父を問う?いまと未来を知るために
 
                     作 家 辺 見(へんみ)  庸(よう)
1944年、宮城県石巻市南浜町出身。宮城県石巻高等学校を経て、早稲田大学第二文学部社会専修卒業。共同通信社に入社し、外信部のエース記者として知られた。北京、ハノイ特派員などを務め、北京特派員時代の1979年(昭和54年)には『近代化を進める中国に関する報道』により新聞協会賞を受賞。1987年(昭和62年)、2度目となる北京特派員を務めた際、胡耀邦総書記辞任に関連した中国共産党の機密文書をスクープし、中国当局から国外退去処分を受けた。外信部次長を務めていた1991年(平成3年)、職場での経験に着想を得た小説『自動起床装置』を発表、第105回芥川賞を受賞した。また1994年(平成6年)には、社会の最底辺の貧困にあえぐ人たちや、原発事故で放射能汚染された村に留まる人たちなど、極限の「生」における「食」を扱った『もの食う人びと』で、第16回講談社ノンフィクション賞を受賞。この作品は、小中学生向けに教育マンガ化され、学校図書館にも配架されている。1995年(平成7年)、地下鉄サリン事件に遭遇。1996年(平成8年)に共同通信社を退社、本格的な執筆活動に入った。近年は「右傾化に対する抵抗」などをテーマに活発な論陣を張っている。2004年(平成16年)には講演中に脳出血で倒れ、2005年(平成17年)には大腸癌にも冒されたことを公表したが、2006年(平成18年)に『自分自身への審問』を復帰作として上梓するなど、精力的な執筆活動を続けている
 
ナレーター: 
風景が波とうにもまれ一気にくずれた
生まれ故郷が無残にいためつけられた
若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺
磯のかおり
一変していた
 
なぜなのだ
怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない
ただ命じているようであった
畏れよと
 

 
辺見:  僕は、三・一一の時に、父親に見せたくなかったなというのがあったね。父親はもう亡くなってるわけだから、見なくてよかったなぐらいには思いましたよね。一九二二年生まれの大正期に生まれた父親が、青春の一番大事なところを、戦争の記憶で埋め尽くされて。で、あと復興期の日本戦後に生きて、で、あげくの果てに、自分の故郷がですね破壊された、あの風景というものを見せるのは酷だと思ったんですよね。十分あの人は過酷な風景というのを見てきてるはずだというふうに思うわけですね。僕の父親は、一九二二年生まれなわけですけれども、確かその翌年が関東大震災だったわけですよね。で関東大震災があった時っていうのは、実は世の中が割合人間がいろんなアイデアを出し合って、こういう社会にしたらどうかということを一生懸命論じ合えた時代だったんですね。で関東大震災、じゃあそういう社会的なムード、空気をどういうふうに作用したかっていうと、締め上げにかかるような空気に急速になってくわけですよね。ですから確か関東大震災から二、三年後に治安維持法(1925年(大正14年)1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年(大正14年)4月22日に公布され、同年5月12日に施行。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから、飴と鞭の関係にもなぞらえられ、成人男性の普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている)が出来てしまう。で、いわゆる大正デモクラシーというものが、そこで一気にしぼむというふうなプロセスをとったと思うんですよね。まあ関東大震災をきっかけにする混乱の中で、まあ当時の社会主義者とか、あるいは朝鮮人の不法逮捕とか、虐殺とかが相次いで起きるわけですよね。そのプロセスはやはり振り返っておいた方がいいと思う。で僕は歴史というのは、文字どおりの反復ではないんだけれども、相似的な反復を繰り返しというものをやるもんだというふうに思ってるわけですね。それを実を言うと、三・一一以降に僕は感じていて。二○一一年三月十一日から二年ぐらいたってからですか、秘密保護法が出来てますよね。これ強行採決してるわけですよ。
それから武器輸出三原則というものが緩和されてしまう。防衛装備の移転三原則というのが閣議決定される。その翌年には、安保関連法案が一気に通っていく。でかつては考えられないことだったんだけれども、集団的自衛権行使が容認されていく。
で今現在動き出してきてるのが、共謀罪の法制化が言われている。
世の中の土台が、自然の大地の地殻変動と同時に、日本の共同体の土台が地殻変動してるというのが、今現在だというふうに思うんですね。僕の予感はですね、そうとしか言いようがないんだけれども、「剣呑(けんのん)」という言葉があるけれども、剣呑な予感にならざるをえないと思うんですよ。
 

ナレーター:  わたしはこれから、かつてなされた戦争のこと、とくに細部(ディテール)についてぶつぶつとかたろうとしている。なんのためかといえば「いま」と未来をかんがえるためだ。でもなぜ「1★9★3★7」なのか。「わたしは、一九三七年に正直に惹かれつづけ、そうこうするうちに、一九三七年は「1★9★3★7」(「イクミナ」または「征くみな」という謎めく表象となり、わたしを悩ませ、惹きつけつづけた。
 

 
司会者: さて、本日の講演会ですけれども、久しぶりの東京での辺見先生のご講演ということで、想像以上に申し込みが殺到して、この不安定な時代にいかに辺見先生が待たれているかということをですね、スタッフ一同強く実感いたしております。それではお待たせいたしました。辺見先生よろしくお願いいたします。(拍手)
 
辺見:  私が、角川文庫でですね、完全版の『1★9★3★7(イクミナ)』というのを、まああの既に書いたものに百五十枚ぐらいの加筆したもので、こういう装丁のものを出した。ちょっと右手が悪いんで、片手しか使えないですけれども。この装丁に使った、カバーに使った絵は「観兵式」という絵なんですけども。これは一九三七年に山下清(やましたきよし)(画家。日本中を放浪していたことで知られている:1922-1971)が描いた貼り絵なんですが。ここの中で、みんなが万歳してますね。それで中央に観兵台があって、日の丸が交差してるわけです。このころは観兵式というのは東京衛戍(えいじゆく)(軍隊が永く一つの土地に駐屯すること)区では、大体天皇が出席してやったわけですね。この絵を何度見ても、私は感に堪えないといいますか、ある驚きというものを感じるんです。群集は手に手に日の丸を持って万歳をしている。この絵には、およそ例外というものがない。そういう風景を、民衆の風景をこれで作り出している。でこれを作った貼り絵として制作したのは山下清なわけです。ご存じのように山下清は、特段の反戦思想の持ち主でもない。それから別に愛国思想の持ち主でもない人なわけです。で山下清だからこそ、目撃者証言者として信じられる。一九三七年に、日本が大挙して中国に押しかけて、日中戦争がいよいよ本格化する。で、それは七月とされているわけですけども、それより前から日本は中国を侵略していたわけですけれども、何十万もの軍隊が、かの地でどのような立ち居振る舞いをしたのか。『1★9★3★7(イクミナ)』の中でですね、僕は特に気にしたといいますか、何回も引用したのは、堀田善衞(ほつたよしえ)(小説家、評論家:1918-1998)の『時間』という小説であります。堀田善衞は、大変な中国通であります。彼はこういうふうに書いてます。
 
日本軍は中国軍の敗残兵ばかりではなく、一般市民女性や子どもまでを見境なく襲い、放火・略奪・婦女暴行などを数週間も続けたのであったと。中国軍民の犠牲者は、数万とするものから四十三万とするものの説もあったと。日本国内では、この大虐殺事件のことは、国民には秘匿されていたと。それは江南(こうなん)―中国の揚子江(ようすこう)の南ですね―の景観の美とは、まったく対比も何も不可能な、長きにわたる日本の歴史の中でも、まれにみる恥辱であった
 
というふうに、堀田善衞は書いているわけです。僕は学生の頃は、南京大虐殺は論ずるあれもない事実だと。周りがですね全部受け止めていたと。周りの人たちが等しく、それは事実だったと。でもどうしてかなぁどころじゃない。ポスト・トゥルース(pos-truth:客観的な事実よりも、感情的に訴えのほうが世論に影響する状況のこと)の現在に至っては、南京大虐殺は―どうでしょうか、皆さんどう思います? どちらかというと、あれはなかったか、ないしはオーバーに語られたと、というふうに受け止めてる人が、今やマジョリティーになってるんではないかというふうに思うんです。ああ、これは大変なことだというふうにつくづく思ったわけです。で、それもあって、私は「1★9★3★7」ということを書いてみようと思ったわけです。
 

 
ナレーター:  その時代に、わたしの祖父母が生き、両親たちもニッポン・コクミンとして生活し、父は他の人びとと同様に、まったく無抵抗に応召し、中国に征った。そのなりゆきまかせと、没主体性について、死ぬまでにいちどはほじくっておきたいと、わたしはおもっていた。いまといまの行く末を知るために、記憶の墓があばかれなくてはならない。
 

 
辺見:  僕の記憶に残る父親が、いわゆる父親本来の人だったかどうかというのは、多少違っていて、戦争の影響というものを、相当程度受けたと思わざるをえないんですけれどもね。足かけ三年にわたる戦地での生活の中で身につけたものと、身につけた新しい動作というのかな、新しい感性というものを持て余して、戦後というのを過ごしたんだと思うね。やっぱり父親の記憶というのは、うっとうしいものでしたから、当初は正視しないで、父親の記憶を捨象(しやしよう)して、僕は若い時にものを語ってきたと思うんですね。だから、かなり遅ればせながら、何て言うんでしょうか、自分の記憶に父親の記憶をつなげて、トータルとして、過去・現在・未来というものを見ていくという作業を、「1★9★3★7」の中でやったというふうに、まあやろうとしたというふうに思いますね。成功したかどうかは別にしてですね。刺突(しとつ)訓練ってあるんですよね。木、樹木とか、柱に生きた人間をくくりつけてね。まあそれは捕虜だといったり、捕虜じゃなかったりするわけだけれども。その生きた人間に、銃剣で突きかかっていく訓練ですね。それは肝試しってよく言われてたわけですね。それは極めて多くの日本の兵士が参加させられたわけですね。例えば士官というか、希望する人間たちにとっては、眉一つ動かさずにやれて当たり前というのがあるんですね。人の首切ったり、刺したりするということをですよ。であった以上ね、父はどうしたのかなというふうに思うわけ。おやじどうしたんだよっていうね。俺のおやじはどう振る舞ったかなというふうに思うわけですよ。僕の父親も、いわばマスコミの関係に勤めていたことがあって、新聞の連載があったんですね。それは気にはなっていたし、僕も部分的に読まないわけじゃなかったけれども、集中して読んだことはなくて、むしろそれを意識的に避けていたところがあるわけですね。父親は、地方紙にペンネームで連載をしてましてね。そのころの記憶を書いていて、気が付くのは、ある種の、あるいは戦後の総括のしかたというか、整理のしかたの類型なんだろうけれども、ひとごとのように言ってるということですね。そこは難しさ感じるんですよ、僕は。父親が田舎の夕刊紙で、自分の戦争時代というものを、反省的に書くなんて難しいなというふうには思いますよね。逆にあまり反省的に書いてないわけですよ。「戦争がありました。私は応召しました。古参兵に随分いじめられました。随分殴られました。日本は敗戦になりました。捕虜収容所に入れられました。そこで演芸会なんかやりました。復員してきました。日本は焼け野原でした」。そこに、それは無い物ねだりかもしらんけども、僕の父親だからもうひと言ないのかよというのがあった。もうひと言もうひと言…。これでいいんですかっていう感じなんだよね。ただ問わず語りに父親が書いてきたことの中に、おやじこれやばいぜっていうのはある。例えば敗戦末期の出来事なんだけれども、村で結構年老いた中国人を、まあどういう嫌疑か分かんないけれども、連行してきてよ、それで拷問するシーンが出てくる。顔に水に浸した手拭いを掛けてね。そういう拷問を、自分の小隊がやった、ということを、父親は書いている。でその拷問行為を、父親は、「もうやめろ」と。「この男はしゃべらんよ」と言ったと、というふうに連載には書いてある。じゃその後に、その老人を解放したのかと、あなたはね。僕は過分にして知らないんだけれども、一度捕まえた捕虜を無罪放免にするというのかな、裁判をしたということも、聞いたことないし、読んだこともないし、無罪というか、そのまま帰しちゃったという話も聞いたことはない。多くは大抵殺されてしまっている。もう本当欲しいままに人を殺していたというのは、どのような資料でも共通していたわけでね。結局奇妙な話なんだけれども、あの戦争はひどいってニュアンスはあるんですよ。ひどいもんだったと。おなかはすくしね、食い物は無いし。古参兵から殴られて。ひどいものだったけれども、どのようにひどくて、そのひどさに自分も参画したんじゃないかというのは、深くはえぐり取られてない、書かれていないというふうに思うんですよね。そういうこう全体の中で、こうするっするっと自分の主体をはずしていくやり方が…。それは父親の狡猾さというよりも、我々のやり方にも似てる―やり方としてね。戦後の処理のしかたとして、とても気になったというんですかね。敵のスパイと思って捕まえたら、美少女だったと。美しい少女だったというくだりがあってね。その美少女という人間の身体を、お父さん、あなたはどうしたんですかと。そういうふうに僕は思う。だけどそこ書いてないよね。そこの書いてなさというのかな。戦争って、こういうもんだよというふうになっちゃう。だから父親の中には、もちろん自分の青春というものを費やさざるをえなかった戦争に対する苦(にが)い思いというのがある。苦しい思いというのがある。と同時に、申し訳ないけれども、あなたノスタルジー(nostalgia:過ぎ去った時代を懐かしむこと)があるね、というふうに思うよね。それは絶対こう引っぺがすことのできないね、自分の戦時体験、兵隊経験に対する、もちろん嫌悪もあるだろうけれども、郷愁もあなたは持っていたんだなと。それは極めて大きいなというふうに思いますね。でそれは持つなということじゃないですよ。どうしても自分の親だから、高望みしたくなるわけですよ。あなたそれだけの人だったのかと。で済ましたくないわけですよ。別に自分の父親が特殊じゃないわけだし、あらゆる証拠から見てね、いわば凡百の類型といってもいいかもしれない。凡百の類型にしてもですよ、そういうことに対して、もうちょっと深く対象化する目というのを、あなた持ってなかったのかというふうな思いがどうしてもある。そういう失望したくなかったから、僕はずっと読まなかったんだと思うんだけれども。で更に一歩踏み込んで、それはありえない仮定なんだけども、仮説として、じゃあ俺だったら、その場にいたらどうしたのかと。無駄な設問しちゃうわけね。いないんだから。どうしたかなというふうに思う。部隊全員がやって、腸まではみ出した中国人を、自分もワーッて言いながら突くのかっていうことですね。でそういう書き方をしていくと疲れますよね。俺だったらどうしたかって。関係ないっちゃ関係ない。自民党の誰とかが言ってるようにですよ、自分が生きた時代じゃないことにね、責任は持てない、という言い方は、まあ容易にできるだろうけれども。僕はあんまりそういう言い方は、考え方というのは、知的ではないし、知的ではないどころか、物事を、起きたことを―ほんとに起きたのかどうかとか、あるいは自分の近親者たちが関わったかどうかということを、戦争一般の問題として流し込んじゃってね、溶け流し込んじゃって、記憶を薄めていくうちに、記憶がなくなってくということは、知的でないどころか、やっぱ物事の「知」っていうか、人間が知ろうとすることに対する冒?(ぼうとく)のような気がするわけね。むしろやっぱり分からなくても、たどっていくっていう作業に大事さ大切なものっていうのを、口はばったいけれども思いますよ。それでじゃどうなんだという、短兵急に自分に回答を求めてですよ、自分は父親の世代の人間たちと違って、それをやらずに済んだかと、といった場合に、極めて残念ながらですよ、この状況下において、僕の性格からいってですよ、それは仮定の話だから答えることってなかなかできないけれども、やったんじゃねえかなぁ、って思うわけですよね。やったか、やったんじゃなかろうか。やったのではないか。いや、やったな、ということですよね。その繰り返しで本を書いていくというのは、つらいことではあるけれども―つらかったし、疲れもするわけだけれども…。やっぱりやらざるをえない作業でしたね。
 

 
ナレーター:  「実時間(リアルタイム)」ということを、わたしはよくかんがえる。おもい悩む。ハッとする。
一九三七年の実時間に、わたしがもしも生きてあったならば、時代の空気に染まらずに、じぶんを表現することができただろうか。歴史が奔流するただなかの実時間にあって、じぶんはどうふるまったであろうか。
 

 
辺見:  こんばんは。何を話そうか考えてたんですけど、なんか忘れちゃいまして、困ったなと思ってるんですけれども。『1★9★3★7』というものを書いていて、ずっとあったのは頭の中に―まあ今でもそうなんですけれども、一つの構図があるわけですね。それは同心円の構図なわけです。それは戦後七十年以上過ぎた現在もですね、その同心円というものがどんどんどんどん広がりつつある。この会場にもその同心円が広がってきて、我々はその同心円の中から脱することを全くできないでいる、というふうに私は思うわけです。同心円の中心に、何が僕の頭の中にあったかというと、実はこういうことなんです。僕の父親も行った中国の戦場―華中でありまして、の農村でですね、日本の部隊が、ある日―まあ密偵というふうに、と思われると言うんですけれども、普通の民間人でしょう、農民でしょう。農民の母親とその息子を連れてきてですね、で兵隊がいるど真ん中で、そのお母さんと子供にセックスをやらせる、ということを強いた。この親子でセックスをすればお前たちを助けてやる、というふうなことを、隊長が言うわけですね。最後はどうしたかというと、石油をかけて、ガソリンをかけて焼き殺すわけですね。無造作といいますか。いろんなことを皇軍(天皇が統率する軍隊。旧日本軍の呼び名)というのは非常にクリエーティブというか、創意に満ちたことをやらかしちゃうわけですね。これは武田泰淳(たけだたいじゆん)(小説家。第一次戦後派作家として活躍:1912-1976)の短編の中に出てくるわけですけれども、僕も物書きの端くれとして、見ないでも書けることと、多少は見聞きしていないと書けないことがあるわけですけれども、これは見ていないと書けないだろうというふうに思うわけです。子供は母親を助けたいと思う。母親は子供の命を助けたいと思う。その一心から、かなり無理なことを余儀なくやってしまう。そうすると、それやろうとしてる最中か何かに、言ってみれば中国語の人を罵る最悪の言葉なんです、使ってはいけない言葉なわけだけど「ツオ・リ・マア」という上海語の言葉なんだけども、言ってみれば「motherfucker」と言ってるわけですね。こともあろうに、強要しておいてですよ。そこでこういうひどいことを戦争のせいにできたらどれだけ楽だろうかということを、母親が語るシーンというか、くだりがあるんですよね。その母・子に対して、みんな円を作りながら見てるわけですね。じゃあ武田の目は、その時どこにあったかというと、どうやらやっぱり円形のわりあい外の方で肩越しにチラッと見たりしたと思われるんですね。この同心円―記憶の同心円といってもいいし、あるいは罪の同心円といってもいいと思うんですね。この同心円を僕らは持ってるんですよ、記憶の中に。そういう記憶を持つ、近代史というものを持つ我々には、そのことの意味というのを、解析しないかぎりは、やっぱりある種のいかがわしさとして残らざるをえない。晴れがましいという光景の中にね、例えば南京陥落の、南京入城式というシーンがあるけれども、あれでみんながもう国中が沸き立って、晴れがましいわけですよ。で日本全国ね提灯行列をする。「勝った勝った」。「シナのチャンコロまた負けた」って言いながら、こうやって練り歩くわけですよね。その晴れがましさの奥底には、言うに言えないいかがわしさがあるんじゃないか、というふう思うんですね。歴史を実際の時間で見るということは、困難なことなんだなというふうに思うんですよね。だってこれが何年か後には、異様な風景として映るのかというふうに思うということですよね。でもそういうふうに想像するのが、何て言うのかなぁ、「知」というものじゃないのかな、「知る」ということなんじゃないのかなというふうに思うんですよ。それを失ったり、それをあとづけたり、回顧したりしようとする作業の意欲を失ったら、ある種の堕落というような気がするんですよね。
 

 
ナレーター:  ああしくじったなあ。わたしは「汝の母を!」の話を父としたことはない。すべきだったのに。父よ、どうだろう、あなたはみたことはありますか。かかわったことはありますか。あれを可能ならしめたものは、「戦争」の二字でかたづけられるものですか。わたしはついに一問も問うたことはない。
 

 
辺見:  僕は、この父親をあまり憎んじゃいないというか、軽蔑もしていない。無い物ねだりって、もちろんしましたしね。だけど、とても教えられることはありましたよね。特に父親が、復員後、僕ら子供を連れて市内にいくつもない映画館に小津安二郎(おづやすじろう)(映画監督・脚本家:1903-1963)の映画を見に連れていかれた記憶というのは、とても退屈だったんだけど、あって。父親は、小津の映画を―恐らくあの人は原節子が相当好きだったしね。ですから、ほとんど全部見てるでしょう。僕もほとんど見てるけれど。小津安の映画の静謐(せいひつ)さというもの、虫も殺さないような―とがったものが、一つもない。悪意もないものと、つい数年前の嵐のような出来事とは、どう結び付くのかというのは、いまだに判然としない。でも、あれがある種お互いに忖度し合ってね、お金払って映画見に行って、あの時はなぁしんどかったなぁみたいな形で、結局責任者も、加害者も、被害者も何もない世界というものと、戦後の時間というものをトロトロトロトロと作ってきた。多くの人間にとって小津安ってそうじゃないですか。戦争を経験してる人間にとって、自分の傷に塩を塗り込んでくるような映画じゃ絶対ないんだという思いで、あのニッポン美というのかな。人の内面に土足でズカズカと入ってくるようなことをしないわけでね。絶対しないですよね。絶対しないということのすごさというかな。めくり返さないという共同意思のようなものを塗り込んでいった。不都合なところは絶対めくり返さないようにしましょうや。「ああそうね、まあねああそうね」というふうに、笠智衆(りゆうちしゆう)(俳優:1904-1993)のあのセリフですよ。父親はないものを見てたんじゃないかなと思うんだよね。僕は小津の映画を見てると、蜃気楼みたいだなと思う時あるんだけどね。見てる側も、いつの間にかそういう何て言うのかな幻の記憶というものを投影されてしまう。見入ってたよ。いつも父親の横顔とか見て…。でも、何だろうな―僕もどっかで、かわいそうな人だなっていうのはあるんだよね。なんかね。かわいそうだよ、やっぱりね。敗戦後に、何を我々の父祖たちは考えたのか。東京大空襲の時のことを、これは非常に大変な証言になってると思うんだけど、堀田善衞の「方丈記私記」の中にありますよね。深川の方まで彼、見に行くわけですね。そうすると、たまたまそこに天皇が来てる。「臠(みそなわ)す」って言うんだけどね。難しい字だけどね。視察に来てるんですね。軍服姿で勲章つけてね。ピカピカの車に乗ってきてるわけですよ。その焼け野原から何かをこう拾おうとしてた人々がですね、ツルハシとか、そういう物を置いて、もちろん天皇なわけですから土下座するわけですね。何を言うのかというふうに思ったら、堀田善衞が驚いたというのは、その住民たちがですね、つまり被災者ですよね、天皇におわびしてるっていうわけですよ。「負けてしまって、こんな目に遭わせてしまって、陛下本当にすいません」とおわびしてると。これは何だというふうに堀田善衞は思う。そういう情念というのは、我々確実に変わりましたかと聞きたいんですよね。あんまり変わってないんじゃないの、というふうに思うんですよ。そこに触れてしまったらいけないという、ある種の不文律のようなものがあると思われるわけですね、僕には。忖度し斟酌する。そのことが、いかに逆に事態を悪くしてきたか、というふうにも思うんですね。この「イクミナ一九三七年」から、今年で八十周年になるわけです。その時間の流れというのは、どこかで断ち切られたのではないということであります。決して断ち切られてはいない。で、この軍隊の行進では、曲もですね、これはニュース映像を見ると分かるんですけれども、「抜刀隊(ばつとうたい)」という歌が、曲が使われているわけです。これは「進めや進め 諸共(もろとも)に 玉ちる剣抜き連れて 死ぬる覚悟で進むべし」という。必ず軍隊の分列行進の際には、この曲が使われる。
 
アナウンサー: 陸軍戸山学校軍楽隊を先頭に、光栄に勇む生徒一同は、順次御馬前に堂々の分列行進を開始。その旺盛なる士気を臠せたもう陛下には、天気殊の外、御麗しく拝し奉りました。
 

辺見:  出陣学徒壮行会というのがありますね。一九四三年に、明治神宮の外苑競技場。後の国立競技場ですけれども、東條英機(とうじようひでき)なんかが出席してですね、七万人の学生―学徒出陣の学生たちが分列行進をする。この時も「抜刀隊」が使われている。今も自衛隊の観閲式では「抜刀隊」の曲がかけられるわけです。これもほんとに不思議だなぁというふうに私は思うんです。時間はそのころから途絶えずに流れているのではないか、というふうに、私は考えています。これが今日のお話の私なりの一つのテーマだと思っているんですけれども、歴史の中の実時間、つまりリアルタイムにあって、自分とですね―自己と出来事を客観視すること。これがどれほど大変なことか、ということは至難の業であるということなわけです。私は、このモノを考える時の思考の光源。性交を強いられる母子を中心にして、無限に同心円を描いていくような思考の世界ということを考えるわけです。母子相姦を強いた日本軍の話から、トランプにいきなり持ってくのは強引だと思うんですけれども、ただおぞましさ、彼の理屈には、恐ろしいまでのおぞましさがある。それは何かというと、難民を受け入れないという。中東からの難民を総じて受け入れない。三か月受け入れないとか言ったりする。でも中東各国で難民を生み出してる原因は、お前さんたちにあったじゃないかと。中東各国でボコボコにして、ほとんど立ち上がれないようにまでした張本人はどこか? それはアメリカじゃないか、というふうに、私は思うんです。そのことを、つまりそういう歴史的な事実は一切無視して、難民モスレム(「〈神に〉帰依する者」を意味するアラビア語、イスラム教の教徒のこと)=(イコール)悪という形で問題を処理していこうとするそのおぞましさというんでしょうか。まさにポスト・トゥルースの世界の典型のような発想ではないかというふうに思うんです。そしてポスト・トゥルースには、敷延すればこういう意味もあるんじゃないかというふうに思うんです。かつて言われたような普遍的な価値。例えば「男女平等」とか、あるいは「人権」とか、あるいは、「博愛」とか、あるいは「宥和(ゆうわ)」とか、「寛容である」とか、そういう普遍的な価値というものを蹴飛ばす。普遍的な価値の時代というのは終わった、というようなニュアンス、響きもあるような気がするわけです。恐ろしい言葉です。私は、どこに自分の拠点を置くか。自分の思考の拠点を置くかというと、前に戻りますけれども、先ほどお話ししました、あの焼き殺された親子を、思考の無限同心円の中心に置いて考えるわけです。つまり物事を今の世界というものを、混乱に混乱を極めて、動揺に動揺を重ねている。どうなるか分からない。戦争―来たるべき戦争をも予感させる今の世界というものを、最も低い視線から眺めていたい。その低い視線というのは、無用なもの、役に立たないもの、その視線から考えたい。皆さんも、この会場の中の皆さんもそうでしょう。必ず僕らの関係者、僕らの親戚、子供、親、あるいはその友達の中には、ガンで亡くなってる人がいる。ガン以外で亡くなってる人、自殺者もいる。あるいは大変な虐待を受けてる人もいる。あるいは認知症の親を抱えてる人たちが確実にいる。必ずいると思うんです。その生活のリアルな現場から、世界を見上げてほしいというふうに思うんです。それが最も正確なものの見方ではないか、というふうに、私は思うんです。
 

 
聴衆A:  新聞やニュースでも触れられていないような言葉から、根源的なことを考えていく深いお話が聞けた。
 
聴衆B:  ふつうに日常の生活は続いていくとは思いますけど、深いところで全然何かが変わってしまっている気がする。
 
聴衆C:  起きてることから目をそらさないで、自分でそれを頭でいい方に解釈しないとか・・・。
 

 
辺見:  今の若い人っていう形での、う?ん、一般的に決めつけ方っていうの、俺にないわけじゃないけども、例外がいつもあるなと思うんですよ。びっくりするような例外がね。突然ね。「えっ!そんなに深いこと考えてたの」ということがある。結局そういうことと出会いたくて生きてるわけでね、例外と。取って付けたような正義の側に立たないでね。自分だったら、やっぱり自分も捕虜をぶっ殺したろうなとか思うんだけど、でも心のどっかでさ、ほんと0・01パーセントぐらいの可能性として、「俺はやらない」という可能性を持っていたいというふうに思うんだよね。でもそれは絶対やっぱり自分―国家でもない、人類でもない、誰が俺を許さないかっていったら、俺が許さないんだっていう。それしかないよね。
 

 
ナレーター:  いまさらに
父にあいたいとおもった
いまさらに
薄闇の瓦礫のむこうにやせこけた父がたたずんでいる
かれに声をかけようか
土手にふたりですわって
たばこでもいっぷくやりませんか
 

 
辺見:  実は彼が、ガンで亡くなる一週間ぐらい前に、僕はインタビューしたんですね、父親に。インタビューって変だけど。「何が一番楽しかった?」というふうに、メモ帳取り出して聞いたら、「外語(東京外国語学校)でボートを漕いでいた時が、一番楽しかった」って言うわけですよ。「えっ?」と思うわけ。戦後も戦後九十九年まで生きていたわけですからね。だから「それっきゃないの?」というふうに言ったんです。そしたら、それっきゃないとは言わなかったけれども、そのあとは駄目だって言うんですよね。それがちょっと釈然としないっちゃあそうなんだけど、何だか納得のいくような答えではあったんですよね。彼は、だから隅田川とか、戸田コースなんかで、ただまっすぐにボートをこいでいて、で対抗戦なんかで勝ったりしたということがとてもうれしかった。それとボートをこぐという動作、人間の身振りというものに、彼は素直にそれを自分を同一化することができたんだろうなというふうに思うんですよね。僕、分かるんですよ。僕も北上川とか、海で育った人間ですから。水の光っていうんですか。オールからはじける水と、それを反照する光とか、で、もうボーッとするぐらいの美しさがあるわけですよね。十代の父親が、どういう環境の中で生きてきたのか。全面的に「戦争」っていうと、我々のイメージは、もうしょっちゅう目の前をもう弾丸・大砲が飛び交ってるようなことを連想するじゃないですか。でも父親は、隅田川でボートをこいだりしてたわけですね。そういう―日常ってそうなんだなというふうに思う。日常って何でも正当化するというか、ちっともおかしくないんだよと。今だって、ちゃんと別に車も走ってるし、人も歩いてるし、おいしい物も売ってるし。テレビをつければ、何も難しいこと言ってるわけじゃない、みんな笑ってるじゃないかと。そういうふうに演出されている日常というのは、時間軸を変えると、三十年代、四十年代もあったんだなぁというふうに思うんですよね。父親が唯一挙げたのは、外語のボード部時代に、自分はボートこいでる時が一番楽しかったというふうに。まあはっきり言って、しみじみと言って。それに僕はかぶせるようにして、「あなたは中国で人殺したか」って聞けなかったね。「そっか」というふうに思ってですね。実はそれを用意してたんだけども、聞かなかったですね。答えてくれたと思いますよ。聞かなかった俺の方に落ち度があるんであって、言わなかった父親に落ち度があるというふうには思わないけどね。
 
     これは、平成二十九年三月十二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである