永遠に、彫り続けること
 
             サグラダ・ファミリア専任彫刻家 外 尾(そとお)  悦 郎(えつろう)
1953年、福岡県生まれ。福岡県立福岡高等学校、京都市立芸術大学美術学部彫刻科を卒業。非常勤講師を経て、1978年バルセロナに渡りアントニ・ガウディの建築、サグラダ・ファミリアの彫刻に携わり、現在は専任彫刻家。ネスレ日本のネスカフェゴールドブレンドのCMで一躍活動が日本中に知れ渡る。2000年に完成させた「生誕の門」が、2005年、アントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録される。リヤドロ・アートスピリッツ賞受賞。日本とスペインとの文化交流の促進の功績により、2008年度外務大臣表彰受賞。2012年、国際社会で顕著な活動を行い世界で『日本』の発信に貢献したとして、内閣府から「世界で活躍し『日本』を発信する日本人」の一人に選ばれた。スペイン、バルセロナのサグラダ・ファミリア主任彫刻家。京都嵯峨芸術大学客員教授。
 
ナレーター:  地中海に面したスペイン第二の都市バルセロナ。中心街を少し離れたところにその建物はあります。着工から百三十五年。今も建設が続くサグラダ・ファミリア贖罪(しよくざい)教会です。大聖堂の中には、荘厳な祈りの空間が広がっています。柔らかな光に包まれ、天に昇っていくイエス・キリスト。天井はまるで深い森のよう。強い樹木の構造にヒントを得ています。教会の象徴である東側の正面は、「生誕のファサード」と呼ばれています。壁一面に刻まれた数千もの彫刻には、イエス・キリスト誕生の物語。そして生きとし生けるもの、命への賛歌が描かれています。「石の聖書」とも呼ばれるサグラダ・ファミリア。設計したのは、地中海の自然を愛した敬虔(けいけん)なキリスト教徒です。アントニ・ガウディ(1852-1926)。数々の独創的な作品を残した天才建築家です。ガウディは、サグラダ・ファミリアに生涯をかけ、完成を見ずに亡くなりました。ガウディが亡くなって九十年。その遺志は、世界中から集まった職人たちに引き継がれてきました。工房に一人の日本人の姿がありました。専任彫刻家外尾悦郎さんです。二十代の頃、腕試しのつもりでヨーロッパに石掘り修業に出て、サグラダ・ファミリアと出会いました。以来三十九年間、この場所で彫刻を彫ることは、ガウディとの時空を超えた対話の日々でした。サグラダ・ファミリアを通して、外尾さんがたどりついた石を彫ることの意味を伺います。
 

 
外尾:  あそこのこのシンボル。これを撮ると面白いですよ。全部に意味があります。同じパターンでこう並んでる。日本では大変私のことを評価して頂いて、主任彫刻家とか、今はまあ芸術工房監督とか、サグラダ・ファミリアの方でも言ってもらってますけれども、スマートにそこにいるわけではなくて、僕はいつも外国人であって、いつだって用がなくなればいなくなっていい人間。そういう中でずっと…。昔は来月の給料すら、三十何年間必ずもらえるなんてことは一度もなかった。
 

ナレーター:  生誕のファサードの中心に設置されている十五体の天使像。外尾さんの作品です。一体一体十六年かけて彫りました。全ての彫刻が完成した二○○五年、生誕のファサードは世界遺産に登録されました。

 
外尾:  なかなかあれだけ大きな伽藍ですから、全部の答えっていうのは、ガウディの資料がそうない中、自分で決めていくというのは大変です。で天使にも、何かお姉ちゃん役をする天使とか、新米の天使とかいるんじゃないかと思って。「あなた天使になりたてだから太鼓にしときなさい」みたいなね。そういったね、あんまり人には言えないような無駄かもしれないけれども、そういう物語が自分の中にないと、形っていうのは出てこないんですよ。私の中でそういう天使同士のつきあいみたいなものまで描きながら。だから手の動きも、あれはどの音を出そうとしてるんだろうとかね。またハープというのは、とっても優雅な動きなんですね。でもものすごい力要るんですよ、あれは。それの力も表したかった。それさえあれば、弦が見えるんじゃないかと。弦が見えれば、そこから音も聞こえるんじゃないかと思ったんですね。
 
 
ナレーター:  一九五三年、外尾悦郎さんは福岡市で生まれました。母親の反対を押し切り、芸術大学に進学した外尾さん。夢中になったのが石の彫刻でした。本場で思いっきり石を彫りたい。二十五歳の時、三か月分の旅費を手に旅に出ました。ヨーロッパを回り、最後に巡り合ったのが、サグラダ・ファミリアでした。
 

 
外尾:  社会の中で人間として生きていくうえで、何が大切かをもう神は準備してるんです。その一つの手段が旅に出ること。旅というのは、「アドベンチャー」といって、何が起こるか分からない。そこでプラスの良いことばかりではない。そのマイナスのことが起こるために旅はあるんです。それはどういうことかというと、そこで初めて謙虚さを学ぶんです。自分は何も知らないということをまず知る。言葉を知らないし、土地勘もないと、トイレにも行けないんです。これはまさしく赤ん坊と一緒です。そういった自分が何もできない、何も知らない、もちろん効率的に食べることも働くこともできないわけですから。つまり外国というのは、もともと自分を必要としていない土地なわけですから、排除されてしかるべき。その中でどうやって生きていくかを学ぶ。それは若者にとってとっても大切なことなんですね。で若者たちには、それぞれのニンジンがあるんです。絵画を見たいとか、それから語学を覚えたいとか、いろんな個人の目的があるんですが、私の場合は石を彫る。石というものに魅せられて―あの…何でしょう、自分が心の中でこれだという疑問をはっきり分からないんですけど、もやもやとした、でもそのもう爆発寸前の居たたまれない疑問を、これに答えを見つけるためには石を彫らなきゃいけない。非常に不条理な、非理論的な方法なんですけれども、石を彫ることによって、もしかしたら僕の探している答えは見つかるんじゃないかと思ったんですね。
 

 
取材者:  外尾さんが彫らざるを得ない出発点にあることっていうのはどんなものでしょう?
 
外尾:  あえて言葉にはできません。でもそれは、あえてヒントになるようなことを申し上げれば、ほんとに柔らかい華奢(きやしや)なふわふわの不安の、しかし混沌としながらも、ものすごいエネルギーが充満してて、一瞬触ればマグマが飛び出し、何かを蹴飛ばしても済まない。いつも喧嘩相手を探している。誰かと喧嘩しなきゃみたいな。誰か…このエネルギーたまりにたまったエネルギーを、どうすりゃいいんだみたいな。「どこへぶつけりゃいい?」。そういうカオスですよね。
 
取材者:  その柔らかなもの、カオス(混沌としたさまをあらわす言葉)というものは、今でも外尾さん自身の中にありますか?
 
外尾:  それは常にありますね。
 
ナレーター:  大学を卒業後、就職する気になれず、定時制高校で非常勤講師をしていた外尾さん。一度だけの人生をどう生きるか。そして出会った巨大な石の教会。当時は観光客もまばら。職人たちが汗を流す工事現場のようでした。サグラダ・ファミリアは、一八八二年、貧しい人々の寄付で細々と建設が始まりました。ラテン語で「聖なる家族」を意味し、イエス・キリストと聖母マリア・父ヨセフに祈りをささげる教会です。このバルセロナに、外尾さんはとどまることを決意します。「ここで石を彫らせてほしい」と建築家に頼み込みました。
 

外尾:  私の探している作品を通して、その向こうにあるものをつかもうとしているものが、サグラダ・ファミリアにはもう充満してたわけですね。それはガウディがそうだったからです。このサグラダ・ファミリアというものを通して、何かがある。
 

 
ナレーター:  日本を出て一か月半。外尾さんは試験に挑戦。サグラダ・ファミリアの彫刻家として働くことが決まりました。朝七時から、時には夜十時を過ぎるまで、無我夢中で彫り続ける日々。石を彫っている時、外尾さんは不思議な感覚を覚えるようになります。
 
外尾:  石を外から見ていたはずの自分が、いつの間にかもう石の中に入ってる。それこそ一番幸せな感覚ですね。ほんとにね夏の暑い時にも暑さを感じないし、冬の寒い時も寒さ感じないし、時間も感じないし、重力すら感じない。石の中っていうのは、一つの宇宙。そこの中で自由に、ものすごく自分がふわふわと、でも触りながら石をよけていっているような感覚。ほとんどね石を彫ったあとっていうのは、その時の記憶はないんですけど、もう彫ったあとっていうのは、へた?となって。だからその時にね、初めて石から、石の口からぽんと放り出されたような、その体の疲れの心地よさ、そして石の中にいた今までの一日八時間か十時間のその空間と時間。それがやっぱりたまんなくて、毎日手が痛いとか何かこうあっても、朝一発彫り始めると、ふ?っとそういう感覚に戻っていく。そういう魅力ですかね。石の粉っていうのは、あんまり吸っちゃいけないんだけども、心の中に深呼吸ができる。広?い自分だけの空間を、石を彫ってると与えてくれるんです。穏やかな、もうこの世の食べることも、人間関係も全てスーッと石がよけてくれて、そこに自分だけの空間を作ってくれる。それが石を彫っている時のというか、石が好きな人のおおむねのそういう感覚があるから、理由じゃないかなと思いますね。
 

 
ナレーター:  石を彫ることの意味を、外尾さんは考え続けてきました。サグラダ・ファミリアの彫刻にも使われている大理石の採掘場です。数億年の時を経て姿を現した石の表情。石一つ一つの色や模様、輝き、それぞれ個性が違うといいます。外尾さんは自分は芸術家ではない。一人の石工(いしく)だと言います。
 
外尾:  石を彫り始めた時に、どうしても学ばなきゃいけないのは、道具を大事にしなければ明日彫れないということです。どんな疲れていても、火床をおこして、コークスの熱でたたいて、で鑿(のみ)を整備して明日のために置いていく。焼き入れしておく。道具を大事にしなかったら、明日の自分はない、と感じた時に、まず自分が道具に使われているものに少し入っていく。石を彫り始めると、石の目を見たり、石の言うことを聞かないと、自分の彫りたいものが彫れないっていうことに気付く。そしたら石は単なる材料であって、自分は芸術家だと。石の前では全能の神のように振る舞えると思っていたものが、全くそうではなくて、石の言うことを全部聞かないといけない。言ってみれば、石の奴隷みたいな。つまり道具になること。何か偉大な何かの、自分が完璧な道具になれたら、これはこれは人間にとって最高の幸せです。だから芸術というのは、自分の中から生まれるのではなく、自分ですら自分と分からなくなるぐらいに、偉大なものの一部になったとしたら、ほんとに最高の瞬間じゃないかなと思う。でいろんな疑問がそれで消えるでしょ。
 

 
ナレーター:  外尾さんにとって、石を彫ることの原点となった人がいます。外尾さんが石と出会ったのは、京都での大学時代のことでした。
 
外尾:  おはようございます。
 
寺の人:  おはようございます。
 
外尾:  ある人のお墓がここにあると聞いて。
寺の人:  お名前を…。
 
外尾:  上田弘明(うえだひろあき)さん。
 
寺の人:  弘明様。
 
ナレーター:  彫刻科の教授だった上田弘明さん。外尾さんに石を教えてくれた恩師です。
 
寺の人:  智積院(ちしやくいん)のことは分かりませんよね?
 
外尾:  はい。
 
寺の人:  で上田様のお墓は、この五番です。
 

 
外尾:  ああ…これだ! 上田弘明。やっぱり石が違うね。
 
取材者:  「石が違う」っておっしゃいましたね。
 
外尾:  うん。上田先生はどんなお墓にしてもらったのかな…。まあ墓石屋さんには悪いけど、ピカピカ光ったのじゃない方がいいなと、僕は思ってたんですよ。上田先生の石の彫り方を見ていると。
 

 
ナレーター:  上田さんは、太平洋戦争末期、特攻隊員でした。寡黙な上田さんのもとで、外尾さんは朝から晩まで一緒に石を彫りました。外尾さんが、サグラダ・ファミリアで働き始めた翌年、上田さんは自ら命を絶ちました。
 
外尾:  戦争で特攻隊として死ぬべき教育を受けていながら、明日からは…戦争が終わって自分の番がもうすぐだったのに、戦争が終わって…。それまで教官は、死ぬことだけ教えていたのに、突然「明日からお前は生きろ」と言われて、彼は「そんな世の中というのは簡単に変わってしまうのか」ということで。何か変わらないものがなければ、生きてはいけないと思ったんでしょう。石を彫り始めて、彫刻の先生になった。でも彼が求めていたのは、彫刻ではなくて、ただひたすら石を彫ること。何百年たっても変わらぬ石を彫ること。ただその彫ることが彼の最終目的だったような。だから展覧会なんていうのはほとんどやる気もなくて。でも今思うと、そういった死を覚悟した人間が、生きていくうえで、先輩たちがみんな死んでいったその疑問。桜のように散っていったその理由をずっと探し求めて。で僕がサグラダ・ファミリアに入って、それからすぐに上田さんは自分で首を落として亡くなりました。だから本来行くべきところにやっと行けたんだなという、僕はその時にそういう気がしました。大変悲しかったです。
 

 
ナレーター:  祈るように、ただ一心に石と向き合う姿。スペインに渡って三十九年。外国人の外尾さんが、サグラダ・ファミリアで働くことは、決して簡単なことではありませんでした。
 
外尾:  もうここら辺に来ると、いい匂いがして…。もうずら?っと飲み屋街ですね、ここは。
 
ナレーター:  サグラダ・ファミリアで仕事を始めたばかりの頃、一人で通ったバル(Bar:食堂とバーが一緒になったような飲食店を指し、スペインやイタリアなどの南ヨーロッパにおいては酒場、居酒屋、軽食喫茶店のこと)。毎日のように職人たちの厳しい視線にさらされていました。
 
取材者:  どんなことありました? 最初の頃。何か覚えてるこう…一番きつかったこと…。
 
外尾:  それはやっぱり「石が彫りたい」と言って、石を彫り始めた時に、周りの職人がみんな、「こいつはどれだけできるんだ?」と見てるわけですよ。「お前は明日いなくなる」そういう目ですよ。「お前がいなくなっても何にも困らない」という。
 
取材者:  でも最初は何も分からないわけじゃないですか。仕事の相手の流儀とか、何言ってるかも。どうやって…?
 
外尾:  自分で見せるしかない。意地悪な職人は、「やってみろ!」って言ってね、ホイッつって渡すんですよ。
 
取材者:  石を?
 
外尾:  鑿とハンマーをね、ホイッて。ヘラヘラ笑うのはよく分かってて、で指さした所はね、石というのは九十度のエッジを作るのはとっても難しいんです。でもそれを八十度ぐらいのエッジなんです。「これやれ」って言うの。「どうせ割ってしまうだろう」と。それはもう脂汗どころか、血の汗が出るような緊張感ですよね。ここで俺が失敗して、鑿が上にいくものを、下にしてしまったら一生駄目なんです。ここではもう仕事はないです。勝負は今なんですよ。やらなきゃいけないんですよ。「まあちょっと今は…明日ね」なんて言ったら、それでもうもっとひどいことになりますから。その時に今やらなきゃいけないんです。でもう血の気も引くような思いで平気な顔して。「どうだ? やっただろ」っていう。そしたら…でおしまい。そこに会話っていうのは何にもないんだけど、ものすごい人生を変える勝負があるわけですよ。
 
取材者:  何で続けられたんですか? そんなところで。だって言葉分からない、嫌がらせも受ける。何が支えてたんですか?
 
外尾:  あんなすごいとこないですよ。どんな嫌がらせを受けても、どんな条件だろうとも、あんな仕事は世界にないです。いろんな問題はあったとしても、石がやっぱり中心だし、その石がその場で終わるんじゃなくて、次に続くわけです。そしてその石は、以前から続いてきたんだよね。作り続ける。その真ん中に僕はいるわけですよ。
 

 
ナレーター:  外尾さんが、ガウディの魂に触れたと感じる仕事があります。生誕のファサードの奥にあるロザリオの間。生前ガウディが、唯一造った教会内部の部屋です。しかし、一九三○年代、この部屋は銃弾を浴び破壊されました。スペイン内戦が勃発。戦禍はこの教会にも及んだのです。半世紀近く封印されていたロザリオの間。その修復を任されたのが外尾さんでした。
 
取材者:  マリア様の顔削られた?
 
外尾:  削られてますね。
 
取材者:  イエスの顔も?
 
外尾:  顔も頭も手も足もないですね。それはそれはおぞましい光景でした。
 

 
ナレーター:  ガウディは、ここに何を描いていたのか。外尾さんは徹底的に調べました。正面にイエスを抱いたマリア像が置かれ、部屋全体に「旧約聖書」の物語が描かれていたことが分かりました。片隅に、外尾さんは、奇妙な彫刻があることに気付きます。今まさに爆弾を投げようとする男の彫刻。しかし、修復前は顔も腕も破壊されていました。なぜガウディは、一体だけ現代の犯罪者を作ったのか。外尾さんは、ガウディの人生について書かれた資料をくまなく読み、そしてある事実を知ります。ガウディが思いを寄せていた人の家族が、爆弾テロの犠牲になっていたのです。貧しい若者が、劇場の二階席から観客に爆弾を投げつけた事件。産業革命のただ中、貧富の差が急拡大していた時代でした。外尾さんは悩みます。ガウディは、爆弾テロの犯人を描くことで、何を伝えようとしたのか。
 
取材者:  その若者の顔って破壊されてたんですよね。どんな顔だったか残ってなかったんですよね。
 
外尾:  ないんですね。ほんとにね、正面からの顔とか横顔とかね、それがあってもまだ難しい。でも何もない。何もないっていうか、後ろからのこれね。このほんとにちっちゃなこの男の手があって、悪魔の手が、爆弾がある。これを拡大しても拡大してもね、もう分からないんだけども。貴金属屋さんって言うのかな、宝石商が見て目にこう拡大鏡をパタッとこう当ててね、じ?っとこうやってもう見るけど…。こっちの目が疲れたらこちらで(笑い)。で、あっ、この男はつかんでないなっていうのが分かるのね。
 
ナレーター:  若者の手は、悪魔から渡される爆弾をつかんでいない。まだ若者は悪魔の誘惑に負けていないのではないか。指先がかすかに爆弾から浮いている。外尾さんは、そこにガウディのメッセージを見いだします。
 
外尾:  実際投げられたんですよ、爆弾は。サンティアゴという男が―テロリストが。ちょっとにやりとしたほんとに危ない男。実際殺してるわけですね、人を。だからつかんでるんですよ。その事件は起こったんです。でもガウディはそこで…いやいや違う。ミケランジェロだったら、もしかしたら爆弾を手に取って投げようとしている瞬間を彫ったかもしれないけど、ガウディは違う。ガウディは、まだ爆弾を投げない可能性を秘めたその希望を常に忘れていない。実際に起こったのにもかかわらず、もし投げられなかったらよかったなみたいなものでもなく、人間にはもう一つの道があるんだと。それを選ぶ、それを救う道は、ここなんだ。この道なんだということを伝えたかった。それがガウディの望む希望。それがほんとのガウディの意思だからです。もしそこでほんとに投げている悪いテロリストの顔と、そういったものを作っていたら、ガウディの夢も希望も、全てその場で消えてしまいます。ほんとに彼が望んだのは、気付いてほしい。実際に起こったそのことを、あたかも起こってなかったかのように。でもこれからも起こる可能性は永遠にあるんだよっていう。その時に永遠に人類を救うための希望として、ほんとに心からの願いをガウディはあそこに託した。だからつかんじゃいけないんです。
 
ナレーター:  ロザリオの間は、「誘惑の間」とも呼ばれています。暴力や戦争、人を惑わすさまざまな誘惑。ガウディは、人間の可能性を信じ、この部屋に表現しました。外尾さんが修復した若者の顔。悪魔の誘惑に負けまいと、必死に救いを求める姿を描きました。ガウディは、他の建築に先んじて、ロザリオの間を造り、この世を去りました。
 
外尾:  なぜガウディは、塔が完成もしていないのに、ここを造らなきゃいけなかったのか。その必要性に、ガウディは強く強く動かされたんだと思います。結局あそこは遺言です。しかも強い強い遺言です。その遺言を読み取らなきゃいけない。
 
ナレーター:  敬虔なキリスト教徒だったガウディが込めた祈り。外尾さんは、その遺志を継ぐ決意をし、洗礼を受けました。アントニ・ガウディは、一八五二年、カタルーニャ州南部の小さな町で生まれました。幼少の頃からリューマチを患い、友達と遊び回ることができなかったガウディ少年。身の回りの自然を観察し、いつも一人で遊んでいたと伝えられています。ガウディのスケッチです。なぜ葉っぱは違う形をしているのだろう。自然の造形への好奇心と、鋭い観察力がうかがえます。ふだん目を留めない小さな命への優しいまなざしが育まれていったといいます。三十一歳でサグラダ・ファミリアの建築家となったガウディ。当初の建設計画は、伝統的な様式にのっとったものでした。しかし、ガウディは計画を変更し、自身の理想の教会を造ろうと、独自のアイデアを取り入れていきました。サグラダ・ファミリアの象徴「生誕のファサード」。外尾さんは、三つの門扉の制作を任されました。この門扉が入ると、生誕のファサードは完成します。手がかりは、ガウディが付けた扉の名前だけ。「希望・慈悲・信仰」です。
 
外尾:  個体をポンポンポン、そして全部で一つのメッセージにしていってるわけです。
 
ナレーター:  もしガウディが生きていたら、扉に何を描いただろうか。外尾さんは、ある考え方にたどりつきます。それは「ガウディを見るのではなく、ガウディの見ていた方向を見る」ということ。
 
外尾:  ガウディというすごい人がどこに立っていたのか、と、まず知らなきゃいけない。そうしないと、彼が見ている方向が見えないわけですから。じゃあどこに立っていたんだと思った時に、敬虔なクリスチャンだったわけですね。彼の神への思いがどういったものかというのは、なかなか想像しにくいんですが、彼の姿勢を見ていると全てを神にささげる。そこへ立っていたガウディ。だからガウディを知るために、そこへ自分も立とうとしたわけです。何かを知ろうとするためには、やっぱりそこへ飛び込まなきゃいけないわけで、視点の違いはやはり同じ方向を見れないですよね。まずガウディの資料を読んでも、ガウディが見ている方向は分かりません。あなたが生きた、そしてあなたの中から出てくる心からの絞り出すような疑問、絞り出すような訴え、それを誰か重ねることです。それがガウディです。それがガウディを自分が見ているという。ガウディが見てる方向を見るという。自分の中に、居たたまれないそういう疑問を持った人は、恐らく資料がなくてもガウディの心が分かるような気がします。そうすれば、ガウディが見てる方向が分かる。
取材者:  実際に外尾さんはガウディが暮らしていた景色とか、日常的に過ごしていたところをたどることで見えてきたものは?
 
外尾:  ほとんどは無駄です。でも居たたまれない、なんとかしてガウディに近づこうとするならば、彼がやったことを、もし可能であればもう一度やってみる。そうすればという、藁をもつかむような思い。でもほとんど無駄です。強い強いガウディと同じ目に遭って、ガウディと同じ状況にならないと分からないでしょう。
 
ナレーター:  外尾さんが考えた門扉のデザイン。テーマは「命への賛歌」です。ガウディが愛したカタルーニャ地方の自然を表現しました。去年生誕のファサードの三つの門扉全てが完成しました。中央にある「慈悲の門」。描かれているのは夫婦を象徴する植物―ツタ。葉の陰に隠れて生き生きと遊ぶ虫たち。ツタは自ら花を咲かせないけれど、無数の小さな命を守り慈しむ。その姿に慈悲の心を表現しました。
 
外尾:  世界中の子供たち、虫が好きなんですね。その虫を見て喜んでほしいなと思ったこと。慈悲の心というのは、我々美しいもの、豪華なもの、立派なものを、どうしても見たがりますけど、人が見たがらない、苦しむもの、悲しむもの、花を持たないもの、そういうものに目を向けるというのが慈悲じゃないかなと思ったんですね。
 
ナレーター:  左側は「希望の門」です。希望の象徴であるアイリスの花。そしてカタルーニャの川辺に生い茂るアシの一種―カーニャ。濁流に流されても、たどりついた先で根づく力強さを描きました。
 
外尾:  あそこで私が伝えたかったのは、小さな希望でもいいと、いつも言ってる小さな希望を絞り出すこと。その勇気が、実は人類全体のすごい希望に生まれ変わる。本人は何にも知らない。それでいいんだと僕は思います。それが本当の希望だと思うんですね。だからガウディが生きた、苦悩した人生。そこでサグラダ・ファミリアを造り、苦悩の中で死んでいったガウディは、実は人類全体にすごい希望の贈り物を託してくれた。
 
ナレーター:  そして「信仰の門」。信仰を持つ人の心には、枯れることのないバラの花が咲いている。そして番(つがい)の小さな生き物たち。素朴で凜とした野バラの持つ安らぎに、外尾さんは信仰の心を表現しました。
 
外尾:  生きてるうちに、いろんなことが起こります。大切な人を亡くしたり、こんな不条理な目になぜ遭わなきゃいけないとか。そういう苦悩の中で、少しでも幸せなんていうことは望まない。ただ安らかな一瞬を、もし与えてくれるのであれば、それだけでいい。ただほんとに安らかな、ほんとに自分だけにしか分からないような安らかな、何もなくてもいいけれども、その安らかな安らかな瞬間。そのために祈るんじゃないかと思いますね。それが信じる。信仰というのは何なのか、というのは分かりませんけれども。それが信じるということでしょうね。世界中の教会で、文化も顔立ちも違っても、同じように謙虚に敬虔に同じ祈りをささげて、同じような問題のよき方向へ向かうように祈る。人間ができることっていうのは、それしかないんじゃないですかね。人間には何にも解決することはできない。近代、そして現代、人間が解決できると思っている。でも木を切ることはできても、明日樹齢百年の木を生むことはできない。何でもできる、自分たちが全部なんだ、全てなんだと思っているかぎり、問題は絶えない、問題は消えない。問題は起こすけれども、解決策を持たない人間たち。これをどうやって、この地球という小さな石ころの上で共に生きていくのか。それはカタルーニャ人であるガウディだろうと、日本人だろうと、もしも同じ方向を見れるとしたら、少し希望が生まれてくるような気がします。人は苦悩があるから成長するんであって、その苦悩がなくなってしまうというか、自分に力があるなんてことを思ったら、それもうおしまいです。苦悩はあった方がいいですよ、適当に。ソクラテスが、「結婚しなさい」弟子たちに。「君たち、哲学者になりたいんだろ? 結婚しなさい。とんでもない嫁さんもらったら必ず哲学者になる」。ここはカットしてね(笑い)。
 

 
ナレーター:  着工から百三十五年、技術の進歩により、サグラダ・ファミリアは二○二六年の完成を目指すと発表。しかし、ガウディが目指していたのは、教会を完成させることではないと外尾さんは考えています。教会の地下にある礼拝堂。その片隅にガウディは眠っています。晩年全財産を建設費に充て、教会に住み込んで仕事に没頭しました。自ら見届けることのできない壮大な計画に生涯をささげました。ガウディは、こんな言葉を残しています。
 
私がこの聖堂を完成できないことは悲しむべきことではない。必ず後を引き継ぐ者たちが現れ、より壮麗に命を吹き込んでくれる。
 

 
外尾:  人間がつくったもので完成したものってありますか。それは人間社会の中で、これはいくらで売らなければいけないという、販売のため、もしくは納品のため、人間と人間が決めただけのことであって、でも来年はまた違う同じ機械が、もっといいものが出てくる。それって人間同士の嘘じゃないですかと。人間同士すら嘘ついてるのに、もっともっとこの神のための―要するに神の家を造ってるんだから、神が本当に求めているものは何か。そのオーナーを幸せにするために、ガウディは一生懸命デザインしていったわけです。サグラダ・ファミリアのオーナーというのは神様。じゃあ神を幸せにするためにはどうしたらいいのか。なかなかこれ難しいと思うんですけども。そこで僕はふと思ったのは、お父さんが子供の幸せを思って何でもやる。お母さんが毎日苦労しながら何でも子供のために与える。子供が幸せだったら親は幸せなんです。それと同じじゃないかと思うんです。ここの主人(あるじ)は、人間が幸せであるためだけを願っている。とすると、サグラダ・ファミリアというのは、人間が幸せになるために造られている、と言っていい。じゃあいつ完成するのか。それは人間がみんな幸せになった時。それまでその幸せになるために努力することがこのサグラダ・ファミリアを完成に導くことなんだと。実際造っていることによって、いろんな問題が出てきます。その問題に気付き、一つ一つそれを解決し、よき方向へ持っていくこと。それがサグラダ・ファミリアを造るということです。だからガウディ自身が言ってるとおり、「サグラダ・ファミリアは、なるべくこういったものは時間がかかった方がいいんだよ」と言ったその意味は、問題があるんだから、出るだけ出て、それを我々は解決して将来のために生かそうじゃないか。それができたら、途中で問題が出たら、やっぱり途中で問題なわけですから完璧ではない。でもそれでいいんです。それが完璧なんです。サグラダ・ファミリアは、そうやって我々を幸せにし、我々に気付かしてくれる。そのために造る道具です。その道具を造っている道具が我々人間です。
 

 
ナレーター:  外尾さんは今、「イエスの塔」の制作に取りかかっています。イエス・キリストを象徴する高さ百七十メートルの巨大な塔。しかしその完成はゴールではありません。「永遠に彫り続けること」。それが外尾さんとガウディの祈りです。
 
     これは、平成二十九年六月十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである