歎異抄を語るG念仏者は無礙の一道なり
 
                    武蔵野大学教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
                    き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「歎異抄を語る」。今日はその第七条を取り上げることにいたします。この第七条には、「念仏者は無礙(むげ)の一道(いちどう)」という、また『歎異抄』の中では大変有名な一節が出てくるわけですが、この「無礙」という言葉、字義どおり解釈しますと、例えば障りなきというふうな意味にとれるわけですが、「無礙の一道」というのはいったいどういうことなのか。いつものように武蔵野大学教授の山崎龍明さんにいろいろと今日も伺っていくことにいたします。どうぞよろしくお願い致します。
 
山崎:  よろしくお願いします。
 
草柳:  ということで、今日の「念仏者は無礙の一道」というのもこの『歎異抄』の中では大変有名な言葉なんですよね。
 
山崎:  そうですね。『歎異抄』の中でも、名句と言われている言葉ですね。ただ必ずしも分かりやすい言葉ではないですね。
 
草柳:  そうですね。なかなかすんなり入ってこないんですけども、普通「無礙」の「礙」というのは、障(さわ)るということですね。障りがあるでしょう、それがない。その一道、一つの道というのは、まぁこれも字義どおりというか、言葉通りに解釈していくと「障りなきひとつの道」ということになりますよね。
 
山崎:  そうですね。人生上の障りですね。生きる上での障りなきひとつの道と言いましょうかね。言葉ではそうなりますけれども。
 
草柳:  しかしここで言っている「障りなき」というのはいったいどういうことなのか。
 
山崎:  そうですね。ストレートに申しますと、僕らが生きる上での、例えば生老病死と言いましょうかね、生きる、老いる、病む、死。そういうものを目の前にした時のさまざまな苦しみですとか、悲しみですとか、寂しさ、そういうものをこの「障り」と申しあげてもいいんじゃないでしょうかね。その他もろもろありますけれどもね。
 
草柳:  例えば「障りがない」というとすぐに思い浮かべるのは、つまりそれは「自由ということか」というふうにも思えるんですが、というふうに単純に取ってはいけないわけですか。
 
山崎:  そうですね。やはり第七条を、「無礙の一道を絶対自由の大道を歩くものである」という現代語訳が、ずいぶん調べますと多いようですね。ただ私は今おっしゃったように、「無礙」というものと、「自由」というのが、言葉の厳密な意味において同じなのか違うのかということは、すごく重要な問題じゃないかと。私は若干違うと思っているんですけどもね。
 
草柳:  その辺は後でじっくりお伺いしますが、それと「一道」ということですから、それは単なる点ではないわけですね。「道(どう)」ですから、道(みち)ですから。
 
山崎:  「一つの道」ですから、あたしはこれ仏教の方で「白い道」と書きまして「白道(びやくどう)」開かれた「真実(まこと)の道」というんでしょうかね。あるいは「仏道」といってもいいですね。単なる「ひとつの道」というんでなくて、教えの関わりの中で生まれてくる開かれた道―人生道といってもいいですが、そういう意味を持っているのがこの「一道」という言葉の深い意味ではないかなと理解していますけどね。
 
草柳:  ともあれ、その原文をまず読んでみたいと思うんですが、
 
念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神(てんじん)・地祇(ちぎ)も敬伏(きようぶく)し、魔界・外道(げどう)も障礙(しようげ)することなし。罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。
 
ということなんですが、まずこれを例によって現代語ふうに換えて頂けますか。
 
山崎:  そうですね。実に端的な明快な文章ですけれども、内容的には非常に豊富な、ある意味で僕は、親鸞聖人の全宗教観を凝縮したような、そういう大事な文言だと思うんですね。私なりに現代語訳いたしますと、念仏の教え、あるいは教えに生きる拠り所を置くものはさまざまな人生上の悲しみ、あるいは苦悩ですね―苦しみ悩みなどを無駄にすることなく、それを乗り越える確かな世界に生きることができます。「無礙」というのを、僕はそういうふうに理解しているんですがね。それを「無礙の一道」と言います。なぜならそのような生き方をしている人々には、天や地のあらゆる存在がその生き方を尊敬し―念仏者の生き方を尊敬し、又魔―悪魔の魔ですけども―魔と言ってもよい存在、あるいは異なった教えに生きる者―異教徒といってもいいでしょうか、そういう人々のその教えに生きる人の生き方を妨げることは出来ません。この一つの道に―白道ですね―生きる人には、自分が犯すところの罪も悪も、その報いを受けることはなく―これはまた大変大事なところですから後で詳しく申しますが―自分が犯すところの罪も悪もその報いを受けることがない。したがって救いの妨げとはなりません。悪いことも、あるいは善き行いも、私たちの救いの前には全く関係はないのです。なぜなら悪いことをやめ、善いことを励まなければ救われないというのが阿弥陀仏の世界ではないからですと、親鸞聖人が仰せになりました。こういうふうに私は現代語訳をしているんですけれども。
 
草柳:  その「無礙」ということなんですが、今おっしゃるように様々な生きていく上での障り、本当に諸々たくさんありますね。つまりそれを山崎さんは、「乗り越えて」とおっしゃいましたですよね。「乗り越えて」というのはどういうこと?
 
山崎:  ですから先程の申しました僕らが生きていく上での様々な苦しみというものをすべからくなくすことができるのかどうか。仏教の考えから申しますと、そういうものはなくすることのできないものなんだと。つまり生も老も病も死もですね。ですからそういうものを自分が乗り越えるというのは、乗り越えられないものと受け止められた時に、現在地に立つというんでしょうかね、乗り越えたときに、また別の世界が開かれてくるんだと。それをなくすんではなくてね。その中に自己が生きるというんでしょうか。だから乗り越えられないものだと知ったときに、そういう目覚めがありました時に、それは乗り越えることが初めてできるんではないか、という意味で「乗り越える」という言葉を使ったんですけれどもね。
 
草柳:  もともとそういうことって考えてみれば、なくすことっていうのはほとんど不可能ですよね。
 
山崎:  ですね。ただなくすことができるものなら、なくすために一生懸命努力する方向が一つあると思うんですよ。ただ人間が生きていく上でまつわるそういう根本的な問題―苦悩というようなものは、なかなかなくなるものではないという一つの諦観(たいかん)と言いましょうかね、目覚めがやっぱりそこで決定的に大事になってくるんじゃないかと。
 
草柳:  それを乗り越えていく道を、この「一道」というのは、つまり本来そうなのだということを言っているのか、それともそれを目指すような生き方をしなければいけないというふうに言っているのか。あるいは別のことを言っているのか、その辺はどうなんですか?
 
山崎:  そうですね。やはり仏教の根本的なものの考え方と申しますのは、やはり事実を事実のままにきちっと見届ける―これが目覚めですね。ですからこれは乗り越えられないものを乗り越えられないものとして、きちっと自己認識と言いましょうかね、認識していくということが、その根底にはやっぱりあるんではないかと思うんですよ。
 
草柳:  親鸞は『教行信証(きようぎようしんしよう)』という本を書かれていますよね。その『教行信証』の中でこのことについて当然触れているわけなんで、それをまた読んでみたいと思うんですが、ここで言っていることというのは、まず読んでからお伺いいたしますが、こういう文章なんですね。「道」ということについての親鸞の考えを述べているわけですが、
 
〈道(どう)〉は無礙道(むげどう)なり。『経(きよう)』(華厳経(けごんきよう))にいはく、〈十方の無礙人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無礙道(いちむげどう)なり。〈無礙〉は、いはく、生死すなわちこれ涅槃(ねはん)と知るなり。
 
ここもまた大事な言葉が出てきているようなんですけれども、最初のこの「道は無礙道なり」無礙道というのはこれは?
 
山崎:  そうですね。この場合の「道(どう)」というのは、仏教では私は、「道(みち)」と書いていますけど、「教え」とこういうふうに理解してもよろしいんではないかと思うんですが、改めてお読みになったのをお聞きしますと、なかなかこの言葉そのものはすごく難しい言葉ですね。しかしこの『華厳経(けごんきよう)』というお経は、ブッダが初期に説かれた経典で非常に重要な経典ですが、親鸞さんも非常にこの『華厳経』を注目いたしまして、大事なところで八箇所引用しておりましてね。この言葉なんかもひょっとしたら人間の迷いと悟りというものを考える中で大変重要な意味を持った言葉として、親鸞聖人が引用したんではないかと思うんですね。簡単に申しますと、「道(どう)」というのは、教えによって生きる道のことですと。『華厳経』という今申しましたお経には、十方のあらゆる無礙人―ですから、いろいろな苦しみ悲しみをきちっと乗り越えたところの仏ですね。「諸仏」といってもよろしいんですが、十方の無礙人たる諸仏は、その一つの教え―一道ですね、一道によって迷いを超えたと説かれていますと。『華厳経』にはこう説かれているわけですね。で「一道」この一つの道―一つの教えといってもよろしいんですが、 一つの道というのは、これは一つの一無礙道のことである。じゃ「無礙道」というのはいったい何か。「無礙」とは、結論的なことですけどね、迷ういと悟りというものが、本来二つのものでないと目覚める世界ですと。これは難しいですけどね。つまり迷いと悟り、ある意味で対立概念ですよね。
 
草柳:  そうですね。
 
山崎:  その迷いと悟りというものが、本来ですから、本質的に全く別の次元のものではない。だけど草柳: さん、現象としては迷いと、そして悟りというのは二つですよね。明らかに二つですよね。それは本来全く無関係なものが二つというんじゃなくして、仏教では、「二つにして二つにあらず」という言葉があるんですがね。「而二不二(ににふに)」いうんですがわかりにくいですが、「無礙」というのは、迷いと悟りというものは、本来全く別のものではないということに目覚めることですと。知ることですと。このように「不二」と言いますか、「不二」二つにして二つでない、という姿に入ることが、実は「無礙」というものの姿なんですと。どうでしょうか。僕のもう少し他の言葉で言いますと、私たちが生きていく上での様々な迷いというのがあるじゃないですか、人生ね。その迷いというものがあるから、その迷いが教えの働き、教えの力によって、あるいは教えの導きによって転換―転成(てんじよう)された時に、それが悟りにつながっていくんだ、というふうに、僕は理解をするんですけどもね。
 
草柳:  この辺は今日のキーポイントの一つだと思うんですけども、明らかに対立した、つまり「悩み・苦しみと悟りというのは、当然別々のものだ」というふうに、普通は当然考えるわけですよね。それが「いや、そうではないんだ」というのは相当わかりにくいですね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  つまり何故そうなのか。もう少しお話していただくと、どういうことになりますか?
 
山崎:  そうですね。今おっしゃったことを自分で受けとめますと、要するに私たちが生きていく上では、先ほどから申し上げたいろんな人生上の苦しみ・悲しみ・悩み・迷い―生死ですね―迷いですね。そういうものが紛れもなくありますよね。しかしその迷ういというものがなければ、僕はよくこういうことを考えるんですけどね。我々が生きていく上でいろんな苦しみとか悲しみ、切なさ、いろんなものがありますよ。その苦しみ・悲しみというものが、ただ単なる苦しみ・悲しみだけでなくて、その苦しみ・悲しみが何かの出会いによって、また逆にそれが無駄でないというんでしょうかね、喜びに転換されていくという、そういう場っていうのはありますよね。もっと言ったら、なかなかいうことを聞かない子供―僕も二人の子供に恵まれていますがね―なかなかいうことを聞かない子供。いくら筋道立てて、「これはそうではないんだ、そうではないんだ」といっても、なかなか自分の思い通りにならない。私にとっても、それは一つの苦しみですよね。またときには悲しみかもしれません。だけどそれが相手がそのことに気づいて、自覚してわかってくれた時に、私にはどういう世界が生まれるかというと、喜びが生まれますよね。その苦しみとか悲しみが逆に深ければ深いほど、それは転ぜられたときの喜びというのは、大きなものが逆にあるんじゃないでしょうかね。そういうだから喜びと悲しみの関係、それを僕は迷いというものと悟りというものとの関係に考えたらどうかなと考えているんですけどもね。
 
草柳:  その「生死即涅槃(しようじそくねはん)」ですよね。それは別の言葉で言えば、「煩悩即涅槃」というふうに言ってもいいだろうと思うんですが、いずれにしても対立する現象、それが一つだと。じゃもし仮にそうだとして、じゃそれはいったい何を言い表せろうとしているわけですか、そのことによって。つまり「生死即涅槃だ」ということで、親鸞聖人は何をそのことによって言おうとしているわけなんですか?
 
山崎:  それは人間の、僕は悲しみと言いましたけど、人間の悲しみというのは、決して悲しみだけで終わるんではなくして、悲しみがまた癒される場というのは必ず存在するんだということから、僕はこの言葉の「生死―迷いがすなわち涅槃である」というのは、実はそういうことを言い表そうとしているんではないかなと考えるんですけどね。別々に、さっき言ったように二元的に、全く無関係に存在するものでやったら、悲しみが癒される場合もないし、場もないし、また救いにつながるという場もないけど、そういう関わりではないんですよ、ということが、生死が―迷いがそのまま悟りなんだという。そのあたりではないかと思っているんですけどね。
 
草柳:  しかしそれはそれぞれを、例えば「生死」「煩悩」とは、一体何なのかということを徹底的に突き詰めて考える。あるいは「涅槃―悟り」というのは一体どういうことなのかということを徹底的に突き詰めて考えるということだけでは、なかなかやっぱりうなずけるところまでにはいかないんではないかと。あくまでもそれはたぶんどこまで行ってもバラバラだというふうに受け止めてしまいがちなんではないかと思うんですが、じゃ「生死即涅槃」がストンと胸に落ちるためには、つまりどういうふうにすればそれは悟れるんでしょうか? 悟りというのか?
 
山崎:  そうですね。そういう生死が―迷いがすなわち涅槃であり、悟りであるという世界が、自分―僕がね―私自身がうなずける場というのが決定的に必要なこと、それは親鸞さんにしてみたら、阿弥陀仏の教えですよね。その教えなくしてはもう絶えてあり得ないことであるという。もっと言ったら、教えの力、教えの働きと言いましょうか、教えというのは、単なる観念的な・抽象的なことでなくて、その教えを僕が聞いたときに、学んだ時に、うなずけないことありますよね。これはどうなんだろうか。それを「求道(ぐどう)」といいますが、その問いを積み重ねていく中で、あ、こういうことを実はいい表そうとしたんだな、ということが届いた時に、私はそれは教えの持つ働きの一つではないかと。そういう時に私は、働きと―「教力(おしえりき)」と言いましょうかね。「仏法力」といいましょうか、そういうものじゃないかと思うんですね。どうでしょう。今ちょっとお話をお聞きして、私は「無礙」ということを考えますと、「念仏は無礙の一道なり」という読み方と、「念仏者は無礙の一道なり」という読み方が二通ありましてね。学者方がいろいろ議論するんで、「念仏者」というのは「者(もの)」と書いていますから、あれは置き字であって、「念仏は」というのがあの言葉なんだから、これは「念仏は無礙の一道である」と読むのが正しいし、いや、「信心の行者」と後ろにあるから、これは「念仏者」のことだから、だから「念仏者は」と読むのが正しいというとこで、学者方がいろいろ議論いたしますよね。まあこれは僕は相対的に言ったら、「阿弥陀仏の教えである念仏に生きるものは」ということですから、昔から「人法不二(にんぽうふに)」とこういういまして、人という字に教えですね、法というものが二つではないということですから、だから「念仏」というものと、「唱える私」というものは別のものではないんだから、「念仏であろうと、念仏者であろうと、それはあんまりこだわりすぎる必要はないんだ」ということを、曽我量深(そがりようじん)先生はおっしゃるんですけどもね。そこで私は、さっきおっしゃった「無礙」ということをもう少し広げていきますと、どうでしょう、一つの出来事を思い出すんですが、いろいろ生きていく中で悲しみがある。悲しみは我々は経験したくないですよね。少しでも少ない方がいいですよ。人の悲しみはいくらでも辛抱できますが、我が悲しみでしたら全然辛抱できません。ですけど、生きていく上でいろんな悲しみがある。これは一つのもう大分前のことですけどね、浄土真宗の方に「御朝事(おあさじ)」と言いまして、朝六時から皆さんがお寺に集まってお勤めをする。「正信偈(しようしんげ)」の「帰命無量寿如来」というお勤めがあるんですね。これは非常に熱心な浄土真宗の信仰の地域で起こったことなんですが、台風が接近しているときに、そのお寺で皆さんがお勤めしておられた。そうしましたら土砂崩れてきて本堂が倒壊したんですね。そのときに確か亡くなったりお怪我をなさった方がおられた。当然これ新聞―ニュースになりますよね。その時の地元の新聞が、僕が忘れがたいことなんですが、その翌日の新聞でしょうかね、新聞の見出しに「一瞬祈りの場が悲しみの場に」とこうなったと。祈りの場が悲しみの場になってしまった。新聞記者にしてみたらそうでしょうね。もう一つは、「篤い信仰心が仇に」という。「篤(あつ)い信仰心が仇」ですから、そんな六時から熱心に行かなければ、怪我しなかった、死ななかっただろうというニュアンスでしょうかね。それ僕ね、ちょっと不謹慎な、面白いと思ったのは、現代の日本人の宗教に対する見方が、そのまま表れている。だから「一瞬祈りの場」―浄土真宗のお寺で毎朝お勤めするというのは、祈りでも何でもないんです。 生き方の方向確認であったり、親鸞さんのものを読むわけですから、自分の人生がこれでよかったのかというような軌道修正が朝のお勤めにありますから、お勤めしながらね。だけどそれは新聞記者にとっては、いわゆる祈りの場でしか、お寺に集まっているのは、「幸せにしてください阿弥陀様」というような祈りでしかないというふうに写ったから、祈りの場が一瞬悲しみの場に、となったんでしょう。もう一つは、「篤い信仰心が仇」というのは、まことに象徴的だと思うんです。熱心であるが故に、そこにたくさんの方がお参りなさっておった。だけどそれは悲しい場になった。あぁいうことがあったときに、しかし遺族と言いましょうか、怪我されたり、亡くなった方の遺族の方が、はっきりおっしゃったことは、「これは台風ですから天災ですと。昔からここで生きる道を聞いてきたお寺で亡くなったというのは、父は本望だったと思います」というようなコメントがあったりね。私は実は今先ほどお聞きしていて、「無礙」というのは、悲しいことの極みですよ。土砂崩れで亡くなるとか、怪我する。それが決して「これは天災です」と。「生き死にの道をここで学んできたんだから、むしろ本望だったと思いますよ」ということは、負け惜しみでも何でもなくて、私はそこにそういう悲しいこともきちっと見届けて乗り越えていくという「無礙人」というんでしょうかね。そういう道を生きる人の、そういう信仰理解が、そこに見られるんではないかということも、「無礙の一道」というのはそういう道を歩む人のことを、
 
草柳:  それは「あるがままに受け取る、ということになるのだ」ということにも繋がるんでしょうか?
 
山崎:  そうですね。「あるがままに受け取る」というのは、若干消極的な意味に捉えられるみたいなこともありますけども、あるがままに本当のことを見るんでしょうね。これ認知していく。仏教の認識というのは、智慧というのはそういうことだと思いますね。
 
草柳:  そうやって起こった悲しみだとか、自分の周りの、自分自身も含めてですね、どうにもならない悲惨だとか、その悲しみ、それをしっかり見つめていた先にいったい何を見るんですか? その先一番奥に。
 
山崎:  そうですね。「奥に見る」というよりも、もう徹頭徹尾現在地に自分が立っているというんでしょうか、生きているというんでしょうか、それ以外にはないと思いますけどね。「その先に」というよりも。
 
草柳:  先ほど山崎さんは、つまりそうした悲しみや迷いやそういったものが深ければ深いほどというふうなちょっとおっしゃいましたですよね。そうすることによって、かえってというその言い方の中には、例えばじゃどういうふうにすればということで、もう一つ「正信念仏偈(しようしんねんぶつげ)」というんですが、その中の言葉をまたちょっと読んで伺っていきたいですが、こういうふうに大事なこととして短い言葉なんですけども、
 
惑染(わくぜん)の凡夫、信心発(ほつ)すれば、生死すなはち涅槃なりと証知(しようち)せしむ
 
その「生死即涅槃」ということを、どういうふうに、つまりそれがストンと胸の内に落ちるかどうかということで、例えばそれは信心欲すれば、これが大事なんだということをここで言っているわけですね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  これは「惑染の凡夫」というのは何ですか?
 
山崎:  そうですね。「惑(わく)」は惑(まど)いです。「染(ぜん)」は染まるですから、イコールこれは煩悩のことですね。欲望とか怒りとか腹立ち、あるいは人をそねみ・ねたむという。そういったその凡夫ですから私。そういう私のところに阿弥陀仏の教えが届けられた時に―ですから煩悩に生きてる私ですから、様々な腹立ちとか苦しみ、いろんなことがある。その私に実は阿弥陀仏の教えが届られた時に―「回向(えこう)」といいますが、振り向けられ、届けられた時に、実はその迷いの中で悶々としている私たちの迷い、生死の迷いですね―煩悩ですから―迷いそのものが実はそれは実は悟りというものになっていく。その煩悩が―僕の言葉でいうと、素材なんだと。ということを、「証知」は、証は悟るですから、 知は知るですからね、そのことにきちっと目覚めるということになると、単なる煩悩に生きている私自身の悲しみは悲しみで終わるんでなくて、その悲しみがあるから実はより広い素晴らしい世界に出会えるんだと。だからその悲しみとか煩悩というのは、素材なんだという意味に僕は理解しているんですがね。ただ今おっしゃったこの「信心発(ほつ)すれば」という、それは教えとの真実(まこと)なる教えとの出会いということが、証知という目覚めというものを生み出していくんだという意味では、これは大変大事な言葉になるんではないでしょうかね。そういう意味で、私は、「証知」というのは、目覚め―覚という、自覚の覚ですから、そういう意味で私はそういうことあまり言われないんでありますけれども、親鸞聖人の教えというのは、念仏の教えによって私たちがあらゆることに深く目覚めていく、覚の宗教であると。そういうふうに位置づけているですけどもね。
 
草柳:  逆に言えば、「生死即涅槃」ということは、信心発しなければ、なかなかやっぱりわかりにくいことではあるということなんでしょうね。
 
山崎:  いや、それが大事なことですね。ですから私たち自身の側においては、やっぱり惑染の凡夫という煩悩―怒り・腹立ち・妬み、ねたみの中に生きる私たち自身がそれだけだったならばそこで終わってしまう。ですから涅槃が非常にほど遠いものになる。悟りとか救いというものがね。だけどそこに僕は法―教えとの出会いと言いましたが、教えとの関わりとか出会いによってそれがそこで終わるんでなくて、それが喜びにつながっていく。昔の近世の大変仏教を熱心にものとされた念仏者がこんな言葉、一行ですけどね、
 
罪は渡さぬ喜びの種
 
なんていうことを言っているんですね。「罪」というのは煩悩ですね。これは誤解されやすい言葉ですが、人間としての私の悲しみとか、煩悩とかいうものがなかったならば、到底教えというものを喜べる私にはなれない。だから罪は渡しませんよという。下手するとただ無原則に煩悩を肯定するように受け止められるけども、つまりこの教えとの出会いの喜びで素晴らしい人生を私が生きることができるのは、むしろ逆にこの煩悩という素材があったから、だから「罪は渡さなぬ喜びの種」という言葉になって表れたんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  そうやって、しかしある意味では覚悟を決めた人たちというのは強いですよね。
 
山崎:  そうですね。私の大学を開きました高楠順次郎(たかくすじゆんじろう)という、一九四五年(昭和二十年) 八十歳で亡くなった方ですが、大変仏教思想家であり、仏教学者ですけどね、その高楠順次郎という先生が、「仏教は希望に生きる教えではない」こんなことを言っているんですね。「希望に生きる教えではない」というのは、いろんな理解がありましょうが、生きていれば、いろいろ開かれてきますよ、希望がありますよ、そういう教えではない。では仏教というのはどういう教えかというと、「仏教というのは覚悟に生きる教えである」と。覚悟と答えているんですね。目覚めですね。そのことを考えたときに、今の話じゃないですが、僕は生死が即ち涅槃、迷いが即ち悟りの素材であると。目覚めるというその覚悟、覚知。今おっしゃったその場に立つということは、いろいろな悲しみとか苦しみにぶつかりましても、それをきちっと生きていけるというんでしょうか―言葉で簡単ですがね―僕は病気になったって、いろんなことがあったって、友人関係でもいろいろ悩むんですけども、そういうところに本当に立つことができた人というのは、強いというよりも柔軟な豊かな生き方ができるんではないでしょうか。僕もそういう方にずいぶんで出会ってまいりましたね。
 
草柳:  例えば山崎さんの周りではどんな方がおられますか?
 
山崎:  そうですね。本当にそれこそ名もなくですが、別に難しい仏教の勉強をしたとか、というような方でない方が、寺なんかでいろんな話をしても、どきっとするようなことをおっしゃる方がおられますね。そういう方はやっぱりとにかく一も二もなくご自身が生きている現実の場の中で、教えというものをきっちりと向き合って、教えをものにしていらっしゃるというんでしょうかね、これは一つだいぶ前ですけど、私は西海岸に一ヶ月派遣されて、仏教会というのがありましてね。ブディストチャーチというのがあります。
 
草柳:  アメリカの話ですか?
 
山崎:  アメリカでね。講演して、およそ一ヶ月ちょっと経ったんですが、あるロサンジェルスの方でしたけどもね、ある高齢の女性が一人暮らしていらした、高層のマンションで。講演が終わりましたら、その方といろいろお話をしていたら、「先生、今日夕ご飯を家で食べませんか?」とおっしゃる。「それはありがたいですね」ということで寄せていただいたことがありましてね。高層住宅で高齢の方がお一人ですから、ご迷惑をかけるんじゃないかと。「何でもいいですよ」というような話をしておりまして、準備していらっしゃる間に、その方のベッドの横に十センチ位の小さなメモ用紙があったんです。何が書いてあるのかなと見まわしたら、こういう言葉だったんです。
 
これから先のひぐらしは
幸か不幸かしらねども
どちらになってもよろしいと
確かな覚悟ができました
 
という言葉だったんですよ。これは昔からある仏教の言葉であるんですけども、その方にとりましては、その方はまた熱心な方で、本願寺から『大乗(だいじよう)』という信仰雑誌が出ているんですが、それを見せていただいたら、ほとんど赤鉛筆で全部赤い線が引いてあるんですね。朱が入っているんですね。私はそれを聞きましたら、「いやぁこれはずいぶん熱心にお読みになっていらっしゃますね」と言いましたら、「いや、船便ですから、何ヶ月もかかる。ですから、来ると嬉しくてそれを読む。大事なところを朱を入れる。何回も何回も読んでいると、全部に朱が入ってしまう」というんですよね。僕はその時に、電話一本ですぐ私たちは本が手に入るじゃないですか。その方は何ヶ月もこの船便がつくのを待って、心待ちにして、だから感銘も深いんでしょうね。すると、毎日毎日それが自分の求道になり、教えを学ぶ聞法の場になっているんですね。その方が「確かな覚悟ができました」そのことをお聞きしなかったんですけどね。どういう思いでそれをお書きになったのか。だけど私は仏法というのは、そういう世界。私たちは不幸せは嫌ですからね。不幸は嫌ですから。悲しいことは嫌ですから。あらゆるものに幸せをお願いするわけじゃないですか。僕は宗教のパターンというのは、あなたの願い引き受けますよという宗教もありますよね。むしろほとんどじゃないでしょうか。もう一方では、あなたのその願いがどういう願いであるのか。ひょっとしたらあなた自身の自我むき出しの勝手な願いじゃないですか。その願いに楔(くさび)を打ち込むと言いましょうか、そういう目覚めをうながす宗教という、僕は二つの宗教があるんじゃないかと。ただ不幸せはまっぴら、年をとることまっぴら、病気はまっぴら、死ぬことはまっぴら。だから逆のことばっかりはどうかというお願いの形でなくて、「どちらになってもよろしいと確かな覚悟ができた」というのは、まさに仏教でいうダルマ―法の世界ではないかなと。そういうメモをお書きになったのは、どういう心情だったのかなということを同時にね。
 
草柳:  もちろん覚悟にもいろいろな覚悟はあるでしょうけども、だけども覚悟を決めるということは、その前にやっぱり並大抵のことではない経験をなさってこられたという方がたぶん圧倒的に多いんじゃないかと思うんで、実は先ほどの山崎さんの、つまり悩みが多ければ大きいほどということに関連して親鸞聖人の和讃をここでちょっとまた見てみたいと思うんですが、こういう内容なんです。
 
罪障(ざいしよう)功徳の体(たい)となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
 
これはほとんど言葉通りだと思うんですが。
 
山崎:  そうですね。これも繋がりますが、さっきの「覚悟」ですけども、それはその方がきちっと覚悟できたということであるのか。いやそういう覚悟を私がいただかなければならない、という意味だったのかということが、なかなか僕は関連性があると思うんですけどもね。この「罪障功徳の体となる」という、これはご承知の罪障ですから、私たちの煩悩―昔ですが文芸評論家の亀井勝一郎(かめいかついちろう)さんが、
 
「人間はただ生まれて死ぬ。ただそれだけではあまりにも不十分である。人間は生まれ、罪を犯し、そして死ぬと言わなければならない」。
 
と、亀井さんらしい言葉がありますが、まさに罪障というのは、私たちが生きていく上での、これも罪意識ですとか、倫理道徳が非常に後退したといわれるけれども、やはり私が一人生きていく上での様々なそういうものを重ねて生きていかなければならない。その罪とかが、それが実は功徳の本質であるという―体ですからね。これも罪障と功徳は全く違うものですね、現象的には。それが罪障―罪が、救われざる罪を造っているその罪が、実は功徳の本質であると。それはちょうど氷と水ですね。氷と水のような関係であって、大きな氷であればあるほど、溶けた時の水の量というのは多いじゃないですか。したがって罪障―障り、私たちの罪、悪、そういうものが大きければ大きいほどそれがまたこれで転換された時の法―教えの働きによりましてね、転換された時の功徳というのは絶大なものがあるんだという。だから私はこれは親鸞聖人の喜びの和讃ではないかなといってもよろしいんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  ところで、先ほど冒頭に、「無礙」ということと、「自由」と、どういうふうに関わるのか、違うのかという話がちらっとあったんですが、「自由」ということと、今回のテーマになっている「無礙」というのはどうなんですか? どういう関係になると思えばいいんですか?
 
山崎:  そうですね。これ私、考えたらすごく重要で面白いことだと思うんですけども、「自由」という場合には、逆に「不自由」ということがありますよね。自由に生きるということは、不自由な条件を取り除いて初めて自由を獲得するわけですよね。ある意味で言ったら自由を奪い取るというんでしょうかね。僕は、自由というのは、自由に生きられない条件を否定するわけですね。そして自由というものを奪い取っていくという。私は、よく若い学生と接してますと、親の干渉があまりにも激しい。もうとてもじゃないけど、こんな不自由な生活嫌だから、私はなんとか自由に生きたい。そのために家出しますなんて、一時家出思考がずいぶんありましたよ。果たして家出したことが自由になるかどうかわかりませんけども、その不自由さというのは何かというと、親ですよね。親の存在ですよ。これは僕はことごとく全部そうだと思うんですね。ですから私は自由というのは、そういう邪魔なものといいましょうか、マイナス要素を取り除くところから生まれてくるものが自由というもの。逆に言えば、「無礙」というのは、どういう世界かというと、そういうものを取り除くことができない。あるいは取り除けない。ですからそれを老病死なら老病死というものを、自分の中にこう取り込んで生きるというんでしょうか。僕はその言葉を聞いていろいろ複雑な思いなんですが、「病と闘うというのは間違いなんだ」という言い方がありますよね。でも私は病と一生懸命戦っていらっしゃる方をいっぱい見ているから、言葉の問題ではないと思うんです。よく病と闘うんではないんだと。病と仲良くすることなんだと。病と共存することなんだと。癌も私の一部なんだというような方もおられてね。それもちょっとわかる気がいたしますけども、しかし無礙というのは、そういうものを取り除くんではなくて、それを取り込むことによって同時に生きていくということが、やっぱり無礙という。するとそれが必ずしも自分の生きる障りにならない。嫌なものどころか―遠藤太禅(えんどうたいぜん)という禅僧が、昔僕は見た歌で、なるほどなと未だに忘れられない歌なんですが、
 
この泥があればこそ咲く白蓮華(びやくれんげ)
 
という歌なんですね。この「泥」ですよね。僕は蓮が好きでしてね、寺なんか毎年一回講演に行きますが、必ず八月の中旬に見に行く。素晴らしいですね。でも匂いはどうかというとあまりいい匂いじゃないですよ。蓮田ですからね。この泥が、でもあれがなければ立派な蓮は育たないんだと。「この泥があればこそ咲く白蓮華」というのは、私はこの遠藤太禅師という人は人生に譬えている。苦しみ悲しみが大きければ大きいほど素晴らしい花が咲くんですよ。そこには教えとのやはり出会いというものがあるんではないか。だから無礙というのは、そういうものを取り除くんではないんですね。それを取り込むことによって、その中で一緒に育てられていくと、それが決して自分の障りどころか、むしろ悲しみが―親鸞さんがあることによって自分の子供さんを縁を切る。義絶事件ということがあったときに、それは悲しいことだったと思いますね。八十四歳ですから。杖とも柱とも頼む自分の子供を、事情によって縁を切る。でも親鸞さんはその時の手紙の中に、「よく考えたらこのことは、善きことであったかもしれない」という。「善きことにて候なり」という言葉がありますよね。それを悲しみを悲しみで終わるんでなくて、その悲しみによって、より確かな信仰が浮き彫りにされてきたということは、むしろ喜ぶべきことではないかという。悲しみが悲しみで終わるというのは、それは無礙でもなんでもなくて、それが善きことに転ぜられて行った時に、あ、あの悲しみ、あのことがあった、あの出来事があったことによって、私が今こういう考えで、この場を生きていくことができるという。
 
草柳:  ただそれはもし障りの中で取り除けるものがあるとすれば、それを取り除こうとする努力だって、たぶん一つの力にはなるんでしょうけども、でも今山崎さんが言われていることは、そういったことも全部乗り越えて、やはりまさにそのままを受け入れるというか、受容するというか、そういうことが大事だというふうに『歎異抄』の中では言っているということなんですか?
 
山崎:  そうですね。ただそれが私たちに現実的に人間そのものを考えた場合に、どこまでそれが可能かということがありますよね。金子大栄(かねこだいえい)という先生が、「念仏者は無礙の一道なり」という書を書かれた、その横に禅の鈴木大拙先生が、その「念仏者は無礙の一道なり」という言葉の横に、「そのまま」と書いているんですよね。鈴木大拙さんは禅僧らしい、鈴木大拙さんらしいんですけども、「悲しみをそのまま自分が受け止める」というのは、言葉では簡単ですけども、とてつもなく大変なことですよね。そこにくどいようですけども、それ自身は大変なことですけれども、そこにそれを可能にするものが、親鸞聖人はあるとおっしゃった。それを可能にするものが「阿弥陀仏の教え」なんだと、「法なんだ」と。特に「大願剛力(たいがんごうりき)」なんていう難しい言葉がありましてね。つまりそれは真実なるものは、その悲しみを喜びに転ずる働きがあるんだという。それが実は阿弥陀仏の教えなんだ、という親鸞聖人の理解ですよね。それがないと相変わらず悲しみは悲しみ、迷いは迷い、悟りは悟りということにこう終わってしまうんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  罪業―罪であるとか、あるいは煩悩といったものを転じてしまう。転ずる働きということですか?
 
山崎:  そうですね。よく親鸞聖人の教えは、煩悩をきちっと断ち切る―修行によって、戒律によって。だから断絶の断ですね。「断の仏教」という言い方がある。それに対して親鸞さんは「不断の仏教」。「正信偈」というものの中に「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」と言いまして、煩悩を断ちきらずして、断絶して涅槃悟りを得るなり。だから私の側からそれを断ち切る必要が全くない。阿弥陀仏の教えの働きによって、それはおのずから断ち切れて、私たちが救いに与(あずか)るんだという、そういう言葉も思い出すことでありますけどもね。
 
草柳:  その「転ずる」ということで、山崎さんがこういう文章を「唯心抄文意(ゆいしんしようもんい)」から引いて下さった言葉があるんで、それをまたちょっと見てみたいんですが、こんなふうに言っているんですね。
 
自然(じねん)といふはしからしむといふ。しからしむといふは、行者(ぎようじや)のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生(こんじよう)・未来の一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。
 
どういうことなんですか?
 
山崎:  「自然(じねん)」というのは、親鸞聖人がご承知のように非常に大事にした言葉ですけど、このことの現代語訳と言いましょうかね、私らにこう申しますと、つまり自然(じねん)―自然(しぜん)と書きますが―自然(じねん)というのは―読んで字の如しですが―おのずからそうなるということですね。私たちが私たちの自我に基づいてあれこれと自ら事を起こすということでなくして、そして過去、現在、そして未来の一切の私たちが生きる上で避けられない罪を、阿弥陀仏の教えの働きによって転成(てんじよう)されることですと。転ぜられていくことですと。「転成」というのは、転ずるという字に成功の成で「転成(てんじよう)」ですが、「転成(てんじよう)」というのは、罪や悪というものを善となし返すことを言いますと。まぁこういう意味にこの「唯心抄文意」の言葉はなるんでしょうかね。罪や悪を善きものになし返すという。なしかえすものは何かというと、それが教えの働き、教えの力なんだと。
 
草柳:  信の力ということですか?
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  この「自然(じねん)」という言葉は、親鸞聖人はずいぶん晩年に使われたとおっしゃいましたけれども、例えば「自然法爾(じねんほうに)」という言葉が記憶にあるんですが、つまりそういうことですか?
 
山崎:  そうですね。「自然(じねん)」というのは、ただ自然現象のように理解される方がいますが、親鸞聖人の場合には、「自然(じねん)」というのは実は「おのずからしからしむる」と読みますから、それは阿弥陀仏の実は教えの力。もう一つ言ったらそれは、真実というものは不真実なるものをなんとか真実化したいという働きがある。それが実は自然(じねん)の道理であって―ですから今おっしゃった「自然法爾」というところでは、要するに自然(じねん)というもののあり方を知らせる為に阿弥陀仏という仏がお出ましになったんだ、というのが、自然法爾の結論になっていますからね。「自然(じねん)のやうをしらせん料(りよう)なり」とありますから、自然(じねん)の「やう」というのは、「やう」と書いていますが、自然の有様。真実というものは真実に気づかない人に真実を教えてあげなければならないとか、不真実な人は真実化したいというその働き。そのありようをですね、実はそれは阿弥陀仏の働きというのはそういう働きなんだという。そういうところで用いられた言葉ですよね。
 
草柳:  そうすると、さっきおっしゃった自然(じねん)というのは、つまり如来の大悲というのか、そういうことですか?
 
山崎:  そうですね。「大いなる慈しみ」慈悲ですね。そしてその「大いなる慈しみ」というのは、例えばあの人は気の毒だとか、かわいそうだというのが、僕らの人間の相対的な愛情ですよ。親しい人であれば、そういう思いを持ちますが、親しくない人にそういう気持ちは持ちませんからね。だけど「大悲」というのは、一切あの人この人という枠組みを設けずに、なんとしてでもその人を、手を差し伸べずにはおかないという慈悲―大悲。その根底には智慧というのがありまして、その智慧が実は慈しみ―慈悲というものを動かしてきたんだという。そういうことが自然(じねん)ということに、僕はつながっていくと、こう申しあげてもよろしいんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  山崎さんがお書きになったガイドブックの最初のほうに、実は「利益(りやく)」という言葉が出てくるんですね。利益(りえき)を「りやく」と読むそうですが、その利益(りやく)ということと、今回の「無礙の一道」というのは、どこでどういうふうな繋がりがあるわけなんですか?
 
山崎:  それはちょっと唐突かもしれませんが、僕は、悲しみが喜びになる。いろいろ人生上生きていく、例えば人間関係、その他いろんな問題がある。そのことが何ら無駄でなくて、自分が自分になっていく一つの素材であったという立場に立てるということは、人を恨むこともありませんし、それが実は親鸞聖人という人は、念仏に生きる者の最大の、ある意味で究極の利益(りやく)なんだと。一般に「利益(りやく)」と言いますと、これを信じたらお金が儲かります。病気が治ります。「騙されたと思って信じてごらんなさい」というと、みなそこに傾斜しますよね。それも人間の心です。でも親鸞さんの利益というのは、そういうごく即物的な身近なものでなくて、生きていく上での一番深いところでの人生の方向を転換せしめるような、そういうものが利益というものでなければならないというところで、私は念仏に生きるものは、「無礙の一道を生きることができる」というのは、そういう利益、最大の利益というもの。だからここでは親鸞聖人の利益論を表したものではないかという意味で、副読本にそういうことを、
 
草柳:  最初にそういうふうにお書きになって言っていらっしゃいますが、つまり第七条というのは、まさに利益とは一体何なのか。利益論だ、というふうに。そうすると確かにそれは仏教であろうと、他の宗教であろうと、私は同じだと思うんですけども、やっぱり我々にとっては、つまり本当の利益をどういうふうに受け取ることができるのか。それがやっぱりないとなかなか親しみ持てませんものね。
 
山崎:  そうですね。ですから親鸞聖人の教えというのは、前にも出てきましたが、非常にそういう意味では「念仏者は無礙の一道」といっても、なかなか多くの方にどこまで正しく受け止められたか、というのは甚だ疑問だと思うんですよ。そういうことを考えました時に、例えば古代なんかでしたら、急に子供が亡くなったら、因果関係わかりませんからね、今と違って。これは何かの祟りだということで、呪術者をお招きしてお祓いをしたり、いろんなことをするわけですよね。そういうものを私たちは、「そんなのは迷信だよ」というのは、近代的な考え方でありまして、その当時はそれしかなかった。そして鎌倉時代になった時代だって、みなさん現代だってそういう時代じゃないですか。お医者さんから「難しいですね」と言われたら、四方八方手を尽くしてやっぱり愛しい人が助かる道を探し求めますよね。それは何であっても傾斜していくわけですよね。そういう時に親鸞さんが、「念仏者は無礙の一道なり」と言われて、その「無礙」というのは、そういうことではないんだということをおっしゃったとしても、果たしてどれだけの人に、それは真実ではあるんですけども、どれだけの人がそのことに頷き得たかというと、甚だ私は疑問ですよね。今だって現代の「神」というと、それはお金であったり、地位であったり、学歴であったり、あるいは様々な私たちが生きていく上での組織と言ってもいい。そういうものが現代の「神」としてなんか機能しちゃってるんじゃないか。そこからやっぱり私たちの苦悩が生まれますよね。そういうものに飲み込まれたくない苦悩が生まれる。その解決をどこに求めたらいいのかということが、求める場が、やっぱり僕は今明らかになっていないんじゃないか。ひょっとしたらそれがちょっと唐突ですが、私は悲しいことですが、年間ねこの八年間、三万人以上の方が自ら命を絶たれるということと決して私は無関係ではない。どこにその場を求めていっていいのかということがわからなくなっている時代。宗教と言えば、お願いしても何とかなるだろうというようなことが考えられておりますからね。そういうことの少し誤りに気づくということも大事なことだし、またちょっと書いておきましたけども、また人生における勝ち負けの問題。勝ち組・負け組。宗教の世界でも「人生は戦いである。勝たなければいけない」というような宗教者がおられるくらいで、私は「勝ものは必ず負ける」と言っているんですよ。そして勝つということはどういうことなのか。負けるということはどういうことなのか。そういうことを一回点検しようよというのが、僕は宗教的な営みであると思います。そうすると、勝ち組・負け組なんていう、そんなことがほとんど意味がないということに気づかないと、そうするともっと僕は、勝ち組・負け組の烙印を押されるんじゃなくて、もっと豊かに自由に私は生きられるんではないかと思うんですね。
 
草柳:  最後にもう一つ、親鸞の和讃をお読みして終わりにしたいと思うんですが、これです。
 
尽十方(じんじつぽう)無礙光(むげこう)
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰(しゆりゆうき)しぬれば
智慧のうしほに一味(いちみ)なり
 
山崎:  そうですね。簡単に、「尽十方(じんじつぽう)」阿弥陀仏から、ここに無礙の光と書いてますね。阿弥陀仏の、ですから大悲と智慧ですね。その阿弥陀仏の光、そういう「大悲大願」ですからね―大慈悲。阿弥陀仏の教えの「海水」は譬えですから、大きな広大な世界に、私たちの煩悩の心がそこに流し込まれていくと。その私たちの煩悩の心が同時にそれが実は煩悩と全く逆の智慧に転ぜられていくんだと。「智慧のうしほに一味なり」海水はみな同じ味ですからね。どんな川から集りましても、海水はみな塩味ですから。そういうですから阿弥陀仏の広大な本願の世界というのは、そういう意味ですべてのものを一味平等にしていくんだと。私は一つここに出ていません和讃ですけども、
 
一切の功徳にすぐれたる
南無阿弥陀仏をとなふれば
三世の重障(じゆうしよう)みなながら
かならず転じて軽微(きようび)なり
 
という和讃があるんですよ。
 
草柳:  どういうことですか?
 
山崎:  一切の功徳に優れた南無阿弥陀仏、これを唱えるものは三世ですから、過去と現在と未来にずっと造り続けてきた罪。それを重障―重い障害の障と書いていますから、私たちのさまざまな罪とか悪、そういうものが必ず転じてというのは、転成の転ですが、「軽微」というのはキーワードですね、軽いという字に、微笑の微。微笑みですね。「軽微」というところに親鸞さんが仮名ふりましてね、「かるくなし、うすくなし、すくなくなすなり」と仮名ふっているんですよ。ということは、仏法の教えに生きても、人生上の苦しみというものは、たちどころになくなる。そんなものではないですよ。よく「信仰を持ったら、苦しみ、悲しみなくなりますか?」「安閑と死んでいけますか?」という質問があるんじゃないですか。そんなものじゃない。だけど親鸞聖人は、「かるくなし、うすくなし、すくなくなす」ということは、なくならないけど、そういう人生の我々が担いでいかなければならない重みを担いでいく力が与えられますよ。僕はそこに「苦悩がなくなる」と言っていないところに、「かるくなし、うすくなし、すくなくなす」というところに、親鸞聖人という人の考えていた仏教、あるいは宗教、あるいは念仏の功徳とか利益というものがあったんではないかなということを考えております。
 
草柳:  どうも今日はありがとうございました。
 
     これは、平成十八年十一月十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである