心はいかにして生まれるのか―脳外科と仏教の共鳴
 
                 脳 外 科 医  浅 野(あさの)  孝 雄(たかお)
1943年、北海道生まれ。1968年、東京大学医学部卒業後、東大病院脳神経外科入局。国内関連病院および米国コネチカット州ハートフォード病院脳外科に留学し、脊椎・脊髄外科を主に研修。スイス・チューリヒ州立病院Yasargil教授の下で顕微鏡下手術研修などを経て、1973年、東大病院脳神経外科助手、1978年、同講師。1986年、埼玉医科大学総合医療センター脳神経外科教授。2008-2014年、埼玉県小川赤十字病院院長と務める。現在、埼玉医科大学名誉教授、小川赤十字病院名誉院長。
                 ききて(禅僧) 藤 田(ふじた)  一 照(いつしよう)
1954年、愛媛県新居浜市に生まれ。1977年、東京大学教育学部教育心理学科卒業、同大学院進学。1982年、東京大学大学院教育心理学専攻博士課程を中途退学。1983年、安泰寺の渡部耕法師に就いて出家。1985,86年、明光寺僧堂で修行。1987年、国際布教使に就任、マサチューセッツ州バレー禅堂に赴任し、禅の指導を行う。2005年、日本に帰国、神奈川県葉山に住む。2010年、曹洞宗国際センター所長に就任。
 
ナレーター:  脳外科医の浅野孝雄さん七十三歳。半世紀もの間、手術を通じて生きている脳と向き合ってきました。人を人たらしめる脳。メスさばき一つで、その人を変えてしまうかもしれない緊張感に日々さらされています。そんな中、浅野さんは大きな疑問にとらわれてきました。物質として存在する脳が、なぜ心を生み出すのか? 三年前、浅野さんは脳と心について研究成果をまとめました。題名は『古代インド仏教と現代脳科学における心の発見』。脳科学から、心とは何かを探究してきた浅野さん。意外にも大きな手がかりとなったのがブッダの教えでした。ブッダが洞察した人の心。それは従来の科学では語りきれなかった心の本質を解き明かしたものだったのです。脳科学と仏教は、どう共鳴するのでしょうか?
 

 
浅野:  新緑の頃はすばらしいでしょうね。
 
藤田:  葉っぱもだいぶ落ちるんですけどね。
 
ナレーター:  この日、浅野さんは、禅僧の藤田一照さんを訪ねました。かねてより仏教者と対話をして、自分の考えがどう受け止められるのか、確かめたいと思っていたからです。
 

 
藤田:  なかなか堂に入(い)ってますね(笑い)。でまず膝を折って…。で鼻から入ってくる息が、自然に体の一番底のとこまで届いてるかどうか…。
 
ナレーター:  藤田さんは、東京大学で心理学や東洋医学を学んだあと、道元の教えを守る修行道場に入山。六年間、自給自足をしながら坐禅に打ち込みました。
 
藤田:  何かを見ようとするとやりすぎてしまう。このエゴが―エゴっていうのはやりすぎを好むと言いますかね。エゴが介入すると、どうしてもやりすぎになってしまうので。
 

 
ナレーター:  藤田さんは、三十三歳の時アメリカに渡り、十七年間坐禅の指導に尽くします。心のよりどころを失い、混迷を極める世界で坐禅の真価を再発見できるのではないか。心をとらえ直そうと実践してきました。
 

 
藤田:  ただ、淡々と坐ってればいい。ただ、淡々とそこに存在しているという感じですね。
浅野:  私は、目を閉じてた方が楽なような気がするんですが…。
 
藤田:  ああ、では閉じてみて。
 
浅野:  よろしいですか?
 
藤田:  吐く息のあとに、間(ま)が生まれますので、その間も大事にします。焦って息を吸おうとしない。体が自然に吸い始めるまで、その間を味わってるという感じですね。
 

 
藤田:  先生、坐禅どうもお疲れさまでした。
 
浅野:  ありがとうございました。
 
藤田:  どんな感じだったですかね?
 
浅野:  ええ、あの子供の頃、あんまり落ち着きのない子供でしたんで、父親が心配しまして…。
 
藤田:  ああ、そうですか。
 
浅野:  この子は坐禅をやらせてみようということで習ったことがあるんですけれども。
 
藤田:  お父様は、じゃ坐禅とかされてたんですか?
 
浅野:  父は基本的には禅宗だったんです。でもまあ熱心な信徒ではなかったですけれども、一応老荘(ろうそう)(老子と荘子)がらみの禅というようなことを一生懸命勉強してたようです。それでやらされたんですけど、その時のイメージは随分堅苦しくて、生半可じゃなくて、きちんとした坐禅のフォームでやらせようとか、まあ要するに背中をバンバン叩くようなことをやられたんで、すっかり嫌いになっちゃいましてね(笑い)。でも、今日やらせて頂いたのは、ほんとに自然な形で…ほんとに何ていうかやってると気持ちが良くなるような禅の在り方があるんだなということを…。
 
藤田:  お父様のやり方も伝統的にはあっていいんですけど、僕はもう少し違う入り方をしてもいいかなと思ってて。ちょっとお茶でもじゃあ…。
 
浅野:  ありがとうございます。
 
藤田:  せっかくお湯が沸いてますので。全く作法とかないんでいいかげんな入れ方なんですけど。
 
浅野:  坐禅と言いますと、漱石を思い出すんですけどね。
 
藤田:  あの「門」ですね。
 
浅野:  「門」ですね。あの時に臨済のほうなんでしょうけど…
 
藤田:  円覚寺(えんかくじ)ですね。僕もそこで坐禅を始めたんですよ。
 
浅野:  ああ、そうですか。門の前をうろうろしててね、入るか入らないでしょうか、どうしようかと。意を決して入るんだけれども、いきなり公案を出されましてね。「父母未生以前(ふぼみしよういぜん)本来の面目や如何」という。
 
藤田:  代表的なやつですね。
 
浅野:  それでうんうん考えて、結局分かんなくてやめちゃうんですけどね(笑い)。
 
藤田:  機縁が熟してなかったということですね。
 
浅野:  僕もそれやられたら駄目でしょうね。科学的に考えればナンセンスでしかないですからね(笑い)。
 
藤田:  いや、わざとやってるわけでない…。ところで、脳というのは人間の体の一部である臓器と言ってもいいですかね。
 
藤田:  はい。
 
藤田:  ここの中に入ってる豆腐のようなものなんでしょうか。僕見たことがないので。生きている脳って見たことがないので…。
 
浅野:  たらこみたいな(笑い)。
 
藤田:  かたらこですか。そういう触ったらちゃんと感触のある物なわけですよね。
 
浅野:  そうです。明らかに物です。
 
藤田:  僕も多分、もしそういう状況に自分を初めて置いたら、ここに心があるのかというふうに、多分不思議に思うと思うんですよ。
 
浅野:  そうですね。
 
藤田:  「これが心なの?」って。
 
浅野:  そうですよね。到底想像はつかないんですよ(笑い)。
 
藤田:  でも、その手術なら手術を終わって、病室に帰られた患者さんに先生が、今度は医者として会う時は…。
 
浅野:  心で話しているわけです。
 
藤田:  脳じゃなくて。この時は脳を相手にしてやってるけど、病室に行くと人なんですよね。
 
浅野:  そうなんです。
 
藤田:  だからそこの落差って、すごくあるんじゃないかな。
 
浅野:  だから脳外科医が、みんなこういう問題と取り組まなくちゃ…。もちろん一番取り組まなきゃならない立場にいるんです。ところが脳外科医ってのは、日常の、つまりここを打てばこうなると、ここを切ればこうなるという経験則の積み重ねだけで、脳外科医というものは出てきてますから、理論的に脳とはこういうものである。心とはこういうものであるという。両方の勉強はどっちかというと、おろそかになってます。
 
藤田:  難しい問題だから一応切り離してやった方が仕事上は便利かもしれないですね。
 
浅野:  そうなんです。
 
藤田:  脳はやっぱ特別な…。
 
浅野:  脳はやっぱり心が直接絡んでいて、心が脳からできるから、脳はやはり特別だと思うんですね。
 

 
ナレーター:  浅野さんは、著書の中でブッダの心のとらえ方は、最新の脳科学理論を先取りしたものだと強調しています。
 
「二千年以上前の古代インドと先端的な脳理論が、これほどの共通性を有しているということは、実に大きな驚きであった」。
(浅野孝雄著『古代インド仏教と現代脳科学における心の発見』より)
 

 
藤田:  で、先生、脳外科医として、仏教の研究をされて、初期仏教というんですかね、ブッダの説いてることと、それから先生が翻訳されたような最新の脳理論とが非常に共通性を持ってる。同じような構造を持ってるんじゃないかというところに驚かれたというようなことをおっしゃられているんですけど、具体的にいうと、どういうところが古代のインドの仏教の思想と、それから最新の現代の最先端の脳科学の知見が、どういうふうにクロスするのかというところを、お聞かせ願えればと思うんですけど。
 
浅野:  そうですね。ブッダは「心は火のようなものである」というふうに譬えたんですね。「燃える火の譬え」。これはブッダが三回目の説法でお話しされた「炎の説教」という。
 
眼が燃えている。眼の欲望が燃えている。
耳が燃えている。耳の欲望が燃えている。
鼻が燃えている。鼻の欲望が燃えている。
舌が燃えている。舌の欲望が燃えている。
身が燃えている。身の欲望が燃えている。
心が燃えている。心の欲望が燃えている。
人のすべての欲望に火がついて燃えている。
(『雑阿含経(ぞうあごんきよう)』燃焼)
 
これはすばらしいメタファー(metaphor:言語においては、物事のある側面を より具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え簡潔に表現する機能をもつ。わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている)だと思うんですね。それがなぜすばらしいかということは、ブッダは炎が五つの小さな炎から―小さくはないけれども―五つの炎が焚き火ですね、これを「五蘊(ごうん)」と言います。そして薪の束の一つ一つが「色(しき)・受(じゆ)・想(そう)・行(ぎよう)・識(しき)」という。今で言えば、人間の高次機能の五つですね。
 

 
ナレーター:  ブッダは人間存在とは、炎のようなものであると譬えました。「五蘊(ごうん)」とは、それらを構成する五つの要素のことです。「色(しき)・受(じゆ)・想(そう)・行(ぎよう)・識(しき)」
 
「色」とは感覚器官を備えた身体。
「受」は苦や楽などの感覚、あるいは感受。
「想」は認識対象から姿形の像などを受ける表象作用。
「行」は能動的に意志する働きや衝動的欲求。
「識」は認識、あるいは判断のこととされます。
 
これらが互いに影響を及ぼし合いながら、一つの炎をつくり上げるのです。浅野さんは、この五蘊が、脳の中の各領域が担っている精神機能に対応するといいます。
 

 
浅野:  それで、これが…。
 
藤田:  この図も初めて見ますけど。
 
浅野:  つまり「色・受・想・行・識」というのは、これはですね人間の高次機能、つまり精神機能ですね、これをほとんど網羅してるんです。
 
「色」―人間の体
「受」―感覚・感受
「想」―表象作用
「行」―意思・欲求
「識」―認識・判断
 
つまり「感覚」ですね、行動、それからいろんな統合する、イメージを作る力。それから「情動」―「受」ですね。それから「識」―思考判断能力、記憶力。それでこういう能力は、厳密に対応するわけではないんですけども、大ざっぱな対応をすると、大脳皮質のほぼこういう部分に分かれて存在するという。
 
藤田:  「五蘊」を高次精神機能というふうに理解した場合、今の脳科学の知見で、この辺りっていうのは…
 
浅野:  「識」は前頭葉ですね。左の前頭葉になりますね。「行」というのは、いわゆる運動領ですね。「色」というのは知覚領です。「想」というのが頭頂葉。それで「受」というのは、視床下部と脳幹。大脳ではないんですけれども、よりもっと古い脳である。
 
藤田:  大体このような位置づけは、それなりの根拠を持ってるという。
 
浅野:  一応の根拠を持ってる。そしてこれはここら辺でそれぞれ燃えてる焚き火だと思って頂ければいい。
 

 
ナレーター:  浅野さんによれば、五蘊は脳の各領域と重なります。
 
「色」は知覚領。
「受」は視床下部と脳幹
「想」は頭頂葉
「行」は形成力(運動領)
「識」は分別・思考(左の前頭葉)
 
ということになります。浅野さんは五蘊の意味を、脳科学の視点から解釈しています。「色」とは、仏教では人間の体、木や草、川など姿・形あるもの、そのものを指します。ところが、浅野さんは、姿・形あるものを、目や耳で感じ取る脳の働きとして解釈しています。
 

 
浅野:  人間の心の働き方をよく調べてみると、人間の心の働きというのは、「色」つまり「知覚」物事を知るという、知覚するということですね。
 
藤田:  それ人間の働きというよりは…。
 
浅野:  意識に上ってくる知覚の働きです。だから知覚というのも、外界にあるんじゃなくて、人間の心に映って、人間が形成する知覚ですね。それと「受」。それは知覚の生じるに伴って、人間には快苦の感情が存在する。つまりおいしいものはおいしい。まずいものはまずい。痛いものは痛い。あるいはそれに伴って「怨憎会苦(おんぞうえく)」というような、あるいは「喜怒哀楽(きどあいらく)」というような感情が共に生じる。情動ですね。これが「受」です。それから、「想」というのは、これは割と理性的な、知性的な働きであって、いろいろなそういうイメージですね、出来上がったイメージを組み合わせて、一つのまとまった形に構成していく。今は「統覚」というんでしょうかね。それが「想」です。それから「行」。この「行」というのがですね、大変難しい。これが形成力。だからこれは自然の形成力というものも、その自然に全て物事を自然に生み出すんですね。そういう古代的な自然観。それがそこにもあるし、自分の中に欲望が起こったりですね、あるいは考えが起こったり、自分の中で意識の上に起こってくるわけですよ。そういうものが全て「行」―サンスカーラであると。
 
藤田:  「こうしたい」みたいなやつですね。
 
藤田:  「こうしたい」みたいな。だから結局これを「無意識」と言いますけれども、その無意識の中から生じて、意識に上がってくる人間の全ての思考、感情、あるいは行動ですね。だから「行」というのは、ある意味煩悩にも結び付いているわけです。それで最後には「識」です。この「識」というのは、サンスクリット語でVijñ?na(ヴィジュニャーナ)で、ヴィ(分析・分割)+ジュニャーナ(知)の合成語であって、対象を分析し分類して認識する作用のことである。物事を二つに分けて考える。だからここで主観と客観という考え方がもちろん出てきますし、要するに人間が論理的に思考する能力。そういうのをヴィジュニャーナ。この五つに分けたわけですね。だけどこれを「機能局在論」というんですけどね、その細かいメカニズムあるんですけど、問題がですね、その大脳生理学の問題が「意識」ということになったら、「意識」ではこういうものが全て入りまじって統合して出てくるわけですよ。そのいろんなものを、こういう機能が統合されなければ、一つの意識にはならない。「識」は「識」で勝手で、「行」は「行」で勝手っていうんでは、自分の思ったとおり手足が動かないってことになります。手足が勝手に動くってことになります。それじゃ話にならない。要するに全部まとまらなきゃいけない。ブッダはそこで「燃えてる」と言ったわけですね。燃えるというプロセスですよ。そして燃えるという、これは自然現象でありまして、非常にダイナミックなものであって、そして全てを飲み込む大きな火になることもあるし、あるいは薪がなくなれば消えてしまうものでもある。非常に動的に変化するものですね。しかも更に五つの火が燃えて、更に大きな火をボォーッとつくるわけですね。だからそれが「心だ」というふうに、ブッダは言うわけですね。
 
藤田:  心はそういう火のようなものであるというふうに…。
 
浅野:  火のように動的なものであるということです。ところが、このイメージ自体が自然の生成力、エネルギー、それから動的なプロセスである。そして、しかも動的にして、しかも一つの何か形、変化する形としてのその形自体を整えているものであると。我々はやっぱり大きな火が出てきた時には、それを一つと認識するわけですよね。それはいろんな色が混じって、常に変化していくものなんだけど。だからそういうものとして、自然現象の炎に譬えたところが、これがまさにブッダの天才としか言えないところと思って…。
 
藤田:  洞察って言えるんですか。
 
浅野:  ええ。
 

 
ナレーター:  浅野さんにとって、仏教は幼い頃から身近な存在でした。昭和十八年、北海道北見に生まれました。父・角次(かくじ)さんは産婦人科を開業。お産があると馬そりに乗り雪の中駆けつける町医者でした。看護師と助産師を務めた母みさをさん。熱心な浄土真宗の門徒でした。浅野さんは、物心付く頃から毎朝毎晩、念仏を唱えさせられました。しかし成長と共に、そうした信仰に反発を覚え、科学の道を志します。東京大学に進学し、脳外科医となりました。
 

 
藤田:  そもそも仏教に興味を持たれるようになった経緯はお伺いできたら…。
浅野:  仏教に興味を持つとか何とかっていうより、私は子供の時に母親にたたき込まれたんです。浄土真宗なんですけれども、母親は熱心な浄土真宗の、いわゆる門徒でございまして、お説教とか法話をまあよく聞かされましたね。ほとんど忘れちゃいましたけどでも、そういう時のイメージというのは非常に心に残っていて、仏様というのはどういうものかなあという。やはり仏様というものは怖いものじゃなくて、非常に親しみ深いものであるという印象は確かに持ってますね。何ていうかな原風景と言いましょうか、「心とは何か」というものを考えた時に、まず仏様っていうのが出てくるというところは、やはり幼児期の宗教教育のおかげだったかなと思います。そういった意味では、母親には感謝してるんです。
 
藤田:  自分でチョイスしたというよりは、そういうところに生まれついたという。
 
浅野:  生まれついた。昔の日本人は、そういう人が非常に多いと思いますね。それでまた朝晩、念仏ですよね。それで仏壇に向かってお経をあげるということが日課で、一生懸命お経を読ませられましたね。
 
藤田:  先生は、信仰心を持ったお医者さんということでいいんですか?
 
浅野:  ところがですね。
 
藤田:  「ところが」ですか(笑い)。そこで「But(バット)」が入るわけですね(笑い)。
 
浅野:  やはり物心が付いて、近代科学というものを、私は勉強して、それで理系の医学部に入ったわけですけれども。
 
藤田:  それはそういうのが関心があってというか。
 
浅野:  ええ。それは父親が医師でしたから、私は職業として医師を選ぼうと思いましたから、当然勉強しなくちゃいけないし、そうすると生意気になってくるわけですよね(笑い)。それでどうも「そんな極楽浄土だの、魂だの、輪廻だのと、そんなこと言ったってね、そんなのはあるわけないじゃないか」と、やっぱり母親とそれからバッティングが始まりましてね。そうすると母親がですね、よく「いや、それは親鸞聖人も言ったことだけれども、知者学者救い難し≠ナある」と(笑い)。まあそれも理屈なんですけど。
 
藤田:  特に浄土真宗は物を知ってるということを、非常に仏から遠いみたいな感じで。浄土真宗は、どちらかというと情緒に訴えるような。
 
浅野:  その情緒が、僕はぴんと来なかった。というより反発したんですね。
 
藤田:  なるほど。物心が付いて、いろいろ科学的な教育を受けてくると、ぴんと来ないというのは分かりますね。
 
浅野:  そういうわけで、私は、「それじゃあ科学とは何ぞや」ということで一生懸命勉強して、ともかく医者になった。それで脳外科医をやりだして、それで脳外科も、現代自然科学の一部ですが、あくまで物理化学の言葉を使って、脳を理解しようとするわけですね。
 
藤田:  医学ですから、脳科学とはまた違うわけですね。いわゆる脳のシステムを研究するというわけではなくて。
 
浅野:  それは脳科学。だけど脳科学をベースにして医学があるわけです。ただ医学というのは臨床であって、患者さんとお話をしなければいけません。だけど「意識とは何か。心とは何か」という。そういったところを説明することがなかなか難しいし、現在まだそれができたというほどにはなってない。だけど、心ということには、他人の心を知ることができないわけですから、やはり自分の心というものを見て、まずやっぱ自分の心から出発しなければ、心というのは理解することができないわけです。で自分の心は何かって考えてみたら、やっぱり小さい頃母親に叱られながら教え込まれた仏の教えなんですね。もちろんそのころはぼんやりとしか理解してないわけですけど。ですから、私は、心のことは、自分が持っている自分の原風景というものをベースにして心を理解しようとして、改めて仏教の勉強をし始めたということなんです。
 

 
ナレーター:  心についての探究を深めようと、浅野さんは仏教を学び直します。しかし脳外科医として、日頃接している脳と、母の語る心とをうまく結び付けることができませんでした。そんなある日、浅野さんは、ある科学者の論文に衝撃を受けます。アメリカの脳科学者ウォルター・フリーマン(アメリカの精神科医。ロボトミー手術の術式を発展させたことで有名:1895-1972)。九十年代の初め、最新の科学理論を応用して、脳が心を生み出す仕組みについて一つの考え方を示しました。膨大な脳細胞の集まりが、いかにして一つの心をつくり上げるのか? 脳全体を統合するメカニズムを、世界に先駆けて理論づけたのです。フリーマンの理論は、二十世紀半ばに発達した複雑系理論を基に組み立てられています。混沌からの秩序の生成。すなわち自己組織化が、脳活動の本質である。自然界には、混沌とした状態から秩序が生まれる不思議な現象が存在します。例えば竜巻。混沌とした空気の流れが互いに影響し合い、大きな渦巻きという秩序を生み出します。フリーマンは、脳が心を生み出す仕組みも、この渦巻きのようなものではないかと考えました。人間の体には、脳を中心に一千億個もの神経細胞が張り巡らされています。全身から入る情報は、電気信号として脳の中を駆け巡ります。一つ一つの神経細胞は独立していますが、互いに電気信号を受け渡し、作用を及ぼし合うことによって、脳全体を巻き込む大きな流れが生まれます。この流れは、「辺縁系(へんえんけい)」と呼ばれる部分を中心に、渦巻きのような回転を生み出します。フリーマンは、この回転に伴う脳全体のネットワークを「大域(たいいき)的アトラクター」と呼びました。そしてそれが、私たちの心の実体なのだと考えたのです。
 

 
浅野:  最初に入るのが、この「辺縁系」の中の「海馬(かいば)」と言われる部分です。ここにこう見える。「海馬」という名前は、タツノオトシゴなんですね。そこに入ります。そしてそこに入ると、何が起こるかというと、そのアトラクターが発生した場所ですね。どこで発生したか。そしてどの時間に発生したか。つまり人間は、時間と場所という四次元で世界を認識してますけれども、知覚で認識できるのは場所、三次元までですね。そして残りの一次元の時間というのは、これはその海馬が作り出してるんですよ。ですからそういうことを、物理的時間そのものじゃなくても、物事が起きてきた連鎖として記憶して新しいことは前のことに積み重なっていくわけです。ですからその生物学的に、
 
藤田:  出来事の順番っていうことですか?
 
浅野:  順番ですね。その順番として、海馬は順番つけていくわけです、時間の順番を。メモリー一つ一つが働くことになってますから、だからその中の一番新しいアトラクター( attractor:ある力学系がそこに向かって時間発展をする集合のことである)が現在なんですね。要するに、時間と空間という、そこで初めてですね、環境と自分の状況と歴史というものを踏まえて作られた知覚情報が、時間と場所の中に定位される。それでまさに世界内存在という知覚が出来るわけです。知覚が形を持つわけです。これを心理学では「ゲシュタルト(Gestalt:《形態・姿などの意》知覚現象や認識活動を説明する概念で、部分の総和としてとらえられない合体構造に備わっている、特有の全体的構造をいう。形態)」といってますね。それでそのゲシュタルトを持った知覚がですね、これはこの楕円のループに従って、脳全体をグルグル回ります。
 
藤田:  それはもう本当に文字どおり回ってるんですか?
 
浅野:  文字どおり回るんです。伝達してるんです。そしてそれが脳の中全部渡って、そしてそれでこの脳の表面をこう回る時にですね、この全て脳の各所に分子でその信号を伝達していくわけです。伝達すると同時に、その各所の分散した機能で、また新たな処理を受けて、そしてその処理を受けた形というのが、またその情報に加えられます。そして加えられたものが、また海馬に戻ってくるんです。完全な循環サイクルなんですね。そういうそのサイクルが、一秒間に大体十回から二十回起こります。そうするとその循環によって「色・受・想・行・識」のそれぞれの蘊(うん)が、ここで海馬に一つにまとめられて、そしてその回転が何回か続いた時に、初めて脳全体の活動が一つのパターンに、パッとよく電気がついたということで漫画で出てきますね。ああいう形でパッとこうアトラクターが、レーザーが光を出すように、一つの考えがポッと出来るわけです。
 
藤田:  巡回してる場所が辺縁系なわけですか?
 
浅野:  そうです。だから辺縁系を通じて、下から上がってくるもの、脳幹の動き、視床下部―「受」ですね―受の動き。脳の持っている各種の動きが、この辺縁系における循環において。だからこれ考えてみれば、ブッダが「五蘊」と言われた「色・受・想・行・識」の焚き火が、一つになって回りながら、火炎として渦巻きながら一つの大きな炎になっていく。そのイメージと全く同じなんですね。結局は、それは古代神話から、僕は来てる考え方だと思うんです。というのは、世界中にやはり人間は、「宇宙はどうして出来たか」ということを、イメージとして皆持ってるわけですね。だけど、古代の宇宙神話というのは、やはりまず最初に混沌があって、それから秩序が生まれた。あるいは心が生まれた。あるいは神が生まれた。だけど最初にあったのは混沌ですね。そして混沌がなんか分からんけど、グチャグチャしたものの中から一つのものが生まれて、それが自然であると。だからこれは僕はインドの古代の宇宙生成創世神話の中の名残であるというふうに、僕は解釈しているんです。ただそれがすぐ意識と考えたいんですけれども、それはまだ意識になってないんです。ここまでは実は無意識の働きなんです。この大域的アトラクターが形成されるまでに約○・五秒かかります。
 
藤田:  それ処理に時間かかってるということですか?
 
浅野:  そうなんです。知覚情報が入って、その知覚情報をそのままほとんど瞬間的に伝える神経線維が触覚で存在するんです。だけれども、この大域的アトラクターが成立しただけでは意識にはならないというか、ここまでは無意識なんですね。
 

 
ナレーター:  無意識だけではなく、心が成り立つには、意識が伴わなければなりません。大域的アトラクターが成立しただけでは、まだ無意識の段階。では意識とは、どのように生み出されるのでしょうか。
 

 
浅野:  それでそれが、どうして意識になるかというとですね、大域的アトラクターというのは、その○・五秒かかって成立するごとに、今度はもっと細かく変化してくんです。これはアトラクターの変異といいます。遷移(せんい)といいます。遷移シフトですね。それはどうしてかというと、それよりもっと高速に活動知覚サイクルは回転してるわけです。そしてその回転は決してやむことがない。だから次々にこの大域的アトラクター更新していって、それがどんどんどんどんそれが大体一秒間に十回ぐらいって言われてます。
 
藤田:  ○・一秒ってことですか?
 
浅野:  ええ。そうすると、その大域的アトラクターの一つが出来上がるまでは、まだ意識には上らないけれども、それが出来て次にシフトする。そのシフトのそのつなぎ目、その時間に大域的アトラクターの分節が出来るんですね、特別の次にシフトする時に。それが意識といわれてますね。
 

 
ナレーター:  ○・五秒かけて出来上がった大域的アトラクター。その後およそ○・一秒ごとに新しい情報を取り入れながら次々と変化していきます。その変わり目では脳全体のネットワークが、一瞬静まったような瞬間が現れます。実はこの静まった瞬間にこそ、人間の意識が生まれると考えられています。つまり心とは、渦巻きのように生まれた無意識と、その後○・一秒ごとに感知される意識とで成り立っているというのです。
 

 
浅野:  自分が無意識のうちに何か始めてるってことよくあるんですね。ところが途中で「あぁ俺はこういうことしようと思ってたんだ」。自分が何考えてるかよく分かんないでボーッと考えてたんだけど、「ああこれ考えてる」。それから誰かね、人の悪口言い始めてて、まずいなと思ってポッとやめるという、そういうような意識があります。ただこの意識というのは、だからそういうように、大域的アトラクター、計算されて、次の流れを決めることができます。つまりやめるとか、続けるとか。だけど意識自体が、この大域的アトラクターを作るのではない。それはあくまでも無意識のうちにどんどんと自分の脳が作り出してるものであって、意識というのはその上にあって、その行く先をコントロールしてるんだということです。
 
藤田:  それが自由意志というふうに、僕らは感じるわけですか?
 
浅野:  まさにそういうことです。だから人間は自由意志を持てると。だから人間のその意識とか心というものが、人間独自の存在の地平を有すると。
 
藤田:  いつでもこれはアクション(action:動作。活動)というか、オンゴーイング(ongoing:前進する、進行中の)っていうんですか、こう回ってるっていう。
 
浅野:  常に回ってる。だからそれがいかに回ってるかというとですね、人間が年取って一番やられる部分が、この海馬の付近なんですね。それがいわゆるアルツハイマー病なんですよ。つまりこの回路を回してる神経伝達物質というのは、「グルタメート」っていうんですけれども、このグルタメートは神経を興奮させる反面ですね、毒性を持ってるんです。だから出すぎると神経死んじゃうんです。だからこの海馬を使いすぎると、そこが選択的にやられて、他は生きてるのにそこだけだから統合ができなくなっちゃって、心というものが、あっちなくなっちゃう。フリーマンは、「脳は複雑系であって、その働きからいろいろな考えができるんだけれども、人間の頭はがんじがらめになっちゃってる」と。
 
藤田:  そういう言い方もするんですか?
 
浅野:  そういう言い方もするんです。それでまさにこれは禅の考え方なんですけれども、要するに固定観念のかたまりになっていて、身動きがとれなくなるから、それを一回きれいにしてやらなきゃいけない。要するに「ブレーンウォッシング(brainwashing:系統的教化(法):特に反復などにより計画的にある考えを人に植えつけること。方法)」っていうんですけどね。あるいは「アンラーニング(unlearning:いったん学んだ知識や既存の価値観を批判的思考によって意識的に棄て去り、新たに学び直すこと)」。今なんかそれがはやってるんで「おや?」と思ったんですけれどね。アンラーニング―「脱学習」っていうんですか、これが非常に大事だということをフリーマンさんは言われてるんですよ。
 
藤田:  そうですか。
 
浅野:  あの本にも書いてあります。それでこれは非常に禅の考え方に近いなと思って。
 
藤田:  ぴんと来るようなものがあるんだと思いますね。仏教とか禅とか関係なくて、その独自の領域で考えておられて、そこまで近づいておられる。
 
浅野:  脳科学から、そこまでいくというのは大変なこと。だけどそこで僕が言いたいことは、その坐禅・瞑想ということを日課としてやるということは、大変いいことじゃないかと。
 
藤田:  そうですね。
 

 
ナレーター:  藤田さんは、坐禅には絶え間なく働き続けている脳を鎮める効果があると考えています。
 

 
藤田:  では先生そちらに。
 
浅野:  これは足は前に出していいんですか?
 
藤田:  そうですね。足は組めない場合は、こういう感じで組まなくてもこういうふうに並べて頂ければいいです。もう少し前に坐られて…。
 
ナレーター:  坐禅は、頭で考えるものではなく、体に従うものだと言います。
 
藤田:  右手を載せて、でよく昔からいう「上虚下実(じようきよかじつ)」。上がリラックスしてて、下が充実してる。上虚下実という状態を作りたいわけですね。僕はまあふだんは「上実下虚(じようじつかきよ)」という状態になって、走り回ってるという感じなので、本来の上虚下実の状態を実現、こういうこの座布団の上で実現してみようという一つの営みと考えていいと思いますね。
 
ナレーター:  体が発する声に耳を傾けることで、凝り固まった頭を休め、解き放っていくことができます。
 
藤田:  僕はこういうのをよく使って、具体的に話してるんですけど、こういう座骨の上にバランス良く背骨がこういうふうにのっかってるような状態ですね。これ前すぎても、後ろすぎても、それから右に傾いても、左に傾いても、筋肉で支えないといけないので、そういう筋肉の負担をなるべく生み出さないように、バランス点を探すっていうのが大事なところですね。なので伝統的には、こう体を左右に揺すったり、前後に揺すったり、こうやってしながら、だんだんだんだん落ち着きどころを探っていくというような形になります。
 
浅野:  目はどんなふうに?
 
藤田:  目も四十五度とか、一.五メートル先を見るとかいうんですけど、そうすると意識でコントロールしてしまうので、普通にリラックスし開いておけばいいですね―というふうに僕は言ってます。で心が落ち着いてくると、自然に視線が下りてきますので。で呼吸は鼻から自然な呼吸をしていけばいいです。長く吸おうとか、深く吸おうとかっていう、そういう「つもり」を持ち込まないということですね。自分が決めた楽な呼吸の方にコントロールしていくんではなくて、自然に体が楽さを探していくような回路を作るということになりますね。これはあるアメリカで参加したワークショップの先生が、体のいろんなつながりのことを視覚的に伝えるために使っていて、「あ、これはいい教材になる」と思って買ってきたものなんですけど。人間の体っていうのは、骨と関節でつながっている一つのシステムになっていて、これ見たら分かりますように、一ヶ所が動くためには、他が同時にこう協調して動かないと動かないわけですね。で例えばこういうところに、こう輪ゴムか何かを引っ掛けて、動きにくくすると、ここ動かそうと思ってもこれ動かないんですね。で僕らここが動かないのは、ここのせいだと思って、無理やりこうやってやる傾向があるんですけど、本当はここの動かないのは結果であって、原因はこっちにあるので。でここを何かこの輪ゴムを取るような働きをすると、ここが解放されると、ここには何もしてないんですけど、こう動くようになるというような結果と原因のこの混同についての話する時に使ったり、それからまあこれ「縁起」も、全てがつながってるというのは、まあ「縁起」の一つの日常的な言葉での説明ですので、まあモデルにもなりますし、それから呼吸も吸って吐いての、こういう体全体の、単に肺がこう動いてるだけではなくて、体全体がこう動いてるんだ、というような時のビジュアルな教材になるんですね。
 
ナレーター:  坐禅はするものではなく、自然に出来上がっていくもの。体が本来持っている力に委ねれば、おのずとバランスが整えられていきます。
 
藤田:  (鐘が鳴る)終わり方は、合掌して、軽く一礼してこう。
 
浅野:  はい。じゃありがとうございます。
 
藤田:  今ので五分ぐらいですけど。
 
浅野:  もっとやってたような気もしますけども。
 
藤田:  いいですね。
 

 
藤田:  ブッダはよく「整えられし自己」というような言い方されるんですね。仏教の特徴というのは、神に頼るのではなくて、真のよりどころは「整えられた自分である」というようなことを言ってるんですね。この整えられてる状態。ただ脳が整ってるような状態というのはどういうふうに、先生だったらお考えになりますか?
 
浅野:  そうですね。藤田さんは、アメリカでもアメリカ人相手に坐禅の講義をなさって実施もされたわけですから、この「整えられた」というブッダの言葉、これは日本語ですけれども、それを英語でどういうふうに表現されてたんですか?
 
藤田:  僕の言い方はこうでした。「整えられた自己」っていう時に、「コントロール(control)」とか「レギュレイト(regulate:〔機器などを〕調整する、調節する)」というような言葉があるけど、僕はちょっとネイティブスピーカー(native speaker)じゃないけど、ぴんと来ないので、僕としては「ハーモナイズド(harmonized:調和した)」。「ハーモニー(harmony:一般に物事の調和のこと)っていう「ハーモナイズド」というような言葉で言いたいんだと。
 
浅野:  つまり「調和」の「調」であり、「調息」の「息」を調えるの「調」ですね。
 
藤田:  「コントロール(control)」とか「レギュレイト(regulate)」っていうと、どうしてもある理想的な状態に持っていくみたいな、こう外から働きかけていくような「他律的に」というんですかね、外からある整えられた、コントロールされた状態に持っていくって、なんかアグレッシブ(aggressive:言動の積極的なさま。精力的なさま)な感じがしてしまうんですね。ですから僕は外側から他律的じゃなくて、内側からそれこそ生成するという、エマージ(emerge:今まで見えなかったもの、隠れていたものが現れ出ることを意味する)してきてる秩序というふうな言い方をしてました。
 
浅野:  そうですね。まさにそういうことじゃないかと思うんです。ブッダがその「整えられる」「整えることが重要である」って言ったことは、結局は「識」と、それから「五蘊」の中にある「ヴィジュニャーナ」としての意識・知識と、つまり知性の働き、あるいは理性の働きと、それから「受」ですね。つまり感情、これは毒矢の譬えにもあるし、要するに感情に流されるということもあるし、あるいは煩悩も感情の一種ですね。「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」というのは、まさにこれ感情、情動ですよ。そしてブッダとしては情動、煩悩に流されずに、理性的な判断で自分の行動を決めなさい。そのためにいろんな方法論があるんで、それは別として原則としては、そのバランスをとっていきなさいと。
 

 
ナレーター:  ブッダが唱えた五蘊。その炎は、ともすれば欲望や憎しみなどの煩悩に支配されがちです。ブッダは言いました。
 
修行僧らよ
すべては燃えている
貪欲の火によって
嫌悪の火によって
迷いの火によって燃えている
(燃える火の譬え(中村元))
 
誕生 老衰 死 憂い 悲しみ 苦痛
悩み 悶えによって燃えているのだ
 
ブッダは、煩悩の炎が大きく燃え上がらないように、正しく整えることを説いたのです。
 

 
浅野:  ブッダの考えられた悟りとか幸福というのは、ブッダは、一般の人間の幸福というものを考えられた方だと思うんです。「生きとし生けるものは、全て幸せであれ、安穏であれ」とおっしゃるわけですからね。じゃその幸せ安穏とは何かというと、先ほど藤田さんが言われた「整えること」、つまり「バランス」ですね。そしてその何をバランスするかというと「心と身体」。そして心においては「理性と感性」。こういうもののバランスを保ちなさい、ということが、まあ今私なりの理解なんです。
 
藤田:  はい。まさに坐禅ってそういう方向を目指した営みだと思うんですよね。あの姿勢自体が、前にも攻撃的でもないし、逃げてるでもないし、右に左に偏ってないというのが一つですよね。重力との調和というので、まずその調和した感じというのを。だからニュートラル(neutral: いずれにも片寄らないさま。中立的。中間的)というのが、僕は一ついいかもしれない。プラスでもマイナスでもないゼロのところのニュートラルでね。ここから出発して、ここに帰ってくるっていう。メタファー的にいうと、くつろぐことのできる家っていうものを、ここに確立しようと。呼吸も運動のように「ハァハァハァハァ」というようなものでもないし、それからこの精神状態を変えるような特殊な呼吸法でもない。ただの当たり前の自然呼吸ですから。だから多分僕もさっき言ったと思うんですけど、普通の生命の炎が普通に燃えてる状態に一旦帰ろうということですね。僕の習った系統の方の言い方だと、「自分が自分をしている」のが坐禅であると。
 
浅野:  まさにそのとおりだと思いますね。
 
藤田:  今日はずっと先生、その専門の脳の話と仏教の話で来たんですけど、脳っていうのも、脳だけで脳をやってるわけじゃなくて、脳がいかに、体全体の支え、働きの支えで脳が脳をできてる、というふうに思ってるんですね。体自身も、体だけで体が出来てるんじゃなくて、周りの環境、僕らが多分意識できないような細かいものすごい微細なつながりの中で、体がこうやって成り立ってるので、そういう意味でいうと、仏教の縁起は、僕は「つながりのビジョン」というふうに呼んでるんですけど、どこも区切りって仕切りって入れられないような考え方だなと思うんですね。循環してるし、今日のお話にも出てきたように、相互的に影響を与えながら、全てのものが成り立ってるというのが、普通の縁起の考え方なんですけど、先生、脳ってどういうふうな見方で考えられておられるんでしょうか?
 
浅野:  そういう考え方の方向性、論理性を、あるいは科学性を見失わないために「発生学」というのが必要なんですね。つまり人間の脳は、どのように動物が進化するにつれて発達してきたのか。または生物自体が、恐らく最初の一個のDNAの断片からどういうように発達してきたのか。そういう生命の歴史というものを考え、その頂点に脳というものがあるわけです。だから脳というのは、何もそのもの自体が最初から出発したわけじゃないんで、体とのつながりを欠いた脳というのは、全く無意味であると。思考実験というのをよくやる人がいるんですけれども、脳を、例えば全ての理想的な条件を整えて、脳が生きてるような形でね、体と身体から切り離して培養液の中に置いて、そしてその脳の中に全てがあるから、その脳の活動を記録できるだろうとか。これは現実的に言ってナンセンスなんですよ。というのは、脳の活動というのは、先ほど言われたように身体から行く刺激ですね。そういうものがあって、初めて脳のニューロン(neuron:神経細胞は、細胞体と軸索と樹状突起で一つの単位として考え、「ニューロン(神経単位)」とも呼ばれる)というのは生きてるわけです。だから知覚がなければ、知覚に関する神経経路は死んでしまいます。それで運動する。これも器官があるから運動するわけで、知覚と運動がなければ、思考することもなくなります。だからビーカーに入れられた脳は、必ず死ぬんです。そんなことが分かってるのに、そんな思考実験する意味がどこにあるのか(笑い)。
 
藤田:  脳自身が世界と切り離せない存在としてあるというのが、脳が脳だっていうこと。
 
浅野:  「世界内存在」としての脳なんです。
 
藤田:  それは僕大事な視点だと思うんです。脳について、いろんな今まで分かってなかったことが分かってくると、このままいくと全部人間…脳が分かれば、人間のことが分かるような、幻想というのが生まれてきてしまうんですよね。
 
浅野:  全くそれは幻想であって、だから理解するということですね。世界を理解するということを、同化するといいます。同じものにする。つまり世界の在り方を、いろんな感覚器官とか、運動を通じて、経験として積み重ねて、その在り方を脳の中に身体として刻み込む。エンボディ(embody:〔部分を〕統合する、一つにまとめる)するということ。それが同化ということなんですね。ですからまさにそういうことであるから、脳という構造を離れて、この同化ということはないし、また身体を離れて同化ということもない。同化というのは、脳だけじゃなくて、例えばピアニストがね、ピアノ弾く時の機能というのは、指にも全身にも、坐禅する時も全身の動きにも宿ってるわけですから、やっぱり身体全体のインテグリティ(integrity:同一性)ということを考えないと同化というのは考えられない。
 
藤田:  もう一つは、「創発(そうはつ)」とか「生成(せいせい)」ということですね。これはもう不思議としか言いようがないわけですよね。カオス(混沌)的な現象からポンと秩序が生まれてくるという。この「ポン」のところが知りたいわけですけど、これはまだ何も分かってないっていう。
 
浅野:  これは究極的には、それは空間自体が持つ性質だとしか言えないんです。つまりその物というのは、空間においてはエネルギーですね。エネルギー、つまり電磁場なんですよ。 電磁場の中でのエネルギーのいろいろなかたまりとか、流れとか、変化とか、それは物として現れているわけであって、だからそういうものが自己組織性を有するということは、結局はその電磁場自体がもともと有する性質なんだろうとしか言いようがない。
 
藤田:  宇宙が出来た時に、そいういうものとして出来ているっていう。
 
浅野:  例えば電磁気の法則、フレミングの法則にしたってですよ。これだってですね、全部電磁場の空間の性質なんですよ。だけどそれは電磁気学のように、まだ説明されるには至っていない。そして現在その宇宙でも、宇宙空間自体が、ダークマター(dark matter:暗黒物質。天文学的現象を説明するために考えだされた「質量は持つが、電磁相互作用をしないため光学的に直接観測できず、かつ色荷も持たない」とされる、仮説上の物質である)でどのぐらい占められてるとか、あるいはこの間新しい粒子が一つ発見されましたね。それ自体がまだ分かってないわけですから、まあそのぐらい分かってなくてもまだいいじゃないですか。やっぱり重要なことは、やはり理論に走ることよりも、まず人間の現実の生活を見てその中で、
 
藤田:  我々の一番身近な「自分の心」であるとか、「私」っていう、その意識ですら、そういう創発現象の一つの実例というんですかね、まさに最も身近な創発現象がこの私だというか、この意識であるというのが、今日のお話だったと思うんですけどね。
 
浅野:  そこで、ブッダが古代の非常に広範な哲学ですね、そしてそれに匹敵する理論を自分は打ち立てたんであるけれども、それよりは「自分の心を見つけて、その意味を自分で見つけて自分で修行をしていきなさい」と言われたわけですね、最後にね。「自らを信じ、自らを頼りとし、そして法を頼りとしていきなさい」と。だから僕は、これはもう宇宙的次元は確かにあるし、それを理解することも必要だけれども、やはり人間にとって一番必要なのは、人間的次元の中で自分を考えるということであると、私はそう思ってます。
 
藤田:  今日はどうもありがとうございました。
 
 
     これは、平成二十九年二月五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである