歎異抄を語るK仰せにあらざる異義ども
 
                    武蔵野大学教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
                    き き て   草 柳  隆 三
 
草柳:  「歎異抄を語る」もいよいよ最終回になりました。今日は一年間のまとめとして親鸞の弟子の唯円によって書かれたこの『歎異抄』。読んで字の通り、「異を歎く」という書物なんですが、親鸞の教えを、どうも曲がって理解をしている人たちが一部にはあるのではないか、ということを嘆いて、唯円が書かれたものなんですが、じゃ唯円が指摘した親鸞の教えを、一体どこで、どういうふうに曲がって解釈をしているのか。それは一体何なんだったのか。そして、では親鸞の本当の真の教えとは一体どういうものであったのかということを、この一年のおさらいとして、いつものように武蔵野大学教授の山崎龍明さんにこれから伺ってまいります。どうぞよろしくお願い致します。
 
山崎:  よろしくお願いします。
 
草柳:  ということで、一年間のおさらいという意味も含めて、もう一度弟子の唯円がこの『歎異抄』を書かれた。なぜ書かれたのか。そしてどういうところに唯円は異義を見つけたのか。その辺から一つお話をして頂けませんか。
 
山崎:  そうですね。ご承知のように『歎異抄』の最後のところに、
 
一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし。
 
つまり親鸞さんから同じ教えを受けながら、「信心ことなることなからんために」と書いていますから、明確ですね。同じ話を聞いていながら、聞いた方によって全く違ってくると。「信心ことなることなからんために」その後に「なくなくふでをそめてこれをしるす」と。悲しみの心をもってこの書物を私は書きました。それはもう後ですね親鸞さんの教えを理解する人が、勝手なことを言い出すと混乱そのものになる。それをなんとか私は避けたいので、老骨に鞭を打ってこの書物を書きました、というのが、最後にありましてね。そのあたりですから、『歎異抄』というものの本の著述の性格が、私はそのまま表れているんではないかと。
 
草柳:  今からざっと七百年前ですよね。当時唯円がこの書物を書いて一体誰に向かって、もっぱら、例えば親鸞はかつて関東で布教されていていたわけですが、やっぱりその関東の門徒の人たちですか? 対象というのは。
 
山崎:  そうです。直接には関東の比較的身近かな人々に向かっての唯円さんの厳しいメッセージだと。それが『歎異抄』という書物だと思いますけどね。
 
草柳:  その『歎異抄』が連綿とそれ以来読み継がれて来ているわけですが、そのいくつか、これまで十条までは毎回読んできたわけですが、十一条以降の中で、今回特にかいつまんで挙げていただくと、どういうふうな内容になりますか?
 
山崎:  そうですね。「仰せにあらざる異義どもを」ですから、ご承知のように後半はいくつか異義、異なった信仰理解と言いましょうか、そういうものがありますけども、それじゃなぜ異なった信仰と言えるのかというのが、前半の第一条から第十条までの親鸞さんの言葉をものさしにして考えたときに、後半の八つ、十八条まで出てくるその教えが非常に誤ったものではないか、というところから、次々に異義―まぁ異端という言い方がありますけども、それが次々と現れてくると。私は一つ一つの異義ということもさることながら、一つツボを押さえておきたいのは、なぜそういう異義が生まれてきたのかという背景といいましょうかね、相対的な背景は何かというと、やっぱり異なった教えを、つまり自分の独自性を示すために、親鸞さんが言わなかったことを言うことによって、弟子に自分を認知させるというんでしょうか、後からこう出てきましょうけども、そういうところに我々人間のエゴイズムといいましょうか、自我意識といいましょうか、そういうものをまず根底にあったということを押さえておくことが、私はすごく大事なことじゃないかと。だいぶ前に出てきましたけども、やっぱり宗教というものには、そういう異義とか異端というものが、ある意味ではつきものであると。現代でもそういうことが言えるんではないでしょうかね。そういう危険性を絶えずこう孕(はら)んでいる。内在させているということが、やっぱり宗教にはあるように思いますね。ですから八百年前のこの『歎異抄』に示された異義も、特別なことでは必ずしもなくて、そしてある意味ではこの異義を逆に学ぶことによって正しい教えといいましょうか、正しい信心とかというものがそこから見えてくるという意味においては、異義もまた一定限度の意味を持つのではないかと。
 
草柳:  そうですね。確かにそれはそうですね。それについてはそういう見方だけではないだろうという意見や疑義があって、はじめてより深まっていくということはいろんな場面であるわけですからね。
 
山崎:  そうですね。異義というものをそういう形で押さえた時に、変な言い方ですけどね、今言いましたように、異義そのものも決して学ぶことが自分のただマイナスだけではなかったという意義が、やっぱりそこにもあるんではないでしょうかね。
 
草柳:  具体的には唯円はどんなところにその異義を見たわけですか?
 
山崎:  そうですね。例えば第十一条なんというところでは、非常に象徴的だと思うんですけどね、「あなたは阿弥陀仏の人々を救うといった本願を信じているのか、あるいは南無阿弥陀仏という名号を信じているのか。どっちですか」というような質問というよりも、詰問といいましょうか、そういう口調の異義が出てきますよね。その中ではその二つがどういう関わりにあるのかということも、一切言わないで、そういう言い方をする。そしてそれはなぜか。当時の関東の念仏者の心をただ混乱させるだけのことではないか。これはとんでもない間違いであるというのが、第十一条のところなんかに見えますよね。それは今言いました何故かというと、あなたそういうことも知らないだろう。じゃあ私がそれを教えてあげますよ、というところで、いわゆる師弟関係が成り立っているんじゃないでしょうかね。そういうことが間違いですよ、ということを、唯円という人は歎いているということは認めますね。
 
草柳:  他にはなんですか?
 
山崎:  他には第十二条なんかで申しますと、よく言われますが、学問しなければ救われないと。要するに究極としては、阿弥陀仏の教え、念仏一つですよといわれながら、にもかかわらず、学問しなければ救われないという人がおられたけども、本当にそうなんだろうか。 じゃそういう学問というのは何なんだろうかということが、その次に第十二条なんかでは展開されますよね。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきなり」どんな学問が一体必要だというんでしょうか、という明確な言葉がありますよね。でもこれも「本願を信じ」でしょ。「念仏申す他にどんな学問が必要であるのか」ということは、だけどそれを受け止める人によっては、その温度差というのは随分ありますけどもね。だから私は学問が必要か不必要かという議論よりも、学ぶということの中身、もう一つは学び方ですよね。よくいろんなところへ講演とか法話に行きましても、ものすごくものを知ってらっしゃる方がいらっしゃる。もう呆れる位にね―私は、ある時に、これ前に申し上げたことがありますが、「あなた、記憶力が良い方ですね」と、最大の皮肉なんですが、そう言ったことがあるんです。そうしたらその人は大変喜んでいたんで、これはあまり解っていらっしゃらないなと思ったことがありまして、そういう学び方の無意味さですよね。そういうことをどれだけ身に付けても、自分自身の救いとか安らぎにつながるのか。いや、つながらない。だからそういうことにつながる学び方が大事なんで、いきなり学問しなければ救われないというのは、親鸞さんの教えではありませんよ、というのが、第十二条なんかではね。
 
草柳:  第十二条の唯円が取り上げた異義というのはですね、十条以前の―あれは何条でしたでしょうか、対応する部分ありましたですね、学問については。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  その中では親鸞は決して学問すること自体がいけないことだとはもちろん当然言っていないわけでしたよね。
 
山崎:  第二条なんかですと、「念仏によって救われるでしょうか、救われないでしょうか」という関東の人たちの問いに対して、親鸞聖人が、そう今おっしゃった対応をしたわけですよね。ですからよく誤解されるんですね。「信仰は理屈ではありませんよ」とか、「信仰は学問ではありませんよ」と言われると、何か学ぶことを全く無意味であるかのように否定してしまうようなふうに受け取られますよね。案外親鸞さんですとか、浄土真宗の教えが誤解されるというのは、案外そういうところにあるんですがね。今おっしゃったように、親鸞さんはそういう学ぶことを無意味だなんて言っているんじゃなくて、学び方が大事ですよ、ということをね。ただ記憶力をつけるということと、救いなんていうことは全く無関係なんで、そういう学びは仏道の学びではありませんよ、ということを、むしろ私たちは受け止めるべきであって、結構誤解されまして、「学ぶことも、教えを聞くこともいらないんだ」という方に出会いますけどね。それはちょっと私は誤解ではないかと。正しい学び方―学んだことが実になるような学び方ですね。それが大事だということを最小限確認をしておく必要があるんじゃないでしょうかね。
 
草柳:  それと唯円の異義というのはですね、条で言えば、全部で八条あるわけですか?
 
山崎:  そうですね。後半含めましてね。
 
草柳:  その中では、十三条というのは結構長いですね。 。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  ここではどういうことを?
 
山崎:  第十三条ですね。第十三条の異義というところで申しますと、ちょっと今おっしゃった一番長いんじゃないんでしょうか。非常にユニークなところですね。それはどういうことかというと、人間というのは善いことをしようと思ったらすぐできる。悪いことをしてはいけないと思ったら、することをしなくても済む。そんなものなんですか、ということが、第十三条なんかでは中心になっているところの異義ですよね。そこに人間の「業(ごう)」と言いましょうか、「宿業(しゆくごう)」という大変誤解されやすい言葉ですけれども、そういうものが第十三条に展開をされているわけですけども、例えば多くの方ご承知のように、第十三條の書き出しですよね、親鸞さんが、唯円さんに対して、「あなたは私の言うことを信じますか? そして私の言う通りにしますか?」というとこですよね。その時に、「はい」―お弟子ですからね―「はい。師匠のおっしゃること、何でもいたします」「じゃ、救い―往生のために人を千人殺して来なさい」というね。私は親鸞さんてどんな人かと思うんですよ。「往生のために人千人殺してみよ」とこういう。「いやぁ、とんでもない。私は千人どころか、わが身の器量をみたら、私は人間一人殺すことできません」というね。私はそういう時の唯円さんの心には、「私のような人間は、人なんか殺めることなんか絶対できない」という、善というものに対する暗黙の了解があるような、もっと言ったら自分が善人であるようなことがあると思うんですね。そういう時に親鸞さんが言葉を重ねて、「あなたは、今、私の言う通りにするといったじゃないですか。なぜできないんですか」という。誤解されるかもしれませんがね、ここまで言う宗教者というのはあんまりいないと思うんですよ。怒られるかもしれませんけどね、ちょっと嫌味ですよね。「あなたは、私の通りにやりますか」「やります」「できないじゃないですか」という。これが発端ですけども。その後に「これにてしるべし」と書いてあるんですね。「これにてしるべし」というのは、このこと一つによっても、人間は、あの人の言う通りにすると誓っていても、その通りにできないこともある。ですから、そこには人間の「業(ごう)」と「縁(えん)」ですね。縁(えにし)がなければやろうと思ってもできないし、縁が生まれてしまえば、因縁が和合してしまえば、「業縁(ごうえん)」と親鸞聖人は言いますけれども、業縁が和合してしまえば、自分が考えないようなことを平気で、またしでかしてしまうような、そういう存在なんだと。軽々に善いことをしよう。悪いことはやめようというようなことは、人間そのものにとっては言えないんではありませんか。そこには「業」というものに対する深い眼差しがあるということを見失ってはいけないと思うんですね。
 
草柳:  今の親鸞と唯円とのやりとりというのは、仏典の中に釈尊の弟子の一人のエピソードがあって、多分それを引いているのではないか、というふうなことがありましたですね。
 
山崎:  そうですね。よく言われますね。バラモンのアングリマーラ(釈迦の弟子の一人)という。千人殺せば、天の世界ですね、天界に生まれられる。それで実践するんですね。九九九人殺すというような、そういうエピソードに基づいてこういう対話が成り立っているんだということも考えられるとこですよね。
 
草柳:  でも今この二人の対話というのは、考えてみると、やっぱり相当内容的には厳しいというか、きついですね。
 
山崎:  そうですね。きつい内容ですよね。特に終わりの方にですね、人間というのはいろんな仕事に従事する。例えば海や川に網を引いて―漁師さんですね。あるいは山で動物を追う猟師。いろんな営みが人間にはあると。商工業―いろんな商い。これは全てそういう縁のしからしむるところであって、ということが、終わりの方に出てまいりますよね。ですからその時には、『歎異抄』の言葉で申しますならば、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」さるべき業縁というのは、自分が思う思わないにかかわらず、いわゆる人間の業の縁が和合したら、人間は何をしでかすか分からないし、どんなこともしてしまうような、僕はそこに人間の危機性というような言葉でよく表現するんですけどもね、よく罪を犯した人なんかだと、「あなた塀の中の人、私塀の外の人」という形で、われわれは隔絶して考えますよ。あんな人とは違う。親鸞さんはそうじゃない。それは業縁が和合したときには、そういう私だって何を何時(いつ)しでかすか分からないようなものであるというところに、むしろ深いところの人間存在の基盤というものがあるんだ。そこまできちっと見届けていかないと、ただ「あの人、善い人悪い人」ということだけで終わってしまう、というようなことが、ここでは一つ問題になっているんじゃないか。その前には、善いことをすれば、仏さまに喜ばれて救われる。だから善いことをしよう。そんなものじゃありませんよ、ということを含めまして、非常に深い人間の私たちの行為に対するカオス(混沌)といいましょうか、そういうものを私は「業」という言葉で表現されている。決してこれは単に過去世からのことによって現実がある。だからそれを受容するしかない。受け止めなさいよという、言葉は悪いですが、諦(あきら)め的なものに受け止めるんじゃなくて、そういう業の中の―ある先生が、「私の宿業という言葉がある」と。私自身が、草柳さんとここでお話をさしてもらっているというのは、私の業のしからしむるところでしょう。私の業、同時に業の中の私という、そういう混沌としたものの中の様々な要素が入り混じって、同時に今日私が存在しているんだという。そういうところで、むしろ宿業と―「宿」というのは、過去のことですからね、過去世のことですから。だから私はこう考えるんですね。「今の私があるということは、過去の私によって今の私が作られている」。僕は現在だけだと思いませんのでね。そして「同時に現在の私の営みが、私の実は未来というものを作り出していっているんではないか」。「業」というものを考えるときに、私はそういう考え方をしますしね。よく私は、お誕生日ですね、「誕生」というのがありますね。そういう場合には、誕生日にいのちが誕生したんではないですよね。誕生以前の私というのがあるわけですよね。ですから誕生日には、ある意味ではいのちの歴史が、この世で実を結んだ日が誕生日ですから、いのちの歴史に「おめでとう」という。そのいのちをいただいて、私たちが生きていく中で、それがまた未来をクリエイト―作りつつあるというようなところで、私は「業」というものを考える。で悲しい、いろんな苦しい、様々な業があったとしますならば、実はその業というものを実は乗り越えていくべきものとして、人間存在というものがあるんだという。そして親鸞さんは「大願剛力(だいがんごうりき)」大きい願い、剛の力と書きますけども、阿弥陀仏の真実というものを、私たちの悲しみの業を包み受け止めて、それを善きものに「天成(てんじよう)」と言いますね、天にして成ると書きますが、天成する働きがあるんだという。それでだから人間の業に対しまして、阿弥陀仏の業ということを親鸞さんは言っていますよね。
 
草柳:  親鸞が、人間の存在というのは、つまり私の存在は存在そのものがすでに悪なんだというふうな言い方をどこかでしていたと思うんですが、この唯円の『歎異抄』の中では、本願というのは悪人のためにあるわけだから、つまり何をしてもいいんだと。それも実は曲がった解釈なんだということを、その異義の中で言っているところがありますよね。
 
山崎:  そうですね。今、お話をお聞きしていて、親鸞さんというのは、普通みなさん、宗教とか宗教者というと、悪を戒めるとか、こういうことをしてはいけません、こういうことをしてはいけません、こういうことをしましょう、というのが、宗教者と考えられますよね。でも親鸞さんは、驚くほどそういうことを言わなかった人ですね。驚くほど「こういうことをしてはいけません」とおっしゃらなかったんだけれども、しかし悪なるものを救うという教えがあるからといって、好んで悪を造るなんて言うことは、薬があるから毒を飲みなさいと言っていることに等しいんだと。苦しむのは、あなただけですよと。それはそうですよ。「いい薬出ましたよ」と言って、わざわざ病気になる人いませんから。そういう時に関しては、そういう意味での悪を、その場に限っては「薬あればとて毒を好むべからず」というような、戒めといってもいいような言葉が、そこには現れてきますね。これ今おっしゃったように、特別なそういう事情、「悪はおもふさまにふるまふべし」と書いてありますから。親鸞さんのお手紙は、なかなか面白いですがね。お手紙の中にしばしば出てきますね。だって阿弥陀仏は悪人を喜ぶんだから、私が悪を重ねることは、阿弥陀様はよろこぶことなんだから、どんな悪をしても構わないだろうという人もずいぶんおられたということは想像できますよね。
 
草柳:  でもそれは、何に対する戒めなんですか? つまり何に対する戒めとして親鸞はそういうことを言った訳ですか?
 
山崎:  そうですね。それは私は阿弥陀仏の「善人なをもって往生をとぐ。いわんや悪人をや」と言われるような、そういう阿弥陀仏の本願そのものに対する大変な―言葉は適切でないかもしれませんが―冒涜(ぼうとく)であると。そういう意識というのは非常に強かったと思うんですね。それは親鸞さんは他のところで、「そういう方々は念仏に志のない人のことである」と。だから教えに志を持って、教えをきちっと受け止めたら、そういう言葉は出てくるはずがない、というようなことが、そこで言われていますよね。ですからどうでしょうね、「いわんや悪人をや」という、僕はこだわるんですが、その言葉だけを切り取って考えたら、「どんな悪いことをしてもかまわないんだ」ということになりますよね。だけどその文章の流れとか脈絡をズッと第三条を読んでみますと、やっぱり「他力をたのみたてまつる悪人」とありますから、自分が善人だと信じて止まない人、そういう人ほど親鸞さんは危ない人ですよと。むしろ俺なんか碌(ろく)な人間じゃないなという人の方が、善に近いんじゃないか。親鸞はこういう考え方をした人ですよね。それと我々一般の世間で考える考え方とずいぶん違いますよね。「あの人いい人ですね」とみなさんおっしゃる。「どうして?」「だって教養があるから」とかね、「こんなことをしている」とかというようなことだけで判断してしまうことがありますね。それほど実は根拠のないこともないですよね。そういうことを含めて、善とか悪とか、善人・悪人というのは、非常にデリケートな問題ですよね。
 
草柳:  自分勝手にそう思い込むなよ、ということでしょうか?
 
山崎:  そうですね。でも私たちは、ほとんどそれが思い込みの中で―僕なんかは六十三年生きてきたんだと思いますね。だけど『歎異抄』を読んだり、親鸞さんのものを読んだときに、今おっしゃった思い込みの中で、そして思い込みが、思い込みでなくなってしまってね、それが自分の信条になったり、信念になったり、偉そうに生きるということが、実は根底から覆されますね。それがいちばん危ないんだよと。
 
草柳:  その一番危ないところに、いつも我々はいるんですけども、やっぱりどうしても自分を中心に置かなければいけないというか、自分を中心に物事を考えてしまうというのは、なかなかやっぱり抜けきれませんよね。
 
山崎:  そうですね。ですからそういう話になりますと、みなさんが、「いやぁ、先生、人間ってそういうもんですよ」と、自己正当化してしまいますよね。そうだと思います、僕自身も。だいぶ前に出てきましたね、僕はいろんなところに研修会なんかに出ることが多いんですよ。学生が「先生、写真撮って」という。私、学生と写真撮るの嫌なんですよ。もうみんな若々しいでしょ。私はもう化石みたいに写っていますから嫌なんですよ。でも集合写真をもらうと、前に申し上げたことですがね、草柳さん、誰探します? いっぱい写っているときに。
 
草柳:  やっぱり自分ですね。
 
山崎:  まず自分を見ますよね。上手く撮っていると、ニコッとする。それは意識じゃないですよね。無意識のうちに、まず自分を探しますよ。自分がちゃんと撮れていると、友達に言うわけですね。「あいつ、おかしく撮れている」とか。それはある意味で本能的であると言ってもいい。そういうものを全部否定しなければ、救われないという教えであるなら、私なんかとても救われないだろうなという思いがありますよね。ですから親鸞聖人が、そういう自分を全部否定して、そういうことのはからいのない綺麗な人間にならなければ救われないんですよ、というのは、それはむしろ阿弥陀仏の世界とは全く異なった世界なんだ。むしろそういうはからいの中で、あっち行っては頭をぶっつけ、こっちへ行っては頭をぶっつけしている。まさに周章狼狽(しゆうしようろうばい)しながら生きている人間の、実はその人のために阿弥陀仏の教え、本願というものが起こされたんだとするならば、私にとっては何ともそれはなくてはならないものではなかろうか、というところに、親鸞聖人ご自身がうなずかれたんではないでしょうかね。
 
草柳:  親鸞における善悪の問題って、ものすごく大きなテーマなんですが、この『歎異抄』の一番最後の後序というんでしょうか、最後の序文みたいなところ、そこに一つありますので、一つ読んでみたいと思います。
 
善悪のふたつ総(そう)じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
 
これは一番最後のところですね。
 
山崎:  そうですね。『歎異抄』の全十八条のまとめといってもいいでしょうかね。大変重要な、そして善悪の問題ですからまた難しいことが述べられているところですね。
 
草柳:  ここのところをまた例によって現代語ふうに、
 
山崎:  そうですね。「善悪のふたつ」ですから、これが善、これが悪という。私は、それ究極的にこれが善これが悪ということが、もう私はわからなくなりました。「存知せざるなり」ですからね。なぜでしょうか。若い人と喋っていますと、非常に若い時代って僕もそうです、早急なところあります。「親鸞って、善悪がわからなかったんですか?」といった学生がいました。なかなか通りにくいとこですよね。そうでなくて、なぜか。その後に理由がありますよね。「そのゆえ」ですから、つまり真実を悟られた阿弥陀仏の「御こころによし」ですから、悟られた方がご覧になって、これが間違いない真実であると。あるいは善であるということに、私が知るような力があるとするならば、よき善とは何かということを知ることができます。しかしまた「如来のあし」ですから、真実を悟られた仏の眼差しからご覧になって、これが悪としか言いようがないというような、これが悪というように知る力を私がこの身にいただいているんだとするならば、これが悪であるということも言えましょうけれどもですよね、「あらめど」、しかしそうじゃない。なぜそうじゃないのか。その後に今までの論理のベースとしまして、私は煩悩具足ですから、貪り、そして怒り、愚痴という愚かさ、あれも欲しい、これも欲しい、あれも欲しい、これも欲しいが手に入ったら満足するか。なかなか満足できない。そして思い通りに行かないと、怒りの心、炎をメラメラと燃やす。そして愚痴―過ぎたことをあれこれ愚痴って、いくら言っても仕方がないのに、分かっていても、私たちは愚痴を言いますね。そういう私。つまり凡夫ですから、そういう不完全極まりない煩悩具足の私でありますし、しかもこの身は、「火宅無常」ですよね。「火に囲まれた家なり」と、親鸞聖人は仮名を振っていらっしゃる。火に囲まれた家ですから危険ですね。逃げなきゃ焼死してしまいます。そして「無常」いつ何時何が起こっても不思議ではない。まさに「色は匂へど 散りぬるを」という。いつ何時何が起こっても不思議ではない、おかしくはないという、そういうまさに「火宅無常」といえますのは、天変ですね。そういうところに生きている私たちは、よろずのこと、煩悩具足。現実は流転して止まない、変化して止まない危険なところ。そういうところに行けば、「よろずのこと」あらゆることが、「みなもって、そらごとたわごと」ですから、どう考えても嘘ばっかりではありませんか。偽りばっかりではありませんか。「まことあることなし」真実というものはどうしてもこの私たちの社会、世俗というものにはみることができない。そのあとに「ただ念仏みぞ まことにておわします」とこういうふうにありますよね。ここの「ただ念仏のみぞ、まことにておわします」というところと、「まことあることなし、そらごとたわごと」ということを考えますと、案外これ誤解されていましてね。非常にこれは虚無的であると、ニヒルであると。世の中これから自分を信じて生きていこうという時に、「そらごと、たわごと」なんていうのは、人間のやる気をなくさせるアレじゃないですか、ということを、私はご質問いただいたことがありますね。僕はそうではなくて、最後の「念仏のみぞまこと」というのが、やっぱりキーワードでしょうね。それを僕の理解で申しますと、尊い仏のみ教えに出会ったことによって、私の生きているこの世俗というものと、煩悩具足のこの私というものが、いかに実はわずかな教養だとか、知識だとか、社会的に云々、そういうものによって確かだと思ってるこの私自身が、実に危なっかしいものであると。社会というのはそうじゃないでしょうか。僕よく冗談で言うですがね、どっか講演に行きますでしょ。みなさんがいろいろ感想を言ってくださる。ほとんどお世辞ですけどね。お世辞でも、そのお世辞が嬉しいんですね。そんな時にどうでしょうね。「先生、今日一時間半、話を聞いていたけど、よくわからなかった」とか言われたらね、あんまりいい気もしませんよね。どっちが本当なんでしょうね。僕よく言うんですよ。「凡夫に誉められたと、有頂天になってはいけないし、凡夫に貶(けな)されたってそんなに落ち込むことはないんだ」というんだけれども、現実はどうかといったら、嬉しかったり、悲しかったりですよね。そういうそらごとたわごとの中に生きている。でも私たちはそのことを気づいていませんから。だから教えに遇った時に、「教えは鏡の如し」と中国の善導という人は言いました。「しばしばたずぬれば智慧を開発(かいほつ)す」と言って、教えというのは、社会を映し出し、そして自分自身を映し出す鏡なんだ。これ僕は尊い言葉だと思いますね。それが「念仏のみぞまこと」という、真実という鏡に照らされると、「そらごとたわごとまことあることなき」ということは、初めてそこでわかる。すると、人間に生まれた私自身が、何を求めて生きていかなければいけないのかとかね。今までどちらに向いて生きてきたんだろうかということが、そこから問われてくるんではないか。私は、「信仰というのは、そういう如来から問いをいただくことがではないか」という気がして仕方がないんですね。
 
草柳:  まさに信仰というその辺のところになると、言葉ではもう解けない世界に、僕は足を踏み入れないといけないのかもわかりませんけれども、「よろずのことみなそらごと」と、それと念仏が今の言葉の中で結び付くというのは、やっぱりなかなかうなずけないというかわかりにくいところですね。
 
山崎:  そうですね。ですからこの言葉は、さっき言いました非常に大事な言葉であるがゆえに、また誤解をされるし、ある意味では仏教の究極的な真実であるが故に誤解もされるし、なかなか理解が届かないということだと思いますね。
 
草柳:  ここで親鸞の真意ってどこにあったんですか?
 
山崎:  親鸞さんは、この後の方に出てきますけど、「われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」とこう書いていますから、みんな善悪にとらわれすぎていますね。自分自身が、私も『歎異抄』の、例えば第三条なんかのサブタイトルに「私は善人、あなたは悪人」というサブタイトルをよく使うんですよ。私たちは、大なり小なり自分のことを善人だと思っているし、間違いないと思っているし、自分以外は全部間違い。昨日あるところで講演があって、そんな話をお聞き頂いたんですけどね。「なんでこんな人と一緒になったのかしら。こんな人と一緒になったばっかりに、私の人生全く真っ暗闇だった」というのが、大前提として、全面的に悪いのは、前にいらっしゃる方なんですよね。自分はそうでない。その自分が問われるということが、僕は信仰だと思うんですけど。普通そんなことないですよね。悪いのは全部、あなたは悪人、私は善人。ある先生がうまいことおっしゃいましたね。尊い念仏者で、前に申し上げた高松信英(たかまつしんえい)先生という方が、「自分の悪に対して、人間はすぐ弁護士になる。他人の悪に対してはすぐ検事になる」という表現をなさったことがあります。その検事さんと弁護士さんは一つの譬えですけどもね。やっぱりそうじゃないでしょうか。自分が何か躓いたり、なにか好まざることをしたときには、私たちはみんな笑ってごまかすから。いや人間だから仕方ないよというふうなとこで終わってしまう。だけど一度私たちの家庭生活顧みましたってね。だいぶ前ですけども、貴重な時間で恐縮ですが、私は花が好きで、花をズーッと育てていました。そうしましたら、いいつぼみになりましてね、あぁ、二、三日後にそれが咲くかなと楽しみにしていました。そうしたら家内が水やってくれているときに、身体がぶつかって、そのつぼみがポトッと落ちたんですよ。「あぁ無情」という言葉がありますが、僕はがっかりしたわけですよ。その時に家内が何と言ったかというと、「あ、落ちちゃった」といったんですよ。私それを聞いて腹立ちましてね。落ちたんじゃない。落としちゃったんです、自分が。あなたがぶつかったから落ちたんですよね。それを「あ、落ちちゃった」と。私は、「落ちちゃった」ということを、大げさな言い方をすると違和感があったというか、許せなかった。「あ、落としちゃって、ごめんなさい」というと、私の心は満足すると思うんです。その時に、じゃ、そんなこというんだったら、自分が水をあげればいいわけですよ。自分は水あげないで、あげた人がそのつぼみを落としたことを、私たちは責めますよね。僕はその時にふっと気付かせてもらったのは、そういうことですよ。自分がやったらニコッと笑って、「あ、落ちちゃった。形あるものは壊れるよね」みたいなことを言ってね、整合しちゃうんだけれども、人の行為に対しては厳しい視線を向けて止まないという。善い悪いじゃなくて、私たちはそういうところに生きて、善悪―「善し悪しということのみ申しあえり」というのは、全部そこで、それが今日の混迷と言われる濁世(じよくせ)と言われる、僕は社会を汚すことの根本にあるんではないか。それを一回問い掛けてみたいという思いが、こういう言葉になってですね、ひょっとしたら現れたんではないだろうか。
 
草柳:  もう一つの今の最後の条から、これをご紹介したいんですが、
 
弥陀(みだ)の五劫(ごこう)思惟(しゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
 
つまりこれは煩悩具足の凡夫が、どういうふうに救われるかという、そこを書いたものですか?
 
山崎:  そうですね。まさにその通りだと思いますね。これはご承知のように、「弥陀の五劫」ですから、阿弥陀仏が―阿弥陀仏というのは、無限の過去に一人の国王があって、素晴らしい説法を聞いて発心(ほつしん)出家して法蔵と名のり、法蔵菩薩になる。その法蔵菩薩が五劫という長い長い時間かけて、人々を救うために四十八の願をたて、修行を経て、阿弥陀仏になったとお経に書いてあります。法蔵菩薩から仏である阿弥陀仏になる。そのために大変な修行をされた。それが五劫という長い時間であると。これは詳しくいったらきりがない。天文学的な時間なんですね。
 
草柳:  計りようがないような時間というふうな、
 
山崎:  縦・横・高さ、四十里四方の岩がある。三年に一度天女が舞い降りてきて、スーツと羽衣でそれをなぞる。その石が一つなくなった時が一劫というんですから、それは何を表しているかというと、つまり阿弥陀仏になるためには、そういう無限の時間を必要としたということの一つの象徴表現でしょうね。そういう五劫の間長い長い思惟(しゆい)ですから―一般には「しい」と言いますが、仏教では「しゆい」―人々が救われるためにはどうしたらいいだろうかと、長い長い時間お考えになって、そして人々の救われる願―願いをお立てになった。その心持ちをよく胸に手を当てて深く考えてみると、それは実はこの私一人の為であった。親鸞一人がためであった。これおかしいですね。阿弥陀仏というのは、親鸞さんだけの救いだけじゃないですから。「十方衆生(じつぽうしゆじよう)」とありまして、あるいは「一切衆生」とか「諸有(しよう)衆生」―あらゆる生きとしいけるものを救うために、私は人々の救いのために仏になったんだ。
 
草柳:  なのになぜここでは、「親鸞一人のため」というふうに言っているんですか?
 
山崎:  私たちは身近な言葉で言いますと、僕はここに実は宗教とか信心というものの世界、大義が表れているんじゃないか。「すべての人のためのものでありながら、実は私一人のためのものであった」ということは、それだけ救われがたい煩悩具足、罪業が深いという、このわたし自身の一人の救いのために、実は阿弥陀仏が救われたんだ。つまりどうでしょう。僕はよく思うんですがね、十人、百人でいろいろ講演なんかで大変たくさんのとこでお話することがあるわけですよ。何千人、何万人という時もありました。そういうときには何かお話していることがちょっとピンとこないんですよ。僕は一番講演というのは、肉声が息吹が伝わるような場所と人数が一番いいと思うんでありますけどね、そういうことがあります。ですから「親鸞一人がため」というのは、一切の生きとしいけるもののためであるのだが、究極的にはこの私一人のためであるということは、そういう大勢の者のためですよ、というとこには、どちらかというと、どうでしょう、緊張感がなくなるんじゃないでしょうか。みんな救われるんだ。そうじゃない。その教えは実はわたし一人。だから誰かお話をしてくださって、いろいろお話を聞きますよね。その時に、「あの先生、私一人のためにお話をしてくださっているんだ」という受け止めされたときには、その教えは本当に自分のものになるでしょうね。ある昔のお坊さんが、僕が若い時、ずいぶんいろんな先生の話を聞きました。昔の学者、先覚者なんですが、みなさん、三、四十人いたんです。そこを見渡しまして、そして「この中に救われる人がたった一人いる」というと、みんな自分のことだろうかという顔をする。その後に、「この中に絶対に救われない人がいる」というと、みんなね、きょろきょろ人を見るんですよ。その時にその先生が、「何できょろきょろしているんですか? その両方ともが私ですよ、というふうに受け止められませんか」という話、今、草柳さん、おっしゃったことで思い出したんで。つまり結局「一人がため、私一人が救われていく教えは同時に、万人が救われていく教えであるんだ」という親鸞聖人の領解ですね、今の言葉はね。それが「親鸞一人がためなりけり」というこの『歎異抄』の私は文章ではないか。大変重要な言葉ですね。
 
草柳:  今おっしゃるようなそういう文脈で読まなければいけないわけですから、救われるのは。それぞれ「私」ということはあそこに入れればいいわけですか?
 
山崎:  そうですね。ですから「それほどの業をもちける身」ですから、それほど救われない罪、悪、煩悩を持ったこの私ね。そういう身であるにも関わらず、その私を「たすけんとおぼしめしたちける」ですから、座っていられずに、その人を何とかしなければならないという菩薩の精神ですね。そういう気持ちでお立ちになる。その阿弥陀仏の本願というものは、なんと私にとっては生きていく上で、なくてはならないかたじけないものであるかという、これは喜びですよね。だから救われがたい私が、同時に救われていくという喜び。救われがたいという悲しみは喜びに転嫁されていくという。親鸞さんの信心の仕組みというのは、そういうところにあるんじゃないですか。
 
草柳:  その親鸞の救われる喜び、その和讃にたくさん書いていますよね。その和讃から一つ次を紹介したいと思うんですが、
 
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩の濁水(じよくすい)へだてなし
 
これはどういうふうに?
 
山崎:  これは大変親鸞聖人が尊敬しました北インドのバスバンドゥ(世親(せしん)菩薩、天神(てんじん)菩薩とも呼ばれる)その方の「観仏本願力(かんぶつほんがんりき)遇無空過者(ぐうむくうかしや)」という漢文なんですが、それを親鸞聖人が、「仏の本願力を観ずるに、遇(まうあ)うて空(むな)しく過ぐる者なし」という読み方なんですが、それちょっと難しい。それを親鸞聖人はわかりやすく、「本願力にあひぬれば、むなしくすぐるひとぞなき」つまり本願力ですから、阿弥陀仏の真実の教えに遇(あ)いぬれば、この「あう」という字は「遇(ぐう)」という字を書いてあるんですけど、これは世親菩薩のところでは。親鸞聖人は、「遇(あ)う」ということは「信ずる」ということなんだと、こういう表現をとっていらっしゃる。だから「あう」といってもいろんなあい方がありますよね。だから「遇(あ)う」ということは、実はこれは「教えを信ずる」ということなんだと。そしてその教えをいただいて、教えに信心して生きるという世界、そういう人生の歩みをする方は虚(むな)しくすることがない。私たちはひょっとしたら毎日虚しく虚しく、「徒労(とろう)」という言葉がありますけどね。そういう生き方をしているんじゃないでしょうかね。虚しくすぐる人はいない。「功徳の宝海」ですから、そう教えとともに生きる人は、宝の海と書いてますね。教えの様々なすばらしさをいただいて、人生の方向を決定する。そういう私ら「煩悩の濁水」私たちが持っておりますね。さっきから出てくる貪欲、貪りとか怒りとか愚かさ、そういった煩悩の濁り水と書いて「濁水(じよくすい)」、こういうものが何ら救いの前には障害、邪魔にはなりません。「へだてなし」と。例えば煩悩深く持っている私であっても、その煩悩が深ければ深いほど、それが転ぜられたときの喜びというのは大きなものがある。したがって虚しいし人生を乗り越えることができる、という、親鸞聖人の『高僧和讃』というね。前に出てまいりました「氷多きに水多し、障り多きに徳多し」大きな氷ほど解けた時の水の量多いですね。私たちの人生の中で生き方の中では、悲しみが深ければ深いほど、その悲しみが転ぜられたときの喜びというのは素晴らしいな、尊いことだなという、その喜びもまた大きくなるんじゃないでしょうかね。だから親鸞聖人は、煩悩悲しみつつ、しかしその煩悩が同時に私たちの救いに直結するんだという。こういう世界が特徴じゃないかと思いますね。
 
草柳:  その今おっしゃる煩悩が救いに直結するんだということも、もちろんそうなんですけども、それも含めてですね、今までズーッとお話を伺ってきて、頭の中では、つまり理屈の部分では勿論分かることはたくさんあるんですけども、ただやはり信仰の世界ですから、どうしてももう言葉ではどのくらい言い尽くしても言い尽くせない世界がやっぱりあるんじゃないかと思うんですね。つまりストンと胸に落ちるというところがないと、なかなかわかりにくい。もうそれはたぶんきっと理解を超えたところになるかもわかりませんが、今日は最終回ですから、山崎さんご自身が、長い修行の中で、たとえばストンとそういうふうに何かにぶつかった。その時にハッと閃いて、「あぁそうだったのか」と思うことって、きっと何回かおありになったわけですか?
 
山崎:  そうですね。それは今までの中では、おっしゃるようにたくさんありましたね。私は、信仰とか信心というのは、やっぱり如来から問いをいただくことだ。ですから問が無くなったら、「究極ゴール」と言ってますけど、問いが無くなったら、その人は宗教的な生活を離れた人であると。僕の言葉で、「問いが人間を作っていくんだ。人生を作るんだ」と。いつも問う中でわからないことがいっぱいありますね。ぶっつかりますね。例えば、私事で恐縮ですけどね、例えば京都大学に学びました十八の時に、行きたくて京都の大学入ったわけじゃないんですよ。私の父は若い時に、寺の出身でないですから、親鸞さんに非常に傾倒して、家の隣のお寺に素晴らしいご住職がお見えになって、その方に大変影響を受けましてね。仏教青年会運動なんかやって僧侶になったという。いわゆる父にしたら、親鸞の念仏を選んだという選びがあるわけです。私は生まれた時から寺でしたから、親鸞が偉い人だというとこに、これが僕にとっては凄いコンプレックスですよ、思想遍歴ないわけですから。宗教遍歴ないわけですから。それを僕は生涯克服できないコンプレックスだと思っているんですけどもね。そういう中で京都へ行きました時に、やっぱりこれは非常に不遜でやり、若さの僕自身の傲慢でもありますけども、やはり仏教というのは、お年寄りの、お寺見ますと年輩の方がいっぱい来ておりましたから、お年寄りというのは半ば生き方諦めかけた人が、つかの間の慰めに寺に来るんだろう。十八の僕にとってはそんなものは魅力を感じられませんよね、恥ずかしい話ですけども。それで京都へ行きました。私は実は柔道家になりたくて、坊さんになるのは嫌だったんです。
 
草柳:  そうですか。
 
山崎:  その時分、医学部へ行く自慢が流行った時代ですからね。そんなことばっかり。身体は小さかったが柔道強かったもんですから。その時に京都に行って勉強しなければならないということがありました。言葉は失礼なことですけども、おざなりの学生生活二十歳までに二年ぐらいやっていました。そういう時に私が出会ったのは、親鸞さんの八十八歳の時の最後と言っていい手紙の一節に、僕はハッと思ったんですね。
 
草柳:  読んでいただけますか。
 
山崎:  そうですね。その手紙は、僕の一つの大きなきっかけになった手紙なんですね。これは親鸞聖人が八十八歳の文応元年(1260年)の手紙なんですが、
 
なによりも、去年(こぞ)・今年、老少(ろうしよう)男女(なんによ)おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。
まづ善信(ぜんしん)(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑なければ正定聚(しようじようじゆ)に住(じゆう)することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。
 
消息、お手紙第十六通なんですが。
 
草柳:  ちょっと長めなんですけれども、山崎さん、このエッセンスをちょっと教えてください。
 
山崎:  そうですね。この当時は関東は大変な飢饉、疫癘(えきれい)でバタバタと念仏者が倒れて亡くなった時代ですね。その時に関東の方がお手紙を出したんでしょう。去年、今年も大変な方が亡くなった。おそらくお私の想像では、あれだけ熱心な信仰者がどうしてこういう亡くなり方をするんでしょうか。そこには信仰のあるものは安楽に死ねるという前提があるんじゃないでしょうかね。今でもありますから、そういう考え。それを親鸞さんは見事に否定した。それが非常に悲しいことである。しかしこのことは生死無常―人間がおぎゃと命いただいたら、どういう亡くなり方をするか分からないということは、如来方、仏方が連綿と説き続けてくださったことなんで、私はどのような最期であっても、それは驚くことはありません。ということですね。その後のこれはキーワードですね。私「善信(ぜんしん)(親鸞)」私にとりましては、臨終の善悪―亡くなり方の善し悪し、そんなことは私は一切問題にはいたしません。それより大事なことは、阿弥陀仏の教えに導かれながら、この土をどう生ききるか。これが信心決定。それが正定聚(しようじようじゆ)というくらいですから、その生き方を営むということが、いちばん大事なことであって、つまり臨終の善し悪しですね。だってみなさん、よく言いますよね、「こういう死に方をしたい」とおっしゃる方がいる。ほとんどそうなりません。私たちの思いのほかですからね。ですからそういう亡くなり方の善し悪しによって救いを決めるということが、実は間違っているんですよという、非常に明確なことが、ここに実は私は表れている。したがって「さればこそ」どんな方であっても、生きているときに、より確かな阿弥陀仏の教えのうなずきの中で、念仏とともに生き切った人の最期は、みなここに、草柳さん、「めでたく候へ」と書いてあるんですね。僕はここに、これは何か「浄土に生まれることによって新たな命を得る」という意味で、単なる死ではないんですね。親鸞さんの往生というのは、そう言う感覚が。だからそういう意味で大変大事な教えが凝縮されている消息、手紙だと考えております。私これを見ました時に、これ仏教というのは、こういうものなのかということを、若い時にハッとして、それから自分で言っちゃなんですけど、仏教の勉強に非常に身が入ったというような、今まで何も知らなかったなあという恥ずかしさがありましてね。私にとっては忘れられない親鸞さんの手紙ですね。
 
草柳:  ということは、今この世こそということに勿論つながってくるわけですよね。
 
山崎:  はい。
 
草柳:  あまり時間がなくなってしまったんですけども、月並みな質問で申し訳ないですが、山崎さんにとってこの唯円の『歎異抄』というのは、どういう意味を持っていたんですか?
 
山崎:  そうですね。私は読み方といういうのは、いろいろあると思うんですけども、私はいつも『歎異抄』読む―『歎異抄』だけではありませんけども―読む時にやっぱり私たちは、今二十一世紀の現実の中に僕自身が生きて、いろんな問題がありますね。本当にこの頃、遊ぶ金が欲しかったということの中で、お金になる金属をあっちこっちで奪ってしまうようなことがあります。悲しいですけど。ただ悲しいと嘆いていても仕方ないんで、この現実を生きていかなければなりません。それって一体根底には何があるだろうか。子供が遊んでいる遊園地の公園の滑り台まで持っていっちゃうんですから。そういうものを売って、そして遊ぶ金にするという。これ一体どういうことなんだろうかというと、それその人だけでなくて、その根底にやっぱり人間のエゴ、自我というものがあると思いますね。そういうものを私は、今私が生きていく社会の中で、僕自身がそういういろんな課題持っています。それはやはり学校現場の問題もありますね。いじめの問題なんか悲惨ですね。いじめないために人をいじめる。誰かいじめる奴がいいないかということが、小学生の中でターゲットを探すような時代の中で、これもやっぱり言ってみたら人間の問題でありましょう。そしてまた私が関わっている戦争問題にしましても、みんな正義の下に非常に悲惨な、いつまでたっても人類にとっては最大の罪業であり、悪業という戦争がやめられない。むしろ拡大していく。その根底に何があるのかという問題を持って、僕は『歎異抄』をズーッと何十年も読んでいききますと、やっぱり善悪の問題にぶつかりますし、自分が正義を主張するときほど、実は一番危ないんだと。こんな悲惨なことはないんだ、というメッセージを、僕は『歎異抄』からいただくような気がしますしね。だから読むその度毎に変わってくるものがありますね。お時間もなくなりましたが、番組出さしていただいて、いろんな方からお手紙いただきました。とっても深刻なお手紙があります。ある方は非常に苦しんでいらっしゃる中で、「言葉としてはわかるんだけども、無礙の一道ということは、今の私にとっては何の役にも立ちません」と、お手紙くださった方がおられました。心痛みました。でも、そこから実は本当の教えの営みが始まるんじゃないかと思うんですね。本願寺の九条武子(くじようたけこ)(教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活動した:1887-1928)さん、明治二十年生まれですが、大谷光瑞(おおたにこうずい)さんという人の妹さんですが、あの方が素晴らしい文章を書いていて、「私は何の役にも立ちませんでした」というお手紙を頂いたときに、思い出したのは九条武子さんが、「信仰は奇跡では無い」簡単に申しますと、「念仏を聞いたり、称えたりすれば、たちどころに悩みがなくなって―慰安ですね―慰めがもたらされるように思うけれども、そうではない。信仰は奇跡ではない。でも、ほとんどの人が、信仰はそう言う形でご覧になっているけど、これは大いなる錯覚である」ということを、何十年も前に書いていらっしゃる。私は、「何の役にも立ちません」とおっしゃる深刻なその方の悩みの中で、その悩みを通じて、実は本物に出会う。『歎異抄』で言うと、異義・異端を通じて、これは間違っている。じゃ本当の信心とか信仰は何なのかということが、そこからまた明らかになるんではないでしょうかね。まぁそんな読み方を僕はしてまいりましたね。
 
草柳:  親鸞が、『歎異抄』を通しての親鸞を見てきたわけですけれども、今現代生きている私たちに対して送ってきてくれるメッセージというのは、考えてみると本当に七百年、八百年前の人とは思えない新しさというのが、親鸞の教えの中にはあるということですね。
 
山崎:  そうですね。
 
草柳:  今回十二回、山崎さんのお話を聞かせていただいてつくづく思いました。すごい人ですね。
 
山崎:  そうですね。それはだから八百年前の人間も、今日は人間も、言われるほど本質においては変わっていないという人間そのものの認識といいましょうか、改めてそういうことを感じますね。真実というものは、時代によって変わるものではないということも含めまして、そういうところから、僕は今回機会を与えていただいて、また心新たに『歎異抄』を四十年読んできましたけども、読み直してみたいなという思いでいっぱいでございます。
 
草柳:  どうも一年間、長い間ありがとうございました。
 
山崎:  どうもありがとうございました。
 
     これは、平成十九年三月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。