地の底の声―筑豊・炭鉱に生きた女たち
 
                    出 演 井手川(いでがわ)  泰 子(やすこ)
 
ナレーター:  福岡県北九州市の博物館に、一枚の布が所蔵されています。
 
井手川:  ああ懐かしい。
 
ナレーター:  かすりの木綿の布。丈は四十センチ、幅は一メートルほどです。
 
井手川:  懐かしい。ああほんとに大事に扱って頂いて。
 
ナレーター:  井手川泰子さんは、この布を一人の女性から譲り受け、博物館に収めました。
 
井手川:  これはですね、「まぶべこ」っていうんです。「まぶ」っていうのは坑内のことです。炭鉱の坑内で働いた「女坑夫」と言われた人たちの仕事着です。こうやって、こういうふうにこう(まぶべこを腰に巻く)。裸の上にこうして、この上にですね、サラシの腹巻きをするんです。一丈くらいのサラシをキリキリッと巻くんですね、この上に。でサラシを巻いて、これがあって、これが仕事着です。上はもうほとんどもう裸。裸で働くとか、絶対そんなこと考えられんですもんね。でも裸じゃないと中暑いんです。ほんとにもう入っただけで一升汗がバーッと出るくらい、そういう暑い所で。ただ裸でいると、落盤とか、天井が下がってくる時に、バラバラっていう知らせがあるらしいんです。今からこうバレるぞという知らせというのがあって。それが裸だと小さな小さな砂のようなつぶてでも、バラッときたらすぐ「あ、落ちる」というのが分かるらしいんですよ。これ渡辺サカエさんっていう方から頂いたんですが。サカエさんはね、これを三枚ぐらいいつも持ってたと。暑いんでドロドロになって汚れてしまうけど、ほんとに丁寧に丁寧に洗って、きちんと始末をして。小さなほころびもすぐに、ほら、こういうふうに(ほころびを縫ったところ)。小さなこれは多分かぎ裂きかなんかでしょ。こういうふうな小さなほころびを当て布をして繕ってあります。もう外から見ても分からないくらいですよ。普通の人が見たら、「なんだこういうぼろ切れのような腰巻き」と思うけど。でもサカエさんにしたら、これはねもう自分が何十年も坑内で働いてきたほんとこれはもう証拠の証しなんですよ。自分が働いてきた、捨てきらんやったって。
 

 
ナレーター:  まぶべこを身につけ女性たちが働いたのは、福岡県の筑豊(ちくほう)。遠賀川(おんががわ)沿いに広がる筑豊は、明治から昭和にかけて日本一の炭鉱地帯でした。かつて全国の出炭量の半分を担った筑豊。二百五十を超える炭鉱があり、各地から出稼ぎの人々が集まりました。ふるさとを出てきた人々は、炭鉱住宅「炭住(たんじゆう)」に暮らしました。炭住と黒いボタ山は筑豊の象徴。石炭を掘ると出る捨て石「ボタ」が山になりました。筑豊の炭鉱は四十年前全て閉山。炭住のにぎわいは消え、ボタ山は緑に覆われています。筑豊の北の端鞍手町(くらてまち)で井手川泰子さんは暮らしています。井手川さんの手元には、百本に上るカセットテープが残されています。記録されているのは、炭鉱の坑内で働いた女性たちの声です。大正から昭和にかけて坑内労働をした女性たち。井手川さんが出会った時、既に六十代を超えていました。井手川さんは、二十年にわたり、およそ八十人から話を聞きました。女性たちが働いたのは、人の手で石炭を掘る中小規模の炭鉱「小ヤマ」です。「先山(さきやま)」と呼ばれる男性が掘った石炭を、地上に運び上げる「後向き」が女性の仕事でした。坑内には家族で入りました。女性や子供も働き、一家の生計を立てるのが、炭鉱で生きる道でした。石炭を積む「炭車(たんしや)」は、小ヤマでは数が限られ、回ってくるまで坑内で長い時間待たなければなりません。暗く熱い地の底での苦労を、女性たちは語っています。
 

 
(テープからの声)
 
女坑夫:  坑内に入る時の腰巻きはこんくらい。ひと幅もんで。上は裸、乳がぶらさがって。赤ちゃん預けるところあって、そこ赤ちゃん預けて女の人は働いて。それから上がって自分が飲ませられるならいいけど、坑内に入っちょったら飲ませに上がられん。乳が張るとです。そしたらじいちゃんが乳飲んでやるとっち、坑内で。そうしたら乳が張って痛いんで、苦しいき、ああ、梅木さん(じいちゃん)乳飲んでっちいうたがんね。
 

 
井手川:  最後の最後まで一粒残さずね積んであげないとお金にならないからですね。それでほんと辛抱、ほんと辛抱なんですね。そしたら小ヤマの坑主の人から直接聞いたんですけど、「おなごの辛抱をカネで買うた」って。男が入って、先山が山のように掘ってもカネにならないわけ。上げないと。坑主もカネにならんわけですよ。女の人が辛抱して、五時間も六時間もジーッと函(はこ)を待ってね、一台の空の函を待って、やっと積んでくれるから坑主もカネになるわけですよ。掘った石炭がカネになるんですよ。そういう時に女としての、帰って子供の面倒を見たいしね。いろいろ洗濯もんとかいっぱい所帯の仕事があるわけでしょ。でもジーッとしとかにゃいけんのです。函(はこ)待ちの時間っていうのは。早く帰りたいけどが帰れない。積んでしまわな帰れん。だからもうそれは決まって女の人たちは言うのは、「産んだ子は育てないけん。掘った石炭は積まなならん」という。それがもうその女たちにとれば、もうほんと単純明快な法則なんですね。
 

 
ナレーター:  家族が生きてゆくために、流転の人生を送った女性がいました。大正二年生まれの能美(のうみ)シズコさんは、五人きょうだいの長女。十四歳で坑内に入り、母親や弟も炭鉱で働きました。
 
井手川:  母親もずっと女坑夫で働いてきた人やから。自分もなんか当たり前のように、はい。豪傑なおばさんでした。私がいつも行く時は、焼酎を一本持って行くんですけどね。お酒が好きで、結構よく飲んでましたよ。飲んでちびりちびり飲みながらいろんな話をしてくれるんですね。ほんとバリバリの女坑夫やったんです。仕事は早くできるし、力強いし、度胸はあるし。
 

 
(テープからの声)
 
聞き手:  坑内で喧嘩することなんかないんでしょう。
 
能美:  ケンカもしましたよ。函(はこ)取りケンカ。
 
聞き手:  ハコ取りケンカっちゃどんなんですか?
 
能美:  結局小ヤマあたりはね、ガリバコ取りっちゅう。腕力の強いやつがおるわけですよ。人のハコでも腕力で取って積むやつがおるわけ。人間によってはいつも取られるわけ。私なんかはこうやってからくさ言いよった。「人のハコに手をかけよったら、手も足もたたき折っちしまうぞ」と言いよった。
 

 
井手川:  坑内の仕事っていうのはね、やっぱり危ないとこですからね。だからもう気力で闘わないけんのですよ。だからそのために「山より大きい猪は出らんやろうが」って言われたら、そうだと思って。なんぼ猪が怖いっていっても、でも山より大きい猪なんておるはずないんやけん。だからもう猪に向かって行かにゃいけんのですよ。もう炭鉱しか仕事がないんですから。そこで生きていかにゃいけんのやったら、もう仕事ともうぶつかり合わなしょうがないんですよね。多分それほどのやっぱりつらい大きな仕事やったと思います。
 

 
(テープからの声)
 
抗夫:  あれは満州事変の起こった時、何年でしたかね、昭和・・・、日にちだけは覚えとる。九月の十日やったです、爆発したのは。火が坑内の全部になるんですけんね。これぐらい生き地獄はないですよ。十八人即死や。ハッと思った瞬間に口を開けるから、吸い込んで内蔵が焼ける。そやから助からん。うちの弟は十七歳やった。こうして苦しんだんやろうね。手でこうして。ここに一皮下がっとる。両方むけて、皮が。真っ黒こげ。もう苦しかったんやろ。歯と目を食いしばっとったもん。うちのお母さん、狂うたですよ。死体に抱きつかれもせん。黒こげやから。
 

 
ナレーター:  弟の死をきっかけに、能美さんの家族は、危険な炭鉱を離れて、新たな生活の糧を探ります。
 
井手川:  弟もね、そうやって坑内爆発で死んでいったち。もうやっぱり炭鉱は怖いということで、もう足洗おうって。なんかその坑夫の人たちを相手に、うどん屋かね、なんか小さい小料理屋みたいなのをしようということで、そのために身を売ったんです。その時に、三百円。三年の年季で三百円だったって。三百円で、結局能美さんは、「親が売ったとは思っていない」って言うんですよ。「売られたんじゃない」って言うんですね。「自分から行った」って言うんですよ。そうじゃないと思うんですけど。「親の恥をね言うわけいかんから」って、それは言いよったですね。
 
ナレーター:  炭鉱の他に女性が収入を得る手だては限られていました。家族が生きるために、能美さんは下関で身売り奉公をします。借金を返すのに五年かかりました。
 

 
(テープからの声)
 
能美:  五年間、一口に言ってもやっぱり三六五日、長い月日でしたよ。嫌なのよ、生き地獄。好きな人だけならいいけど、嫌な人ばっかりでしょうが。つらさがくさ、もう本当に口や筆には表されんですよ。あのつらさはね。聞いて地獄、見て地獄。
 

 
井手川:  なんかね自殺の名所っちゅうのが、身投げをする場所があったらしいんですよ。そこはやっぱり他のお店の女の人たちが、そこからね身投げをする岩があったらしいんですね。もう何回も行ったっち言うんですよ、能美さんも。もう死んでやるって思って何回も行ったけど、結局死んだらね、その借金が全部親にかかってくるわけでしょ。そしたらもう何のために今まで辛抱したか分からんって思って、もう行っては帰り、行っては帰りしてね。なんかそういう話。それこそ涙ながらの話ですよ。あれを思うたらね、どんなことだってできると。もう我慢せんでから。もう死ぬのはそこに行きさえすれば死ねるんですよ。行こうと思ったら、行ったらね。それがあるので何でもできるって。もうほんとに嫌で嫌でたまらなかったら、あそこ行って死ねばいいわけでしょ。でなんかそれがなんかね、何ですかね自分の心のよりどころみたいな。「死んでやる」っていうのが。
 
ナレーター:  若い頃に着たまぶべこ姿を見せてくれた能美さん。借金を返したあと、家族の待つ筑豊に戻りました。体を張って家族を養ったことを、生涯誇りにしていました。能美さんは筑豊の炭鉱で働く男性と結婚。子供はなく、夫に先立たれ、晩年はひとり暮らしでした。
 

 
(テープからの声)
 
能美:  炭鉱さまさまよ。炭鉱モンってバカにしよるけど、つまらんですね。炭鉱済んだら。
 
聞き手:  おばちゃんは今ひとりですか?
 
能美:  自分ひとり。
 
聞き手:  寂しいでしょ?
能美:  寂しいですね。そりゃあ本当に寂しい時がある。だけどもうこれはしかたがない。こういう運命に生まれた女やから。これくらいのことで気を悪くしてはたまるかと。それで慰める。泣くときはひとりで泣くですよ、私は。ああばからしい。どげかなろうという気に。またぱらっとなるわけ。
 

 
井手川:  私が行くって言ったらね、「ライスカレー作ってやる」って言うんですよ。一人だからカレーライスカレー作りたい食べたいと思うけど、自分一人でね作って一人で作って一人で食べてもね、おいしくもなんもないから、誰か来たらっていう。 私が「行く」って言うたら、「ああ、じゃライスカレー作ってやるね」。私は作ってほしくないんですよ。ものすご辛いんですよ、それが。目から火が出るほど。涙が出ましたもん。それでも「あ、おいしかろ!」って言われたら「いや、おいしくない」って、とても言えないんですよ。それで「おいしい、おいしい」って言ったらね、もう行ったらいっつもまたカレー作るんです。「あんただけばい」って。「おれが作ったカレーをおいしい≠チて言って食べてくれるのは」って言いましたよ。能美さんにとってはね、そうやってほらひとり暮らしの中でなんか誰かのためにカレーを作ってやるとか、それができるっていうのは、結構能美さんもうれしかったんやろうって思うんですね。
 

 
ナレーター:  井手川泰子さんは、昭和八年、当時軍需産業で活気づく小倉で生まれました。物心ついた時、日本は戦争のただ中にありました。国民学校に通っていた頃の家の前での出来事を忘れることができません。
 
井手川:  この路地を毎日お昼くらい、私たちが学校から帰ってしばらく、夕方ちょっと前くらいに朝鮮の女の子の姉妹がここをいっつも通るんですね。大きいバケツを持って。バケツに蓋がしてあって。そしたらこの路地の周りにおる男の子たちが追いかけるんですよ。もう「朝鮮人、朝鮮人」とか言って。女の子のお姉さんの方が、ものすごく気が強い女の子で、男の子たちがわいわい追いかけてきても、別に絶対負けないんですよ。大きな竹の棒を持って、こうやって追い払いながら、「何すんかあ」って言って。結局その男の子たちが言うのは、その中に何が入ってるかって言うんです。結局男の子、子供たちは「うんこが入ってる」って言うんですよ。そしたら「うんこじゃない!」ってその子が言って、もうこうして追い払うようにするんです。私はついて行ったんです。後ずっと。どこに行くんだろうと思って。ほんとにうんこが入ってるのかなんかとにかく。見らんでね、みんな言うけど。それでついて行ったんですよ。そしたら寮の賄いをしてるおばちゃんが、「ああ、遅かったね」とか言いながら、そのいわゆる残飯ですね、寮で賄いしてるので食べ残りとかいっぱいあるやないですか。食べ物の野菜のくずとか。それをそのバケツにザーッと入れてやったんですよ。結局豚を飼ってたと思うんですね。その朝鮮の子供たちの家は。そしたらね、そのあの気の強い女の子がワーッと泣き出したんです。私、見たからそれを。うんこじゃないで、残飯やったんですよ。豚の餌にするんですね。だからあの女の子にとっては、うんこが入ってるって言われても、うんこじゃない。空だからです。空のバケツ持って行くんやから、「何も入ってない!」って言えるんですけど、私が見てしまって、あの中には残飯が入ってるっていうのを、私が見たから。私も泣きそうになって、すぐ帰ったんですよ。走って帰って、もう家に帰って。なんかものすごく悪いことをした。どういう―ちょっと言いようがないんですけど。
 

 
ナレーター:  六年生の時、北九州がB29の空襲を受けます。家族の命は助かったものの、井手川さんは幼い頃から育った家を失いました。一家は両親の実家のある筑豊、現在の鞍手町に移り住みます。見知らぬ土地への突然の転校にふさぎ込んでいた井手川さん。声をかけてくれたのは、炭鉱住宅「炭住」から通ってくる子供たちでした。
 
井手川:  転入して一番先に仲良くなれたのは炭住の子供たち。村の子よりも、炭住の子供の方が「遊びにおいで」って言って、どんどん引っ張っていってくれるんですね。もうその転校してきた子だからとかいうことが、垣根が全くないです。
 

 
取材者:  裸足なんだね。
 
井手川:  まあほんとに。いいねえなんか…。
 
取材者:  人懐っこいですね。
 
井手川:  ほんとこんな感じですよもう。炭住っていう地域は、誰でも受け入れる所なんですね。結局あのいろんな地域から、地方から出てくる人たちばっかりの集まりですから、誰でも受け入れるという。そういう開放的なところがあると思います。「おいで、おいで、遊びおいで」とか言ってどんどん引っ張っていってくれて。ついて行くと、全くそこは今まで見たこともない。環境が全然違うんですね炭住があって。昔の炭住です。おばあさんがおって、「あんた、どこから来たとね?」って言われて。「小倉から来た」って言ったら、「何で小倉から来たとね?」とか。身の上話を聞かれるんですね、おばあちゃんたちから。「こうして空襲があって、家が壊れたからここに来た」って言って。そんなことを上手に聞いてくれて。なんかね話をしてたら、今までほら黙ってそういうこと誰にも言えないできて、親にもそんなに言えないし、言う人もいなかったんですけど。炭住に来たら、ばあちゃんたちが聞いてくれるんですよ。「どうしたんね?」とか、「ああそりゃ大変やったね」とか、「あんた、そりゃおおごとやったね」とか。それでそのばあちゃんがものすごく懐かしい人に思えてきて。でも親たちは、母親は「ああ、誰かと遊んで帰ってきた。友達ができてよかったね」って思うんですね。「どこで遊んだ?」って聞くから、「炭鉱に行って遊んだ」言ったら、「今度は炭鉱に行ったらいけん」って言うんですよね。だからやっぱり村と農村と炭鉱というのはすごい差別意識が、村の中にはあったですよ。それはもう誰に聞いても、今でもみんなそう言いますからね。
 

 
ナレーター:  戦争中の炭鉱の様子を話してくれた女性がいます。その人は一枚の表彰状をずっと手元に置いていました。
 
井手川:  滝本ユキコさんが―これは旧姓なんですね、折田っていう名前は。昭和十九年十二月八日の開戦記念日に受けた表彰状です。その時、滝本さんは十七歳。それで先山やったんです。十七歳でですよ。もう表彰状にちゃんと「先山」として働くということはちゃんと書いてありますから。朝鮮の人たちを十五、六人後向きに連れて、先山として働いた人です。「戦争中は、女と朝鮮人で石炭掘ったんばい」っていうのは、もう何人からも聞いたんですよ。男の人がおらん。だからもう「女と朝鮮人で石炭を掘ったんやきね」というのが何人からも聞きましたよ。
 
ナレーター:  十七歳の時、先山として表彰された滝本ユキコさん。戦争にのめり込む日本。徴兵で男手が足りない中、朝鮮半島出身の人たちと石炭を掘りました。
 

 
(テープからの声)
 
滝本:  朝鮮の人と一緒にするんですよね。そのころで六十すぎのおいちゃんやったけど、いつもキツイけどしょうがないって。もう弁当のおかずは割れ木―たくあんのこと。私たちはなんぼ貧乏しちょっても、親がね大豆の炒(い)ったんとかしてくれるからね。炭鉱で重労働するから。それでいつも分けてあげるんよ。日本語がいくらかわかってね。ユキちゃんどうもありがとうって。いろいろそういうことをしながらね。相手に思いやりを持っとかないけんちやりよったけど。一回わたしが坑内から上がってきたらね、労務で朝鮮の人をたたきよるわけなんやね。やっぱり歯がゆいわけ。自分の身に比べたときに。死んでね。死んでないけど、死んだごとなったら、また水をじゃぼっとかけるわけ。またたたくという状態にしてきたよ。
 

 
ナレーター:  表彰状では、滝本さんが頭にケガをしたにもかかわらず仕事を続けたと、讃えられています。そのことが朝鮮半島出身の鉱員を奮い立たせ、一ヶ月の出炭目標を達成したというのです。しかし滝本さんがケガを押して仕事を続けたのは、一家の働き頭として休めば収入がなくなるからでした。
 
井手川:  滝本さんは、「私は何もね朝鮮の人たちを頑張らせようと思うてね、したわけじゃない」って。自分の家を「私が米びつだった」って言うんですよ。結局あの人が働かないと食べていけない。一番重要な働き手やったんですね。そのことが一つの美談にされて戦意を高揚するために朝鮮の人たちがね、「女の子でさえケガしても我慢して働いているのに、お前たちはなんていうことか」っていうふうに。出炭目標というのがあるんですよ。十一月という月の出炭目標はもう突破したわけでしょ。だから結果的には強制労働に追いやったことになるわけですよね。なんかやっとそれが初めてこう気が付いて。「知らなかったことであっても、もの知らんというのはね、いろんな過ちをするね」って言われよったです。ただその戦争時代だからもうしょうがないよねっていうことでは、やっぱり済まされない。滝本さんがそのことに気付いて、それをこうね私にちゃんと話をしてくれたということにものすごくちょっと感動しましたね、それは。
 

 
ナレーター:  戦争が終わると、筑豊に大きな変化が訪れます。国のエネルギー政策が石油へと転換し、筑豊の石炭産業は一気に衰退します。炭鉱は次々と閉山。生活のすべは失われました。人々は仕事を求め筑豊を離れていきました。井手川さんの住む鞍手町では、昭和三十八年に大手炭鉱が閉山しました。閉山後、炭住が払い下げられ、井手川さんは夫と二人の子供と暮らしました。
 
井手川:  ここです。この家に住んでました。ここです。
 
ナレーター:  夫の勉さんは、閉山で職を失った人たちのための失業対策事業に携わっていました。生活は楽ではありませんでした。
井手川:  ふすまは全部破れて破れてた。だから子供たちは、うちの子はふすま開けることない、破れた所から出入りしてましたから。「そっちの方が早いよね」って言って。私もそこから出入りしてましたから。でも結構いろんな人たちが出入りして。それなりに、お金はなかったけど、楽しかったと思います。
 
井手川:  ああ、ここでほんとに懐かしいですねえ。
 

 
ナレーター:  炭住の住民が集まる公民館は当時のままです。この日は「サロン」と呼ばれる月に一度の集まり。参加者は皆女性。多くが子育てを終え、夫を見送り、炭住で一人暮らしをしています。炭住から引っ越した井手川さんを覚えている人もいました。
 
参加者A:  お名前井手川さんっていうの。
 
参加者B:  あっ、井手川さん。まあ変わって気が付かんやったね。
 

 
ナレーター:  炭住なら一人暮らしも寂しくないと女性たち。よその土地に住む子供から同居を誘われても、ここを離れようとはしません。
 
井手川:  昔のままの?
 
居住者:  そのまま。こっちも昔のままの家。もう先は短いしね。
 
井手川:  きれいにしてあるわねえ。
 
居住者:  広いしね。
 
ナレーター:  昔ながらの炭住では、ご近所の家に毎日のように上がり込んでおしゃべりがつきません。
 
居住者:  もういっつも毎日。少ないで三人多て七人。
 
井手川:  みんなここは出入り自由でやってるんですか?
 
居住者:  自由で。黙って。ベル押さんで来る人が一人おりますよ。もう二時ごろから七時までおる。向こうの部屋で。こっちから向こうさ行ったらしまいだけん。旦那さんがおらんきね。みんな後家さん。
 
ナレーター:  的野さんと吉脇さんは、炭鉱の選炭場で働いていました。石炭からボタを取り除く選炭は、女性の仕事。一日三交代。二十四時間操業していました。
 
取材者:  吉脇さんどこの選炭場で働いてたんですか?
 
吉脇・的野:  一緒んとこ。
 
取材者:  ああそうですか。
 
吉脇:  あのねコンベヤが流れよるんですよ。石炭がね、上から落ちてきたと、ボタと石炭が。大きなボタが流れてきて、こんな大きなボタが流れてくるのを割って入れるの。ほいて私たちがもんぺ姿で、ほっかぶりしとって。
 
取材者:  ボタと石炭というのは見分けるのは簡単なんですか?
 
吉脇:  わかる、わかる。光ってますもん。ダイヤモンド、昔、言うじゃないですか。黒ダイヤ、ダイヤみたい。黒でね、ぴっかぴあ光ってる。ぴかぴかひかりよった。もう真っ黒になってから、鼻の巣は真っ黒。目ばっかりぎょろぎょろ。女でもそげいですからね。男の人たちは真っ黒になってでてきたら、自分の亭主もわからんくらいやきね。三番方んときは辛かった。居眠りしながらしよりました。やっぱ三番は夜中に出らないけんきね。朝まで。うん朝までやきね。
 
取材者:  朝何時まで?
 
吉脇:  六時ぐらいやったな。
 
取材者:  やっぱ三番はきつかったですか?
 
吉脇:   三番はもうね。
 
取材者:  そのあとはどうされよったですか? 炭鉱が終わってから。
 
元女坑夫:  もう家に帰って、土方。土方一本で頑張ってきた。
取材者:  女の人もそんな力仕事するんですね。
 
元女坑夫:  するよ、もう元気よ。
 
元女坑夫:  昼に寝られんからね。私たちはまだ娘やから、家でも寝たり、親がしてくれるけど。やっぱ子持ちの人たちは寝られん。居眠りしながらしよったからね。
 
取材者:  閉山する時どんな感じだったですか?
 
吉脇:  寂しかったね、やっぱ。もうみんながバラバラになったでしょ。炭鉱がなくなるとかね、思うことなかったでしょ。炭鉱が潰れるとかね。あんな大きなね、炭鉱が。ここはなんたってね、三菱やきね。三菱、三井、三池っていったらね、もうねいうことないもんね。おんなじ石炭掘ってもね小さいヤマの人たちはね。退職金とか…。
 
元女坑夫:  あなた泣きよるとやないの? なんか悲しいことがあったらここでしゃべりいよ。泣きよんしゃん。
 
吉脇:  炭鉱がなくなるっちいうのはね、ほんとに。やっぱ閉山の時のこといいばね、いろいろね。あんた苦労があったんや。まさか潰れるとか思わんもんね。炭鉱がね。炭鉱の閉山のこと思い出したんや。いいことばっかりはないよね。炭住があったから、自分たちは生きてこれたっていう。ほとんどのばあちゃんたちは言ってましたから。それは本音だろうと思います。結局頼るところを持たないわけでしょ、みんな。ふるさとも捨ててきたし、親兄弟もすぐには頼れないような立場で。だからもう本当に隣の人と一緒にやっていかないと、その群れから外れたら生きていけないっていう。もう切実な問題もあったと思うんですね。命の危険がかかってるんですよ。そんな時に急に死ぬような、命がなくなるような、そういう事故に遭った時でも、もう自分の力じゃどうしようもないんですね。みんなに助けてもらわないと。炭住の助け合いっていうのは、ほんとに普通じゃないです。普通私たちが考えるような助け合い以上の助け合いがあったと思うんですよ。だって捨てられた子を育てるんですよ。自分の子供のようにずっと育ててやって。そしたらある日急におらんようになった。ふっともうおらんようになって。「何で」って言ったら、「親がね捜しに来て親が連れていったんやろう」って。「よかったね」って言うんですよね。腹立たんのやろうかって思うけど。黙って一生懸命育ててやってね、我が子のように。ひと言ぐらいお礼言ってもいいんやないとって、私は思ったけど、そのおばあさんは、「まあよかったたい。
ほんとの親が迎えに来てくれてよかったよかった」って喜ぶんですよ。「我が鬼にならんかぎりは、まわりも鬼にならん」って言ってましたね。「我が鬼にならんかぎりは、まわりも鬼にならん」こういうふうな感じで。自分にね言い聞かせるような、そういうこう語り口ですね。あれは多分自分に確認をしてたんじゃないですかね。誰から教えられたっていうことじゃないんですね。自分で自分の心の在りようを、何ですかね、良い方に、こう良い方に変えていくような言葉を、自分の生活と働く体験の中から生み出して、自分なりに、それはもう自分の言葉になってしまって、それを確認を繰り返しながら、自分の人格が出来上がっていくっていうか、なんかそういう感じですね。自分にとってその言葉が必要なんですよね。この言葉で救われるっていうことは。たかが言葉っていう―でもすごい力がありますよ。
 

 
ナレーター:  女性たちは、口々に人間が働き、生きていく場所としての炭鉱を語っていました。井手川さんは町と掛け合い炭鉱で働いた人たちと協力して、石炭資料展示場を造りました。炭鉱の様子を再現しました。機械化された大手炭鉱の坑内。日本の近代化を支えた巨大産業の姿です。採炭現場の木の枠には白い粉をつけました。これは石灰。炭じん爆発を避けるためにまかれていました。
井手川:  こういう仕事は、目には見えないけれども、一番大事な人の命を守る仕事なんですね。これは日役の仕事です。あの日給で。だからもう何回まいても、どうしても一日いくらって決まってたから、ほんとにそのきついけれどもあんまりお金にはならない。でも誰かがしなきゃならない仕事なんですよ。それがまあ例えば、差別の人たちのおばあさんがやっぱりこれをしてたっていうおばあちゃんが何人もおられて、「どうやってしてたんですか?」って聞いたら、石灰の十キロかなんかの袋があって、それを背中に背負って、ひしゃくの短いの、それをこうやって、それすくってまいていたって言うんですね。そしてだから一番珪肺(けいはい)(ケイ酸の粉塵を吸い込み呼吸機能が衰える職業病)になりやすい環境の中にいます。だから珪肺は炭じんよりも、こういう石灰の粉とか、それがやっぱり大きな原因になっています。でもその人たちは、珪肺だからといっても労災の対象になるわけでもないし、そういう補償は何にもないんですね。
 
ナレーター:  一番奥には、中小規模の炭鉱、小ヤマの坑内。人間の手で石炭を掘り出す命懸けの肉体労働の現場です。井手川さんは、展示の仕方一つ一つについて、小ヤマで働いた女性たちに確認を頼みました。
 
井手川:  これはあのここでですね、このカネと―あそこにカネがこういうふうにかかっています。私は最初そういうこと何にも知らないで、あのカギを上からこうやってかけていました。一人のおばあさんが「あんたこげな、上からこうかけたら命がなんぼあっても足らんばい!」って怒られたんですよ。「何で?」って。「上からかけた方が函は引っ張りやすいやろ」って。「そうじゃない」って。「函を上からかけたら、もしなんかバラバラって落ちてきた時に、パッと逃げようと思っても外れないんです。上からやったら、逃げられない」。私はその時に、どうしたら少しでも早く能率的に石炭を運ぶことができるかという感覚でしか考えてなかったんです。これを引く人のことは全く頭になかったんですね。石炭運ぶことが、まるで坑主の経営者の感覚でした。そのおばあさんから指摘されて、初めてこれを引く人のことを私は何も考えてなかったっていうのがほんと分かったんですけど。だからそうやっていろんなことをおばあさんたちに教えられながら。そうしないと全く分からないですもんね。でも私一人が知ってもどうもならんのです、私も間もなく死にますので。そしたらねどうします?それ。なんかねやっぱちょっとでもみんなに知ってほしいと思いました。
 

 
川松:  こんにちは。
 
井手川:  はい、どうぞ。
 
川松:  お邪魔します。
 
ナレーター:  最近井手川さんのもとに若い女性が通ってきます。東京の大学院生・川松あかりさん。この四月筑豊に移り住み、一年かけてフィールドワークをしています。
 
井手川:  え〜と、平成二年。
 
川松:  わぁっ、私生まれた年です(笑い)。
 
井手川:  あんた二年に生まれたん?そうね?へえ?。
 
ナレーター:  炭鉱で女性たちが何を思ったのか。それを井手川さんはどう伝えようとしているのか。
 
川松:  女坑夫の方たちとか、直接私は会えることがないし。わずかながら炭鉱労働を経験した方にお会いすることもあるんですけど、この話を聞いてどう自分に生かしていったらいいか。いまいちよく分からないみたいなところもあったりして。
 
ナレーター:  川松さんは、井手川さんが女性たちから聞いた話を受け継ぎたいと、二ヶ月に一度「地べたの声を聴く会」を開いています。フィールドワークで知り合った地元の人たちが集まります。
 
川松:  おばあちゃんたちは、本当に過酷な生活、私たちからは考えられないようなものだったのに、たくましく、しかも生き生きと語ったり、笑ったり、泣いたりされて生きていて。どうして私たち若い人たちは本当に恵まれて、何も不自由ないはずなのに、なんか人生に行き詰まったりとかしてしまって。女坑夫の方たちはそうやって生きてこられた。「これは何が違うんでしょう。どうすればいいんでしょう」みたいな。なんかそういう人たちがいたから、豊かな生活が今あるというか、なんかよく分かんないけど、申し訳ないって、私は思うんですけど。何の上に自分が立っているかと思った時に、そういうのを知りもしないのはいけないことじゃないかなと思っていますね。
 

 
ナレーター:  炭鉱が消え、人は変わっても残るものがあります。筑豊の盆踊り。太鼓と笛、そして「口説き」と呼ばれる独特の節にのせて踊ります。盆口説きは、古くは筑豊の農村を中心に踊られてきました。炭鉱に各地から人々が集まり、炭住での盆踊りにも広がりました。
 
井手川:  筑豊の盆踊りはこういうもんです。
 
長谷川:  テンポの速さが炭坑の人たちの気性に合っているんですよね。
 
井手川:  全然知らない人でも、輪の中にポンと入っていって、一緒に踊れば、なんかみんあと心がひとつになるんですね。
 
ナレーター:  口説きの定番は、かなわぬ恋の心中物語。
 
京都町なら兄妹心中
兄は亀松 妹はお清
あまりお清の器量の良さで
兄の亀松 病とかかり
医者もいらなきゃ 薬もいらぬ
わしの病は訳ある病
 
ナレーター:  命絶たれた男女の思いと、明日をも知れぬ炭鉱での日々が重なり合う夜。
 
井手川:  だから忘れないって、死んだ人の無念な思いを絶対忘れないからねっていうことが一番主やからです。だからもう心中ものとかがものすごくあるんですよ。
 
取材者:  それが炭鉱の人たちに合うんですか?
 
井手川:  合うんですよねえ、やっぱり。そういうこう事故が多いしね。たくさんの人が亡くなっていったり。それをもう普通の死に方じゃないで。無念の死がたくさん、身近にたくさんあったので、だからその口説きが盛んに歌われたと思うんですけど。「あなたたちを忘れませんよ」っていう意味があるんですよ。〈死んだ人のことは忘れないですよ〉っていう。〈だからみんなでこうやって口説き踊っています、見ていて下さい〉っていうようなそういう意味も。炭鉱の初盆の口説き見たことあるんですけど、もうね死んだ人の写真がズラーッと並ぶんですよ。十人とか十何人とかズラーッとか写真があって。共同でするんですね、みんなで。それをもうほんと夜通しっていうくらいに、いろんなその口説きが歌われて。何ていうたらいいんですかね、ここでもう暮らして、ここで死んでいくっていう。そういうその覚悟の据え方。それがやっぱり盆踊りで一つになっていく。急にはそんなふうにはならないでしょうけど、長年かけてそうしているうちに、ここがほんとにふるさとになっていく。それがあの人たちの出稼ぎに来て、ここで働き、根を下ろした人たちのふるさとなんです。死んでいくとこなんですよ、ここはね。
 

 
ナレーター:  井手川さんが記録に残した女性たちは、皆世を去りました。歴史に埋もれそうでいて、確かに聞こえる地の底の声。場が湿っぽくなると、誰からともなく歌が始まりました。
 
うちのおやじもハゲ頭
となりのおやじもハゲ頭
ハゲとハゲとがケンカして
どちらもケガのうてよかったな
 
井手川:  「それでも歌かい、泣くよりゃましだよ」って言うんです。ほんと私、初めてそれ聞いた時ね、ほんとそうだなと思ったんですよ。泣くよかいいやろがっていう、そういう「泣くよりゃましだよ」って言うんですよ。あの開き直り。ほんと「すごいよ泣くよかいいよね」って言って、みんながそれ思ってほんと納得するんですね、ほんとに。選炭場で働く人たちは、夜中になると眠いで眠いでしょうがない、単純作業なんですよ。それで目を何とか目を覚まさないかんのですよ。眠気が吹き飛ぶような面白い歌とか、それから上役の悪口とか、当てこすりとか。歌だったら何て言ってもいいので、それでそういうことを即興的にどんどんどんどん物語を作るようになって、歌っていくっていう。それがほんとにしょうもない歌詞であっても、その場におった人たちが、それで元気づけられたり、慰められたり、楽しんだりすればね、これが歌やないかねって。それこそ女たちの筑豊で生まれた文化だと思うんです。
 

 
好いて好きおうて相惚れて
一夜も添わずに死んだなら
私ゃ菜種の花となる
あなたチョウチョウで飛んで遊ぼ
それをどうしよとみな話し(サノヨイヨイ)
 

 
井手川:  このばあちゃんたち菜の花みたいですもん。あんなにほらなんですかね。筑豊の春はまず遠賀川の菜の花からっていうふうに、まあ私はずっと思ってきたんですけど。あの菜の花の群れを見てると、いっぱいばあちゃんたちが出てくるんですよ、あの中に出てくる。なんかおばあさんたちがみんな―女坑夫たちが全部あそこに集まって面白い話をしたりね。なんかそういう感じがするんですよ。菜の花って、ほら、荒れたとこにちゃんと咲くやないですか、毎年毎年。もう真っ黄色にその辺りを全部染めてしまうほど、すごい繁殖力が、生命力があって。見る人もほんとにきれいって思うし、楽しませてくれるし。でもあのほんとはね見たら小さい花ですよ。一つ一つは小さな花が集まってあんなふうにこうなって。だから本当このばあちゃんたちのように思うんです。私にしたら、もうそれこそ、この春は自分たちがつくった春だみたいな、ものすごく大きな顔して。あのやっぱり強さは、これはやっぱり女たちの筑豊の世界だなと思うんですね。
 
     これは、平成二十八年十一月十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである