歎異抄を語るI親鸞もこの不審ありつるに
 
                    武蔵野大学教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
                    き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「歎異抄を語る」の十回目。いよいよ第九条に入ってまいりました。今回はこの『歎異抄』の作者であると同時に親鸞の弟子であります唯円が、この中では師の親鸞にいろいろとかなり素朴な疑問を投げかけるわけですね。それに対する親鸞の答えとその答え方といいますか、その中に非常に注目すべき点がたくさんあるということで、古来からこの条は、多くの方々に関心を持たれてきたところでもあります。「親鸞もこの不審ありつるに」と題して、いつものように武蔵野大学教授の山崎龍明さんにいろいろと話を伺ってまいります。どうぞ今回も宜しくお願い致します。
山崎:  よろしくお願いします。
 
草柳:  新しい年の一回目なんですけれども、例によってちょっと前回のおさらいをしてから今日の本題に入って行きたいんですが、前回は「ひとえに他力にして」ということで、キーワードがいくつかあったんですが、その中で例えば「はからい」という言葉が出てきましたですね。例えばこの「はからい」というのが一つのキーワードだったんですが、これどういうふうにとればいいんですか?
 
山崎:  そうですね。今の言葉でいますと、「自己中心性」というんでしょうか、「自我」といってもいいんでしょうけどね。僕はその「はからい」という言葉の厳密な意味からいうと、それは「計算する心」。人間って私たちは意識する、しないにかかわらず、生きていく中でちゃんと自分が不利にならないように計算する。そういう行為の積み重ねが、実は本来的なものであるかどうかということを、仏教では「はからい」という言葉で表現をしたんではないか。だから前回出てきましたけれども、念仏を一つ唱えるにしても、自分のはからいの心で、唱えたから良いことがあるだろう。これだけのことをしたら良いことがあるだろうという思いで唱える念仏というのは、本来の念仏ではないんだというところから、だから私たちの念仏というのは、人間のはからいでなくて、真実を悟られた仏のはからいによって、私が教えを聞いたり、念仏を申しているんだ、という「人間のはからい」と「仏のはからい」ということを二つ分けて考えたらどうかなと思うんですけどね。
 
草柳:  もちろん人間の行為を、私の行為を否定するのではなくて、そのことにこだわりすぎるといいますか、つまり何でもかんでも「私が、私が」ということはやっぱりちょっと違うのではないか、ということだったんでしょうか?
 
山崎:  そうですね。でも我々なんか行為をしますと、念仏だけでなくて、やはり決定的にそれにとらわれますよね。これだけのことをした、あるいはこれだけのことをしてあげたという。してあげたということによって、実はしたことが無になるということもあるんじゃないですか。そういうものを私は「はからい」という言葉の中でね。だからそれは人間の行為を全面的に否定するとか、無意味であるというようなことでなくして、その行為そのものにがんじがらめにとらわれてしまって、その行為そのものを曇ったものにしてしまう。その私たちの心のはからいと言いましょうか、計算する心を「はからい」という言葉で表現したんではないか。だから念仏はそれを唱える私にとっては、私の善根―善き行いでもないというようなことが、前回のところで問題になってきたんではないか。本来の純なるといいましょうか、本来的な念仏というのは、「仏から私に賜ったところの行為なんだ」という。まあ昔の学者はそれを「如来の行」―行いですね―とか、「如来の善」という形で、それは仏のはからいなんだと。ちょっと難しいんですが、「人間のはからい」と「仏のはからい」というものを、そういうところで二つに分けて説明することの方が少し分かりやすいかなと思うんですけどもね。
 
草柳:  いずれにしても、その「はからい」というのは、まあ言ってみれば人間の性(さが)みたいなものですよね。
 
山崎:  ですね。ですからそれは第九条の煩悩ということにも当然つながりますよね。
 
草柳:  まず最初に今回は少し長いんですけれども、一度通して読んで、それから少しずつお話をしていただくという形にしたいと思うんですが、一度通して読んでみます。第九条なんですが、
 
念仏申し候へども、踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじよう)とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをおさへてよろこばざるは、煩悩の所為(しよい)なり。しかるに仏(ぶつ)かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(しよろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゆうり)はすてがたく、いまだ生まれざる安養(あんによう)の浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじよう)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定(けつじよう)と存じ候へ。踊躍(ゆやく)歓喜(かんぎ)のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。
 
字数にすると、たぶん五百字ちょっとぐらいだろうと思うんですが、「煩悩」という言葉がずいぶんたくさん出てきますね。
 
山崎:  そうですね。「煩悩」と「煩悩具足」入れると五つ出ていきますね。ですからこの箇所は、端的に言いましたら「煩悩と救い」人間悪と救いといってもいいでしょうかね。そういう箇所だと思いますね。
 
草柳:  一度それでは今の言葉といいますか、現代の言葉にズーッとざっと訳していただけますか。
 
山崎:  承知いたしました。あとの問題、いろいろ説明ありますからなるべく簡単にしましょうかね。いくらですね、「念仏申し」ですから、阿弥陀仏の教えを聞き、あるいは口に南無阿弥陀仏と唱えておりましても、「踊躍歓喜」踊りあがるほどの救いの喜びが一向に湧いてきません。また私の中では急いで阿弥陀仏の浄土に生まれたいという気持ちにもなれないのですが、これは一体どうしたことでしょうか、とお尋ねしたところ、私・親鸞も実はそのような疑問を持っていた。唯円房、あなたも全く同じ思いを持っていたんですね、ということが「唯円房同じ心にてありけり」と。後で申しますが、唯円としては、問い掛けた問題に対して、親鸞聖人が、「親鸞もこの不審ありつる」私もそうだった。あなたもそうだったのか、というところに、ちょっと微妙な深みを感じるんですがね。普通ですと、質問された場合には、「いや、あなたそういうことを考えていたんですか。私もそうなんですよ」というのが普通ですけどね。「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」という。これが最初のところですよね。その次になりますと、よくよく考えてみますならば、本来ならそういう素晴らしい教えに出会って踊りあがってよろこんでもいい。そういう教えに出会っていながら、残念ながら日常のあれこれに埋没して、それが喜べない。そういう私であるからこそ、救いは間違いないんですよ、と、むしろ気づくべきではないでしょうか。深く喜ばなければならない真実の教えに出会っていながら、それが喜べないということは、何が真実、何が本物であり、何が誤りであるかがわからない。私たちが迷いのただ中にいるからです。それは私の心の煩悩ですね―煩悩を心の汚れといいますから―私の心の欲望とか、怒りという汚れのせいであると言ってもよいでしょう。しかしながら阿弥陀仏はこのような私たち人間の実態を見抜かれて、数限りない煩悩によって身心をわずらわし、悩まされ続けている存在と仰られています。仏の方から人間をそういう形できちっと洞察している。しかしながらよくよく阿弥陀仏の教えに出会ってみるならば、それは阿弥陀仏の実は深い慈しみですね― 慈悲の誓い―「悲願」と書いていますが、これは本願といってもいいでしょうが、そういう阿弥陀仏の非常に深い慈しみの誓い、本願は実はそのような、つまり真実なることを喜ばずに、どうでもいいことをいつも問題にしている私たちのためのものであったと知られて、実はますますそのことが頼もしく思われます。ここはこういう意味が表されている言葉であろうと思いますね。
 
草柳:  では次のところに行きまして、
 
山崎:  そうですね。だんだん佳境に入ってくるわけですけど、「また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて」つまり真実の素晴らしい世界、悟りの世界があるということを言われましても、一向にそこに行きたいという気持ちが起こらない。それどころか「いささか所労」ですから、何かちょっとですね体調の不調ですとか、まぁ病気に病むとか、そういうことでもありますと、これで死んでしまうんだろうか。「死なんずるやらん」と、そういうこころぼそくおぼえることも、実は煩悩のなし業であると。ということは、そういう素晴らしい悟りの境界に行くことを約束されていながら、そしてむしろここで娑婆の縁が尽きたときには、その世界に行くことが約束されているのに、なおかつそれが私たちの喜びにならないということですね。「死なんずるやらんと心細く覚ゆる」これも実は日常に埋没している私たちの煩悩の、僕は「所為(しよい)」というのは、「なしわざ」とよく読むんですけどね。煩悩のせいではなかろうか。そして「久遠劫」ですから、遠い遠い昔より今日まで、何が真実で、何が本物で、何が誤りかということがわからない。ずーっとずーっと迷ってきたこの土(ど)、ここに「旧里(きゆうり)」と書いてますね。僕は「苦悩のふるさと」とこう読むんですが、迷いを重ねてきた私たちのこの現実の生き方、あるいは娑婆での生き方ですね。そういう思いをなかなか捨てきれず、同時にまだ一度も生まれたことのない仏の真実の世界というのは、それがどのように素晴らしいとこであると言われましても、一向にそこへ行きたいという心が起こりません。これらのことを通しても、私たちはあらためて、この私自身がいかに煩悩が深いゆえ、「煩悩の興盛」ですからね、盛んであると。煩悩がいかに深い身であり、そして迷いそのものの私であるということをしみじみと知らされます。
 
草柳:  この「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里」なんていうこのくだりが、実に文学的な表現ですね。
 
山崎:  そうですね。『歎異抄』には、随所に文学的な、ただこういう文学的な表現に、ともすると言葉は悪いですけど、幻惑されて、騙されて、素晴らしいことだなというんですが、これはどういう事柄をですね、世界を表しているかということが、すごく大事で、まさに苦しみ・悩みの故郷―私がおぎゃーと生まれて今日まで生きてきた、その迷いそのものの世界であるんだけれども、その迷いの世界を、私たちはいつまでも自分の生きる世界だと錯覚して、それを超えた素晴らしい世界があると言われても、それが耳に入らないというんでしょうかね、価値観が全く違っていると。それはもうさっき言いました煩悩がいくつか出てくる中の私たちの―煩悩は、インドでは「キレーシャ」で、心の汚れですから、もっと欲しい、あれも欲しい、これも欲しいとか、あるいは怒りの心ですとか、そういう煩悩によって本来求めなければならないものが見られなくなってしまっているんだ。ますます煩悩の深いということを感ぜざるをえないという。ここはそういうことがポイントになるかもしれませんね。
 
草柳:  この辺また後でじっくりお伺いいたします。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  ではもう一つ最後のまとまり、塊なんですが、
 
山崎:  ここもなかなか素晴らしい説得力のある言葉で、「なごりおしくおもえども」―よく「私は早く死んでしまいたい」という人に出会いますよ。よく聞いてみると、決してそう思っていないんですよ。やっぱり名残惜しいんです私たち、この苦しみ・悲しみで辛いことなんだけれども、この娑婆―現実に生きるその現実が非常に名残惜しい。名残惜しくですね深い執着を持っているこの世でありましても、しかしいくら名残惜しい惜しいと思っているこの土でも、結局は私たちは離れて行かなくてはなりません。しかし阿弥陀仏の真実―まことの教えに導かれて、そして支えられて生きる私たち念仏者は、この土を離れるときに、直ちに自然(じねん)の世界―自然(じねん)の阿弥陀仏の世界、仏の世界に生きることができるんです。そしてその後に、一日も早くこの仏の世界に、浄土に生まれたいという心のないものを、阿弥陀仏という仏は、特に慈しみ・悲しみ・憐れまれましてね、そういう人間を育(はぐく)まれるのですと。このように我欲に溺れ、そして私たちの日常の目先の物に埋没して、真実なるものにいつも背いている人間、そのものをまず救いの第一の対象とされた阿弥陀仏の誓い―本願ですね、大慈大悲―阿弥陀仏の本願・誓いこそ、実は私たちの命の拠り所、死の帰するところというべきではないでしょうか。もし阿弥陀仏の教えに出会って、踊躍歓喜ですね、踊りあがるほどの喜びの気持ちが起こったり、あるいは一日も早く仏の浄土の世界に生まれたいという私であったならば、それは自分の心の汚れ、あるいは人間としての迷いが一切ないのだろうか。つまり煩悩がそういう人はないのだろうかと、かえって疑問が出てくることでしょう、と、親鸞聖人は仰られました。こういうことが最後の文章に出てまいりますね。
 
草柳:  この最後の言葉って考えてみるとすごく強烈ですね。
 
山崎:  そうですね。大変厳しい言葉ですね。
 
草柳:  ズッと現代の今の言葉にわかりやすく解説していただいたわけですが、一つ一つ少し細かく見ていきたいと思うんですが、その前にですね、今回この九条というのは、今言っている問答形式になっているわけですよね。唯円が問う。それに対して親鸞が答える。例えばさっきもちょっとお話がありましたけども、唯円が聞いていることって、相当素朴なことではありませんか、考えてみれば。
 
山崎:  そうですね。ただ「素朴なこと」と言いますか、基本的なことであるだけに、唯円さんは相当覚悟をもって―梅原猛(うめはらたけし)(哲学者。ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長。立命館大学文学部教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長など歴任:1925-)という人が、『歎異抄』の本を書かれましてね、こう書いていますね。この第九条ですけど、「唯円は言ってはならないことを言ったのである」という。だって親鸞さんのもとで教えを聞いていながら、当然教えの喜びがあるはずなのに、一向にそういう心が起こらない。こんな私で救われるんでしょうか、というのは、相当まぁ力がある、勇気がある質問ですよね。だから梅原さんは、「言ってはならないことを言ったのである」と。「でもそこに唯円という人の正直さがある」と書いたのは、梅原猛さんですけどもね。
 
草柳:  でもたいていそれは誰でもそういうふうに感じるものじゃありません?
 
山崎:  そうですね。ただどうでしょうか、一般的に仏教とか信仰の世界ですと、師と弟子というものがありますと、そんなこと師匠に聞いてどやされるんではないかと。
 
草柳:  そういう心配がありますね。
 
山崎:  本来親鸞聖人は、そういうことは一切心配ないんだよ、という教えを説きながら、唯円さんにしましては、真面目な人であるだけに、そういう思いがあって、私は悶々していたんではないかと思うんですよ。今日は思い切ってこのことを聞いてみようという心が、第九条というものになってきたのではないかと。
 
草柳:  もしこの通りだとすれば、親鸞が答えてくれたという、そのことに対して唯円はものすごくほっとしたんでしょうね、きっとね。
 
山崎:  そうですね。それはホッとするというよりも、むしろ深い驚きだったと思いますね。「親鸞もこの不審ありつるに」なんていう言葉は、誰が想像したでしょうね。おそらく一般的に言いますと、よく私は日常的にも、よくあるじゃないですか。どうしても教えがわからない、喜べない、日常のものにならない、どうしたらいいでしょうか、という問いがあったときに、大多数の方は、「あなたは信仰が未熟です」とか、「信心が足りないんですよ」という姿勢が多いんじゃないですかね。私はそういう時に、そういう深刻な問いに対して、「あなたはまだ未熟だ」とか、「信心が足りない」という信仰は恐ろしく危ないと。実はそこから共々に学んでいくのが信仰の営みではないかなと、私は考えているんですね。だから勇気あるというか、思い切った唯円さんの質問、ひょっとしたら親鸞さんにとっては、それは一つの喜びだったかもしれませんね。よく問うことがやっぱり本当のことを学ぶということにつながっていくんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  そうすると、ある意味ではこの唯円の最初の疑問というのは、唯円にしてみれば、相当必死の問いだったというふうにも言えますよね。
 
山崎:  そうですね。だから僕は必死さというのは、何百年超えまして、多くの人の心を打ってきたんではないかと。これは確か私が勤務する武蔵野大学の、四十年前ですが、文学部ができました時に、英米文学科の主任教授が法政大学からお招きした本多顕彰(ほんだけんしよう)という先生で、前にも出ていましたが、大変な『歎異抄』の傾倒者だったんですね。あの人が、「この『歎異抄』の第九条が、実に人間臭さ、人間らしさを表した、そして『歎異抄』で最も魅力的な箇所である」と書いたのは、本多顕彰さんなんですね。それは唯円さんの問いによって、そこでしっかり親鸞さんと心のベルトが掛かりまして、対話が成り立っているんじゃないですか。ただそれが「親鸞もこの不審ありつるに」ということでびっくりしたと思うんですけども。僕の言葉でいうと、「じゃあ私もそうだったから、今日このこと一つをお互いに明らかにしようじゃないか」。僕は、宗教の世界というのは、こういう世界でないといけないんではないか。上から「あなたは未熟である」とか、いうようなことではない。そしてまたそういうことをすごく大事にしたのが、親鸞さんの宗教的な世界だったんではないかな。唯円さんは、ある意味で人類を代表する―だって草柳さん、信仰の歓びというのは、いろんなお経の中に「信心歓喜(しんじんかんぎ)」と書いてありまして、教えに触れたものは歓び得るといっぱい書いてあるんですよ。だから唯円さんの悩みというのは深刻だったと思うんです。にもかかわらず私は喜べない。それがこういう問いなって表れてきた。ある意味では、非常な決意の中で問われたことが、実に八百年後の今日の私たちにまで問題を広げてくれたというんでしょうかね。そういう意味では大変な勇気というと適切じゃないかもしれませんけども。
 
草柳:  いやぁ、よくぞ聞いてくれた、という感じなんですね。
 
山崎:  そういうことですよね。
 
草柳:  じゃなぜ唯円が、そういう疑問を投げかけざるを得なかったのか。なぜなのかというのは、次の塊の中で述べているわけですね。なぜなのかということに触れているんで、その二つ目の塊にちょっと移って行きたいんですが。
 
山崎:  そうですね。「よくよく案じみれば」という所になってくるわけですけれども、これはまさにおっしゃるように、唯円さんの問いによって、親鸞さんとこう対話が成り立つわけですけれどもね。だから「よくよく案じみれば」とかね、親鸞さんは他の書物の中では「謹んで案ずれば」とか、だから教えの世界というのは、よくよく問い掛ける。だから僕は、どれだけ問いかけたかということによって、やっぱり答えが響いてくるものんじゃないか。よくよく考えて―冷静にと言いましょうかね、考えてみれば、天に踊り、地に踊るほど喜ばなければならない。だってこの教えによって、私が救われるという教えですから、喜びの極みであるというようなものでありながら、それが喜ぶことが出来ないということを考えた時に、まさにそれはそのことによって実は「いよいよ」ですから、私たちの救いというものは、間違いなく決定しているんだと。こう心得るべきではなかろうか、ということですよ。これはなかなかわかりにくい所ですけどもね。ですから阿弥陀仏の教えの本質というのは、教えを聞いて、すぐ喜べる人を救うという教えではなかった。どんなに素晴らし教えがあっても、それが喜べなくて、いつも身近な日常に心を奪われて生きている、そういう人を、まず救わなければならないというのが、阿弥陀仏の教えであるとするならば、喜べない私が救われるということはもう既に決まっていることではないか、という展開が、「よくよく案じみれば」というところにつながっていくんではないか。それが「往生は一定とおもいたまうべきなり」とこうありますよね。そしてその後に「よろこぶべき心をおさへてよろこばざるは」、私はこの第九条を見ますと、私は自分の人生の中で何を生きる喜びとしてきたのか。何を悲しんで生きてきたのかということが、何か深く問われるんですね。喜ばなくていいことを、例えば人にほめられたら嬉しくなっちゃったり、本当に悲しまなければならないことが、私たちの周囲にも、いろいろな世の中の出来事を含めましていっぱいありますね。それがなかなか自己の悲しみとか痛みにならないですよ。そして我が身を喜ばせることだけを喜び、そして悲しまなければならんことも一向に悲しめない。そういうことを僕は痛烈に私たちに突きつけているんではないかな、とこう思うんですよね。喜ぶべき心を、しかし抑えて喜ばせないのが、私たちの煩悩のなし業(わざ)なんだと。煩悩の根本は自我の欲ですから、自分さえよければいい。人が不幸せになったって自分が幸せであればいいという自己愛というか自我といいましょうか。
 
草柳:  「私が私が、私こそは」という私ですね。
 
山崎:  そうですね。それはさっき申しました、一つは、欲ですよね。だからどうでしょうね、あたしたちが幸せを感じるという時は、どうでしょうね、自分の思いとか、欲がどれだけ満たされたかということによって、私たちは幸せを考えていませんかね。だけど、その欲を満たされたことが本当の幸せかということは問わないわけですよ。あ、よかった。なんて幸せなんだろうかと。そうすると、次の欲しいものが出てくるわけですよね。その連鎖がずーっとその迷いの連鎖が続きますよね。ですからそういう意味でいうと、その喜ぶべき心を抑えて、喜ばせざるはそれは煩悩というもののし業なんだと。しかし「しかるに」ですから、そのことを実は真実を悟られた仏は、きちっと喜ぶべきことを喜ばない私たちの人間を深く洞察して、そして私たちの人間存在を煩悩具足の凡夫。「煩」は煩わしいですよ。「悩」は悩ますですよね。不完全で、不完全極まりない私。そして誤り多き私。悩み多き私。そして欲望むき出し。良い思いをするためには、手段を選ばないというような、それが実は「煩悩具足の凡夫」。つまり人間であるということを洞察されて、そしてそういう人こそですね、真実の世界に気づかせずにおかないという慈しみの願いを立てられた。これが他力の悲願ですね。ですからそういう仏の願い、誓いというのは、この私の「われらがため」ですから、ある意味では一切の人々のため、一切の人々のものでありながら、同時に煩悩具足した私一人のためのものである。そういう私たちの為であると知られて―その後私はよくこれを拝読しますと、「いよいよたのもしく」と書いてあるんですよね。私ごとで恐縮ですが、うちの息子は今三十五なんですよね。ずいぶん頼もしくなりましたね。頼もしくなりすぎましてね、この頃。なんか親の立場が逆転するみたいなところがあって、態度がでかいわけですよ、息子が。そうすると、一般的には頼もしくなった、僕はいつ死んでも大丈夫だなという頼もしさがある。でもここでいうその「頼もしさ」というのは、決してそういう頼もしさではありませんで、もう人間の命を根底から支えて、このこと間違いなしという信頼感ですよね。我々があの人は頼もしいなんていうのは、次の日ひっくり返っちゃうような頼もしさですけど、僕はここに「いよいよたのもしくおぼゆるなり」というのは、救われること間違いなしという大安堵心というんでしょうかね、大安心(だいあんじん)。それが実は阿弥陀仏の教えによって私たちに約束されているんだという非常に強い言葉、表現となってここに私は表れているんじゃないか。
 
草柳:  だけどそれは、煩悩があればこそのということが当然あるわけでしよ、今のところでは。
 
山崎:  そうですね。ですから煩悩というものが、本来的な生き方とか、悟りとか、成仏というものを阻害するものであるから、その煩悩をとにかく綺麗に断ち切りましょうという仏法の学びがありますよね。だけど親鸞さんは、断ち切れるものなら断ち切るにこしたことはないけれども―怒りとか、腹立ちとか、嫉み、妬みという根源的な煩悩というものは、顔についた墨ならば、顔を洗えば取れるけれども、顔についた目とか、鼻であるといくら洗ってもそれは取れないように、つまり煩悩を全て取るということは、なくすということが、人間が人間でなくなるということに等しくて、それは不可能なことなんだと。そういう一つ、人間観に立っていたんではないかと思うんですよ。ですからじゃその煩悩と―言葉は悪いけど、どう折り合いをつけて生きるか。全面的に否定することができないとするならば、その煩悩とどう人間が共存と言いましょうかね、共に生きていくことができるかというのが、親鸞聖人の宗教的な課題であったんではないか。
 
草柳:  これまではそうだったんですけども、親鸞の言い方といいますか、親鸞の教えというのは、今の例えば煩悩の問題をとれば、煩悩があればこその救済、煩悩あればこその悲願なんだ。つまりだから何かこう逆説的な言い方って非常に多いでしょ。そういう言い方で親鸞言ってきていますよと。
 
山崎:  そうですね。一般的に仏法の考え方ですと、煩悩というものは、さっき言いました悟りを阻害するものとして否定する、断ち切る。しかしそうでない―逆説的な表現ですよね―そこにはやっぱりそういう逆説が生まれてきたのは何かというと、私は仏教というのは、一口に広くありますけどね、それぞれの宗派をお開きになった祖師方にも言えることですけども、それぞれ人間というものに対する認識、見方がずいぶん違うと思うんですね。道元さんの人間に対する認識と、親鸞さんの人間に対する認識とずいぶん違う。道元さんの場合には、ある意味ではどうでしょうかね、仏道を歩むというのは、欲望との闘いの歴史であったみたいなところがある。ですから戒律を、あるいは修行ということがある。だけど親鸞さんは、「煩悩を断ぜずして悟りを得る」というのがあるんですね。煩悩を断ぜず、断ち切らずして悟りを得るという世界があるんだ。実はそれが阿弥陀仏の世界だというのは、煩悩によってこそ人間が人間であることの悲しさを知らされるし、そして人間であることの、またおぞましさと言えましょうか、いやらしさも知らされる。そういうことを知らされることによって、逆に仏の真実というものに会う世界がそこから出てくるんだと。昔の方がですね、熱心な妙好人なんと言われる教えを大変喜んだ方が、煩悩をですね「罪はわたさぬ よろこびの種」と言った人がいるんですよね。煩悩を仏様にお渡ししない。なぜなら私たちが人間として生きていく―僕らでもありますよね―苦しみとか、悲しみとか、切なさ、やるせなさ、そういうものが実はあるから、そこで実は阿弥陀仏の教えというものが私にいろいろ影響を与えてくれたり、価値を、意味を発揮してくれるものなんだと。だから煩悩がなくなったら、そういう世界がないから、私は罪は渡さぬ。それは罪が自分の教えと出会った喜びの種なんだという。そういう歌をちょっと思い起こすんですけどね。
 
草柳:  だけれども、しかしとてもじゃないけども、尋常な向かい合い方では、その煩悩ということの見極めというと、つまりたぶん親鸞の中では大変な内省的な深みというんでしょうか。そういうものがあって、初めて親鸞という煩悩という言葉が真実味を帯びてくるという感じがするんですね。煩悩という言葉は、いろいろあちこちにありますけれども。
 
山崎:  そうですね。ですからどうでしょう、私たち、草柳さん、いろんなことを考えたり、今日まで生きてきて、自分の煩悩に涙したり、悲しむなんていうことが、僕の中にあったかなと考えると、ほとんどないですよね。だけど「煩悩、煩悩」ということを言葉として僕は知っているんだけども、それが自分自身の人間としての悲しみとか、痛みになるというのはほとんどないですよね。親鸞さんは、それはまさに煩悩をその中、自己の苦しみと悲しみ、それが痛みという深みの中で、初めて阿弥陀仏の真実に出会うことができた。私はやっぱり人生に挫折するとか、本当に私もいろいろ今までお付き合いさしていただいた方の中で、あぁ、この人魅力的だな、素晴らしいな。信仰者とか、非信仰者ということを問わずに、魅力的で、あの人にまた会いたいなという方は、いろいろ人生の中でつまずいたり、挫折したり、ときには生きることが嫌になったというような方に非常に魅力を感じるというのは、僕は人の経験しないやっぱり深い悲しみ、苦しみを担って生きて来たからだと思うんですよ。そういう人にとってやっぱり初めてこの阿弥陀仏の教えとか、真実とか、浄土という世界が、なくてはならないものとして迫ってくるんではないかな。
 
草柳:  そういう意味で、例えば親鸞の深い悲しみの中から多分きっと生まれてきたのではないかと思う和讃を、一つここで紹介したいと思うんですが、この和讃なんですが、
 
悪性(あくしよう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じやかつ)のごとくなり
修善(しゆぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行(ぎよう)とぞなづけたる
 
これはどういうふうに理解すればいいんでしょうか。
 
山崎:  そうですね。これはどうでしょう、親鸞聖人のその人間性を表す多くの人に口の端(は)に乗っております代表的な和讃ですね。これはご承知のように中国の善導(ぜんどう)大師という方の『散善義(さんぜんぎ)』という書物の中に出てくる言葉を、親鸞聖人なりにですね和讃されたものですよね。「悪性(あくしよう)さらにやめがたし」今悪性(あくせい)なんていうのが病気の世界でありますが、悪なる性(さが)ですよね。それはさっき出てきました、根本的にいうと、人間の自己愛と言いましょうか、自我、そういう人間の本質的な性質を言いましょうか、そういうものをどこまで行ってもそれこそ仏法どれだけ聞き学び、身に付けたとしても、なかなかこの悪性(あくしよう)というものは、これだけ仏教を学んだから消えるというようなものではない。そしてそれにつながって心というのは「蛇蝎(じやかつ)」ですね。蛇・さそり、これ一つの象徴的な表現でようけど、蛇やさそりのように虎視眈々としているという。そういうような人間の本質であると。そういうところから行うところの行為としての「修善(しゆぜん)」ですね―善を修める、善を行う。「善」そのものは、善としては素晴らしいんですけれども、私たちは何かいいことをしますと、悪いことをするよりも、むしろ人間というのは、善いことをした時の方が、私は危険じゃないかと思うことがあるんですよ。つまり善いことをしているんですから、傲慢になりますよね。そしてこれだけのことをしたんだから、あなたそんなことないだろうと、すぐ人を責める道具にしたりする。そういった善の修め方というのは、そんなに尊いものではないし、「雑毒(ぞうどく)」ですからね―いわゆるエゴですね。エゴむき出しのものじゃないだろうか。「修善(しゆぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに」従ってそういう行為は一見素晴らしいものであるように見えたとしても、それは「虚仮(こけ)」ですから、嘘、偽り、その場限りの行為としてしか名付けられないものなんだと。まぁいずれにしても、悪性さらにやめ難いこの私にとっての思うこと、あるいは行いというのは、その場限りの虚仮の行としか言い得ないものであるという、大変内省的な。こういう和讃を、僕はある心理学者のディスカッションの時に、全く仏教を存じあげない心理学者が、「先生、親鸞さんというのは、精神病の対象じゃないですかと。ここまで自己を内省するなんていうのは、考えられない」といった人がいましてね。僕は考えさせられたことがあるんですけどもね。ただ今日の時代の中で社会的な問題を見ましても、僕はこういう自己自身の内なる罪悪性とか、悪性というもののほとんど問題にならない。ですからどんなことをしたって、見つからなければいいでしょ。みんなやっているでしょ。それが人間ですよ、という時代ですよね。だからこういうことがほとんど通りにくい時代になっていますよね。それが実は今日のような社会を僕はつくり出してきたんではないか。世界中の今深刻な混沌とした状況というものと、こういう人間が人間であることを問うということを失ったことと、僕は決して―戦争の問題を含めまして、無関係ではないなということを感ずるんですけどね。
 
草柳:  しかもこれはすごいなと思うのは、親鸞がもう最晩年の八十五歳の時の作品なんだそうですね。
 
山崎:  そうですね。普通八十五位になりますと、もう枯淡の境地というか、枯れてしまってというんですがね。これは八十八歳の時の手紙を―前に出てきましたが、見ましても、それはびっくりするような、本当にびっくりするような瑞瑞(みずみず)しさ。私は死に方なんか一切問題なりませんよ。死に方によって救われるんじゃないですよ。どう生きたかという、正しいダルマ―教えによって導かれて、どう生きたかによって救いが決まるんですよ、というようなことが手紙にありましてね。これ前に申し上げたことがありますが、これは本当に瑞瑞(みずみず)しい感性というのは、僕はどっから来たのかということを若い時からズッと考えますと、それはやっぱり教えの前に立った時の自己というもののダイナミズムと言いましょうか、僕は信仰というのは、そういうものじゃないかってなということを歳を重ねた親鸞さんから改めて教えられますね。
 
草柳:  こうしたことが親鸞の不退転の信心ということにつながっていくんでしょうけれども、三つ目の塊に行きたいと思うんですが、三つ目はこの言葉で始まっているんですが、「また浄土へ急ぎまいりたき心のなきて」というところ、ここは?
 
山崎:  そうですね。人間というのは、どうでしょう、本物というものをどちらかというと、僕は嫌う存在ではないかと思うんですよ。真実ほどやっぱり人間というのは背を向けるんじゃないでしょうかね。そして不実なるものというんでしょうか、本物よりも嘘・偽りの方が面白いですから、どうしてもそっちに僕らは「また浄土へいそぎまいりたき心もなくて」真実の世界ということを約束されながら、そこにすぐ行きたいという気持ちが起こらない。それどころか「いささか所労」―さっき出てきましたけどね、少し体調不良だとか深刻なこということが、肉体的に病気を含めてありますと、もうこれで私はダメなんじゃないだろうか。むしろそこでですよ、ダメなんであるならば、その先に真実の浄土という世界があるならば、行けるんですから喜ばなければならないのに、喜ぶどころか、「死なんずやらんと心ぼそく覚える」と。リアリティがありますよ。僕ら自身何べんも経験しました。お医者さんに、「ちょっと深刻な緊急検査で一週間後に来て下さい」と言われますと、普段はそれこそ「生きることは死ぬことと見つけたり」。そんな高尚な自分でないと思いながら、そういうものを読んでいながら、「あと一週間後に来てください」と言われますと、僕も入院しまして、「一週間後に検査結果が出ます」というと、その一週間なかなか穏やかならざるものがありますよね。
 
草柳:  いやそれはいざという時に、心のうろたえるがない人なんていうのは…。
 
山崎:  二、三回そういうのがありましたけどね。じゃ準備しなければいけないのかなと思いながら、いや、まだまだ死ねないみたいな思いが率直にありましたね、入院した時でもね。「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心ぼそく覚ゆる」実はこれも私たちのエゴ、自我むき出しの煩悩のなし業であると。
 
草柳:  これも煩悩のせいだというふうにいうわけですね。
 
山崎:  そうですね。ですからやっぱり僕は今「親鸞における煩悩の考察」なんて偉そうな論文を書いているんですけどね。やっぱり親鸞聖人のことを領解(りようげ)―正しく理解するためには、やっぱり大事なことは親鸞さんとて煩悩とはいかなるものであったかということはすごく重要な、そしてさっき出てきました五回ここに「煩悩」という言葉が出てくるということは、つまり私たちの救いを阻害するものは煩悩なんだと。しかしその煩悩はいかんともしがたいものとしてある。これをどうすべきかという非常に深い宗教的な、僕は問いがこの第九条に実は隠されているんではないか。「久遠劫よりいままで」昔から迷いを重ねてきたこの現実の私たちの―人生といってもいいですね―娑婆世界は捨てがたい。「いまだ生まれざる」しかし生まれたことのない真実の悟りの境界であるという浄土にいっこう恋しいという心も起こらない。これも実はまことに「煩悩の興盛」とありますから、いかに煩悩というものが、私たちの生き方を占めているものであるかという。それはちょっと身近で申しますと、例えば僕よくお寺でもどこでも、法話とか講演で申しますけどもね、私はそこに行くと―この間も九州で三千人の方が集まっておられました。よく来てくださったなと思うんですよ。それをこう思いますと、それはとっても尊い縁ですよね。そういう方がたくさん来てくださる。私はその時にちょっと余計なジョークなんですけども、「みなさん、ここに来ることが本当に楽しみであって、昨日から眠れなかったという人は手をあげてください」。みな笑っていますよね。ほとんどそうじゃないんですよ。人に言われたから来たとかね、そういうことがありますよね。だけどみなさんどうですか、僕はゴルフをやりませんが、仲の良い友達とどっか遊びに行くとか、ゴルフするとか、温泉と言ったら、来るなと言ったって前の日から興奮して眠られないんじゃないでしょうかね。そういう仕組みですよ、人間というのは。僕も煩悩の興盛というのは、そういう仕組みを持った人間、それ自身はいかに悟りという境界から遠いところに位置していないか。だけどそれを全部洞察して、見抜いて、人間というのは良い悪いじゃなくて、こういう存在なんだということを見抜かれたのが、実は「仏かねてしろしめして」ですから、そのことを見抜かれて、つまりエリートであるならば、手間がかからない。そうでない、そんなものは生きていく上で何の役にも立たないという真実というものに、本来なるものは背を向けている人ほど、実は真実をわかってもらいたい。そこに本当の生き方があるんではないかというのが、「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられるたることなれば」、そして「他力の悲願」慈悲の願いがそこから起こされてきた。私はやむにやまない智慧と慈悲という阿弥陀仏の世界が、その煩悩むき出しで生きている人たちを、ともかく救わなければならない。言葉は悪いけど、エリートの方は二の次、三の次でもいい。だけどそうでない人をまず幸せの世界を恵むということが、仏の慈悲の究極であるという。そこに僕は親鸞聖人が、阿弥陀仏の本願を「悲願」というね―「悲願達成」というじゃないですか。私たちの「悲願達成」というのは、就職ができたとか、甲子園に出場できたら悲願達成。阿弥陀仏の「悲願」というのは、一切の生きとし生ける人たちを真実の世界に、境遇に導いて、あ、この教えに出会って良かったというようなところに育てはぐくむことが、私の究極の願いなんだ、ということが、僕はこの「仏かねてしろしめして」という言葉であったんではないかなと領解するんですけどね。
 
草柳:  最後の塊へいきましょう。「などりおしくおもえども」というところに、
 
山崎:  そうですね。「などりおしくおもえども」例えば私たち生きていく中で、この頃大変悲しいことですが、三万二千人以上の方が亡くなるとか、一日百名の方が自死するなんていう国は、どんなことでしょう。悲惨な極(きわ)みですよね。しかし一方ではいろいろ苦しいことや辛いことがあって、いっそう命を絶ってしまいたいと思いながら、一方でいうと実にこの世俗というものの素晴らしさ、名残惜しいという思いがありますね。しかしどれだけ名残惜しいと思いましても、例外なしに娑婆の縁尽きるときがあるわけですから、娑婆の縁尽きる命終えなければならぬ時があるわけですから、それを「力なくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり」私はこの言葉に触れます時に、念仏をしても喜べない、お浄土にも行きたいという気持ちが起こらないというと、多くの方はそこでみんなコロッと行っちゃうんです。親鸞聖人でさえそうなんだから、私たちなんて増して尚更なんだと。あぁ良かったと。自己完結したり、自己正当化しちゃいますよね。そこで終わったんではこの第九条を全部読んだことにならないと思うんですよ。それがこの「などりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、力なくしておわるときに」悟りの境界である帰るべき真実の世界へ帰ることができるんだ。しかも「急ぎまいりたき心なきもの」ですからね。早くそういう仏の境界にいきたいという心のない人を、殊に、だから急いでそういう世界に行きたいという人は、さっき言った言葉でいうと、宗教的・仏教的エリートという人かもしれません。だけどそうでない私たちを、殊に悲しみ・慈しみをかけられて、こういう人たちを救わなければならないとこう思われた。このことから考えてみたら、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願」大ですから無限ですね。無限の慈悲、無限の智慧というものに基づいた阿弥陀仏のすべてのものを救わずにはおかないというその誓いね。本願というのはまことに頼もしく、そして私たちの救い、仏になるという救いは、「決定(けつじよう)」ですから、もう間違いなくこの土で決定していると言わなければなりません。最後のこの四行ですけどね。「踊躍歓喜」天に踊り、地に踊るですね、つまり浄土に早く生まれたい、あるいは念仏していることが嬉しくて嬉しくて仕方がないという心があったり、あるいは一刻も早く急ぎ悟りの境界である浄土にまいりたいという思いを持つ人は、親鸞さんは果たして煩悩というものがそういう人はないんだろうかと、逆にいぶかしく思うというんでしょうか、「あやしくそうらいなまし」と、こう書いていますから、果たしてそういう人は煩悩がない人なんだろうかという。言葉として、僕はこの終わり方というのは、ちょっと唐突で、この後に何か文章が続くとアレなんですけども、そういう人は本当に煩悩がない人なんだろうか。いや、しかしそういう人はいないというね。私は特に私の尊敬する中川静村(なかがわせいそん)という念仏者で、奈良の僧侶、ご住職であったり、詩人でもあるんですけどね。「死にたくない」という詩を残しましてね、
 
「死にたくない」
死ぬのにいい日はない
死ぬのにいい年はない
 
だからこういう日に死にたいとか、僕だったら七十で死んでもいいとか、そんなことはないと。
 
死ぬのにいい日はない
死ぬのにいい年はない
いくつになろうと
この身このまま
ここでこうして
生きていたい
生きていたい
 
ところが親しい方、大事な人が亡くなると、この中川静村氏の詩を思い出すんですよ。「生きていたい、生きていたい」というのは、人間の根本の願いじゃないですか。だけど、「生きていたい」ということを、百万回称えても、生きていく縁が絶えたら生きていきませんよね。別れを告げていかなければいけませんよね。ですから「生きていたい」という人間の私たちの素朴な願いと、生きていられないという絶対矛盾と言えましょうか、そこに命の事実というものがあるんだということを、私は第九条の中から考えさせられるんですね。
 
草柳:  娑婆の縁が尽きるまでは、命を大切にながらいて、ということを言っているでしょうけれども、今の最後の四行というのは、本当にさっきお話がありましたけれども、厳しいといえば厳しい言葉ですよね。
 
山崎:  そうですね。逆に、さきほど申しましたけれども、この言葉がここで終わっていることが、逆にすごくショッキングな、その人は煩悩が果たしていない人なんだろうかというところで終わっているところが一つ、別の説得力が、驚きといいましょうか、あるかもしれませんね。さっき申しました本多顕彰さんという人がおっしゃったんですが、あの方のおじさんが―古い話ですが、「昔の戦争で歴戦の勇士だった」ということを書いているんですよ。もう弾を潜り抜けて。だけど晩年にですね病気になられたら、「死にたくない!死にたくない!」ということを言って、涙を流していたと。「人間というものはそういうものなんだ」と書いておられる。本多顕彰さんは英文学者ですけど、「キリストも死にたくなかった。死を恐れていたんだ」というようなことを書いているんですよ。「私は、死を恐れていたキリストに大変深い共感を得るし、であるが故に彼の説いたものに深い感銘を覚える」というようなことを本多顕彰さんは書いておりましたね。ですから、死にたくないという私たちの命の事実。でも死んでいかなければならないという一方の事実。その中で私たちはいつも揺れ動いているわけですけども、その時に私は「娑婆の縁つきて力なくして終わるときに」ですよね。そこで「かの土へはまいるべきなり」つまり帰っていくべき世界があるんだということと、そういうものが全くないという生き方では、ずいぶん違うんではないかなという思いがあるんですけどね。だから単純にそれがあるから喜びなさい、ということではなくて、そういう世界をうなずくことが出来るという。それまでにね大変な宗教的な葛藤ですとか―僕はいいでしょうかね一つ―内村鑑三(うちむらかんぞう)(キリスト教 思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義 信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた:1861-1930)という人が、「信ずるのは実に素晴らしいことである。だけど、疑わずして信ずることはありえない」ということをいうんですね。懐疑(かいぎ)。だって物事を真剣に考えますと、いろんな問いが出てくるんじゃないですか。僕はやっぱり信仰とか、信心というのは、問い尋ねることだ、ということをいつも思うんですね。仏の人生を問い、命を問い、問い尋ねることなんだと。内村鑑三さんは、ですから疑わずして深く信ずることができない。そして懐疑は、信仰にとって最も素晴らしい必要とすべき事柄であるというんですね。疑いそのものを目的じゃないんですけどね、そういうことがありますよね。
 
草柳:  最後に和讃を一つ紹介して終わりたいと思うんですが、紹介をしたい和讃はこれです。
 
真実信心うるひとは 
すなはち定聚(じようじゆ)のかずにいる
不退(ふたい)のくらゐにいりぬれば
かならず滅度(めつど)にいたらしむ
 
時間がなくなってしまったんで、ちょっと簡単に、
 
山崎:  そうですね。「真実」というのは、親鸞聖人は阿弥陀仏からこの私に賜るとこの届けられる教え、その「真実信心を得る」ということは、「すなはち定聚(じようじゆ)」定聚というのは定まった仲間ですから、必ず仏になることが決まったところに立つことができる。そしてその世界は同時に不退転ですね。そういう確かな立場に自分が当たっていますから。
 
草柳:  「定聚(じようじゆ)」というのは、真実信心を得た者、
 
山崎:  真実信心を得た者の立場ですね。境界ですね。その人は不退だから、もう後戻りしない。私は後戻りしない人生というのは、人に何か言われて、うろうろきょろきょろ不安になったり、そういうことのない世界。それが定聚であり、不退。そういう確かな境界に私自身が足をつけて立つことができるから、必然的に必ず私たちは滅度―仏になることができるんだ。だから「定聚」と「不退」と「滅度」というのがつながっている。だから浄土といいますと、人がまぶたを閉じてから意味を持つ世界だという浄土観と違って、ここに阿弥陀仏の智慧とともに念仏と生きるというところから浄土への道が始まっているんだ。それが救いの道なんだ、というふうに領解したいんですけど。
 
草柳:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成十九年一月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである