置所の運営を買って出ました。
 
木村:  誰もやりたくない仕事ですから、まあやりたくないだろうなと思ったので、私、寺の人間ですので、ご遺体のことに関しては、私がやらなくちゃいけないかなという部分があって、「私の方でやらせてもらいます」と市長の方に申しあげたんですけどね。私が災害対策本部から事務室に戻って、「遺体を扱うことになったから」と部下に言った時には、「わかりました。じゃ、何をすればいいですか?」という形で、すぐ動き出しましたので、やはり市役所の職員として、何かいろいろやりたいという思いを持っていたんです。だから瓦礫処理というような後の話をやるより、今やりたいという思いを持っていたんだと思います。
 
ナレーター:  遺体安置所になった体育館には翌日から次々と遺体が運び込まれてきました。一日で一一○体もの遺体を収容。犠牲者の姿は、木村さんがそれまで見たことのない壮絶なものでした。
 
木村:  寺の人間でまあ「身内が亡くなった」という連絡を受けて、最初に行くのが枕経(まくらぎよう)のお勤めに行くわけだけども、枕経というのは、大体病院から帰って来て、全部湯灌も終わって、どちらかというと綺麗なご遺体が運ばれて来て、まあ座敷で休んでいると。その前でお勤めをするというのが、日常の死との向き合い方なんだけども、ああいう災害の現場から収容されてくるご遺体というのは、もう死後硬直が始まっているそのままの形で運ばれて来るし、顔も苦痛に歪んだ顔なわけですね。そういうものを目の当たりにすると、かなり心に苦しいものを感じましたね、それは。まあ言葉で言えば苦悶の表情ということになるんだけども、やはり溺死―肺に水が入って亡くなっている方々ですから、苦痛に顔が歪んでいるわけですよ。そのお顔を見ると、そしてこう何かを掴もうとする、こういう手が上がったまま、そういう形で検死所の方に運ばれて来ますので、そういうお姿を見ると、まあほんとにちょっと堪え難いものはあった。それは間違いないですね。小学生、幼稚園児、そして中学生、高校生、そして若いサラリーマン、そういう方々の命が失われたということは、何故か自分の未来を失ってしまっているような部分があるわけですね。きっと彼らはまさかここで命を落とすと思っていない。悔しい気持ちだろう。多分自分が仏となっていること自体が理解しないままに亡くなっていっているんではないかと。そのことって凄く辛いし、突然何が起こったかわからないままに亡くなってしまったそういう人たち。覚悟の無い死なんですね。ある意味で高齢になってくると、死を覚悟する部分はあるのかも知れないけれど、特に若い方々は死の覚悟はまったくないと思います。その亡くなった家族の方々も、何が起こったか理解できないままに、ご遺体が安置所にあって、それ自分の娘だ、息子だということで、見付けたと言って引き取っていく。多分何が何だかわからなかったと思う。ただそこには死者が居て、その死者の身内が居て、その身内の悲しみというものがその建物の中全体に充満しているという状況ですので、私のような寺の人間でさえも堪え難いものがある。ましてや私の部下たちはもっと堪えられなかったんではないかなというのが、未だにその後悔はしていますよね。もっと心のケアを十分にやるべきだったなということを感じていますけどね。
 
ナレーター:  震災から四日目、遺体は体育館に収まらなくなり、併設したボーリング場に運ばれました。その晩木村さんは警備のため一人泊まることになりました。
 
木村:  警察の方から、「課長、遺体を移動さしたのはいいけど、誰か泊まらないんですか?」「 えっ!」と言ったらば、「変な人間がいるんです。ご遺体の口を開けて金歯を取ったり、指を切って指輪を持って行ったりする輩(やから)がいるんです。だからその遺体から離れないでください」と言われて、「わかりました」ということで、三月十四日の晩にご遺体のあるところで、ご遺体が並んでいる脇で簡易ベッド広げてそこで寝たんですけども、やはりその無念の思いというかね、なんかオカルト(occult:神秘的なこと。超自然的なこと)みたいな話で嫌なんだけども、やはりいろんな空気というのは感じますよね。百体もご遺体の並んでいる中で夜を過ごすと、そうするとまあ何とも言えない人の気配というものを感じ、ざわついた感じというものがありましたね。その死者の無念の思いというのを肌で感じることができた、というのがあります。多くの亡くなられた方の顔って見ているわけですね。その顔がまあ当時夜中十一時ぐらいに役所を出て、四時間ぐらい家で寝ることができたんです、まあ一週間経った後は。それで帰ってくると、寝付けないんですよ。もう人が自分の寝室へ入って来るというのを感じるんですね。それでも疲れているから寝ようとすると、その死者の顔がこう目の前に現れてくるんです。それでまあ金縛りというんですか、身体が動かなくなるんです。人が来るというのがわかるんですね。〈あ、今晩もまた人が来た〉というのを感じるんですね。で、それがお爺ちゃんお婆ちゃんの顔であったり、女の子の顔であったり、そういう顔が目の前に来て、身体が動けなくなるという経験はほんとに数えきらないくらい経験しました。自分はそういう経験をしているけど、これは科学的に分析をすれば、過労による幻覚ということになるだろうけれども、ただうちの部下がいうように、「お寺さんだから、お坊さんだから仏さんたちも安心して課長のところに来るんじゃないですか」と言われれば、それは寺の人間としてそういうことも踏まえて、その仏たち、亡くなられた方々を弔っていく必要があるなということは感じていましたけどね。
 
ナレーター:  震災から九日目、収容した遺体は五百体になりました。身内を探し求めて多くの遺族が押し寄せる中、木村さんは次第に遺体を扱っているという現実感を失っていきました。
 
木村:  自衛隊は現場から遺体を収容します。警察は検死をします。市役所が委託した葬儀屋さんが納棺をします。そして納棺の終わった後、棺を自衛隊が安置所に運びます。その安置所にご遺体を並べて、そして家族の方が自分の身内のご遺体を見付けたらば、身元が判明したらば、遺体を引き渡します。一つの流れがほぼ一週間でできていって、自分の家族が行方不明の市民は、「今日、検死の終わったご遺体はどれなんですか?」というふうに言うから、できるだけ分かり易く掲示をする。そうすると、ご遺体が物になっていくわけですよ。一つの物を、輸送の流通の物としてマネージメントしていくんですよ。自分が、〈ご遺体だ、仏さんだ、生身の人間だ〉と思うと、動けなくなってくるんですね。ですから一つのご遺体という物がその一つの流れの中で運ばれて来て、その業務の流れの中でやっていくので、やはりもう自分としては、ここに今日運ばれて来た「Pの85番」というご遺体、一人の人間ではなくて、その「Pの85番」という物になっていくと。職員もそういう状況になりましたですね。で、「課長、もうPの85番≠ニいう物、番号で呼ぶようになってしまっているんです、私って」言うんです。「俺もそうなんだよ。Pの85番≠ニ呼んじゃうんだよ」と。でも仕事として考える時、「P85番」という物が亡くなっていて。これってよくないんですけども、でも現実そういう状況に陥ったということは事実ですね。寺の人間であっても、ああいうあれだけの数多くの死と向き合えば、誰もがそういう人の死を人の死と受け入れられなくなっていくんだろうなと思っています。だからいろんな今後起こるかも知れない多くの災害の中で、宗教者がどう関わっていくのかということを考えると、物と思ってしまうこと、そのことを否定するんではなく、もう一度〈人なのだ、仏なのだ、個人なのだ〉ということを思い起こすようにしていかないといかんのかなというふうに思っています。
 
ナレーター:  震災から百日目に行われた合同慰霊祭。木村さんは陣頭に立って準備を進めました。悲しみの中にある遺族のために、公に儀式をするべきだと感じていたのです。
 
木村:  「仏さんを弔うために」と言いますけど、生きている人間が感じているものって違うんですよね。もうどうしたらいいかわからないという気持ちなんですよ。だからそれを心を落ち着かせ、一つの形を付けていきましょう。で、悲しみや苦しみを一皮ずつ?いていくようなこと、葬式というのは、ご葬儀というのはある意味悲しみを一皮ずつ?いていくプロセスなんだろうな、というふうに思います。それがある意味生きている人間のためにやるものではないかなと。〈葬式仏教のどこが悪い〉と思うようになりましたね。葬式仏教というのは大事なんです。葬式というのをやらないと人間収まりがつかないということがわかったんですね。自分自身が収まりがつかないんです。死をあまりにも目の前にすると、多くの死を目の当たりにすると、心を落ち着けるのは葬式なんです。葬式というのはとても大事な儀式だということがわかりました。だからここでこの本堂でも多くの葬式を勤めてまいりましたけども、その勤め方というものも変わってきたような気がします。しっかりと儀式を勤めることが大事なんだ。それからお経を読むこと、他宗派のお寺さんであっても、お経を安置所で読んで頂くことによって、その遺族の方であったり、警察の方の心が慰められる、そのことを知ったということ。お経を読むこと、読経ということも大事なことなんだというふうに思いますね。死は生物学的な死―心停止、呼吸停止、瞳孔拡散、死というものは必ず訪れる。人間は百三十年以上は生きられない動物なのだ。だから死は避けられないものなのだ、ということは理屈としてはわかっていました。ただ穏やかな死を日常目にしていたので、その突然訪れる死というものに対する自覚はなかった。だから災害で突然多くの方が亡くなるという経験をしたことによって、死というものはすぐ隣にあるんだ、ということを自覚をしました。口では言っていましたよ、「死は隣にある」と。でも実感がなかった。明日もある、明後日もある、来週も、来月も、来年も、五年後も、十年後も、五十年先だってあるかも知れないと思っていた、そういう日常だったわけですね。それがあの時は〈すぐここにいる死がある〉ということを感じました。すぐ隣に私の死、私の死もすぐ隣にあるということです。そのことを知ったということでは、震災によって大きく価値観が変わったということは、これは間違いないと思いますね。自分のすぐ脇に自分の死がある。そのことをみんな目を反らしているけれども、しっかりと自分の死に向き合うことを、これから伝えていかなくちゃいけないのかな、と思っています。
 
ナレーター:  木村さんの寺・寶林寺(ほうりんじ)の隣に保育園があります。市の職員として仕事はやりきったと感じた木村さん。市役所を早期退職し、これからは園長を務めます。故郷の未来を担ういのちを大切にしたいと考えています。
 
木村:  震災後、赤ちゃんたち何人も亡くなっているからね。そういうのを見ていたから。やはりいのちの大切さということで子どもたちのことを一番大事にしていかなくちゃならんだろうと思ったんです。
 

 
ナレーター:  岩手県大槌町(おおつちちよう)。十メートルを越える津波により、人口のおよそ一割に当たる一二八五人もの命が失われました。町役場も被災するなど壊滅的な被害を受けた市街地。土が二メートルの高さに盛られ、急ピッチで再建が進んでいます。町の北部吉里吉里(きりきり)地区にある吉祥寺(きちじようじ)。この地区では一九八人が犠牲になりました。檀家の位牌の前にお勤めをするのは、住職の高橋英悟さんです。震災後に毎朝欠かさずしていることがあります。今なお身元がわからない遺骨に声を掛けます。一時は八十ほどありましたが、親族に引き取られて、今十九柱を預かっています。
 
高橋:  「おはよう」ということと、まあ心の中で「今日もまた朝が来て一日が始まるね」という挨拶をしました。この遺骨は悲しい存在ではなくて、私たちを守ってくださっている掛け替えのに宝物だと思っています。
 
ナレーター:  高橋さんは、震災をきっかけに改めて僧侶としての自分を見つめ直しました
 
高橋:  自分がプロとして、宗教者として、僧侶として、和尚として何ができるのかというのは凄く真剣に向き合った期間でもあったと思うんですね。あの震災でいろんな意味で目が覚めたと言いますか、勿論普段の生活にはやっぱり甘えたり、生温いところがたくさんあったと思うんですよね。でも何も見ようとしていないそんな自分も含めてほんとにすっかり目が覚めたというか、
 
ナレーター:  震災直後、高橋さんは寺を避難所として開放しました。二五○人以上が身を寄せ、翌日から寺を拠点に行方のわからなくなった身内を探し始めました。
 
高橋:  家の避難所に避難をして来たうちの檀家さん。年齢は私とほぼ変わらない方なんですけども、奥さんが行方不明だったんですよね。それで毎日捜索に行っていて、自分でも探しに行くんですけども、なかなか「居ない、居ない」と。毎日毎日探しに行っていた。どれぐらいかな、四日目ぐらいかな、私も避難所にいたら、「和尚さん! うちの奴居たよ! 見付けた!」と言って、手に灰を持って来たんですよ。「どこに居たんだ!」と言ったら、「渋滞に巻き込まれて車の中でそのまま仰向けになって休んでいた。その頭の部分だけ残っていたからこれ持って来た、和尚さん、どうしたらいい」と言って。しっかりとその人のこと抱きしめて、「よく捜したな。見付けたな」と言って、「先ずその手に持っている灰を袋に入れて、とにかく一旦はその近くにいる警察官、自衛隊の人に届けて、ここにいた、ということを先ず知らせておいで」という話をして帰してあげたんです。ですから後、灰ですね、ほんとに一握りのね。それを遺骨の箱に入れて、お墓を作るまでうちのお寺で預かりましたからね。大切な人、亡くした人のために、自分がこうできることっていうのは、一生懸命やろうって。四、五日経ってそんな出来事のあったからなんでしょうね。
 
ナレーター:  高橋さんは、公務員の家に生まれましたが、辛さを抱える人を支えたいと、僧侶の道に飛び込みました。三十歳の時、長らく先住の住職が居なかった今の寺を委されます。しかしこの地域独特の風習が多く、檀家との信頼関係を築くのに苦労しました。
 
高橋:  亡くなった仏さんの姿を子どもたちに見せない。そういう地域がありまして、「それはちょっと私は違うんじゃないか」と。それは私自身も原点というのは、祖父が亡くなった時にご遺体に触れて、〈人って命が尽きるとこんなに冷たくなるんだ〉と衝撃を受けたというのが、実は自分自身の凄く心の中にありまして、「これは是非とも地域の子どもたちにも、大切な人がいのちを懸けていのちの大切さを教えていってくれているんだから、それを排除する、避けるんではなくて、人も自分の大切な人がいのちが尽きるとこうなってしまうんだということも含めてしっかりと向き合わせてください」というお願いをしたりとか、地域の風習も含めて間違っていることは正していくということを大分厳しい姿勢でやりましたので、そこに対する反発というのはかなり実はありまして、「今度の住職はなかなか言うことを聞かないから簀巻(すまき)きにして海に流してやるか」なんて、晋山式(しんざんしき)のお祝いの席でそんな発言があったりとか。
 
ナレーター:  慣れない土地で地域に溶け込むきっかけを作ってくれたのは子どもたちでした。
 
高橋:  来てすぐ地元の中学生が、「飼っていたウサギが亡くなったから、このウサギを和尚さんどうしたらいいかと。埋葬したい」ということで来たんですよね、三人組で。その時に、「わかった。お布施持ってきたか」と言ったら、「お布施は持っていない」というんで、「じゃ、出世払いだ」ということで、一緒に埋葬してお葬式をしたんですよ。その時に「できれば和尚さんも来たばっかりでけっこう忙しいからお盆に手伝いなんかしてくれないか」なんて言ったら、その男三人組が「いいよ」なんて言って、夏休みのお盆の忙しい時に手伝ってくれたりとか、やっぱり子どもというのは真っ直ぐ思い込みがなく、純粋な気持ちで来てくれていたので、その思いにできるだけ応えられるようにしようと、その時からまた子どもたちの布教というんですかね、するようにしました。
 
ナレーター:  縁(ゆかり)のない土地の住職となって十年。檀家は次第に高橋さんが盆の集いや子供会を開いて地域に溶け込もうとする姿に信頼を寄せるようになりました。
高橋:  ほんとに毎朝、ありがとうございます。
 
参拝者:  お酒も止めました。
 
高橋:  まだまだ頑張って貰わなければいけないからね。
 
ナレーター:  高橋さんと檀家との間に絆ができ始めた矢先に震災が発生。それは一層結束を強めることになりました。高橋さんが今取り組んでいるのが「生きた証(あかし)プロジェクト」です。震災で亡くなった町民のすべて一二八五人の人生や人柄を記録に残し、未来へと語り継いでいこうという事業です。プロジェクトが始まったのは二年前。高橋さんが実行委員長に選ばれました。狙いは、遺族が故人のいのちや存在を感じることで前向きに生きるきっかけを作ることです。
 
高橋:  これだけの方が一瞬にして亡くなってしまった。この方々を弔う、ご供養するにはどんなことが必要だろうかと。できればその方々の記録集を作りたいという話があったんですね。「いやいや実はと、私たちはその大切な人の生きた証というのは、お寺としては残していますよと。それは何かというと、ご戒名(かいみよう)という形で、宗派によっては法名(ほうみよう)とも言いますけれども、生前の人となりや性格、それを記録してご戒名、その字の中に表すということをしているから、是非ともそれを行政でやるということであればわかりやすい言葉で、誰が見てもこのご戒名、生きた証記録を残して、それを見て大切な人を偲ぶ、思い出す。そしてその記録集からいのちの大切さを学んだり、自分たちがしっかりと生きていこうという力を頂いたり、そういうことができるんじゃないか」ということを申しあげて事業の方が進んできた状況です。
 
ナレーター: 「生きた証プロジェクト」は、これまでに目標の半数、およそ六五○人まで進んできました。
 
高橋:  ごめんください。
 
ナレーター:  既に聞き取りを終えている東谷藤右エ門(あずまやとうえもん)さんです。原稿を確認して貰おうと訪れました。東谷さんは、津波で自宅を流され、五十年連れ添った妻のケイさんを亡くしました。東谷さんは、震災発生直後、理事長を務める保育園に向かいました。その時妻に「家で待つように」と言ったことを、今も悔やんでいます。
 
東谷:  「居ろ」と言ったのは、「逃げろ」でなくて、何で「逃げろ」と喋らなかったか。ほんとにもう後悔先に立たずで、「家に居ろ」と言った言葉が悔やまれるのね、それが。
 
ナレーター:  東谷さんが、保育園の園児と職員が無事避難したことを確認し、家に戻ろうとした時に津波がやってきたのです。
高橋:  父さんが園児の命を守ってくれたって誇りに思っていると思うから。
 
ナレーター:  妻を偲び語った思い出が形になりました。今では亡き妻の存在が、東谷さんの生きる支えになっています。
 
妻は働き者で心の深い人でした。家事や育児のほか、土木工事にも従事しました。その稼ぎで背広を仕立ててくれました。日本一の女房だと、今でも思っています。
 
高橋:  これがこう冊子になるというのは楽しみで。
 
東谷:  楽しみだ。「おい、こうして書いて貰ったぞ。綴って貰ったぞ」と報告します、できてきた暁には。
 
高橋:  すぐに仏壇にあげて。
 
東谷:  すぐにあげます。
 

 
高橋:  大切な人とやはりお別れしないまま、お別れしてしまったということと、やはりその最期に会えなかったということ、そしてこの私を置いて居なくなってしまったということに、どう心の整理を付けたらいいかわからない人が多いと思うんですよね。何か私が悪いことをしたからこのような形で別れてしまったのかとか、私がこんな生き方をしていたから私の大事な人が居なくなってしまったのかとか、後は逆に私を置いて勝手に帰ってしまったという、中には後悔とも怨みとも取れないような思いを懐く方もいらっしゃるということは確かです。その方々にも、私は話をするんですけども、自分の最期の瞬間を見せて辛い思いをさせるよりはという、そんな最期の仏様の思いやりじゃないのかな〉という話をさして頂いているんです。ですからどんなに心を尽くして大切に思っていた人でも、自分の最期の瞬間、命が尽きる瞬間を見せない方というのがたくさんいるから、そこは心配しなくても大丈夫という話をさせて頂いています。一人でも多くの人が、幸せになるように、安心した暮らしができるように、もし迷った時、辛い時、困った時、立ちゆかなくなった時には、いつでも相談をして貰えるような体制を作りながら、できる限り多くの人を幸せにしたい、そのように思っています。それはやはり私自身も震災で犠牲になられた方のご供養、その折には〈遺されたみなさんとしっかり生きていきます。遺されたみなさんを幸せにします。だからこっちのことを心配しなくて大丈夫ですよ〉そんな声を掛けてお経をあげさして頂いておりますので、その誓いをしっかり守りながら大切な方を亡くされた、傷付いた方々と共にしっかりと一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。
 

 
ナレーター:  震災後にばらばらになってしまった地域の絆を取り戻そうと奮闘する僧侶がいます。福島県いわき市、朝六時に自宅を出るのは、僧侶の田中徳雲さんです。八十キロ離れた南相馬市にある自分の寺に向かいます。田中さんは、いわき市の会社員の家庭に生まれましたが永平寺で修行。二十七歳の時、寺の養子となりました。途中原発のある大熊町(おおくままち)や双葉町(ふたばまち)を抜ける時、放射線量が跳ね上がります。家を出てから二時間、田中さんの寺に到着です。福島第一原子力発電所から十五キロのところにある南相馬市小高区(おだかく)。避難指示解除準備区域に指定されています。田中さんが住職を務める同慶寺(どうけいじ)です。この地域は日中しか立ち入ることができないため、檀家は各地に避難しました。震災前はここで母と妻、三人の子どもと暮らしていました。避難先から戻ってくると、寺は変わり果てていました。
 
田中:  勿論三月十一日までは普通にここで家族は食事をしていたんですけど、そのまま避難してしまったので、食べ物は当然残っていますよね。だからそこがネズミの荒し方が半端じゃなかったです。太鼓を叩いたり、あと笛―ホイッスルを持って歩く。ホイッスル吹くと、ネズミたちがバタバタバタといなくなった頃、私が行くというふうにしないと―今笑っていられますけど、ほんとに深刻でした。
 
ナレーター:  およそ五百軒あった檀家は、東北や関東、西は兵庫県まで、十七の都府県に避難しています。葬儀や法要があれば避難先にも出向いている田中さん。檀家の悩み苦しむ姿と向き合ってきました。
 
田中:  一番は、家族がバラバラになってしまっているということですね。これはほんとに想像を絶しています。私自身も経験をして、よっぽど注意をしていかないと、家庭が空中分解してしまうような状況です。ですから残念ながら離婚をした家庭も少なくないですし、家族の離散の他にも、例えば農家さんが八割方の地域ですから、放射能に汚染されてしまった土地で、今までのようにお米や野菜なんかを作って生活できるのかと。いや、それは買ってくれる業者さんはいるんです、基準以下であれば。でも正直自分ところでも食べないと。自分の子どもにも孫にも安心して食べられないお米を、それは出荷すれば売れるとは言っても、それはお米を作って、あるいは作物を作って喜んで出荷していた、あるいは食べて頂いていた農家さんたちからすると、まったく違うものになってしまっているというところが、非常に大きい部分では悩みと言いますか、根底から覆ってしまった生活感ではありますね。
ナレーター:  この日、普段あまり人気(ひとけ)のない寺が活気づいていました。各地に避難していた檀家が集まって来たのです。毎月一日と十五日、「清掃結い」と名づけた行事です。四年前、日中の立ち入りが許されてすぐ始めました。ちりぢりになった檀家が集まり、故郷の結束を確かめる場になればと、田中さんが呼び掛けました。
 
参加者A:  お互いの情報も交換できるし、またね、女だてらに仕事も参加さして貰って、やがてお世話になるお寺ですから。
 
参加者B:  知っている人に会えるからいいですね。久しぶりに会った人は「どんなこと、今している?」とか、震災後始めて会った人に「今どこにいるの?」とか、
 
ナレーター:  震災以来、始めて再会を果たした人がいました。避難先を点々とするうちに連絡先がわからなくなっていました。
 
田中:  先ずはみんなで集まろうということですね。集まって顔を見合わせれば、私一人ではお話を聞くと言ってもなかなか限界があります。でもみんなで集まれば、みんなでお茶飲んで、そこで少しいろんな話が出て、話をする人がいれば、聞く人もいる。それぞれに時間を過ごして車座になって膝を交えて話をしていけば、やっぱりそれなりにみんないい顔で帰って行かれるんですよね。「半年ぶりに俺笑った」って、みんな言っていたんですよね。やっぱり今の私たちには必要なお薬だなと思って、そういう時間を積極的に持たせて頂いているんですけど。心が折れそうな時もあります。だけどここに来れば誰かいるし、それからやることもある。できることもあるというと、それはイコール居場所にも繋がる。やっぱり居場所がないというのは、私たちの根無し草のような生活を五年もしていると、やっぱり居場所がないというのは辛いですよ。お寺が接着剤のような、人と人を繋げるような役割になれるんであれば、私がその一役をかわして頂けるんであれば、それは地域に対して恩返しできるんじゃないかな。あるいは私を育てて頂いたみなさんに恩返しができるんじゃないかなと思っています。
 
ナレーター:  田中さんも原発事故により故郷との絆を断たれる選択を迫られました。子どもの被爆が心配で、震災三日後には若い頃修行した福井県に避難。しかし寺や檀家のことが気にかかり、二週間後一人福島に戻りました。
 
田中:  勿論恐かったですよ。原発が爆発した後の福島に戻って来るというのは恐かったですし、自分も被爆するだろうなというのもありましたけど、でもそれよりな何よりもやっぱりお世話になった人たち、今まで一緒に共同体で生きてきた人たちが困っているというのを放っとけなかったですし、放っておくというそういう自分が、自分の役目を果たしていないようで嫌だったですね。やっぱり途中で逃げ出すわけにはいかないと、投げ出すわけにはいかないと。私はお世話になった人たちに恩返しできるのは、今だ、と思いました。みんなと一緒になって、こういう時だからこそ力を合わせてやっていくんだなと思いました。
 
ナレーター:  田中さんが、住職を務める寺がもう一つあります。南相馬市の南十五キロにある双葉町(ふたばまち)。放射線量が高く、長期帰還困難区域であるため、許可がないと入ることができません。田中さんは、短時間であることを条件に立ち入りを許され、三ヶ月に一度は寺の様子を見に訪れています。山間にある仲禅寺(ちゆうぜんじ)です。南相馬の寺から別れた寺で、三十一歳の時、田中さんが住職を委されました。まさに出発点とも言える場所です。本堂は地震により大きく傾きました。頻繁に来ることができずに荒れるに委せたままになっています。
 
田中:  檀家さんの大工さんたちが、手直ししてくださったり、こういうものもまったくなかったんですけど、みなさんが浄財を出してくださって、買って揃えてくださったんですね。これなんかもそうです。古かったのを塗り直してくださって、新しいものなんです、修復が利いて。せっかく若い住職を迎えるんだからということで、非常に檀家さんたち盛り上がって、やっぱり此処にくるとそういうことを思い出しますし。
 
ナレーター:  百余りあった檀家が訪れるのは、盆や彼岸の墓詣りぐらい。再び寺に集うことは適わなくなりました。しかし檀家とは、震災前と同じように繋がりを持ちたいと思っています。田中さんは改めて失ってしまったものの大きさを噛み締めています。
 
田中:  便利さって何なんだろうな、豊かさって何なんだろうな、というのも、今此処に立っていると余計に感じますね。便利さを求めて、豊かさを求めて巨大な発電所を造った筈なのに、結局此処に居られなくなってしまったというのが、そこはしっかり考えていかないと、これを教訓にしていきたいところだなと。そういう意味で「ごめんなさい」しかないんですよね。私自身もそうだし、地元の人たちを代表しても、この仲禅寺の神様・仏様たちに対して「ごめんなさい」という気持ちを一番伝えました。あとここから私たち成長して、成熟していきたいと思っていますんで引き続き見守って頂きたい、ということをお伝えしました。
 
ナレーター:  故郷に戻るか、それとも移住か。田中さんはそれぞれの人たちを支えています。この日、小高区から十キロ、隣の原町区に住むことを決めた檀家の新居を訪ねました。豊沼郁夫(とよぬまいくお)さんは、息子夫婦と同居しようと中古の家を買い求めました。住み慣れた小高(おだか)を離れることを決断した豊沼さん。取り壊す予定の家から先祖代々の位牌を運び出しました。新しい仏壇に魂を入れる法要を行います。この地区は震災から半年後に避難指示が解除されました。息子夫婦の職場もあり、買い物や病院など既に生活の基盤が調っています。しかし移住することは、仲間にはまだ言えずにいました。
 
田中:  後ろめたい気持ちだとかは、みんなお持ちだからね。
 
豊沼:  原町に行くと言えない。一切言えない。わからないと、まだ。
 
田中:  十分、自分がその立場に立ってみればよくわかることなので、
 
豊沼:  昨日、一昨日だか小高区の行政の老人会の輪投げ大会があったみたい、親睦で。行って来たんです。みんなと会うのが楽しみで百人近く集まったみたいよ。でもこういうことについては一切まだまだ口開いていないの。
 
田中:  そのうちにだんだん長い時間の中で、自然とね。ああ、そういうふうにしたんだ。豊沼さんでは引っ越ししたんだ。でもそれも大変だけど、でもいい家見付かってよかったね、と同じ組うちの人に言われると、凄く心が癒やされるんですよね。あ、認めてもらったなというところで。
 
ナレーター:  田中さんは、檀家それぞれが下した決断を支える存在になろうとしています。
 
田中:  みなさん、地域の人たちの繋がり、それからそれぞれみなさんがどういう決断をするのかというのを、みんなも全体のことを見ながら、足並みを揃えるという表現が適しているのかどうかわかりませんけど、みんなのことを見ながら、様子を窺っている。ただ実際問題としては、目の前の生活、今日一日の生活を何とか立て直そうと必死に努力している結果、なんとか五年の時間を経て、少しずつではありますけれども、今の生活は取り敢えず落ち着いてはきている。ただそれがイコール復興ということに繋がっているのかというと、そうではなくて、五年経って、お蔭様で冷静に物事を判断できるようになって、そしてまた自分たちで今度どうするかというのは、自分たちで考えて判断していこうというところまで気持ちが少し上に向いてきているというか、そういう状況だと思います。みなさんが置かれているそれぞれの立場、環境、やっぱりその人の気持ちになって、よく考えてみないと、その方の痛みというのを、同時に同じように感じるというのはできませんけれども、でも必要なことだなと、大切なことだなと思っています。
 
     これは、平成二十八年三月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである