歎異抄を語るJ無義をもって義となす
 
                    武蔵野大学教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
                    き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「歎異抄を語る」のは十一回目です。今日は第十条の「無義(むぎ)をもって義(ぎ)とす」。この一段を読んでいくことになるわけですが、この第十条は、全部合わせても言葉数にすると、わずか三十数文字という非常に短い文章でできているわけですが、この短い文章の中に親鸞は一体どういうメッセージを込めているのか。何を言おうとしているのか。それが今日のテーマです。お話はいつものように武蔵野大学教授の山崎龍明さんです。どうぞよろしくお願い致します。
 
山崎:  よろしくお願いします。
 
草柳:  ということで、たぶん今回これが『歎異抄』の中でも一番短いでしょうか?
 
山崎:  そうですね。一番短い文言ですね。
 
草柳:  短いんですけども、この「無義をもって義とす」その後には少し続くわけですけれども、この十条というのはやはり唯円が親鸞の言葉として『歎異抄』を編んできた、その中でもやっぱり特に十条に置いたということで相当唯円という人は、この言葉を重く見ていたということなんでしょうか?
 
山崎:  そうですね。今おっしゃった言葉短いですけどね、ある意味で親鸞さんの信仰ですとか、思想のすべてをこの言葉の中に集約した、そういう言葉だという意味で極めて大事なものじゃないでしょうかね。しかもおっしゃる通り、第一章から九条まであって、その総括なようなところにこの言葉を置いたというのは、ちょっと心憎いまでの唯円さんの能力みたいなものを感じますね。
 
草柳:  これまでいろいろな人がこの言葉を巡って、たぶんここで親鸞は、こういうことを述べたかったのだ。親鸞さんの真意はこういうところにあるのだ、いろんなふうに言われてきているわけでしょ?
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  短いだけに。
 
山崎:  そうですね。後でも申しますけども、このわずかな第十条の言葉の現代語訳ですね、解釈、それぞれの先生方が大変苦労して、こういうふうに理解すべきだ、こういうふうに現代訳すべきだという苦労のほどが非常に表れているのがこの第十条の言葉ですね。後でこれちょっと少し申し上げてみたいと思うんですけどね。
 
草柳:  じゃあまず全文を読んでみます。
 
念仏には無義(むぎ)をもつて義(ぎ)とす。不可称(ふかしよう)不可説(ふかせつ)不可思議(ふかしぎ)のゆゑにと仰せ候ひき。
 
たったこれだけなんですがね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  この「義」ですね。「無義」の「義」、「義とす」の「義」、これはどういうふうに現代語訳すると、どうなりますか?
 
山崎:  私はこの言葉は、さっき申しました、後で申しますが、いろんな先生方が苦労して注釈していらっしゃる。私は、念仏というものには、私たちが自己中心的にあれこれと勝手に解釈しないということを、後の義を本義としますと。道理といいましょうかね。自己中心的に勝手に解釈しないことを本義としますと。なぜなら真実というものを外側から客観的に理解しようとしても、なかなかそれを説明することは難しいことです。「不可称」言葉で褒めたたえたり、「不可説」説き尽くしたり、「不可思議」ですから、頭であれこれ考えることが大変不可能な、それだけ無限な言いましょうかね、そういうものであるから、というふうに、私は理解しているんですけどね。ただこの場合に、この「念仏には無義をもって義とす」という言葉なんですが、親鸞聖人はこの「無義をもって義とす」という場合には、大事な点なんですがね、「他力には無義をもって義とす」と使っているんですね。「念仏には」という表現はないんですよね。
 
草柳:  これは唯円が?
 
山崎:  唯円さんが、「念仏には無義をもって義とす」と。そこに唯円さん的な配慮というか認識があったのかどうかわかりませんがね。だから、ある先生は、親鸞さんは、「他力には」と言っているのに、唯円さんは、「念仏には」とされたというのは、これは『歎異抄』という書物が、とにかく念仏中心の書物だから、「他力」というのを「念仏」に置き換えたんだ。そこに親鸞さんと唯円さんの随分温度差があるんだ、ということを指摘する学者もおりますね。ただ私はどうかと言われたら、阿弥陀仏の教え・本願も、それから他力というものも、そこから導き出される念仏というものも、おそらく唯円さんは、一つのものとして考えていたんだろうと。ですから一つの展開ではありますけどね。「念仏には無義をもって義とす」というふうにおっしゃったんじゃないかというふうに理解したいんですけどね。
 
草柳:  これまで前回もそうですけども、「はからい」という言葉がずいぶんたくさん出てきましたですね。この「無義」の「義」というのは、つまり「はからい」ということなんですか?
 
山崎:  そうですね。一般的には「はからい」ですね。我々があれこれ事を起こす場合に、あれこれ思い考え、そして行動しますね。そのことを「義」―「はからい」とこう言ってもいいんでしょうけども。だけど私はその根底にあるものとしての自我、私たちの。そういうものを無視しては、この「はからい」というものはちょっと理解できないんではないか。そこでいいですかね、ちょっと一つ、さっき申しましたいろんな先生方が、ここの第十条を註釈していらっしゃる。多屋頼俊(たやらいしゆん)という大変著名な研究者がいらっしゃるんですが、その先生は、「念仏に対しては、自力のはからいのないのを本義とする」というふうに理解しているんですね。例えば作家の野間宏(のまひろし)さんの『歎異抄』というのは有名なんですが、これは「念仏には自力のはからいのないのをもって、その正しいあり方とする」。だから後の「義」というのを「正しいあり方」というふうに、野間宏さんなんかは註釈するんですね。
 
草柳:  最初の「無義」は、これはつまり「人のはからい」というふうに解釈しているわけですか? 後の「義」の方をそちらの方が「道理」というふうに?
 
山崎:  「道理」ですね。その場合には、念仏というものに、私自身の―無義ですから、「はからいがないということをもって正しいあり方とする」と。そういう順序になりますよね。僕ら若い時によく読みました『鮫(さめ)』なんていう中世の作品を書きました真継伸彦(まつぎのぶひこ)なんかは、「念仏には議論のないことをもって議論とする」というふうな大変苦労な注釈だと思いますけどね。そういう理解がありますね。例えばもう三十年以上前ですが、若い人に非常に受け止められた『歎異抄』の注釈があるんですよ。これ社会思想社というところから出た文庫本なんですが、その本には「念仏の道にははからい(固定観念)のないことが最大の教義です」と。「固定観念」のないことを「無義」というふうに理解しているわけですね。こんなものがありましてね、最後に。石田瑞麿(いしだみずまろ)という『歎異抄』の研究者、親鸞研究者の著名な先生ですが、石田先生は、「浅はかな才覚を棄てることを才覚する」と。浅はかなさまざまな思いといいましょうか、はからい、そういう才覚を棄てることを才覚とする。だから後の「義」というのを「才覚」というふうに理解しているんですね。石田先生は、そこでどうも落ち着かなかったらしいんですね。もう一つ言い換えまして、「念仏においては、義の棄てられていることを義とする」というふうに書き換えていらっしゃるんですね。こういうものを見ますと、それぞれやっぱり今おっしゃった三十数文字の短い文章ですけども、ある意味でこれは何かというと、「他力というものはこういうものなんだ」ということの説明ですから、大変言葉は絶するような世界のことですから、難しいことも一つ当然かも知れませんね。もう一つ、私ね、ぜひお聞きいただきたいのは、親鸞聖人は、「不可称・不可説・不可思議」という場合には、ちょっとこの『歎異抄』の文言と違いまして、それは「阿弥陀仏の教えに生きるものが得るところの功徳」と、親鸞さんは書いています。「利益(りやく)」と言ってますね。そういうものは、「不可称・不可説・不可思議なんだ」と。言葉や頭であれこれ説明し尽くすことができないほど、大いなる真実なんだ、という時に、「不可称・不可説・不可思議」ということを、親鸞聖人は使ってるんですね。それをさっき申しました唯円さんは、念仏に結び付けているところが『歎異抄』の第十条の一つの唯円さん的な念仏理解と言ってもいいかもしれませんですね。
 
草柳:  つまりこの言葉を巡って様々に、言葉の奥に一体何か秘められているのかということを、そんなふうに探ってきているわけで、伝統的な解釈というのが一つはありますでしょ?
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  それと、いやそうでない、という解釈も当然あると思うんですけれども。
 
山崎:  そうですね。伝統的には申しますならば、最初の「無義」というのは、人間があれこれ計らわないという。だからこれは人間のはからいであって、自我であって、後の「義とする」というのは、これは仏―如来のはからいなんだ、というような理解がどちらかというと、伝統的な理解として押さえられていますね。ですけど、ある先生なんかによりますと、「これは両方とも、無義も義も同じ仏のはからいのことなんだ」という理解をする人がいまして、その先生なんかは、「無義をもって義とす」という、その言葉の解釈を、「答えがないことをもって答えとする」というふうに、そういうふうに現代語訳していらっしゃるんですよね。ですから両方とも「無義」というものと、それから最後の「義」というのも同じ意味なんだ、という新しい解釈をなさる河田光夫(かわだみつお)先生なんて言う方もおられますけれども。ほとんどがですけど、まぁ最初のはからいは、「人間の自我のはからい」―あれこれを思いはからうこと。後のはからいというのは、「道理」ということですから、これは「仏のはからいのことだ」というのが伝統的に解釈されてきた立場と言ってもいいんでしょうかね。
 
草柳:  いずれにしても、言葉にならない世界を、何とかして言葉で表そうとするわけですから、それは難しいですよね。
 
山崎:  そうですね。「言葉を超えたものだ」と言っていながら、それを言葉とか、私たちが知性とか、わずかな理性で理解するということがすごく難しいですね。でもやっぱり私たちは、自分の知性とか理性でもって物事を明らかにしていくというのは大事なことですから。ただ僕はここで「無義をもって義とす」というのは、そういう知的な営み、知性とか理性で物事を明らかにする。これは極めて大事でありますけども、それにおのずから限界というものがありますよ、ということを知ることが、「無義」ということの大切さを、親鸞さんがこういう言葉で表そうとしたんではないかなという。大事なものなんだけども、限界がある。そうでないと、私たちは知性とか理性とか、ひょっとしたら自分自身の人生経験まで絶対化しちゃうじゃないですか。これやっぱり間違いじゃないかな。それを離れないと本物が見えてきませんよ、ということが、やっぱりこの条の一つは主題みたいになっているんではないかな。それが仏の教えであると。
 
草柳:  ところで親鸞聖人が、このことを言われたのは、書かれたのは、大体何歳頃のことなんですか?
 
山崎:  これは親鸞聖人は、文献的に申しますと、『尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)』という文献がありますが、そこにも出てきますし、それからお手紙にも出てくるんですよ。だから比較的親鸞聖人の九十年の生涯で後期―晩年にこのことがかなり力を込めて述べられていることははっきり言えることですね。ただ、今申しました文献の中にも、親鸞聖人は、「これは自分の先生である法然さんがおっしゃったことなんだ」というのが、例外なく出てくるんですよ。ですけどね、法然上人の直接お書きになったものを見ますと、この「無義をもって義とす」というのは出てこないんですよね。
 
草柳:  そうですか?
 
山崎:  これは、ちょっとどうかなと思うところなんです。親鸞聖人が大変勉強されて、法然上人のおっしゃったことを書き留めた文献があるんですよ。大変優れた『西方指南抄(さいほうしなんしよう)』という書物は、法然上人のおっしゃったことをまとめた大事なお言葉、その中に実はこの「無義をもて義とす」という言葉も出てこないんですよ。
 
草柳:  そうですか?
 
山崎:  普通でしたらこれほど大事なことでしたら出てくるはずなんだけれども、その文献にも出てこない。『一言芳談抄(いちごんほうだんしよう)』(仮名法語。編者未詳。鎌倉末期から南北朝初期に成立。法然・明遍など、中世の念仏行者の言葉を集めたもの)というのがありますが、その中には、「無義をもて義とす」という、これは法然上人がおっしゃっただろうことを後代の人がまとめたものなんですが、その中にもその言葉が出てくるんですが、直接的には法然上人のものには見られないというのがちょっとどう理解したらいいのか。ある先生に言わせますと、「法然さんの言葉にも出てこないけれども、これは―僕はちょっと賛成しがたいんですが―親鸞聖人が法然上人がおっしゃったという権威付けのために、そういうことをおっしゃったんだ」ということを指摘する人がおりますね。僕は親鸞さんは、法然さんの名前を持ってきて、そのことを権威付けるという必要があったのかどうかという疑問がありますから、これはいかがなものかな、と思うことと同時に、もう一つ法然上人の説かれた教えからすると、他力というのは、義なきを義とするということをおっしゃりたかったんだと。親鸞聖人か理解して、法然上人がおっしゃったんですよと、お書きになったんだ、という考え方もありましてね。
 
草柳:  そのことは、例えば親鸞が関東の教団の人に、あるいは疑問に対して答える、その消息、手紙を何通か出していますよ。その中にありますよね。
 
山崎:  ありますね。
 
草柳:  その部分をちょっと読んでみたいと思うんですが、こんなふうな文章なんです。
 
また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択(せんじやく)摂取(せつしゆ)したまへる第十八の念仏往生(おうじよう)の本願を信楽(しんぎよう)するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽(しんぎよう)して往生必定(ひつじよう)なるゆゑに、さらに義なしとなり。
(親鸞聖人御消息第六通)
 
これはさっき言いましたけれども、関東の信者の疑問に対する親鸞の答えなんですね。
 
山崎:  そうですね。これは親鸞聖人が、ちょうど八十三歳の時の手紙なんですね。その時に親鸞聖人は京都ですから、関東の人たちが、若き同朋達が親鸞聖人に質問の手紙を送ったという。これは建長七年(1255年)になるんですけどね、その時のお手紙なんで、これ非常に重要な手紙なんですね。
 
草柳:  どういうことを言っていますか?
 
山崎:  といいますのは、これはそのお手紙―「書簡」といいますが、あるいは「消息」と言いますが、この手紙はもともと「笠間(かさま)の念仏者の疑い問われたること」という言葉が一行目にあるんですよ。茨城県の笠間ですね、親鸞上人が活動の拠点にしておられたその笠間あたりで教えに生きるものが疑問を感じて、京都の親鸞聖人に手紙を出されたという手紙が、八十三歳の時の手紙なんです。 八十四歳の時、つまり一年後に親鸞上人は、晩年の僕は、「悲劇」と言っているんですが、長男の善鸞(ぜんらん)さんを義絶をしていらっしゃる。教えの理解の違いから。「今日限り親と思わず、子とも思わず」というようなね、義絶をしていらっしゃる前年なんですね。ですからかなりそこには僕は、手紙から理解するところからいうと、かなり深刻な教えの根幹に関わる。日常的に言いましたら、「親鸞さん、どうしてもわからない。これはどういうことなんだ」。冒頭は何かというと、「自力と他力というけれども、それは一体どういうことなんですか」という、第一の質問なんですね。後に今読んでいただいたそういう質問に入っていくわけですが、そういう意味では大変重要な内容を含んだ手紙であるということだけは確かなところですね。
 
草柳:  この手紙の中で言っているのは、どういうことなんでしょうか?
 
山崎:  そうですね。先ほど「無義をもって義とす」というのは、他力について言われたと申しましたが、ここにも今読んでいただいきましたけどね、「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひ」ですから、他力というのはどういうことであるかというならば、それは阿弥陀如来が一切の生きとしいける人々を救わなければならないという誓い―本願とも言いますが―そういう誓いを立てられた四十八通りの誓いを立てられるんですけども―その中で特に一切の生きとしいける、特に心貧しき者、心弱き者、そういう人の救いを約束した第十八番目の誓いを―それを「念仏往生の誓い」というんですが―その念仏往生の誓いを、あ、その通りでありましたと―「信楽(しんぎよう)」と書いていますよね。これは別の言葉で言いますと、「信心」のことですから、信心というのは真実(まこと)の心ですから、僕の言葉でいうと、「あぁそういうことだったんだな」といううなずきですね。だから阿弥陀仏のその第十八の誓いの中の心貧しき者、心弱き者こそ、まず救わなければならないという、その教えを、なるほど、その通りでありましたと、教えをいただくと言いましょうか、その教えに信順する。それを実は他力の世界とこう申しますと。如来の御誓い、阿弥陀仏がそういうお誓いをなされたんであるとするならば、その他力というのは、「義なきを義とす」とおっしゃった。この「聖人(法然)の仰せごとにてありき」ですからね。こういうふうに、だから「他力には義なし」ですから、阿弥陀仏の衆生を救わんとする阿弥陀仏の本願、他力の世界には、つまり仏の約束、仏の誓いですから、私があれこれですね、救われるんだろうかとか、救われないんだろうかということを、一切問う―これ義ですね―はからう必要がない。それが「義なきを義とす」と、こういうことをおっしゃった。「義といふことは、はからふことばなり」ですから、これ文字通り先ほどから出ておりますように、あれこれ私たちがあれこれあれこれ、言葉だとか、心、そういうもので教えをこうあれこれはかる―詮索(せんさく)することである。「行者のはからいは自力」そういう私たちの人間に属する様々な思いとか、斟酌するということは、明らかにこれ自力の世界でありますから、これは紛れもなく人間のはからいだから、義というものに他なりません。「自力のはからい」という言い方をしますけどね。ではどういうことか。他力というのは、先ほど出てきた、本願を、なるほど、こういうことであったんだな。その教えに出会わせいただいたんだなというところから、私たちは「往生必定」、その場で、既に「往生必定」ですから、救いが決定(けつてい)ですね。必ず定まると書いて「けつじょう」とも言いますが、救い、必ず決定している故に、私たちはその救いに対して、「さらに義なし」ですから、あれこれですね救いはどうかということを全く必要としないんですよ、ということが、「さらに義なしとなり」と、こういうふうに僕は読んでいるんですけどね。
 
草柳:  ただこうした手紙の内容にあるような「他力とは何か」とか、「義なきを義とす」というふうなことを、当時ですね受け取った関東の人たちというのは、一体どういうふうに、まさに山崎さんの言葉を借りれば、頷けたのか、あるいは頷けなかったのか、どうなんでしょうね? 時代的背景を考えると。
 
山崎:  そうですね。これは大問題だと思うんですね。私はどうかと言われたら、こういう難しい手紙を、一般の方がまず時代状況から言って読むことも不可能ですよ。すると、やはりこういう手紙をまず出した、いわゆる名だたる親鸞聖人と教えを共にした―名前でいうと、性信(しようしん)とか、円仏(えんぶつ)とか、顕智(けんち)とか、順信(じゆんしん)という、まあ言葉は悪いですが、親鸞聖人の身近にいて、きちっと教えを学んだ―「インテリ」(知識 階級を指す言葉)という言い方は適当かどうかわかりませんが、かなりものも読み、知っている人がこの手紙をいただいて、これをその方々が理解する中から、また関東の人たちにもう一度届けられたということでないと、これはとても理解することが不可能ではないかなという思いがありますね。しかも「はからい」という言葉一つだって、人間というのははからいむきだしに生きているわけですから、「なんではからいが悪いんですか」という時代状況の中で、そういう意味で言ったら、これかなり高度な、ある意味で特殊な世界ですよね。おっしゃる通りかなりそこには困難性があっただろう。それが実は関東の念仏集団の一般的な状況だったんだろうと、僕はこう理解するんですよね。ものを読むなんていうことは大変ことです、八百年前に。
 
草柳:  今のところに続けて、山崎さんの手紙はその後があるわけで、そちらの方もちょっと読んでみたいと思うんですが、こんなふうなつながりになっています。
 
しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足(ぼんのうぐそく)したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土(ほうど)へ生るべからざるなり。
(親鸞聖人御消息第六通)
 
ということなんですが。
 
山崎:  これは先程の「消息」手紙の後に出てくる言葉ですけども、非常に僕はこれは日常的なことを、今日教えに生きる人でも、やっぱりこういう問いを持っていらっしゃる方おられますね。というのは、僕は、研修とか講演なんかに出させていただいて、「何か質問ありませんか」という時に、比較的多いのはこういう質問なんですよ。「私は仏教を学び、その教えに順じて生きようとしていながら、わが身を顧みたらまったくその通りにならない。例えば早い話が嘘をついたらいけないということを聞いたって、本当のことよりも嘘の方が面白いじゃないですか、人間というのは。そんなことを考えている私で、救われるんでしょうか?」という質問も、どれだけ過去に受けてきましたよね。それは自己自身の悪というものがある限り、いっくらすべてのあらゆるものを救うという誓いがあったとしても、こんな私は一向救われないんじゃないか。「わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず」私はこんな悪い身であるから、阿弥陀仏は私を救ってくれるはずはない。そのことを思うことは間違いであると。なぜなら「凡夫はもとより煩悩具足(ぼんのうぐそく)したるゆゑに、わるきものとおもふべし」という、断定的な言葉がありますよね。私は若い学生諸君と授業をする。「煩悩具足」なんていうと、みな非常に抵抗を感じますね。みな自分が立派だと思っていますから。本当にそうなんだろうか。「煩悩」でしょう。「煩」はわずらうですよね。親鸞さんは、「煩は身をわずらわし、悩は心をなやますなり」とこう書いていますから。私たちの身心をこう煩い悩まして止まない、「具足」ですからね。何一つ欠け目なく具わっているということですよ。ということは、欲望と、そして思い通りにいかないことに対する怒りですね。「貧・瞋・癡(とんじんち)」と言いますが、欲望と怒りと、そして人間であることの哀しみとか、人間というのはもっともらしいことを言っている割には、大変な悲しみとかおぞましさを、私たち持っているんじゃないですか。そういうこと気づいて嫌になることもあります。その煩悩をかけ目なく持っている私であるとするならば、本質的に決して善なる者とは言えない。「悪きものと思うべし」ということになってくるんでしょうね。そういう世界。また逆に「わが心よければ」ですから、私たち何かちょっと人に何かしてさしあげて喜ばれると、いやぁ俺もまんざらではないな、みたいな思いに浸ることがある。ちょっと善いことをしたり、人から評価される、そういうことを含めて、そういうことがあるとですね、「往生すべし」こういう私であるから、救いは間違いないと。往生することができるんだということも、同様に誤りであると。親鸞聖人は、こういう表現があります。ある時は「さも」と思い、ある時は「かなふまじ」と思うという言葉がありましてね。「さも」というのは、あ、こういう私だから救われるんだと。「かなうまじ」というのは、こんな私で救われそうもないな。両方とも間違いですと。ということは、救いというものを、自分が決めているんだと。他力である如来の誓いであるから、その教えを聞いている私たちが救われていくのに、それを自分の物差しで救われるということに喜びを感じたり、救われないことに悲しみを持っているというのは、それこそ人間の義―はからいですよ、ということを、「往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土(ほうど)へ生るべからざるなり」そういった、これなら大丈夫だとか、これなら救われないだろうという、自力ですから、自分自身の物差しでもって、救いが可能か、不可能か、ということを考えている間は、それは阿弥陀仏の他力の真実の教えに生きるものではないから、「真実の報土」ですから、救われるということはありえないことではないでしょうか。自力のはからいにては救われないということ。そこに他力ということの意味が、またこう光ってくるんでしょうね。この手紙の一番最後のところに、「性信房」、そして「親鸞」とこう書いてあるんですが、私が勝手にこのことを言っているんではない。性信という念仏者も、私も心同じくしてこのことを書き記しました。よくよくこのことをお考え下さい、ということが、最後にありますからね。かなりその当時の関東の状況では、そのことをめぐって、「自力」とか「他力」とか「はからい」とか「救い」ということをめぐって、かなり僕は混乱していたんではないかということが容易に想像できる手紙ですね、八十三歳のときのね。
 
草柳:  その今の手紙は、関東の教団の信者の人たちに宛てた手紙なんですが、ただこれだけ懇切丁寧に言われたとしても、やっぱり人が生きていく上で、はからいを取り除くというふうなことというのは考えられない。例えば真宗の教えにしても、「念仏をすれば何とかなるの?」という思いというのは、これは間違いなくあったでしょうね。
 
山崎:  そうでしょうね。ですからおっしゃる通り、大多数の方は、念仏して綺麗な私になりたいとか、仏様にしていただくとか、すべてのことを叶えて頂くというような思いがなかったと言ったら嘘になりますよね。今だってあるんじゃないですか。ずいぶん私のところに来られる方が、「説教聞いたり、念仏したら、人格完成が遂げられますか?」という方がずいぶん多いですね。そういう自分になるために、念仏を聞いたり、念仏を唱えるというのは、昔でも今でもむしろ常識的にあったことではないでしょうかね。親鸞さんはそれは、念仏とか、阿弥陀仏の教えというものを、自分の思いを遂げるための一つの手段にすることなんだと。それを「はからいですよ」と言われたって、「あぁそうですか」とおっしゃるだろうけども、思いはありますよね、そういう意味では。特に自分に苦しいこと、悲しいことが起こった場合には、念仏の一つでもして、なんとかこの状況を逃れたいと思うのが、人間ではないでしょうかね。でも親鸞さんは、「でもそれによって本当に逃れられますか。念仏唱えたら、仏の教えを聞いたら、病気にならないで一生安楽に生きられますか。それほど生きるということは単純ではないんではないですか。だからそれを超えた道理というものに気付いていかないと、苦しみは超えられないんじゃないですか」ということが、その根底には、親鸞聖人のもとにはやっぱり明確に位置づけられたんでしょうね。そのことを阿弥陀仏から教わってきているんだと。より確かな目覚めがね。親鸞聖人には僕はあったと思われますね。
 
草柳:  本当に親鸞という人は、今の手紙の中にもあるように、ご自身のメッセージを、本当にこれでもか、これでもか、というくらいに語られたようですけれども、考えてみますと、こうした親鸞の「無義なきを義とす」という、この思いや考え方というのは、もの凄くある意味では今日的と言いますか、非常に新しいですよね。
 
山崎:  そうですね。その「はからい」ということを、さきほど申しましたが、幅広く取りましたら、例えば今日私たちの身近なところでの本当に混沌がありますよね。私はあるものに、「今、偽(ぎ)の時代だ」ということを書かしてもらった。「偽(ぎ)」は「いつわり」という字ですよ。人偏に為と書きますよね。作家の住井(すみい)すゑさんは、「人間の考えること、思うこと、すること、みんな嘘っぱちですよね」。あの人激しい人でから。それが「偽(ぎ)」という字なんだと。「人間が為す」と書いてあるじゃないかと。だけど人間である私たちは、そのことを間違えだとも、誤りだとも全く考えない。そこに大きな誤りがあるんじゃないか。「偽(ぎ)」例えばあまり具体的なことで恐縮ですけど、昨年でしたかね、マンションの耐震偽装なんてありました。あるいは外国の物を国産であるとか、ある意味では偽のオンパレードではないでしょうかね。親鸞聖人は『教行信証(きようぎようしんしよう)』という書物の六巻目の中に、
 
(ぎ)なる者は甚だ以て多く
(こ)なる者は甚だ以て滋(しげ)し」
 
偽なる者ははなはだもって多く、虚(こ)というのは、虚無の虚と書くんですが、嘘ですね、偽り。偽りなるものは、はなはだもって滋し。滋しというのは、葉っぱが生い茂るという意味ですから。だから偽りなるものはこの世の中には多い。嘘ばっかりのこの世の中を支配している。でも残念ながら、そこにいる私たちは、それが偽りであるとか、嘘であるということもわからなくなってしまう。
 
真なる者(真実信心の人)は甚だもって難く、
実なる者(真実信の人)は甚だもって希(まれ)なり
 
真なるものははなはだ持って難く、真実(まこと)ですね。真実の真というのは、はなはだもって、あることが難いし、実なる者ははなはだもって稀ですから、滅多にない。真と実はないんだけども、偽と虚という。偽りと嘘だけが氾濫しているということが、実は私たちの生きるという現実ではないだろうか。そう考えると私は、「義」という、はからいの義というのは、やっぱり人間のはからいというものの中に、その偽りの偽とか、虚というものが全部含まれてきて、だからあの国にとっての正義が、ある国にとっては大変な不正義になりますよ。それでもっていつも争いが絶えないし、非常に悲惨なことになるというのは、今日のイラクの戦争だけでなくて、すべからくそういう混乱状態を起こしているのは、先ほどおっしゃった我々のはからいというものが中心になっていますから。
 
草柳:  今日のテーマである「無義なきを義とす」という親鸞の境界がだんだん深まっていく。そしてあの方は九十いくつまで…
 
山崎:  九十歳ですね。
 
草柳:  九十歳まで。最後にたどり着いたというと変かもわかりませんけれども、義を徹底的に極め尽くした親鸞は、どういう境界になるわけですか?
 
山崎:  そうですね。「自然法爾(じねんほうに)」ということをね。僕は親鸞聖人というのは九十ですけども、八十八の時の文応元年という八十八歳の手紙なんかありますけども、その手紙を見ましても、普通どうでしょうか、宗教を事として生きている人が、八十、九十という歳にもなりますと、「念仏の境地というのはこういうものなんだ」ということを滔々とね、論ずることが案外多いんじゃないでしょうかね。でも親鸞さんのものを読んでますと、そういう、これが念仏の境地だとか、あなた方も早くこの境地なんて、いうことは全く見られないんですね。ということは、何かというと、八十になろうと、八十八になろうと、常に前を見つめながら、もう求道といいましょうか、何が真実と言えるものなんだろうかということを、ずーっとこう求め続けているという方向性の強い求道者であったという感じは大変強く受けますからね。八十、九十という高齢になりましても、「これが念仏の境地だ」なんていうことはほとんど見られないですね。ただ今言った「自然法爾」ということを、大変大事な教えとして、親鸞聖人が述べているというのは大変特質すべきことだと思いますね。
 
草柳:  その件(くだり)をそれでは読んでみます。「自然法爾の事」という文章なんですが、
 
「自然法爾の事」
自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然(ねん)」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾(ほうに)といふ。
すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
 
これもその手紙の中で述べられていることですか?
 
山崎:  そうですね。これは「消息」の中に述べられている。それから親鸞聖人はそこで述べているんですけども、およそ百十年後に蓮如上人(れんによしようにん)という方が和讃という「正信偈」が出てきましたね。易しく仏法のことを解述べた詩ですが、その和讃の最後のところにこの親鸞聖人の自然法爾の言葉を、そのまま蓮如上人が書き記していらっしゃるというのが一つの特徴としてありますね。
 
草柳:  ここでどういうふうなことを言っているわけですか?現代ふうに訳すと。
 
山崎:  これは一二五八年ですから、正嘉(しようか)二年というんですが、親鸞聖人が八十六歳の時の―私は、八十六歳の、先ほど言いましたが文言ですけどね、ある意味では青年のようなみずみずしい文章だとこう思っているんですが、「自然(じねん)といふは」普通自然(しぜん)とか自然(しぜん)現象となりますがね、自然(じねん)というのは、「自はおのづから」おのずからそうなるという、そういう言葉であると。「行者のはからいにあらず」行者ですから、その教えに生きる私たちがあれこれ、仏教はこういうものであるとか、阿弥陀仏の本願はこういうものであるということを、計らうという世界ではない。「おのずから」ということは、仏の促しによって生きることであるから、私たちがあれこれ計らうことではない。「然(ねん)」というのは、文字通りですね「しからしむ」という言葉。「必ずそうなる」という言葉である。「しからしむ」というのは、これも「行者のはからいにあらず」私たちがあれこれあれこれ斟酌するということではない。なぜならば、これは自然というのは、阿弥陀仏の衆生を救うわんとする誓いですね、本願。「如来のちかひにてあるがゆえに法爾といふ」法爾ですから、自然というのも、法爾というのも同じ意味なんですね。「法」という字に「しからしむる」とこう読みますから、おのずからそうなっていくという。この場合で申しますと、私たちの迷いの中を生きている私たちの救いというものは、如来のおのずからなる働き―教えの力ですね。「老人力」というんでしょうか、そんなことを言った人がいますが、「仏法力」という。その教えのおのずからなる働きによって、私たちが救われていくんであって、決して私たちの個人個人のはからいによって救われるんではない。これを自然と法爾。特にこの「如来の誓いにてあるがゆえに」とこう書いてありますね。「すべて、ひとのはじめてはからはざるなり」私たちがあれこれあれこれ、それぞれの立場から仏法の真実というものを、あれこれ斟酌するということではない。「このゆえに、義なきを義とすとしるべしとなり」と。これが先ほどから出てまいりますところの、「義なきを義とする」そういう私たちの知識、理性、経験、そういうものによって、仏法というものを自分がとらえようとするということのない世界が、実は仏法の阿弥陀仏の世界ということを、むしろ知るべきであると。こういうふうにこう言葉の解釈からするとこうなりましょうかね。最後にここでは、「自然といふは、もとよりしからしむる」という言葉ですから、またここで意味を強める意味といいましょうか、念を押す意味で「元来阿弥陀仏の教えというのはそのようにさせる。それを自然というんだ」という、こういう言葉が自然法爾抄の最初の今お読みいただいたところの言葉ではないでしょうかね。
 
草柳:  今こうしたところを聞いておりますと、「はからいを超える」とか、なんとかということよりも、もうそういったものは完全に絶えた世界というふうに聞こえますね。
 
山崎:  そうですね。絶えた世界と言いましょうかね。例えば一生懸命私たちが勉強して、まぁたいした勉強ではないですけど、何十年かけて僕は親鸞さんのことを学んだり、仏法の勉強する。勉強して勉強して自分自身が納得したりする世界というのは、これは知的な領域でしかないですよね。知的な領域で「わかった」とよく言いますが、「わかった」ということは、逆にいうと「本当のことを何にもわかっていない」というような意味が、一方ではあるんじゃないでしょうか。知的なところでの了解はありますけどもね。そういうことを考えたら、本当に物事の真実がわかるということは、今まで学んだことが、全く必要ではなかったというところから、本当のことが初めてわかってくるという世界が、ちょっと妙な言い方ですが、あるんじゃないかなという気がしますよね。だから変な誤解されるかもしれませんが、一生懸命これはどういうことだろうか。これはこういうことだろうかと学んでいて、わからない。ある時ふっと「こういうことだったな」とこう頷かしてもらうということありますよね。それは今申しました、今まで学んだことが全くゼロじゃないですよね。無意味じゃないですよね。禅の方で、「百尺の竿の上の一歩を歩む」と。一方歩んだら落ちるかもしれない。「百尺の竿頭(かんとう)」というのは、それまで積み上げたもの。そこでもう一つ真実が明確にならないから、一歩飛躍したときにハッとするものがあったというようなね。
 
草柳:  そういう思いって、ハッと気づくということというのは、それは例えば山崎さんのご経験の中では、修行の途中、修行の過程で、ある日ふっと気づかされることがあるということもあるわけですか?
 
山崎:  そうですね。私たちの場合には、「求道(ぐどう)」といいますが、道を求めるとか、あるいは私の先生方の法話、あるいは仏法のいろんなことを学ばしていただく中で、この問題、自分の課題に抱えているんだけども、どうしてももう一つわからないということありますね。わからない、わからないという、その課題を持っているときに、自分の中で、「こういうことだったんだな」という。ちょっと誤解されやすい言葉ですが、必ずしも真理的なことじゃないんですがね。「あ、こういうことだったんだな。あの先生のおっしゃったことは」、あるいは「親鸞さんがおっしゃったことは、こういうことだったんだな」ということは、今まで学んできたそのものの上に、そういう世界がやっぱり成り立っているということも言えるんじゃないでしょうかね。だから知的なことを積み重ねて行くということは大事なことなんでありまして、よく誤解されて、そういう「無義をもて義とす」なんていうと、まあ変な言い方ですがね、「無義をもって義とするんだから、とにかく信じなさいと。信じる者は救われるんですよ」と言われて、「そうですか」といったって、そうなれませんよね。そこでやっぱりいろんな手続きが必要じゃないでしょうか。
 
草柳:  だから例えば親鸞があれだけ人間洞察といいますか、徹底的に自分とは何かということを突き詰めていって考えて、そして今の自然法爾という境地というか、境界にたどり着く。そこまでにはもう他力も自力も多分ないだろうと思うんですが、相当に親鸞自身は、自分自身と強烈な向き合い方をしたんでしょうね、きっとね。そうでなければなかなかね。
 
山崎:  そうでしょうね。やっぱりそういうプロセスを通じてこないと、おっしゃるようにそういうものを通じて、初めて私は、「無義をもって義とするんだ」なんていう言葉は出てこないと思うんですよ。ただ頭の中だけで考えて、阿弥陀仏の真実は無限大なるものであるから、人間の頭では捉えられませんよ、なんていう簡単なことでなくて、それまでは何とかして自分の中で明らかにしたい。僕らもそうですよ、これを明らかにしたい、これどういうことだろうか。懸命にそのことと格闘する中で、ある日、あ、こういうことだったんだなという深い頷きに出会うということがありますから。だから、むしろ前に申し上げたかもしれませんけども、やっぱり僕は、信仰とか、宗教と言ってもいいでしょうかね、そういう世界というのは、むしろ悩んで、悩んで、悩み続けて、そして安易な答えだけを求めることが、宗教のように思われているんじゃないか。「How to」という言い方があるが、「これどうしたらいいでしょうか?」「それはこうしなさい」。そんな簡単なもんじゃありませんでね。そういうむしろ悩みも誰からも答えをいただけないような悩みの中で、苦しみ・悩み・傷ついて、その日常の生き方の人生の中で、のたうちまわる中ではじめてハッと気づかされる世界というものが出てくる。だから私は、僕の持論ですけど、宗教とか信仰というものは、その場かぎりの安易な答えを求めるということでなくて、むしろ正しい問いを持っていくということが信仰というものの根本的なことじゃないかなということを自分で考えているんですけどね。
 
草柳:  もう一つ親鸞の消息、手紙ですね、紹介したいと思うんですが、「自然法爾の事」に関連して、こういう内容です。
 
かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然(じねん)のやうをしらせん料(りよう)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智(ぶつち)の不思議にてあるなるべし。
正嘉二年(1258年)十二月十五日
愚禿親鸞八十六歳
 
これも現代語に訳していただけますか。
 
山崎:  そうですね。この「自然法爾章」という言葉の中でも、中心的な言葉だと思いますけどね。「かたちもましまさぬやうをしらせんとて」普通どうでしょうね、仏教でいう「仏」というと、イメージするのは「仏像」というものを連想しますよね。仏像は奈良の大仏さん、五丈六尺あるとかね、そういう形。しかし真理を象徴した悟りである仏の悟りというのは、親鸞さんは、「色もなく形もましまさず、しかれど心も及ばず、言葉も絶えた大いなる真実なんだ」という表現があります。そういう「色もなく形もましまさぬ」というだけでは、私たちの認識の対象になりませんよね。そういう認識の対象として現れてきたものを、親鸞聖人は、仏法では「方便」というわけですから。「方便」というのは、いうまでもない嘘でありませんから、方便を通じて真実に出会うんですからね。だから仏像ですとか、絵に描かれた絵像(えぞう)というのも、あんなものは紙じゃないか、木ではないかとおっしゃる方がいるけど、その像を通じて仏の真実と自分が出会っていくという意味で方便なんですね。方便というのは、真実を知らない人に真実を知らせる一つの方法ですから。ウパーヤ(up ya:近づく、到達する意)というのはそういう意味ですから、だから「かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申す」色もなく形もましまさざるものを阿弥陀仏とこう表現して、そしてそのことによって阿弥陀仏と私というものが、より具体的な関係になる。こういうふうにお聞きしております。その後にここは多くの人に注目されてきたところですけど、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」ですよね。阿弥陀仏という仏は、自然という有様―「やう」ですから、「様」と書いてもいいでしょうか、自然の有様を知らせん―「料(りよう)」というのは、一つのこれは手だて・方法ですからね。僕はこういうふうに理解するんですが、それは阿弥陀仏という仏は、実は阿弥陀仏の救いというものの、一切の生きとしいけるものを救うという道理を私たちに知らせるための一つの方法なんだと。ここまでしかし、大胆に言われたら仏教者というのは、僕は親鸞さん以外にはいないと思うんですね。この道理、その救いの道理を、「こころえつるのちには」このことをしかと私の中で、なるほどなという頷きが、「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」その救いの道理ということを知らせるために阿弥陀仏という仏が存在するんだ。そのことを私たちが認識をしたら、あれこれ私たちが、先ほどから出てきました、人間―私の知性とか理性とか経験でもって、あれこれ斟酌するということは正しいということではない。「あらざるなり」。「つねに自然を沙汰せば」だからそのことだけにこだわって、ああでもない、こうでもないと、それを斟酌していては、それは「義なきを義とすといふことは、なほ義」だから義なきを義とするんですよと言いながら、それも一つの「なほ義」ですから、はからいそのものの坩堝(るつぼ)の中に落ち込んでしまうということにもならないでしょうか。これは最後ですね「仏智(ぶつち)の不思議にてあるなるべし」ですから、阿弥陀仏の智慧というのは広大無辺というか、無限。こういうものの不思議ですから、これは人間の言葉、心、頭で括り切ることのできない大いなるものでありますから、ということが、この言葉の意味ではないでしょうかね。これは八十六歳のときの年号が記録されておりますけど。
 
草柳:  この辺は「他力の本質とは何か」ということを、もう最後の最後にですね言った言葉というふうにとっていいわけですか?
 
山崎:  そうですね。さきほど申しました消息の第六通ですね。この六通がありましたけども、この六通は、先ほど触れましたが、最初は自力とは何か。他力とは何か。自力というのは、自分自身の心を修行によって調えて、仏号だから、仏様のお名前を称えて、そして自らが悟りを開いていく。これが自力の道であると。笠間の問いに対して、こう最初に答えて、他力とは何かというと、阿弥陀仏が選びとられた第十八の誓いですから、一切の生きとしいける、特に心貧しき、心弱き者が救われなかったら本当の教えとは言えないという、その教えを「信楽(しんぎよう)」ですから、心の中で、ああ、つまりそれは、この私のための救いだったんだなと受け止めることを「他力」というだと。ある意味でいうと、善い悪いじゃなくて、自力というのは、どこまで行っても私が中心になる。他力というのは、その私というものの限界を感じた人間のために説かれた教えですから、阿弥陀仏が中心になる。それが自力と他力というものの違いですよ。ですからこれを正しく理解といいましょうかね、領解(りようげ)することが出来るかどうかというのは、その自力と他力というものを、私がどう捉えることができるのかということに関わるんではないか。その前に親鸞聖人が、冒頭に「往生の根機(こんき)に他力あり、自力あり」と言っていますから、どういうことかというと、迷ってる人間が真実を体得する。つまり仏になる方法に二つあると。「一つは他力。一つは自力」と言っていますから。だから何を言いたいかというと、「自力」とか「他力」という言葉は、私たちは日常的に、例えば僕はNHKのスタジオまで車で送ってもらったから、これは他力ですかと。そんなことじゃないんだと。日常的に往生の根機(こんき)だから、迷ってる私、真実を知らない私たちが真実を体得する、仏になる方法に二つあった。それが他力と自力なんだ。だから自力と他力という言葉は、そういうときに使われる言葉なんですよ、ということを押さえておかないと、「他力本願」というと、人の力を当てにして、幸せになろう。横着者の代名詞だというふうに、辞書にまで出ているんじゃないですか。そういうことを僕は親鸞さんはその手紙の中で押さえているんだというふうに理解するんです。そういう意味でさっきのお手紙というのは凄く大事で、その延長線上にやっぱり自然法爾の言葉が来ているんではないでしょうかね。
 
草柳:  最後にですね、和讃を紹介をして締めくくりにしたいと思うんですが、その和讃というのは、
 
信は願より生ずれば
念仏成仏自然(じねん)なり
自然(じねん)はすなはち報土(ほうど)なり
証大(しようだい)涅槃(ねはん)うたがはず
 
山崎:  そうですね。僕はこれはすごい和讃だと思うんですけどね。信というのは信心ですよね。普通信心というのは、自分が起こすことですよね。仏さまをこれだけ信じるとか。例えば日常的には、「あの人は信仰深い人ですよ」という言い方があるじゃないですか。「何故ですか?」と言うと、「あっちこっちへ行って拝んでいますよ」という人がいますよ。あっちこっちで拝む人はあまり信心のない人だと思っているんですけどもね。そういうのが信の形。親鸞さんは、「信」というのは何かというと、それは阿弥陀仏の願いから―本願から、私にたまわるものなんだと。つまり真実を悟った仏から私にたまわるものが信心というものなんだ。だから「信は願より」本願の世界から私にもたらされるから―「生ずれば」、したがってそれはあらゆるものを救わずにはおかないという誓いでありますから、その願いによって誓われた念仏によって、私たちが仏になる―成仏するのは全く自然(じねん)の道理ですよ。自然の働きですよ。その自然というのは、実は阿弥陀仏の願いによって、救いの場としての浄土という世界がしつらえられたわけですから、そういった自然というのは、そのままそれが実は阿弥陀仏の浄土。「報土(ほうど)」というのは、浄土のことですから、悟りの土ですね。自然はすなわちそれが浄土である。その浄土という境界で、私たちは「証大(しようだい)涅槃(ねはん)」ですから、誤りない大きな悟り―目覚めをいただくことができるんですよ。特に「信は願より生ずる」という言葉、これがキーワードではないでしょうかね、親鸞の思想の。
 
草柳:  そうですか。今日のテーマである「無義をもって義とす」ということなんですが、結局「無義」ということは、イコール「他力の本質である」というふうに考えればいいわけですか?
 
山崎:  そうですね。ですから「他力には無義をもて義とす」ということに、かなり私は深いこだわりの中で、そういう言葉が出てきたんではないか、という思いを強くいたしますね。ですからこの一回この「他力」ということを、先ほど申しました単純な意味で「自力」「他力」と考えるんではなくして、どういう世界で問題になる言葉かなということを、さっき申しましたような意味で、やはり私たち一人一人、こう確認したいなと思うんですけどね。
 
草柳:  ありがとうございました。次回締めくくりの十二回目、最終回になります。よろしくお願い致します。どうも今日はありがとうございました。
 
   これは、平成十九年二月十八日に、NHK教育テレビの
   「こころの時代」で放映されたものである