この命を未来へつなぐ―阪神・淡路大震災から二十二年―
 
                   西福寺住職 豊 原(とよはら)  大 成(だいじよう)
1930年、兵庫県西宮市生まれ。1953年、京都大学文学部(哲学科・仏教学)卒。京都大学硬式野球部で投手として活躍。1956年、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。京都大学硬式野球部監督も務める。1958年-1960年、インド、ベナレス・ヒンドゥー大学大学院博士課程に留学。1995年、阪神淡路大震災で、父・豊原大潤(浄土真宗本願寺派元総長)をはじめ、家族全員を失う。2008年、本願寺築地別院(築地本願寺)輪番(2010年まで)。全日本仏教会理事長。
                   き き て 住 田  功 一
 
ナレーター:  一九九五年一月十七日、最大震度七を観測する阪神・淡路大震災が発生しました。十万棟を超える建物が全壊し、死者は六千四百三十四人に上りました。
 
(時報)「午前五時四十六分ちょうどをお知らせします」。
 
あれから二十二年。今年も地震が発生した同じ日同じ時刻には、多くの人が失われた命を思い、手を合わせました。震災によって、突然大切な家族や友人を奪われた人たちは、この二十二年間、悲しみとどう向き合ってきたのでしょうか。西宮市で被災した西福寺(さいふくじ)。毎年一月十七日には、震災で亡くなった方々を慰霊するための法要が営まれ、多くの門徒さんが参拝します。住職の豊原大成さんは、当時京都の西本願寺に勤めていたため難を逃れましたが、自宅にいた家族三人を亡くしました。この世のはかなさを前に、豊原さんはただひたすら念仏を唱え続けました。
 

 
豊原:  ことに一月十七日は、この日を忘れずに、ずっと永く思い出していただきまして、亡くなった方々、知り合いだった方々のことを思い出して、それをご縁として、仏の名前「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えていただきたい。かように思うわけであります。
 

 
ナレーター:  豊原さんにとって、仏の救いとはどのようなものなのか。お話を伺います。
 

 
住田:  あぁどうも。
 
豊原:  どうもようこそ。
 
住田:  よろしくお願いいたします。
 
豊原:  どういたしまして。
 
住田:  すみません、寒い中を。この辺りですね、相当震災の時に大きな被害があった地域と伺ってますけれども、本堂はどうだったんですか?
 
豊原:  本堂は前後左右にやっぱり揺れてます。東西には少なくとも十度ほど揺れました。
 
住田:  こちらは倒壊には至らなかった?
 
豊原:  倒壊には…。
 
住田:  そして境内の様子は?
 
豊原:  まず今お入り頂いた門から申しますと。
 
住田:  三門も立派です。
 
豊原:  これは大正時代のものなんですけども、全く最初は気が付かなかったんですけども、ポンと礎石を外れて、この辺まで・・・約一メートルほど飛んでたんです。
 
住田:  もう門ごと飛び上がって、ずれたわけですか。
 
豊原:  はい。そしてここが庫裏だったんですけども、庫裏はもうほぼ壊滅状態で。要するに崩れてしまっているというような状態でした。
住田:  じゃあもう屋根が…。        
 
豊原:  ぺしゃんこ。
 
住田:  じゃ柱がちょっともたなかったんですかね。
 
豊原:  そうですね。
 
住田:  こちらの方に―庫裏(くり)の方にご家族が…。
 
豊原:  三人、まぁ別々の部屋で暮らしてたんですけども。それがそれぞれまぁ上から物が落ちてきたりなんかしたんだろうと思います。亡くなって。私が帰ってきた時は、遺体は本堂に並べてあり、父を真ん中にしまして、坊守つまり家内と娘と三人並んでるという状態でした。
 

 
住田:  改めまして、よろしくお願いいたします。
 
豊原:  こちらこそよろしく。
 
住田:  一九九五年一月十七日阪神・淡路大震災が起きた日の朝のことから伺いたいと思うんですが、あの時豊原さんは京都にいらした?
 
豊原:  京都も大変揺れまして。
住田:  京都が震度五の揺れと観測されてますね。
 
豊原:  はい。西宮辺りも震度五と報道されたもんですから、京都の住んでる住まいがまあ大丈夫…大丈夫ってかなり傷みましたけども、西宮の方は大丈夫だろうと思って、その場で電話をかけたんです。そしたらベルは鳴るんですけども、人は誰も出ないし。まぁそのうちにまたかけようと思いまして、いつもなら九時前に出勤するんですけど、あの日は八時ごろに本山へ出勤しまして。でやっぱりかけてもかからない。ふっと思いつきまして、電話番号覚えてるお寺さんは、ずっと神戸から始まって、西宮ぐらいまで十軒ぐらいかけたんですね。
 
住田:  同じ宗派のお寺を順番に安否を確認されたわけですか。
 
豊原:  そうそう。全部ではありませんが、電話番号覚えているところ、ふだんから親しくしているお寺ですね。そうしたら鳴尾に善教寺(ぜんきようじ)というお寺がありまして。
 
住田:  同じ西宮市内ですね。
 
豊原:  そうですね。甲子園の野球場のちょっと東ですね。そこへ電話をかけましたら、庫裏は何とか残ってるんだが、三門鐘楼が潰れて、家族は本堂の前庭におりますと。「西福寺さん…」私のとこはどうですかと、あちら尋ねて下さったので、「いや、ちょっと連絡がつかないんです」と。「まぁ私、今から行きます」とおっしゃったので、それから二十?三十分して「今駅前の公衆電話からかけてるんですけども、お寺が大変なことになってる」と。
 
住田:  西福寺さんが。
 
豊原:  はぁ。そうしましたら、その次はお手伝いさんが二人おったんですけど、それが電話口で代わる代わる出て、「大変なことになってる! 大変なことになってる!」と。「どう大変なんだ」と言ったら、それは何も言わないんです。まあ大変だったらほっとくわけにはいかんと思いまして、許可を得て車でここまで帰ってまいりました。
 
住田:  京都から西宮の方へ。
 
豊原:  向こうを出発したのが、だから午前十時前後だったと思うんですけど、一時間ほどあったら普通着きます。だけども、どうもこの調子じゃ、それで済まんかもしらんな。どんどんどんどん進んでいくごとに、西へ行くごとにどんどん景色が変わってまいりまして、ことに武庫川を越して、これは大変だと思ったんです。
 
住田:  このお寺の前で車を降りられた。
 
豊原:  はい。門徒の青年が立ってまして、「どうだ」と言ったら「駄目です」と。「三人ともか?」って。「はい、そうです」。「遺体はどこだ」。「本堂です」と。まぁ本堂へ入りまして。父はね、多分和室のシャンデリアの真下で寝てたんだろうと思います。シャンデリアが顔に落ちて、顔…左の頬ですね、それがちょっとえぐられたような感じになってました。私の妻の方は、まるで眠ってるような感じ。それから娘はちょっと体を確か右にひねって…、そこへ何か物が落ちてきたんだろうと思う。恐らく逃げようとして、物が落ちてきたから逃げられなかったんだろうと思いますが、ちょっと顔が腫れたような感じで…。もう十二時間近くたってたんです。
 
住田:  地震発生から。
 
豊原:  午後五時ぐらいになってましたから。それでもちろんもう駄目だということは分かってたんですけども、もう一回…一回だけ娘の名前を呼んでやろうと思って、大きな声で娘の名前を呼んだんですけども、もちろん応答は無い。
 
住田:  その時、何て呼ばれて、どういうお気持ちだったかをちょっと教えて頂いていいですか?
 
豊原:  「真利(まり)!」って言って、呼んだことは確かです。いつも「真利、真利」って。悲しいと言おうか、かわいそうだったと、娘がね。まだ…昭和四十一年生まれですから、あの時で三十手前だったと思います。まだ結婚しておりませんでしたし。まあふだんから明るい性格だったし、割に親に反抗するということもなかったですから、余計かわいがっておったんです、小さい時から。
 
住田:  そういう…ご家族皆さんを亡くされたということが伝わって、多くの弔問の方がこのお寺を訪ねて来られたんですね。
 
豊原:  夕方完全に暗くなってから、どんどんどんどん見舞い客が見えまして。一人一人応対できないんです。ずらっと二列ぐらいに並んでもらいまして、そこに。「どうもありがとう。遠いところわざわざご丁寧に」の挨拶ぐらいしかできなかったです。そういう状態が、二晩か三晩か続きましたですね。
 
住田:  お寺も被害があり、そしてこの地域も甚大な被害があったという中で、お父様、奥様、お嬢さんのお通夜が行われる。これは大体何日後ぐらい?
 
豊原:  二十日ぐらいに、お通夜だったんじゃないかと思う。はっきりもう覚えてません。
 
住田:  三日後ぐらいですね?
 
豊原:  そうですね、はい。
 
住田:  それは場所はこの本堂で?
 
豊原:  はい。お通夜の時は、被災してる人もおったかもしれませんが、大勢ここへびっしりいっぱいにお参りしてもらいましてね、非常にありがたかったんですが。私はその前に、もうこの件に関して涙を見せまいと。絶対に泣かないようにしようと思ってたんです。その時は三人の思い出をお話ししたり、そのほかいろいろ話をしている間に、もう涙が止まらなくなりまして。あの時はちょっと恥ずかしいぐらいに泣きました、皆さんの前で。
 

 
ナレーター:  西福寺のある西宮市では、三万を超える世帯が全壊。一、一四六人もの命が奪われました。その中には西福寺の門徒も多く含まれていました。豊原さんは、震災直後から住職としてのつとめを果たそうと奔走します。
 

 
豊原:  私、住職ですから、門徒さんのことが気になって、「皆どこに行ってるんだろう?」と言ったら、ちょうど百メートルほど先に公民館がありまして、「皆そこへ行ってるようです」とこういうんです。そこへそのまま見舞いに行ったら、公民館の玄関まであふれるぐらい。それこそいわゆる立錐の余地がないというぐらい門徒の人が避難してたんです。
 
住田:  しかし、お寺の住職として、ご家族のことも心配だったですけれども、やらなきゃいけないことがいっぱい次々にあったんですね。
 
豊原:  そうですね。ところがですね、一つ非常に印象的だったのは、「お葬式、お勤めをしてくれと、お経をあげてくれ」と言って…。
 
住田:  それはどなたの?
 
豊原:  門徒の。それで参りましたら、広間…会議室か何かちょっと見当つきませんが、そこに棺がずらーっと並んでるんです。その中の一つのお葬式にお参りしましてね。あんな光景はね、もちろん後にも先にも初めて…。
 
住田:  多くの門徒さんもですね、ご家族を失った。大体何家族ぐらいの方がその時に…?
 
豊原:  いや、ちょっとはっきり分からないんです。お葬式を結局出したのやら、出さないのやら…。お葬式出したら、寺の帳簿につくんですけども、それどれぐらいだったか…。
 
住田:  あの時は混乱で、お葬式もままならない状況でしたよね。その門徒さんのところに、しかし呼ばれれば行ってお経をあげて、どういうふうに声をかけ、豊原さんは寄り添われたんですか?
 
豊原:  それはやっぱり信仰を持つことですね。我々から言えば、お念仏を唱えなさいと。一番簡単なと言ったらおかしいですけど、称名―名前を称える。「南無阿弥陀仏」。「南無」というのは、「どうぞよろしくお願いします。あなたを尊敬します」。それから「阿弥陀仏」阿弥陀仏に対して、あなたを尊敬します。どうぞよろしく、というのが「南無阿弥陀仏」なんですけども。そういうふうに口で念仏がもう唱えられなくなっても、だけど念仏を唱えたいなと思う心が起こるだけでもいいんだ、というのが、親鸞聖人なんかの…。結局は皆臨終にあたって、仏のこと、あるいは自分はこれから先どこへ行くんだろうと、そういうようなことを考えて、あぁそうだ、念仏を唱えるんだなということを思いながら、声に出して念仏を唱えられなくても、要するに仏のことを思った瞬間に、その人は救われていくんだと。まぁそういうふうに言えるんじゃないかと思います。
 
住田:  親鸞聖人さんも、「念仏を唱えよ」という教えをされていますね。
 
豊原:  はい。私どもの親鸞聖人の教えっていうのは、この世の命が終わった時に、仏の力によって仏の国へ生まれさせてもらえると。そこで間違いなく仏になれると。ところがその仏になったそのままじっと仏の国、つまり極楽世界で安住してるんじゃなしに、あとに残った人たちの心にまた還ってきて、その人たちを念仏の世界へ導くという、そういうふうな教えなんですね。それを「往相回向(おうそうえこう)」と「還相回向(げんそうえこう)」と難しい言葉でいいますとそうなるんですけど、「先に死んでいくものはあとを導く。あとに続くものは先を弔え。連続してきわまりなからんことが大事なんだ」と、そういう言葉もありますし。人の死を縁として、仏の教えにより一層深く耳を傾けるようにする。そうするところに本当の幸せがあると。そういうことだと思いますね。
 
住田:  そういう意味で念仏を唱えるということは、非常に私たちの大きなよりどころになると。
 
豊原:  要するに、いつも念仏を唱えることを思い出して、忘れないで暮らしてほしいと。自分も暮らさなきゃいかんと、そう思いますね。それから一人で唱えるのもいいけども、大勢の皆さんで一緒に唱えるということ。その他の人の唱える声を聞くだけでありがたいですね。
 
住田:  突然肉親や愛する人を震災で亡くしたその門徒の皆さんに、その言葉はしみいったんでしょうね。
 
豊原:  我々が死んだら極楽浄土に生まれさせて頂けると。その極楽浄土では、「諸上善人倶会一処(しよじようぜんにんくえいつしよ)」。諸々の上善の人々。「倶会一処」というのは、共に人と一つのところに会うと。そういう言葉が「阿弥陀経」というお経にちゃんと出てまいります。どこで一体そういうことができるのかというと、仏の国でそれが実現するんだと。だから皆その仏の国のことを「極楽」極めて楽しい幸せな国とこういうんだと。あるいはそこは「浄土」と。清らかな世界であって、憎しみや悲しみのない世界だというふうに、「阿弥陀経」というお経に説かれてるんですね。
 
住田:  亡くなった方はお浄土へかえっていきます。
 
豊原:  そこで皆念仏して、お浄土へ生まれる。「諸上善人倶会一処」っていうのは、共にひとところに会うと。
 
住田:  会えるんですか?
 
豊原:  そうそう。そういうふうにお経には説かれてありますね。
 
住田:  ということは、私が愛する人を失う。その人はお浄土へかえっていく。私がまたお浄土へかえる時にはそこで…。
 
豊原:  そこで会うと。
 
住田:  出会えるんですね。
 
豊原:  あるいは、あとに残った人の心に亡くなった人がかえってくる。そういうふうにも言えると思いますが。
 
住田:  ということは、もういなくなった姿形がないからといって、ずっと悲しんでいなくても…。
 
豊原:  いずれまた…会えると。
 
住田:  それはちょっと心の支えになりますね。
 

 
ナレーター:  西福寺では、毎朝七時半から門徒さんも一緒になって朝のお勤めを行ってきました。愛する者を亡くした人たちにとって、豊原さんのもとでお経を読むことは大きな心のよりどころとなりました。共に念仏を唱えることで、阿弥陀様の慈悲に触れる。傷ついた心を癒やす大切な時間となっています。
 
門徒A:  お別れみたいなものを庭先でやったんですよ。その時にも泣けて泣けて…大変でした。そんな中からでもね、住職来てもらって、やっぱりそういう形をやってくれたっていうことは、僕は非常に感謝しております。
 
門徒B:  近くの小学校―平木小学校の体育館に一週間ほど避難さしてもらって。その時がやっぱし…地獄でしたね。やっぱしお寺のご住職の朝事(あさじ)をお参りさして頂く時に、いろんなお話が聞けましてね、それが力になって、今日一日、今日一日を大事に過ごさして頂けたらっていうことで。ほんと雨の日はちょっと無理ですので、できるかぎりお参りさせて頂こう。
 

 
住田:  阪神・淡路大震災から二十二年という月日が流れました。この間にもたくさんの災害があって、そこで悲しみに暮れる方がいらっしゃる。また今若い世代もですね、この先また大きな災害が起きるかもしれない。そこで悲しみのふちに立った時にですね、一体どういったことが必要なのか。どう豊原さんは説かれますか?
 
豊原:  教えに遇う。そのことが悲しみのふちから抜け出せる一つのポイントだと。それは「無量寿経(むりようじゆきよう)」というお経。私たちが一番大切にしているお経に、仏の願いというものが、四十八、あるいはテキストによっては…テキストって言ってはいけませんが、四十九あるんですね。その中の三十三番目に、「触光柔軟(そつこうにゆうなん)の願」という仏の願いが入ってます。
 
住田:  それはどういう意味なんですか?
 
豊原:  「触」というのは、「接触する」の触(しよく)ですね。それを我々は「触(そく)」とよんでるわけですが、光に触れると心がやわらげる。光に触れるってことは教えに遇うということによって、例えばかたくなな心がほどけるとか、あるいは悲しみをひっくり返すこともできる。悲しみが悲しみでなくなる。悲しみは一つの教えになって、私たちの次の生き方がそこから出てくると、そういう意味ですね。
 
住田:  「柔軟(にゆうなん)」?
豊原:  「柔軟(にゆうなん)」というのは「柔軟(じゆうなん)」。
 
住田:  「柔軟(にゆうなん)」ということは、心がやわらかいということですか?
 
豊原:  そうそう。かたくなにならない。
 
住田:  悲しい時にはですね、どうしても籠もってしまって、誰から声をかけられても、もう心を開けませんね。
 
豊原:  受け付けませんね。やわらかくすればですね、悲しい時でも、人の慰めの心も受け入れられるし、あるいはもっと…もっと悲しい人がいるのに、自分だけ悲しんでたら駄目だと。そういうふうにもとりますし。ともかく教えに触れるということは、人間の心の悲しみをもみほぐすというんでしょうか、そういうふうな役目をしてると思いますけど。
 
住田:  心がやわらかくなるということは、どうなるということなんでしょう?
 
豊原:  幸せになるということですね。
 
住田:  幸せになる?
 
豊原:  だから悲しみを悲しみとしてだけ受け取らないで、悲しみを転じて大きなこれから生きていく力にすると。そういうふうに…教えにあえば、そういうふうな力が得られると。
 
住田:  じゃ私たちは、悲しいことに出会って心を閉ざしてしまう。もう誰から何を声かけられても、ほっといてくれっていう気持ちになりますけれども、そこで心を開かなきゃいけない。心を開くと…。
 
豊原:  そこで初めて教えを聞くんじゃなくて、かねて教えを聞いて、それを思い起こしてもいいわけですね。とにかく教えに触れるということが、私たちが悲しみから喜びに変えていく。そういう力があると。
 
住田:  心をやわらかくすることが、幸せにつながり、それは悲しみから一歩前へ出ることにつながってくるということなんですね。
 
豊原:  そうですね。悲しみを悲しみとしてだけ受け取らないで、これは教訓だと。そういうふうに受け取ってもいいですね。
 
住田:  豊原さんご自身は、この二十二年間はそういう歩みだったですか?
 
豊原:  いや、まあそう言われるとちょっと恥ずかしいですけども、そのつもりで生きてきたことは間違いありません。
 
住田:  豊原さんを周りでご覧になってる方がですね、震災の前と後とで、「豊原大成さん変わったよ」とおっしゃってるんだそうですね。
 
豊原:  はぁそうですね。まあことによそのお寺さん…それから門徒、ここでいっぱいお参りしてて、私がお経が済んでからおりましてね、皆の前へ立って、皆非常に緊張して私の顔を見ていますから、「また叱りつけてやろうと思っておりてきたと、みんな思ってるだろう」と言ったら、わぁっと笑うんですよ。
 
住田:  豊原さんは随分厳しいご住職だった?
 
豊原:  まぁそうかもしれませんね。
 
住田:  それが震災のあとは?
 
豊原:  だいぶやわらかくなりました。
 
住田:  それはなぜなんでしょうね?
 
豊原:  それはやっぱり私が出くわした環境というんでしょうか。あるいは無言の教えだったかもしれませんし。それを表現すれば「諸行無常(しよぎようむじよう)」ということになるんじゃないかと思います。
 
住田:  「諸行無常」。
 
豊原:  はい。
 
住田:  分かりやすく言えば、それはどういうことですか?
 
豊原:  「諸行」でしょう。「諸」というのは、「諸々」諸君とか諸国とかいう「諸」。それから「行」は行いという字、行くという字を書くんですけども、これはつくられたものという意味。つまりだから建物もつくられたものであれば、人間もつくられたものである。この世のものは全て諸行が無常であると。どんどん変化して移り変わっていく。それが我々の姿なので。何億年前からそれがずっと続いてるんですね。地球っていうのはそういうふうな。ところが人間なら人間で亡くなっていくということも、本人にとっても悲しいけども、周りの人にとっても悲しい。その悲しみに耐えていかなきゃいかん。
 
住田:  震災の前に説いてこられた「諸行無常」の捉え方とですね、ご家族を亡くされたあととはやはり捉え方や考え方は変わりましたか?
 
豊原:  そうですね。変わったかどうか分かりませんが、深まったということは言えると思います。
 
住田:  どのように深まったんでしょう?
 
豊原:  実はね私、お寺の長男に生まれまして、昔はどこでもそうだったんですが、特にお寺の長男っていうのはね、兄弟大勢おりましたので、別格の扱いなんですよ。他の弟たちは、両親に育てられたんですけど、私だけは祖父と祖母に育てられまして。その祖父がですね、数えの五七歳。私が小学校の三年生の時のことでしたけども、私はふだんずっとおばあさんと一緒に夜休んでたんですが、その朝はですねやって来て、私の顔を見て「あぁよう寝てるな」と、そう言って「たばこでも取ってこよう」と言って立ち上がりかけてで頭をこう押さえて倒れたと。
 
住田:  おじい様が?
 
豊原:  はい。それでばあさんが「おじいさん、おじいさん」と、つまり住職のことをねそう言って呼んでるその声で目が覚めまして。じいさんそこでのびてしまってて倒れてるわけです。そして結局それが六月の十五日朝だったんですけども、朝の七時ごろにはもう亡くなったんです。
 
住田:  あぁそうですか。
 
豊原:  倒れてから二時間ほどだったんです。そういうことで小さい時から「諸行無常」ということを、まあ言葉は知らないにしても、人間いつ死ぬか分からんなということを思っておりました。
 
住田:  あらゆるものは常ではない。つまり現れては消え、現れては消えるものであると。
 
豊原:  そうそう。
 
住田:  つまり人の命もいつスッと消えるかは分からないですね。
 
豊原:  はい。「人間??(そうそう)として衆務(しゆうむ)を営み」人間は慌ただしくいろんなことをしておる。東奔西走しておると。しかし「年命(ねんみよう)の日夜に去ることを覚えず」年も命も日夜に過ぎ去っていくことを悟らないでおる、という有名な言葉があります。まさにそのとおりだと思いますが。
 
住田:  しかし一つ一つのそういう仏の教えがですね、豊原さんにとっては、もう一度解釈し直すそういうきっかけだったのかもしれませんね。
 
豊原:  単に書物の上で、あるいは学校で習ったというだけじゃなくて、実際にそのことが自分の身に降りかかってきてるわけですから。そういう意味でも、まぁいい体験とは言えませんが貴重な体験だったと思います。
 
 
ナレーター:  豊原さんは、毎朝、庫裏に設けた仏間で家族の菩提を弔います。被災してから十年たった頃、ようやく家族を失った悲しみが癒えてきたといいます。しかし娘の真利さんの死だけは、いくらお念仏を唱えても受け入れることができませんでした。
 

 
豊原:  このお仏壇は、もちろん震災後に作ったもので、私が設計したんです。ご本尊は阿弥陀さん―阿弥陀如来。それからこの左側の壁の絵は、空へ昇っていく、天に昇っていく姿ですが、この大きい方が真利で、真利はこれから天、つまり仏の国へ昇っていくという。いつも真利が元気だった頃、ことに小さかった頃の真利なんかを思い出しています。
 
取材者:  今日は震災から二十二年ですね。
 
豊原:  はい。そうですね。
 
取材者:  今どういうお気持ちですか?
 
豊原:  やっぱり生きててくれたら一番いいですね。亡くなった時は、三十歳前後でしたから、今二十二年たったら五十一かな…もうなると思います。
 

 
ナレーター:  豊原さんは、一人娘の真利さんに寺を継がせたいという思いもありました。震災でその希望は失われましたが、その後も真利さんへの愛情は薄れることはありませんでした。
 

 
住田:  震災で亡くなった真利さんのことが、豊原さんの夢の中に出てきたんですか?
 
豊原:  実は今でも月に一回か二回ぐらいは、娘の夢を見るんですが、あのころは毎晩ね夢を見る。そこに父が出てきたり、家内が出てきたりしますけども、夢全体の九十パーセントぐらい娘のことですよ。
 
住田:  あぁそうですか。
 
豊原:  やっぱりね忘れてるように思って、決して忘れてないんですね。平気で他のことをやってても、やっぱり自分の心の中には心の隅にはいつも娘のこと、あるいは父のことはやっぱりズッとあるんですね。
 
住田:  しかし二十八歳というのは、まさにこれからという時ですね。
 
豊原:  そうですね。このごろのような、やかましく言われる時代じゃなかったと思うんですけど、私もっと早く「結婚しとけ」と言えばよかったと。それからこの寺の前に彼女たち夫婦が住めるような家を建てて、それは下をガレージにして二階建てで間取りをこうしてって、いろいろ考えてたんです。
 
住田:  新しい家に住んでいれば…。
 
豊原:  そうなんです。助かったかも分からないです。それからもう一つは、もうどこかへ思い切って嫁に出して、弟がたくさんおりますし、その弟の子供たちのうちから一人、しっかりした男の子をもらって、この寺を私の跡を継がせると。そういうこともひそかに考えてた。
 
住田:  お寺を出ていれば、また助かったかもしれない。いろんなことをじゃ思いますね。
 
豊原:  はい。
 
住田:  豊原さん自身、愛娘(まなむすめ)の真利さんとの別れと、どう折り合いをつけられたんですか?
 
豊原:  まぁあんな子が生まれてよかったなとか、あの子供と一緒に何年か過ごせてよかったなとか、そういうことを思ったりですね。こう言ってるとなんか親バカで子供の自慢をしてるように聞こえるかも分かりませんが、とにかく大きな幸せを私に与えてくれたのはあの娘だと。もちろん父からも母からも、そのほかたくさんの人のおかげで私生かして頂いてると思います。まぁ何といいますか、要するに恵まれた…私の周りのいろんなものが私のために恵まれたと、そう思いますね。
 
豊原:  でも、僧侶として、住職として、皆さんの前では涙を見せずに説法されると。そういう時に、そういったことが一方である。これはどういう状況なんでしょうね?
 
豊原:  まぁ一応人を教えなきゃいかん立場ですからね。だから「こうしなさい」と言うんですけども、実は自分が言われたとおりにできるかってなかなかできるもんじゃない。「いつも報恩感謝の気持ちで生きていかなきゃいかん」ということを、人には説きますけども、自分がいつも感謝しながら生きてるかっていったら、そうでもないと思いますね。
 
住田:  そういう意味では、悲しみを乗り越えていこうというお話を、一方でなさいますけれども、豊原さんの心の中にやっぱり悲しみは…。
 
豊原:  それは悲しみは何年たっても消えないだろうと思いますね。
 
住田:  何かこう揺れ動いていますね。
 
豊原:  そうですね。はい。
 
住田:  そんな時にですね、豊原さんに非常に大きな気持ちが揺れ動いたという書があると。ちょっと私の後ろに今あるんですけれども、これはどなたが贈られたものなんですか?
 
豊原:  これはね、私の先生―大学時代の仏教学の主任教授。その先生が…。
 
住田:  お名前は?
 
豊原:  長尾雅人(ながおがじん)(仏教学者、チベット学者:1907-2005)これはもう世界的に有名な先生だったんですけれども。
 
住田:  いわゆる仏教学の先生ですね。
 
豊原:  その先生は怖いけども、奥さんが非常に優しい朗らかな奥さんでしてね。奥さんが優しいから、先生のとこへ寄っていく弟子たちも多かったと思いますよ。もう十五年ぐらい前になりますかね、年の暮れでしたが。
 
住田:  震災から七年後ぐらいですね。
 
豊原:  あぁ、そうですかね。先生は、いつも宵っ張りで、朝方まで勉強されます。朝三時、四時ぐらいまではされる。そういう先生だったんですが、奥さんが、やっぱり今の人もそうかもしれませんが、なかなか主人より先に寝床へ入ろうとされない。いつも何か先生が勉強しておられる間、他の部屋で何か手仕事をしたり、いろんなことをされてたと思うんですけど。その十五年ほど前の年の暮れだったと思いますが、先生が夜中の十一時ごろに奥さんまだ起きておられるもんだから、「あんたは朝が早いんだから先にお休み」とこう先生がおっしゃった。奥さん「そうさして頂きます」と言って、寝室へ行かれた。先生勉強済ましてから、午前三時か四時ごろでしょうか、寝室へ帰っていかれたら、どうも奥さんのご様子がおかしいと。触ってみたらもう冷たくなってたと。つまり「あんた先にお休み」と言って、それから間もなくひょっとしたら亡くなってたんかも分からん。その先生にとっても大変なショックだったんですね。でまぁ奥さんのお葬式は済みまして、「豊原、大変世話になったと。これ僕の気持ちを書いたんだから」と、先生から頂戴したのがこれなんです。
 
住田:  じゃその奥様を亡くされた直後の先生が書かれた書であると。
 
豊原:  ですからね、これ「假令身止(けりようしんし)」と読む。それから「諸苦毒中(しよくどくちゆう)」。一行抜けてるんです。「假令身止」たとえ身は諸々の苦しみや毒の中にあろうとも、とどまろうとも。それから「我行精進(がぎようしようじん)」我は精進をして。その次が「忍終不悔(にんじゆうふげ)」なんですよ。先生もあの時もう九十歳近かったと思います。自分はもう何にもできないということで、「我行精進」という言葉を省かれたんではないかと思います。ただ心の中にあるのは、この寂しさを耐え忍ぶということ。それで終(つい)に悔(くい)ならんと。もう後悔はしないと。そういうふうな意味の経文―お経の中の御文なんです。
 
住田:  一節を。
 
豊原:  はい。
 
住田:  この「忍」という字が大きいですね。
 
豊原:  そうですね。先生なんか人が考えないようなことをぱっと考えられる方でもありましたんで、自分の心境を今寂しくって寂しくってしょうがないということを、「忍」という字一字だけ特に大きく書いておられるんですね。
 
住田:  ということは、恩師は豊原さんに「忍びなさい」というメッセージなんですか?
 
豊原:  いや、私に「忍びなさい」でなく、この世はやっぱり耐え忍んでいかなきゃいかんもんだなと。それが娑婆なんだなということをおっしゃったんじゃないかと思いますが。我々喜んでばっかりおるような、そんな世界はどこにもないと。それこそ極楽へでも行かん限りは、そういうことはありえないと。でその苦しみの中から、更に生きがいを見つめると。あるいは努力すると。それが人間の姿じゃないかと。私はそう思いますけど。
 
住田:  豊原さん自身は、この二十二年はどういう状況だったんですか?
 
豊原:  それはね、まぁ心が揺れ動いてるというか、起伏があるというか。そうやって生きていく。それが人間の姿じゃないかと。昔ね「喜びも悲しみも幾年月」という確か佐田啓二ですかね、そういう映画が…。
 
住田:  映画がありましたね。
 
豊原:  結局揺れ動かなくなったらもう仏さんでしょう。人間である限りはね、揺れ動く。親鸞聖人みたいな方でも、やっぱり悲しみのふちに立たされる。あるいはその中放り込まれるということが晩年になってからあったわけですからね。
 
住田:  ということは、心がそのように揺れ動くことでいいんだと。
 
豊原:  まあそうそう。それを否定することはないと。それが「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぷ)」の姿ですからね。
 
住田:  なるほど。ということは、そのいろいろ揺れながらも、生きていくのが私たち人間なんだということなんですね。
 
豊原:  そうなんですね。
 

ナレーター:  豊原さんは、震災後、より多くの人に仏の教えを知ってもらおうと、精力的に執筆活動を続けてきました。これまでに出版した本は二十冊以上に上ります。また子供向けの絵本も手がけました。お釈様の一生をその教えと共に分かりやすく説いたシリーズです。絵本の中では人間の優しさや命の大切さを、一つ一つの物語として伝えています。
 
豊原:  何よりもお互いが敬い合うような、そういうような人になってほしいと思いますね。自分一人で生きてるんじゃない。自分はいろんな人々、あるいはもののおかげで生きてるんだと。だからそれを粗末にできない。自分の命を粗末にできない。それと同じように、他の人の命も粗末にできないと。
 

 
ナレーター:  西宮市内にある幼稚園です。ここでは豊原さんが作った仏様の歌やお釈様の絵本が子供たちに親しまれています。
 

 
先生: 「うずらとあみ」。「昔々お釈様はうずらとしてお生まれになり、森でたくさんの仲間と暮らしていました」。
 
ナレーター:  最初うずらたちは、仲間と協力し合うことで人間のわなから逃れてきましたが、ある時けんかが始まりました。お釈様のうずらは、けんかをしていると幸せが逃げて苦しみがやってくると心配します。案の定けんかばかりしていたうずらたちは、ついに人間に捕らえられてしまいました。
 
先生: けんかしてたらどうなると教えてくれた?
 
子ども:  幸せが逃げる!
 
先生: そう、幸せが逃げて何が来ちゃうんだっけ?
 
子ども:  つらい気持ち。苦しいこと。
 
先生: そう、つらいこととか…。
 
子ども:  苦しいこと!
 
先生: そう、苦しいことが来ちゃうからけんかは駄目だよって教えて下さってたよね?はい。お友達みんな仲良くできますか?
 
子ども:  は?い!
 

 
住田:  あの震災の時には、二十二年前ですけれども、多くの助け合い、支え合いがありましたね。
 
豊原:  あの時からでしょうかね、「ボランティア」という言葉が通用するようになったのは。
 
住田:  「ボランティア元年」って言われて、あれだけ多くのボランティアが駆けつけたっていうのは初めてだったっていうふうに言われてますね。
 
豊原:  本当に全く知らん人がですね、そこへ車を止めて何かを降ろしていってくれたりね。
 
住田:  救援物資を。
 
豊原:  そういうことはよくありました。中にはいろんな種類のものをトラックの荷台に積んで、「要るもの置いときますから言って下さい」と。そういうふうな格好で支援を受けたこともありますね。あの時はほんとに…。あの時より前は、人間の善意っていうのは、どこまであるかと思ってましたけども。いわゆる善意ってものはここにあるなということを感じましたね。
 
住田:  そのような人の力というか、こんな温かさがあるんだというふうに感じる場面があった一方でですね、震災からしばらくして、今度は「無縁社会だ」と言われるようになりました。仮設住宅や復興住宅では孤独死という問題もありました。何かその時に心の支えがあれば命がつながったのに、と思うこともありましたね。
 
豊原:  そうですね、はい。
 
住田:  そういう社会、どうご覧になってますか?
 
豊原:  いやぁ、これはねやっぱり残念なことだと思いますね。だから例えば、昔は田んぼ稲刈りをする、あるいは田植えをする。これは五人とか十人とか、あるいはもっとたくさんの人が一緒にならないとできなかったわけです。
 
住田:  人のつながりで、できていたものですね。
 
豊原:  そういうふうにお互いが助け合わないと生きられない世界。そこに温かみっていうものが生まれてくるんじゃないかと思いますね。
 
住田:  いま一度そういう人とのつながりが大切だっていうことを、私たちは見直さなければいけないですね。
 
豊原:  そうですね。だから仏教で「重々無尽(じゆうじゆうむじん)の縁(えん)」という言葉がありますね。「重々」は重なり重なって尽きることがない。極端に言えば、アメリカの誰かが何か言ったことが、その日のすぐでなくても、何年か後にこちらへ何か影響を及ぼすかもしれない。たくさんいろんな発明をされた方は、例えば電気なら電気の分野で、それこそ世界中の人に幸せをもたらすことになります。これは私がよく言うんですけども、お参りの人に、「あなたたち今着てる洋服は、どこの誰が作ったか分かりますか?」って。そんなの知ってる人は一人もいないんで。「そういう自分の全く会ったこともないような人のおかげで自分の気に入った洋服が着られると。そういうような形でつながってんですよと。それを思わんといかん」と言うんですけどね。
 
住田:  人のつながりを、まぁ日々と言いますか、折に触れ思い起こすことですね。
 
豊原:  そうそう。それもね話を聞いたり、本を読んだりしなかったら、思い出すってことはできないですからね。
 
住田:  そういったもので、つながりをもう一度確かめ合いながら生きていくということが大切なんですね。
 
豊原:  自分一人で絶対生きられないんですから。みんなどなたかのお力添えで生きてるんだということを忘れてはいかんと思いますね。
 
住田:  今日はどうもお忙しい中ありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年一月二十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである