小さき人々≠フ声を求めて
 
                ノーベル文学賞作家 スベトラーナ・アレクシエービッチ
1948年、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に生まれる。ベラルーシ人の父とウクライナ人の母をもつ。父親が第二次世界大戦後に軍隊を除隊すると、ベラルーシ・ソビエト社会主義共和国に移住し、両親は教師となった。ベラルーシ大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後はジャーナリストとして活動。聞き書きを通して、大事件や社会問題を描く。第1作『戦争は女の顔をしていない』では、第二次世界大戦に従軍した女性や関係者を取材。第2作『ボタン穴から見た戦争』では、第二次世界大戦のドイツ軍侵攻当時に子供だった人々の体験談を集めた。1988年にはソヴィエト連邦の介入下にあるアフガニスタンを取材し、『アフガン帰還兵の証言』でアフガニスタン侵攻に従軍した人々や家族の証言を集めたが、一般のソヴィエト国民に隠されていた事実が次々と明らかにされ、軍や共産党の新聞はアレクシエーヴィッチを一斉に攻撃した。『チェルノブイリの祈り』では、チェルノブイリ原子力発電所事故に遭遇した人々の証言を取り上げているが、ベラルーシでは未だに事故に対する言論統制が敷かれている。2003年に来日し、チェルノブイリを主題に講演を行なった。ルカシェンコ独裁政権の圧力や言論統制を避けるため、2000年にベラルーシを脱出し、西ヨーロッパを転々としたが、2011年には帰国した。日本では福島第一原子力発電所事故発生後に起こった脱原発の流れの中、『チェルノブイリの祈り』が岩波現代文庫として再刊されたことをきっかけに名が知られるようになった。2015年、ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞した。
                き き て 作家・東京経済大学教授 (ソ)  京 植(キヨンシク)
 
ナレーター:  ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさん。自ら「小さき人々」と呼ぶ名もなき市民の声を集め、独自の証言記録文学を打ち立てました。
 

 
アレクシエービッチ:  私が耳を澄ますのは、心の歴史、暮らしの中にある魂です。
「大きな物語」が見下ろし、素通りする声です。
私は、こんお演壇に一人で立っているのではありません。
私の周りには声、たくさんの声があるのです。
 

 
ナレーター:  アレクシエービッチさんがつづってきた「小さき人々」。それは第二次世界大戦の戦場に送られた女性。ソビエト連邦によるアフガン戦争で人生を裂かれた若者。ソ連崩壊に絶望し自殺した老人やチェルノブイリ原発事故の被災者。これらの証言は、国家がつくる「大きな物語」の裏側に隠された真実を暴き出し、出版禁止などの圧力を受けてきました。厳しい執筆活動を続けながらも、なぜ「小さき人々」の声にこだわってきたのか。ノーベル賞受賞の十五年前、二○○○年に来日したアレクシエービッチさんは、作家の徐京植さんとの対談で、次のように語っています。
 
アレクシエービッチ:  私がまだ学生だった頃ですが、本を買うのはとても大変で、いつも書店に並ばなければなりませんでした。ある時私がそんな行列で並んでいると、前の方に一人の女の人がいて本を選んでいました。売っているのは、ソ連軍の指揮官や女優など、有名な人についての本しかありません。その女の人は私にこう言ったんです。「こんな本読んでどうなるの? 有名人やきれいな女優の話ばかり。私は私に関わる本が読みたいわ。子供がいて給料も安く、夫は飲んだくれで愛もない。でもこんな人生も無駄じゃない。有名人と同じで、いろんな出来事があるのよ」。その時私は思ったんです。こんな「小さき人」にこそ、人間の本当に大切な事が隠されているんじゃないかと。最初は男の人の戦争体験を聞いて本を書くつもりでしたが、彼らの話には興味が持てませんでした。敵をいかに英雄的に殺したかという話ばかりなのです。では子供たちの目から見たらどうだろう。私の本『最後の生き証人』。この本の中には、当時五歳の子供だった女性の次のような証言があります。その女性は、両親が既に亡くなり、孤児院に入っていました。孤児院の子供たちは、いつもお父さんお母さんを待っています。強いお父さんが迎えに来る日を。ある時黒い服の男たちがやって来るのが窓から見えました。実は彼らはナチスの親衛隊だったんです。でも子供たちはみんなその男たちを見て「パパだ。パパが来た」と叫びました。子供たちはその後殺されました。輸血用の生体実験のために血を抜かれて。殺しに来た者を「パパ」と呼ぶ子供たち。こんな人間の物語は、大きな物語には登場しません。書記長や大臣、皇帝や英雄の物語だけが残るんです。しかし、本当に興味深いのは「小さき人々」。時代の悲劇は、こういう人々を押しつぶしていくからです。
 
 
ナレーター:  アレクシエービッチさんと「小さき人々」について語り合った徐京植さん。在日朝鮮人として、徐さんもまたマイノリティーの問題や歴史の闇に消えていこうとする人々の人生に光を当て執筆してきました。徐さんの二人の兄は、日本から韓国に留学中、軍事独裁政権に反対する民主化運動に加わり投獄。拷問を受け、焼身自殺を図った兄の獄中生活は十九年に及びました。その体験の中で、徐さんも数々の「小さき人々」に出会いました。
 
徐:  私の記憶の中にある「小さい人」についてちょっとお話をしたいと思います。私の兄が二人、長い間軍事独裁政権時代の韓国で投獄されていました。一九七一年からほとんど八○年代の終わりまで投獄されていたわけです。その時に私の母(呉己順)が、獄中に面会に行って、そして兄たちの必要なものを差し入れて帰ってくるわけです。日本から韓国へ行き、韓国の田舎町の刑務所(大田矯導所)まで行く大変長くてつらい旅を、何十回となく母がやったわけですね。で家族が面会に来ると、刑務所の当局は家族に対して、自分の家族である―夫であったり、息子であったりする政治犯を転向するように説得させようとするわけですね。「お前が転向しないで抵抗しているために、自分たちはこんなにつらい」と。「早く転向して、国家に忠誠を尽くして出てきてほしい」ということを言わせようとするわけですね。あるおばあさんがいまして、そのおばあさんと母とが同じ政治犯の家族同士として待合室なんかで、しょっちゅう会うもんだから友達になるわけですね。そのおばあさんに、「転向するように言え、転向するように言えって言われるんだけど、どうしたらいいだろうか」って、うちの母が相談しましたら、おばあさんは―彼女の息子が政治犯なわけですけれども―「転向しなさいよ、転向してちょうだい≠チて言いながら、こういうふうにウインクをするんだ」というふうに、そのおばあさんは言ってたそうなんですよ。自分の息子は、母親がウインクする顔を見て、母が本当には何を望んでいるのかということを知ると。干し柿のような顔で、ウインクをして。それは息子だけじゃなく、うちの母も励まし、母もそのことを受け取る感性があって、そのことを大変ユーモラスな出来事として、笑いながら語る。そういう人々、そういう「小さな人々」っていうのが、少なからずいるんですね。そういう人々に私は出会って、何とかこの人々を描きたい。そういう「小さな人」たちのために、つまり教育を受けることができず、そのような経験を自分自身の手で書くことができない母のために書かなきゃいけないっていうふうに思ってきました。
 
アレクシエービッチ:  今の干し柿のような皺くちゃの顔のおばあさんの話を伺って、改めてドキュメンタリー文学は、これまでとは違ったものにならなければいけないと思いましたし、私の考えは間違っていなかったと感じています。事件や日付など、数字のデータばかりを並び立てるようなものではなく、そのウインクのおばあさんの話は、それだけでその場の状況の恐ろしさを余す所なく伝えていると思います。私の育ったベラルーシには、戦争の文化、戦争の記憶がたくさん残っています。アフガン戦争の本も実は書きたくありませんでした。以前、戦争の本を二冊書き、あんな悪夢にはもう耐えられないと感じていました。ところが軍事ヘリコプターが落ちて戦死した人たちの葬式を、共同墓地で見た時のことです。軍楽隊が演奏し、大人がたくさんいて、将軍や党の官僚がスピーチしています。そんな中、小さな女の子だけが棺にしがみつき、泣きながらか細い声で叫んでいました。それは単調な歌のように響いていました。「パパ約束したじゃない。帰ってくるって。約束したじゃない、一緒に劇場に行こうって。パパ一緒に自転車に乗るはずだったじゃない」。大人たちは黙ったまま、お構いなしに儀式は続きます。その時突然私は思ったんです。〈黙ってはいられない。本を書かねばならない。私はこの沈黙に加担してはならない〉。あそこで誠実だったのはあの小さな女の子だけだったんです。
 

 
ナレーター:  一九八六年に起きたチェルノブイリ原発事故。国家の科学神話が崩壊。人々に新たな苦しみをもたらしました。事故当時の風向きにより、大量の放射性物質が降り注いだベラルーシ。汚染のため五百以上の村が廃村になったと言われています。アレクシエービッチさんのふるさとの村オソベツ。原発事故は、アレクシエービッチさんの人生も翻弄しました。
 
アレクシエービッチ:  私の両親は、ウクライナとの国境に近い村に暮らしていました。爆発したチェルノブイリ原発から百キロ余りの地域です。医者だった妹は、チェルノブイリの近くで働いていました。その後、妹は癌を発病し亡くなりました。もちろん私自身も「小さき人々」の一人です。ですから、私も当事者として、この生活を記憶にとどめたいのです。
 

 
ナレーター:  アレクシエービッチさんは、十年間に及ぶ取材をまとめ、証言集『チェルノブイリの祈り』を発表。そこには、放射能が人々から故郷を奪い、子や孫の世代にまで暗い影を落とす過酷な現実が記録されています。出版から十五年が過ぎようとしていた二○一一年。再び巨大原発事故が日本の福島で発生。チェルノブイリの悲劇をつぶさに見てきたアレクシエービッチさんは、強い衝撃を受け、福島の事故から一か月後日本に宛てて長文のメッセージを送りました。「私は過去について書いていたのに、それが未来のことだったとは」。以来、福島の「小さき人々」に会いたいと考えてきたアレクシエービッチさん。二○一六年十一月来日が実現しました。十六年ぶりに再会した徐京植さんは、核と人間の問題や二十一世紀の世界について、更に語り合うことにしました。

 
徐:  二十世紀にお会いした時は、チェルノブイリ原発、その他世界中でさまざまな大問題があったわけですけど、二十一世紀になっても、そのような問題が終わらないどころか拡大しており、あなたのご著書『チェルノブイリの祈り』にも書かれていることですけど、チェルノブイリで起きたことはチェルノブイリだけで起きていくんではなくて、日本も含む我々の人類の未来というものを、ここにもうさらけ出されたというふうに感じた人たちもいます。
アレクシエービッチ:  そうですね。私はチェルノブイリで打ち捨てられた何百もの村を回った時のことを思い出します。先祖の墓も置き去りにされました。人々は年に一度しか親の墓参りも許されていないのです。ある時、避難区域の住民を、軍人たちが立ち退かせようとしているところに居合わせたことがあります。ある家の前でおばあさんが、「私は行かない」とイコンを抱いています。その場で唯一の女性だった私を見つけると、こう言うのです。「なぜ出て行かなきゃならないの? 見てごらん。木に花が咲き、たまねぎは芽を出し、鳥も舞ってる。こんなに小さい蚊だって飛んでるじゃない。私は戦争で、爆撃や銃弾の中を生き抜いたのよ。なぜ今、家を捨てなきゃならないの?」。私は理解しました。チェルノブイリは、ある世界と別の世界を分ける境界線なのだと。私は汚染地域に医者と行ったこともあります。体内に蓄積された放射線量を測る専用の椅子型の計測器を運び、子供たちを調べました。チェルノブイリの周辺に健康な子供はいません。かつての戦争では、戦後生き残った人々は、健康な子供を産み、その子は次の世代に命をつないだ。しかし、チェルノブイリでは事故のあと、何年もたって生まれた子が、何の罪もないのに命の危険にさらされてしまうのです。飛行機にはフライトレコーダーがありますよね。ベラルーシ人は自らを「人間フライトレコーダー」だと言います。他の人類の未来のための情報を記録しているのだと。原子炉の中に砂を投げ入れて消火するという活動に当たったあるヘリコプター乗りがいました。彼ら全員が死に至るほどの放射線を浴び、その男性も、他の人たちと同じく、死にゆく身となりました。彼は「早く来てくれ」とものすごく私を急がせ、こう言いました。「書き留めてくれ。僕には理解できなかった。あなたもそうかもしれない。でもやがて人々は理解する。早く証言を残さなければ」。私はチェルノブイリで同じような言葉から話し始める人々の声を、何度も何度も耳にしました。「こんなことは誰も話してくれなかった」「こんなことは見たことがない」「こんなことはどこにも書かれていない」。つまり過去のアーカイブにもないし、トルストイやドストエフスキーも書いたことがない出来事なのです。チェルノブイリの消火に当たった消防士の妻のこんな話もあります。彼女の夫は、激しく放射線を浴びて、急性放射線症になりました。そうなると、人は二週間で死んでいくのです。消防士の妻や母は、夫や息子に「近寄ってはいけない」「それは自殺行為だ」と言われていました。でも結婚したばかりで、夫をとても愛していたその女性は、あらゆる手を使って病院で看病しました。医者たちは何度も彼女にこう言いました。「彼のことは忘れなさい。近づいてはいけない。これは愛する人ではなく、除染の対象物なのだ」と。こんなことを誰が読んだことがあるでしょうか。私たちは全く新しい現実に直面しているのです。
 
徐:  チェルノブイリ原発事故のような出来事は、ソ連だから起きた。ソ連の技術水準とか、社会体制の持っている問題であるというふうな解釈は、日本でもされました。日本では起きない安心だという話がされておりました。ところが日本でも、そのことが起こり、それを巡る国家とか、人々の反応も非常に似ているということに気付かされたわけです。福島の事故は完全にコントロールされているという。それは事実に合ってないということを、多くの人は気付いているけれども、むしろそっちの言葉の方にすがりたい。それを信じたい。自分自身をだましたい。そういう心理に支配されてるというふうに見えます。
 
アレクシエービッチ:  社会的存在としての人間は、世の中のヒエラルヒーを信頼しがちです。お偉いさんが言うことを。例えば首相が―私たちのところでは、書記長が「コントロールしている」と言う。でも事故直後、被災地にいたハチミツ農家は、なぜミツバチが十日間も巣から姿を現さないか分からなかった。ミツバチは人間には聞こえない何かを聞いていたのです。しかし同じ時、人間の子供たちはサッカーをしていた。政府が「アンダーコントロール」と言っていたから。でも、そのコントロールとは一体何か? 原子炉が消火されても、現地の関係者は、「中で何が起きてるか知らない」と言っていました。福島も同じ状況ではないかと思います。
 

 
ナレーター:  原発事故で避難を余儀なくされた「小さき人々」の声を求め、アレクシエービッチさんは福島に向かいました。南相馬市(みなみそうまし)小高区(おだかく)。原発事故が起きる前は、一万二千人が暮らした町です。小高は福島第一原発から二○キロ圏内に位置し、全ての住民が避難しました。避難指示の解除は五年後、二○一六年七月のことでした。小高でアレクシエービッチさんが最初に出会ったのは、小高商業高校の元校長齋藤貢一(さいとうこういち)さんでした。
 
齋藤:  齋藤です。ようこそいらっしゃいました。
 
ナレーター:  震災発生当時、齋藤さんは教職員と共に津波に襲われた住民の救援に奔走しました。教え子の中に津波で暗い海を一晩中漂い、翌日奇跡的に生還した女生徒がいました。彼女の話を聞き、齋藤さんは津波に原発事故が重なると、救えなくなる命があることに気づきました。
齋藤:  夜の海の中で、例えば赤ちゃんの泣き声とか、それから助けを求める声とか、そういう声が耳に焼き付いて離れないらしいんですね。
 
アレクシエービッチ:  そういう方は、何百人もいたのでしょうね。
 
齋藤:  そうですね。その生徒は、たまたま二○キロの外の避難しなくてもいい場所に流れ着いたので助かりましたが、二十キロ圏内の場所は、すぐ避難ということになってしまいましたので、見捨てざるをえなかった命があったんじゃないかなというふうに思いますね。原発事故がなかったらば、津波で流されて、多分生還してきていた人たちの命は救えたかもしれないんですよね。
 

 
ナレーター:  避難指示解除から四か月。小高に帰った住民は、かつての一割ほど。放射線量が高い地域も残され、終わることなく除染作業が続けられていました。汚染された土は、最終処分先が決まらぬまま、住宅の近くに置かれています。いまだ不安が残る中、小高に帰ってきた魚屋の夫婦がいました。
 
アレクシエービッチ:  こんにちは。
 
美智子:  いらっしゃいませ。
 
アレクシエービッチ:  とてもきれいですね。この魚は何ですか?
美智子:  これはサンマ。私みたいに細くなりました。そろそろ終わりです。
 
アレクシエービッチ:  私の国では、サンマは缶詰で売られています。
 
美智子:  お刺身でも食べられます。
 
ナレーター:  谷地美智子(やちみちこ)さんは、仮設住宅への避難中も、年老いた夫の母親を介護しました。
 
谷地:  いろいろあります、事情は。
 
ナレーター:  避難先でも、車の移動販売で魚屋を続けてきた夫の茂一(もいち)さん。今は全国各地で水揚げされる魚を求め、遠い市場まで仕入れに行きます。祖父の代から続けてきた店は、野生動物の住みかとなったため取り壊しました。新装開店したのは、避難指示が解除された三日後のことでした。
 
谷地:  わしで三代目です。わしの息子も東京で今修業中で、ほんとは帰ってきてやる予定だったんですけども、その前に原発が爆発して、今は東京で板前やってます。
 
アレクシエービッチ:  でも、お二人は帰りたかったんですね。
谷地:  うん。ここは俺の家だもん。
 
谷地:  もうけは頭によぎったら、小高では商売できないよ。とにかく小高に帰ってきたいから来ただけ。だから、ここで生まれて、ここで育って、ここで死ぬのが、俺の一生だと思ってます。
 
アレクシエービッチ:  放射能は怖くないんですね。
 
谷地:  仮設は三十五キロですから、原発から。ここよりは仮設の方が少しは安心。で仮設からここに来る時は、小高の人はほとんど体のどこかに棘(とげ)を刺したまま帰ってくるんだと思います。
 

 
アレクシエービッチ:  興味深かったです。私が心を打たれたのは、福島の方々がこう語っていたことです。「ここは私たちの父や祖父が暮らしたふるさとなんです。私がこの土地を見捨てるわけにはいきません」。この「ふるさと」という思いは、今ではほんとに珍しい感情です。なぜなら、人々は今あまりに簡単に自分の土地を離れる一種の「世界人」だからです。人々は自由にあちこちに移動します。今日はヨーロッパで暮らし、明日はアメリカで暮らす。でも日本では、「ふるさと」という言葉がまだ以前の意味を持っている。それが私にはとっても印象的でした。
 
徐:  しかし現在も、その廃棄物が行き場のないまま、フレコンバッグというものに詰められて積み上げられています。その情景は、私にとっては大変―何ていいますかね象徴的なんですけれども、ウクライナとか、あるいはベラルーシにも同じような情景はあるんでしょうか。
 
アレクシエービッチ:  いいえ。あのような風景は、私たちの所では事故のあと数か月だけのものでした。それ以降は別の対策がとられたのです。汚染された土は専用の巨大なコンクリートの穴に入れられ、蓋をされて覆われ埋められました。ですから日本で全てが地上に出ていることは、社会を心配させるでしょう。私はあの状態は長くもたないだろうし、危険だと思います。
 
徐:  チェルノブイリでは、半径三十キロ以内という圏内が、もう全く基本的に人が住んではいけない地域として残ってるわけですよね。
 
アレクシエービッチ:  そうです。原発から半径三十キロの範囲は立ち入り禁止区域です。残された人生を、帰って暮らそうとする人もいますが、ほとんどが高齢者で人数も僅かです。一方福島ではあんなにも早く人々が戻ってきていました。なぜそれが可能なのか、私には分かりません。チェルノブイリや福島の汚染地域は、私にとってぼんやりとした概念ではなく厳しい現実です。人類は、核兵器と原発は別のものだと思っていました。広島と長崎以来、軍事の原子力を、私たちは常に恐れていました。でも平和な原子力は友達なんだと思っていたわけです。それが突然、軍事でも平和利用でも、原子力は共犯者で、どちらも人間を危険にさらすと分かりました。どちらも同じ未来の恐怖という名の兵器庫から出てきたものです。平和利用であれ、人が殺されていきます。チェルノブイリと福島は、新しい顔をした戦争なのです。
 

ナレーター:  今年、国は汚染地域の避難指示解除を次々と進めました。三月三十一日に解除された飯舘村もその一つです。飯舘村から避難した人々が暮らす伊達市の仮設住宅。避難指示が解除される中、各地で住宅支援の打ち切りが相次いでいます。アレクシエービッチさんが、仮設住宅を訪ねたのは、避難指示解除が間近に迫った頃でした。
 
アレクシエービッチ:  何をやっていますか?
 
 
ナレーター:  ふるさとの餅を作るため、材料となる草の種を干している人がいました。
 
菅野:  こういうものに触ってる時が一番楽しいんだよ。
 
ナレーター:  かつて飯舘で農業を生きがいとしていた菅野榮子さん。今では仮設住宅近くの畑を借り、野菜を育てています。
 
アレクシエービッチ:  これが全部ですか?
 
菅野:  狭い所ですみません。
 
ナレーター:  夫には先立たれ、現在は一人暮らし。子供や孫とは、原発事故後離れ離れになり、一人暮らしを続けてきました。
 
アレクシエービッチ:  与えられた余所の地で住むのは大変でしょ?
 
菅野:  まあおかげさまで、土と太陽がありましたから、ここまで生きてこれました。不自由さの中にも何かを自分でしたいことを見つけて見いだせないと、この放射能は生きられないと思いました。
 

 
ナレーター:  菅野さんのふるさと飯舘村。汚染された土を詰めたフレコンバッグは、村のあちこちに山積みされ、その数は二百三十万個にも及ぶと言われています。飯舘村に入ったアレクシエービッチさんは、一時帰宅していた一人の酪農家に話を聞きました。
 
アレクシエービッチ:  ここは何だったんですか?
 
長谷川:  ここに牛舎があって―今はもう解体しちゃった。あとこの牛舎の中にあった搾乳機械とか、そういうものも全部もう処分しちゃいました。
 
ナレーター:  五十頭を飼育していた長谷川さん。事故から一週間後、村の牛乳の放射線量が基準値の十七倍に汚染されたことが判明。長谷川さんも牛乳の出荷ができなくなりました。搾っては捨て、搾っては捨てる毎日が続きました。やがて大切に育ててきた牛にも殺処分の指示が出されました。
 
長谷川:  一頭一頭全部思い出があるんだよ。
ナレーター:  かつて両親と子や孫、四世代八人で暮らしていた家です。
 
長谷川:  俺は、あの事故の直後から、この村の対応、国の対応、そういうものについて批判をしてます。
 
アレクシエービッチ:  私たちのところでは、国家は人々に線量計を全く与えませんでした。人々が真実を知ることを恐れていたのです。
 
長谷川:  日本の場合は、その線量計そのものもね、なぜかしらそういう人たちが持っているものとかが、我々が持ってるやつより低く表示をするという状況があるんですね。
 
ナレーター:  長谷川さんは村のモニタリングポストの数値と研究者による計測値の差に疑問を抱き、研究者と同じ線量計を購入。自ら調べてきました。事故の年から今まで、毎月地区をくまなく回り、線量を測っています。モニタリングポスト付近で規定どおり測った線量も、二倍近い数値でした。
 
長谷川:  今、飯舘のキノコなんかはすごい汚染になってます。しかし、みんなそれぞれに、今度は「少しぐらいならいいだろう」と、そういう思いで食べている人がたくさんいる。
 
アレクシエービッチ:  それは残念ですね。私たちの事故後の記録は、ここでも読まれる必要があります。十年二十年後に、あちらでは病気が始まっています。
 
ナレーター:  アレクシエービッチさんと会う半年前、長谷川さんは、飯舘村の未来を探ろうとチェルノブイリを訪問。汚染された地域に戻って暮らす人々に会いました。ロシア語で「サマショール」「自発的帰村者」と呼ばれています。
 
長谷川:  サマショールの人たちとお話をする機会を得ました。チェルノブイリの事故のあとに、年寄りの人たちはみんな戻ったよと。でもあれから三十年、子供たちのもとに行く人、亡くなっていく人、それぞれでだんだん廃村になっていくということをはっきり言われました。やっぱりこの飯舘村この場所で、私はこれから起きていくなということを、チェルノブイリに行って実感してきました。
 
アレクシエービッチ:  ここに戻ることは考えていませんか?
 
長谷川:  私はこれから当分の間は避難所とここの両方の生活が続くんだろうなと。ただ私の子供たちと孫たちは、これは戻りません。これはやっぱり無理だろうと。戻すべきではないと思ってます。後ろ見ても誰もいないわけだ。だから我々ができるだけやって、そしたらそれで終わりと。となれば、そのあとは結局今のチェルノブイリと同じような状況になっていくなということは、まあ直観はしますけども、我々ができるうちはやろうと考えています。
 
ナレーター:  長谷川さんは、原発事故から三か月後、仲間の一人を失いました。相馬市の酪農家が自ら命を絶ったのです。壁に書かれた遺言。自殺の現場は、事故直前まで意欲に燃え、事業を拡大しようと借金して建てたばかりの小屋の中でした。共に仕事を支え合ってきた隣に住む酪農家が、家族も去り無人となった牛舎を見守り続けています。壁の遺言は風化を防ぐため取り外されていました。
長谷川:  新しくなってるところがあるでしょ。あそこに書いておいたの。
 
アレクシエービッチ:  彼は何を書いたのでしょう?
 
長谷川:  ここにはね、「原発さえなければ」と書かれてました。
 
佐藤:  そういうふうに大きく書いていました。
 
アレクシエービッチ:  原発がなければ・・・知った時には、どう思われました?
 
佐藤:  私かい? なんか言うの嫌んなってきた。ここら辺さ聞かれるともう涙出てきて駄目だよな。ほんとに全然そんなことやるとは思わなかったから私も。それはお話ししたくなくなってくる。
 
アレクシエービッチ:  私が悪かったです、聞いた私が。
 

 
ナレーター:  被災地では、生きる希望を失った人々の自殺が相次ぎました。アレクシエービッチさんが、飯舘村で最後に訪ねた家です。百二歳だった村の長老大久保文雄(おおくぼふみお)さん。文雄さんは、国が飯舘村の住民に避難するよう指示した翌日、命を絶ちました。この家に嫁ぎ、父となった文雄さんと暮らしてきた美江子さんは、避難先からこの家に通い続けてきました。
 
美江子:  避難先に位牌を持ってくってことしなかったです。飯舘村の景色が見える、ここの家からは絶対離れたくないだろうと思って。
 
アレクシエービッチ:  この土地に居続けるように・・・
 
美江子:  ここで生まれて育って、百二歳までここにいると、飯舘村そのもの、ここそのものがやっぱり自分の生きてる全てだったんじゃないかなと思う。
 
ナレーター:  文雄さんの死から四年後、美江子さんはこの事実を広く知ってもらおうと、東京電力を提訴しました。
 
美江子:  やっぱり世間に知られたくないっていうのもありまして、なかなか表には出さないで、ひっそりとっていう方が多いんですけども。提訴しないでこのままいたら、ほんとに百二歳まで必死に生きてきたのに何でっていう…。だったら百二歳まで生きてきたものがゼロになるんじゃないかって。何の意味もないんじゃないかって思った時に、とてもつらいものがやっぱり私はあります。
 
アレクシエービッチ:  どんな反響がありましたか?
 
美江子:  嫁の分際でって、大変お叱りの言葉も受けたんです、今度の件ではね。でもやっぱりこういうことがあったっていうことを、皆さんに分かってほしいし、私のような気持ちを持った方がまだまだたくさんいらっしゃる。
 
アレクシエービッチ:  より多くの人がこの事を知る必要があります。そこに抵抗の力も生まれます。
 

 
徐:  事故のあとに、ああいう仮設住宅というものを建てて、被災者たちが住んだんですけれども、行政の方ではそれを撤去して村に帰るように。しかし、村に帰ることもできないし、帰っても生活のめどがつかないという人たちもいるんですね。ですから、ああいうお年寄りたちは、いわば今からもう一度別の意味での放浪を始めるといいますか、さまよい始めなきゃならないような岐路に立ってるとも言えるんですよね。そういうお話もあの時なさいましたでしょうか。
 
アレクシエービッチ:  はい。そういうお話もお聞きしました。原発事故は誰よりもまず農民に襲いかかったんです。大地の上で暮らしていた自然と生きる人々に。彼らは自分の居場所をもぎ取られました。何らかの補償金と一時的な住まいは与えられましたが、まさに根こそぎ折られた花のようです。でも彼女はこう言いました。「生きていかなくちゃ。今この時間だって私の人生」。心が震えるようなエネルギーです。私は本当に感嘆しました。彼女の人間としての強い生命力に。
 
徐:  そうですね。その次に酪農家の長谷川健一さん。チェルノブイリまで訪ねていって、現地の様子を見たりされましたよね。
 
アレクシエービッチ:  私は初めて自らの意志で行った方に出会いました。私は自分の運命に自分で責任を持とうと考える気概のある人を見てうれしかったです。彼は自分のことに自分で責任を持ち、国家を信用せず、国家はだましていると見ています。我が国ではいつも人々は、国家が何かしてくれるのを待っています。それが良くても悪くても。ベラルーシは全体主義国家ですが、それは全てを国家がコントロールしているということです。人々が団結しようとすると、それがどんなものであっても、国家は激しく反応する。国家はそういう人たちをおびえさせようとし、抵抗する人々の結び付きを断ち切ろうとします。その方が人々を統制しやすいからです。私は福島の地で思いました。社会主義であれ、資本主義であれ、国家はどこも似たようなもの。国家と役人たちは、自らの救済に忙しいのです。人間を救うのではなく。あの自殺してしまった男性も、十分な補償を受け取っていたなら、彼は小屋の壁に、「原発さえなければ」と書くことはなかったでしょう。それにあの男性一人ではありませんでした。飯舘村には、おじいさんが自殺してしまった女性もいました。あの女性は裁判に訴えていました。自分のおじいさんは、自殺に追い込まれたのだと。私がとても驚いたのは、彼女を支えようとする人がいる一方で、非難する人もいることでした。つまり「闘う」という原則が人々にないということなのです。彼らはただいい役人や首相を待っているだけ。だから闘うことができません。チェルノブイリ。福島。こんな巨大な事故は二回だけなので、人々にはどう抵抗すればいいかの経験がない。国家とどう闘うか、どう責任を取らせるかという経験がありません。あの人たちは、社会と切り離され、のけ者のようにされています。被災を免れた人たちは、「あの人たちは兄弟で同じ人間なのだ。自分の身にも起こりえたのだ」と実感できないのです。
 

 
ナレーター:  福島への旅を終えたアレクシエービッチさんは、東京外国語大学で若い世代と対話しました。
 
質問者A:  私自身が、福島で事故当時から…事故当時と、あとそれから四、五年をずっと過ごしていたんですけど、アレクシエービッチさんも福島に行かれたということをお聞きしたんですが、まずそこで何を思われたか?
 
アレクシエービッチ:  いちばん大きな感想はチェルノブイリの時と同じでした。国家は人間の命に対して、完全な責任は負わないということです。国家は人に最低限のことしかせず、あとは「好きにしなさい」です。また私は、日本社会における抵抗のなさにも驚きました。私たちの社会もそうですが、日本社会には「抵抗の文化」がありません。私たちの社会では、日常の生活が全体主義的であることと結びついていますが、あなた方の国では、どうなのでしょう。
 
質問者B:  僕はアフガン戦争について質問をしたいと思います。つい最近こんな記事がありました。今ロシアのプーチン政権下で、アフガン戦争はテロ対策上有用だった、正しかったというような再評価が進められているというようなことが、その記事には書かれていました。僕は個人的には危惧しています。アレクシエービッチさんはどのようにお考えになっているのかお聞きしたいです。
 
アレクシエービッチ:  よい質問をありがとうございました。プーチンは「あの戦争は正しかった。さもなくば、アメリカ人が間違った」と言っています。今や「意識の軍国主義化」が起きています。ある種の新しい愛国主義です。「私たちには偉大なロシアが必要だ。犠牲もためらわない」というような、そして見出そうとする活路はひとつ、お決まりの軍事侵略です。今、民主主義が後退せざるをえない時代に、私たちは生きているとさえ言えます。かつては戦死した兵士の家に取材に行けば、どこへ行っても、母親たちは私に叫んでいた。「本当のことを書いて、真実を」と。しかし、今ではある母親は、私と話すのを拒否するのです。家族はジャーナリストと話すのを拒否しています。なぜでしょう。答えはこうです。「真実を話すと息子の戦死による補償金がもらえなくなる。私はそのお金でアパートを買うのです」。つまり国民の堕落が加わっているのです。
 
質問者C:  抽象的な質問ですが、興味があるのでお聞きします。どうしたら人間は絶望を克服できますか?
 
アレクシエービッチ:  私の人生にも、もちろん絶望するような瞬間はたくさんありました。自分自身の人生の経験だけでなく、聞いたり書いたりしたことについても、人生では、たとえ大禍に見舞われなくても、「人間であり続ける」ことは容易ではありません。しかし、苦しみの経験は、人を強くすると思います。そして若者であるあなたに、私が言えることは、ただひとつ、丹念で孤独な「人間であり続ける」作業は、たとえ一人になっても、自分自身でしてゆくことなのです。大切なのは「人間であり続ける」こと、他にこの世界であなたを守ってくれるものはありません。
 

 
ナレーター:  アレクシエービッチさんの最新作には、生まれ育ったソビエトという国家の歴史を通して、世界の現在や私たちの立ち位置が暗示されています。『セカンドハンドの時代』。「セカンドハンド」とは「使い古(ふる)し」という意味。未来が見えなくなった今、再び過去に戻り、強い力にすがろうとする人々の姿が描き出されています。
 
アレクシエービッチ:  私は、三十年以上、ソビエトについて書いてきました。私たちが百年間どう生きてきたのか。一九九○年代、我々はロマンチストでした。ペレストロイカ直後は、すぐ自由が訪れると思っていました。みんな広場に出て、「自由自由」と叫びました。でもその意味は誰も知りませんでした。自由について話し、夢みましたが、自由な人間はいませんでした。収容所の中にいた人間は、解放されても、翌日からすぐ自由になることはできないのです。そしてプーチンが出てきて、あのロシア的な決まり文句を唱え始めました。「我々は偉大なロシア。誇りと地位を取り戻し、立ち上がろう」。そして、人々の八十六パーセントがプーチン支持となった。私はみんなに質問しました。「自由とは何ですか?」。これは私が必ずする質問でした。「私たちの不自由は、私たちのこの苦しみは、なぜ自由に変えられないのか。なぜ新たな世代になったのに、またもや過去と同じ道を歩むのか。どうしてこの轍(わだち)から抜け出すことができないのか」。私が思っているのは、現在の世界のナショナリズム、偏狭な保守主義の台頭は、「小さき人々」がとてもおびえてしまっていることと結び付いているということです。そして、この「小さき人々」は、トランプやプーチンのように全ての問いに素早く答えてくれる人々を求めるのです。これが私たちが今いる現実です。
 
徐:  日本の場合は、私は福島の出来事があったあとに現場にも行きまして、文章も書き、人の前でも話をしましたが、「これを契機に日本の国家主義は強まるだろう」というふうに予感をし、そのことを申しました。残念ながら現実はそのように動いているように見えます。国家の統制力、国家の支配力にむしろすがろうとするように、人間は動いてるように見えます。
 
アレクシエービッチ:  国家という問題では、私は社会主義とか資本主義とかいうのは、チェルノブイリや福島の事故が起きる前の概念だと考えています。「こちら側」「向こう側」といった概念はもはや機能しません。それは過去のものとなりました。でも残念なことに人間は、未来ではなく、過去に救いを求めるようにできています。人々は古き時代に、良き過去に思いをはせます。「こういう日本がかつてはあった」とか、あるいはトランプが勝ったのも、とうになくなっていたあの良き偉大なアメリカを人々が欲したためなのです。人々は未来を恐れています。人々は、未来が過去とは似ても似つかないものになるとよく分かっている。そして恐れる。未来には私たちにとって未知の挑戦がいくつも起きるだろうと。だからみんな過去に逃れようとします。しかし、過去は私たちをチェルノブイリから守ってはくれません。つまり人類は人生や社会の哲学を変えるべきだと思うんです。これまでの利益優先、蓄財蓄積の道から切り替えなければならない。多分最小限で生きるという哲学に。これからも自殺への道を選び、自分たちの文明の終わりに向かって歩き続けるのか。地球上の最後の世代になってしまうのか。未来の予測は難しいけれど、今より良くなることを信じ、願い続けたいと思います。
 
徐:  私があなたという人間に非常に畏怖の念を感じるのは、「それでも信じる。願い続ける」とおっしゃってるわけですよね。そういう未来を信じることができない人々が、あるいは信じることをやめた人々が、セカンドハンドの時代には、目の前の安楽とか、自らの欲望、あるいは力だけが真実だという状況が、今、ロシアにおいても、アメリカにおいても、日本においてもどんどん進行してるわけですよね。
 
アレクシエービッチ:  私が思うに、今ようやく人間は、この世界が作家が描くようなフィクションではなく、現実なのだと理解し始めました。いまや私たちは境界線のふちに立っているんです。時代時代の大きな苦しみの数々は、必ず「小さき人々」の身に降りかかる。しかし、いつの時代も聞こえてこなかったのは、彼らの声でした。もしあの世に最後の審判があるならば、その時、神の御前に呼ばれるおもだった証言者は、「小さき人々」でしょう。私はそんな「小さき人々」をこそ信じています。彼らこそが永遠の存在なのです。「小さき人々」は永遠に続く鎖。その鎖を断ち切り、自らを滅ぼすほど人間は狂っていないと祈りましょう。やはり歴史は前に進んでいると信じたい。道の途中で立ち止まったり、時には今来た道を逆戻りするようなことがあっても、とにかく前進は続いているんだと信じたい。少しずつではあるけれど、前に進んでいくのだと。それを夢みましょう。
 
     これは、平成二十九年四月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである