人から人へ
 
                   出演者 近 藤(こんどう)  紘 子(こうこ)
1944年(昭和19年)、広島流川教会牧師の谷本清、チサ夫妻の長女として生まれる。生後8ヶ月、広島において被爆するも奇跡的に助かり、63年に桜美林高校卒業、アメリカに留学して、66年にセンテナリー短大を、69年にアメリカン大学を卒業。世界の子供たちとともに平和を訴える「財団法人チルドレン アズ ザ ピースメーカーズ」の国際関係相談役。
                   ききて 山 田  誠 浩
 
ナレーター:  兵庫県三木市。住宅街の中にある教会です。近藤紘子さんは、牧師である夫と共に、この教会に赴任して十三年になります。
 
近藤:  はい。おはようございます。
 

 
ナレーター:  近藤さんは、一九四四年、広島の爆心地に近い教会で牧師の娘として生まれました。両親と共に原爆に遭ったのは生後八ヶ月の時でした。近藤さんは牧師夫人として教会を支える一方、この三十年余り、自身の被爆体験を伝え続けてきました。平和への願いを語り続けた父の遺志を受け継いで、国内はもちろん世界各地での講演活動を続けています。
 

 
近藤:  山田さんどうぞこちらのお部屋に。
 
ナレーター:  近藤さんが、今も手元に残している被爆当時のものを見せて頂きました。
 
近藤:  教会ですからいろんな人がね。こんなボロボロの箱だと捨てられたらいけないので、「重要広島」「原爆レンガ」「服」って書いておかないと。
山田:  なるほど!
 
近藤:  よいしょ。これなんですよ。この臙脂(えんじ)(紫と赤とを混ぜた絵具)はこれはレンガですよね。
 
山田:  この臙脂(えんじ)はレンガですか?
 
近藤:  レンガですね。これ瓦ですね。
 
山田:  これはだから八月六日の光線の時に溶けたんですか?
 
近藤:  そうです。溶けたんです。溶けてこういうふうに全部。
 
山田:  固まっちゃったわけですね。
近藤:  ここなんか、もうレンガの。それはもうすごい。その場所に人間がいたんですからね。そりゃぁもう。
 
ナレーター:  近藤さんの父が牧師を務めていた広島流川(ながれかわ)教会は爆心地から八百メートルの所にありました。近藤さんと母チサさんは、そこから少し離れた牧師館で建物の下敷きになりました。
 
近藤:  これが服なんですよ。
 
山田:  おぉぅ、かわいいですね。これは?
 
近藤:  これは八月六日、一九四五年、私が着てた洋服なんです。
 
山田:  あぁそうですか。
 
近藤:  家の下敷きになった時に。
山田:  えっ! そうですか。
 
近藤:  はい。これがジョン・ハーシーに出てくる父が、
 
山田:  お父さんが着てたんですか? その時に。
 
近藤:  はい。それで破れたりしたので縫っちゃって。でもうそのままなんですよ。
山田:  炭なんか飛んで?
 
近藤:  そうですね。その日の朝私の母が、もんぺも焼けてしまったらしいんですけど、どうもこれを着てたっていうことを聞いたんです。
 
山田:  これも八月六日に着ていらっしゃった?
 
近藤:  はい。着ていたもんだそうです。
 
山田:  お母さんが着ていらっしゃった。
 
近藤:  はい。母がこれを着て、私はこれを着て、そして母に抱かれて家の下敷きになったんです。私はまあ…。多くの人が一瞬にして亡くなる。それを思い出させることできない。だから直接には一切聞きませんでした。だけども四十過ぎた頃、母が、「あなたに話しておきたいって言ってくれて、二人でソファーに座って、彼女もその日のことを思い出しながらぽつりぽつりと話し始めて。空襲警報が解除になってて、婦人会の会長さんが母を訪ねて朝いらして下さって。それで母が私を抱き上げて、その方と話をしてくれてたから助かったわけですよ。もしもそのまま寝かされてたとか、一人でウロウロしてたら、もう家ぺしゃんこになった時に、もう母は私を救い出すことできなかったと。母の頭の上に全部いろんなものが落ちてきてますもんですから、意識が朦朧としてる。頭を打ってますし、意識は朦朧としてるので、最初は赤ん坊の泣き声が聞こえたそうです。「あぁ、どっかで赤ちゃんが泣いてるな」と思ったけど、意識がスッとは戻らないで、こう戻ったり、また分からなくなったりしてる中で、次に気が付いた時はもう何の音も聞こえなかった。何一つ音のない世界。「この家に谷本紘子と谷本チサがいます! 助けて下さい!助けて下さい!」と叫んだそうです。でも誰も来て下さらない。来ないということは、この子が死んでしまう。「私はどうなってもいいけど、この子だけはどうにかしなきゃいけない」と思って、とにかく体を少しずつ動かして、穴を作り、まず私を外に出し、そして自分が外に出て、周りを見たら、もう火が上がってて、今までとは全然違う景色。母にしてみれば、私がいたからこそ、〈この子をどうにか〉という思いで助かったのよ、っていうことを聞きました。
 

 
ナレーター:  近藤さんの父・谷本清(たにもときよし)さんは、アメリカの大学院で神学を学びました。原爆の二年前、広島流川教会に牧師として赴任。被爆直後から、傷ついた人たちの救助に奔走し、「原爆乙女」と呼ばれた女性たちなど、被爆者の救済と平和のために生涯をささげた人でした。近藤さんが生まれた教会に程近い広島縮景園(しゆつけいえん)です。当時避難場所となっていた公園には、原爆投下直後、火傷を負った瀕死の人々が集まっていました。近藤さんの父・谷本清さんは、市の郊外で被爆。壊れた橋を迂回しながら市街地に戻り、この公園にたどりつきました。火の手が迫る中、人々を対岸に避難させました。
 

 
近藤:  これが太田川からズーッと分かれてきてるんです。こっちから向こうに、父は人々を渡してたみたいだし、私と母もまずここへ来て、ここは皆さん町内の人たちここへ逃げてくるんだけど、こっから逃げていくにはここの川を渡らなきゃいけない。父の書いた本に、舟を見つけたと。そこにもう亡くなった方の遺体があったので、「ごめんなさい。みんなのために使いたいから」って、そのご遺体を舟から出して、それでその舟で一日中、人をとにかくこっちからあっちに。今こんな平和なね。流れも昔は私よくあそこら辺に渦を巻いてるのを見たけども、今そんなのないわね。あ、新幹線が通ってる。
 

 
ナレーター:  アメリカのジャーナリスト、ジョン・ハーシーが記した「ヒロシマ」。原爆に関する報道が制限される中、広島で何が起こったのかを詳細に伝え、世界に衝撃を与えたものでした。被爆の現実を、惨禍を生き延びた六人の人間の記録として伝えたこの本は、近藤さんの父・谷本牧師がハーシーに渡したメモがきっかけとなって生まれたものでした。当初は雑誌に掲載され、発売当日に三十万部全てが売り切れたといいます。その後十数の言語に翻訳され、今も世界で読み継がれています。
現在の広島流川教会。礼拝堂には、今黒い十字架が掲げられています。
 

 
近藤:  原爆が落ちた時は、今の所に住んでいて、ここはもう住める状態じゃなくなったので、この教会のここら辺にちょうどこの横なんだけども、簡単な牧師館をつくって。廃材がいっぱいありますよね。廃材を片づけていかなきゃいけないの。大工さんが父に、「先生、これどうしましょう?」。まあ立派だったもんだから、大工さんがそれを父に聞いたら、「十字架でも作っとこうかね」っていう話を二人でして、そして十字架を作った。作ったんですけど、それを見ると、多くの方はやはり八月六日、一九四五年を思い出す。それやっぱりつらいということで、実は私、幼い頃焼けた礼拝堂の二階っていうのがバルコニーになってて、そこにこれが新聞紙でくるんであると十字架の形がきれいに見えるんですよ。その十字架が遺体じゃないですけど横たわってる。そうね、子どもにはやっぱり怖い。原爆で焼けた十字架を見るのは。でも今こうやって見ると、う?ん、すごいですよね。
 

 
ナレーター:  敗戦の翌年、教会では屋根のない会堂での礼拝が再開されました。そんな中、谷本牧師はひどい火傷を負った少女たちに出会います。占領下、国内では被害の実態は知らされず、被爆者救済も十分に行われていませんでした。学童疎開で市街地を離れていた多くの子どもたちが、両親や親戚を失い、孤児となっていました。谷本さんは、アメリカに渡り、広島の窮状を訴え、支援を求める講演会を開きます。教会には、谷本さんの講演やハーシーの著書「ヒロシマ」に心動かされたアメリカの人々から、支援物資が届けられました。また支援に訪れる外国人の足掛かりの場所になっていました。
 

 
山田:  お父さんや教会の様子から伺っていきたいんですけど。
 
近藤:  はい。被爆後、一年半、二年経ったらもう海外に行きましたからね、アメリカに。講演旅行に。アメリカの落とした爆弾によって、こういうふうになったということをやはり知らせなきゃいけないっていう。
 
山田:  つまり被爆後はどういう状態かということを。
 
近藤:  はい。当時は船ですから。帰ってくるのは一年後、一年半後、二年後とか。何回も講演旅行に行くんですけど、私としたら会う時はないわけですね。自宅にいればいるで、教会だけではなく、町内の方、またどなたか人伝いに聞いた人が困ってるというと、もうすぐ飛んで行ってました。人から父の膝の上に座ったなんていうのを聞くと、〈わぁ?、いいなあ。私もお父さんの膝に座ってみたかったな〉とか、〈お父さんの手つないで散歩行きたかったな〉っていうのはすごいありました。
 
山田:  教会にはいろんな方が出入りしてらしたんですか?
 
近藤:  はい。父はいなくても。シュモー博士というアメリカ人の方なんですけども、大学の先生です。林業を専門に研究してらした先生なので、広島に原爆落ちたということを知られた彼は、学生を連れて、まず広島に入って、大工さんにクギの打ち方、カンナとかはもちろん向こうとは違いますので、そういうのを教わりながら家を造っていって下さった。アメリカ人のシュモー博士とその学生さんたちは、教会に寝泊まりして。だから私は一緒に朝ごはん食べたり、お昼はみんな現場に行って、そこでお握り食べたりしてたでしょうけど。私はよくそれに連れていかれてたんですよ。何もできないでしょ、もちろんチビちゃんですけど。でもウロウロしてたんですけど。まずそういう方。あとは父の友人。大学院時代ご一緒だった方が、やはり父を助けるために広島のための復興の仕事を関わって下さったので。牧師先生なんですけど、教会をお休みを取って広島に来て下さったりとか。まず有名なジョン・ハーシーとか、
 
山田:  「ヒロシマ」をお書きになった。
 
近藤:  はい。あとはノーマン・カズンズさん。原爆乙女の治療運動―父の手助けをして下さった方なんですけど。ですから原爆っていうことに対して、そういう方たちといつも接してるもんですから、「アメリカが悪い」とは、私はずっと思ってなかったわけ。いいイメージがあるんです。もうみんなほんとに親切でした。
 
山田:  エノラ・ゲイ(広島へ原爆を投下した、アメリカ陸軍航空隊の原爆搭載機B29の名称)の落とした原爆によって被爆された人たちも教会にはいらしたんですか?
 
近藤:  はい。いました。教会の七十パーセント、もしくは八十パーセントの方がお亡くなりになった。その原爆の後いらっしゃる方というのは、もちろん今まで教会に通っていらした方もいらっしゃれば、全くいらしたことのない方たち。でもきっと何かを求めたかったんでしょうね。特に私が忘れられないのは、若いおねえさんたち。普通の日でも、一人二人といらっしゃるわけです。そのおねえさんたちにとっては、小さい私を「紘子ちゃん、紘子ちゃん」ってかわいがって下さる。中には私の毛をきれいに櫛でといて下さったおねえさんたちもいらっしゃる。櫛を持った手を見たら、その手が全部ひっついたまま。火傷でね。「どうしてそんな手になったの?」なんてこと、思うけども、それを口に出してはいけないということが分かる。私としたら、おねえさんたちの顔、目が見たい。でも見れなかった、最初は。まぶたは額にひっついたまま。唇は顎にひっついたまま。「ピカドン―広島では「ピカドン」と言ってました―あれによって、火傷があってこうなったのよ」とか。二十歳ぐらいの人でしたら、「許嫁(いいなずけ)がいたんだけど、こんな体になったからもう結婚できないのよ」とか、そのおねえさん同士が話してるのを聞きまして。もしもあの爆弾が落ちなかったら、このおねえさんたちはこんな火傷を負わなかった。手もひっついたまま、足もね―そんな体にはならなかったはずだと思い、もう私は。最初からB―29、エノラ・ゲイに乗ってた人たちさえ落とさなければ、こんなことにはならなかったと。ということは、あの人たちが悪い人だと。私はいい人だから、いつの日か大人になって、このおねえさんたちの敵を絶対討とうと思ってた。人によっては、やっぱりアメリカが憎かったって思われる方がいらっしゃいましたけど、私は、アメリカ人に対しては、そういうふうなイメージがなく、とにかくやっつけたいのはあの飛行機に乗ってる人たちというふうに思ってましたね。でも私もちょっとずるい子どもで、それが親に知られると、きっと親は、「ちょっとあなたいらっしゃい」っていうことで、延々と話を聞かされると思うのね。それだけは嫌だから、親だけにはそのこと知られたくないから、心の中にそっと収めて。
 
山田:  小さい近藤さんは、そういうふうに思っていたわけですね。
 
近藤:  そうです。今でも父の言葉を思い出しますけど、父がこういうふうに言いました。最初その若い女学生が来て、顔見た時、「ああ、すまない!」と思ったそうです。でどっかでは、やっぱり当時は、「キリスト国」と言われてたアメリカにこの若い子どもたち、少女たちがそういうことになったということに対して、父は、「アメリカはそのことに対しては謝らなければいけない。戦争に対しては、これはもう戦争だったからしかたがなかったけど、いや子どもたちに対しては謝らなければいけない」というのを言ってました。
 

 
ナレーター:  谷本牧師、一九五○年、アメリカの人々と共に「精神養子縁組」という取り組みを始めます。心に痛手を負った孤児たちとの間に、経済的支援だけでなく、その成長を見守る親子のような関係を築こうとするものでした。谷本さんは、広島に被爆者を支えるさまざまな機能を持ったセンターをつくることを夢みていました。それは孤児たちを育てる施設や、火傷を負った少女など女性たちが職業訓練を受けられる場、また原爆症に苦しむ人たちを治療する医療施設などを備えたものでした。その計画を胸に何度も渡米。数百回の講演を重ねます。講演は同時に真珠湾攻撃を非難する人、また原爆によって多くの人命を奪ったことに痛みを抱くアメリカの人々との和解の旅でもありました。被爆から十年、火傷を負った女性たちが、治療のためアメリカに向かうことになりました。ニューヨークの病院が無償で治療を引き受けると申し出てくれたのです。
 
(ニュース音声)午前十時三十分、一行は岩国の飛行場からアメリカの軍用機で旅立ちました。
 

 
ナレーター:  谷本さんは、女性たちを連れ、アメリカに向かいました。
 
近藤:  その時、やはりこれもおねえさんたちから聞いたんですけど、軍用機に乗るっていうことは、すごい抵抗があったそうです。もちろんそりゃそうですよ。原爆を落としたのも…。でもやはり自分が生まれた時の体に戻りたい。親に反対された人もいたけども、やはり自分の顔が元に戻りたいということで行ったんですけど。
 
ナレーター:  父の出発後、アメリカのテレビ局から連絡が入りました。女性たちと父が出演する番組に、「家族も出てほしい」という突然の申し出でした。
 
近藤:  「明日の飛行機で来るように」。「明日の飛行機で来るように」って言われても、まずパスポートがないですよね。母が東京へ行き、外務省に行き、そして法務局に行き、そしたらもうパスポートは出来てました。まだ十年後は、それだけアメリカの力があったんでしょうね。
 
山田:  近藤さんご自身はご存じなかったわけでしょ?
 
近藤:  そう! 祖母が学校に迎えに来てくれまして、「娘は明日東京旅行に行くので、早引きさせます」と言ったんです。〈へえ、東京を見せてくれるのか〉と思って。私とすぐ下の弟は夜行列車で東京に行きました。そしたらまあ母と会って。羽田に行くわけですよね。飛行機の中に入っていくわけですよ。母も何にも言ってくれない。何が何だか分からない。そして五月十一日、テレビ局の大きな大きなホールに入りました。母は、私にも着物を着るようにということで用意してくれてた。ただ、一日しかなかったので用意ができてなくって、私、下駄も草履もないまま。やっぱり五年生でね、着物着て、ソックスはいて、そして靴を履く。もうそれがすごく嫌でね。でもまぁしょうがないわね、親がそう言うから着ました。反対側を見たら知ってる方が二人いらした。一人は父の大学院時代の友人。もう一人は日本で長年英語教育をしていらした方。三人目の人。生意気な私は会ったことのないその人は誰か知りたいわけですよ。母に「ねえ、お母さん、そこにいる右側にいる人は誰?」って聞くと、母がすぐ答えてくれない。実は後で分かったんですが、母は母で、この子にこれを言っていいものかどうかと。でももう小学校五年生。世の中のことをそろそろ分からなきゃいけないと思い、「紘子、あそこにいる方はキャプテン、ロバート・ルイスといって、広島に原爆を落としたB―29、エノラ・ゲイという飛行機に乗っていた副操縦士のおじさんよ」って教えてくれた。私、もうショックというか、びっくりして。だってあのおねえさんたち、そして多くの子どもたちの代わりに、この私が敵を討つ!とズーッと思ってた、その一人が目の前にいる。でも私はバカではないから、ステージの真ん中に走っていって、そのおじさんを叩いたり、?み付いたり、蹴飛ばしたりすることは、してはいけないことぐらい分かる。そうすると私にできることというと、もうずっとそのおじさんを睨み付けてた。英語の詳しい言葉は分からないんですけど、おおまかなこと理解ができる。そしたら司会者が、その人に向かって父を目の前にして、「あなたは爆弾を落とした後、どう思いましたか?」って聞かれるわけです。で、どう言うかとジーッとにらんでたんです、遠くから。
 
ナレーター:  父・谷本清さんが出演したのは、それまでの人生に深く関わった人々との再会が用意されたアメリカのショー番組でした。紘子さんたち家族も、父には内緒で会場に招かれていました。
 

 
司会者:  人生の明暗を分ける時がやってきました。原爆が落ちた時、あなたはどうしましたか?
 
谷本:  何も聞こえませんでしたが、不思議な閃光が走りました。地面に伏せると強い爆風を感じました。起き上がって見ると、多くの家が壊されていました。
 
司会者:  ルイスさん、どうぞこちらへ。一九四五年八月六日の体験を話してくれませんか?
ルイス:  私たちはマリアナ諸島のテニアン島を午前二時四十五分に飛び立ちました。目的地は日本。攻撃目標は、広島、長崎、小倉の三ヶ所でした。広島は快晴との連絡で、攻撃目標は広島に決まりました。原爆投下後、引き返すと、広島の街は消滅していました。
 
司会者:  あなたはその時何か記しましたか?
 
ルイス:  「神様、私たちはなんてことをしたんだ」と。
 

近藤:  八時十五分。広島の目標は、Tブリッジだったそうです。相生橋(あいおいばし)っていうのは、空から見たらの「T」に見えるので、そこがターゲットで、そこに向かって落として、すぐそこを飛び去る。というのは、爆風で飛行機も簡単に墜落するので、とにかく落としたらすぐそこを飛び去る。しかし落としたものの威力はどうだったかを見てくるという命令も出てたので、またエノラ・ゲイ号は再び広島上空に来た。キャプテン、ルイスは飛行機の窓から広島を見た。広島が消えていた。そして彼は副操縦士ですから、すぐ飛行日誌にずっと、何時何分、経度何度の所を飛んでるとか、全部記録しないといけない。My God,what have we done?(神様、私たちはなんてことをしたんでしょう)。お母さんに書くようなメモで残した。それを言ったら、彼の目から涙が出てきたわけ。実は私、それまで「このおじさんは鬼だ! あんなものを落として、多くの人たちを殺したんだから」と思ってたのに、鬼の目から涙が出てきて。やっぱり私、それはまずショックでした。自分の心の中をソーッと見たんですね、私自身の。そしたら私の心の中にも、悪い心がいっぱいある。親の言うことを聞かなかったり、弟と取っ組み合いの喧嘩したらいけないって言われてたのに、したこともある。その私がどうしてこの人ばっかりにずっと〈この人が悪い人、この人が悪い人。私は正しい人と思ってたんだろう〉ということに気が付いて。心の中で〈ごめんなさい。あなたのことを知らなかったのに、私はずっとあなたが悪い人だと思ってた〉。どうしてそういう行動を取ったか分からないけど、カニのように横歩きして、おじさんの手にそっと触れたわけ。そしたらおじさんが私の手をしっかり握って下さった。それが実は今私の原点になってるような気がする。原点になってるような気がします。
 
山田:  それは、でも十歳のその時にそこまで思ったんですか?
 
近藤:  それは親はやっぱり戦争の話とか、平和であるようにとか、いつも話してるもの。だから他の人が考えるよりは、私は考えたと思う。
 
司会者:  谷本さん、驚かせることがもうひとつ。あなたのお子さんたちです。
 

 
ナレーター:  近藤さんは、この時もう一つの出会いをしています。アメリカの作家パール・バックとの出会いです。宣教師の子として中国で育ったパール・バックは、谷本牧師の活動の最初の理解者の一人でした。自身も、第二次大戦や朝鮮戦争中、アメリカ軍人との間に生まれ、現地に残された子どもたちを引き取り育てていました。
 

 
近藤:  実は「This is your Life」に出たあと、パール・バックが、「せっかくアメリカに来たんだから、アメリカで夏休みを過ごしたらどうだろう」って提案して下さいました。というのは、父はずっとまた講演して回らなきゃいけないので、母と私たち兄弟四人パール・バックの家に行くことになりました。そこには養子の子どもたち。当時一番末っ子のヘンリエッタ、黒人の女の子。私と一つ違い。もうその子と結局三ヶ月毎日遊んで毎日喧嘩して毎日笑って。すっごい、すっごい楽しい思い出。
 

 
ナレーター:  広島では、一九四七年、アメリカ学士院によって、原爆の放射線が人体に与える影響を調査するABCC原爆傷害調査委員会が設立されました。近藤さんは、被爆後間もなく原爆症を発症し、一時は助からないと言われたほどでした。小学生の頃からここに通い、定期的に健康調査を受けていました。しかし中学生の時に体験したある出来事から、検査からも広島からも、離れる決意をすることになります。中学生以来、初めてこの場所に入ったのは、日米の大学生を案内した十年ほど前のことでした。
 

 
近藤:  この部屋だけは長いこと入れなかったよ。「今日は講堂を見せたいんだけど」って。今からもう何年ぐらいかな―十年ぐらい前に言われた時、「えっ、ちょっと考えさせて下さい」って申し上げて。で下のソファーに座って考えて。でも、もうね、この部屋に入ってみるのもいいと思って入って驚いた。私、この部屋もっと大きいイメージが自分の中に残ってて。五年だったか、十年前にここ入った時、「えっ! こんな小さかったのかしら」。実は下に入ってきた時に、バスケットを頂いて、そこにアイロンがきれいにかかったガウンと布。横で紐で括るものなんだけども、小学生はどうにかできたんだけど、それが高学年になると、だんだんちょっとそれを―下着を取って、それを脱ぐというのはだんだん抵抗を感じ始めた頃。ここを入ってきたら、人がいっぱいいらっしゃるわけ。「あらぁ何だろうな?」と思ったら、英語だったり、あれはドイツ語かなと、いろんな言語が耳に聞こえて。それでこれはお医者様方の集まりだなっていうのが分かり、そしたら「はい、谷本さん、舞台の上へ上がって下さい」って言うんで、ここの舞台に上がったのを覚えてます。スポットライトのような記憶はあるんだけど―よく分からないんだけど。「谷本さん、ガウンを脱いで下さい」って。ガウンを脱いだら、ふんどし一枚じゃないけど、やっぱり中学生でしょ。自分の体が小学校の子どもの体から大人の体に変わっていく。胸も膨らんでくる。そりゃ、もうすっごい私としたらやっぱり屈辱。八月六日、一九四五年広島にいた。いたけど、あの戦争を始めたのは私ではない。その私が、なぜここまで脱いで、ただお医者さんたちが「右向け、左向け」だと言うようなことで、その舞台の上で。「神様もうここから私を助けてほしい!」って祈ったんだけど、祈りが聞かれないような気がして。それはやっぱりすっごい私としたら心の中に残っちゃって。その日のことは誰にも話せなかった。親には話せない。心の奥のずっと奥に。で私は、父もアメリカで教育受けたし、多くの人たち、広島に手を差し伸べた人たち、ジョン・ハーシーをはじめノーマン・カズンズ、ドクター・シュモー、みんなにかわいがられたからアメリカの人は大好きだったけど、あの日のことを通して、なぜかもう検査をしたくなくなったのね。「もう神様助けて下さらないなら、それでもういい。しかし私はこれ以上広島には住まない!」って決心して。それからコツコツと東京へ脱出する計画を立てて。そして紘子は東京へと出ていった。
 

 
ナレーター:  広島を離れ、東京の高校に進んだ近藤さんは、アメリカの大学に進学する道を選びました。東部の二つの大学で、社会学と児童心理を学び、その間五年半、一度も日本に帰ることありませんでした。
 

 
近藤:  重荷を背負いたくなかった。もっと友達みたいに、もっと自由に自分の好きなような生き方がしたいっていうのはすごくありましたね。特に父にとっては、人のため、人のため。両親は、ずっと「町内で生き残った赤ん坊は、あなた一人だったんだから、世界のために、広島のために、平和のために、役に立つ人間になってほしい」って言われれば言われるほど、ずっと反抗して。だから、それでもう逃れるっていうことは、もう向こうに住みたいと思ってね。結婚して、アメリカに住んだらもう広島とさよならができると思ったんですけど、婚約破棄となった。婚約が破棄となってしまったの。
 
山田:  それは?
 
近藤:  婚約した相手の人のおじさんが、お医者様で、放射能が人体にどういうことを与えるかを研究してらっしゃる方で、私のことを聞いて、「Koko is no good.」紘子はよくないってことになって、あちら様の家族の大反対に遭って日本に帰って来るよりほかなかった。
 
山田:  そのことは、どういうふうに思いになったですか?
 
近藤:  やはり若かったですし、ショックでしたね。放射能、これはもう私のコントロールできる範囲の問題ではなく、自分の婚約が駄目になったっていう時、悲しいんだけれども心の中のどっかではほっとした。それどういうことかというと、おねえさんたちと同じ。私も被爆しちゃったから駄目になった。勿論百パーセント、おねえさんたちの気持ちが分かるわけじゃないけど、近寄れた、という思いもちらっとありましたね。それで結局日本に帰ってくることになったわけです。もうちょっとお話させて頂くならば、大学は、私、アメリカの方に行ってたので、大学二年の時、キャプテン、ルイスに会いたいと思った。なぜ会いたかったかというと、私は「ありがとう」が言いたかった。ひと言あなたに会ったことによって、私は変えられた。だから「I'd like to say thank you to you.」ありがとうを言いたい。ということで、彼を捜したんです。そしたら精神病院に入ってらした。「あぁ、そうなのか。かわいそうだな」と思ったけども、貧乏学生だったし、自分の生活に一生懸命で、足を運んでまで彼のもとには行かなかった。日本に帰ってきて、ある日新聞を開けたら、彼が亡くなったと書いてあった。実は彼は彼で、あのテレビ番組に出たことによって、すっごい非難を浴びたわけ。「My God, what have we done.」(神様私たちはなんてことをしたんだろう)って言ったということは、彼は、アメリカがしたことは間違っている、ということを認めたっていうことになるからね。ペンタゴンからも呼ばれる。何であんなことを言ったか、というので。彼が病院でつくった彫刻っていうのをね、その精神科医が世に披露して下さったんですけど、「きのこ雲一つ涙一滴」。だから彼は彼であの日からズーッと心を病んでた。その時も思ったんです。戦争はどっちが勝った負けたでなく、もう両方とも傷つく、というのを、私は個人的にその人を通して、はっきりそれが分かったので、それは世界に向けて言いたい。もう戦争は、両方が苦しむ。それが私は、キャプテン、ルイスとの出会いでわかった。彼に出会えてよかったと思ってます。「ありがとう」っていうのはそういう意味で、私は彼に本当は言いたかった。
 

ナレーター:  アメリカから帰国した近藤さんは、外資系の会社に就職。東京で働きます。そんな中で出会った近藤泰男(こんどうやすお)さんと結婚をしました。夫と共に、父が長年手がけてきた平和活動を手伝うために広島に戻ったのは、三十歳を過ぎた頃でした。
 

 
近藤:  東京にいた時です。仕事場がちょうど虎の門病院の隣でしたものですから、そちらに検査に行ったら、「おめでとうございます」って言われて、「あ、そうか。私もこれで妊娠、赤ちゃんができるんだな」と思って。
 
山田:  待ち望んだことですもんね。
 
近藤:  はい。次の検診に行ったら、「いや、ちょっと待って下さい。いやぁ、いやぁ」って、向こうの先生方がみんなが首を振りだして、「いや、分からんな。もうちょっと様子を見よう」ということで。そして三回目行った時は、「いや、どうも無理でした」。人によっては、それはもう絶対原爆と結び付ける方もいらっしゃるかも分かりませんけど、私はそこまで。まあショックでしたけど、それはそれでもう。ただ、私の心の中には、実はやはりパール・バックの影響がありまして、養子を引き取るっていうことありますよね。でやっぱり二人で決断して―結論を言いますと、二人の子を引き取ることができた。お母さんです。はい、なれました。パール・バックとしたら、私に「どの子もこの世に生を受けた子どもは必ず意味がある。それを絶対忘れないでほしい」っていうのを言われましたね。その言葉はやっぱり私にとって、キャプテン、ルイスもそうですけど、パール・バックもほんとに心の中で支えになってます。
 
山田:  近藤さんご自身が、広島に帰って、自分の被爆体験を話していこうとか、そういうふうに思っていかれるというきっかけは何だったんでしょうか?
 
近藤:  「アメリカから、子どもの財団「Children As The Peacemakers」っていう財団が、子どもたちと来るので、ちょっと時間があったら対応してもらえないか」って言われて、「ああ、喜んでお手伝いします」ということで、その子どもたちにまず平和公園で会ったわけです。いろいろと一般的な説明をしてたんですけど、どの子の目ももう光ってね、一生懸命話聞いてくれる。それを見た時、実はキャプテン、ルイスとの出会いを自然にまず想い出しました。
 
山田:  キャプテンルイスとのこと?
 
近藤:  出会いの話をね、子どもたちに。そしたらやっぱりアメリカ人の子どもですから、「ああ、そうだったのか」っていうことになって。世界を回る前に、広島という街に来て、何が起こったかを自分たちの目で見たい、っていうことで来たもんですからね。いやぁ、こっちが心を動かされました。それと同時に並行して今度は、日本の高校の子どもたちが広島に平和学習のために来て、流川教会に大きいホールがあったもんですから、父が話をすることになって。その会でも「私に説明してほしい」と言われたので、話を始めたら、みんな着てるのは学生服ですよね。そうすると中学生時代を想い出されて、この子たちに同じ思いは絶対させてはいけないっていうことで、自然にABCCの話が出てきた。実は母・父、近藤、三人が一番後ろの席で聞いてたわけです。勿論その三人にとっては初めて聞く話で、ものすごいショックだったらしいです。
 
山田:  近藤さん自身が、自分の被爆体験をしゃべる。まあしゃべるというよりも、なんかしゃべらざるを得なくなっていった?
 
近藤:  そうそう! だからその出会いは感謝ですよね。あの子たちに出会わなかったら、きっと今私こうじゃないと思います。でもそれを思った時、やはり軸になるのは、もしかしたら父ですよね。あれだけ理解できなかった父が、だんだん分かってくるわけですよ。それで最後の引退説教というのがありまして、自分がなぜ広島のために力を注いだかっていうことを話してくれたわけです。八月六日、一九四五年、父は己斐(こい)(広島市西区の地域)という山にいたんです。早く起きて、リヤカー押して、二人で平和公園を通って己斐に。ですから牧師館には母と私しかいなかった。父親は己斐に着いて、やっと着いたなと思った時に、爆風に吹き飛ばされたそうです。「しまった!やられた!」というのが、彼の最初の印象。恐る恐る立ち上がって、足を触ったら足がついてる。手もついてる。じゃ、あれは何だったんだろうか? 光も見なかったって言いますね。それで己斐のちょうど茂みの間から広島市内を見たら、もう火があちこちで上がってる。そして父が言うのには、最初に浮かんだのは、「娘はどうしただろうか。妻はどうしただろうか。教会の人はどうしただろうか。町内の人たちはどうしただろうか」というんで、いちもくさんに市内に向けて走るんですけど、もう多くの人たちの助けて! 助けて!≠ニいう声を聞くわけですね。自分はそういう大変な時に助けて!≠ニいう声を振り切って、自分の家族を案じてしまった、というエゴへの悔い。そして家族三人、無傷に助かったという申し訳なさが、この私を広島の被爆者のためにと推進させたのでした。だから自分が牧師であり、人のために役に立ちたいと思ってたのに、あの日、自分は自分の家族のことしか案じなかったではないか」ということを聞いた時、〈いやぁ、お父さん、一番人生で大変な時、ちゃんと私のことを思っててくれたじゃないの〉っていうことが、分かってるようで分かってないのが、改めて分かった。「だからこそ広島の人のために役に立ちたいと思った」というのを聞いた時に、〈あぁそうだったのか。だからこそ夜も寝ずに〉と改めてわかった。
 
山田:  そういう方だったんだってことが、よく分かったんですね。
 
近藤:  わかったわけ。それだから、したんだっていうのがよく分かって。お父さん、すごい! よくやった!っていうんで。私は実は父みたいなこと一切できない。できない、あの人みたいなことは。でも父が歩んだ足跡は、たどりたいと思う。
 

ナレーター:  二年前、近藤さんには思いがけない父との再会がありました。「ヒロシマ」を書いたジョン・ハーシーの孫キャノンさんが広島を訪れたのです。キャノンさんは、祖父ジョン・ハーシーと広島を知るため、祖父が残したものを調べていました。手渡してくれたのは、「ヒロシマ」誕生のきっかけとなった谷本牧師の被爆体験のメモでした。
 
キャノン: あなたのお父さんが徹夜で書いた九ページの記録です。
 
近藤:  ありがとう。ズーッと長い間欲しかったものなの。確かに父の字だわ。
 

 
近藤:  今、ここにきて思うことは、いろいろと父が言った言葉をまず思い出しますよね。「国を動かそうとしても、それはなかなかできない。しかし人から人へ話してるうちに、その草の根運動的なものの、絶対世の中を変えることができる」ということは思い出しますね。この間のオバマ大統領のスピーチで、ある箇所にきた時、「えっ! えっ!」と思って。オバマ大統領はある女性の話ということで、「エノラ・ゲイで原爆を投下した操縦士に出会った女性がいた。彼女はその彼を許した。それはなぜかというと、憎むべきはその人ではなく戦争。戦争こそ憎まなきゃいけないということを、彼女は分かったからです」と。そしたらみんなが、「それじゃ、あれは紘子さんのことしかないじゃない」って言うんだけども。それは私のことかどうか分からない。ただ、私が言えるのは、もしもそうならば、私の話を聞いた人が、また人に伝え、また人に伝え、それが伝わって、そこまで行ったのかも分からない。それはほんとに声を大にして言ってほしいなと思う。それにやっぱり次の時代の子どもたちに、もう託すよりほかないなと思って。
 

 
近藤:  この中で、この本お読みになった方いらっしゃいます? ジョン・ハーシーという人が書かれた「ヒロシマ」という本です。
 
     これは、平成二十九年一月八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである