大拙先生とわたし
 
                 鈴木大拙館名誉館長 岡 村(おかむら)  美穂子(みほこ)
1935年、アメリカ・ロサンゼルス生まれ。ハンター・カレッジとコロンビア大学に学び、1951年、鈴木大拙博士と出会い、日本に帯同する。師が鎌倉松ヶ丘文庫で1996年ご逝去するまで秘書として勤める。1975-1998年まで『ザ イースタン ブディスト』編集委員。1975-1981年まで国際交流基金役員秘書室主任。1992-2006年まで大谷大学非常勤講師。日本民藝館評議員。
                 き き て     金 光  寿 郎
 
ナレータ-:  石川県金沢市。人々の憩いの場になっているここ犀川(さいかわ)のほとりで、世界的な仏教哲学者鈴木大拙(すずきだいせつ)(1870-1966)が生まれました。大拙生誕の地本多町(ほんだまち)には鈴木大拙館が建てられています。庭には大拙が子どもの頃からあるという楠の木。館内には、「展示・学習・思索」三つの空間が設けられています。大拙の思索と出会い、また来館者自らも思索する場として作られました。大拙は一八七○年(明治三年)に生まれました。日清、日露、そして二つの世界大戦の時代を生き、戦後九十五歳で亡くなるまで仏教や禅の探究を続けました。二十歳頃から鎌倉・円覚寺(えんがくじ)で参禅。自身の心と体を通して学んだ禅や仏教の要を膨大な著作に著しています。明治と昭和、合わせて二十年に及ぶアメリカ滞在を経て、英語の著作をも次々と発表、東洋思想の真髄を示した人物として、西欧社会に広く知られています。鈴木大拙館名誉館長の岡村美穂子さんは、最晩年の大拙と十五年間行動を共にした人です。初めて出会ったのは、大拙が戦後アメリカに渡った時のこと。対立を超えた世界を築こうと東洋の精神を説く大拙を間近に見ています。アメリカで生まれ育った岡村さんは、当時十五歳。八十歳を超えて一人暮らしをする大拙を気遣った両親が、ニューヨークの自宅の一部屋を提供していました。何のために生きるのか。深い悩みを抱えていた岡村さんを、大拙は国際会議や宗教者との懇談の場にも伴っています。岡村さんは、それまで知らなかった東洋の思想について、遠慮ない質問を投げかけ、また大拙も率直に答えています。そうした二人の足跡を表す資料が展示されています。
 

 
岡村:  「無」が随分並んでるわけなんですけれども、私が大拙先生に最初にお目にかかった時には、十代の十五歳だったんですけれども、そうすると先生が―これニューヨークだったもんですからね、英語でお話し下さるわけですね。それで「無」のお話をして下さるもんですから、「無ってどういうことですか?」って言ったらばね、こういうふうにその辺の紙を取ってこられて、パッパッパッとこう「無」のついた漢文から取った述語を並べて下さったんです、このようにしてね。そして、この「無相」と「無心」は、仏教的な意味合いがあるということも、線を引いて下さいましてね。これだけいろいろ「無」に関する言葉が、漢文にはあるんだという話から入門して頂きましてね。
 
金光:  なるほど。
 
岡村:  そして、十代ですから反抗期ですよね。どっちかって人間としてのね。そういういろいろ人生問題が―私の人生問題があって先生に訴えるわけですよね。そうするとね、先生がこれを書いて下さったんです。ご自分のその辺にあった『禅百題』という本なんですけどね。そこの裏に、カバーのところにですね、「十五にして学に志す」。
金光:  孔子の。
 
岡村:  孔子の「論語」の言葉ね。「三十にして立つ」っていう。ずっとこう最後まで「七十にして云々」という、「耳順うて矩を踰えず」というようなことを書いて下さったんですね。それで「あなたは今ここにいるんだ」ということを、十五歳の時のことから始まってね、ズーッとまだね七十五―孔子の場合は、七十歳まで書いておられるわけですよね。先生はもっと先へ行きましたから、何かあるはずなんですけども。そしたら、「美穂子さん、ここにあなたはまだいるんだ」と。「これだけまだ先があるんだ」と。そういうふうにして、地図みたいなものを―人生の地図のようなものを書いて下さって、私を慰めるというんですかね。
 
金光:  まだ若いと。
 
岡村:  若いと。この辺にまだいるじゃないかっていう教えを頂いたっていうのが、ここにありますの。
 
金光:  なるほど。
 

 
ナレータ-:  大拙が伝えようとした「無」の世界とは何だったのか。岡村さんが、実際に見聞きした大拙の言葉や行動を通して、その源をたどります。
 
金光:  私、今度お会いするので、岡村さんに最初にお会いしたのがいつごろだったかというのを思い出してみましたらですね、まだ私が京都の放送局にいて、東京に転勤する前だったんです。もう五十年以上前なんですけれども。その時に金子大栄(かねこだいえい)先生と曽我量深(そがりようじん)先生と、それに鈴木大拙先生、お三人で講演会がどこか大きな会場であるということで、先生をお迎えに出たんですね。その時はもちろん八十を過ぎていらっしゃるんですが、車から降りていらっしゃった大拙先生の後から、若い岡村さんが見えたんです。それで「えっ!この若い人は何者かしら」と思っていましたらね、鈴木先生が英語で話された。そしたらもちろん後で分かったんですけれども、岡村さんも英語で、誠にこう気楽にお二人話しなされてるんで、どういう方がここへ付いていらっしゃったのかなと思って。それでもう鈴木先生を会場に案内して、もうお別れしたから。でまあ久しぶりにここの鈴木大拙館にお邪魔してみましたら、今お訪ねしてるこのお部屋のすぐそこに、「無」という文字がございますが、仏教と「無」というのは非常に関係が深いようでございますが、そういう「無」というのが一番基本にある考えを持つ仏教を、岡村さんは恐らく日本に大拙先生と一緒においでになった頃は、まだ仏教のこともあんまり詳しくご存じなかったんじゃないかと思いますが、その後どういうふうに消化されてといいますか、仏教の、あるいは仏法のですね法の味わいみたいなものをこう味わっていらっしゃるようになったのかなということをお伺いできればと思っているんですが。「無」と言われても取りつく島がございませんでしょう。「何も無い」と言われたって、あるじゃありませんか、現実に。
 
岡村:  まあ究極のことを申しますとですね、私の今の思ってる究極なんですけれども、最初に「仏は何か」っていうことが、私まだ十代の初め頃でしたもんですから、仏っていうと、親がこう仏教会に行ってね、金ピカの…。
 
金光:  ご両親は安芸(あき)門徒の方ですから、阿弥陀さんになるわけですね。阿弥陀如来さんですね。
 
岡村:  阿弥陀様なんですね。そうすると、そういうこの金ピカの彫刻がある。「これ仏さんだ」というふうに思って、そこに向かって合掌するわけなんですけれども、そういうことしか知らないで。最初の鈴木大拙先生の講演を聞きに行った時に、出だしがですね、皆さん百人ぐらいおられたかな、アメリカの学生さんと教授の人たちが座ってましたけれども―コロンビア大学だったんですが、そこで大拙先生が、「今日は時空(じくう)を超えた、つまり時間と空間を超えた話をさせて頂きます」という出だしなんですね。ちょっと間を置かれて、「それはブッダの話です。仏の話です」と。これから始まったんですね。いやぁ「時空を超えるとどうなるのかな?」と。私はその時、まだ十代ですから取りつく島がないんですよね。そういうことを、まあそして自分の個人的な悩みもありましたもんですから―子どもですからですね、その悩みの話を大拙先生に聞いてもらうわけなんですけど、そういうことも含めてですね、「美穂子さん、もともと何にもないんだよ」っておっしゃったんですよ。
 
金光:  そこでも無ですか? 何にもないという。
 
岡村:  無とはおっしゃらない、その時はね。「もともと何もないんだよ、美穂子さん」。つまり「次元を変えなさい」って言わんばかりの言い方なんですけどもね。それで次元がもう一つあるなんて思いもしませんわね。悩んでるんですから。
 
金光:  それはそうですね。
 
岡村:  悩みが目の前にあって、そればっかりに自分は集中してるもんですから。それも少しあんまり取りつく島がないなと思いながら、ずっといたんですよね。そうすると、やがてその「Nothingness」っていう英語で―英語で講演される時「Nothingness」っておっしゃる。無のことをおっしゃるんですね。そうすると、帰ってきて、「先生、どういう意味ですか?」ってこう言うわけですね。そうすると、「時空を超えたという仏さんというのは、結局測れないんだ、美穂子さん」と。
 
金光:  それはそうですわ。
 
岡村:  「無限大と永遠を言ってるんだ」って、そういうふうにおっしゃるわけなんです。まあ言われるとですね、永遠と―私たちみんなそうなんですけども、永遠と無限は出合ってるのかどうか分からないけれども、どっかで分かるんですよね。数えることはできないし、数えるっていうことは何かっていうと、無は数えられない。それから計算もできない。
 
金光:  もちろんそうですね。
 
岡村:  そうですね。そういうことに気が付くんですね。無って言ったら、有の対比ですよね。有ることと無いことが対立してるような感じじゃないですか。そうすると、「計算するって、美穂子さん、それはね有る―有の世界じゃないと計算できないんだぞ」っておっしゃるんですね。
 
金光:  それはそうですわ、はい。無は計算できませんよ、それは。
 
岡村:  それでそういうようなところから、仏は結局時空を超えたものが仏だっていうことになりますと、仏は計算できないわけだということですよね。永遠であり、無限であるということを指して。そうすると、ここにある「無」っていう字―先生の立派なのがありますけれども、無っていうことが仏だっていうことに等しいわけなんですね。そして、そういうことにだんだんこうつながっていくんですね。私の乏しい頭の中から。あ、こういう計算できないって、つまり有ることしか計算できないって。そしたらこういうことをおっしゃったんですね。「先生、どうしてそんな話をしなくちゃいけないんですか? どうして仏が必要なんですか?」ってこう聞いたことあるんですよ。「なぜ人間は宗教が必要とかね、仏とか神様とか、そういうものどうして私たちが求めなくちゃいけないんですか?」って言ったら、「人間は業(ごう)でな」っておっしゃってね。その「業」っていうのはどういう業かというとですね。
 
金光:  これもまた問題ですな。
 
岡村:  他の生き物とね、一足先にね進化が起こったんだと。進化論の。
 
金光:  あ、そちらへ行くわけだ。
 
岡村:  こっちの方へ頭を持っていって下さるんですね。で「何に進化したか。つまり何が発達したかということを、美穂子さん考えてごらんなさい」って言うんですね。そうすると、「他の生き物にないものが、人間だけにあるものは何だろう?」っておっしゃるんですね。それまあ私いくら考えたって、私の頭じゃそれなかなか「何でしょうな?」と思ったりするんですね。そしたらね、「意識というものができちゃったんだ。意識に目覚めたんだ」と。
金光:  なるほど。
 
岡村:  「意識っていうものは、美穂子さん何だろう?」っておっしゃったんですね。
 
金光:  そうですね。意識も問題ですね。
 
岡村:  これが人間の業だと言わんばかりなんで、そうとはおっしゃらない、その時はね。そうすると、その意識がすばらしい力だって。科学も意識からの産物であるし、我々の言葉も、ものを考えるということも、全部意識の次元で捉えること―捉えるということというのは、こっちからこっちへ捉える、理解するということは捉えることじゃないかと。これはやっぱしこういうふうな捉え方して、我々は理解するんだというふうに教えて下さるわけ。そうしたら、「それができるということは、すばらしいことなんだけれども、一つだけ困ったことができたんだ」っておっしゃったんですね。「他の生き物は、そこからブレないのに、人間だけブレちゃった」って言うわけ。
金光:  まあそういうことも言えるでしょうね。
 
岡村:  ブレるっていうのか、離れてしまって、離れたことによって、私たちは悩んで、何かが始まるんですね。「それは何かというと、ものを主観と客観に分けることが意識なんだ」ってこういうふうにおっしゃったんですね。主観がここにあって、あそこにあるのが客観だというわけですね。その主観と客観が分かれるということは、二点できるっていうわけです、二点。で二点あることによって、つかむこともできるし、ここに座ってて、あそこが見えるって分かるっていうことができるわけなんだってね。脳みそもきっと二つに分かれて、「わしゃ科学者じゃないけど、きっと脳みその中も二つに分かれて、人間の脳みそは、ちょっとあっち行ったりこっち行ったりする脳みそ」。
 
金光:  見る方と見られる方と。
岡村:  見られる方の。「二つに分かれてるに違いない」という説明をして下さるんですよね。それがどうしていけないかということですよね。
 
金光:  そこを聞いても悩みは消えないでしょう?
 
岡村:  消えないんですよ。むしろそれが盛んになる。
 
金光:  そうでしょうね。
岡村:  悩みが盛んになるんですけどもね。「ものが二つに分かれるということは、美穂子さん、一つであったことがあるんだ」。
 
金光:  あ、それはそうだ。
 
岡村:  「その前があるんだぞ」っておっしゃるんです。本来があるっていう。
金光:  そのとおりですね。
 
岡村:  それで「その大本(おおもと)があるんだ」と。「私たちは大本が動いてるんだ」っておっしゃったんですね。「そこを見失ったんだ」っておっしゃったんですね、人間は。
 
金光:  理屈としては分かるんですよ。確かに生まれようと思って生まれた人は一人もいませんし。大体年取って亡くなるのも、まだ生きたいと思いながらも死んでしまうというのは、自分の思いで死ぬわけじゃないし。要するに、思う以前に生まれてる、生きてるわけですよね。というようなことを考えると。
 
岡村:  そうなんです。
 
金光:  分かれる前に。
 
岡村:  私たちが思う前があるということをね。
 
金光:  そこは分かるんです。
 
岡村:  そうですね。それをどうにか、我々は二つに分かれるという―「迷う」って言うんですよ。迷いが。
 
金光:  なるほど。そのとおりです。
 
岡村:  迷いがどっちへ行こうか、右か左か、白か黒か、善か悪か、上か下か、前か後ろか。全部二つに分かれて初めて意識というものが動いてるんだって。私たちは二十四時間意識の枠の中で動いてると。それだから、この大本が見えなくなっちゃったんだって、そういう説明をしてる。つまり私たちは、みんな仏なんだけれども、仏であることが見えなくなるというか、分からなくなる。分かりにくくなるっていうか、そういう説明をして下さいましたね。
 
金光:  でも、それを聞いて、まあそこまでは考えると確かに分かりやすいんですけれども、自分の持ってる悩みがそこで消えて軽くなるかというと、そうはなかなか一足飛びにはつながらないですね。
 
岡村:  時空を超えるっていうことがある。超えるという問題。「超える」っていう言葉にね、非常な大きな―どう言ったらいいのかな、そのきっかけがあるわけですね。
 
金光:  これはもうずっと後になって、大拙先生がおっしゃった言葉だということで、岡村さんから教えて頂いた言葉にですね、人間というのはこう意識がある。人間が意識で考えるということは、フォーカスであると。焦点が合ったとこしか考えられない。これは実は自我(じが)―エゴであると。自己中心の考え方で、焦点が当たるところは、無限の、それこそ時空によって、時間と空間の中で、そういうものが運ばれてきてるということに気がつかないと、意識は。焦点が合った途端に、もう自分の中心―自分に都合のいいことしか考えないようなその意識の働きが働いてるから、それで現実に起こってる出来事と、自分の持ってる問題の悩みというのが、うまく調和できないもんだから、そこで悩みが生まれるんだというような説明をされてたということを伺って、「はあ、これは宗教というものの一番大事なところをおっしゃってるのかな」と思って受け止めているんですけれど。
 
岡村:  結局意識っていうものの一番問題は、相対的にものを見るっていうわけですね。自我っていうのも相対的だ。「あなたは私じゃないよ。私はあなたでないよ」って言ってるのが自我ですよね。しかし、それを言う前の時点というか、同質の時点―同質って言っていいのか。
 
金光:  その前の時点ですね。
 
岡村:  もう本来の無分別の時点っていうかな。もう一つ、仏教用語で「二元性」っていう。二つの元と書いて「二元性」という字を書きますですね。一から始まるんじゃなくて、二の前があるっていうことを言ってくれてるんですよね。それが大変まあ分かるようで分からないんですけれども。
 
金光:  「分別」というのは、「分」も「分ける」だし、「別」も「別ける」ですから。もともとは一つのものを分けるところに無分別から分別に分かれると相対になってしまうという、そういうことなんでしょうね。
 
岡村:  相対になるんですね。その相対になって、どこが悪いかっていうと、今度は対立が起きるんです。
 
金光:  ああ、なるほど。
 
岡村:  相対が。相対二つに分かれるから、まあ一つでも二つと一緒ですよね、次元がね。そうすると、どうしてもそういうふうにして対立が起きるっていうことは、喧嘩が起きるわけですよね。まあ喧嘩もそうですし、そうでない時もありますけれども。
 
金光:  悩みというのは、自分の中で喧嘩が起こってるようなところがありますのでね。
 
岡村:  そうなんです。自分の中も二つに分かれてるという。ものを考えるっていうことは、二つに分かれた状態が、ものを考えるということなんですね。
 
金光:  今のお話を伺いながらですね、最初に大拙先生のお話を伺った時の、この大きな会場でのお話の冒頭がですね、江戸時代の至道無難(しどうぶなん)(江戸時代初期の臨済宗の僧侶:1603-1676)禅師という方の歌を紹介されましてね。
 
生きながら死人となりてなりはてて
思いのままにするわざぞよき
 
という歌を紹介されまして、「この歌はおもしろい歌ですなあ」とおっしゃった。やっぱり死人というのは、死んだ人というのは、欲しがらず、人を恋せずみたいなことを、至道無難禅師も書いていらっしゃるんですね。
 
岡村:  あぁそうですか。
 
金光:  だから人間の悩みが死んでしまった人にはですね、悩みのもとになってる、いわゆる煩悩というのはほとんどなくなってるから、それでいながら「思いのままにするわざぞよき」という言葉が付いてるんで、まあこれはさっきからのその極意といいますか、無を実用的に生きて使うのには、死んだ人のつもりになってやるといいのかなあと。これはまあ勝手な想像で、実際そんなことはその意識でいないと、何も身動きも私なんかできませんのでね、具体的にどうこうということは言えないんですけれども、何かそういうところに無の具体的な働き…。
 
岡村:  「思いのままに」というところが、「自由」という意味なんですよね。
 
金光:  そうなんですね。
 
岡村:  その「自由」も仏教用語なんですよね。
 
金光:  ところがね、その自由なんですけれども、今、若い人なんかがね、「もう思うままにやるんだ」と言う場合のその「思いのまま」と、大拙先生なんかのおっしゃる仏法の「自由」というのは、ちょっとニュアンスが違うような気がする。
 
岡村:  あのビート族(1950年代〜60年代アメリカで既存の価値観や道徳からの自由を求めた若者たち)が―今の若い者の理解なんですけどね。何でもやればいいって。好きなようにやればいいっていう。それで大拙先生のところに、ビート族のジャック・ケルアックという人なんですけども、一度ニューヨークでね、大拙先生に会いに来られたんですよ。そしたらば、大拙先生が「君たちは自由を履き違えてる」という話をまずされましてね。その履き違えてる自由というのは、どう履き違えてるかというと、ご自分の肘をこう手を出されましてね、こうやって、「君、こっちのここの肘のところが、こっちへ動いたら自由か?」って聞いたんです。
 
金光:  あぁなるほど。
 
岡村:  「こっちへ曲がって、曲がってしまって、こうこっちへ曲がるかも分からんけれども、君たちはどう思うか?」って、ビート族に聞いたんです。「痛いだろう」っておっしゃるんですよね。そして、「その上、役に立たんだろう」っておっしゃったんですよね。この二つのことをおっしゃって、そのビート族のジャック・ケルアックは感心してましたけどね。その自由っていうこと、「自ずから」というのが付いてますね。「自」っていう、「自由」の「自」ですよね。これが英語にはないんですわ。
 
岡村:  あ、そうなんですか?
 
岡村:  「自ずから」っていう意味の自由の意味はないんです。何かから不自由から自由になるという。
 
金光:  「離れる」意味での。
 
岡村:  ですからね、そこんとこの違いをまた教えてました、ケルアックさんにね。だから自ずからでなければ、本当の自由はないんだということ。さっきの「大本」とか、「本来」とか、「無分別」という、仏教の非常に基本的な考え方に、もう一度確認する、戻るという。これが大事なんだという話をね。まあ字が分かりませんから、向こうの人は。しかし「from itself」とかね、こういう英語を使ってですね、「of itself」とかね、そういう表現を使いながら、どっか別のところにあるんじゃないということを、外に探しに行くんじゃないって。ここにきちっと自分が生まれた―オギャッと生まれた時に備わってるんだということを教えておられました。
 
金光:  そうしますと、それは人間に与えられている肉体がありますよね。肉体は与えられてる働きそのままに素直に動ければ自由であると。
 
岡村:  そうなんです。そして、その今の「生きながら死人となる」っていうことの、要はもう一つ言いかえすれば、大拙先生は恐らく「無心」とおっしゃると思うんです。
 
金光:  ああ、それはそうですよね。
 
岡村:  無心に動くことが、我々も既にしてるわけなんだけれども、それをこう意識の上に持ってきたらばですね、それこそああいう私に初めて大拙先生が教えて下さったのは、ムカデがいますでしょ。ムカデは百の足を持ってるんですよね。そして、その百の足がこうあって動いてるわけなんですけども、誰かがね「ムカデさん、ムカデさん、どの足からあなたは歩くのを始めるんですか?」って聞いたっていうんですよ。そしたらムカデさんがね、「はてな?」ってこう考えたっていうんです。ムカデが考えた。そしたら動かなくなったっていうんですよ。
 
金光:  なるほど。
 
岡村:  その百の足がね。
 
金光:  順番、どうやっていいか分かんなくなった。
 
岡村:  もう全然どうしていいか分からなくなった。無心がなくなっちゃったわけですね。無心で私たちは、「そうだろう、美穂子さん」って。私が一番問題を持って、大拙先生のとこへ問題持っていった時に、「手を出せ」っておっしゃったんですよ。で手を出したんです、私が。「きれいな手じゃないか。仏の手じゃないか」っておっしゃったんですね。「何でこの私の手が仏の手だ?」って、こう思っちゃったわけですね。「しかし、こう動くじゃないか」って、こうやって。空中にね手をこう動かしてね、躍らせてね、「こうやって自由に動くじゃないか、美穂子さん」って、おっしゃったんですよね。「あなたが作った手か?」っておっしゃるんです。
 
金光:  なるほど。そこへ来るわけですね。
 
岡村:  「あんたの親が作ったのか?」って、こうおっしゃるわけですね。そういうふうにしてですね、その無心であるということが、どこにあるかということですね。やっぱし私たちが意識の上で死なないと、いわば肉体的に死ぬというんじゃなくて、自分が思ってる生と死をいっぺん捨てなさい、という意味なんですよね、禅の方ではね。「まずいっぺん捨てなさい」って、おっしゃってましたね。それと同時に、まあいろいろそれにまつわる話がありますけれども、いっぺん人間はそれを捨てないと、本当の自由がないんだということを、今の至道無難(しどうぶなん)禅師の歌に表れてるんだと思うんですけどもね。
 
金光:  ただちょっと次元は違いますけれども、以前伺ったお話の中にですね、子どもの頃太平洋戦争が始まって、それでアメリカの日本人は強制的に砂漠へ集められた。
 
岡村:  日系人がね。
 
金光:  日系人だけ集められて、三年ばかり砂漠の中で暮らされたことがあって。そこの日系人の中での稽古事で、日本舞踊なんかもされてたわけでしょ?
 
岡村:  そうですね。皆さん何か稽古事をするっていうのが日本人の文化の中の。
 
金光:  理屈でこうしなさいというんじゃなくて、まずたたかれたり、足が言うこと聞かないと足をたたかれたり。悪いところをちゃんと体で。
 
岡村:  頭で考えちゃ駄目ですからね。どこが悪いということを、ピシッとこうたたいて頂く方が分かりやすいですよね。
 
金光:  それで何回かやってるうちに、それが自然にできるようになる。
 
岡村:  まあねえ、そのはずです。
 
金光:  それも結局無心の一種ではあるわけですよね。
 
岡村:  それがつながるんですね。つまり自分の意志っていうものは、非常に限られ、限界があるわけです。どうしてかっていうと、測ってるから。意志っていうもの秤なんですよね。だからその秤は限界があって、限界を超えなくては自由にならないっていうことを、私たちみんな知ってるわけですよ、どっかでね。
 
金光:  そういうふうな無心というのは、理屈を超えたとこだということは、体得していても、やっぱり思春期になって反抗期が来ると、「こんな世の中は嫌だ」とか、「人間嫌だ」とか。
 
岡村:  そうです。
 
金光:  そういう問題が起こってくると、これは無心になれないわけですね、そこんとこでは。
 
岡村:  もうどっか行っちゃいますね。
 
金光:  どっか行っちゃう。
 
岡村:  そういうような―まあだから死ぬまでそのことを修行するわけじゃないんですけども、できるだけ確認して、自分に言い聞かせるというのか、何回も何回もそれを思い出すということをしないと、恐らくまあ例えば大拙先生のような人間ができないんじゃないかなと思ったりしますけどね。
 
金光:  以前聞いた言葉で、岡村さんに「スッとやればいいんだ」と、「スッとすればいいんだ」ということをおっしゃったそうですけども。すばらしい言葉だとは思ったんですけども。できませんけどね、なかなか。
 
岡村:  いえいえ。私が、アメリカにいる時に、先生に「みんな男の人は修道院に入ってね、お寺に入って修行するんだけれども、私たちどうしたらいいんですか? 何をしに行くんですか?」って聞いたんですね。そしたら先生が、「何でもないよ、美穂子さん」って。「ともかくスッとすることを覚えるんだ」っておっしゃったの。それがなかなかね。「あんた、猫を見てごらんなさい。猫は外へ行きたいっていう時には、スッと行くじゃないか」って。「人間みたいに、あっち見たり、こっち見たりしてね、何かおいしいものがないかとかね、考えがおどってですね、行ったり来たりするっていうことはないぞ」って。「猫でも犬でもハエでもゴキブリでもスッと行くぞ」っていう話をして下さったんですね。「それを人間は残念ながらお寺に入らんと分からん」って。「言ってもらわないとね。たたいたりなんかされないとなかなか元に戻らんのだ」という話をして下さったんですよ。
 
金光:  そうすると、僧堂なんかで修行してるのも、坐禅するのが目的というよりも、むしろスッと無心になること。
 
岡村:  無心になることのお稽古なんじゃないんですか。反復することですね、何回もね。
 
金光:  そういう無心になってできるということは、お釈迦さん以来の、仏さんの教えと言われてるものの伝統の中にちゃんとあるんだと。
 
岡村:  それが中身なんですね、きっとね。まあ私たちみんな幸せになりたいし、幸せって何かっていうのは、親鸞聖人のように「安心決定(あんじんけつじよう)」ですよね。安心するということと、それから自由になることね。生き物だから自由にやりたい。それをどうしたらいいかということを、教えてくれるのが宗教でしょうね。まあ宗教というか、仏教でしょうね。
 
金光:  自由ということと、自由に無心にいろんなことができて安心できると。
 
岡村:  自分でね、「自分が自分でよかったんだということだぞ、美穂子さん」って。「オギャッと生まれてね、あ、これで良かったんだ、美穂子さん≠チて、自分で思えるっていうのが安心だぞ」って。どういうのかな迷わないっていうかな、これでよかったっていう。それで先生がこうテーブルたたいて下さるんですよ、こういうふうにして(机を叩く音)。「これ今の聞こえたか?」っておっしゃるんですよ。先生は私に聞くんです。「どこで聞いた今のは?」っておっしゃるんです。
 
金光:  普通なら「耳です」って言うじゃないですか。
 
岡村:  私はね賢いから言わないんですね。それで「全身で聞きました、先生」とこういうふうに言うわけね。
 
金光:  考えましたね。
 
岡村:  賢い顔して。そしたら先生がね、「いやいや、そんなケチくさいもんじゃないぞ」とおっしゃる。
 
金光:  全身で聞くと、それまだケチくさいとおっしゃるんですか?
 
岡村:  私の体がケチくさいとおっしゃってるような感じ。同義語みたいな感じで。そしたらば、「全宇宙が聞いたから、美穂子さん、あんたが聞いたんじゃないか」って。つまり真実というものは、ここからここまでじゃないんですよ。
 
金光:  それはそうですよね。
 
岡村:  「それが無だ」っておっしゃるんですよ。無っていうのが、結局もう余すところがないから無なんですね。その余すところがない。どこを見ても、残りがないんですね、無の。
 
金光:  もうつかまえる必要もないわけですわな。
 
岡村:  そのとおりなんです。無限というものはそういうものだ。それは本当に阿弥陀仏の名前そのものなんですよね。「ア・ミタ」なんですよ。「ア」っていうのは梵語の否定語なんで。
 
金光:  否定ですわね。
 
岡村:  ああやっぱりそうですね。「ミタ」というのはメーターみたいなもんで、秤ですよね。だから測ることがないという仏様なんですよね。そういう「測ることがない」という、「測る必要がない」じゃない。「測ることがない」。そういうふうにして、無限が何かっていうか、無が何かっていうことを言って下さる。指して下さるわけですよね、示して。
 
金光:  そうなると、普通は昨日があって、今日があって、未来があると考えますけれども、もう測ることのできない今が続くわけですね?
 
岡村:  もう「即今」なんです、だから従って。
 
金光:  「即」という字と、即ちと今ですね。
 
岡村:  今なんですね。今以外に今がないんですね。過去にも未来にもないんですね。ここなんですね。それをもう何回も何回も言って下さるわけです。何か理屈を言いだすとね。コンとたたいて、「これはどこか」というんじゃないけれども。
 
金光:  今、伺ってるようなお話というのは、鈴木大拙先生の場合は、随分外国へ出かけて、いわば相対的な世界で発展してる西洋の人たちに、東洋的な考え方、思想の大事なところを伝えなければいかんという一種の使命感をお持ちだったようで、でも最後までお年を召してまでも、随分英語でいろんなものを発表されていらっしゃったようですけれども、その時に岡村さんもくっついて行ってらっしゃったようですけれども、印象に残ってる、思い出されることがあれば。
 
岡村:  私、びっくりさせられたことがあるんですけども、東海岸の小さな大学だったんですけれども、先生が講演をされるというんで、大学生ばっかり―男性の大学生ばっかりだったんですけどね、そこのところにバイブルの「旧約聖書」のお話を持ち出されましてね。その初めての人間をおつくりになったアダムとイブの話をお話しされたんですね。その時に神様がアダムに、イブにやがてとても魅力的な蛇がおいしそうなりんごを持ち出しますから、それに誘惑に駆られないように警告をするという場面がありますよね。まあ原罪(アダムとイブは、神に禁じられた善悪を知る木の実を食べた)の話なんですけど、究極的に、キリスト教的に言うと。人間らしくアダムとイブはそれをかじるんですね、そのりんごを。誘惑されて。そうすると、「そんなことをしちゃいけないと言ったじゃありませんか。言うことを聞かないから、あなたは私の楽園を出ていきなさい」と神様がいうわけですね。まず追い出されたアダムとイブが永久に追い出されるわけじゃないですか、キリスト教の場合はね。それで罪人として、その子孫として生きなくちゃいけないわけですね。そうするとね、向こうの学生さんというのは、私本当にすばらしいなと思ったの。すぐ手を挙げましてね、一人がね、「そしたらどうしたらいいんですか? 先生」って、すぐに聞いて大拙先生にさし上げたんですね。そしたら、大拙先生、間髪入れず何の問題も持たないでですね、「もう一度りんごをかじるんですな」とおっしゃったんですね。仏教的に言うと、もう一度りんごをかじるということは、どう言うんですかね、本来をもう一度確認するということになりましょう? つまりいっぺん味わったことなんですけれども、でおいしかったんですけれども、実際はもう一度それをほんとにそうなのかっていうことを、意識の上で確認するわけですよね。その意識の上に確認するっていうことは、役に立つことじゃないですか、後から。何て言うのかな「二回かじりなさい」と。そうしたら、さっきの言う自由っていうのかな。「思いのままになるわざぞよし」というのが楽園ですね。これ私たちが欲しい楽園じゃありませんか。自由であって、安心頂いて、これが究極であるということの安心ですね。そういうことが私たち人間としての楽園ですわね。それは神様そのものじゃありませんか。仏様そのものじゃありませんか。もう一度楽園…かじってみたらどうですかって答えられたんですね。そしたら本当にすばらしいなと思ったのはね、講演を聞いておられたその講堂の人たち、「おお?っ!」って言うんですよ。理解ができるって言うんですね。そういう話を通して、仏教というものに触れるというかね、そういうことができた場面が、私はもう本当に忘れられませんですね。
 
金光:  その時か、あるいはまた別な時か知りませんけれども、神様が「光あれ」と言ったら夜が明けたっていうか、明かりがさしてきたというのがありますね。
 
岡村:  はい。大拙先生ね、コロンビア大学でね、「その前の神様は何してたんだ」とおっしゃるのよ。そこまで考えられるのが東洋思想だって思うんですね。
 
金光:  ああ、なるほど。その前の神様は何をしてたのかと。
 
岡村:  「出る前の神様は、どこにおられて、何をしておられたんですか?」って、皆さんに聞くんですよ。それ誰も答えられないんですね、向こうの人は。そういうことの考えっていうことがね、「考えたことない」と言うわけです。そういう種がないですよね、考えの。
 
金光:  自由のもとがそこに出てくるわけですね。
 
岡村:  そういうことですね。それは私たちの中にも既に備わった答えだということにも、大乗仏教では言ってくれてるわけですから、こんないいことないと思って、私。
 
金光:  随分しかし、自由になるわけですね。
 
岡村:  そうなんです。
 
金光:  もう物語というのは固定してるもんだと思ってると、そんなことはとても考えられないんですけれども、そうではなくてもう一度食べればいいとか。
 
岡村:  もう一度りんごを召し上がれっていう感じなんですね。「Have an other bite」って言うんですよ。「Have an other bite」もう一つかんだらどうですか、という感じですね。どうぞっていう感じなのね。そういうのをね自由に至る所でそういう話をされるっていうのがありましたね。
 
金光:  やっぱりその辺の呼吸、言葉が応答の中から出てくるというのは、やっぱり禅によってジャーナ(禅定)の中で…。
 
岡村:  つかんだものがあるからですね。
 
金光:  人間の本来の働きみたいなものを。実感として持っていらっしゃるから、即座に出てくる。
 
岡村:  一体になって働いてるわけですね。そういうのはね本当にいつも感じさせて頂いておりましたですね。
 
金光:  そこへいくと、宗派的な区別みたいなものも、もうどこかへ消えてしまいますね。
 
岡村:  もう宗派どころじゃない。つまり先生にとっては、「二本足で立ち上がった生き物」っていう。
 
金光:  ああ、そこのところへいく。
 
岡村:  そこに戻りますね。何色の…皮膚の色じゃないんですね。
 
金光:  西洋、東洋も区別はなくなるわけ。
 
岡村:  区別ないんですね。どう言うのかな、困ってるっていうか、悩んでるのは皆一緒だという感じですね。人間として悩みの出どころが一緒だと。
 
金光:  今、現在置かれている自分というものを、よくよくそれこそ思索の間じゃありませんけれども、あれ余計なことをいろいろ外に向かって求めるんではなくて、自分自身を―「脚下照顧(きやつかしようこ)」という言葉がよくありますけれども、自分の足元を見なさい。自分自身がどういうふうな。
 
岡村:  そうですね。即今がなければ自分もなし。相手ももちろん、自分がないということは相手もないということですのでね。まずそれがはっきりしないとでしょうね。
 
金光:  即今というところに、今自分が生きているということが分かると、これ世の中だいぶ違ってきますね。
 
岡村:  違ってくるんですね。それ以外には真実というものがね、過去はもう終わってしまっているし、未来はまだ来てないでしょ。今しかないというね。そういうことをもう一度確認させて頂くというか。それで知ってるはずだから確認だっておっしゃるんです。
 
金光:  それはそうですよね。当然皆与えられてるから分かってるはずだと。
 
岡村:  いっぺん食べてるはずだから、おいしいこと知ってるはずだっていうのも、何かそこにあるわけですね。その味はどこかで分かってるはずだというのもあると思うんですね。
 
金光:  私がお会いした時、こんな大先生に何を伺っていいかよく分からなくてですね、まあお若い頃の一種の修行の話なんかを伺った後で、もう放送離れて、「先生はお困りになることはありませんか?」って聞いたんですよ。そしたらね、「うん、わしも困ることがないわけじゃないけれども、まあ困らんとこで困っとるかな」みたいなことをおっしゃいましたね。
 
岡村:  それ上手ですね。それすばらしいですね。
 
金光:  やっぱりいろんなことを頼まれると、全部片づけるわけにはいかないから、順番で自分がこれは大事だと思われるものから片づけるんだということをおっしゃったと思うんですけれども。
 
岡村:  相対の次元は、必ずそれがあっていいんじゃないんですかね。
 
金光:  生きてるということは、相対の次元で生きてるわけでしょうから。
 
岡村:  しかしそれが相対だって分かればいいんですけどね、ごっちゃになっちゃうんですよ、もう頭の中がね。
 
金光:  もう頭だけで考えると、そういうふうになりがちなんでしょうけれども。これはやっぱりでも外国の、いわば相対の次元で考えて、いろいろ苦労してる人たちには、禅の考え方、仏教の考え方、そういうのを伝えるのはなかなか難しいんじゃございませんか。
 
岡村:  そうですね。すぐにはできないんじゃないかと思います。私がもう大変、先生のおそば近くに居させて頂いてもなかなかですもの。もうそのつど聞くんですけれども、意識がある以上は、意識の中から答えを見つけようとするから。
 
金光:  ああ、それで思い出しました。サルトル(フランスの実存主義哲学者:1905-1980)の本を読んでる時の感想というのがありましたね。
 
岡村:  ああ、そうなんですよ。サルトルさんを読んでおられましてね。崖っぷちというところの場面が、こうとても上手に書かれて、それで崖っぷちから自分はこうやってこう見下ろしてですね、「怖い、怖い」と言ってるんだっていう文章があるんですよ。そしたら大拙先生がね、「何でもないじゃないか。飛び降りればいいじゃないか」っておっしゃったんですよ。「飛び降りたらば、下にね蓮の花が待ってるぞ」っておっしゃったんですよ。「飛び降りてみてごらんなさい」って言ってね。もうむちゃくちゃなことを言う人だなっていうふうに…。平気で向こうの人におっしゃられる人だったんです。
 
金光:  いや、それは飛び降りた経験があるから言える…
 
岡村:  それはそうかも分かりません。飛び降りないと言えませんからね。それが「死人となりて」なんです。
 
金光:  そうですね。確かにいろんな問題が目の前に出てきますけれども、やっぱりもう飛び降りなきゃしょうがない時は、飛び降りなきゃしょうがないなという。
 
岡村:  現実に飛び降りてるんですけどもね、それが自覚があるかどうかの問題になると思うんですけどね。
 
金光:  そこのところがなかなか難しいですね。
 
岡村:  そういうちょっとしたこの次元の違いが、大乗仏教にはあるっていうことは本当にありがたい話だと思いますね。どうしてかって言うと、私たちの中にいろんな次元があって、同時に動いてるっていうこと。同時に、即即動いてる。
 
金光:  あ、そうなんですね。分別以前のものが動いていると…。
 
岡村:  …だけかと思っちゃうんですけれども。
 
金光:  その辺のところが同時に動いてるわけだ。
 
岡村:  同時に動いてるということがあることに気がつくというか、教えて頂けるっていうかね。そういうのがすごいなと思ったりします。
 
金光:  この世に生きていく私たちが、それぞれそれこそ掛けがえのない今を生きているというか、生かして頂いてるということに気がつくと、これはある意味では、それこそ自由に生きることができるわけですし、ここの大拙館の中にもですね、ここの今伺ってるこの塀の向こう側の方には池があって、その池を眺められる建物もあるわけですけれども、説明を聞いてると、これは「維摩経」のお経の中に出てくる維摩居士の方丈にいろんな―方丈というのは、その部屋に、あまり広くない部屋ですけれども、いろんな人がいくら入ってきても自由に入れるような世界だというような。
 
岡村:  無限にね。
 
金光:  無限に入れる世界だというふうにおっしゃって、説明があるようですけれども、岡村さんのサジェスチョンがあってああいうふうになったとか聞いたんですけれども、その辺はどういうことだったんでしょう。
 
岡村:  いや、私が申しましたことは、「大拙先生、どういう人ですか?」って聞かれたんですよね、建築家の谷口先生に。私がどう返事していいか分からなくって困りましたんですよ。すぐに即答っていうのが難しくって。まあ建築ということになりますと、天井があるわけですよね。「大拙先生は天井の低いのがお嫌いでした」と申しちゃったんですよ。「どういうわけか先生は天井の低いところがあんまり好きじゃなかったようです」って、ひと言申し上げただけなんですけれどもね。「維摩経」の話に戻りますけれども、あの経典は心のことを言っているんだと思うんですよね。四畳半の方丈って書いてありますけれども。心には無限に人が出はいりしていいんだという意味なんじゃないんですか、自由にね。
 

 
金光:  上を見ると、私はひっくり返りそうなんですけど、代表で見て下さい。
 
岡村:  代表で見て…。
 
金光:  これはやっぱり普通の天井よりだいぶ高いですね。
 
岡村:  そうですね。私も出来上がった時に拝見して、ああ谷口先生のデザインっていうか、大拙先生を理解するというのを、「天井が低いと駄目だ」というのがひと言聞こえてもうできるだけと思われたのかなと思ったりしておりますね。しかし本当に美しいものを造って頂きました。形っていうものは、仙(せんがい)(江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる:1750-1837)さんじゃないですけど、三角から、三角を二つ合わせると四角になるわけですよね。その三角が―色っていうの、色っていうのは形っていう仏教用語で、色が形という意味ですよね。
 
金光:  「色即是空(しきそくぜくう)」の「色」ですね。
 
岡村:  それがああこういうふうにして、三角を二つ持ってくると四角になるんだなっていう意味も何か感じましたですね、これにね。それがまた「空」だっていうこと。「色即是空」という「般若心経」のもとにある概念ですね。そして「空即是色」っていうこと。両方合わせて書いてありますけれども、それがこの何て言うんですかね、空っていうのは枠のない空ですから、無っていうことと一緒なんですから、何もないことが全てあるものに何もないものが…。
金光:  無と有の関係みたいなのが。
 
岡村:  そうですね。即あるという。同時にあるということを言って頂いてるというのが感じられました。
 
金光:  無分別の世界があるということですね。
 
岡村:  そう分別と無分別が両方ないと、どちら側もないですよね。そういうことを感じるというのがありますですね。思い切った真四角というのがね。それがとても何か珍しいっていうか。
 
金光:  ここの天井の四角を見て、向こうのお部屋の三角、四角を連想できる人がいたら立派なものでございますね、なかなか。
 
岡村:  そうですね。そうして頂くと一番いいかなと思って。それで外は水鏡ですからね。それは私たちの心そのものを映して頂けるっていうのがありますから。
 
金光:  ただ風がない時は穏やかですけれども、ちょっと風が来ると…
 
岡村:  そう波が立つんですね。本当にいろんな意味で、仏教の真実というものをね、仏さんの真実というものを表して頂いてるかなと思って喜んでいるんですね。
 
     これは、平成二十九年五月十四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである