歎異抄を語るHひとへに他力にして
 
                    武蔵野大学教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
                    き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「歎異抄を語る」の九回目になりました。今日はその『歎異抄』の第八条をこれから読んでいくことになるわけですが、これまでのところ少し振り返ってみますと、『歎異抄』の中では、実は普通とは逆と思えるような言い方で思うところを、親鸞の言葉として述べさせている。そういう言葉がよく出てくるわけですね。今日取り上げる八条も、例えば冒頭いきなりですね、「行に非(あら)ず、善に非ず」―「非行非善(ひぎようひぜん)」という言葉で始まっているわけです。いったいそれはどういう心なのか。何をそのことによって言おうとしているのか、ということを中心にして、今日もいつものように武蔵野大学教授の山崎龍明さんにお話を伺ってまいります。よろしくお願い致します。
 
山崎:  よろしくお願いします。
 
草柳:  ということで、今回だけではなくて、例えばあれは第五条だったでしょうか、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したることがない」とか、あるいは第六条の「弟子一人ももたずそうろう」というふうな言葉がありましたですね。なぜこういう逆説的と言えるような、あるいは否定という言葉が比較的多いのか、どうなんですか?
 
山崎:  そうですね。やはり一つの形としまして、やっぱり結論を最初にドーンと出すという。そこから内実を明らかにするという一つのスタイルが、少なくとも『歎異抄』には見られますよね。
 
草柳:  確かに起承転結という構造ではなくて、いきなり最初に一番大事なところをポンと出す。結論を先にいうとこ結構ありますよね。
 
山崎:  『歎異抄』のむしろ逆説的な表現が、『歎異抄』の非常に魅力を倍加しているという文学者の指摘なんかは大変多いですね。
 
草柳:  ただ逆説的な言い回しをしなければいけなかったという、それは一体なぜなんでしょうか?
 
山崎:  そうですね。私はそこが一つの親鸞聖人のものの考え方とか、表現の一つの特殊性といいましょうかね、そういうものと無関係ではないように思うんですけどね。
 
草柳:  その逆説的な、あるいは否定的な言い方でしか言えない―言えないというよりも、つまりそのことの説得性の強さといったものを十分計算しながらそういう言葉を使っていたということもあるでしょうかしら?
 
山崎:  そうですね。それが計算的にそういう方法を用いたかどうかという。例えばものを書くときに、いろいろ書く方によっての癖と言いましょうかね、そういうものが『教行信証』なんかやっぱり親鸞さんというのはかなり理屈っぽい人だなということを考えさせられる文言、表現がありますよね。それと同じように『歎異抄』もやっぱりそういうところで理解すべきで、説得力がこっちがあるだろうというような形ではないんじゃないかなと思いますけどね。
 
草柳:  始めからそういうことを計算していたんではないにしても、とにかく大変特徴的ではありますけどね。
 
山崎:  結果においては、それが大変説得力を持つようになっているということじゃないでしょうかね。
 
草柳:  まずそれでは第八条を非常に短いですね、通して読んでみます。
 
念仏は行者のために、非行(ひぎよう)非善(ひぜん)なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々。
 
非常に短い文章なんですけれども、まず例によってこれを今風の言葉にちょっと換えていただけますか。
 
山崎:  そうですね。大事なことですね。ただ今お聞きしておりますと、やっぱりこの「行者のために非行非善」なんていう言葉も見ただけで逃げ出してしまいたくなるような難しさを感じますよね。
 
草柳:  そうですね。
 
山崎:  僕は、何十年か日本の仏教ですとか、親鸞聖人の勉強をしていながら、こうやって改めて一つ一つ丁寧に読む機会を与えられまして、逆に本当に難しいな。だから少し勉強したものが難しいと思うんですから、かえって初めての方なんかもうとてもかなわないという。ただ私はその難しいということの中に、「難しさとは何か」というと、やっぱりそこには深さがあるんではないかと。この頃どこへ講演に行きましても、「先生、わかりやすい話してください。わかりやすい話してください」。大事なことですよね。だけど「わかりやすい」ということは、案外そこでわかって、その場で終わってしまうということもあるんじゃないか。「わからない話」というのは、生涯の課題になることないでしょうかね。僕はそういう意味で、そのわかりやすさというのは何なんだろうかなということを感じることがあるんでありますけども、僕が難しいと思いますから、ですからそういう意味では初めての方ですと、これはとてもかなわない、歯が立たないという方がおられても、これ当然だと思うんですね。ちょっと辛抱していただいて、今申しますけども、行にあらず、私の善きこと、善根でもないということの言われている根っこに、根底に何があるかという問いかけが大変大事でしょうかね。私の先生が、「難しいことを難しく喋ることは簡単なことなんだ」と。そうですね。「難しいことをやさしく、そして易しいことを尊く話をするという、それを心がけろ」と言われましたが、これ至難の業ですよね。早速ですけども、大事な文言ですけども、私なりに今の現代の言葉に置き換えて理解するんですけど。阿弥陀仏の真実、悟りを得られた阿弥陀仏の真実(まこと)に心から拠り所をおいて信順(しんじゆん)し、そしてその教えに出会った喜びの心より唱える南無阿弥陀仏という念仏に生きる者にとっては、その唱える南無阿弥陀仏という念仏は、私自身が仏になるための手段ではありません。非行ですね。つまりそれは私が唱えていることであるんだけれども、私自身の実は行為でもなく、また私の善き行い―善行と言われるものでもありません。ここから中心ですね。なぜならそれは南無阿弥陀仏という念仏は、私自身の行いでもなく、善根でもなく、それはひとえに阿弥陀仏がこの私に教えとして届けられたもの。この私に阿弥陀仏から恵まれたものだからです。このような念仏は、不完全な私自身の行為と言いますか、行いを全く離れているものですから、私の行為でもありませんし、善なる行いでもありません。
 
草柳:  「私の行為」というのは、「我がはからい」ということですか?
 
山崎:  そうですね。私自身が何かのためにするというはからいの、そういう行いでもない。また善根を修めて、日常で言ったら、善いことをしまして、それを修めて仏になっていくというような善き功徳ではありません。
 
草柳:  「善根」というのは、例えば「功徳」とか、
 
山崎:  そうですね。善き行いが仏になる功徳、そういうものではありません。ただ阿弥陀仏の促し導きによる営みなのですから、私にとっては全く他力、阿弥陀仏の行であり、阿弥陀仏の善根―善であるという性質のものだからです。この最後のあたりが結論ですが、いろいろ展開していかなければいけませんけども、なかなか難解なとこですね。
 
草柳:  そうですね。ここにある「ひとえに他力にして」というのが、今日の番組の実はタイトルになっているわけなんですけれども。
 
山崎:  そうですね。ですから僕はこう考えるんですけど、仏教といいましょうか、仏法に「自力の仏道」、それから「他力の仏道」。申し上げるまでもありませんけども、「自力の仏道」というのは、どこまで行きましても、自己自身のわが身を頼み、我が心を頼み、わが様々な善根ですから自分の能力ですね。全能力を上げて、あるいは身心を調えて、修行したり、あるいは善き行いをして、そしてその功績で、手柄で仏になる。成仏する。これが「自力」ですよね。親鸞さんは、そういう解釈をしていますね。もう一つ、親鸞聖人は、「他力って何ですか?」と問いますと、それは第十八の阿弥陀仏の本願を信じ、歓び、その教えと共に人生を生きること、それが実は「他力の仏道」というものなんだと。どうでしょうね。草柳さん、前者は非常にある意味で論理的でわかりやすいですよ。わが身を頼み、わが心を頼み、わが様々な善根を頼むですからね。ただ阿弥陀仏の教えを聞き信じ歓び、その教えと共に生きるということを言われましても、ちょっとそこに距離感といいましょうか、
 
草柳:  しかも原始仏教以来の仏教の教えの基本というのは、「自力」と「他力」という言葉に分ければ、それはあくまでもそれは自力ですよね。
 
山崎:  そうですね。だから自力とか他力とか言わなくても、根本的には仏道というのは=(イコール)自力みたいな、そういうところがありますよね。ただその他力という親鸞聖人以前ですね、「他力の仏道」というものが、なぜじゃ生まれてきたのかということになりますと、そこにやっぱり大変深い自己に対する眼差しといいましょうか、外でなくて自己に対する深い見つめ方―自己の煩悩とか、様々な心の汚れでありますとかね、そういうものに気づいたときに、果たしてわが身を頼み、我が心を頼み、我が善根を修めて救われるというけれども、そういうものを実は本当に修め切ることのできる私なんだろうかという、目覚めといいましょうか、そういうところからもう一つの仏道として、僕は「他力の仏道」というものが求められてきたんではないかと。
 
草柳:  今の第八条の中では、その善行とか功徳ということを、この『歎異抄』のここでは否定しているんですか?
 
山崎:  いや、そうではないんですね。そういう意味で、これが否定か肯定かと言いますと、そういう自力の営みが無意味であるとかということではなくて、私は、例えば自力がただできないから他力の教えだということでなくて、それは否定でなくして、人間がそういうところで様々な営みをする、その営みの根底にある自我意識といいましょうか、エゴ(ego:我、自我)といいましょうか、そういうものをとらえたときに、そういうものは真実にはおそらく到達し得ないものではないかと。つまり非本来的なそういう行いでは仏になることができないのではないかという意味での認識は、自力に対する一定限度の認識を生み出してきたんではないかなと、こう考えるんですけどもね。
 
草柳:  人間の行為そのものを別に否定しているわけではもちろんないわけですよね。
 
山崎:  そうですね。人間というのは、やはりあらゆる行為をとることができるわけですし、そしてまた人間がいろいろな行いをすることによって、自己の存在証明を得るということがありますから大事なことですよね。ただそこに阿弥陀仏ではありませんけども、その自分の行いを本当にどういう行いであるかということを、僕の言葉でいうと、「知らしめるもの」と言いましょうか、気づかせるもの。親鸞聖人は、照らされるものに出会ったときに、あ、こういう行いで、果たして究極の善とかいうものを為し得るんだろうか。いや、到底無理ではないかというところから、私はもう一つの仏道というものが当然生み出されてきたんではないかという、そういう認識を持つですけどもね。
 
草柳:  これまでも四月からずーっと回を追って、『歎異抄』読んできたわけですけれども、何回も出てきましたが、つまり親鸞の人間観というか、人間に対する洞察と言いましょうか、つまり自己の可能性の限界みたいなものにぶち当たらざるを得ないというところから、やっぱり出てきているわけですか? その他力ということも。
 
山崎:  そうですね。今、僕が申しあげましたことを突き進めていくと、やっぱりそういうことになりますね。それは人間というものは、ある意味では非常に素晴らしい存在でありますけども、同時に人間というものは、逆に実におぞましい存在でもある。僕はその二つのことに大変親鸞さんは揺れ動きながら、人間とは一体何なんだろうか。もう一ついうと、真(まこと)といいましょうかね、真実というものは一体何であって、その真実というものを人間が行うことができるのかどうかということが、私は親鸞聖人の九十年のやっぱり信仰の課題であったということを理解をしないと、先ほどの他力ということは、ほとんど僕は理解ができなくなるだろうと。ですから、それをどこまでも可能性、ある意味では無限の可能性を信じていかれる方は、自力の仏道を歩んで仏になる方はいらっしゃるわけですから。親鸞さんは、そういう方はナンセンスどころか、私たちからみたら素晴らしい仏さまのようにする素晴らしいお方なんですよ、というような表現といいましょうか、文言も文章もありますよね。だけど、私にとってはこの道を成就することはとてつもなく難しいというところから、独自な親鸞聖人的な教えの世界が生まれてきたんだろうと、そんなことを考えますけどね。
 
草柳:  次に紹介したい文章は、親鸞の宗教、まさにこれこそ特徴づけているんだという、つまり『無量寿経(むりようじゆきよう)』というその経典を、親鸞さんが読み替えていると話がございますね。その話に入って行きたいんですが、まず最初に『無量寿経』の元の文章と、それから親鸞が読み替えたものを比較しながら、見ていきたいと思うんですが、まずこれは元々の文章ですね。
 
あらゆる衆生(しゆじよう)、その名号(みようごう)を聞きて、信心(しんじん)歓喜(かんぎ)して、乃至(ないし)一念(いちねん)し、至心(ししん)に回向(えこう)して、彼(か)の国に生(しよう)ぜむと願(がん)ずれば、すなはち往生を得(え)、不退転(ふたいてん)に住(じゆう)す。
 
これはもともとの『無量寿経』の文言なんですが、まずこれを少しまた現代風に山崎さんちょっと解説をして頂けますか。
 
山崎:  これは『大無量寿経(だいむりようじゆきよう)』と申しまして、ご承知の大変親鸞聖人が、「真実の経は大無量寿経である」と明確に言われたお経の中の一節ですよね。非常に当時はポピュラーなお経で、中国でも何回も漢訳された経典ですけども、一切の生きとしいける人々が、つまり阿弥陀仏の成就したとこの南無阿弥陀仏の「名号を聞きて」とありますよね。普通「名号」というと、南無阿弥陀仏の念仏ですから、唱えるといういうことになりますけども、これは「名号を聞く」という言葉がありますね。ですからそれは南無阿弥陀仏と唱えるということは同時に、その阿弥陀仏の教えを私が聞かせていただくことであると。すると、聞いた中から、あ、そういうことだったんだ。ほとんどそういうこと、生きる人生、命の考えもしなかったという気づきが生まれてまいりますと、それが歓びになりますよね。それが信心、そして歓喜(かんぎ)。親鸞さんは、「歓喜というは、歓は身をよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり」と言っていますから、そういう教えを自己は受け止めた時に歓びの心が生まれる。そして、あぁ尊い教えに出会ったなという思いから、「乃至一念」ですから、心から南無阿弥陀仏と念仏を申す。そして「至心」ですから真心と言ったらいいんでしょうかね、心の底からその歓びの心をもって仏さまの方にそれを振り向けていく。私の方から阿弥陀仏の方に振り向けていく。その歓びの心をですね、功徳を振り向けて、そして、彼(か)の阿弥陀仏の国土であります阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願いば、「すなわち」ですからね、たちどころにその国に生まれることを得て、そして「不退転」もう決してそこから脱落したり、後戻りすることのない境界に「住す」ですから、そういう確かな救いの場につくことができますよという、この経文は意味ですね。
 
草柳:  ここで、まず注意しておいた方がいいのは、例えば「至心に回向して」ここなんかもそうなわけですね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  つまり向こう側に振り向けるんですね、これは。
 
山崎:  はい。そうですね。
 
草柳:  次に、この『無量寿経』というのはもちろん当然親鸞よりはるか前に出てきたとても有名な経典なわけでしょ。それを親鸞はこういうふうに読み替えている。その文章なんですが、
 
あらゆる衆生(しゆじよう)、その名号(みようごう)を聞きて、信心(しんじん)歓喜(かんぎ)せんこと、乃至(ないし)一念(いちねん)せん。至心(ししん)に回向(えこう)したまへり。かの国に生まれと願(がん)ずれば、すなはち往生を得(え)、不退転(ふたいてん)に住(じゆう)せん。
 
これは前と違うところは「歓喜せんこと」というところと、「至心(ししん)に回向(えこう)したまへり」、ここですね。
 
山崎:  そうですね。ですからこれは最初のあらゆる云々ということは、先ほど申しましたね。ですからこの言葉は、「信心歓喜」でなくて、「信心歓喜せんこと」というのは、そういう教えの真実に触れることによって、そしてその信心が具体的に自分の歓びになると。我が身を貫く歓びになっていく。その心が―ですから「念仏」といいましても、いろんな念仏がありますよね。自分の願いを叶えてもらうための念仏。病気を治してくれとか、例えば子供の受験のための念仏を唱えるとか、本来的でないようなそういう念仏もありますよね。そうでない真実の教え・道理を聞かしてもらったところから起こる歓びの心から感謝の思いとして、つまり南無阿弥陀仏というお念仏を、「乃至一念」ですから唱えると。ある先生は、「南無阿弥陀仏というのは、仏さまありがとう≠ニいう言葉なんだ」と言われた方がいらっしゃいますけどもね。これはアメリカの仏教会で子供たちに「南無阿弥陀仏、あるいは念仏って何ですか?」と問われた時に、その先生が、「Thank you Buddha(仏様ありがとう)」という話がありますが、そういう我が身を貫く尊い教えに出会った中からの喜びで、つまり称えずにおれないものとして、例えば欲しいものを頂いたときにはどうでしょう。「ありがとうございます」という言葉にも力が入りませんか。
 
草柳:  そうですね。
 
山崎:  あまり欲しくないものをいただいたときは、「ありがとうございます」とニュアンスがずいぶん違うと思う。「信心(しんじん)歓喜(かんぎ)せんこと」というのは、そういう僕は具体的な歓び。その必然として「ありがとうございます」ですから、念仏が口から出てくる。そのあとに「至心に回向したまへり」、私の口から出てくる南無阿弥陀仏という念仏は、実は「回向したまへり」ですから、阿弥陀仏が私に教えをお届け、そして私の口から念仏が出るように、その念仏までも私に仏の方から届てくれたものなんだ、という読み方を親鸞聖人はされたわけですね。これで「転釈(てんしやく)」と書きまして読み替えということなんですが、また「転発(てんぽつ)」ともいうんですが、親鸞聖人の中にはいくつかこういうものが見られるんですね。これはまた後で申しますけど、こういう読み替えの、じゃ根っこにあるものは一体何なのか。何で勝手に読んだのか。ある人は、「いや、漢文の素養がなかったんだろう」という人もいるわけですよ。そうでないだろうと。その根底にあるのは何かというと、やっぱりどこまでも親鸞聖人自身の人間、いわゆる救われがたい様々な欲とか、怒りとか、愚痴とか、様々な煩悩に染まっている自己自身にしてみたら、この道を生きることによっては救われない。そのことを実は洞察して阿弥陀仏が、その教えと南無阿弥陀仏の念仏を私に「したまへり」ですからね、仏の方から届けてくださったんだ、という読み替えをここでされたわけですね。そして「かの国に生まれんと願ずれば」という、先ほどの文章につながっていくんですが、この読み替えということの意味ですよね。
 
草柳:  そうですね。なぜ本当にこういう読み替えをしなければいけなかったのか。まさに百八十度ひっくり返すわけでしょ。
 
山崎:  そうですね。もう本当に転換されるわけですよね。それを私はさっきちょっと言いました、人間としての親鸞聖人を照らしたものが―教えですが―その教えに照らされた時に、人間というのは、大したことない自分だと思いながら、でもなかなかまだまだあの人より自分の方が勝れているぞみたいなところがあるんですが、もう等身大の自分を教えによって照らされた時に、まさにそれは煩悩―さまざまな煩悩によってしか成り立っている私でしかないと、こう気付かされた時に、じゃそういう私がどうしたら仏になったり、救われることができるのかと考えたときに、それは仏の方からの恵み、回向、それによってしか私の救いはありえないという思いに、私はこの読み替えというものが成立してきたんではなかろうか。私はよく思うんですが、私に会うといいましょうかね、「私が私自身に会う」ということは、それは実は「仏の教えに会う」ということでもあるわけですよね。仏の教えに会う。だから「私に会うことは仏に会うことであり、法に会うことである」と。それ全く別の次元のことでありませんでね。その会った時の自分というものをずっと深めていったときに、「至心に回向し」でなくて、「至心に回向したまへり」と読まざるを得ないという、非常に親鸞聖人の教えの中では重要な一点ではないかなという思いがいたしますけどね。いかがでしょうかね。
 
草柳:  単なるそうすると、これは読み替えどころではなくて、親鸞のまさに独自の考える独自性と言いますかね、
 
山崎:  そうですね。その独自性というのは、恣意的という言葉がありますよね。勝手な、自分勝手な。ただ私たちが何かいろいろ日常する生活する中で、大体私たちは自分を正当化するときに嘘をついたり、都合のいいことを言いますけれども、それはほとんど自己を守るための一つの誤りですよね。だけど、それと比較することはどうかわかりませんけれども、こういう形でとにかく読み替えられたという事実が、私は何を表しているのかということが、実は学ぶということではないかと思いますし、「いや、そんなこと納得できない」という方も当然、時代の中の僧侶にもいらっしゃるわけで、だいぶ前に出てきましたね、『教行信証』という書物は本当に独自性のある書物ですから。ほとんどが引用引文で、わずかな親鸞聖人の大事な言葉がところどころ出てきますから、「こんなものは本としては体裁をなさない」と言ってね、だいぶ前何回かに出てきましたが、華厳宗の鳳潭(ほうたん)(江戸時代中期の華厳宗僧。越中の人。鉄眼禅師に師事。奈良や比叡山で諸宗の奥義をきわめ,江戸において大聖道場に華厳教学を講義し,諸宗の学者と論争した:1654-1738)という人は、「これは狂人の書だ」と言って、これを投げ捨てた、という話がありますね。おそらく読み替えの部分なんか見たら、何で経典の釈迦牟尼仏世尊の、お釈迦様のお経をなぜ親鸞ごときものが読み替えるのかと。不遜の極であるということがあったとしても、僕はそれは一応道理のあることだと思うんですよ。でもギリギリのところ、こう読まなければ私の救いはないというのがあったんじゃないでしょうかね。非常に重要なことは課題ですね、一つ。
 
草柳:  回向、前にも出てきましたけれども、つまり仏教の基本的な教えとしては、回向というのは、こちら側から向こう側へ手向(たむ)けるものであると。それが今のようにそうでなくて、むしろ主語は、阿弥陀様なんだという、百八十度ひっくり返したこの親鸞の思いというんでしょうか。そうすると回向が向こうからだということになると、自分はどうなるんですか? こちら側の者。
 
山崎:  そうですね。ですから普通「回向」と言いましたら、もう回向と言ったら、それがそのまま私から仏へという。だから「自力回向」なんて言われなくたって、回向というのはそういうものなんですね。だけど親鸞聖人は、仏から私に。矢印の方向は全く違うわけですよ。そういうところで、その回向の形を、親鸞聖人は「他力回向」とか、阿弥陀仏から私に振り向けられた真実という意味で「他力回向」とか、阿弥陀如来だから「如来回向」とかね。もっと一ついうと、「本願力回向」なんて三つの言葉があるんですけど、いずれにしても仏の方から私のところに、つまり真実を持たない私のところに阿弥陀仏が真実を届けられた。私たちはその真実によって―教えですね―その教えの真実によって―ある方は、「宗教というのは人間にくさびを打ち込むものだ」と言った人がいますね。私たちは何かそういうものを持たないと、どうでしょうかね、本当にだらしないものでして、だらだらしてしまうんじゃないでしょうかね。だけどその届けられた真実(まこと)に自分が向き合ってみたときに、自分自身がまず問われますよね。例えばあなた、例えば社会的にいろんな方に認められるなんていうけども、その命の問題、人生の問題を考えたときに本当の悔いのない生き方を、あなたはしていますか? 私は、信仰というのは、いわゆる如来といいましょうか、仏から私たちに問いかけと言いましょうかね、課題が与えられるのが信仰だと思っているんですよ。答えが与えられることではなくてね。課題がどんど与えられる。だから親鸞聖人は九十歳で往生されるまで、如来から与えられる課題と常にこう向き合って―「闘い」というと怒られることがありますが―私は大変なエネルギーを持って、それが僕は実は信心という世界でないかなという。信心を頂いたら、みんなラッキーラッキーすべてが、そんなものでないという。
 
草柳:  今の読み替えに関係して、親鸞のいう方は、和讃をたくさん書いておられますよね、唱えやすいような。まさにもう一つこれから紹介したいと思っている和讃というのは、今の消息を見事にわかりやすく書いたものだと思うんですが、それを読んでみます。
 
真実信心の称名は
弥陀(みだ)回向(えこう)の法なれば
不回向(ふえこう)となづけてぞ
自力の称念きらはるる
 
ここで「不回向」という言葉が出てきましたですね。
 
山崎:  そうですね。これはですから親鸞聖人は他のところで「回向」「不回向」と対比されている言葉があるんですが、このご和讃から申しますならば、真実(まこと)の信心というものから生まれる―「真実信心」ですからね―真実(まこと)の信心、あるいは真実の教えを聞いたところから生まれる南無阿弥陀仏という称名―称は唱えるですからね。念仏というものは、実はこれは阿弥陀仏の誓い。人々をこの教えによって幸せにせずにおかないという阿弥陀仏の法。阿弥陀仏誓いからこの私に実は回向―振り向けられた教えでありますから、これはどう考えても私の方からは不回向―回向せずというね。回向すること必要がない不回向という法、不回向の法と名付けて、したがって「自力の称念」ですから、届けられた教えにうなずいて、心から南無阿弥陀仏と念仏を称える。歓びの念仏を称えるんですから、「称念」というのは称え心なんですね。どういうことか。これだけ称えました。一日これだけ称えました。これだけ熱心に称えましたという思いは、これは本来的なものではない。そういう称え心が嫌われる。というのは、自分が称えた念仏でしたら、称えただけ功徳にもなるんでしょうね。善根にもなるんでしょう。如来から届けられた念仏を私が称えているんだとするならば、それは如来に帰するべきであって、私の効ではないという。そういうご和讃で、この「不回向」と言いますのは、どうでしょう、後で出てくるかもしれませんが、「行者の回向にあらずと知るべしなり」とこう仮名ふっていますよね、親鸞聖人は。「行者の回向」―私が、先ほど出てきました仏に向かって差し向けるものではないということをきちっと知るべきであります、と注意されているんですよ。
 
草柳:  「弥陀回向」というところに、弥陀と回向の間に言葉を入れて、つまりこれは「弥陀による回向」というふうに読めばいいわけですね。「弥陀に回向」ではなくて。
 
山崎:  そうですね。「弥陀による回向」まさにそうですね。
 
草柳:  「非善非行」という言葉が出てきましたけれども、それぞれ「行」と「善」の前にくっついている「非」ということにも何か意味あるわけですか?
 
山崎:  そうですね。私は、この「非」は非常口。何か急なことがあったときに、そこに駆け込むわけです。「非」というのは、ですから「あらず」ですよね。あらず。ある意味では相対的な否定といってもいいかもしれませんね。「何々にあらず、何々にあらず」というのは、僕はある意味では仏の心をこの場合表した心だろうと。ということは、日常的な言葉でい言いますと、この「非」というのは、「そうじゃないんだよ、そうじゃないんだよ」という仏の教えの、教えを表す言葉はこの「非」いう言葉ではないかと。
 
草柳:  なぜあえて八条のところで、その「非」という言葉を使ったのか。例えば今おっしゃられたように、この言葉に秘められた意味合いというのは、やっぱり普通に考える「非ではないぞ」ということなんでしょうね。
 
山崎:  そうですね。私は後出ましょうか、「非」というのを、親鸞聖人は「大」という字を意識して使われる。例えば大きい「大」という字に、「行」と書いて「大行(だいぎよう)」とか、「信」を書いて「大信(だいしん)」とかね。この「大」というのは、用法からしますと、全部親鸞聖人は仏に属するものであると。例えば昔大乗仏教、小乗仏教と。これは整理の仕方と名前が―名称が正しいかどうかはまったく別問題がありますけども、一般的に「大」と言いますのは、「大きい」という字ですね。それから「多い」という字と「優れている」というような、「大」という言葉の意味ですよね。それに対して「小」というのは、「小さい」、そして「少ない」「劣っている」。「小少劣(しようしようれつ)」というんですが、こういうもの。ですから「大」と言った場合には、「大行」とか「大信」と言った場合には、親鸞聖人の場合には必ず仏の側に属する表現なんですね。どんなに例えば御教えに熱心であの人は素晴らしい信仰者、信心者という時に、「大信心者」ということは言わないんですね。そういう大=仏の真実という認識が親鸞聖人にあった。それを私は「あらず」ということに。人間の小さな行為というものを、それは本当の善でもないし、行でもないんですよ、というところに、ひょっとしたらまたこう繋がっていくんではないかと。やはり「不回向」ですから、昔の大変熱心な仏教者がこういう歌を、「我称え我聞くなれど御仏の声と思えば尊とかりけり」と。我―私ですよね。私が称えている。そして親鸞聖人の念仏というのは、口先だけで称えるだけでないんですね。自分が称えている念仏を自分が受け止めていく。あ、こういう教えだったんだな、こういうことだったんだな。そういう僕は、だから念仏というのは運動体なんですね。静かな静的なものではないんですね。私が称えている、我称え。そして称えている念仏を私が聞いている。我称え我聞くなれど、しかしそれは私の声でなくて、御仏の声なんだと。私に届けられた我称え我聞くなれど御仏の声であるとするならば、これは実に尊い声であり尊い教えなんだ。だから如来、仏から私に届けられた南無阿弥陀仏を称えているのは私なんだけれども、それは実は如来が私をして称えさせ、教えを聞かせているんだ。そこでまた称える中から、教えとの出会いもありましょうし、また確認ということもあるんじゃないでしょうかね。それが僕は「不回向」こちらからあちらでなくて、仏の真実が動き出して、不信心な、不実な私をきちっと呼び覚ましていこう。昔の私たち育ててくれた先生とか先輩は、「南無阿弥陀仏というのは、仏の呼び声である」という表現を、「呼び声」というのは「呼びかけ」でもいいでしょう。さっきちょっと出てきましたけども。そんなことで大丈夫。例えば私たちは日常のことがあるけれど、歯車の通り動きますと、そこで埋没するんじゃないですか。天下取ったみたいに。ですけど本当にそれで大丈夫なの、という呼びかけですよね。すると、あ、本当にそうだったな。
 
草柳:  何を呼びかけているんですか?
 
山崎:  それは真実なる南無阿弥陀仏の教えが、不実の中にいながら―我々は不実なんて気づいていませんよ―ちょっと褒められたら有頂天になったりしますし、そういう生き方の危なさを大丈夫なのかという、それ教えですね。教えに出会うと、そういうこと気づかされるんじゃないですか。たとえ私たちは、妻子を信じて、そして妻子のために働くとかね。いや、私は努力して会社のしかるべき地位になったから、私はもう私の力でこの地位を得たんだというような、あるいは私は健康だから、これは大丈夫だというような、そういうもの、ある程度人間というのは毎日毎日信じて生きる。それが日常ですよ。それはしかし日常に埋没していますから、そのことの危うさとか、そのことに実は、だけどいつかは裏切られるというといけませんけども、自分自身の老病死の問題は、どんなに地位が高くたって、お金に恵まれていても、優しい人がそばにいても、老病死の問題は解決し得ませんからね。そういうことに対する呼びかけ、大丈夫なのという気づきを促すという。
 
草柳:  そういうことっていうのは、一種のはからいでしょう。私のはからいでしょ。で八条の中にありましたけども、親鸞はそのはからいの危うさということを指摘しているわけですよね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  だけども、こうやって毎日生活しているわけですから、はからいなしには生きていけませんよね。
 
山崎:  生きていけませんね。ですから僕自身の存在そのものが、親鸞聖人はからいそのものの中にある。だから時々ね、僕の中ではからいが出るんじゃなくて、時々煩悩が顔を出すんじゃなくて、その直中に生きているということありますよね。ただ大事なことを今おっしゃってね、大事なことはそのはからいの中に生きていることさえ私達は忘れていませんかね。正しいと思って生きていますから。「あなた、それ自分のはからいですよ」と言われたって、「あなた、なに惚(とぼ)けたこと言っているの。生きていくためにはこうじゃなければ生きれないのよ」ということで。
 
草柳:  しかし今ますますそれがはびこっているじゃないですか?
 
山崎:  そうですよね。はからいの坩堝(るつぼ)の中に生きて、すべての生きとしいける人間が実ははからいの中に生きていながら、そのことの危うさといいましょうか、そういうことに気づいていないというところに私たちの生きる悲劇ということもあるんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  山崎さんは、学校で教えていらっしゃると同時に、ご住職でもいらっしゃるわけですから、多分きっとそういう実際の生活の中でそのはからいということについても、いやというほどいろんなことを、
 
山崎:  そうですね。例えば職場、学校、大学なんかで会議がありますと、僕なんかはっきりものを言いたい方ですから、いいますとね、時として痛烈なことをいうわけですよね。そうすると、痛烈なことを言いながら、今おっしゃったその教えが自分の中に蘇ってくると、あんな言い方しなくてよかったんじゃないかと。でも日常生きるということはまさにおっしゃる通りはからいそのものの中でね、ただ僕はその時にでもね、自分がはからいむき出しの中に生きているということを知らされる場を、私が持っているということの大事さと言いましょうかね、それは僕の中ではすごく大きなことじゃないかな。そこでまた軌道修正されますよ。だけどはからいの中にどっぷりつかって生きていくということの連続ですけどもね。僕は、真宗の世界というのは、だからはからいを超えて、はからいを捨てて、高次の高いところに行きなさいよというのは、素晴らしい自力という方々の仏道の歩みだと思うんですよ。親鸞さんは実はそういう生き方と世界も尊いんだけれども、この中で様々な本当に混沌とした―愛しいとか、憎いとか、損したとか、得したとか、これが日常ですね。どんなに仏法を事としていきながら、それ避けられませんから。でもその中で真実は本当のものに出会ってうなずかしてもらったときには、もう一つ違う世界が自分に開けてきませんか。それが尊いし、それが実は阿弥陀仏の教えに生きるものの世界ですよ、というのが、親鸞聖人の僕は世界だったのかなと理解するんですけどね。健康の問題でも、僕はよくそれはわかりますよ。自分が倒れたら、みな路頭に迷う。あるいは同僚に迷惑をかける。なんとしても健康。健康が大事なことは申しあげるまでもありませんけども、さりとて健康だけが全て第一であるという考え方は、ちょっとやっぱり危険であると、歪であると。ある方が、「健康のためなら死んでもいい」と言って、なるほどなと思ったことを思い出すですけどもね。死んでしまったら何にもならないんですが、それほど僕は、大宅壮一(おおやそういち)(ジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家:1900-1970)さんじゃないけども、一億総健康化。だから健康飲料、健康器具、健康何々と書いたら、まず売れるそうですね。病気になること耐えられませんからね。そこで見失われているのが、僕は学生によくいうんですが、いろんなところから全国集まってきますよね。「医食同源(いしよくどうげん)―食べるものと健康は直結しているんだから、中国の素晴らしい言葉があるから、君たち、気を付けるんだよ」というようなことを老婆心ながらいうんですけどね。ですけど、その健康というのは、必ずしも「健体(けんたい)康心(こうしん)」ですから、健やかな体と健やかな心ですよね。ですからそういう肉体的なものと同時に、今自分が生きている社会の中で、あるいは家庭の中での責任をきちっと果たしながら、なおかつ自分が生きがいを持って生きているかどうか。それが健康の「康」という字の意味らしいんですよ。そういうところまで考えていかないと―話が長くなって恐縮ですけど、「不老長寿」というのが、僕はよく「不老長寿は嘘ですよ」というと、逆説じゃないけど、よく講演さしてもらうんですよ。というのは、「不老」というのは歳をとらない。僕なんか結構学生とワイワイやっていますと、「先生、歳より若いですね」といわれるんですよ。そうすると舞い上がっちゃって嬉しくなる。歳は変わらないんですよね。だから僕の中の健康病であるのかもしれません。若さ病があるのかもしれませんけども。しかし健康というものを考えたときに、今申しました自分がそのポジションでどういう役割を果たして、なお心の安らぎを持っているか。不老というのは、歳をとらないというのはこれはありえないことですから、誤りですよね。もう一つ大事なことは、「長寿」というのは、必ずしも幸せであるのかどうかということを問いかけてみる。親鸞聖人は、そのことを問いかけましたね。曇鸞(どんらん)大師(中国浄土教の僧)という中国の高僧念仏者が、「長生きをしてお経の注釈書研究をしたい。それには不老長寿の法だ―仙人のお経ですね―仙経をもらって大変喜んで帰ろうとした時に、仏教者に出会った」という話がありましてね。これは親鸞聖人が「正信偈(しようしんげ)」という中に出てくるんですが、「あなた、何そんなに喜んでいるんだ」「いや、実は不老長寿の法を私はいただいたから、これで大丈夫」と、こういった時に、「しかしあなた、人間はたかだか生きても何年、何十年ですよ」。今でしたら百年年ちょっと。「それよりも、生きてよし、死してよしという命の充実を図る教えに出会ってみませんか」と、授けられたのが仏法であった、という話が中国の『高僧伝』にありましてね。親鸞聖人は、それを「仙経を焼き捨てて、真実の教えに帰入―帰られたのが曇鸞(どんらん)大師だ」という。僕はそれを自分なりに、「不老長寿というのは嘘ですよ」というそういう表現になってこういうんですけどね。
 
草柳:  ところで、「弥陀の回向」というのは、弥陀による回向である。つまり念仏というのは、もちろん真宗の場合には、ひたすら念仏というふうにいうわけですよね。しかしその念仏をして結局何になる?
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  前からすごく根本的な問題なんですけども。
 
山崎:  まさに根本的で古くて新しい問題ですよね。ですからちょっと身近なことをいうと、この頃若い学生諸君は最近ですね、「先生、仏教概説なんて―これ必修なんです、授業―そんなものをやったって就職の何の役に立ちますか?」という人が多くなりました。僕は、あぁなるほどそうだな。私はこういう言い方をするんですね。「仏教なんか勉強して就職の何の役に何の役に立ちますか?という、実はそういう君にこそ仏教が必要なんじゃないかな」というんですけどね。なんかぽかっとしていますよね。通じていませんね。ということは、役に立つということはどういうことなのか。どうなのか。やっぱり就職これ仕事大事ですよね。すべての学生にとっても就職は大事なことです。ただ仕事を持つということは、やっぱり僕は人生が生きる一つの大事なものですけども、これは手段でして、究極の僕は目的では無いだろうという立場を失ってはいけないと思うんですよ。仕事を粗末にするというんじゃなくて、生きる上での仕事というのは手段ですから。だからそれは「就職のために何の役に立ちますか」という発想は、就職がやっぱり百パーセントになっていないか。分からないことはないんだけども、僕はそういう人生は危ないじゃないかなという、僕のメッセージとして、「いや、そういう君こそブッダの教え、親鸞さんの教えというのは、僕は必要じゃないかな」ということをいうんですが。草柳さんがおっしゃる通り、「何の役に立ちますか?」ということですよ。「病気治りますか?」。 僕、ずいぶん今まで「病気治りますか?」「商売うまくいきますか?」「夫婦関係うまくいきますか?」。だからいかなければ、「じゃ、そんなものやったってしょうがないですか」ということになりますね。「念仏したら何になりますか?」という話。その先生が、「おそらく何にもならんでしょうね」。これは素晴らしいですよね。禅問答じゃないけど、「何にもなんでしょうね」「何にもならないんだったら、あんた、何でやってるんですか?」「いや、念仏してはいけませんか?」という話がある。「それはあなたの自由意志だから、したければやったらいいんじゃないですか」と問いかけた方が言っていますよね。「あ、そうですか。南無阿弥陀仏と念仏するということは自由意志ですか?じゃああなた一つ私の前で南無阿弥陀仏って念仏唱えてくれませんか?」「いや、私は称えられませんよ。唱えたことがないから」「あなた自由意志といったじゃないですか」という話の時に、まぁ最後のところですけども、「じゃあなたは―質問した方が、その方に向かって―じゃあなたは称えずにおれないから南無阿弥陀仏と念仏をしているんですか」「まぁそういうことになるかもしれませんね」。称えずにおれない。その方の温度差がありすぎますから、彼は称えたこともないし、何のためにと言って答えが得られたら称えたらいいけども、答えが得られませんよね。まあそうでしょうね。つまりそこから後が尊いなと思ったのは、何かにならなければ何もしようとしない私。つまり儲からなければ、人が見ていなければ、褒められなければ、何かにならなければ、何もしようとしない私。そして何かになるといったら、人を押しのけてでもそれをしようとする私。そういう私自身に気づかしてくれるものが、実は阿弥陀仏の説いた教えであったり、そして私にとっての南無阿弥陀仏という念仏なんですよね、という、ある先生との対話なんですね。
 
草柳:  そうした今回の八条に見られるような思いというのは、親鸞の本当に透徹した人間を見る眼差しといったものが多分きっとその根底にものすごくしっかりしてあった。そこから来ているというふうに思うんですが。最後駆け足になりそうなんですけども、『教行信証』の中のその一節を読んでみたいと思うんですね。
 
あきらかに知んぬ、これ凡聖(ぼんしよう)自力の行(ぎよう)にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽(じゆうきよう)の悪人、みな同じく斉(ひと)しく選択(せんじやく)の大宝海(だいほうかい)に帰(き)して念仏成仏すべし
 
ちょっとこれをまた現代風にお願いすると、
 
山崎:  そうですね。これは「あきらかに知んぬ」ですから、簡単に申しますと、よくこのことによってわかりました。そのことというのは、実は法然上人のお言葉によってこのことが一層はっきりしました。「これ」というのは念仏ですね。この念仏というのは、私たち人間が自らの力量で持って修めるところの行い、行為ではありません。したがってこれは不回向―私の方から振り向けるんじゃなくて、仏からたまわる不回向の行。だから如来の行。阿弥陀仏の実践行と名付けるべきです。「大小の聖人」大乗小乗の素晴らしいお方、あるいは罪の重い軽いいろんな方、そういう悪なる人。そういう人々も一切の差別も区別もなく、皆同じく等しく、それを僕は人間というのは優れた人もいるし、そうでない人もいらっしゃるけれども、しかし僕は人間は人間以上でも以下でもない。みんな誤多き存在である。そういう人が等しく―善人も悪人も―等しく、「選択(せんじやく)」阿弥陀仏の大いなる教えの世界に帰依をして、帰入して、そしてその教えに出会った喜びから南無阿弥陀仏と念仏を称えて大いなる目覚めた私となる。「成仏」ですから仏になるですからね。大いなる目覚めた私となっていくべきである。こういう意味になるんでしょうか。
 
草柳:  これなんかまさに親鸞の考え方、宗教のほんと根底を形作っている考えというふうに見ていいわけですか?
 
山崎:  そうですね。究極といってもいいかもしれませんね。だからさっきから「回向」と「不回向」というのは、そういう深い問題を見つめているということが見失われますと、あの親鸞聖人の教えというものが非常に分かりにくいものになってしまうんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  最後にもう一つ、極めつきの和讃をご紹介したいと思うんですが、
 
煩悩具足と信知(しんち)して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身(えしん)すてはてて
法性(ほつしよう)常楽(じようらく)(しよう)せしむ
 
山崎:  そうですね。この和讃は私は、好きというと感情的になりますが、特に最初の「煩悩具足」欲望―怒り、腹立ち、嫉み、妬み、そういうものを如何ともして自分自身が抱えている。「具足」ですから、何一つそういうよこしまな思いかけるものがないと、そういうことをその自己の中に深く目覚めていく。「信知」というのは、覚、目覚ですからね。つまり煩悩、言ってみたら本当に罪とか悪もすべてのものを、生きる上でいろんな罪・悪、私たち犯してるじゃないですか。そういう私であるということを深く目覚めて、そして本願力、阿弥陀仏のみ教えの世界に私が帰依をすることができたならば、すなわち穢身(えしん)―穢れた身と書いていますから、これは具足の煩悩ですよね。そういう怒り、腹立ち、妬み、ねたみという、そういう穢身―この身を私たちは棄て果てて、その時に「法性」これは涅槃といいます。悟りですね。「常楽」常に楽しみと書いていますが、法性の常楽を私は悟ることができるんだ。悟るという表現に違和感のある方もいるかもしれませんけども、「証せしむ」というのは、そういう涅槃の悟りを私のものにすることができるんだ。「常楽」といいますのは、常に楽しむ、「常楽我浄」と言って、悟りの世界というのは「常」―無常でない。すべてのものは永遠であるということと、それから「楽」というのは単なる楽しみでなくて永遠の歓びの世界。そして「我」というのは、これは「無我」の「我」の反対ですが、私というものを失わない世界。そして「浄」というのは、私たちの世界は差別やら戦争、悲しいこといっぱいあります。ですけど、最後の「常楽我浄」の「浄」という字は、汚れのない世界。「常楽我浄」という涅槃の境界を私たちが悟ることができるんですよ。それは本願力に乗ずることであると。教えと生きることによって、私がそういう世界に生きられるんだ、という大変感銘深い和讃の一つなんですけどね。
 
草柳:  しかもこの「煩悩」ということは、一つとっても多分きっと親鸞が見てしまった煩悩というのはものすごく深いものだったんでしょうね。
 
山崎:  そうですね。そしてそれは僕は自分が自分の心の内を覗いて―僕そういうことよくあるじゃないですか。なんてつまらん、どうしようもない人間か。こんなのは自己反省の第一歩ですよね。僕はそこに今おっしゃった阿弥陀仏の教えの前に立たされた時の私の偽らない姿。さっき言いました「等身大の私」というものは、こういうものでしかない、あぁ!という深い悲しみと嘆き。そしてそれが悟りにつながっていくという。
 
草柳:  今日はどうもありがとうございました。
 
     これは、平成十八年十二月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである