唯識に生きる@唯識の歴史と基本思想
 
                    立教大学名誉教授 横 山(よこやま)  紘 一(こういつ)
1940年(昭和15年)、福岡県生まれ。1964年(昭和39年)、東京大学農学部水産学科卒業。1967年(昭和42年)、東京大学文学部印度哲学科卒業。1974年(昭和49年)、東京大学文学部印度哲学科博士課程修了。正眼短期大学特任教授、鹿島神流師範、「唯識塾」塾長。専攻は唯識思想。興福寺建立千三百年記念事業の一つとして二○一○年十月に『唯識 仏教辞典』を上梓。
                    き き て    草 柳  隆 三
 
草柳:  「こころの時代」です。この時間は今日から六回のシリーズで「唯識に生きる」と題してお伝えしてまいります。六回全てにわたってお話を頂きますのは、立教大学名誉教授の横山紘一さんです。横山さんは、仏教の基本的な考え方思想と言われるこの唯識を五十年以上にわたってずっと研究してこられた方です。一回目の今日は、スタジオを出まして、東京都の目黒区にあります圓融寺(えんゆうじ)で、これから横山さんにいろいろとお話を伺っていくことにいたします。どうぞ先生、よろしくお願いいたします。
 
横山:  こちらこそよろしくお願いします。
 
草柳:  「唯識」という言葉そのものがあまりなじみのあるほうではないんですけれども。
 
横山:  要は日本仏教の根本思想であるというふうに言うことができます。比叡山におられた法然(ほうねん)(浄土宗の開祖:1133-1212)、それから親鸞(しんらん)(浄土真宗の宗祖:1173-1262)も唯識を勉強されていますし、あと道元(どうげん)(曹洞宗の開祖:1200-1253)禅師―禅の道元ね、それからあと空海(くうかい)(真言宗の開祖:774-835)―真言の弘法大師空海ですね。そういう方も全部唯識を勉強されています。
草柳:  日本の仏教の大スターたちですよね。
 
横山:  そうですね。
 
草柳:  そういう人たちも、この唯識をみんな勉強してこられたわけですか。ひと言簡単に唯識の特徴といいますと、どういうことになりますか?
 
横山:  それはもう言葉からして「唯識」でしょう。
 
草柳:  「唯(ただ)」の「識(しき)」と書くわけでしょ。
 
横山:  「識」だと分かりにくいから、ただ心とね。「識」と「心」は同じですから。ただ心しか存在しないというね。そういう常識じゃない思想なんですが、皆さん心しか存在しないというと、そこにコップがある。ここに紙がある、とか言われますがね。そんなのは全部心の中の存在なんです。
 
草柳:  ただやはりどうしても、今、目の前にあるわけですから、ここに確かにこう存在をしているなというふうに思ってしまいますよね。
 
横山:  その思い込みが迷いで、間違いなんです。それによって自分も苦しみ、他者も苦しみね、もう人間関係苦しみ…。その心とは一体何であるか。それをヨーガとか、坐禅によって観察し発見し、分析して作り上げたのが唯識思想というものですよ。すばらしい思想です。
 

 
ナレーター:  横山さんは、月一回、市民講座を開いています。不寛容な空気が漂う現代社会にこそ唯識が役に立つと考えているからです。
 
横山:  自分の心の中に起こってくるメカニズムを静かに自分の中で観察し分析していくと、論理がやっぱり人間にとってすばらしい力を持っているんですよね。論理を持っている人間のありようというのを、高くありがたく思いましょうよ。すごいなって、人間として生まれてすごいなとね。そのために唯識を勉強しなきゃいけない。唯識は全部論理で展開してますからね。
 
ナレーター:  講座には唯識を改めて学ぶ若い僧侶も助っととして参加。人間関係の悩みをどう解決するかなど、唯識を日々の暮らしに生かす具体的な方法を話し合っています。
 
横山:  人間関係の中で対立する。あの人は憎いんだっていう時に、我々はどうしたらいいのか? あの人が憎いんだ…。
 
大來:  (大來尚順超勝寺副住職:浄土真宗本願寺派)憎い人という感覚も、私も実際人間なので、あることはあるんですが、その時に思うのは、人それぞれ―一人一世界と私は考えてもいいと思うんですけども、その中に生きている。それをもう一度再認識した中で、いろんなものの考え方があるなというところで、とらわれないという思いをもう一回思い起こすのが大事になってくるんではないかなと思います。とらわれないで…。
 
横山:  とらわれちゃうんだよ。
 
大來:  とらわれちゃうんですけども、ただその時に…。
 
阿:  (阿純章圓融寺住職:天台宗)私、善人ぶるつもりじゃないんですけど、人を憎んだことはないんですよね。それよりも苦手な人が結構いるんですよ。私苦手だなと思う人に会った時に、それを苦手だと思う自分が嫌になっちゃうっていうことで、それで嫌なんです。その人が嫌いだからとか、別のその人がいなきゃいいのにではなくて、いてもいいんですけど、その人によって自分が嫌になっちゃうからなんですよね。相手をどうこうしようじゃなくて、自分の心をどういうふうにしていこうかという思いに至ると思うんですが…。
 
ナレーター:  自分自身を冷静に見つめ、心のよりよいありようを探る唯識。そこで大切なのは、人の心が言葉に惑わされがちなことに気づくこと。自分という存在についても、唯識では自分という言葉の響きがあるだけだと説いています。
 
横山:  これ全部言葉が考えてるわけですよ。言葉なんだ。言葉で語るとおりには、物事は存在しない。みんな言葉で考えている。じゃまず手を見て下さい。これは誰の手ですか?大きな言葉で。
 
参加者:  (一同)自分の手。
 
横山:  自分の手という表現の中に、名詞が二つありますが、名詞は何と何がありますか?
 
参加者:  (一同)自分と手。
 
横山:  「自分」と「手」二つね。じゃ、そこまでいって、「手」という名詞が指し示すものを、皆さん見て下さい。探してみて下さい。手という名詞があるから。どうですか? 発見しますね。発見できますね。手。今度は目をつむって、自分という言葉が指し示すものを探してみて下さい。模索してみて下さい。見つかった人? 誰もいませんね? となると、自分というのは言葉の響きがあるだけなんですね。これ納得しましたね、皆さん。言葉の響きがあるだけなんでしょ、自分自分と言っても。全部言葉なんですよ。どうかどうか皆さん、自分が使う言葉というものを、どうか注目して、注意して使われていったらいいんですよね。
 
ナレーター:  唯識ライブでは、毎回椅子で行う坐禅にも取り組みます。仏教の伝統の中で、唯識は心と体を調えるさまざまな知恵と実践法を持っています。
 
阿:  意識を傾けて、体全体で呼吸をするようなつもりで。どこまで吸うかな、どこまで吐くかな。そういうことは自分で決めないようにして下さい。もう呼吸に任せましょう。私が呼吸をしている。自分が呼吸をしているのでなく、呼吸が呼吸をしている。私が坐禅をするのでなく、坐禅が坐禅をしている。そうした感覚とひとつになって下さい。
 
ナレーター:  心のありようを、積極的に変え、心身ともに健康であることを目指す唯識の教えを、日々の暮らしにどう生かしていくか。横山さんの取り組みは続いています。
 

 
草柳:  今、横山さんに今日伺っているこの場所は圓融寺で、このライブが行われたわけですよね。随分皆さん熱心ですね。
 
横山:  はい。やっぱり人間というのは、自分とは一体何者かね。それから何を目標として生きていったらいいかという、そういう問題をはっきり自覚して生きてないわけですよ。若い人も、お年寄りもですね。それを求めて見えているといっていいんじゃないかと思いますね。私はやっぱり人間の生きる中で、三つの問題があると思いますね。
 
@自分とは何者か
A他者とは何者か
B人はいかに生きるべきか
 
それを私はやさしく、分かりやすく、できるだけ実生活の中で生かせるようにということで、皆さんと共に語り合っているわけです。
 
草柳:  実生活の中で生かしていこうということをねらいとしているわけですか?
 
横山:  まあそれがなければ仏教というものの意味がないですよね。空理空論で、何かいろんな難しいしちめんどくさい教義をどんどんどんどん説いたり、書いた本がありますけどね。問題は生きるとは何かといったら、実生活の中で生きることしかないわけですからね。
 
草柳:  つまり実生活の中にどう生かしていくかということを、あくまでも自分の心をじっくり見つめ直すと。それがつまり唯識の第一歩だと。
 
横山:  そこなんです。心を観察するということが一番大切なことなんです。唯識を実生活に生かすというのは、いろんな問題が出た時に、その問題が心の中でどういうシステム、どういう過程で生じてきたかという。ヨーガとか、坐禅とかいったものを、先ほどの唯識ライブで座った映像が出てきましたけどね、そういうことをされていきながらね。しかも長い長い歴史の中で作り上げられてきた唯識の教義を参考にしていきながら、どんどんどんどん自分の心の中のメカニズムをはっきりとしていく。それが唯識を日常生活に生かしていくということでね。
 
草柳:  もう一つ今回その唯識を取り上げるにあたって、私が是非知りたいと思っているのは、今この時代にあって、なぜ今唯識なのか。今、なぜ唯識をこれだけ横山さんが懸命に広めようとしていらっしゃるのか?
 
横山:  世の中に今いろんな問題が起こってますよね。それは全部世の中の人々は、自分というものに強く執着するあまり、自分への拘りが強いわけです。自分を中心とした生活が今ずっと世の中に浸透して、自と他との対立、それはもういろんな家庭環境からはじまって、社会の中で会社の中で、乃至は大きく国々の中であるわけですよね。要はあまりにも自分というものに執着し続ける現代人の生き方、それを唯識を勉強することによって気づくという。そこに他者への思いやりを説いていく唯識思想が必要であるというふうになっていくわけですよね。
 
草柳:  ここでちょっと唯識が、どういうふうな歴史をたどって、今あるのかという。その歴史をちょっと振り返ってみたいと思うんです。
 

 
ナレーター:  紀元前五世紀にインドで生まれた仏教。その後「原始仏教」から「部派仏教」へと展開する中で、部派仏教はあらゆるものの存在を認めていました。これに対し、紀元前後に興った「大乗仏教」では、『般若経(はんにやきよう)』などにより、この世のあらゆる存在には実体がないと考える「空」の思想が生まれます。この空の思想は、一歩間違えば、「一切は全く存在しない」という虚無主義に陥る危険性がありました。こうした中「瑜伽(ゆが)」―現代でいうヨーガを行う人々から、少なくとも心は存在するという思想が打ち立てられます。これを四、五世紀ごろ唯識思想として体系化したのが無著(むじやく)と世親(せしん)。インド北西部出身の兄弟です。特に弟の世親は、それまでの唯識の教えを集大成。最晩年の著作『唯識三十頌(ゆいしきさんじゆうじゆ)』は僅か三十の短い詩文に唯識思想を凝縮した基本教典として今も読み継がれています。インドで生まれた唯識を、十七年に及ぶ艱難辛苦の旅の末、中国に伝えたのが玄奘(げんじよう)。小説『西遊記』の主人公三蔵法師(さんぞうほうし)として知られる人物です。その後玄奘の弟子の基慈恩大師(きじおんだいし)(中国・唐代の法相宗の大成者:632-682)が、唯識をもとに「法相宗(ほつそうしゆう)」を確立。やがて日本には飛鳥・奈良時代に中国に渡った留学僧の手で伝えられます。奈良の興福寺などを総本山として日本に根づいた唯識。仏の道に入る僧侶たちが必ず学ぶ仏教の根本思想として脈々と受け継がれてきました。
 

 
草柳:  こうやって歴史を振り返ってみますと、唯識のそもそもというのは、大乗仏教が興ってその中の一番基本的な考え方を引き継いでいるというふうに考えればいいわけですか?
 
横山:  もちろん大乗仏教は、「空」の思想から動いてまいりましたね。表現的に「空、空」というと、当時で空を間違って理解する。専門的には「悪取空者(あくしゆくうしや)」という悪く空を理解するというね。
 
草柳:  悪く解釈するというのは、つまり「一切何にもない」と。
 
横山:  そうそう。
 
草柳:  虚無だと。
 
横山:  そういうのが文献的に残っていて、そういう人たちの誤解を解くために、少なくとも仮に心は存在すると。そういう立場でもって、実践的に坐禅とかヨーガをやっている人が、唯識思想を作っていったということが考えられるんですね。唯識思想がおこってくる根源には、教理の根底には、ヨーガ体験があるといっていいと思いますね。過言ではないと。
 
草柳:  瑜伽―ヨーガをすることによって、つまりどういうふうな変化が出てくるわけですか?
 
横山:  ヨーガというのは結びつくという意味なんです。
 
草柳:  結びつく?
 
横山:  「ユーキ」というサンスクリットの名詞形がヨーガで、皆さん「ヨーク」という言葉があります。「ヨーク」っていう英語がありますが、「馬車の横木」のことを「ヨーク」という。結びつけるという意味なんですよね。だからそういう意味から、ヨーガというのは、まずは身体と心を結びつけるわけ。その結びついた新しい身心と、今度は真理、真実を結びつけていくという二段階がある。身体と心とを一つにし、新しい一つになったものと、今度は真理、真実を結びつけていくというね。
 
草柳:  今、歴史を振り返って見てみますと、最初にもちょっとお話がありましたけれども玄奘三蔵(げんじようさんぞう)法師ですか。もしあの人がいなかったら、ことによると、今日本に唯識の思想は根づいてなかったのかもわからない。
 
横山:  唯識だけじゃなくて、全ての宗派がもう成立してませんですよ。全部今の現代の宗派のもとになる貢献者なんですよね。例えば空海ね―真言宗の弘法大師空海は、『十住心論(じゆうじゆうしんろん)』という一番の著の中で、唯識の根本聖典である『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』これを何回か引用されていますしね。あと法然、親鸞さんも、全部唯識の思想を勉強されて、徹底的に唯識を勉強し、親鸞の『教行信証(きようぎようしんしよう)』の中に唯識の言葉がたくさん出てまいります。それから道元は、有名な言葉で「道元は九歳にして唯識をものにした」というのでね。まあ昔は曹洞宗の人たちは一生懸命唯識を勉強した時代があったわけですよ。それぞれ唯識を勉強されたその結果に、今度はそれぞれの信念に基づいて自分なりの新しい浄土宗とか浄土真宗とか曹洞宗とか、そういうものを作り上げていったわけであります。
 
草柳:  ということは、つまり脈々と底の方では流れていた。その思想はというふうに考えていいわけですか。
 
横山:  全ての宗派のもとに根本思想として唯識思想があると。
 
草柳:  今はどうですか?
 
横山:  そういう勉強をする人がね、特に僧侶の中で少ない。
 
草柳:  なぜなんでしょうか?
 
横山:  それは難しい。それは仏教界に聞いて下さい。言ってもいいですよ。まあそれはひと言でいえば江戸時代におこった檀家制度なんですよ。檀家で寺を持っている僧侶たちが勉強しないという。勉強しないでも食べていけますから、そこが大きな問題なわけですよね。これすごく非難になりますけど、僕はこのごろどこでもそれを声を大にして言っています。
 
草柳:  現代の日本では、唯識に対する関心が、存在感といったものがどうも薄れてきているようなんですけれども、逆に欧米では今ブームになっているマインドフルネス(Mindfulness)、それとの関係で唯識に対する関心も出てきているということですので、少し見てみることにいたしましょう。
 

ナレーター:  今、欧米で急速に広がっている仏教の瞑想を取り入れた心のトレーニング。マインドフルネスと呼ばれています。
 
指導者: 意識をすべて呼吸に向けて、息づかいを一番感じる所に集中してみて。
 

 
ナレーター:  集中力を高め、ストレスを減らす効果も期待されることから、アップルやグーグル、インテルなど世界の名だたる大企業が研修に取り入れています。マインドフルネスの根本をなす仏教の瞑想の大切さを世界に伝えたティク・ナット・ハン師(ベトナム出身の禅僧・平和・人権運動家・学者・詩人。ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教の命名者でもある。アメリカとフランスを中心に、仏教及びマインドフルネスの普及活動を行なっている)です。彼の思想や教えの土台が唯識にあることから、唯識への関心が高まっています。
 
ティク・ナット・ハン:  唯識学の中で、この言葉はとても重要です。すべてを含む深層心(阿頼耶識(あらやしき))もその中のすべての「種子」も、本質は定められない。善くも悪くもない。好きでも嫌いでもない。たとえばあなたの愛する人を見つめてみると、あなたの表層意識を通して見ているので、ありのままの姿を見てはいません。あなたの心が作りだした人を見ているのです。その人は、あなたの意識の表れでしかありません。
 
ナレーター:  唯識が注目される中、横山さんが書いた唯識の入門書も英訳され、アメリカで出版されました。世界が今唯識に注目し始めています。こうした中、唯識について深く知りたいと考えている人がいます。小野文恵(おのふみえ)アナウンサー。今、話題のマインドフルネスや瞑想を、これまで番組で取り上げてきましたが、個人的に改めて勉強したいと考えています。
 

 
小野アナウンサー:  「ガッテン」で瞑想をやったんですよ。あ、それ、自分が必要としていることのような気がすると思ったんですけど、自分のものにした感じが全然なくて。ずっとアナウンサーの仕事をしていて、司会をしている時って、いろんな人がいろんなことを言う。そしてそれを聞きながら、話どこをどう深めていけばいいんだろう。そのためには何を質問したらいいんだろうって考えながら、今そうやっていっぱいいっぱいだなって、自分が仕事の上で思っていて、だけどもっと上手に司会もしたいし、もっとうまくなりたい。もっと深いことが考えられるようになりたい。自分がもっと伸びたい時に、集中力を高めたり、記憶力を高めたりしてくれるものだったら絶対手に入れたいと。
 

 
小野アナウンサー:  私が訪ねたのは、マインドフルネスの教室。唯識の考え方を積極的に取り入れて教えているのが特徴です。代表の北山喜与(きたやまきよ)さんです。北山さんは、アメリカでマインドフルネス療法を確立したジョン・カバットジン(マサチューセッツ大学医学大学院教授・同大マインドフルネスセンターの創設所長。国際観音禅院の崇山行願に禅を師事し、ケンブリッジ禅センターの創設メンバーとなった。仏教の指導者に修行法と教理を学んだ彼は、それを西洋科学と統合させた。彼は、人々がストレス、悩み事、痛み、病気に対応する手助けとして、マインドフルネス瞑想を教えた)氏を訪問。譲り受けたマニュアルに、唯識や禅の教えを盛り込んで、独自のプログラムを作り、マインドフルネスを教えています。
 
北山:  唯識というのは、自分で自分の心を知るという、ものすごくいいメソッドなんですね。仏教の中で「心身一如」という言い方をしますよね。心と体が一つという。まず体を整える。体を整えないと呼吸器がうまく働かない。で呼吸器がうまく働かないと、きちんとした感覚をキャッチできない。呼吸をきちんと整えてこそ、初めてこういうものがキャッチできると。体と心が一緒という、そういうことになる。このもとはやっぱり呼吸器なんですね。
 
小野:  唯識がそういう自分の心の中のことを知ることだとしたらそれを知るために体を整えるという考え方なんですね。
 
北山:  そうなんです。体を整えて、呼吸をしっかり整えて、一瞬一瞬の感覚をきちんとキャッチできるようになると、もっと楽になる、体がね。で心も楽になるということです。
 
小野アナウンサー:  心と体の橋渡し役として唯識では呼吸を重視します。詳しく教えて頂くことにしました。
 
可児:  (トレーナー可児雅照)まず呼吸が、深呼吸をしているんですけど、思ったほどちゃんとできていない方が多くて、しているんですけど、肩とか首の筋肉をたくさん使って呼吸をしようとしてて、本来は肋骨の下の方、ここがちゃんと動いてほしいんですけど。
 
小野:  ここが?
 
可児:  はい。
 
北山:  可児さんの体を一回触って、チェックしてみて頂けますか。
 
小野:  どんなふうにして触ったらいいですか? ああ、自分の指が縦に持ち上がっていって、指先がお互いが離れていくような感じはあります。
 
北山:  見た目もそうなのかな?
 
小野:  あぁ?、分かる分かる。
 
北山:  微妙に広がってるんです。
 
小野:  ここの間は、私が意識してるわけじゃないのに、やっぱり広がってますよね。そんなこと人生で考えたことがないです。肋骨の間が広がるような息。
 
北山:  この肋骨って、縮めたり広げたりする筋肉があるんですけど、それが体がずっと緊張で過緊張で来ていると広がらないのね。
 
小野アナウンサー:  大きく深い呼吸ができるよう体を整えるレッスンに挑戦します。
 
可児:  はい。やってみます。
 
小野:  これをすることで、肋骨の隙間を広げようという。
 
北山:  おへそを床にくっつけたまま。
 
可児:  そうです。肘と膝を同時に。
 
小野:  肘と膝を同時に。
 
可児:  そうです。
 
小野:  今のでここ広がったんですか?
 
可児:  今のでこう肋骨と肋骨が広がってくるんで動きができてきます。
小野アナウンサー:  続いては動物のように四つんばいで歩くレッスン。体をくねらせるように柔らかく使えないと、肘を着きながら前に進む動きがうまくできません。
 
小野:  なんか迫力のないヒョウ(豹)ですよね。
 
小野アナウンサー:  ふだん動かしていないところを使うせいかつらかったです。こんなヒョウに狙われたら絶対獲物が捕まらなそうな感じがしますね。
 
中栖: (トレーナー中栖)これぐらいのテンポでいきますね。
 
小野アナウンサー:  仕上げはダンス。
 
北山:  それ腕を体操のつもりで、グッと広げる。そうそうそうそう。グッと広げる。
 
小野アナウンサー:  心と体を整えるため深い呼吸を大切にする唯識の教え。ちょっと不思議な体験でした。
 
北山:  すごくきれいにできてましたよね。まず自分でちょっとチェックしてみて下さい。
 
小野アナウンサー:  さてレッスンの成果は?
 
小野:  見えますか?指と指の間が広がっている気がするんですけど。これ気のせいじゃないですよね?自分では見えないのでよく分かんないんですが。広がってます。広がってます?ああできた! できました。
 
北山:  できました、できました!
 
小野:  変われるっていうことがうれしかったですね。自分の呼吸吸える量が変わったっていうことが、まずその変化があるってことはうれしいことですね。ふだん老化ぐらいしか変わったなと思うことがなかったので、あっ変わるんだぁ。まだ息が、呼吸が心の持ち方にまでつながるというとこまでは、今日は全然実感できませんでしたけど、でもこれをひょっとしたら続けていったら、何か変わるかもしれないという期待感を持ちましたし、やってみたいなと思いました。
 

 
草柳:  今のを見ていても分かるんですけれども、唯識というのは、もちろん心だけではなくてですね、心と体が一緒になったもの。一緒になって考えていかなきゃいけない。
 
横山:  「安危同一」という言葉があります。考え方がありますですよね。「安」というのはいい状態。それから「危」は悪い状態ね。例えば身体はいい状態の場合は、深層心もいい状態である。深層心がいい状態だったら、身体も健康ないい状態になっていると。逆に「危」、悪い状態だったら、どちらか一方が悪くなると、例えば身体が悪いというのは不健康になれば、深層心が不健康であるということなんですよ。深層から、人間は健康ということをめざしていかきゃいけないということなんです。まあ肉体的に…まあいろんな病気がありますけどね。根源的には深層心から健康になっていこうじゃないかと。
 
草柳:  これはもう唯識だけではなくて、仏教全体にわたってそうなんでしょうけれども、やはり呼吸ということがものすごく大事なキーワードになってくるわけでしょ。
 
横山:  そうですね。 有名な調身(ちようしん)―身体を調える。それから調息―息を調える。最終的に調心―心を調えると。この三つが順番ですよね。息が要なんですよ。真ん中にあるわけだ。身体と心とを結びつけていく息が―調息が一番重要だということでね。呼吸というものが重要なわけですよ。まあヨーガにも、修行にも、坐禅にもね、全部。一番最初から息を調えていくことが、まずは出発点になっていきますですよね。
 

 
ナレーター:  横山さんは、二十代の時に坐禅を始め、数々の荒行にも挑戦。唯識が重んじる呼吸の奥深さを身をもって感じ体得してきました。
 
横山:  私は独自の息のしかたするんですよ。こう座るでしょ。身体にどのくらいの毛穴があるでしょうかね。こう坐ってね。私の…まあ後で言いますけど、「一人一宇宙」をね、宇宙の全部の気を、「う?っ」て、こうやって…。(息を吸う音)この気海丹田に入れて今度は全部のこの毛穴からそれを吐き出すわけだ。一人一宇宙の中にね。今度は口開けて…。(息を吐く音)吐き切って、一・二・三・四とね、何も息がなくなる状態になって、それからまた今度は鼻から吸うわけだ。(息を吸う音)ここで息を止めて、一・二・三・四とね五・六・七ぐらい数えて、それで吐き切るわけだ。(息を吐く音)その時にこの息がず?っと毛細血管を通って身体全体に流れていって…。生理的にそうらしいんですよ。気持ちいいですよ、ものすごく。宇宙って自分の心の中のありようで、宇宙の果て、この心の果てまでね人間は吐き切れるわけだよ。すごいですよ。広大な気持ちになってきますよね、こうやってね。 (息を吐く音)息はすごい。息はすごいですよ。息をものにしたら、本当に生きるのが楽になりますね。
 
草柳:  それだけ呼吸というのは大切なものなんですね。
 
横山:  大切ですよね。だから日頃から…私も日頃から、例えば電車に乗ってもいつでも…いつもこの随息観(ずいそくかん)やってます、こうやってね。何やっても息になりきる時間があればね。怖さも何もなくなってきます。(息を吐く音)(息を吸う音)自然体ですよね。
 
草柳:  それも唯識の大切な修行ですか?
 
横山:  唯識ね…いやもう『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』というのに、息についてはウワーッと説かれてますね。息を数える。これももうちゃんとあるんです。一から十まで数えて、十から一まで数えるとかね。あとはこれはもう頭で考えて、一から百まで数えるという、そういう文章があるんですよ。だからやっぱりインドにおいても、唯識瑜伽行派においても、息というものをかなり大切にして使用してきたということだと思いますね。
 
草柳:  さて、これからは唯識の基本的な思想、基本思想のお話をして頂きたいのですが、「一人一宇宙(ひとりひとうちゆう)」ということはどういうことですか?
 
横山:  まあ我々広大無限な宇宙の中に住んでると言いますけど、実際はそうじゃなくて、一人一人が別々の宇宙に住んでいるというんですね。共通な宇宙がない。それはなぜかと言ったら、心しかないという前提ですからね。ただ一人一人が一人の宇宙であると。これが一人一宇宙というね。これをまあ仏教の専門用語で言うと「人人唯識」と。一人一人が「唯だ識」である。
 
草柳:  ただだけど、その一人一人がそれぞれの宇宙を持っているというのは、まあ言葉では何となくそうかなぁと…。それもやっぱりなんかちょっとなかなか分かりにくいですね。
 
横山:  一人一宇宙を分かるために、まず目をつぶってみて下さい。
 
草柳:  はい。つぶりました。
 
横山:  そうすると、私も消え去り、他のものも消え去りましたね。あなただけの宇宙世界心の中に住するというか、戻ったわけですね。誰も入ってこれない、自分だけの世界。私だけの世界、あなただけの世界、例えば手をひねってみて下さい。
 
草柳:  はい。
 
横山:  痛いですか?
 
草柳:  痛いです。
 
横山:  でも、私は全然痛くも何にもないですね。すなわち私はあなたの宇宙の中に入っていけない。あなただけの世界ね。
 
草柳:  痛いって感じるのは、私だけ。
 
横山:  私は感じられない。だから別々の世界にいる。
 
草柳:  一人一宇宙ですか。そういうふうに捉えることによって、一体それはどういう意味を持ってるわけですか?
 
横山:  「宇宙」と言いましたけどね、「宇宙」という言い方は、「広大な」というような感じから言ったんですけれども、一人一人の心の中に住するわけですよね。その心の中を観察をしていこうではないかということになっていくわけですね。で、その一人一宇宙のありようをいい方向に持っていこうじゃないかというね。先ほど申しましたように、いつもすっきりさっぱり爽やかな状態に持っていこうではないかというね。そういうふうになっていく。けれども、まずは一体何かと。一体何かということを、静かに、今言ったみたいに実験してみると、目をつぶると己だけのこの存在ね、誰も入ってこれないという。誰も入ってこれないというところが一番重要ですね。
 
草柳:  入ってこれないってことが、なぜ重要なんですか?
 
横山:  今度は逆にね、入ってこれない他者がいるわけですよ。だから他者も一人一宇宙だから、一人一宇宙と一人一宇宙の関係をどういうふうにしてうまくやっていくかの問題が次に展開してくるわけですね。
 
草柳:  一人一宇宙ということになりますと、例えば三人いればその三つの宇宙ができると、あるということになるわけですよね。これをちょっと絵にしてみたんですけれども。一人一宇宙。一つ二つ三つ、その三人がバラバラになってる。
 
横山:  だから三人いれば三人の宇宙があるでしょ。
 
草柳:  三つある。バラバラになってる。
 
横山:  しかし決してバラバラで生きていったら、人間は自他対立の世界が現前しますよね。この三つをですね、三人の宇宙を大きく、大きな輪で囲んでみて下さい。みんなその輪の中に住んでるわけですよね。その輪のことを「理(り)」といいます。真理の「理」ね。
 
草柳:  「ことわり」の「理」。
 
横山:  「ことわり」の「理」ね。その「ことわり」の「理」に則して、一人一人を生きていくならば、対立がなくなっていくという、そういうことが言えるわけです。
 
草柳:  つまりもう一度言いますと、大きな輪の中に三つそれぞれの宇宙がみんな入っている。
 
横山:  入ってるわけね。その輪が存在することに一人一人気がつき、その理に則して生きていけばいい。それが後に言います「縁起の理」といいます。
 
草柳:  それに気づくということが大切なこと。
 
横山:  そう。気づかせるために唯識の教理があるわけですね。
 
草柳:  なるほど。唯識の基本思想の二つ目はですね、「他者のお陰で自分は生きている」ということでしたよね。これはどういうことですか?
 
横山:  一番いい例えが、電車の中に座るというね、この話をしたいと思いますが。私は若い時から武道やってましたから。あぁ懐かしいなぁ。絶対座らなかったんですよ。
 
草柳:  そうですか。
 
横山:  こうやってね俺は武道者だということでね、ずっと立ってたんですよ。
 
草柳:  立ってるのも修行のうちで。
 
横山:  そう思ってね。今はもう七十過ぎましてね、まあほんとに座りたいわけですよ。それで席があったら座って感謝するわけですよ。「ありがとうございます」ってね。なぜありがたい気持ちになるかね。それはこの図をちょっと見て頂ければ。
 
草柳:  ちょっと絵にしてみましたので、これで説明して下さい。
 
横山:  これは、例えば真ん中に座ってる人が、サーッと行ってこう座ったわけですよ。「あぁ座れた」というんでね。ここに他の人の存在に気がつかないわけですよ。「席に座れた!ラッキーだ」という、そういう気持ちで座ってるわけね。
 
草柳:  ちょっと次の絵を出してみますね。
 
横山:  これですね。これを私と考えて下さい。私が座れたのは、前に立ってる人のお陰なんですよ。そうでしょ? 前に立ってる人がいなければ、自分は座ることはできないわけね。このごろはほんとにまあこうやって手を合わせて、心の中で「ありがとうございます、ありがとうございます」。だから空いてたから座れたと。それで座れたことに対してラッキーと思うのか、そのあとこの図のように、他の人が立ってるから…。
 
草柳:  その前の例のように、ただ席に座れたほんとよかったなぁというだけではなくて、この絵のように…。
 
横山:  人間は関係的に生きている。生かされてある、ということに、これによって気がついてくるわけですよ、こういうふうにね。だからどの状況においても、人間は他者によって生かされてあるということが分かってくるわけですよ。このことを…席に座ることだけだけども、言えばもう無限にありますよ。ある人によって生かされてあるというね。
 
草柳:  そんなふうにしてつながり合ってることを、唯識では何ていうんですか? 仏教では。
 
横山:  「縁起の理」といいます。縁によって皆つながってあると。先ほどは一人一宇宙。三人いれば三人と。そこに大きな円を書きましたね。その円が先ほど申しました「縁起の理」なんですね。この縁起の理に気づけば、それが理解できれば人間はより他者との関係で自由自在に生きていくことができると。だからもう唯識を、広くは仏教を学ぶためには、縁起の理ということを、ほんとに徹底的にこの自分で体得していかなきゃいけないと。
 
草柳:  というと、そのことに気づくということがとても大きなキーワードになって…。
 
横山:  これはまあいつもずっと最近言いますが、悟るまではいかなくても気づこうじゃないか。だから私は最近「気づきの仏教」というのを言い始めたのね。それは最終的には、釈尊みたいに無上正覚を得るべきですけどね。それを高い目標にすべきですけど、「気づく仏教」ということを最近打ち出しています。ただ私自身もほんとにまだまだ最終段階に至ってませんが、毎日我が家の達磨大師があるんですよ。達磨大師の前で三回お唱えして、それで達磨大師さんに「頑張りますよろしく」って言うんですよ。そしたら、何年前かニコッと笑って、「頑張れ」って言うんですよ。
 
草柳:  アハハ…そうですか。
 
横山:  あなた笑われたでしょう。
 
草柳:  はい。仏像も全部そういうものも心の中の影像なんです。ここが大切なんですよ。自分の心のありようが変われば、仏像さんも変わってくるわけ。ここが一番大事なこと。だから拝めば拝むほど、その仏像のありよう表情が変わってきます。これはもういろんな方々が体験され、僧侶たちが体験され、言われることなんですね。仏像もここにありますね。釈迦如来様も今こうやって、皆さん、草柳さん、拝んでご覧になって、これも草柳さんの中の心の中にあるわけです。だからあなたが変われば変わってきますし。草柳さんが見てるこの釈迦如来と、私が見てる釈迦如来は別なんです。
 
草柳:  その「気づき」という問題について、もう少し突っ込んでお話を伺いたいというんで、実はこの絵を用意しましたのでこれを見ながら…。
 
横山:  はい。「観想縁起図(かんそうえんぎず)」と。縁起を観想する、そういう図というのを作りました。縦が時間軸ね、横が空間軸であって。縦の方は、上から見ますと「根源的ないのち」―「単細胞生物」「多細胞生物」「類人猿」「ホモサピエンス」「両親」というふうに進化し成長してくるんですが。それから今度は、下の方に行って、両親の「精子と卵子」が合体して、それで生まれたと。生まれてからの「教育・環境」によって、真ん中にある「自分」というものが、今ここに存在するというわけね。これが縦の時間軸。今度横の空間軸で考えていくと、「自分」というのは、「大地」があり、「大地」によって「地球」があり、「地球」があって「銀河系」があり、乃至は「無数の星雲」があり、「宇宙の果て」というのがあるわけですよね。右の方が分かりやすいですよね。「神経・筋肉・骨・臓器など」が、この自分の身体を形成してますがね。それは全部「六十兆の細胞」があると。「六十兆の細胞」があって、「自分」というものが存在すると。私は何度か「自分自分」と言いましたけど、この図をずっと静かに静かに観想しているならば、う?ん…これは自分なんか…果たして自分というものは存在するのかと。これ全部「他」なんですよ。全部他になってくるわけね。だから前に言ったように、「自分」というのは、「言葉の響き」があるだけであるということが、この図を観想するだけで分かってくるわけですよね。これをご覧になって、草柳さん、いかがですか?
 
草柳:  確かにこの図で見てみると、真ん中に「自分」というのがあるんですけれども、これは全てのものに、縦・横全てのものに結局は生かされた存在。
 
横山:  そうそう。生かされてあるという、先ほどのことも言いましたよね。電車の中で他によって生かされてあるというね。これ考えたら、もうなんか自分というものが全くもうゼロになるけど、ゼロじゃないんですよ。全てのものとつながってると考えると、もう宇宙大に大きくなる、すばらしいこの命のありように気がついて、「万歳!」と叫ぼうではないですか。
 
草柳:  三つ目の基本思想というのは、私たちが見ているのは、「心の中の影像」だということですね。これは分かりやすく言うと、どういうことになりますか?
 
横山:  例えば人間関係の中でよくあることは、ここにある人に会って、この右の女性の人が、あの男性を「あっ嫌いな人だ」と思うわけですね。でも目の前に厳然としているというね。そういうことが世の中ありますよね。しかしちょっとこの唯識的に心の中を観察してみようではありませんか。この左の男性を見た瞬間、この女性は「嫌い」という感情が起こって、それから「キライ」って言葉が起こって、この感情を強くして、これに色づけしたわけです。単なる影像に感情と言葉がつけられたにすぎないわけだ。
 
草柳:  つまりこの人…「嫌いな人」と書いてあるこの人は、本来嫌いでも何でもない。ただ一瞬見た時には、嫌いでも何でもない。ただ見るこちら側が、言葉とそれから感情でもって決めつけちゃうってことですか?
 
横山:  そう。だから結論から言うと、「嫌いな人」というのは錯覚なんです。
 
草柳:  錯覚?
 
横山:  錯覚。それなのに…この三番ね、「心の外に『嫌いな人がいる』と思い込んでしまう」というね。最初に言ったこういう結果が生じてくると。だからやっぱり我々は他人との関係を静かに、この心の中のメカニズムで観察していかなきゃいけない…いくと人間関係は大きく大きく違ってきます。
 
草柳:  お話をずっと伺ってきてですね、その唯識思想というか、唯識というのは、心というのは最大のキーワードだということが分かったんですが、その心をじゃどういうふうに唯識が捉えているのか、ということを、最後にお話を伺っていきたいと思うんですが。
 
横山:  左の方に「表層心」と「深層心」があると。上の表層心というのは、全部で六つありますよね。「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」と。黄色く書いたのが、まあ「感覚」と書いてますが五感覚です。それから一番右が「意識」として「思考」ですね。
 
草柳:  その「意識」の他に「感覚」というふうに書かれた「眼耳鼻舌身」というのはですね、まあ普通に考えて一体どういう働きをするのかということは分かるんですけれども、下の二つ、つまり「深層心」と書いたこの二つというのは、これは唯識の独自の捉え方なんですか?
 
横山:  般若経の時代までは、六識だったんですが、唯識が先ほど申しましたようにヨーガを修することによって、心の底まで観察し分析した結果、二つの深層心を発見し、一つは「根本心」である「阿頼耶識(あらやしき)」という、そういう心を立てて、まあいろいろ歴史的に考えてみると、初めは阿頼耶識しかなかったのが、だんだんとこの「第七」といいますが、第七の「末那識(まなしき)」というものが打ち出されてくるんですね。末那識からご説明しますが、これは深層に働く「自我執着心」。人の前で何かお話をするとか、講演講義しようと思ったら、自己紹介しようと思ったら緊張しますね。こういうことが人間の中にあるわけです。そういう表層のありようから、末那識は寝ても覚めても働き続けているというふうに、我々は推測するというかね。そういうことを考えてみると、それでやっぱり末那識というのがなければいけないということが分かってきますね。最後の最後が阿頼耶識という根本心といって、先ほど憎い人、嫌いな人って言いましたね。あの「憎い」という思いも、それから「憎い」という言葉も、全部阿頼耶識の中にタネとして、可能力として存在するわけですよ。ここを見て下さい。「一切種子識」と。全てのものを生じていく可能力がこの心の中にあるんだという。一切なんです。すなわち一人一宇宙の中に起こってくる全てが、阿頼耶識の中にもともとタネとして眠っている、潜在してるというわけね。だからまあ結論から言うと、その種子がいつも清らかな種子であれば、表層心理はいつも清らかなんですよ。
 
草柳:  話の今日途中にありました最終的には、その心に働きかけて変革をしていかなければいけないんだという時のその心というのは、深層の心とおっしゃいましたですね。それは今説明して下さっているこの阿頼耶識のことなんですか?
 
横山:  そう。心の変革が唯識の目的であって、心の変革の心は阿頼耶識なんですよ。阿頼耶識を変えていこうではないかと。例えば簡単に言うと、先ほど生かされてあるということが分かって、座ってる人が立ってる人に「ありがとうございます」と言いましたね。阿頼耶識を浄化していくためには、まずは感謝の言葉を出していく。言葉なんですよ。私は今日の朝もそうですが、頭をそる時に、風呂入って必ずやることがあるんですね。手を合わせて、「肝臓さんありがとう」「心臓さんありがとう」。言葉によって人間は、どんどんどんどん変わっていきます。この阿頼耶識を変えていくことを目指していこうではないかと。阿頼耶識の浄化―清らかにしていく。これが人間生きていく大きな一個の目的であるわけです。
 
草柳:  どうも今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年四月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである