禅の語録を読む
 
                    駒澤大学教授 小 川(おがわ)  隆(たかし)
一九六一年、岡山市生まれ。一九八三年、駒澤大学仏教学部禅学科卒。一九九○年、同大学院仏教学専攻博士課程満期退学(一九八六―一九八九年、北京大学哲学系高等進修生)。現在、駒澤大学総合教育研究部教授。
                    き き て  金 光  寿 郎
 
ナレーター:  東京・湯島(ゆしま)にある麟祥院(りんしよういん)です。寛永(かんえい)年間に創建され、春日局(かすがのつぼね)の菩提寺として知られています。こちらの本堂では毎月一度僧侶たちが集まって禅の語録を読む勉強会が開かれています。今年一一五○年の大遠忌(だいおんき)を迎える臨済禅師の教えをもう一度味わってみようという試みです。講師は駒澤大学教授の小川隆さん。中国禅の語録の研究家です。ベテランの僧侶たちに中国語の原文を解説しながら禅の語録を読み解いていきます。

 
小川:  (中国語)「諸君、今現にこの場にいる一人ひとりが古の聖人と何の違いがあるか」。何の違いもないと言いたい。何の違いもないということを、「何の違いがあるか」と裏返しに問う形。言いたいことははっきりしている。違いがあるかないかと聞いて、「はい、あります」「はい、ありません」と答えは期待していない。何の違いもないということを裏返しの問いの形で言ってるだけ。「汝らしばらく何をか欠く」。これ現代中国語でも使いますが、これ「欠ける」という意味です。これが「欠ける」という意味なのはすぐお分かりかと。この「少」という字も中国語で「欠ける」という意味で使う。今の現にこの場にいる諸君に何が欠けているかというのも、これも反語で何も欠けちゃいないと。ありのままで過不足ないということを反語形で言っている。仏のいうのは、遠くにある目標でもないし、向こう側にある礼拝の対象でもない。遠くの目標でも、向こう側にある対象でもない。生きている生き身の自分がつまり祖仏なのだ、こそなんだ。こう言いたいですね。
 

 
ナレーター:  小川隆さんは、一九六一年生まれ。岡山県出身。大学では仏教学部に進み、中国禅宗史を研究してきました。中国語学、中国文学研究の大家で、禅の語録の現代語訳をしていた入矢義高(いりやよしたか)(中国古典文学研究者(文学博士)で、中国禅を中心とした仏教学者である:1910-1998)氏の研究グループに加わって、大学院時代から、唐代(618-690,705-907)・宋代(960-1279)の語録に取り組みました。その研究会を通して、ひたすら難解と思われた禅問答が、実は具体的な背景をもった問答であったことが浮かび上がってきたと言います。長年、禅の語録を読み解いてきた小川さんに、そこで得た消息を伺います。
 

 
金光:  今日は「中国の禅の語録を読む」というようなことで、禅の問答というのは、現代の日本でも伝わっているわけでございますが、中国の唐とか宋の時代に遺されて作られた語録を、先生は読んでいらっしゃるということなんですが、そもそもなんでそういうものを、現代の中国語を教えていらっしゃる先生が、そういう昔の中国の千年以上も前のような時代からの語録を読むようにおなりになったのか、その辺の経緯からちょっと聞かせて頂けませんでしょうか?
 
小川:  はい。一番最初のきっかけは、やはり近所のお寺に日曜坐禅というのに行ったのが始まりでしたけれども、その頃岩波文庫に現在の入矢義高先生の訳とは違いまして、現在は入矢義高先生の訳が入っておりますけれども、当時は円覚寺の朝比奈宗源(あさひなそうげん)(鎌倉・円覚寺住職。臨済宗円覚寺派管長:1891-1979)老師のお書きになった『臨済録(りんざいろく)』の訳註が入っておりました。それが高校生の時ですけども、高校生にとっても安い値段だったので、それを興味持って読みましたけれども、現代語訳の方を読みますと、非常な迫力と言いますか、こちらの魂を鷲掴みにしてくるような感じを受けましたけれども、肝腎な原文と書き下し文の方を見ますとさっぱり意味がわかりませんでした。その時は禅の語録の中国語は特殊だという知識はありませんでしたので、自分が漢文が読めないせいでこれがわからないのだ、というふうに思いました。その後縁があって駒澤大学の禅学科に入ったんですけども、そうしましたら、授業の中である先生が、「禅語録の漢文というのは普通の漢文と違うんだ」ということを説明してくださいまして、禅というのは、後ほど申したいと思いますけれども、「問答の宗教」という一面を強く持っております。口頭で行った問答、それを記録したものが語録でございまして、その口頭の問答の記録であるために、唐や宋の当時の話し言葉がたくさん入っている。それで普通の漢文と言われているものとは違う当時の口語の語彙や語法がたくさん出てくるので、中国語からやっていかなければ語録は読めないというふうに授業で教わりまして、そしてその授業の中で入矢義高先生という先生が京都にいらっして、そういうご研究をされているということを聞きまして。その頃まだ纏まった本になっていないものを、あちこちの文章を入矢先生の書かれたものを捜して読みまして大変な感銘を受けまして、他の禅の本もたくさん読みましたけれども、正直申しましてわけが分からなく書いてあって、そして「理屈でわかろうとしてはいけない」と書かれているのが通り相場だったわけですけれども、入矢先生の書かれたものを拝見しますと、その当時の口語の語彙と語法を踏まえて瑞々(みずみず)しく正確に、かつ生き生きと訳されたり、説明されていまして、〈あ、禅の語録ってこういうものなんだ〉と思いました。こういうふうに読めるんでなかったら、禅の語録なんか読んでもしょうがないな、というふうに思いまして、いつかは入矢先生が読んでおられるように禅の語録を読みたいと思って、それで中国語の勉強を始めました。ですからさっき中国語の教師なのに禅の語録の研究をしているとご紹介頂いたんですけど、実は逆で禅の語録を勉強するために中国語の勉強を始めて、そして職業は中国語教師になってしまったと、そういう順番でございました。
 
金光:  それで小川先生は、東京に大体住んでいらっしゃって、入矢先生は京都にいらっしゃるわけで、東京と京都の距離はけっこうあるわけですけれども、その辺でどういうふうに具体的には勉強なさったんですか? 入矢先生のところで。
 
小川:  入矢先生に実際にお会いできたのはズーッと後年のことでございまして、大学院生の頃に、当初美術史―日本の美術史を研究していらっしゃる方々が、絵の賛を―画讃を読むために、入矢先生を月に一回東京にお招きして講義を受けるという会をしておられまして、それに我々も一緒に誘って頂いて入れて頂いて、そこで初めて入矢先生の講義を直接伺うようになりました。その頃はただ聞いているだけで、その後中国に留学致しまして、戻りまして、そして駒沢大学で中国語の教員として採用して貰ったんですけれども、その頃から今度は恩師の石井修道(いしいしゆうどう)(禅宗史学者、駒澤大学名誉教授:1943-)教授が駒沢大学にいらっしゃるんですけれども、その石井先生に連れられまして京都の研究会に、二月(ふたつき)に一回通うようになりました。
 
金光:  それは入矢先生の研究会に?
 
小川:  はい。京都の禅文化研究所というところで、『景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)』(中国・北宋代に道原によって編纂された禅宗を代表する燈史である)という書物の訳註を。
 
金光:  偉いお坊さんの事蹟を書いているものですね。
 
小川:  はい。事蹟と問答を記録している書物ですけれども、それの訳註を作る会が二月(ふたつき)に一回、奇数月に開かれるようになっておりまして、それに石井先生が以前から行っておられたのに誘って頂きまして、一緒に連れて行って頂くようになりまして、二月(ふたつき)に一回ではございますけれども、約十年間入矢先生の謦咳(けいがい)に接することができました。
 
金光:  入矢先生は、「この言葉はどうですか?」というような具体的な古文の事例を問答として―問答というとおかしいですが、質問できるような雰囲気で進められるわけですか? あるいはもう一般的な講義の形で「これはこうこうです」というような形で話が進められるわけですか?
 
小川:  章毎に担当者が―当番が決まりまして、最初その当番に当たった人が、訳と註の原稿を作成します。それを前もって入矢先生がご覧になって、朱を入れられまして、いろいろ補足されたり、あるいは疑問点に印を付けたりされて、それを前もって我々に送って頂きまして―今でしたらメールで配信されておられますけど、当時は手書きのものをコピーして郵送でという形で送って頂きまして、それを予習していって、その解読の場でそれぞれ疑問点を出し合ったり、あるいは疑問に対する解決策をみんなで出し合ったり、あるいは解決に至らないまでも自分が見付けた参考になりそうな用例を持ち寄って、またそこで一頻り議論をしてというようなことを重ねてまいりました。とにかく頭から読んでいって、出会った用例を探すと、書き留めておくということしかございませんでした。到底我々にはそこは及ばないわけですが、入矢先生はいろんな禅籍(ぜんせき)をたくさん読んでおられて、そして素晴らしく正確に膨大に記録しておられまして、入矢先生の記憶を頼りにというようなことでございました。
 
金光:  それから何十年も禅の語録に取り組んできていらっしゃる小川先生でございますが、ぼつぼつ禅の語録とはどういうものか。禅の問答を中心に発達した仏教というのはどういう形で伝わってきているのか? そういうその禅の問答についてのご説明を伺いたいと思うんですが。
 
小川:  はい。そうですね。先ず禅宗という宗派ですけれども、これは中国で唐の時代に興りました。唐の時代に興ったということは、中国の仏教史の最後の方に興ったということなんですけれども、じゃ、どういう宗派かと申しますと、普通辞典で見ますと、国語辞典を見ましても、それから仏教辞典を見ましても、「禅宗」というと、「坐禅をして悟りと開くことを目指す宗教だ」という定義が一般的に書かれております。普通通念としてそうだと思うんですけど、しかしこの定義は僕はおかしいと思うんです。というのは、禅宗にとって坐禅が重要でないとか、坐禅なんかしないという意味ではありません。ありませんが、特徴というのは他になくてこちらにあるものを特徴と言わなくてはいけないと思うんですけれども、坐禅というのは初期の仏教で説かれた「四諦八正道(したいはつしようどう)」(「四諦」とは、苦諦(くたい)・集諦(じつたい)・滅諦(めつたい)・道諦(どうたい)の四つをいい、諦とは真理(悟り)という意味。「八正道」とは、 仏陀が最初に説いた仏教の基本的な教えの一。涅槃(ねはん)に至るための八つの正しいおこない。すなわち、正見(しようけん)・正思惟(しようしゆい)・正語(しようご)・正業(しようごう)・正命(しようみよう)・正精進(しようしようじん)・正念(しようねん)・正定(しようじよう))の八番目が「正定」正しい坐禅ということでございます。
 
金光:  「正しい定める」と書きますが、「禅定」の「定」ですね。
 
小川:  そうです。それから大乗仏教が興りまして「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(「ろっぱらみつ」とも。菩薩が涅槃の世界に入るために修める六つの行。すなわち布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しようじん)・禅定(ぜんじよう)・智慧(ちえ)(般若(はんにや))の各波羅蜜)というのが説かれるようになったら、五番目が「禅定波羅蜜」やっぱり正しい坐禅ということですね。ですから仏教の当初から坐禅というのはされている。仏教の当初というのも正確ではありませんで、そもそもお釈迦様が坐禅をされて悟りを開かれて、それで仏教ができたわけですから、仏教の中に坐禅があるのではなくて、坐禅から仏教が生まれたということの方が事の順番になるかと思います。
 
金光:  ブッダガヤの菩提樹の下でお悟りを開かれたと。それが坐禅をなさっていたというふうに伝えられてきておりますが、まあそれがスタートであることは間違いないわけですね。
 
小川:  はい。それから中国の仏教史で申しましても、禅宗ができる前から中国には『高僧伝』高僧の列伝ですね、『高僧伝』という類いの書物がいくつも編まれておりますけれども、そこには「習禅篇(しゆうぜんへん)」と言いますけど、つまり坐禅に励んだ人たちの列伝でございます。禅宗ができる前から坐禅に励んだ人の列伝がちゃんとある、ということでございますので、禅宗のお坊さんも勿論坐禅を盛んにされますけれども、それは特徴と言えない。この話をする時、よく譬えで申しますのは、「日本人の特徴は?」と聞かれて「一日三回ご飯を食べることだ」と。これおかしくないかと申します。一日三回ご飯を食べることは大部分の日本人に該当しますし、大部分の日本人にとって、とても重要ですけれども、「じゃ日本人の特徴は?」と言われて、「一日三回ご飯を食べること」というのはおかしいですね。他にあまりなくて、禅宗に特徴的にあるものは何かというと、「問答」ではないかと。他にいくつかございますけれども、問答が突出したものではないかと思います。禅の語録というか、禅の書物を見ますと、黙って坐禅したまま悟った人というのは出てまいりません。坐禅の修行、作務の修行というのは当然あるわけですけれども、最終的な道の達成というのは問答によって激発の契機を得ることで悟りに至る。そういう形でみな悟っているわけですね。やっぱり問答がなければ禅はないのではないかと思うわけです。ところが禅の問答というのはちょっと特殊でして、面接試験のようなものとは違う。知識の量であるとか、正しさであるとか、あるいは正解がわかっているかどうか、そういうことを問われるものではない。
 
金光:  そこが誤解のもとで、「質問と答えが全然とんちんかんだ」というようなところで、わけのわからんのを禅問答」という変な定義が一般に行き渡っているようですけれども、そんなものではないわけですね。
 
小川:  そうですね。「禅問答のような」というのは、若者には死語のようですけど、年輩の方には、とんちんかんでちぐはぐなやりとりを「禅問答のようだ」という譬えがまだ使われているかと思いますけれども、国語辞典で「禅問答」を見ましても、やはり「禅宗の坊さんが行う問答のように当事者以外には何を言ってるかわからない」というふうな語釈が書かれております。で、そういう俗には「禅問答」という言い方があるというような特殊な、それこそ禅宗に特徴的な問答というのがございます。それが禅の宗教にとってとても本質的なものをもっているんじゃないかと思うんですけれども、じゃ何故禅問答はそういうふうにとんちんかんで、ちぐはぐで不可解と見えるのかということですが、例えばごく短い簡単な例を申しますと、馬祖(ばそ)という唐代の有名な禅僧ですが、その人にこういう問答があります。弟子が、
 
如何是西来意(如何(いか)なるか是れ西来意(せいらいい)
 
「達磨が西から来た意味は何か」ということで、それは「禅の根本義とは何か」ということを含意(がんい)するわけですけども、弟子が「如何是西来意」(如何(いか)なるか是れ西来意)と。それに対して馬祖が、
 
即今是什?意(即今は是(こ)れなんの意ぞ?)
 
というふうに答えております。「今、ただ今、その場のことはどういう意味か」という答えというか、問いを返しているわけですね。質問に質問で答えていると言いますか、疑問文に疑問文で応じてするわけですから、対話は成り立っていないんじゃないか、とこう見えるわけです。しかし疑問文に疑問文で応じたら、ほんとに会話は成立していないのか。そんなことはないと思います。これはある言語学の本を見ている時に出会った例ですけども、「あなたは阪神タイガースが好きですか?」と。答える方が、「僕がどこの出身だと思っているの?」という。これは問いに対して問いで応じていますけども、確かに第三者には、Bさんが阪神フアンかどうかわかりませんけれども、しかしAとBの間では対話は成立している。はっきり言って成立している。それはBさんの出身地をAさんが知っているという前提で、この会話は成り立っている。Bさんの出身地が大阪だということが明らかであれば、「僕がどこの出身だと思っているの?」というと、Aさんは「聞くまでもなく阪神ファンなのか」とこういうことになるわけですけども。勿論理屈から言えば、大阪の人は百パーセント阪神タイガースフアンとも限らないだろうと、こういう理屈もあり得ますけれども、そういうことは言ったらこれは野暮で。これはBさんはAが当然自分の出身地を知っていると。そして例えば大阪出身である以上、阪神フアンである筈だという前提を、Bが設けて、その前提をもとに問いをAに投げ返して、A自身に答えを―質問者に答えを出させている。それで問いに対して答えを、そのまま答えるよりも生き生きとした双方向のコミュニケーションになっているんだと思います。実は禅の語録にもそういう仕組みがございまして、先ほど申しました
 
如何是祖師西来意(如何なるかこれ西来意?)
即今是什?意(即今はこれなんの意ぞ?)
 
西来とは何か、ということに、実は前提がございます。先ほど申しました馬祖という人自身が、説法の冒頭でこう申しています。
 
達磨というのは、あなた自身の心が仏だ。めいめいの各人の生きた心が仏だ。その一事を伝えるためにインドから遙々やって来たんだ
 
というふうに申しております。ですから「西来」あるいは「祖師西来」と申しますのは、各自の生きた心が仏だという一事を直指するということだという前提がありまして、なので馬祖としては先ほどの問いに、「西来とはなんですか?」と聞かれましたら、「西来というのは遙か昔、遠くからやって来た達磨の話じゃない。今この場のあなたの心のことだ」と答えているわけですね。答えているんですけども、答えを教えているんじゃなくて、その答えを質問者自身に自らの心の中から引き出させようとしている。
 
金光:  さっきのタイガースの例と同じで、「思い出せよ」と。「どこの出身か知っているだろう」という、そういうことですね。
 
小川:  そういうことですね。
 
金光:  今のお話を伺っているだけでも、他のことを言っているんじゃなくて、質問にまた質問で返しているようですけれども、それは「お前自身の心のことだ」という前提があるとすれば、今のお話だけではなくて、禅の問答を読む時に、常に自分自身の心の問題だということを、みなが承知したうえで、問答が展開されていることがわかっていると、それだけで随分受け取り方が違ってくるような気がしますね。
 
小川:  はい。ただそう申しますと、「だけど疑問文に疑問文で答えていない問答もたくさんあるではないか」と、そういうすぐ言われると思うんですね。確かに例えばもう一つ有名な問答で、「麻三斤(まさんぎん)」というというのがございます。
 
金光:  麻が三斤。斤は目方ですね。
 
小川:  はい。三斤の麻という「麻三斤」と。これは質問者が、
 
如何是佛(如何なるか是れ仏)
 
仏とは何ぞや、と問います。師匠が一言
 
麻三斤
 
こう答えた。これなんかは一言しか答えていませんし、疑問文でありませんから、「さっき言った説明と違うじゃないか」と言われそうなんですけれども、そしてこれは現に問いと答えの間に脈絡のないとんちんかんな禅問答の代表のように取り上げられるものの一つではございますが、これにつきましても、先ほど申しました入矢先生の「麻三斤」というそのものずばり論文がございまして、その中で入矢先生が「麻三斤」の語義を考証しておられるんですけれども、入矢先生のやり方と言いますのは、常に宗教的なとか哲学的な解釈をそこへ持ち込まないで、とにかく先ずその時代の中国語としての文字通りの本来の意味は何か、というところを予断なく確かめるというところから始める、という読み方をしていらっしゃいます。そのたくさんの禅以外の中国の歴史的な文献などを調べられまして、入矢先生が辿り着かれた結論は、「三斤(さんきん)」というのは、麻の唐代における一般的な流通の基本単位だと。我々ですと、鉛筆が一ダースという単位で流通するのと同じように、麻というのは三斤というのが基本単位なんだと。じゃ何故三斤かというと、それがちょうど衣一着分に相当するのである、ということまで、入矢先生は突き止められました。そうしますと、「仏とは何か」というと、「一着の衣」と答えているのと同じ意味になるわけですけども、そうしますと、じゃ、何か。これも先ほどの前提と関係しまして、仏というのは仏前に祀ってある礼拝の対象でもなく、それから経典の中に書かれている崇拝の対象でもなく、生きた己の心のことだ、という大前提があるわけですので、「一着の衣たるべき麻」と、老師(洞山守初禅師)が言ったということは、その「一着の衣の中身である己はどうか」と。こうやはり疑問文になっておりませんけれども、やはり僧としての本分を問うと言いますか、禅語で「衲衣下(のうえか)の事(じ)」と。衣の下の事という言葉があるんですけれども、衣を纏う僧としての内実、求道者としての本分という意味です。ですから「麻三斤」というのは、麻のことを答えているんじゃなくて、宋代には麻のことを答えているという解釈が一般的に行われていたようなんですけれども、入矢先生の考証によって判ったことは、「仏とは何か」。「三斤の麻」というのはつまり「一着の衣」。「一着の衣の中身たる己はどうか」と、こういうことを質問者に問い返しているんだ、という読み方ができるようになってきたわけです。
 
金光:  それを伺っていますと、質問者自身が、自分自身が仏であるということを自覚しなさいということは、「仏とは何か」という質問がよく禅の問答には出てきますね。その辺のところを本人に自覚させるために、お師匠さんというのはいろいろご苦労になって、で、質問の仕方、相手にぶっつける問い自体もいろいろ工夫なさって、その人その人の独特の問いの仕方みたいなものが出てきているわけでございますか?
 
小川:  そうですね。禅の言葉で「門より入るものは家珍にあらず」という言葉があります。「我が家の家宝」ということですね。門から入ってきたものは、我が家の家宝ではあり得ないということです。というのは、外から入ってきた外在の知識は自分自身の真実たり得ないという喩えでございまして、正解は禅の問答では教えて貰ってはもうダメ。外から聞いたものはもう外在的な知識になっています。ですから自分の心が仏であるという事実を、老師は多分言ってあげたくて、うずうずするんじゃないかと思うんですけども、もうここまで出かかっているのを我慢して教えないで、質問者自身が自らの心の中からその答えを引き出してくる、というのを根気よく待ちつつですね、そのヒントになる問いを投げ返していくと。
 
金光:  そういう例がいろいろあるわけですか?
 
小川:  そうですね。例えばこれも大変「麻三斤」と並んで有名な例ですけど、「庭前の栢樹子(はくじゆし)」という問答がございます。
 
金光:  庭先の栢(柏)樹―栢(柏)の樹と書きますけれども、
 
小川:  はい。「栢(かしわ)」という字ですけれども、中国語と日本語と指している木が違いまして、日本語の「栢」は落葉樹ですけど、中国語の「栢」というのは常緑(じようりよく)の大木だそうでございます(日本の「かしわ」の樹ではなく、柏槙(びやくしん)といわれるもので、無数に分かれた小枝の周囲に糸杉に似た葉が付き、繁茂力が強く、冬も夏も色を変える事なく、常に緑を誇り、幹は檜に似て赤く、縦じまが美しい樹である)。趙州(じようしゆう)(趙州従?(じゆうしん):中国唐末の禅僧:778-897)禅師という方の問答ですが、これも先ほどと同じく質問者は、
 
如何是祖師西来意(如何なるか是れ祖師西来の意?)
 
と問います。「達磨が西からやって来た意味は何か?」と問いますが、それに対して趙州和尚は一言
 
庭前栢樹子(庭前の栢樹子)
 
と、「庭先の栢の木」と一言いった、こういう問答です。先ほどの「麻三斤」と同じように、聞かれたことに全然答えていないんじゃないかと。まるでちぐはぐじゃないかと思われるような問答でございます。ところがこれも実は類例が『趙州録』趙州禅師の語録の中にございまして、これはおそらくもっと初心者である僧侶が聞いたとおぼしき問答がもう一つ別に記録されているんですけれども、初心者が「私の自己とは何でしょうか?」と。
 
如何是学人自己(如何なるか是れ学人の自己)
 
「私の自己とは何でしょうか?」と聞く質問がございます。これは禅の問答というのは、自己というものを聞くものであるわけですけれども、ベテランの雲水になると「祖師西来とは何か」とか、「如何なるか是れ仏」とか、「仏法的的(てきてき)の大意」とか、禅問答らしい定型化された問いを問うわけですけれども、おそらくこの人は初心者なので非常に素直に素朴に「私の自己とか何でしょうか?」と聞いております。それでおそらく相手が初心者だから少し分かり易く趙州禅師が答えられたんだと思いますが、「庭前の栢樹子が見えますか?」というふうに、老師は答えておられます。
 
はた庭前の栢樹子を見るや
 
と問い返しているわけです。これは先ほどの最初の例と同じように、問いに対して問いで、疑問文に対して疑問文で応じておりますから、問い返したということが分かり易い例ですけれども、「庭前の栢樹子が見えるか」と聞かれましたら、それは現に栢樹子があれば栢樹子が見えている自分。生き身の自己と。それに気付けという問い返しになっている、ということが、この例からわかりまして、そうしますと、最初の一見とんちんかんと見えました、ただ一言「庭前の栢樹子」と答えた問答も、実は「ほれ庭前の栢樹子」と。「それが見えるか」と。それを見ているのは何者か、それを見ている己はどこにあるか、とこう問い返されているということが読み取れるわけです。入矢先生が開かれた読み方の一つは、関係の問答を突き合わせて考える。同時代の、あるいは前後の時代の字面(じづら)は似ていなくても問題意識が共通している、あるいは問題意識が関連している問答ですね、膨大な読書量の中から探し出して、突き合わされて、それを結び付けて考えるという道を開かれます。我々もそれを後を及ばずながら就いていったわけですけれども、今のように「庭前の栢樹子」もその一つだけ見てジッと考えるんじゃなくて、類例を探す。そうすると先ほど申しましたような初心者向けのものが見付かってヒントになるということがございます。で、「栢樹子」の他にも、他の禅者の問答にも、仏とか西来を聞かれて、「○○(まるまる)が見えますか?」と問い返している問答が実は他にもたくさんあることがわかってまいりました。
 
金光:  そうしますと、ズッ〜といろんな同じ時代のいろんな問答とか、そういうものを調べていると、そういうふうに取り付く島のないような感じで後世に伝わっているもとは、ちゃんと私なんかでも「庭の栢が見えるか?」と言われると、「それは見ている人間のことだ」というふうに、それはわかりますね。
 
小川:  ところが今申しましたのは、禅宗が興りました唐の時代の話なんですけれども、宋の時代になりまして、禅宗は大変発展致しますけれども、そこで大きな禅の転換があったようでございまして、宋の時代になると、今申したような「問い返しの機能」ということを考えなくなったようでして、今日言われているように、問いと答えの間に論理的な脈絡のない意味を抽出できない非論理的、あるいは超論理的なやり取りだというふうに、禅の問答は扱われるようになりました。それでその時点から問答のことを「公案(こうあん)」と呼ぶようになりました。「公案」という言葉は、本来は禅語ではなくて、近世の普通の中国語でございますけれども、それは本来は役所の文書のことで、いろいろ地方官が決済すべき、解決すべき事件とか案件というものが書類に書かれてある。それが書かれている書類のことも「公案」と申しますし、書類に書かれている事件、案件のことも「公案」と申します。それが禅の用語に転用されまして、究明すべき、決着すべき禅の参禅の課題として与えられる問答、これを「公案」と呼ぶようになったわけです。「公案」と呼ばれるようになってからの、つまり宋代になってからの問答の扱いと申しますのは、先ほど我々が考えましたような、前提になっているのは何か。前提に気付けば、有意味なやりとりとして解読可能な読み方ではなくて、これも問いと答えの間に端(はな)からから連絡のない、論理的な繋がりのない、そしてその論理的な繋がりがないからこそ、修行者から分別意識を取り去って、理屈を捨てさせて、絶対的な理屈抜きの悟りの実体験に至らせることができるものというふうに扱われるようになりました。日本に伝わった禅は、宋代の禅でございますので、ですから日本で禅の問答が―問答ということは公案と同義語として扱われ、そして禅問答というのは、とんちんかんで非論理的だと言われるのは、必ずしも間違った俗説ではなくて、宋時代はそういう扱いされていたものが日本に伝わって、それは中国の禅では到達点ですけども、日本の禅はそれが出発点だったわけです。ですから入矢先生の解読が始まるまで、ズッと禅の問答というのはそういう扱いをされてきたことは、歴史的には自然なこと、あるいは必然的なことであったわけです。
 
金光:  やっぱりそういうふうになるには、なるだけの理由と言いますか、流れというものの変化が当然あったからそうなったということなんでしょうか?
 
小川:  そうですね。何故そうなったかというのは、まだ未解明の大問題ですけれども、とにかくそのような変化がありまして、例えば先ほど申しました「庭前の栢樹子」という問答も、宋時代の大慧(だいえ)(大慧宗杲(だいえそうこう):中国の宋代の臨済宗の僧:1089-1163)という大変有名な禅僧がおります。「看話禅(かんなぜん)」―「話」というのは公案のことですね。公案を看(み)る禅というのを大成致しまして、それが禅の世界を席捲して、そしてそれが日本に伝わったわけですけれども、その看話禅を大成した大慧は、先ほどの「庭前の栢樹子」を、こういうふうに説明しているんです。自分の言葉でなくて、お師匠さまの、更にそのまたお師匠さまの五祖法演(ごそほうえん)という老師の言葉として引いているんですけれども、こういっております。五祖法演老師は、こう言われたと。
 
「如何なるか是れ祖師西来の意、庭前の栢樹子」こういうふうに理解してはいけない。
 
そしてもう一回言うんです。
 
「如何なるか是れ祖師西来の意、庭前の栢樹子」このように理解しなければいけない。
 
金光:  同じことですね。
 
小川:  同じことですね。言っている問答を二回引いて、「如何是祖師西来意」こうふうに理解しちゃダメだ。「如何是祖師西来の意、庭前の栢樹子」こう理解しなくちゃいけない。ハッとこう思いますけど、謎を掛けられているようですが、大慧禅師がその言葉を引いてこういうんです。「諸君、わかるか」と。で、わかるかと言って、老師にわかって、みんなにわかっていないのかと思うとそうじゃないですね。「諸君、わかるか。こういう話は諸君にわからんだけでなく、儂にもわからん」とこう言われます。ところがそれがとぼけて言っているんじゃなくて、こういうふうに「我が法門では、理解不可能というものはそもそもないんだ。鉄の牛に蚊が留まったように嘴(くちばし)を差し挟む余地が一切ないものである」こういうふうに言われます。「嘴」というのは、言葉の譬えでございまして、鉄の牛に蚊が留まっても嘴を差し入れられない。これは要するに如何なる分析も差し入れることができない。如何なる意味も吸い出す、抽出することができないという喩えでして、宋の時代というのは、鉄の鉄器の使用が大変普及した時代で、鉄の普及のために農業生産が向上して大変な世界最先端の巨大な文明を築くに至った時代で、禅の語録にも鉄がたくさん出てまいります。それどうするかというと、そこにひたすら全身全霊を集中し続けていって、どんなに考えても絶対に答えが出る筈がないものを無理矢理力ずくで全身全霊で考え続けていって、何か意識を限界点まで追い詰めて、意識というか心の、あるいは全身全霊の大爆発のようなものを起こして、それで決定的な、超越的な大悟の実体験に至ると、このような形で禅の修行が行われるように宋の時代にはなった。そしてそれが日本に伝わってきたという流れになっております。
 
金光:  そうすると、有名な白隠(はくいん)(白隠慧鶴(えかく):臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧:1686-1769)さんの両手なら誰でも音がするのはわかりますけれども、「隻手(せきしゆ)の音声を聞け」隻手は片方の手ということで、片手の声を聞けなんて言われましても、片手で音が出るわけがないのにという、まさに取り付く島の無い問答を、公案を出された、お作りになったようですけれども、ご自身が、これなんかも今の取り付く島のないそこのところへ集中しろというテーマとしてはいい公案かなというふうに今お話を伺いながら思い出したんですが。
 
小川:  そうですね。そういう機能に特化したものとして大変有効なものだったわけですね。もともと宋代の公案というのは、本来は意味のあった唐代の問答を脱意味的、非論理的なものに読み換えて公案として転用していったわけですけれども、そうしますと、最初修行者はやはり字句に沿って意味を考えようとする。それを捨てさせて、意味を断ち切った、論理の抜け落ちたそういう鉄の牛の饅頭のようなものを無理矢理力ずくで噛むというようなものに転用していったわけですけれども、その間にどうしても時間が掛かるわけですが、そこで白隠(はくいん)禅師は、ご自身は「無字の公案」で悟られたという、これは有名な中国の公案ですが、趙州禅師の問答で、
 
狗子に還って仏性有りや無しや(犬にも仏性があるでしょうか?)
 
犬に仏としての本性は具わっているか、という質問に、趙州は、
 
 
と答えた、という問答です。これも『趙州録』で見ますと、ある時は「有る」と答えたり、ある時は「無い」と答えたりして、それなりに意味があったものとして考えることが可能なんですけれども、宋代になりますと、そういう文脈を切り落として、「犬に仏性があるか?」「無」と。この「無」は有る無しを答えたんじゃない。有る無しを超えた絶対の無を示してると。その無になりきれと、こういうふうに用いられるようになったわけです。白隠禅師自身はこの「無字の公案」で悟られたんですけれども、ご自身が、修行僧、あるいは修行者の指導していく中で、先ほどおっしゃいました「隻手の音声」という公案を、自分で公案されまして、両手を打ったら音がする。では片手の音は如何なるものか、と。片手の音を聞いて来いと。これはどう考えても考えようがないですね。これを発明したところ修行僧の悟りのスピードが格段に上がったというふうに白隠禅師が言っておられます。これは端(はな)っから脱意味的、非論理的なものとしても、公案として、問答であったものを公案に読み換えるんではなくて、端(はな)から公案として作られているので、その公案の仕様にもの凄く適っているわけですね。そういう本来の趣旨に、公案としての使用法にとても適ったものなので、非常に広まったし、効果を上げたということだろうと思います。
 
金光:  公案というのが、どういうふうにしてできたかというのは、今のお話でよくわかったような気がしますけれども、日本に伝わってきている禅宗の中には、道元(どうげん)(鎌倉時代初期の禅僧。日本における曹洞宗の開祖:1200-1253)禅師がお始めになった曹洞宗(そうとうしゆう)があるわけですけれども、道元さんはあんまり公案という問題は特に取り上げて、特に強調なさらなかったような印象があるんですが、そういう公案についての扱い方は、只管打坐(しかんたざ)の方と、それから看話禅の方と、これはどういうふうに違うんでしょうか?
 
小川:  実は宋代における公案の扱いに大きく二通りの方法があります。一つは、「文字禅(もんじぜん)」と言われてスタイルで、「文字禅」というのは、公案があって、そこに言葉でコメントを、寸評を付けたり、それから問答の趣旨を表す詩を作ったり、あるいは問答と詩をセットにして講義をしたりということで、文学的に公案を解明するというふうなスタイル。これを「文字禅」と申しまして、有名な『碧巌録(へきがんろく)』『無門関(むもんかん)』などはその文字禅の作品の成果でございます。その後に続けて出ましたのが、先ほど申しました大慧の「看話禅(かんなぜん)」ですけれども、その看話禅が出てきて、文字禅が淘汰されたのではなくて、実は大慧自身が文字禅の作品をたくさん遺しております。ですので看話禅で悟って文字禅で表現するというのが宋代以降の一般的なスタイルになりまして、日本にそれが伝わりました。その文字禅の鋭意というのは五山文学などで一生懸命に模倣されたんですけれども、そして白隠禅師もやはりそういう書物をたくさん遺しておられますけれども、一般には漢詩と漢文を自由に書けなければできませんので、日本には結局定着したのは看話禅の方が遺ったわけですね。そこで看話禅=公案禅というふうな通念が日本で一般化しているんですけれども、看話禅は公案禅の下位区分ですね。公案禅があって、それで文字禅と看話禅があると。看話で悟って文字禅で表現するというのが宋代以降のスタイルになっているわけですけれども、それが遺らなかった。それで道元禅師は大慧の看話禅に反対しておられます。大慧の看話禅に反対しているんですけれども、そのことをもって現在道元は只管打坐だから公案に反対したんだという説明をされていることがあります。ありますが、とてもその説明は多ございます。実はそれは誤解で、道元はあくまでも看話禅に反対した。で、和文の『正法眼蔵(しようぼうげんぞう)』というのは、みんな公案をそれぞれ取り上げて、勿論中国の文字禅のスタイルとは大きく違いますし、思考も異なっておりますけれども、日本語の和文で公案の趣旨を独自の思考で展開していったものが『正法眼蔵』でございますから、広い意味で中国のものとは異なりますけれども、広い意味での文字禅の作品と言っていいものではないかと思います。
 
金光:  で、小川先生のお書きになったものなんかを拝見しておりますと、日本の昔の偉いお坊さん方でも、そういう禅の公案なり、そういうものができる背後には、こういうふうなこういう経路でこういう問答ができているんだというようなことをちゃんとご存知の上で修行なさっている方もいらっしゃるようでございますね。
 
小川:  そうですね。自分も禅の語録を勉強してきまして、唐代の問答と宋代の公案の違いがわかったと、自分の発見かなと思ったりしたんですけども、判ってから読みますと、やっぱり昔の方は偉いですね。昔の方がちゃんと書いておられることがわかりまして、というか、昔、無窓(むそう)国師(夢窓疎石(むそうそせき):鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧:1275-1351)の言葉を読んだ時、そのことわからなかったんですけど、語録を通して判ってみたら、無窓国師がちゃんと言っておられる、というようなことがたくさんございました。これは私でなくて、京都の衣川賢次(きぬがわけんじ)先生が解明されまして、なるほどそれを前提にすれば問答というのは有意味な脈絡のうえで読めるとわかったんですけれども、そう思ってからまた無窓国師の『夢中問答(むちゆうもんどう)』などを拝見しますと、無窓国師がやっぱり達磨が来たのは各人に具わっている仏の心ですね、それを示すために来たんだと。ちゃんと無窓国師もお書きになったりするわけですね。『夢中問答』の中に、こういうお言葉がございます。
 
古人云はく、達磨西来して、別に一法の人のために伝授するなし
 
と。達磨は西からやって来たけれども、何も伝えるものは持って来なかった、ということですね。
 
ただ人々具足し個々円成する底を指出するのみなり
 
一人ひとりの生き身の人間にもともと自然に具わっているもの、それを指し示すために来ただけだと。無窓国師は言っておられました。そしてそれが歴史と共に変わったということも無窓国師はちゃんと説明しておられまして、これも『夢中問答』の中のお言葉ですけれども、
 
古へは知識の方より我が語を公案にして、提撕(ていぜい)せよとすすめたることもなし
 
昔の老師は、俺の言葉を公案にして参詣しろなどとは言われなかったというんですね。ところが今時の人は、というのは宋代以降のことですけれども、今時の人は機根が低下して道心が深くないと。なので禅者の言葉を聞くと、理屈で当て推量してわかったような気になって、悟った気になって止めてしまうと。あるいは頭の良くない人は理屈を考えられないので挫折してしまうと。で、そういう状況を憐れんで『碧巌録』の圓悟(えんご)禅師(圜悟克勤(えんごこくごん):中国の宋代の禅僧:1063-1135)、それから大慧(だいえ)―圓悟の弟子ですけれども、「圓悟大慧よりこの方公案提撕の方便を設け給へり」と。そういうふうに機根の低下していることに対応して一種の教育法として、教育の方便として公案というものが圓悟や大慧の時代に作られたんだと、こう説明しておられます。実は「公案とは何か」というと、また『夢中問答』で非常にはっきりした説明がされておりまして、「公案」というのは、
 
往生浄土のためにもあらず、成仏得道の求めにもあらず
 
浄土に生まれ変わったり、悟りを開いたり、そういうものではない。
 
世間の奇特にもあらず、法門の義理にもあらず
 
世間なみの素晴らしい奇跡のようなものではないし、仏門の教理でもない、
 
すべて情識のはからざる処なり
 
意識、理屈、分別意識論理による理解、そういうのがまったく及ばないところだ。
 
故に公案と名ずく。
 
だから公案というんだ。
 
これを鉄饅頭に喩えたり。
 
鉄の饅頭に喩えるんだ。これは無窓国師の独創ではなくて、禅籍では「鉄酸餡(てつさんあん)」というんです。それがもとの言葉ですけども、無窓国師が「鉄饅頭」と言い換えておられる。鉄饅頭に喩えたと。それは、
 
情識の舌を作りあたわざるところに向かって噛みきたり噛まざれば必ず噛み破る次元あるべし。その時初めて云々
 
つまり理屈の通じない、理屈の舌が届かない鉄の饅頭を無理矢理に噛んで噛んで噛み続けていたら、必ずバリッと噛み砕かれる瞬間がくると。それが「悟りだ」ということを言っておりまして、看話禅の仕組みというのを鉄饅頭の比喩で非常に的確に説明しておられる。しかもそれを歴史的な観点で、唐代はそうでなかったものが宋代になって公案というものが発明されて、公案というのは鉄饅頭のように噛み続けるものだと、こういうことを―なんか僕自分で研究してわかったことだと思ったことが、ちゃんと既に昔の方がちゃんとわかっておられたことなんだなと思って、自分でわかることなんか高が知れているなと思った次第でございます。
 
金光:  公案禅というのを伝統的に受け継いで、それに対して修行なさっているとこもありますけれども、でも日本には随分変わったお坊さんも時々お見えになって、例えば盤珪(ばんけい)禅師(盤珪永琢(ばんけいようたく)(えいたくともよむ):江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた:1622-1693)なんて方は、公案なんていうのは「古反故(ふるほご)」みたいなこともおっしゃっていますし、で、それはそれで、しかしじゃそういう坐禅なんか止めてどうこうということをおっしゃるのかと思うと、そうでもなくて、それを平らな普通の言葉で消息を自分で伝えるんだと。それで「不生の仏心」なんていうことを、そういう言葉なんかでお話になっていらっしゃるようですけれども、ああいうものについては、ズッ〜と語録を読んでいらしゃった小川先生はどういうふうにお考えでございましょうか?
 
小川:  はい。例えば盤珪禅師の語録にこういう言葉がございます。
 
仏心は不生にして霊明なものに極まりました。仏心は不生にして一切事が整いまするわいの。
 
「不生な仏心」不生―生まれないとありますけども、改めて、新しく生み出されるものではないという意味で、もともとあるという意味ですね。生じないから存在しないという意味ではありませんで、もともとあるという意味。もともと誰にも生き身の己にもともと具わっている不生の仏心、それは霊明なものであって、それだけで全てが整う―うまくいくと、解決であると。その不生で整いまする不生の証拠は、というんですけど、そういうふうにいうと、不生の仏心はどこにあるのか、と考えたくなるかと思いますが、これがまさにさっき申しました唐代の禅、馬祖の禅そのものでございまして、盤珪禅師はこう説明しておられます。
 
その不生で整いまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、
 
みなさんが私の説法を現にお聞きになっているところで、
 
後にて烏の声、雀の声、それぞれの声を聞こうと思う念を生ぜずにおるに、烏(からす)の声、雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、不生で聞くというものでござるわいの
 
こう言われます。こうしてお話を聞いている。後ろで烏の声がする。雀の声がする。考えて、今聞こえました。これは烏の声かな、雀の声かな、よく考えてみると烏の声だと。こういうふうに聞かないと。烏が鳴けば烏の声として自然に聞こえる。雀が鳴けば間違わずに雀の声として自然に聞こえると。そういうふうに現にあるものはありのままに見える。ありのままに聞こえる。それが不生の仏心だ、ということでして、実は唐代の馬祖禅というのは、自然の生き身の身と心だ。自然に見たり、聞いたり、喋ったり、食べたりする、その姿がそのまま仏だという考えてございまして、盤珪禅師の禅は公案禅の時代を通り越して直接唐代禅の考え方に回帰したものだというふうに、私には思います。
 
金光:  中国の禅の歴史の中では、馬祖という方が非常にそれまでの禅の流れを定着させたと言いますか、一つのスタイルでそのままの心そのものが仏様の心と通じるんだということをおっしゃいますけれども、そうしますと現代の人がありのままというか、本来の自分というものはなんとかとよくおっしゃいますね。ありのままにしたいことをすればいいんだという。これ野狐禅(やこぜん)と非常に通ずるところがありまして、その野狐禅というのは生悟(なまざと)りで、禅というのはこういうもんだろうと思って、自分のしたいことを勝手にするような変な世界のことを野狐禅と言っているんじゃないかと、私勝手に考えているんですが、今の人がありのままの自分を出すと言ったって、大体ありのままの自分なんて、自分の塊なんてないんじゃないかと思うもんですから、その辺がどうも馬祖のおっしゃる―あれだけ苦労して気が付けよ、これだけ自分自身今生きている自分の心に気が付けよとおっしゃるのと、それから現代の人は、もう俺はありのままに生きるんだというそれこそ煩悩丸出しの生き方が正直だと思っているのと、どうも違うんじゃないかなという気がするんですけど、その辺のところはどうお考えでしょうか?
 
小川:  それは禅の思想史の永遠の課題でございまして、馬祖が「即身是仏(そくしんぜぶつ)」ありのままの心が仏だと言った時には、人が自分の外に意味や価値を追求するということに追い回されて、自分を見失っていた時代だと思うんですね。そこで己の外に求めるな、ありのままの自分に立ち返れと言われたわけですけども、今度はそれが最初から金光さんがおっしゃいますように、もう自堕落でぐうたらでどうしようもない人間が出来上がってしまうわけですね。これは唐の時代にもその問題意識が既にありまして、馬祖の弟子たちがありのままじゃいけないんじゃないか、ということを言い出す。ありのままというのは、馬祖は「平常(びようじよう)」という言葉で申しました。「平常」と書いて禅籍では「びょうじょう」と読み習わしているんです。馬祖の弟子たちは「無事」という言葉も言いました。「平常」とか「無事」ということは、どういうことかというと、「眠くなったら寝る。お腹が空いたら食べる。これが平常無事だ」というふうな説明がされております。しかしそういう説明がありのままで、と説明される一方で、ありのままではいけないんじゃないかと、馬祖の弟子たちが言い出します。ありのままでないものは何かという問答が出てきます。そして馬祖の禅に遅れて、もう一つ石頭(せきとう)系の禅というのが後から興りまして、これはありのままの自分じゃない、ありのままを超えたところにある、あるいはありのままとは別次元にある本来の自己を探究するという禅を言い出しました。じゃどちらが正しいかというふうには固まりませんで、「ありのまま」という考え方と、「ありのままを超える」という二つの軸の間を往復しながら禅の指導者は進んでまいりました。唐代でいえば、馬祖の禅と石頭の禅が二つの軸になっております。宋代になりますと、やっぱりありのままということじゃダメだと。ありのままではダメだということが言われるようになりまして、「無事」という言葉は宋では悪い意味に変わります。「あれは無事禅だ」というのは悪口になりまして、唐代では良い意味だったものが宋代には悪口に変わる。宋代になるとありのままに、ぐうたらに自足していたらダメだと。やっぱり悟りを開かなければいけないと。悟りを開いたら、ありのままの自分が仏だったと、そこで初めて言えるんだと、そういう理屈になったわけです。
 
金光:  それでそういうふうな難しさがある世界には違いないんですけど、ただ人間というのは、やっぱりこのままでいいかというと、どうも自分がやっていることも、それを全部肯定できるような生き方をしているという人というのは非常に少ないんじゃないかと思うんですが、そこのところで納得できる生き方というのは、やっぱりお釈迦様以来の何千年の伝統の中で、こういうふうな生き方をすればいいんだというのが、エッセンスというのが、ああいう禅の世界の中には伝わっているんじゃないかと思うんですが。
 
小川:  仏教語の本来「自灯明(じとうみよう)」「法灯明(ほうとうみよう)」ということですね。どういうふうに理解するのが正しいのかわからないんですけども、禅の語録に引き付けて申しますと、おそらく「自灯明・法灯明」というのは一致するゴールがあるんじゃなくて、常に「自灯明」と「法灯明」の運動ですね。「悟り」というのは到達点でなくて、永遠の運動ではないかと、禅の語録を見ていると思います。自分の外に真理を求めるんではなくて、自分を信じなくちゃいけない。自分のありのままでいいかというとダメダメ。法を追求して自分を乗り越えなくちゃいけない。法を乗り越えたところに自分を追求し、自分を乗り越えて、法によってまた自分を乗り越えると。少なくとも禅問答はそういうふうに書かれていまして、自分の外に仏を求めている修行僧に対しては、「己が仏だということに立ち返れ」とおっしゃいます。でも「俺は仏だ」とふんぞり返っているのがいたら、その己じゃだめだというふうにいう。禅籍の中に、一つの正解を抽出することができない。必ず反対のことが言われている。「仏向上」という言葉がございます。これも入矢先生がクローズアップされた言葉ですが、「仏」という字に向上心の「向上」ですけれども、従来は仏に向かって上昇していくという普通の向上心の意味で取られていたんですけども、そうじゃないと。これは禅籍の例から入矢先生が解明されたんですけども、「仏のその上」という意味です。「向上」というのは唐代の口語で「上」という意味です。で、仏の上なんですけども、悟ったところに常にそこはゴールで終わらないで、必ず一歩上にでる。一歩超えたところはそこがゴールなのか。そこがゴールになってはいけない。そうしたら更にもう一歩上へ行けと。だからこれが正解だなと、ある問答を読んで思った。そうすると、読んでいくと次ぎまた同じ人の別の言葉でひっくり返される。もういつもいつも自分の理解を更新すると言いますか、転換していくことを迫られる。そういうことは禅語録を読んでいて、いつも感じることです。それはおそらく禅の語録だけでなくて、金光さんがおっしゃいましたように、いろんな仕事のことでも生活のことでも、そういうことはあるだろうというふうに思いますですね。
 
金光:  本当の禅の世界というのは、禅という枠でなんか括ってしまう世界を超えたところが本当の禅の世界ではないかという気がしますので、そこまで言ったら、一々これがこうこうというような細かいところを超えた世界が、どうも偉い先達の方々の生きられた世界にはあるのではないかなと思いながら、これは小川先生のお話を聞きながら現代語で訳して、自分は云々とおっしゃいますけれども、それおっしゃっている先生が伝えていらっしゃるその世界は非常に広い世界があるなというふうに感じながら聞かせて頂きました。どうも有り難うございました。
 
     これは、平成二十八年四月十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである