“しゃあない”を生きぬく
 
                     建築家 安 藤(あんどう)  忠 雄(ただお)
1941年、大阪生まれ。建築家。世界各国を旅した後、独学で建築を学び、1969年に安藤忠雄建築研究所を設立。1979年に「住吉長屋」で日本建築学会賞を受賞。独自な建築表現を確立し様々賞を受賞。世界的な評価を得た。93年日本芸術院賞、95年プリツカー賞、03年文化功労者、05年国際建築家連合(UIA) ゴールドメダル、10年ジョン・F・ケネディーセンター芸術金賞、後藤新平賞、文化勲章、12年リチャード・ノイトラ賞など受賞。東京大学工学部で教授、03年から名誉教授に。イエール大学、コロンビア大学、ハーバード大学、南カリフォルニア大学などで客員教授を務めた。そのほか、多くの公職を歴任した。阪神・淡路震災復興支援10年委員会の実行委員長として被災地の復興に尽力する。2000年に瀬戸内海の破壊された自然を回復させるため、中坊公平氏と共に「瀬戸内オリーブ基金」を設立。2004年より「美しいまち・大阪」の実現に向けて、大川・中之島一帯を中心に桜を植樹する「桜の会・平成の通り抜け」の活動に呼びかけ人として参加。2011年、東日本大震災復興構想会議議長代理。この東日本大震災で親を亡くした子どもたちの学びを支援する為、「桃・柿育英会」と称した遺児育英資金を設立。被災地の子供たちに、10年間にわたって支援を続ける。
 
ナレーター:  斬新なアイデアで常識を覆してきた建築家、安藤忠雄さん、七十五歳。
 
安藤:  基礎のない人間がいっぱいいる。配筋が汚かったらだめなんですよ。人間と一緒でね。人間を語れない人間がいる。コンピューターだけ見てるやつ。これは役に立ちませんよ、最後は。
 

ナレーター: 半世紀にわたって手がけた建築物は、国内外で三百余り。コンクリート打ち放しの大胆な造形で知られます。東京のランドマークの一つ、表参道ヒルズ。神戸六甲の集合住宅では、急斜面に建物を埋め込みました。そこには光と風を贅沢に取り込んだ暮らしがあります。アメリカの美術館では、コンクリートとガラス、そして水。現代的な素材と自然の融合を試みました。安藤さんは思いを巡らせます。そこに暮らし、集う人々が何を感じ、どんな人生を送るのか。大阪にある安藤さんの事務所。職場の動きを把握しやすい吹き抜けの下が、安藤さんの定位置。
 
安藤:  やっぱり増築を考えておかないと。だからここ全然考えてへんやんか。
 

 
ナレーター: 情熱を燃やし続ける安藤さん。しかしここ数年は病と向き合う日々です。医師から思わぬ事実を告げられたのは七年前のことでした。
 
安藤:  「癌がある」と言うんですよ。だいたい癌と聞くと、これはあかんのかなと。「どうするか」と聞いたら、「全摘だ」と。「胆嚢(たんのう)と胆管と十二指腸全部取りましょう」と。困ったなと思いましたけども、十月に取りました。これで無事にいったのかなと思ったら、二○一四年に、「また癌があるで」と言われまして。「どこにあるんですか」って。「膵臓(すいぞう)の真ん中にある」と。「これは膵臓(すいぞう)と脾臓(ひぞう)全部取らないといかん」と。「えッ!」。慌てましたよ。そして院長さんと外科部長さんに膵臓を全部取ると。私がよく聞いている話でいうと、すい臓の癌は大体亡くなる場合が多いので慌てまして。その時医者に「安藤さん、ちょっと慌てていませんか?」と言われたけども、「慌てますよ」と。膵臓を全部取ると。ひ臓も全部取ると。「今まで膵臓全部取って生きている人がいるんですか?」と聞いたら、「生きている人はいる」と。「けれども、元気になった人はいませんな」と、こう言われて、「安藤さんは元気だから膵臓もひ臓も取っても、まだ元気で行けるという見本をやってくれ」と。
 
ナレーター: 膵臓、脾臓など五つの臓器を摘出。本来なら元気に暮らすこともままならない状態です。毎日六回血糖値を測って体調をこまめにチェックしなければなりません。
 
安藤:  一九五ぐらいやったら、今ぎょうさんしゃべってるやろ。だから一九五ぐらいだったら、まあまあ。これに記憶するわけですよ。で、ボーダーラインがここなんですよ。ここまで、これくらいかな。このぐらいの間ならいい。
 
ナレーター: 血糖値に応じてインスリンの量を調整し、日に四度注射を打ちます。しかし病は悪いことばかりではないと安藤さん。
 
安藤:  病気なってね。何がいいかというと、前は大体十時から来て、夜の七時ごろまでノンストップで働いてました。一週間に一回東京へ行ったり、一か月に一回外国行ったりしてましたが、病気になってから、医者から「昼はね食事をしたあとに、一時間か二時間休憩した方がいいよ」と言われて、休憩するということを覚えた。その休憩する間に、前に読めなかった本を読みたい。ちょっと考えたいというのが、二時間あったらね、こんないいこともあったのかなと思うわ、私はね。私は一九四一年生まれですから、子供の頃いうのは、もう本当に東京、大阪みんな焼け野原ですよ。で私の近所も焼け野原でした。その中で育ちましたのでね、まあ何事も「しかたがないな、しょうがないな」というのはあった。あ、子供がケンカしてる。ケガした。しょうがないなと。小学校の時に、魚釣りに行く。私は、大阪の淀川っていう関西で一番大きな川で、ものすごい流れのきつい所でコイを釣りに行くわけですが、隣で釣っとってたやつが、私と同じ歳だったと思うけどな。ものすごい流れの強い所ですから、水に流されて溺れて死ぬ。自分の家の近所で車にはねられて死ぬ。だから人間っていうのは、まあ死ぬんやというのだけは、まあ知ってましたから、まあまあ癌になって死ぬかと。まあそれはしゃあないなというのがあったりして。しゃあないなというのは、なるようにしかならないと、人生は。だからなるようにしかならないと思ったら気楽ですよね。手術する。あかん。そうしたらしゃあないなと。というように、というようになるようにしかならない。
 

 
ナレーター: 「しゃあない」。安藤さんの人生のキーワードです。どうにもならない運命と向き合い、そこから生きる道を探してきました。一九四一年、安藤さんは双子の兄弟の兄として大阪に生まれました。生後すぐ後継ぎがいなかった母の実家に養子に出され、祖父母のもとで育てられることになります。祖父は、大阪港で軍の食料供給をするほどの商人でした。ところが、太平洋戦争での空襲や戦後の財産没収で全てを失います。安藤さんが物心付いた時、一家は下町の長屋暮らしを余儀なくされました。間もなく祖父が他界。祖母のキクエさんが、日用品の小さな商いをして、安藤さんを育てます。自宅があったのは、淀川近くの長屋の密集地帯。増水の度、決壊の危機にさらされます。しかし祖母は動じません。何事も「しゃあない」と受け入れる肝の据わった女性でした。
 

 
安藤:  強い人やったからね。大阪の淀川がぐっと湾曲している所でね。決壊するぞというのが、小学校の時に二、三回ありましたわ。「逃げてもしかたがないと。だからここにおれ」と言われて。「流れる時は流されるんやからな」というてましたから、そうやなと。そういうのも結構大きな影響を受けてるでしょうね。男みたいな人でしたね。だから今よく生活保護って言いますよね。昔は民生委員にかかったらいかんて。民生委員って言ったら、昔は生活保護を受けたらいかんというような意味で、それは駄目だと。何が大事かというと、人間は生きていくのには誇りがいると。自分がこれやったらやり遂げるという誇り。自分がこの街に生きてよかったという誇り。だから力は何かというたらね、経済ではないと。誇りだと。そこだけはきっちり。私は大阪で生まれて、御堂筋見て、中之島公会堂やら見て、あの辺りを見て、これは誇れる街だと思って、今も思ってますし、やっぱり約束はきっちり守りながら、自分の責任をしっかり果たしていかないといかんということに対する誇りだけはしっかり持ちましたね。だから文句ばかり言ったらあかんと。まあ成績はね、しかたがないと。私の成績の良かったんは運動会だけですよ。あの子は速いねと。近所で何か起こってるで。ケンカしているのは、また安藤さんの子やろと。そうしたらまたバケツで水をバシャッとかぶせるわけです。そこまでいかんと終わらない。
 
ナレーター: 安藤さんと祖母が暮らした長屋です。間口二間、奥行き八間の木造住宅。安藤さんは、こう回想します。
 
冬は風が走るが見えるぐらい寒く、
下着を一枚余分に着て寝る。
夏は暑く、風が抜けない。
夏も冬も腹立たしい家である。
 
この腹立たしい家での暮らしが、家を作る仕事に興味を持つきっかけとなります。
 
安藤:  小学校勉強しない。中学校はいつもね五番をキープしとったんですよ。みんな「五番をキープしてすごい」っていう。「違う。下から五番や」と。その当時の子供いうのは、五十人クラスが十四あったんですよ。それは七百人おった。その下から五番をずっとキープしながら、「安藤さんの子供はどないしよんのやろう」とこう言われてました。また近所の人たちも、大学にはほとんど行かなかったな。私の知る限りには行かなかった。私の家の向かいが木工所だったんですよ。いわゆる木型っていうやつで、木で形を作る木型屋さんだった。その隣が碁石屋だった。碁盤屋。大工さんもいると。結構ね、まあ楽しそうにやるわけですよ。大工さんなんか見てたら、結構楽しそうやなと。建築いうのが建ち上がっていくんですけども、今は建築ってプレハブで、建ち上がっていく姿見えないけれど、昔は大工さんが基礎を作って、基礎苦労しとるなと。う?ん、基礎の上に土台作るわけです。土台苦労しとるなと。柱立ち上がったらスーッと出来るんですよ、あれ。上は簡単なんやなと。柱作って、梁作っていくじゃないですか。作り上がっていくのを見ててね、これは面白いと思ったんですね。
 

 
ナレーター: そして、中学二年の時、建築家安藤忠雄の原点となる出来事が。長屋に二階を増築した時のことです。大工が屋根に上り天井に穴が開いた時。陰鬱な長屋に光が入り、開放感が広がりました。その時安藤さんは、心が解き放たれる強い力を建築に感じました。建築家になりたい。しかし大学に行く費用も知識もありません。まさに「しゃあない」状況からの挑戦でした。
 
安藤:  まあ建築の設計家がいいなと思いだしたのは、二十歳ぐらいですけれども。誰も「安藤さんの子供は、大学も行かずに、建築の専門教育もせずにやる言ってるけれども、ちょっとおかしいんじゃないか」と、まあ聞こえてきますよ。そうしたら、やっぱり大事なのは合理的で大阪人のいいところは意地があると。意地でもやってやると。まあどんなに高名になりたいとか、そう大きくしたいとか、そういうことじゃなしにね。やっぱり職業としてやってやると思いまして、だから誇りはやっぱり意地に支えられていると思うんですよ。で意地でも生きてやると、こう思ってね。私は大学へ行ってないし、専門学校へ行ってないから、建築士の試験受けるの難しいわけですよ。自分の方法でやらないかん。その時考えて、大工は―私は大工さんの働く姿を見ていてね、昼飯も忘れて働いておると。だからいつもパンをポケットに入れながら食べながらやっていたの見てて、そこでいろんなことを考えるわけです。食べんと、食べながら働いておるなと思ってましたので、私は二級建築士を受ける時には、アルバイト行っている先で、昼は食べないと。昼は、そのパンを持っていって食べながら勉強をすると、一時間。一か月たてば、三十時間勉強できると。一回受けたら一回目で通るわけですよ。一級建築士受ける時もそうしようと。昼は食べないと。みんな食べに行くわけです。あいつは変わっとるでと。昼飯も行かんと勉強しとるやないかと。あれで滑ったら面白いなと、みんな思ってたんですよ。で一回で二級建築士通って、次にまた三年後に一級建築士をまた一回で通る。自分なりの方法で勉強してたその方法の原点は、大工さんが昼飯を食わずに働いているという姿かな。そういうことをいろいろ見ながら考えてるわけです。なるほど。やっぱりね生きていくのに勘がいるわ。勘。だからこうしたら面白くいく。こうしたら面白い、考えてますわね。ちょうど神戸に三宮という所があるんですが、そこの地下街の工事が始まった時に、新聞社の社長に「建築好きか」とこう言われて「はい」と。「本読んどるか」と言われるから「読んでます」と。「建築の本、こんな本を読んでます」。「駄目だ」と。「建築というのは、人間の心の世界を作るのに、建築だけ読んでどないすんねん」と言われて、彼がいうたのは、「吉川英治の『宮本武蔵』いいぞと。それから和辻哲郎の『風土』これもいいよ」というようなことをいろいろ教えてもらうわけです。残念ながら教養ないから読んでも分からない。だけどまあ必死になって読む。まあその時に意地でも建築家というものになりたいと。どんなものか分からないのに、なりたいと思いながら読むわけですが、祖母がいうように、「責任を全うせい」というのは、「なりたいと言ったら、ならないとどないするんだ」と、こういうのもあったりして。大阪にいますから、奈良、京都近いのでまず奈良へ行くと。東大寺、法隆寺、唐招提寺、見に行くでしょ。あの時代の人たちが、どういうふうにしてこの建築を作っているんかなと思って、朝一番に日曜日に行く。夜までおるわけですよ、ズーッと。見てたら、自分でこうあの木をどこから運んできたのかな。あれはどういう加工のしかたをしたのかな。あの仏像は―仁王像はどういうふうにして―南大門には運慶、快慶の造ったものがあるんですが、それがどういうふうに造られてきたのかなと考えるわけです。まあ朝から晩までおるとね、三回目ぐらいに行ったらね、必ず出てきまたよ、坊主が。「何か用事か」と。彼らも泥棒にでも入ってきよるのかなと思って、思うわけですが。もう五回ぐらいになったらね、見れない所を見せてやると。やっぱり人の心は伝わっていくもんだなって、その時分わかりまして。東大寺、唐招提寺、法隆寺ズーッと見てましたよ。それが十代から二十五ぐらいまでかな。よく見に行ってましたね。そういうことをしながら、建築の勉強はそういう所でやろうと。その時にやっぱり古いものの大切さを、自分の体の中にまとわりついてきて、自分の心の中に住み着くわけですね。どの仕事もそうだと思うんですけど、心の中に住み着くものをどんだけ持ってるかと。
 

 
ナレーター: 建築で生きていくために、西洋建築の本場を巡り、体で感じたい。安藤さんは、二十四歳の時、アルバイトでためた資金でヨーロッパへ旅立ちます。シベリア鉄道を使って、モスクワへ。フィンランドでは白夜を体験。フランスでは現代建築の巨匠の息遣いに。ローマのパンテオンでは、光に魅せられます。ヨーロッパを縦断したあとは、アフリカを回ってインドへ。七か月間にわたるこの旅で、安藤さんは建築家への志を確かなものにしました。
 
安藤:  私は、祖母育ちで、おばあさん育ちだったんでよく言われましたよ。「お金大切にしろ」とこう言われていたんです。「お金大切にしろ」ということは、「お金をしっかり持っていても何もならないと。自分の体に身につけなければならない」とよく言ってましたよ。だから私、十八歳の時から働きだして、七十、八十万あったかなと思うんですが、ヨーロッパへ行こうと思ったのは、「お金をためても駄目だと。自分の体の中にしっかりと知識として残さないと駄目なんだ」と言われてたんで、全部遣いにヨーロッパ行きました。お金はちょっとしかない。言葉がしゃべれない。地理が分からない。常識は少しぐらいあっても、社会常識はない人間がヨーロッパに行くわけでしょ。事件ばっかり起こるわけですよ。シェ?クスピアではないけど、一回しか死なないのでね。まあ一回死ぬんやったら、アフリカ象牙海岸からケープタウンまで行って、マダガスカル島からインドへ洋渡ってずっと行ったことがあるんですけども、これはもう大体ね死に直面するようなことは大体まあ三か月に一回くらい起こるわけですよ。みんながわぁっと攻めてきたりね。我々はお金を持っているわけですから。アフリカ行ったら、ない人ばっかりじゃないですか。
 

 
ナレーター:  この旅で安藤さんに強烈な印象を与えたのがインドです。喧騒の中に身を置き、時がたつのも忘れ描きとめたデッサンの数々。未知の世界と出会った安藤さんの胸の高鳴りが伝わってきます。
 
安藤:  マダガスカル島からまあインドへ渡って。ボンベイ―今のムンバイに行くんですね。着いたらもうすごい風景なんです、下に。体の悪い人たち、ズッといて物乞いする風景を見て、すごい所へ来てしまったと。そのボンベイから三日ぐらいかかるんですよ、ベナレスいう所へ。鉄道の上に乗ってるぐらいに乗ってる。で四人がけぐらいの所には六人ぐらい乗ってる。鉄道でズーッとベナレスという所まで行きました。有名な所で、聖地ですから。だからそこで沐浴をしているやつ、死んだやつを焼いてるところ、流しているところ、その風景を見てですね、はあぁ…もうともかく二日ぐらいか三日ぐらいおりましたけども、ともかく声が出ない。人間というのは生きてても大変、死んでも大変。でまぁあちこちで焼いてるわけじゃないですか。炎がダァッと焼いて、あとはまた川に亡くなった人が流れている風景を見ながら、まあ若かったからかな、心穏やかではないと思って、またムンバイまで帰る。でそれからぐるぐると回って、タイから香港、日本まで帰ってきましたけれども。帰ってきた時に、船で神戸に着いたら一銭もなかったわ。百円ぐらいしかなかったような気がするな。でも、よう生きて帰ったと思いましたね。
 

 
ナレーター: 安藤さんは、その後も時間とお金が許す限り旅を続けます。南フランスでは、建築の精神性を深く感じ入ることになります。十二世紀に作られたロマネスク様式のル・トロネ修道院。修道士たちが、命を削るように石を積み上げて作った祈りの場です。きらびやかな装飾は一切ありません。森の奥深くにあるこの場所に、安藤さんは夕方過ぎにたどりつき、一夜を明かします。暗闇に差し込む光。安藤さんの靴音だけが響きます。安藤さんは、その時の思いをこうつづっています。
 
人間の精神の残像のようなものが確かに感じられた。
徹底して切り捨て、最小限の要素に還元された空間が、
いかに人間の魂を深く揺さぶるものなのか。
単なる感動を超えた
一つの建築の啓示となる発見だった。
 

 
一九六九年、安藤さん二十八歳の時、念願の設計事務所を設立。しかし、名もなく実績もない若者に、たやすく仕事はきません。空き地を見つけては、営業に飛び込むこともありました。六年後、安藤さんに運命的な仕事が舞い込みます。三軒長屋の真ん中を切り取って建て替えるという厳しい注文。敷地は、間口二間、奥行き八間。安藤さんが育った長屋と、ほぼ同じでした。悪戦苦闘の末作り上げたのが、「住吉の長屋」。長屋街に突如現れたコンクリート打ち放しの建物に、世間は騒然となりました。
 
安藤:  長屋っていうのは、こう切ると必ずつながってるんですよ。倒れる。若いというのはいいですね。倒れた時は倒れた時やと、思って切る。やっぱり倒れてきたね。ぐずっと。ぐっと起こしてやね、まあ失敗したからいうてね、うまくいかなかったからいうて、前を向いていたら人生ってのはうまくいかない事いっぱいあるわけで。前を向いていたら、また起こす。建てる。
 
ナレーター: 立ちはだかったのは、両脇を囲まれている長屋の暗さ、そしてギリギリの予算。安藤さんは、思い切って中央の天井を取り払い、吹き抜けの中庭を設けることにしました。光が中庭に降り注ぎ、ガラス張りにした両脇の部屋を照らします。雨の日は、トイレに行くにも傘を差さなければなりません。しかし、何にも代えがたい光豊かな暮らしが実現できました。長屋で育った安藤さんには、そのありがたみが身に染みていました。限られた条件にこそ、感じられる喜びがあることを知っていたのです。
 
安藤:  建築というのはね、私がやり始めた頃って六十年代の終わりごろから。モダンで、美しくて、機能的で、経済的に―経済的にというのか、経済をきっちり合わせて作るものだと思う。そういう時代だったんですよ。私は、建築なら住みにくかってもどないでもなるでと。「安藤さんこれ寒いけど、どうするの」というんですよね。寒いけど。真ん中が中庭ですから寒いのはもうしかたがない。「暖房どうしようか」と「ない」と。コストがないんですから、諦めろと。「どうするんですか?」「一枚多く着る」と。「もうちょっと寒かったら、もう一枚着たらどうですか」と。「もう一枚、もっと寒かったら…」「諦めたらどうですか」と。人生ってねやっぱ諦めもいるんですよ。みんなカバーして、モダンな快適な家は出来ないと思っていたら、出来てみたら評判悪かったわ。もうみんなに総攻撃ですよ。こんな寒い家、こんな使いにくい家と言いながら、ズーッと総攻撃を受けてますが、今まだそのまま住んでおられますので。その人にとっては快適。ということは、家もそれぞれの人たちにはそれぞれの家があると。それぞれの人たちのそれぞれの生活があると。もともと長屋の住まいの方ですから。後ろにトイレがあったことには間違いないわけで、だからその人にとってはそれほど驚くべきことではないけれども、第三者にとってはもう驚くべきことで。建築の仕事いうのはね―私、建築屋ですから―建築の仕事いうのは、向こうが依頼に来たやつを、どういうふうに解決するかという仕事なんですよ。自分の心の中の世界をそこの中へどう作るかという仕事ですから、相手が必ずいるわけですよ。だから来たやつ全部解決してやると思ってますよ。相手がいうには、「これ安藤さん使いにくいんじゃないか」と。その相手のいうことと、「都合の悪いことは全部聞いてませんよ」いうとるからね。相手に「聞いて下さいよ」。「いや、私は自分の都合のええ方ばっかり聞いてますから。しゃべってますから」いうて。ほんでいつもそこでぶつかり合いながら、なんか呉越同舟で、船は港に着きよるな。
 

 
ナレーター: 住吉の長屋は、物議を醸しましたが、斬新な発想が評価され、マスコミにも取り上げられるようになります。このころ安藤さん夫婦と三人で暮らしていた祖母キクエさんが亡くなります。
 
安藤:  七十八歳だったと思うんですけども。一九七七年一月二十四日に、ちょうどね二十日にですね、当時絶好調というか、一番建築界では一番評価の高かった『都市住宅』という本があるんですが、その本の表紙に四人名前が書いてあるんですね。一人は。これを見てひょっとしたら、この職業でやっていけるんじゃないかと、彼女は思ったんではないかと。で二十日に出たんですが、二十四日に亡くなったんですね。朝病院に連れていって。何か調子が悪い。お医者さんが、「これは大丈夫や、問題ない」と帰ってきた。我々は仕事に。電話かかってきて、亡くなったと。お医者さんが問題ないというんで帰ってきたら、亡くなったんで、お医者さんが「申し訳ない」というたけど、「それはお医者さんの問題じゃない。寿命だ」と思いましたけれども。その時に、彼女は考えたんだろうと。自分が長生きしていたら、足手まといになっていかんのではないかと思ったぐらいに、それまで元気やったからね。そういう人もいるんだなと。自分もそう生きて、死にたいと思ってますね。
 

 
ナレーター: 二年後、住吉の長屋は、日本建築学会賞を受賞。祖母と過ごした長屋での暮らしが、安藤さんが建築家として大きな一歩を踏み出す突破口となったのです。
 
アナウンサー: 大阪府茨木市の住宅地に建てられている光の教会の工事は、去年の五月から始まりました。建坪は僅か三十四坪です。
 
ナレーター: この番組は、更に厳しい条件の建築に挑む安藤さんの記録。限られた予算で、教会を作ってほしいという依頼でした。
 
アナウンサー: 安藤建築の命は、打ち放しのコンクリートです。このコンクリート工事が人手不足で思うように進みません。クリスマスまでに完成するはずの教会は、まだ半分しか出来上がっていません。
 
安藤:  大工さんがいない。
遅れてますよ。
遅れているというのか、職人さんがみんなお給料の高い所へ行くし、
大きな建築会社に行ってしまうから
われわれみたいに弱小チームにいない
いくら電話をかけても
「お伺いします、お伺いします」と言って、
朝起きたら、違うほうへ走っていってるみたいな感じやな。
困るなあ。
もうこれからは、このクラスの建物って、
コンクリートでは建てられないやろうな。
大工さんいなかったら建てられへんもんね。
できるだけローコストのやつを
だから坪二十万とか、三十万ぐらいの家を作りたい。
「その代わり屋根はないよ」とかね(笑い)。
「やっぱり屋根はいります」と言うしね。
そうしたらこの値段だと困るけど。
そのギリギリのところでもう一回考えてみたら、
建築ってもう一回何かできるのかなと思うんですけどね。
 

 
安藤:  コスト三千万ぐらいやったかなと思うんですけどね。で設計した。出来ないんですね。コストが合わない。う?ん、これなら屋根がないと。私、屋根なかってもいいな思ったんですよ。屋根なかったらやめて、また十年ぐらいで、みんなで浄財集めて屋根つければいいと。それまでは屋根のない教会もいいんじゃないかとぐらいのつもりで話をしてました。えらい怒られましたよ。「屋根なかったら、傘差して礼拝するのか」とこう言われた。だけど―囲いがあればいいんじゃないかぐらいに思っていましたからね。その時にやっぱりその中でやっぱりそこへ行けば、感動があるというのは、建築の感動じゃないんですよ。人々が集まってくることによる感動。人間というのは、やっぱり一人では生きていけないわけですから。また一人来る。また一人来る。この囲いの中に、五人、十人、二十人と入ってきた時に、お互いにぬくもりを感じられるような教会になればいいと思ってましたね。それがまあやっていったら屋根がないと。たまたまその時の建設会社の社長さんが、「屋根がないのなら困るから、自分は寄付したい」というので、自分のお金でやりましょうと。で屋根が出来たんですけれどね。
 
ナレーター: 人々が集い、祈りをささげる場を作る。そこにはシンボルが必要だと思い至りました。
 
安藤:  光ということと、十字架ということを考えまして、「光の十字架」というので、この真ん中に十字架を、十字に光をあててやろうということを考えたんですね。そこで、その光がこうサッと光が入ってくる。その時最初に考えたのがね、床に十字が映るだろうと。そして時間によっては、夕方は天井に十字が映るだろうと。そして、形が光の形だけでありまして、形としてはないものですから、その光の形が床にも天井にも映り出すことによって、いつもいわゆる十字架が光っていると。そこに行けば何かあると。何かあるということは、これから何かを探すのは個人個人ですから。だから何かをここで探すためには、十字架はあってはいけない。だから光の十字架というのを考えついたわけですけれども。
ナレーター: コンクリートの壁のスリットから差し込む太陽の光。これが光の十字架が照らす「光の教会」です。装飾は一切ありません。壁はコンクリート。床と椅子は工事用の足場材で出来ています。究極の祈りの場を突き詰めていった安藤さん。当初は壁のスリットには、ガラスを入れず、純粋な光さえあればよいと思っていました。
 
安藤:  光の十字架がこうあるでしょ。「ガラス入れろ」と。私は「ガラスいらん」と。「寒い」と。「あなたは機能を全然考えてないんじゃないか」と言われて、もう徹底的に攻撃される。私も分かるんですよ。だけど光の十字架の中に入ることによって、みんなで共有できりゃいいんじゃないかという心の住みかなんじゃないかというのが、ル・トロネの例を見てたんで、あれは〈心の住みか〉が建築なんだと思っておりましたので、光の教会も心の住みかだから、寒いとか暑いとかと言わんといてくれと。まあ怒るのは当たり前ですよね。 分かっているけれども、私はそういうてました。そのうちにあの光の教会の十字架だけは、あのガラスだけは取ってやりたいと。やっぱり粘り強くいかなあかんからね。行くでしょ、我々。私はめったに行かない。「安藤さん、ガラスは取りませんよ」。「分かってます」言いながらずっとやり取りしている。だから意地でもどこかで作ってやりたいと思ったのは、ル・トロネもセナンクもみなあの辺のロマネスクの…ガラスないですからね。いわゆる板ガラスというのは、その時なかったわけですから。やっぱりそういうことを考えると、人が集まってきてお互いに共に生きているんだということを共有できる場所を作りたい。それのシンボルが光なんですね。それを集めるのが光。人間がそれを包み込むという。そして日曜日になると、礼拝行って、今週も元気でよかったという場所があればいいなと思ってますね。今のような時代こそいるんじゃないかと思いますね。
 

 
ナレーター: 一九九五年、安藤さんは建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞。誰に学ぶでもなく、独自の視点と世界観でユニークな建築を作り上げてきたことが高く評価されました。同じ年パリのユネスコ本部に作り出した「瞑想空間」。世界平和のための「祈りの空間」です。床には広島市から寄贈された被爆した石をはめ込みました。安藤さんの仕事は建物だけでなく、自然を巻き込む環境設計へも広がっていきます。瀬戸内海に浮かぶ直島(なおしま)の建築群もその一つ。自然と同化するため、建物の大部分を地中に埋め込みました。各所に開口部を設けることで、地中の暗闇から光あふれる空間へ。安藤流の感動が散りばめられています。地中に埋もれ、見えなくなった建築。そこに安藤さんは無限の可能性を感じています。表層的な形の問題は、もはや言及されない。問われるのは空間の是非。わたしなりの〈建築の原点〉の探究である。建築は形ではなく、人々が集い心を寄せる空間。そんな安藤さんの思いを、今も記憶にとどめる模型が残されています。ニューヨーク世界貿易センタービルの跡地。再開発のコンペに提出したプロジェクトです。二○○一年九月十一日、アメリカ同時多発テロ。翌年安藤さんは現場を訪れています。これほどの怒りや憎しみが建築に向けられたことに衝撃を受けました。
 

 
安藤:  たくさんの人たちが亡くなっているということを考えると、ここに来るといろんなことを考えますね。テロは許されることではないけども、アメリカの経済社会で、グローバリゼーションで世界を均一化してしまうということに対して、世界中の人たちの叫び声が聞こえてくると。特にアフリカとかアジアとか、南米とかという人たちの、それぞれの民族国家の叫び声みたいなことが聞こえてくるような気がしますね。二十一世紀の中頃には、百億の人間が生きていこうとするわけですから、ともに生きていくことを考えなければならないと思うんですね。
 
ナレーター: 安藤さんがコンペに出した案です。高層ビルの谷間には何もありません。そこにあるのは緩やかな緑の丘だけ。安藤さんは、芝生を植え、人々が座り語り合える場を設けようと思いました。人の対話による「ただ一つの地球」という思いを込めて、地球を埋め込んだイメージで広場の大きさを割り出しました。人の手によって引き起こされた取り返しのつかない現実。それを受け止め、次にどう生かすのか。
 
安藤:  あそこでたくさんの人が亡くなっているのならば、あそこに人が集まる場を作る。広場を作る。下に聖堂を作る。上には広場を作ることによってですね、まあこういうことがあったということを地球の中の人たちが、世界中の人たちが忘れないためにもね。建物建てたら忘れてしまえますから。だけど開発会社に言わせると、あれはもう一回建物を建てないと経済的に合わない。経済的に合わないというよりも、一つの場が大きな地球の心の場になった方がいいんじゃないかという話を考えて模型を作りましたが。一部はなるほどいいなという人もいましたが、ほとんど何を考えておるんだと言われました。だけど私はあそこには建てるべきではないと。あれだけのことが起こったわけですから。グラウンド・ゼロを通して、世界中の人たちの平和を考える場所にした方がいいと思ったんですけどね。「そんなのんきなことをいうてる場合じゃないだろう。あなた建築家だろう。建てないかんのじゃないか」とこう言われたんですけども、建てるより大事なことがいっぱいあります。
 

 
ナレーター: 混沌とする時代にあって、建築家に何ができるのか。安藤さんは問うてきました。大阪の大川沿いから中之島一帯に続く満開の桜。安藤さんは桜の名所・造幣局の通り抜けを広げようと行政に提案。予算を捻出するため、呼びかけ人となって市民から寄付を募ります。集まったのは五億二千万円。三千本の桜が植えられました。
安藤:  私は、「建築家なのに、何で大阪にそんな桜の通り抜け作って、またお金を、募金を集める大変な邪魔くさいことをするんだ」と言われますが、意外とそっちの方が建築じゃないかと思ってますけどね。建築というのは、人間を包み込みながら、人間が生きててよかったということを感じる場所だとするならば、それも建築。光の教会のように、囲いの中に入って光を感じるのも建築。どっちも建築なんじゃないかと思ってますよ。だけどまあ多くの人たちは、すごいエネルギーいりますから、無駄なエネルギーじゃないかという人もいますね。所員からは猛反対ですよ。「邪魔くさいことやめて下さいよ」と。「我々は設計事務所じゃないですか」と。「お前も入れ」いうたら、「いや私は遠慮さしてもらいます」いうんですけれどね。だけど、これは人それぞれ考え方が違うわけやから、それでいいんじゃないかと。それならば桜のシーズンに、多くの人たちが通り抜けの所を歩きながら、生きていてよかったなという気持ちになるならば、それはそれで建築なんじゃないかと思ってますが。だから本当は街いうのは、ここに喫茶店あると。ここに病院あると。レストランと。図書館と。これをウロウロできるように作るべきや思うんですよ。だけど機能的でいうと固めるわけじゃないですか。固めた方が便利。だけど点々としたら楽しみながら歩いていけると。今日面白かったなと。そういうことがいっぱいあるゆっくりした社会なるんですよ。もう売り上げと利益というてる時代は、う?んなくなったんじゃないかと。
 

 
ナレーター: 今も病と向き合いながら建築に心血を注ぐ安藤さん。竣工間近のニューヨークのプロジェクトを描いてくれました。百年前のビルの最上階。リノベーション改築の仕事です。
 
安藤:  まあいうと、屋上に緑の壁がこうあってね、ガラスがこうあって、下からこう上がってきて、ここに緑の壁があって、ここにニューヨークの超高層がバーッとこう。こう見える家なんですよ。
 
ナレーター: 依頼は最上階だけでしたが、安藤さんは天井に穴を開け、屋上にガラスの部屋を付け加えることを提案しました。摩天楼を借景にした屋上庭園。古い建物に新たな命を吹き込もうとしたのです。限られた条件を逆手にとって、そこから新しいものを生み出す。建築家安藤忠雄の人生は続きます。
 
安藤:  大学も行けずに、専門学校も行けずに、学歴もなしに大阪の片田舎の―片田舎って、下町の中で育って、ハンディキャップあると思う人もいますが、しかたないわ、それは。そこに生まれて来たんやから。で学力なかったから大学行けなかった。経済的に能力なかったから行けなかった。いろいろ理由があって行けなかっただけの話であって。「しゃあないな」というのは、なるようにしかならないと。人生は。だからなるようにしかならないと思ったら気楽ですよね。手術する。あかん。そうしたらしゃあないなと。というように、なるようにしかならない。だからどうなるかは分からないというのは、私も思ってますから、まあまあしゃあないなと。だから仕事がなかったら焦る。しゃあないでしょう。来ないんだから。うまくいかない、しゃあないでしょう。自分らに能力なかったわけやから。だから我々も、世界中でコンクールをよくしますよ。十人ぐらい呼んでやってます。負けた。しゃあないなと。相手のも見ます。相手の方がよく出来とるわ、勝った方は。また勉強します。負けたやつが勉強できる。勝ったやつは勉強しないからね。そういう面ではなぜならば、十人おったら一人しか勝たないんだから、十分の一やもんね。負けて当たり前や。しょうがないなと。私は事務所所員コンペしますけども、負けて分もしゃあないなと思うわけですね。次ないのかと。だから「しょうがないな次」とこう思わないと。だからああ手術せないかん。しゃあないな、次どうしようかと。こう考えないといけないと思いますね。
 

 
取材者:  人生が後半にさしかかってくると、これから人生をどうやって終わらせようかとかって思う方もいますけど、安藤さんはそういうことを考えますか?
 
安藤:  人生終わりないの、終わったら終わりなんねん。終わるまではやっぱり楽しく前向きでいきたいと思ってまして。どの人にも前向きに考えりゃ、前はいっぱいあるわけですよ。多くの人たち言いますよね、「コロリと死にたい」と。そら当たり前よね。人に迷惑かけずにコロリと死にたいと言いますけども。そのためには前向きで、自分の全力の限り走ってたらエンジン切れるんですよ。いいじゃん、それで。もののある形のあるものは必ず崩れていくわけですから。何でも消えていきますよ。消えていかないものはないと思いますけども、できればその心の中に残るものを作りたいと思ってますね。
 
取材者:  一番最後に作りたいものがあるんですか?
 
安藤:  いや別にそれほどないですが、まあ小さいもの―「住吉の長屋」って小さいんですよ。十八坪ぐらいかな。鴨長明(かものちようめい)ではないですけども、四畳半あればいけるんじゃないかと思うけど、それにはトイレと台所が要りますけども、小さいほど良いですね。だから大きなものいうのはなかなかコミュニケーションとりにくいもんですから。最後はやっぱり小さいもの作りたいなと思いますけどね。
 
これは、平成二十九年三月二十六日に、NHK教育テレビの
「こころの時代」で放映されたものである