歎異抄を語るCいはんや悪人をや
 
                    武蔵野大学教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
                    き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「歎異抄を語る」。今日の第四回は「いわんや悪人をや」ということなんですね。この言葉は『歎異抄』の第三条の中に書かれているわけですが、今日その第三条を取り上げることにいたしました。で「悪人こそ救われる」という、この内容を持った第三条は、これは随分いろいろと取りざたされてきました。受け取り方を一歩間違えれば大変な誤りになるという内容を含んでいるわけですが、その辺のところを、今日もいつものように武蔵野大学教授の山崎龍明さんにじっくりと伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
 
山崎:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  この第三条の、特にこの言葉は冒頭にあるわけですけれども、やっぱり最初は相当衝撃的に受け取られたでしょうね。
 
山崎:  そうですね。今おっしゃった「悪人こそ救われる」という言葉が、一般的に道徳的な立場で生きているのが人間ですから。
 
草柳:  まったく逆ですものね。
 
山崎:  逆ですもんね。ですから僕は三条のこの言葉は、『歎異抄』の全十八条の中でも一番注目され、そして一番または誤解され続けてきたという、そういう言葉だと思いますね。しかしまぁ親鸞聖人の教えの最も根本的な重要なものであるということはいうまでもないんですけども。
 
草柳:  まさに親鸞の教えの中の真骨頂と言いますか、一番大事な要素が込められている三条だというふうにみてよろしいですか?
 
山崎:  そうですね。私は昔加藤辨三郎(かとうべんさぶろう)先生という在家仏教協会というのを興されました協和発酵(きようわはつこう)の会長でして、あの先生が学生時代京都に寺町と言いまして、古本屋さんがいっぱいあるとこなんですが、そこにぶらぶら歩いている時に、一冊の本を開いた。そこがなんと『歎異抄』の第三条だったというんですね。「善人なをもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。こんなふざけたことがあるか。これはきっとミスプリントに違いないと思って、お金を出して、その文庫本の『歎異抄』を背広のポケットに入れられた。そのポケットに入れられたことが、加藤辨三郎さんの生涯を決定するような言葉になった。ですから最初は違和感そのものだったわけですよね。そういう話を先生からお聞きしたことがありますね。
草柳:  それだけ大変な内容を含んだ第三条を、まず全部で文字数にしたら三百字かそこらですよね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  まずじっくり最初に全部読みたいと思います。
 
善人(ぜんにん)なをもつて往生(おうじよう)をとぐ、いはんや悪人(あくにん)をや。
しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なを往生す。
いかにいはんや善人をや」。
この条(じよう)、一旦(いつたん)そのいはれあるに似(に)たれども、
本願他力(ほんがんたりき)の意趣(いしゆ)にそむけり。
そのゆゑは、自力作善(じりきさぜん)のひとは、
ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、
弥陀(みだ)の本願にあらず。
しかれども、自力のこころをひるがへして、
他力をたのみたてまつれば、真実(しんじつ)報土(ほうど)の往生をとぐるなり。
煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行(ぎよう)にても
生死(しようじ)をはなるることあるべからざるを、
あはれみたまひて願(がん)をおこしたまふ本意(ほんい)
悪人成仏(じようぶつ)のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、
もつとも往生の正因(しよういん)なり。
よつて、善人だにこそ往生すれ、
まして悪人はと、仰せ候ひき。
 
こういうまぁ比較的短い文章なんですが、まず山崎さん、これを今の言葉に換えていただけますか。
 
山崎:  そうですね。あとにご説明がありますから、今の言葉に変えて簡単に申しますと、善人が往生―救われるんですから、まして悪人が救われるというのは理の必然であると。当然であると。しかしながら、僕はこの「しかるを、世の人」一般の方々はそういうお考えしませんから、悪人が救われる。まして善人が救われるのは当たり前のことであると。こういう考えが世の人の考え方である。これは一旦、この教え―道理は、「一旦そのいはれ」ですから、意味があるように思われるけれども、しかしこれはこの「本願他力の意趣にそむく」と書いていますね。これは阿弥陀仏の一切の人々を救うという阿弥陀仏の本願の深い思し召しからしたら、大変これは異なったことであると。全く逆ののことであると。こういう意味になりましょうかね。その後ですけども、理由ですよね。「そのゆえは、自力作善の人」この場合、私は、「自力作善」―「自力・他力」と言いますが、「自力」自らの仏道修行―戒律を保つですとか、修行ですとか、そして様々な善きこと―善根、あるいは功徳を積む人は、そのことによって仏になることを目指す人ですから、したがってひとえに他力を頼む心、欠けたる人である。つまり自力の世界ですから、他力=阿弥陀仏の教えいうものに全く心を寄せることのない方であると。そういう仏道の方であると。したがってそれは阿弥陀仏の説かれる弥陀の本願の教えに生きる者では無い。こういうことでしょうかね。その後に、しかしながら「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば」ですから、そういった自力と様々な善根と功徳と、そういうものによっては、なかなか私たちは修行したり勉学するにしましても、エゴイズムって離れられませんよね。そういうことに気づき、自力の心を、これは到底無理だと。僕はここの「ひるがへして」という言葉が非常に面白いと思うんです。それをなくして、とかね、捨ててじゃないんですね。翻(ひるがえ)して、そしてそのことの誤りに気づいてですね、もっと言ったら「翻す」ですから、目覚めて、そして阿弥陀仏の教えを生きる命の仏になる「たのみたてまつる」ですから、よりどころとする方は間違いなく阿弥陀仏の説く真実の浄土という報土という世界に生まれることができるのである。こういう意味でしょうかね。その後に、今のことと重なりますけども、当然「煩悩具足のわれらは」怒りとか腹立ち嫉み妬み、まぁたまに煩悩が起こるんじゃなくて、煩悩のそういう欲望とか、怒りとか、愚痴ですよね。そういうものの中にしか生きられない私たちは、「いづれの行(ぎよう)」つまり阿弥陀仏が勧められた念仏の仏となるための行以外の修行ですね。滝に打たれるもいいでしょう。あるいは山にこもる、いろんな行、そういう行によって「生死(しようじ)」ですから、人生上の様々な迷いを離れることができないということ、「あはれみたまひて」仏教の慈悲心といいますけどね。その人間存在を深く洞察して、そしてそういう人を救わずにはおかないという根本の願いを起こされた。その願いの「本意」本質ですね。中心はこれが大事ですね、「悪人成仏のためなれば」だから阿弥陀仏の本願というのは、悪なるものをまず真実の覚者―目覚めたるものにする。そういうものであるから、「他力をたのみたてまつる悪人」阿弥陀仏の本願他力を仏になる上でのよりどころとする私たち=悪人は、まさに最も私たちの救いの正因である。まさしき縁であると、種であると。したがって「よって善人だにこそ往生すれ」善人が生まれることができる。まして阿弥陀仏の本願の意趣―思し召しですね―道理から言ったら悪人は間違いないと「仰せ候ひき」と。これは後でまた出てくるかもしれませんけど、この「仰せ候ひき」というのが、法然上人がこう仰せになったんだという考え方が一般的に言われまして、前半十章の中で、「仰せ候ひき」というのは二カ所しか出てこないんですね。一つはこの第三条、もう一つは第十条ですから。この十条と三条のこの言葉は紛れもなく法然上人が始終梵天に言っていた言葉だという記録がありますから。
 
草柳:  そうですか。じゃ唯円がこういう書き方をしたというのは、これはもちろん親鸞聖人から聞いてはいるんだけどけれども、さらにそれは法然上人が言っていたことを親鸞を通して聞いたということになるわけですか。
 
山崎:  そういうことです。
 
草柳:  法然の言葉というのは、ほとんどこれと同じですか?
 
山崎:  そうですね。勢観房源智(せいかんぼうげんち)という十七年間法然上人とおられた方に、口伝(くでん)といいまして、直接口伝えに伝えた言葉が醍醐三宝院(だいごさんぼういん)の『法然上人伝記』というのがありまして、これを「醍醐本」と呼んでいるんですが―京都の醍醐ですね―あそこのものに見られるんですね、この言葉が。
 
草柳:  そこではどういうふうな言い方をしているのかというのを、ちょっとこれで見てみたいんですけれども、『法然上人伝記』ですね。こういうふうな書き方をしています。
 
善人尚以て往生す、況んや悪人をやの事口伝これあり
私に云ふ。弥陀の本願は、自力を以て生死を離る可き方便ある善人のためにおこし給はず、極重の悪人の他の方便なき輩を哀みておこし給へり
 
これはどういう意味になりますか。
 
山崎:  そうですね。先程の「善人なをもつて往生をとぐ」という言葉の前に来る言葉であるということが言われますね。これはどういうことか。「悪人をやの事口伝これあり」ですから、ですから法然上人が源智という人に伝えたを言葉でして、これは私自身に考えてみると、阿弥陀仏の本願、一切の人々を救うという願いですね、根本の願いである本願は、自力を持って、ですからさっき出てまいりましたが、自らの力量と能力と必死に仏になるための修行ですね。そういうものを持って「生死」ですから、この人生上の問題を解決し、そして仏になる。そういうは「離る可き方便ある」ですから、そういう方々の為でなくして、そういう善人のために起こしたものが、阿弥陀仏の本願ではなくて、その後に「極重の悪人」とこう出てきますね。これは他の文言なんかにも出てくるんですが、極重の悪のきわめつきと言いましょうかね。「極重の悪人の他の方便」つまり罪悪と言いましょうか。最でもって底がない。そういう粗末な心、おぞましい人間性を持った悪なるものの救いの方便、手だてというのは一切無い。そういう方便がなき人々―輩のために阿弥陀仏は、その悲しみの人間の姿を洞察して、哀れみて悲しんて、その本願をおこし給わったんですよと。こういう言葉が『歎異抄』が成立するおよそ数十年前にもう出てきているんですね。この言葉をもって、親鸞聖人が『歎異抄』で「善人なをもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という言葉が生まれてきたと。ですからおそらく親鸞聖人は、直接法然上人からお聞きになったことを深い感銘の中で唯円さんに伝えていったんだろうと、こういうふうに思うんですけどね。
 
草柳:  今の第三条なんですけれども、最初にありました、つまりこれがいろいろと誤解を生んできた。この文言の中の、どこがどんなふうにして誤解を生み出してきたんですか?
 
山崎:  そうですね。やはり最初にやはり宗教だけでなくて、思想でも哲学でもそうですが、ある意味ではそういうものに非常に誤解がつきものであるし、異義がつきものであるということを、前にも申しましたが、ですから最初にちょっと申しますならば、教えというものに対して、私たちがどれだけ真摯、謙虚になり得るか。そのことがまず一つあると思うんですよ。私たちはなかなかそういうものに謙虚に真摯になれないというんでしょうかね。というのは、やっぱり自分の人生経験ですとか、わずかな知性とか、そういうものがありますから、そういう物差しで、例えばこの「善人なをもつて往生をとぐ」というものを見ました時に、とてもじゃないけれど、ついて行けないし、理解できないという世界が生まれてくると思うんですね。僕はそういう時、まず自分の問うことが大事ですね。疑問を持つことが大事なんですけども、そういう自分の物差し、思惑を一度引っ込めて、その「善人なおもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、本質的に、何を、どう、誰に示しているのか、ということを受け止めていくという謙虚さという言いますか、そういうものが大事なことではないか。私は大学卒業します時に、私の恩師が色紙を書いてくださったんですよ。それは「謙虚」の「謙」という字に、「尊敬」の「敬」ですね。これ仏教で「謙敬(けんぎよう)」と読むんですが、その下に「聞く」と書いたんですね。「謙虚に聞く」。そして「奉行」というのは「寺社奉行」の「奉行」なんですよ。だから「謙敬聞奉行(謙敬に聞きて奉行す)」という。親鸞さんが、真実のお経といった『大無量寿経』というお経の言葉なんですが、つまり「謙敬に、慎みやかな心で真実なるものを聞いて、それを自分が身につけて実践することが大事なことなんだ」と。その「謙敬(けんぎよう)」ですよね。その私の先生は、京都の大学の村上速水(むらかみそくすい)(浄土真宗の僧、仏教学者、龍谷大学教授:1919-2000)先生という方で非常に謙虚な先生でした。先生は昔ですが、学生紛争が大変な時に学部長になられたんですね。その時に僕にくださったお手紙は、僕は残してあるんですが、「私、無能と言われても、無責任だとは言われたくない」ということを、手紙に書いてくださった先生で、非常に誠実な先生でした。その先生が僕が学校を卒業して帰るときに、「謙敬に聞きてこれを奉行せよ」こうおっしゃった。つまり頭(づ)が高くなったらいかんという。
 
草柳:  そうですか。つまりそういう謙敬な真摯な気持ちで親鸞のこの言葉に向き合いば、よもや間違って誤解することは多分無いに違いないということはわかりませんが、ただやっぱり「悪人・善人」というふうな言葉が出てまいりますと、しかも善人―善いことをした人が往生できるんだから、悪人ができないはずがない。悪人の方を先に立てると。やっぱりこれはちょっと考えると、えっ!と思いますよね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  なぜだ?
 
山崎:  おっしゃる通りですね。これは最初に申しましたが、だから問いを起こすのはおかしいというのは、そういう意味でなくて、もう当然これは起こってくる問題ですよね。それが親鸞聖人の在世時代から大変大きな誤解を生み出した。またそれだけの内容、内実を持った言葉と教えだと思うんですよ。私ね、今週でしたけど、学生諸君に二百名に、ちょっとこの『歎異抄』第三条の小論文で書いてもらったんですよ。原文と、それから私が現代語訳したものをコピーしまして、その時に二百人いるんですけども、「この「善人なおもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」という言葉を知っている人、聞いたことがある人、手を挙げてごらん」というと、大体七、八割なんですね。高校時代の教科書で知っているんですね。ただ意味が理解されているかというと、「ほとんどわかりません」と。僕はほとんどわからないから、僕みたいに仏法に何十年浸かっている者よりも、新鮮なものがあると思って書いてもらったら、なるほどな、教えられることずいぶんありましてね。私、ちょっと意外だったのは、「善人が救われるから、悪人がなんていうのはナンセンスで、こんなものを考えられない」という学生が意外と少なかったですね。これちょっと意外でした。二番目は、「善人、悪人とそんなに簡単に決められるのか」「どういう人が善人で、どういう人が悪人なのか」。非常に生産的ですよね。こんなこともありましたね。それから「自分自身も暗黙のうちに自分が善人という立場に立っていた。そういうことを親鸞はここで問題にしているんではないか」。そういう学生もおりまして、僕、いくつか整理してみたんですね。それは「善のおごり、あるいは正義というものに対する根本的な疑問、そういうものを感じる」と書いた学生もおりましたしね。「まぁ今回言葉はちょっと聞いたことがあったけれども、しかしほとんどわからなかったことをじっくり考える時間が与えられて、仏教というのは実に底が深いんだなと。そういうことを感じた」という学生もおりましたね。そんな感想を読みますと、また僕の『歎異抄』の第三条の学びというのが、だんだん深まっていくような、そんな気がするんですよね。
 
草柳:  今、学生のアンケートの中で、その善と悪というものがそんなに簡単に峻別というか、分けられるものなのか。善とは何か、悪とは何かという相当根本的な疑問を感じている学生がいたということですよね。
 
山崎:  そうですよね。
 
草柳:  どうなんですか、この辺は、親鸞は?
 
山崎:  そうですね。ですからそういう場合に、善と悪をそんなに簡単に決められるのか、という場合には、申し上げるまでもなく、ここで言われている第三条の「善と悪」と彼らが考えている善と悪というものには、ずいぶん温度差があると思うんですね。
 
草柳:  どういうことですか?
 
山崎:  私は、『歎異抄』の第三条に於ける「善とは一体何か。悪とは何か」とか、「善人とは何か、悪人とは何か」ということを、整理します時に、ただ一般的な意味で法律的に善人とか悪人とか、道徳的に善人、悪人ということではなくて、この言葉を限定して考えますと、ここで言われる善人というのは、はっきり自力作善の人なんですね。ある意味でいうと、立派な方。さっき言いました仏道修行に全自分を投入して、仏になることに邁進することのできる方。こういう人が善人なんだかと。だけどどう考えても、そういう器ではありえないという、悪を深く自覚したり、目覚めたり、その悪の悲しみとともに、こんな私じゃとても仏にはなれそうもないよな、という。すると、阿弥陀仏の教えしか私の夜拠り所にないという見定めをした人。そういう人が悪人だという理解が、僕は第三条の親鸞聖人の中には出てきているんではないか。だから一般的な善悪というもの―ある学生の文にハッと思ったんですが、「僕らが習っている仏法では、善人とか悪人とか固定的なものはありえないんだ。善人が悪人になったり、悪なる人が非常に清々しいことをしたりとか、そういうこといっぱいあるじゃないですか。「善悪無記」なんていう。実体はないんだということを聞きながら、ここでは善人はこういう人、悪人はこういう人というのは、どうも理解できない」という学生も質問もありましてね。ですからここでは少し限定して、今申しました意味で、「善人とは自力で立派に仏道修行に堪えて仏になることのできる人」「悪人はそうでは無い人」ということを、ちゃんと整理する必要があるんではないか。その営みがないと、後でまた申しあげたいんですけど、一行目は、「善人なおもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」ということだけを切り取りましてね、考えた時に、僕も嫌というほど質問を受けてきましたが、まぁ極端にいわゆる「極悪非道」ということはどうなんでしょう。そういう酷いことをした人を持ってきて、「先生、この人も救われるんですか?」ということがあるわけですよ。「救われるでしょうね」というと、「こんな悪いことをした人が救われるんですか?」というときには、だいたいその人は自分が善い人だと思っているんですね。僕はそこがが問題じゃないかと思うんですが。だからなぜ私は固有名詞申しますが、こんな悪い奴が救われるというのは、どうも私は納得できないという前に、それはある意味では仮定の議論ですよね。それを「善人なをもつて往生をとぐ、というのがあるから、こんな悪人も救われるだろうか」と。そういう質問をする方は、「救われない」といってほしい思いが、僕はあるように思えて仕方がないんですよ。そんな人間が救われるのが仏法か、という疑問がありますから。そうでなくて、親鸞さんにしてみたら、「こんな悪人が救われるんですか」という、その前に、その悪人でなくて、「私が救われるんですか」というところに来ないと、ちょっとややこしいんですがね、この三条というのは正しく理解―領解することは難しいんじゃないかなと思いますけどね。
 
草柳:  ちょっと話が前に戻りますけれども、先ほどの学生のアンケートの中であった善と悪の問題ということで言いますと、確かに道徳的、倫理的な場面で考えれば。当然善悪ということは、たぶんきっと学生は、そこで考えていたということも多少あるかもわからないんですが、ただ仏教そのものが、一番教えの根本的基本的なところでやっぱりずーっとそれを言い続けてきませんでしたか。つまり「悪いことはするなと。善いことをしなさい。自ら浄めなければいけない。それが諸々の仏の教えいだ」という言い方をずっとしてきていますよね。それともつながりで考えると、どういうことになるわけですか?
 
山崎:  そうですね。ですからそういう意味では、おっしゃる通り、今おっしゃった「諸々の悪をなすことなかれ、善いことを行いなさいと。己の心を清らかにすることが諸仏の教えである」と、今おっしゃった。そういうものの中に、この三条はすごく段落がありますよね。僕は、例えば諸々の悪をなすことなかれというのは、どうでしょう。誰が見ても正しいことですよ。ですからやっぱり秩序を形成するものは道徳だと思うんですね。だから道徳の世界から言いましたら、悪人より善人の方がよほど価値がある人ですよ。認められる人ですよね。しかし教えとか宗教の世界になると、それがそのまま当てはめられるかということになると、必ずしもそうではないと。といいますのは、善いことをしなさい。悪いことをするのをよしましょうね。その金言と言いましょうか、大前提があるんだけど、僕は親鸞さんの中には、百も承知であるけれども、自分が生きてきた人生の営みの中で、悪と言われるものを一切してこなかっただろうか。とてもじゃないけど、そんなことを言えない。すると、悪をしてはならないということは、真理なんであるけれども、悪を犯し、むしろ善よりも悪を人間は好む。私の知っている富山県のユニークなお坊さんですが、僕が聞いたお話なんですが、この方が法話説教するときに、「聞いてください。人々の家に行って一人ずつ〈あなたは善が好きですか? 悪が好きですか?〉こう聞くんです。だいたい普通の方は、〈いや、それは善が好きですよ〉こうおっしゃる」。もう一回聞くというんですね。しつこいですね。「〈本当に善が好きですか? 悪が好きですか?〉というと、何人かの人は、〈やっぱり悪の方が好きですね〉という人が出てくる」。その人は、「それが自分の姿だという目覚めがない限り、親鸞さんの教え聞いたって、永遠に自分のものにはなりませんよ」というところから、法話が始まる先生でしたね。ですからそこから出発しないと、原理とか原則という形の中で善・悪を考えた場合には、非常にそれは観念的で、ですから親鸞さんは、そのことに大変深い自分なりの疑問をもたれたんではないでしょうかね。私はどうなんだろうか? すると、善どころか、悪そのものの中にしか、むしろ生きられない私は、善をし、悪を拒絶して仏になるという世界からは到底見放された世界としかいいようがない。じゃ私のこの人生を充実して、人生を深く少しでも豊かに生きる世界は他にないんだろうかというところから、私は親鸞さんという人の求道が始まり、結果法然さんに出会うというような、そういうところではないかなという思いが強いんですけどね。
 
草柳:  確かに道徳とか倫理というのは、まあ言ってみれば、やや相対的なと言いますか、例えばその自分はこれがよかれと思って、人にしたことをだって、その人にしてみればそれが本当に良かったのか、どうなのかということは、一概に言えないことってありますものね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  そんなことを考えていくと、じゃ自分が、今、本当に善いことをしているのか、どうなのか。自分がした行為がいいのかどうなのかという反省というか、内省というか、当然やっぱりそこできっと出てきますでしょうね。
 
山崎:  そうですね。ある仕事で、ある評論家と対談した時に、「人間というのは良いことをしている時が一番いけない時なんだと。悪いことをしているときは、むしろまともなんだ」ということをホッとおっしゃって、これ大事なことじゃないかなと。ひょっとしたら親鸞さん、だから自分も善人であり賢い。あの人は劣っている、悪人だというところに本当の善というのがあるだろうか。むしろ逆じゃないか、というようなことが、この『歎異抄』第三条を生み出した背景にやっぱりあるんじゃないか。だけど皆さん、僕らでもそうですが、善いと思われることをやっているときには、胸張って堂々とやるじゃないですか。でもそれが第三者にしてみたら、鼻持ちならないなんていうことも結構ありますよね。そのことに気づくか気づかないかの問題だと思うんですね。私、これも一つ思い出なんですが、三十代半頃に東京のある市で、若い二十代のお母さん方を集めて「中世の古典文化講座」というのがありまして、『歎異抄』を読んでほしい。私は参りまして、そうですね、熱心な若いお母さん、三十人くらいおりましたね。赤ちゃんたちを預かってくれるんです、別室でね。で、ゆったり二時間、十時から十二時まで。その時に『歎異抄』の話を三ヶ月ぐらい続いたんでしょうか。第三条の時に、そういう話をしましたら、私はニコニコして、「何かご質問がありませんか? なんでも」と言いましたら、パッと手を挙げた二十代のお母さんが、「親鸞の教えでいうと、どんな悪いことをしてもいいんですか?」。質問じゃないですね。ちょっと詰問なんですよ。こわい顔してね。「どんな悪いことをしてもいいんですか?」というその受け止め方をなさったでしょうね。僕、それ一般的だと思うんですよ。今出てきたように。私、その時とっても恥ずかしい話をするんですがね。今だったらちょっとニコニコして、ちょっと余裕があったと思うんですが、六十過ぎて。三十代半ばで若いというのはやっぱりだめですね、傲慢ですね。「何をしてもいいんですか!」と言われたんで、私は、「失礼ですけど、あなたが生まれてからこの方、悪いということを何もしてきませんでしたか」と言っちゃったんですよ。そうしたら白(しら)けちゃいますね。シーンとなっちゃった。僕は、「何でも質問してください」と、ニコニコしている言いながら、質問を遮断しちゃったんですね。僕、今でもそれ忘れられない失敗といいましょうか。もうこの後発展しないわけですよ。その人若いお母さん下うつむいちゃいますし、ぼくはえらい罪悪感を感じましてね、とんでもないことを言ってしまったな。だけどその方にしてみたら、まさに率直な問いだったんですね。ある意味では一般的な問いですね、この三条に関しましてはね。その問いを僕が頂いて、「こういうことじゃないでしょうか」と返事しなければいけないのに、そうしてしまったという、僕は失敗談があるんですね。もう一ついいでしょうか。僕は教員なんか長年やっておりますと、本当に前に申しましたけども、だいたい教員なんていうのは、十年やっておりますとダメになりましたね。一人一人の、一つ一つ輝く命をどう輝かせるかなんて口で言いながら、もう悪いけどね、心の中ではもう三十年もやっておりますと、そういう思いがだんだん後退しちゃいますね。そういう時に、さっきの学生の小論文じゃないですけどね、学生が書いてくるレポートでハッとさせられる。僕の軌道修正を図られることがずいぶんあるんですよ、草柳さん。だからねちょっと教員やめられないみたいな。ぼろくそに言われることありますよ。ですけど、そういうものがあります。ある時、学生が最後にレポート―小論文を書いてもらったときに、簡単に申しますと、彼女はすごく真面目で、九時からの一時間目の授業に、皆さん月曜日の一時間目の授業で仏教の話、僕から聞きたくないですよ、学生は。仏教聞くために入学したわけじゃないですから。僕いつも良くいうんですよ。この頃、天気が悪いでしょう。明日もそうなんですがね。雨なんか降っていて、僕が出て行って、「ブッダがなんて」言ったら真っ暗になりますよ、教室が。そういう時に、彼女は真面目ですからね、一番前の席で―自由な席なんですがね、一度も休まないんですね。皆勤。遅効もしない。随分真面目な学生だなと思って、そういう真面目さに惹かれて僕らは講義するんですけど。その彼女がレポートに書いた時に、こういうことを書いたんですね。「私は自分で真面目な性格だと思って今まで生きてきた。だけど、授業が終わる三十分ぐらい前に入って来て―僕も学生やっていたからよくわかるんですが―出席してもらう学生がいる。そういう学生は私は許せない。私は六時から出て来て、九時に参加するんですから、とんでもない学生だ、ということを思っていた。だけど一年間、お互いに親鸞という人の授業ですね、講義を聞いたときに、疑問を持ったのは何かというと、そういう自分の真面目さが問われた、というんですね、親鸞さんに。確かに真面目なんですよ。どっから見ても真面目なんですね。だけども、その真面目な自分が真面目であるという物差しで、そうでない人をさばいているという自分の真面目さ。自分がまともだと思っていることが、本当にまともなんだろうか。実は親鸞という人はそういうことをここで言っているんではないか。自己が善人だと思っていると、とんでもない。自分が賢い。学歴がある、業績がある、人の上に常に立つべき存在。実はそんな危うい生き方は無いんではないかということが、この三条に表れているんではないか」ということを書いた学生がいて。
 
草柳:  見事ですね。
 
山崎:  あんまりいないんですけど、そういう学生は。ですが、僕は今まで覚えているぐらいちょっと感銘を受けました。そういう形で主体的に受け止めたんですね。「善人なおもつて往生をとぐ」という、こんなバカなことって、言葉だけを切り取って、観念的に考えるのではなくて、自己にこれを照らし合わせたときに、何も私なんか大した人間じゃないなというところから出発すると。今まで自分が高いとこに立っていますと、人を馬鹿にしますから。人の素晴らしさ見えませんよね。真面目どころじゃないという、ゼロに返ったときに、かえってそういう今自分が批判していた人たちの素晴らしさまでが、僕は彼女にこう光って見えてくるんじゃないか。
 
草柳:  それは素晴らしいですね。
 
山崎:  そんな経験をしたことがありましてね。
 
草柳:  自分のこととして、自分に照らし合わせて考える。受け止めるということは、多分これはきっとすべてのことの出発点と言ったっていいくらいなものですよね。
 
山崎:  はい。ただ僕は本当に一番ね、わが身を通すなんて、僕はいつも口癖のようにいうけど、実はそれが一番難しいことですよね。
 
草柳:  親鸞という人は、そのことを、嫌というほど繰り返し繰り返し自分にこう突きつけながら深めていった、ということになるわけでしょうね。
 
山崎:  そうですね。そういう意味では、本当に良い悪いじゃなくて、たぐい稀な内面性を持った人であるということだけは疑いないとこだと思いますね。
 
草柳:  前回お聞きしたあの有名な言葉を、今、思い出したんですけれども、「いずれの行もおよび難き身なれば」という、「とても地獄を一定すみかぞかし」。あの覚悟というか、つまりそういう覚悟を自分の中に生み出すということまで、いったいどのぐらい大変なことだったのかということが、お話を聞いていてちらっと思ったんですけれども。常にやっぱり自分のこととして考える。その凄さというのは、やっぱり親鸞に透徹してずっとあるということなんでしょうかしら。
 
山崎:  そうですね。そしてまた本質的にいえば、そうでないと教えというものとの本当の深い出会いというのはないんでしょうね。私の好きなおじいちゃまだったんですが、亡くなった方がすごい親鸞ファンなんですねよ。僕は、「フアンになっちゃいけませんよ」というんですが、その方はものすごいフアンで、難しい本から何からもう僧侶顔負けに読んで勉強していらっしゃるんですよ。僕はちょっとそれが不満だったのは、その代わりね、いいか悪いかわかりませんけど、本を読んで勉強するんだけれども、人の話は一切聞かないんですね。聞く必要がないと思っているんです。私は、書物から学ぶことも大事だけれども、親鸞聖人が法然上人に出会ったときに、言葉を超えた交流というものがあった。ピンとくるものがあったように、面綬と言いますね、顔を合わせてその人と出会ったり話をするということになると、言葉以上に大事なものがこっちに伝わってくるということがあるじゃないですか。だから私は読むことも大事、書くことも大事。だけどそういう人と出会うということ。仏教で「師を持つ」なんていう言い方がありますが、師でなくてもいいですが、そういう人と出会って、呼吸を共にする、その場で。その時間を共有するということが、すごく大事だと思うんですね。ですから私は法然上人のことを、ただ活字でもし親鸞聖人が学んだとするならば、このような感銘というのは、「善き人の仰せをこうぶりて、信ずるほかに別のしさいなき」という世界は生まれなかったんではないか、ということも感ずるんですけどね。
 
草柳:  三条の中にある善と悪というのは、つまり世俗社会の善悪を超えたものというふうに見ていかないと、やっぱり筋道はちょっと分かりにくくなりますね。
 
山崎:  そうですね。僕は、帰するところはそこだと思うんですね。いつも申しますけど、やっぱり私たちは、僕自身も道徳の呪縛というのをね。僕は学生諸君に、「道徳とか常識というものでずいぶん間違いがあるんだよ。絶対不変なんていうのはありえないんだ。だからそういうものにはきちっと問うと言いましょうか、懐疑することが大事なんだよと言いながら、ほとんどがしかしその道徳・倫理、そして仏教というものも道徳を補うものぐらいにしか、長いこと僕は考えられていなかったような気がするんですね。究極は仏になるということですから。迷いを超えて、真実と出会って、真実に生きるということが成仏ですから。すると、人間の作った道徳でありますとか、その他もろもろのものはあくまで相対的なものでしかないということがあるわけで、だから仏の教えに生き、仏道を歩むということは、そういう世俗の道徳・倫理、あらゆるものの誤りが見えてくるということだと思うんですけれども、道徳に何かこう上乗せするようなつもりで第三条を読もうとすると、これは当然誤った理解が生まれますし、もう一つ言わしていただくと、僕は前に申しました八木重吉という人が、「信仰以外から私は信仰を解くまい」。だから命の問題というのは、仏法の問題は、人間の生きる現実の問題から解こうとしないと。道徳で解こうとしたり、科学で解こうとしたりしても―道徳も大事です、科学も大事です―ですけど、仏法のことは仏法の場からきちっと問いかけることによって初めて答えが出てくるんではないか。僕、この第三条を今日も私の家から渋谷のNHKまで大体四十分ぐらいです。短いですから何十回も読んできましたけどね。読めば読むほど、あ、そういう姿勢が大事なんだなということを、今日も感じながら来たんですけどね。
 
草柳:  ところで、山崎さん、先ほどですね、第三条の中の言葉の一つとして、「自力を翻して」と、この言葉が大事だとおっしゃいましたですね。あれはもうちょっと言っていただくと、どういうことなんですか?
 
山崎:  そうですね。先ほどちょっと出ました「自力を捨てる」ということ。「翻す」。もう一ついいますと、「自力の心を翻される」という言い方をしたいんですね。といいますのは、親鸞さんが自力というのは、我が身―肉体ですね―我が身を頼み、我が心を頼み、我が力を励み、我が様々の善根を頼む人。つまりそのことによって迷いを超えて仏になる人ですから。とことん自己ですよね。自己から出発し、自己の力量の能力を全開して仏になるというところですから。しかしその自己の力を全開しましても、なかなか私たちは残念ながらエゴイズムと言いましょうか、自我といいましょうか、だからひょっとしたら、修行ということ自身も、自分の都合の中で考えて、仏になろうとすることさえもなんか自分の都合で考えて、ひょっとしたらそれも自分の欲望の一つとしてあるかもしれない。そういうものを持っている私たちは、とてもこの道では純粋無垢な仏道修行と仏になる道を歩めないということを、阿弥陀仏の教えと出会うことによって知らされたときに―心はなくならないですけどね、僕らは―翻されていく。つまりそれが誤りであって、救い、仏になる上で成就し得ないものなんだと気付かされるといいましょうかね、そういうことによって自立の心を翻してということが、そこで私は出てきたんではないか。だからそれは阿弥陀仏の本願の他力との出会いによって、心が翻されていくという。十六条でも出てくるんですね。回心(えしん)ですね。元の心を翻して、それは日常の心で私たちが生きている。日常の心というのは、僕ら欲に埋没しているんじゃないですか。お金があれば、地位があれば、名誉があれば、いややっぱり健康ですよ。前に申しましたけどね、「いや、先生、なんだかんだ言ったって健康ですよ」。健康第一主義。健康のために死んでもいいということを、前に申しましたけども、そういうものの中で生きている私たちが、だけど本当にそうなのか。一人一人の僕自身の命の深い「生老病死」という問題を考えた時に、そういうものが拠り所と根拠になるのかということを気付かされた時に、つまり元の心を引き替えて、つまりそういう心では生きられないという目覚めがあったときに、その心を翻すことが回心ということなんだと。そのことに僕は繋がっていくんではないかと。 一ついいですかね。この戦後、一九四五年以降は、親鸞聖人の研究が非常に進みました。悪人とは誰のことであるかという歴史家が参加して、非常に議論が生産的になりましたね。例えば悪人とはいわゆる一般の人のことであるという人もいるし、農民であるとか、あるいは当時の八百年前の社会の中で虐げられていた商人のことであるとか、あるいは武士のことであるとか、いろんな考えが赤松俊秀(あかまつしゆんしゆう)先生とか、服部之総(はつとりしそう)という方であるとか、家永三郎(いえながさぶろう)さんですとか、名前で恐縮ですが、二葉憲香(ふたばけんこう)という先生によってその議論が非常に戦後賑やかに展開されたことがあるんですね。しかしいろんな議論がありますけど、そういう階層的な問題も踏まえながら、私はやはりこの第三条を見ますと、この悪人というのは、やっぱり人間が根源的に自分の中に抱え込んでいるところの人間としての罪業とか罪とかいうものを持って、常に非本来的な生き方。どういう生き方が本当の生き方かなんていうことでなくて、実に非本来的な生き方をしている、そういう人間存在を、そしてそういう目覚めを持った人は、自力の仏道でなくて、他力を頼み奉らなければ、仏にはなれないという。そういうところにつながっていく。僕はそういう悪人観をもつんですね。
 
草柳:  その悪人ということでいうと、親鸞は『教行信証』という本の中で、仏教説話というか、つまり阿闍世王(あじやせおう)の話というのを非常に細かくを言いますか、重大なこととして、大きな出来こととして書いておられるんだそうですね。そこのところをちょっと読んでみたいんですが、こんなふうに書いているようです。
 
善男子(ぜんなんし)、わがいふところのごとし、
阿闍世王(あじやせおう)の為に涅槃(ねはん)に入らず。
・・・われ〈為〉といふは
一切凡夫、〈阿闍世王〉とはあま
ねくおよび一切(いつさい)五逆(ごぎやく)を造るもの
なり。・・・
〈阿闍世〉とはすなはちこれ煩悩
(とう)を具足(ぐそく)せるものなり。
(教行信証)
 
というふうになっているんですが、ちょっとこれを、
 
山崎:  そうですね。「善男子」ですから、皆さん良き者たちよ、「わがいうところの如し」ですから、今まで私が説いてきたとおりである。悪役の王と言われる阿闍世王、その阿闍世のために私は悟りの境界に入らない。「涅槃に入らず」。そして「われ〈為〉というは」阿闍世の為というのは、この字が非常に重要なんですけれども、一切の生きとし生ける不完全極まりない凡夫―私たち人間ですね、「阿闍世とはあまねくおよび一切五逆を造るもの」ですから、悪役の阿闍世という王子は、つまり仏法で説くところのあらゆる罪、とりわけ五逆―父を殺し、母を殺し、仏道修行者を殺したり、仏身から血を流したり―仏様の体から血を流し、それから五番目は集団の和合。仏教ではサンガ―和と訳します。その和合を破る。これが五逆ですから、一切五逆だから、その他一切の罪を造るもののことであると。「阿闍世とはすなわちこれ煩悩―怒り、腹立ち、妬みですね―煩悩等を、何一つ欠け目めなく備えているもののことであると。
 
草柳:  親鸞は、この阿闍世王の話というのは、もっと古い経典の中にあるものなんでしょう。なぜこの親鸞は特にこの阿闍世に対して、これだけいろいろ言っていたんですか?
 
山崎:  そうですね。私は単に三条を考えていますけど、親鸞聖人といえば『歎異抄』。『歎異抄』といえば第三条になっていますよね。ですけど、私は第三条の「善人なおもつて」というこの教えを形成する一番強い背景と言いましょうか、ものとしましては、この『涅槃経』のあの悪役な阿闍世が救われていく。しかもその人のために私は仏にならないという。しかもその阿闍世というのは五逆を造るものであるとかね。ということは、そこに僕は、イコール(=)親鸞さんは自己というふうに受け止めたいんでしょうね。一切の悪を造るものが阿闍世というものなんだ。昔、昔あるところに悪役の王子がいましたよ。とんでもない人でしたよ、というふうに受け止めなかった。その受け止め方、その中に僕は親鸞さんらしい求道者親鸞。親鸞さんは九十歳までそのこと一つと言いましょうかね、いかに生き、いかに死するには、どういう道を生きるべきであるかという、そのことに命をかけた親鸞聖人らしい受け止め方。普通例えばそういう経典を読みましたらそんな人間がいたのか。私は違うぞ。よく草柳さん、テレビ見ると、悪いことをした顰蹙をかうような人が捕まりますと、私たちどういう目で見るでしょうね。なんと悪い人間がいるんだろうか、という思いを持ちますが、親鸞さんにしては、そうでなかったんでしょうね。様々なご縁によってこういう悪いことをした人がいる。私も全く同じことなんだ、という受け止め方が、阿闍世というような五逆を造るもの=私という。ですから、この『教行信証』という膨大な書物にご承知のように、ほとんどが引用です、文献の。
 
草柳:  そうらしいですね。
 
山崎:  九十パーセント引用なんですよ。だから江戸時代華厳宗の鳳潭(ほうたん)(江戸時代中期の華厳宗僧。鉄眼禅師に師事。奈良や比叡山で諸宗の奥義をきわめ、江戸において大聖道場に華厳教学を講義し、諸宗の学者と論争した)という坊さんは、これを見て「狂い人―狂人の書だ」としてこれを捨てたという話があるんです。ということがありますけれども、その中でも一番例外なく三十六枚にわたりまして―六ページじゃないんですね― 三十六枚にわたって、この『涅槃経』のこの阿闍世の救いのところをズーッと引用しているんですね。だから僕はいかに親鸞聖人がこのところに深い感銘を思って共感していかれたかというのが、今お読みいただいた言葉だなという。
 
草柳:  その後、こういう文言があるわけですね。
 
その時に、世尊大悲導師(せそんだいひどうし)
阿闍世王(あじやせおう)のために月愛(がつあい)三昧(さんまい)に入れり。
三昧に入りをはりて大光明を放つ。
その光清涼(しようりよう)にして、往(ゆ)きて王の身を
照らしたまふに、
身の瘡(かさ)すなはち癒えぬ。
(教行信証)
 
これはどんなことを言っているんですか?
 
山崎:  そうですね。これがそういう悪役の阿闍世が救われるということを説いた『涅槃経』の部分ですけどもね。これいくつかありますけども、この前に阿闍世王が『涅槃経』の中に、「我が身心を療治する良い医者がいるであろうか。悪逆の行いによって体も心も病んでしまった。救われようがない。体中にできものができてしまった。それはひどかった。その臭いがひどくて、誰も近づくことができないという。それはそのお経では心から生じる病であるから、ただ薬を塗ってもそれは治らないんだ、とこう書いてあるんですね。そういう私の病気を治す医者は、おそらくいないであろうという言葉があるんですよ。その時に側近の耆婆(ぎば)というお医者さんが、「いや、如来はこの光明―光を放って、王の体を照らして体を治し、しかるのちに心の病―父を殺し、悪役の行いをしたその心の病を、後にお救いくださるに違いないという、こういう言葉がありましてね。そして先程の「世尊大悲導師」ですから、お釈迦様ね、この釈迦牟尼世尊は大悲の導師と現代語訳では読みたいんですが、大いなる智慧と慈悲を実践する―導師というのは、迷いの人々を導く師ですからね。阿闍世王のために、月の愛の三昧。「月愛三昧に入れり」とこう書いてある。
 
草柳:  どういう意味ですか? 月愛三昧といいますのは?
 
山崎:  これは「三昧」ですから、悟りの境界なんです。いろんな悟りの境界ありますが、「月愛三昧」と言いますのは、つまり一つのたとえで、月の光なんですね。月光。『涅槃経』のその後に出てくるんですね。月の光が全ての青い蓮華の花を鮮やかに開花させる。月光が照ると青い蓮の花が鮮やかに開花する。それは衆生に阿闍世という人に、善心ですから良き心を起こさせる働きがあり、そしてそれはちょうど月の光が暗い道を行く人に喜びを与えるようなものであるという。だからその阿闍世の悲しみの場に世尊が立たれて、そしてその悟りの智慧による月光、つまり月愛三昧ですね。この頃のあれですよね、月の光の尊さということを考える人はいませんよね。今の社会は夜が明るすぎて、かえっておかしいと思うんです。僕は子供の頃暗い時に月が出ていますと大変重宝だったではないですか。月愛三昧、そういう悟りの智慧を、光を照らすことによって、まぁ阿闍世が救われていくという。こういうことがこの『涅槃経』というお経の中に説かれているわけですよね。
 
草柳:  ということは、親鸞がこれだけ阿闍世王の境界で、思い入れがあったということは、つまりこれは親鸞の自分のこととしてと言いますか、つまり親鸞=阿闍世王だったんでしょうか。
 
山崎:  そうですね。ですから仮に経文の中で、経典の文言の中で阿闍世という男が、ブランクになっていましたから、僕はそこに親鸞さんは、「親鸞と自分が入っていった」とおっしゃるように、そういう立場でありませんと、こういう領解とか理解というのはとてもでてこないだろうという。ですから『涅槃経』のこの三十六枚の部分を「逆謗摂取(ぎやくほうせつしゆ)」と言いまして、五逆という罪を犯し、そういう誰も相手にされないような、そういう人も必ず摂取―摂(おさ)め取って幸せの人生を生きることができ、浄土に生まれることができるという「逆謗摂取」というものをあかした箇所であると、後代の学者はその部分を言い表しているんですね。その言葉が表しているように思いますね。
 
草柳:  今日はその第三条をズーッとお聞ききしてきたわけですけれども、もちろん誤解をしたくない。唯円がこれをわざわざ取り上げたというのは、一番ここが誤解をされやすいところだということもあるでしょうけども、今日のこの第三条の内容から親鸞の教えとして、我々が一体何を課題としてと言いますか、学んだらいいですか?
 
山崎:  そうですね。私の尊敬する長野県の高松信英(たかまつしんえい)先生という方から教えていただいたことですがね。今飯田女子短期大学学長の先生が、こういうことをお書きになっているんですね。それは学生にこの文章を書かせた。その学生が山の中の家に休みで帰ったというですね。おばあちゃんが鶏を潰して料理をしていた。そうしたらお嬢ちゃんが、「おばあちゃん、鶏だって生き物なのに何でそんな残酷なことをするの!」ということを言ったらしいんですね。その時のおばあちゃんの言葉が、「私だってこんなことやりたくない。だけどこの村では昨日今日じゃない。八十年間これをやらなければ一日たりとも生きていけなかった」こう言うんですね。その時に彼女は気づいたんですね。「おばあちゃんは小学校しか出ていない。しかし『歎異抄』を勉強している私以上に『歎異抄』の世界を生きているんだ」こういうことを書いているんです。だからそれは何かというと、私たちが、嫌なこと、きついこと、汚いことを人に任せて、残酷なことを人に任せて、自分だけは善人のような顔をして僕ら生きているんじゃないですか。そのことが僕は、『歎異抄』がこの八百年の時代を超えて、今日の私たちに本当に「善なんですか? 本当に正義なんです?」。この頃の世の中にも凄いですよね。政治家でも、教育者でも、宗教者でもおぞましいこと、どっかの銀行の総裁までいろんな問題があって非常に悲しい状況がある。そういうことを考えた時に私はそれはそこに忘れられているのものは、「自己を善という場に立てている」という、そういうことをもう一度私たちは謙虚に教えに問うてみるということが大事じゃないかと。そんなことを考えます。
 
草柳:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成十八年七月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである