参禅入門
 
                 永平寺東京別院後堂 天 藤(あまふじ)  全 孝(ぜんこう)
                 き き て     三 宅  民 夫
 
ナレーター:  福井にある曹洞宗(そうとうしゆう)大本山永平寺(えいへいじ)の東京別院が、NHKにほど近い西麻布(にしあざぶ)にあります。毎週月曜日の夜に参禅会が行われていると聞いてお訪ねしました。NHK特集などで何度かご紹介した福井の本山は、厳しい風土の中にありますけれども、ここには雪もなくって穏やかなたたずまいです。しかしここにも専門の僧堂があって雲水の方の修行は本山と変わりなく厳しいものだといいます。長谷寺(ちようこくじ)は、江戸時代の初期に麻布の観音で知られ、庶民の信仰を集めていたお寺です。昭和二十年、観音様は戦災で焼失したんですけれども、昭和五十二年に再建されました。三丈三尺、およそ十メートルというおおらかな身体に優しい微笑みを浮かべていらっしゃいます。雲水の方たちが日々生活をし、坐禅の修行をする雲堂(うんどう)は、本堂の左手にあります。修行の場にふさわしい峻厳なたたずまい。ここでは一般の参禅者も入堂を許されていて、参禅会が行われているということでした。以前からかねがね坐禅というものに興味がありましたので、この機会にお寺の方に坐禅の基本についてお話を伺いました。
 

 
三宅:  この寒さの中で、家で何か本を読んでいた方がいいんじゃないかなと思うのに、人はどうして坐禅をやるんでしょうね。
 
天藤:  そうね。本を読んでいましても、他のお仕事していましても、つまり世間から出れないという感じね、どうしても。なんとなくそう思っているんじゃないですかね。本当に世の中から出て、しばらくでもいいから独りっきりになりたいという気持ちがどこかにあるんじゃないですかね。そういうものが、やっぱりその人をして坐禅に向かわしめると。その人にはわからないかもしれんけれども、そうなっているんじゃないかと思っていますね。ですから、難しい言葉ですがね、「本来の自分」というのはね、そういうものはお互いにわかりませんけどね、現実の自分しか。けれども、なんとなく本来の自分に帰りたいという、自然の故郷に帰りたいような気分が、強烈に意識はしないんだけれども、なんとなくそういうものがみんなあると思うんですよね。それが年寄りであっても、若いものであっても、同じことだと思うんですよ。で、本来の自分に、自分を忘れたらその人は堂々たる人生は歩めんのじゃないかね。それで「本来の自分」といっても、脳みそで考えることじゃないからね。これは毎日の行いというか、朝起きたらその人が顔を洗う前に床の上にしばらく坐って、息を調えるとか、とにかくちょこんと坐るという習慣があれば、これが一番禅に入りやすい人なんですよね。その夜寝る前に、同じように床の上に一遍坐って、それから寝るという。そういう寝る癖、起きる癖があればね、その人は非常に恵まれた躾を受けているんだと思うんですね。まぁ疲れたと言ってひっくり返ったり、ビックリして飛び起きて、そのまま世の中に出て行ったってね、それはろくなことできないですよね、本当は。必ずつまずくんですよ。それはある程度線路は敷かれているから、その上を滑っていきますけど、みなお勤めにね。けれども、やはり自分自身が歩んでいるという感じしないのね。何かに引っ張られたり、押し出されたりというような感じ。そういうものに対して、やっぱりなんとなく疲れを覚えるというか、これではいかんというものがどっかにあるんじゃないですかね。
 
三宅:  「自分はなんだろう」ということを、ふと思うことがあるんですが、それではダメなんですか?
 
天藤:  それが良いきっかけですよね。ふと思うという気にね、思うだけで止めずに、その時に背筋を伸ばして、そして顔を上げて、顎を引くんですよね。そして、この手をこういうふうに組んで見るんだね。そしてお臍のとこに置いて見るという。正座でも、足をこうして腰掛けても、足がこう開いていたら、こう直すように、二の字に。八の字に開いていたら二の字に直すとかね。ちょっとした仕草でもいいし、足を引くとかね、腰掛けていたら。背筋伸ばして、顎を引いて、「欠気一息(かんきいつそく)」(坐禅のはじめにする深呼吸のこと)といってね、最初息を吐くんですね。口を細く開けて、吐いてね、吐き終わったら口を閉ざして、鼻から息を吸い込む。それから左右にこう体を揺さぶりながら、もういっぺん背筋を伸ばして、そして自然の息を吐く、吸う、吐く、吸うを繰り返すんですね。ですよ。
 
三宅:  坐禅すごくブームですよね。病気が治るという人もいるし、ストレスも解消できるという人もいますけど、そういう効果というのはあるんですか?
 
天藤:  あのね、今言ったように背筋伸ばして、顎を引いて、息を調えて、頭を使えっていっても使えないんですよ。それは生理的にできないんです。それを頭を使いだしたら、必ずこうなるかね、目がふさがるか、どっかが崩れるんですよ。ですからそれを逆に姿勢を正しさえすれば、息を調えさえすれば、この頭脳の負担が軽くなってくるんですよ。それが健康に役立つといえば役立ちますね。そういうものを狙ってやるんじゃないですけどね、坐禅は。
 
三宅:  ああそうですか。
 
天藤:  ええ。
 
三宅:  狙ってやる人も多いんじゃないですか?
 
天藤:  それはそういうところから入っていって、坐禅は、「いや、これは狙ってやるもんじゃないということがだんだんわかりますから、それも一つのきっかけですけれども、最後までそういう狙いを定めて目標を求めて坐禅を手段としては宗教としての坐禅にはならないですね。やはり哲学の道具とか、精神修養の手段とか、そういうことに終わってしまうというね。そうじゃなくて、やはり完全に自分を救い上げる、救うというかね、解脱せしめるところの坐禅でなくてはならんので、それは求めてはいけないんですね。坐禅をするという、ただ坐るということだけなんですから。そのただ坐るという内容が、ただぼけっと坐るんじゃないですよ。今の身を正し、息を調えて、この肩の力も胸も腹も皆抜いてね、腰骨をしっかり前へ出して、目を一メートル前に落とすというか、眼光落としですね、目の光を落として、まず仏の顔を作ってね、それで仏の体を作る。そのまま肉体を材料にして仏像を作り上げるというような感じで坐り込むんですよ。その方が宗教的な宗教なんですね、その人自身を救うんだから。その時脳味噌の関係は何もないんですよ。けれども、普通そんなことを言っても一般の人にはわかりません。
 
三宅:  では、坐るときに、私どもはどういうことを心がけたらいいのか。何を考えて座ったらいいんですか?
 
天藤:  考えって、今申した息を吐く、吸うを、それに専念することを一途に考えて、それ以外のことは何もしないということね。頭を使わないということ。
 
三宅:  頭を使わない?
 
天藤:  使わない。だって息をこう吐いたり、吸ったりしている。一生懸命意識してやっているときに、頭は使いませんよ。実際にやってごらんになると、必ず頭を使って息するのを忘れていますよ。息をするのを忘れています。仕事をしたり、頭を使ったりしているときには、自分が息していることを意識できません。逆なんです、坐禅の時は。すべてのことを忘れてしまうということは、息をすることだけに専念するということなるわけです。それが命に目覚めるということだから。具体的には、息を調えるということが命に目覚めるということなんですよ。観念的な意味じゃないですよ、命に目覚めるということは。そういうことを坐禅の内容として徹底終始しなければ、それ以外に求めない、坐禅は。
 
三宅:  無念無想と聞いておりましたから、何も考えないことがいいのかなぁと思ったんですが。
 
天藤:  無念無想ということが、具体的にはそういうことなんです。無の想なんです。無とは何か。具体的には息を調えていれば、頭は働かんからね。無というのは宇宙いっぱいということだから、宇宙いっぱいの自分になるということだからね。それは息を調えるという具体的な作法しか入りようがないんですよ、観念でないですよ。それをそういう時間を、寝る時、起きる時に、毎日確保しておればね、その人はそういう習慣を持てば一年、二年、三年、十年経てばもう立派な大人ですよ。
 
三宅:  坐禅と言いますと、こちらのような立派なお堂の中でないとできないかと思っておりましたが、そうするとそうでもない。
 
天藤:  そうじゃないんですよ。これは今言ったなかなか坐禅を正しく理解できないでしょう。それを理解するためにこういう道場へ来て、しっかりしたものを知るわけですよ。ただ本を読んだり、人に聞いたりではわからない。みんなやっていることを、自分もやってみて、そして気づいてみて、本当の坐禅はこういうものであったということをつかみ取るためにこういう特別の修行が要るんですよ。
 
三宅:  坐禅、あるいは禅の修行というのは、坐っているだけで事足りるんでしょうか、あるいはそれ以外の時も何か考えていたほうがいいんでしょうか?
 
天藤:  坐った時は、息を調えているときには考えは出ないですよ。ところが、それを止めて、今度坐禅から下りるとき、それは「坐禅に帰ることを仏に帰る」というんですがね。その仏のままで世の中へ出れんのですよ。仏が菩薩に変身しないとダメですよ。その時を、仏なることを面壁(めんぺき)と言います。壁に面すると書きますね。それは宇宙の中へ自分が放り出されたという意味ですけどね。対座という、向かうという、世の中へ出て来るという意味ですね。これは菩薩に変身するというんです。菩薩になったら、まず祈りでしょう。国を祈り、人々の幸せを祈り、亡くなった人の幸せを祈るという。だいたい三つの祈りですね。それから、その祈りの実践として、世のため人のためのお勤めに出て行くわけですよ。みな菩薩として出て行くわけです。その菩薩が疲れて、また帰ってくるですよ、夜。そうすると、どこへ帰るかというと、仏さまのところに帰るんです。帰るたって、自分が変身したんだから、また仏に帰ればいいんですよ。それが坐禅というものですよ。坐禅というのは、仏に帰る作法でなんですよ。特にお若い方にはなかなかこういう道理がわかりにくいかもしれません。まあ一つこういう仏法では、必ずこういう道理があるということを受け止めていただきたいと思います。
 

 
ナレーター:  一般在家者の参禅会は、月曜日の夜、七時から九時まで行われています。前半の一時間は、本堂で道元の主著『正法眼蔵(しようぼうげんぞう)』の講義を聞きます。『正法眼蔵』九十五巻という大変な書物です。仏道、宗門の基本的な思想、日々の修行のあり方、個人の生き方とか、思想が示されていて、読み尽くせぬ量と深さを持っています。講師の永井さんは、東京大学で経済学を学び、銀行に二年勤めた後、二十六歳の時に、心有って出家されました。この講義は三年続いているそうです。
 
永井:  「しかあれば、悪業は、懺悔すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり、これを不亡といふなり、その報、なきにはあらず」(『正法眼蔵』三時業の巻)
 
そういうことで、悪業は懺悔すれば滅するか、又は重いものも軽くなるのであり、善業は喜び修めれば、いよいよ増していくのです。「これを不亡といふなり、その報、なきにはあらず」これが業はなくならないということであり、その果報が無いわけではありません。
不亡といっても悪業があって、もうどうやっても、それに対して苦果、悪果を受けなければならんか。そうではないですね。その点では宿命とは違うんですね。
 

 
三宅:  まったく初めて坐禅をする人は、この講義の時間に坐禅作法の基本を教えていただくことになっています。私も生まれて初めて坐禅をする決心をして、坐禅堂に入りました。
 
三宅:  よろしくお願い致します。
 
指導僧:  それでは最初に、私が坐ってごらんにいれますので、それを見ていただきます。後でご一緒に坐っていただきます。それでは最初にですね、向こうの方から入ってまいりました。坐禅堂に入ってまいりました。最初に自分の単(たん)(禅堂において各自が坐る座席のこと。単位ともいう。「坐って半畳、寝て一畳」といわれるように、畳一枚の場所が生活の場となる)を見つけます。最初にこの坐布(ざふ)というものを直していただきます。それでこのように名前が入る部分がございます。それは最初は、手前の方に向いてございます。そうしましたところ、坐るときにはこれが逆にこちら側に向くようにですね。向こうの方を向けまして置いていただきます。そうしまして、次に手を合わせていただきまして、合掌していただきます。両隣の方にご挨拶します。そうしまして、右方向に、時計回りに回っていただきまして、今度は相手方の方にご挨拶します。それから坐っていただくわけなんですが、このように手を―ここを浄縁(じようえん)と申しますが、これには触れないようについていただきまして、このように上がっていただくわけなんですが、その際にもここに、この浄縁というところにですね、お尻や足をつかないように上がっていただくわけなんです。そこが難しいわけなんですけれども、それからスリッパを入れていただくわけなんですが、ちょうどここに棚みたいなものがございます。ここにスリッパこう入れていただきます。その際にですね、左手の方をちょうどここについていただきまして、倒れないようにスリッパを入れていただきます。そうしまして、坐布をしっかりお尻にあてがいまして、また時計回りに、みんなの方に回っていただくわけです。で、それから足を組んでいただくわけですけど、今回はわかりやすく、足を見えるようにお出ししてお見せ致しますけれども、このような形に組んでいただきます。こちらからは見やすいようにいたしますけれども、最初にですね右の足をこちらの腿の上に上げていただきまして、次に左の足を右の腿の上に上げていただきます。これがいわゆる結跏趺坐(けつかふざ)と申します。で逆に、これができない方もいらっしゃるわけですね。そうなりますと、今度はこちら側の、左側の足だけを右の腿の上に上げていただきます。これが坐禅の最初の形なんですけれども。そうしまして、それから坐禅を組んでいただくわけですね。そして足をお組みになりましたら、坐布をまず直していただきまして、しっかりお尻にあてがいまして、そうしまして、次に手でございます。手を法界定印(ほつかいじよういん)と申しまして、最初に右の手を、ちょうど臍のあたりにですね、あてがうようにゆっくり下ろしていただきます。次に左の方の手を上に入れていただきます。そうしまして、この親指の爪の部分を水平にするように、こういう感じですね。水平になるように置いていただきます。その時気をつけて頂きたいのは、この親指が強く押される、またあるいは離れてしまうとことのないように、紙一枚を挟むような形で軽く親指の先を、爪が水平になるように、ちょうど組んでいただくわけです。これが法界定印と申しまして、坐禅の場合に、ちょうどここに神経を集中するわけですね。そうしまして、これが坐禅の形なんですけれども、足を組んで頂きましたら、最初にこういった私はいつもヨガの形なんて、坐禅者の参禅者の方に申すわけなんですけれども、このようなヨガのような形をいたしまして、左右揺振(ようしん)と申しまして、このように振っていただくわけなんですね。最初は大きく大きく、右の方から大きく、だんだん小さくしていくわけです。ちょうど中心が整いましたら、今度は前後に最初は大きく、大きく大きく、だんだん小さくしていただきます。それで先ほど御説明会申し上げた法界定印を組んでいただきまして、坐禅に入るわけなんです。その時坐禅に入りましたら、いろんな姿勢があるわけですね。こんなに横になったりする人もおりますれば、逆に前になったりする方もございます。ですからいつも私が申し上げるのは、頭のてっぺんを天に付けるようにぐっと伸ばしていただきます。腰骨を前に突き出しまして、いつも頭の天辺を伸ばすような感じで、顎を引いていただきます。で、『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』というものの中に、ちょうどそれを説明したところがあるんですが、「耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す」両耳と鼻とお臍と、真っ直ぐになるように、ということで姿勢を作るわけです。そうしまして、深呼吸ではないんですけれども、欠気一息(かんきいつそく)と申しまして、ちょうどこう深呼吸するような感じで一息入れていただきます。これが坐禅に入っての、その時またもう一つご注意願いたいのは、目です。目と呼吸ですが、目は一メートル先を見ていただきます。よく目を瞑ったりするとか、あるいは半間先を見るとかといいますけれども、一メートルぐらい先を見ていただきます。で呼吸のほうも静かに普通の通りで結構ですから、お腹で呼吸するように呼吸をしていただきます。これがちょうど坐禅に入る姿勢。今度は坐禅を解く場合ですけれども、ちょうどこちらを向いております。壁の方を向いてございますけれども、また右回りに回って参りまして、それで下りていただくわけでなんですけども、その前に坐禅が終わりましたら、先ほどやったように、こういったヨガの形にしていただきまして、今度は最初は小さく、小さく小さく、だんだん大きくしていただきます。また前後もですね同じように、坐禅と入る前と同じように、今度はそれと逆の形で体を振っていただきます。それで合掌していただきまして、どうもありがとうございましたということで、お礼を言いまして、で、足を解いていただきます。そして、ぐるっと回っていただきます。そうしましたら、今度下りるとこなんですが、これがまた難しいところでありまして、上る時にやったのと同じように、左の手をしっかりここのとこについていただきましてですね、畳の上についていただきまして、決してこの浄縁には触れないようにスリッパを出していただきます。そうしまして、ちゃんとしっかり手をついていただきまして、ひょっと浄縁に触れないようにお尻も足も手もですね、下りていただきます。下りて頂きましたら三十秒ぐらい立っていただきまして、長い時間坐禅をいたしますと、足が固くなって、なかなかこうふらついたりいたします。で三十秒間、こういう具合に、こういった姿勢になっていただきます。それでまた右回りに下りて頂きまして、この坐布というものを直していただくわけです。まぁ坐布の方に、ありがとうございましたというお礼の意味を含めまして、また今度お座りいただく参禅者の為にも、こういった坐布を直すわけなんです。その時また先ほど向こう側を向けまして、名前の部分を手前側に向けまして、置いていただきます。で、合掌していただきまして両隣の方に礼をし、また右回りに向こう側を向いて頂きまして、相手の方にありがとうございましたという具合にして、こうやって坐禅が終わるわけなんです。ということで、ご一緒に坐禅していただくわけなんですけれども。
 
三宅:  いろんな手順があるんですね。
 
指導僧:  やってみますと、なかなかそう難しいものではございません。
 
三宅:  そうですか。
 
指導僧:  ご一緒にやってみたいと思います。
坐布直していただきます。名前の部分を向こう側に向けます。あまり離れたり、手前に来たりしないように、ちょうど自分が坐るように坐布を置いていただきます。合掌して頂きます。合掌の時はですね、皆さんこういったような形で合掌される方が大勢いらっしゃるんですけれども、ちょうどこの中指の先が鼻のてっぺんですが、ちょうどここに来ますようにやるわけですね。握りこぶし一つ部分ぐらい手を離していただきまして、しっかり指をまっすぐ上に向けていただきます。これが合掌の正しい姿であります。合掌していただきまして、でこうやってお礼をいたします。右周りに向いていただきまして、相手の方にこうやって、単の上にあがります。これからお一人で私がこちらでご指導致しますので。
これが坐禅に入った形でございます。いつもでしたら、ここで何分間か私もご一緒に参禅会いたしますわけなんですけれども。ちょっと坐禅いただきまして、
 

 
天藤:  永平寺のご開山道元禅師様のお言葉に、
 
竜の水を得るが如く、虎の山に依るに似たり
 
というお言葉がある。まぁ既に講師さんからいろいろ説明は聞いておられるであろうから、坐中に説明することは差し控えるけれども、お互いはみな一個の竜である。一個の虎である。竜とは何か。虎とは何か。まぁおぼろげにお分かりいただいているであろう。本来の自分だ。山とは何か。水とは何か。仏法の世界、仏の家、それを禅では山といい、世法の世界、人の家、その町、村、そこでは虎は住むことはできない。所詮檻に入れられるか、殺されるか、どっちかだ。山の岩や大木の根っこに寄り掛かって、悠然と休むことは出来ない。山だからこそ悠然と虎は心を安んじておることができる。水とは何か。日々の行持(ぎようじ)(日々の行い)、それを水と言い、サラサラサラっとどこまでもいつまでも流れていくこの行持。この水がなかったら、竜は生きることができないという。この水を仏の命と納得することができれば、竜はそこで蘇るという。まぁそんなところだが、お互い今年も参禅弁道お勤めの余暇を割いて、本来の自分に帰る。その時間を確保するというか、仏に帰るその作法をしっかりと体で受け止めて実習していく。どうぞ今年もそのつもりでしっかり、坐禅の時は世間のことを忘れ去って、しっかりとこの仏の境界に安坐して、本来の自分というものをいついつまでも実参実究(じつさんじつきゆう)していかれますようにお願いしておきたい。
 

 
三宅:  とにかく足の痛かったこと、終わった後倒れそうになりました。呼吸のことだけを考える。これがなかなかうまくいきません。どうしてもふと家族のこととか、仕事のことなどが頭をよぎります。それでも呼吸のことだけに集中できる時間が確かに数分間あったような気が致します。目の前のものが、見えているような、見えていないような、何かに吸い込まれていくような不思議な時間でありました。他の参禅者の方、どう思っていらっしゃるんでしょうか、聞いてみました。
 

 
三宅:  どういうお仕事か、伺ってよろしいですか?
 
河井:  (河井博之、参禅歴六ヶ月)ええ。会社員です。
 
三宅:  そうですか。いつ頃から始められたですか? 坐禅は。
 
河井:  去年の八月からなんですけどね。まだ始めて間もないんです。
 
三宅:  何かきっかけがあったんですか?
 
河井:  友達に誘われましてね、始めたんですけれども。その友達、今ニューヨークへ行っちゃってて、今はそういう具合で私一人、こちらへ来て、お世話になっているんですけども。
 
三宅:  前から興味は持っていらっしゃったわけですか?
 
河井:  興味はありました。
 
三宅:  実際にやってみてどうだったですか?
 
河井:  そうですね。私自身感じるところで、姿勢が良くなったということですね。前は猫背でね、あまり姿勢が良くなかったんですけれども、これやり始めてから、だいぶ姿勢が良くなりましてね、私自身は、自分でもこうびっくりしているんですけどもね。
 
三宅:  まだ四ヶ月ちょっとですものね。
 
河井:  そうですね。この坐禅をしておりますと、うしろで直してくれるんですよね。それでだいぶ直ったなと思います。
 
三宅:  そうですか。始めるときには、何か効果のようなものは期待なさっていたんですか?
 
河井:  そうですね。性格が直れば良いとかね、そういう期待もありましたね。
 
三宅:  そうですか。
 
河井:  それで、まだ日が浅いんですけどもね、私自身の生き方の姿勢と言いますかね、それが変わったような気がしますね。
 
三宅:  外見の姿勢でなくて、生き方の姿勢が変わった?
 
河井:  その姿勢も変わったというような、具体的に申しますと、こだわりなく生きられるようになったと言いますかね、そういうことなんですけれども。
 

 
三木:  (三木比佐子、参禅歴十ヶ月)小さい時からお寺に行くのが好きだったんですね。何か行くととっても落ち着くというので、それ以前もあちらこちらのお寺に行くのが好きで、それで坐禅にもすごく興味があったんです。ずーっと以前から。始めてみたいなと思ったんですけど、なんかどこのお寺で、どういうふうに始めていた分からなくて、それで長谷寺さんのお話聞きましてですね、それで来るようになったんです。
 
三宅:  始められるにあたっては、何かこう求めたものというか、期待したものはありましたか?
 
三木:  そうですね。とにかく坐禅は坐らなければ何もわからないというので、とにかく坐ってみようと思いまして、坐り始めましたんですけど、まだ何を求めるという、そこまでは行っていないような気がするんです。
 
三宅:  ご自身、なんか変化みたいなものは感じることはあります?
 
三木:  そうですね。まだだと思いますけれども。あと十年ぐらい経たないと、そういうことは言えないんじゃないかなと思っているんですが。ただ坐禅し終わった後というのは、とってもすっきりした気分で、それだけは言えると思うんです。
 

 
副田:  (副田龍男、参禅歴三年)私は本当に教育の中に坐禅の精神、あるいは道元禅師の、「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘るるなり」という言葉をね、私は非常に教育の中に入れまして、おかげさまで教育に対する自信がつきました。
 
三宅:  そうですか。具体的にどういうふうに変わったわけですか? 教育が。
 
副田:  あのね、子供に対する気持ちが、今までは指導というんじゃなくって、子供の中に溶け込むという気持ちでね、子供は付いてくるんですね。それで今のところは、昨年度からクラブ活動の中に「禅クラブ」というのを作りまして今やっておりますが、その中には、子供が私と離れておった子供がだんだんついてくるようになりましてね。それだけは本当に私もビックリするんですけどね。
 
三宅:  何か変わったんだと思います? ご自身の。
 
副田:  私と子供との間の、いわゆる教師と子どもという関係、これは親と子という関係と同じだと思うんですが、そういう関係が、お互いが信頼関係が出てきたんですね。お互いが感謝しあうという形で。それがなんとなく、この教科書なんかで出てくるんじゃなくて、言葉と言葉、あるいは行動と行動の中にそういうものがはっきり出てきたということが分かるんですね。
 

 
石川:  (石川幸子、参前歴三年)何かやってみたかったんです。坐禅とかヨガとか太極拳とか、一通りやったんです。でここに初めて坐禅、ここで坐った時にガァーンときたんですね。ピタッときたんです。
 
三宅:  何が違ったんだろう? 他のものと。
 
石川:  わからないけれど、すごく、あぁこれだと思いました。体にピタッと来たんです。それからずーっと続けております。
 
三宅:  何がいいですか?
 
石川:  うーん…
 
三宅:  三年も続けていらっしゃると。
 
石川:  まず肉体的にすごく快感なんですよね。気持ちがいいんです、坐りますと。坐ってる間は、すごく温かくってポッポとしてて、こんな寒いのに呼吸が非常に腹式呼吸しますから気持ちいいんです、終わった後。それがやっぱりそれが直接続けている動機だと思いますけれども。
 
三宅:  ご自分自身がなんか変わられたというようなことをお感じになることありますか?
 
石川:  はい。前よりも我慢強くなりました。辛抱強くなりました、少しだけ。
 

 
山下:  (山下忠男、参禅歴六年)やはり坐禅をしまして、講義を聞きますと、やっぱりいろんな無常と言いますか、少し欲を離れて生活しますとね、何かずいぶんものの考え方が変わってくるように思います。
 
三宅:  どんなことが変わったか、ちょっと教えていただけませんか? 例えば。
 
山下:  そうですね。一日中に怒るということはないと思います。腹立つことはないと思います。それは自信持って言います。
 

 
真鍋:  (参禅会世話人真鍋善彦、参禅歴九年)はじめは今のようにですねしっかりして、要するに肝っ玉据わるとか、そういう点が、初めは坐禅というものは、そういうもんだというふうに聞いておりましたけどね、だんだん私の初めて就きました老師が、結局「無所得(むしよとく)・無所悟(むしよご)」という。絶対に、要するに坐禅をしても何にも得ることをないんだし、また悟るとかがないんだという、そういうことを説かれる老師につきまして、だんだんそういう感じになって来ておりましてね。あまりすぐものが得られるなんて卑近な面がございますようですね。それはそれでいいんでしょうけどね。なかなか坐禅やったから短期間に変わるということは無いようですね。
 

 
三宅:  坐禅によって仏になる。そういう境地にまではとても至れませんでした。ただ帰り道、心のモヤモヤが少し晴れたような、清々しい気分にはなりました。自分は何なんだろうと、ふと不安になっても考えてみると滅入ってきますし、実際考えることもないと言った方が正直なところで、心のイライラモヤモヤはつのるばかりです。そんな中で何も考えず、ただ坐ることで何よりも自分に仏に近づけるという言葉に何か救いのようなものを感じました。足も痛くちょっと辛さも感ずるけれど、また坐禅をしてみるかな、そんな気持ちになっています。
 
     これは、昭和六十一年一月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである