唯識に生きるA自分とは何者か
 
                    立教大学名誉教授 横 山(よこやま)  紘 一(こういつ)
                    き き て    草 柳  隆 三
 
ナレーター:  四世紀から五世紀ごろのインドで、無著(むじやく)と世親(せしん)という兄弟によって打ち立てられた唯識。小説『西遊記(さいゆうき)』の主人公として知られる玄奘三蔵法師(げんじようさんぞうほうし)が中国に持ち帰ったあと、日本には飛鳥・奈良時代に伝来。仏の道に生きる僧侶が学ぶ仏教の根本思想として脈々と受け継がれてきました。唯識は、瑜伽行(ゆがぎよう)―修行としてヨーガを実践する人々によってつくられました。瞑想を行い、自己の奥深くにある心のメカニズムを観察することから生まれました。
 

 
横山:  じゃあまず手を見て下さい。
 
ナレーター:  唯識は、日々の暮らしの中で自分を客観的に見つめ、心のありようを積極的に変えていく具体的な実践を説きます。唯識は心と身体を整えるさまざまな智慧を持っています。ストレスの多い毎日を不安を抱え生きる私たち。日々の暮らしに生かせる唯識の具体的な活用法を、小野文惠アナウンサーが体験リポートします。
 

 
草柳:  「こころの時代」では、毎月一回、「唯識に生きる」と題して日本仏教の根本的な思想であると言われている唯識について、六回のシリーズでお伝えしております。今日は二回目なんですが、お話は立教大学名誉教授で、この唯識を五十年以上にわたってずっと研究し続けていらっしゃる横山紘一さんです。まず一回目のおさらいから入っていきたいんですけれども、歴史についてお聞きしたいんですが、もともと唯識は当然インドですよね、起こったのは。
 
横山:  そうですね。紀元四世紀、五世紀ごろですね。無著、世親という兄弟なんですが、その人によって組織形成され、それを七世紀に玄奘三蔵が本当に艱難辛苦の旅を…インドを往復されてね、中国に持って帰られるわけですね。それを玄奘の弟子の慈恩大師(じおんだいし)・基(き)という人たちと、法相宗(ほつそうしゆう)という宗派をつくるわけです。その法相宗が、この日本には飛鳥・奈良時代に伝わってきて、今では興福寺で大本山としてずっと伝えられてきてるわけです。
 
草柳:  玄奘というのは、『西遊記』で、三蔵法師という名前で我々にも割合親しみがあるお坊さんなんですけれども。
横山:  日本仏教のあらゆる宗派にとっての恩人なんですよ。本当にそうなんですね。だからいろんな祖師方―法然、親鸞、道元、空海とかね、そういう人たちも、みんな唯識を勉強された。その結果、自分の信念に基づいて新しい宗派をつくられていかれたと。だからもうその方々の著作の中には、唯識の言葉がものすごく引用されております。
 
草柳:  「唯識」っていうのは、言葉からしてちょっと取っつきにくいところがあるというか、難しいなあというのがまず最初にあるんですけれども、唯識というのはいわゆる常識を否定したところに起こった教えっていうふうに受け取っていいんでしょうか?
 
横山:  まあ常識だと、前回もやりましたけど、ここにね自分の前にコップがあるとかね、憎い人がいるとかね、自分の外に物があると考えますね。
 
草柳:  だって今、目の前にコップがあって、このコップがないとは思えませんもん。
 
横山:  それが常識なんですよ。
 
草柳:  でしょう。
 
横山:  その常識に生きていくからこそ、自と他とを区別して、そこでいろんな問題が起こってくると。全部一人一人の心の中の存在にしかすぎないんですよ。心の中でつくりあげられたものにすぎないわけですよね。しかし一般の人は、それを非常識だと考えますが、非常識という言葉はあんまりニュアンスがよくないですからね。だから僕はこのごろ「唯識は反常識である」と。「反常識」という言葉を、私はずっと使ってね、これから唯識の特徴を言おうと思ってるんです。
 
草柳:  ちょっと説明をして下さい。まずこの絵なんですが、これは何を言ってるわけですか。
 
横山:  普通我々は、ある人といろんな過去があって、出来事があって、自分はいじめられたとか、何か文句を言われたとか、そういう不快な経験があった時に、その同じ人に会った時に、「あっ、嫌いな人だ」ってね、こう目の前にいると思いますね。しかし静かに己の心の中を観察してみると、次のメカニズムが分かってくるわけですよ。見た瞬間、この人は誰であるということも分かりませんね、見た瞬間はね。しかし過去の経験が深層からパッとふき出してきて、見る人の思いがこういう付与されて、最後に「嫌いだ」という、そういう言葉でもって、その思いを強めて、それでこの影像に付加してしまうわけです。しかし、そこに気が付かずに、心の外に「嫌いな人がいる」と思い込んでしまうね。これがこの図の全体の説明であって。簡単に言うと、全てのものは己の心の中でつくり上げられたものであるというですね。だから唯だ識、唯だ心だけであるというね。
 
草柳:  なるほど。もう一枚のこの絵からはですね、どういうことが言えるんでしょうか。
 
横山:  これもね電車が入ってきて、男の人が座れたというわけですよね。パッと席取れたと。しかし、よくよく考えてみると、自分と他の人間との関係を深く考えてみると、前の人が立っているから、あなたのおかげで自分は座らせてもらっているという、これに気が付くわけですね。すべての存在によって自分は生かされて在る。で「自分、自分」と言うけど、全部は他の力、すなわち縁の力であるという。だからまあこれは席に座れたということですけど、全て生かされて在るというのが、いろんなご縁で生かされて在るという。これが第二番目の唯識の基本思想であります。
 
草柳:  そうすると、一つは、「全ては心の中で起こっていることである」と。もう一つは、「自分というのは、他者との関係の中で生かされている」。そのことを踏まえた上で、今回のテーマなんですけれども、今回は「自分とは一体何者なのか?」ということですよね。
 
横山:  そうですね。一番大切なことですよね、生きていく上でね。自分というものが分からないで生きていくと、まああんまりいい例えじゃないですが、操り人形のように、または幽霊のように生きていくという、そういう生き方に終始してしまうんですね。自分とは一体何かってね。これはやっぱりもう僕は変なこと言いますが、棺おけに入る一歩手前まで、自分とは何かということを考え続けていこうということを、ちょっとそういうことを強調して言っているんですが。
 
草柳:  唯識に限らず、仏教というのは、「自分とは何か」ということをずっとこう問い続けてきてるわけですよね。
 
横山:  ひと言で言うと、「自分というのは存在しない、無我である」という。「無我」という言葉がね、これは仏教の基本的なタームでありますですよね。
 
草柳:  と言いながら、「自分はないんだ」というふうに、仏教では言いながら、唯識では言いながら、だけども実際そうではない。つまり「私が」「俺が」「自分が」ということが、もうしょっちゅう顔を出しますでしょう。
 
横山:  そうですね。まあホモサピエンスであるかぎりというんですがね。もう人間はみんな事につけて、まあ言葉でもいいですが、「自分は」という言葉を言いますしね、また「自分」という思いがあるわけですよね。
 
草柳:  「自分とは何か」ってことを、問い続けることが大事なんだけれども、それには順序があるというふうにおっしゃってますでしょう。その順序って何ですか?
 
横山:  この「なに」から「なぜ」、そして「いかに」というね、思考のプロセスがあると、私はずっと言い続けてきてるんですが。これ一番左ですよね、「いったい何か」ということでね。それで「無我」というわけですよ。じゃなぜ無我かと言いますと、「他の力」で生かされていると。縁起のゆえに無我であるという。最終的に「なに」「なぜ」が分かったところで、人間いかに生きていくべきかということが結論されますが、我々普通はこう何も考えないで、どうやって生きていこうか、どうやって生きていこうかと、そういう発想だけで終わるわけですが、我々がこのテーマで、「自分とは何か」というものを、やっぱり最終的に究明していかなきゃいけないわけですよ。実践してみて、それをつかむ以外にないと思いますね。
 

 
ナレーター:  自分とは何者か。この問いをめぐって、横山さんが、現代社会の問題と見るのが人間関係の悩みです。横山紘一さんが、月一回開いている「唯識」の市民講座。横山さんと共に講師を務める大來尚順さんは、寺を社会に積極的に開いていく活動を通じて多くの市民と交流。日々の暮らしの中で、人々が直面する具体的な悩みやトラブルに耳を傾け共に解決の道を探っています。
 
大來: 多くの方がお悩みを持っていらっしゃるんですけども、その中の多くはですね、やはり人間関係なんですね。例えば職場の問題ですと、上司と同僚とコミュニケーションがとれないとか、あと上司と馬が合わないとか、会社の方針についていけない、もしくは人と話したくないとか。あとは人の目が気になってしまって、どうしても自分の行動が思うようにできない。そういった問題を持っている方が多いように感じます。恐らく孤独なんではないかなと思うんです。自分が…自分が…自分が…自分がこんなに苦しんでる。人も同じように苦しんでるんですけども、自分というものにとらわれ過ぎているんではないかなというふうに思います。
 
ナレーター:  人間関係に悩む人に対し、大來さんが勧めているのが、写経や念珠づくりです。そこには心のありようを積極的に変える唯識ならではの工夫が込められています。
 
大來:  一つの方便なんですけども、写経だったり、お念珠づくりというものを勧めています。これはどういうことかというとですね、一旦不必要なことを考えないようにするんです。結局職場では、上司のことを考えたり、同僚のことを考えたり、会社のことを考えたり、いろんなことを考えて頭が混乱されているので、一旦そのようなことを考えるのをストップさせて、あえて目の前にあることに集中してもらうんですね。そうすることによって、余計なことを考えずに、今の自分と向き合うことができるんですね。そうすると、ふと気が付くんです。なんでこんなに不必要なことに対して、自分は悩んでいたんだろうって思うこともあるんですね。ちょっとした自分の心、自分の集中を外ではなくて自分に向ける、そういった取り組みをして頂いてます。唯識の関係から言うとですね、結局自分って何なんだろうということを考えるようになると思うんですよね。冷静になった時に、「あれ?」って思う瞬間。結局今までは、自分と思っていた自分というのは、実は孤独じゃなくって、いろんなものとつながっている。そうすると、おのずと見えてくるものが唯識の世界なんですね。結局自分で自分の首を絞めてたんだ。唯識はまさにそのことを伝えてるんではないかなと私は思ってます。
 

 
草柳:  今、出たようなお話はですね、多かれ少なかれ多くの人が感じていることだと思うんですけれども、なぜ現代今こういう問題が起こってきているのか?
 
横山:  それはひと言で言えば、全ての人々がですね、「自我執着心」を持っていると。自我執着。自分自身に執着しているという、そういう人間の心の基本的なありようが…。
 
草柳:  自我執着心ということは、常にそこに「自分が、自分が」ということがある。自分に執着するその心があっては、なぜいけないんですか? 誰だって自分に執着する心って持ってますよね、きっと多かれ少なかれ。そのことがどういう差し障りになる?
 
横山:  「自」と「他」とを設定し、その自と他との間にいろんな対立が起こってくるというその対立。今「自と他」と言いましたが、「他」の中には人間だけじゃなくて、自然のこともありますし、それから国々のこともありますし、いろんなものが「他」の中に入ってこようと思いますが、要は根本的には自我執着心なんです。例えば私の方からいいですか…これ何ですか? 英語で言いますが、「What is this?」
 
草柳:  「ボールペン」。
 
横山:  「That's a pen.」
 
草柳:  「ペン」。
 
横山:  「それはペンです」と言いますね。これは間違ってるんですよ。「That's a pen,I think. 」。「I think」と言わなきゃいけない、と私は考えるわけです。そこに気が付かなきゃいけない。何をするにも常に「私」というね、思いと言葉が出てくる。それに大きな問題があるということをね。これが仏教の根本的な教理、教えであると言っていいと思いますね。
 
草柳:  横山さんは、もう一つ人間関係の他にですね、情報が今ものすごく氾濫していて、その情報があまりにも多すぎることによる害を、みんながかぶっちゃってるんだという言い方されてますでしょう。これってどういうことですか?
 
横山:  まあ私がすごく問題化しているのは、携帯電話をもうみんな電車の中で見てますよね。
 
草柳:  多いですね。
 
横山:  歩きながらでも見ていますね。みんな遊んだり、なんかいろんなものをごちゃごちゃごちゃごちゃ流してね。まあ簡単に言うと、いろんな情報を得たいと思ってるわけですよね。その情報過多というのが、人間に心の落ち着きを忘れ去ってしまうということなんですね。我々は静かな静かな心になって、自分とはいったい何であるかということを、常に常に考えていく人生を歩もうではないか、ということを、私は唯識の教理に基づいてずっと言い続けてるわけです。我々は「一人一宇宙」の心の中ね、ざわざわざわざわしてるわけですよ。
 
草柳:  またちょっと絵にしてみましたので。
 
横山:  そのざわめき…桶の中でバタバタバタバタ水が氾濫してますね。これは今言った情報過多で、もう右往左往している。その心のありようですね。
 
草柳:  そういう情報には、いわばアップアップする中で、本来もっと発揮しなきゃいけない力があるとすれば、しかもそれがなくなっているとすれば、それは何なんですかね?
 
横山:  まあ集中力と言っていいですね。この一回かぎりじゃない。もう毎日毎日、それも一年二年三年と、自分とは何かというものを考えていく、追求していく。それが「念」の力ね。そうすると、心がバタバタした桶の水が静まって、ピターッとこういうふうに明鏡止水のように落ち着くわけですね。そうすると、本来の存在が見えてくるというか、心の中に現れてくると言ってもいいですね。「顕現してくる」という、そういう言葉がよく使うんですがね。そこにねやっぱり本来の自分という。まあ自分というのは、無我であると言いますがね。私は「本来の自分」または「真実の自分」と、そういうふうに言いかえたい。そういうやっぱり自分というものを、我々最終的に生きている間につかんでいかなきゃいけないです。
 
草柳:  唯識は、ただ頭の中で考えることではなくて、実践と結びついて初めて唯識の教えが生きてくるという話がありましたですね。
 
横山:  専門的には「教行一如(きようぎよういちによ)」っていうんです。「教」が教え、「行」が実践、それが「一如」、一つじゃなきゃいけないというね。
 
草柳:  それで実はこういう絵を用意したんですけれども。
 
横山:  「ヨーガ」というのは「結びつく」という意味でね。英語で「結合する」という意味なんですよ。これは「ヨーク」といって、牛と牛とを結びつける横木ですよね。要は結合するという意味なんです。人間に例えてみるならば、分離された身と心、身体と心をまず結合させるわけだ。結合した新しい身心と、今度は最終的な真理、真実が結合していくという。つまり二段階があるわけですね。やっぱりどうしてもヨーガの実践は日本で一番手っとり早いのは坐禅。禅をすれば坐るということですよね。
 
草柳:  一回目にも、この教理と結びついたその実践、その教えをVTRで、映像で紹介したんですけれども、その時に坐禅だけではなくて、その呼吸がいかに大切かという話がありましたですよね。次のコーナーは、アナウンサーの小野文惠が、その呼吸から入って、その実践のことについてのリポートをしておりますので、それを見てみることにいたしましょう。
 

 
北山:  ガッと広げる!そうそうそう。
 
小野アナウンサー:  前回私が挑戦したのは、深い呼吸をするためのレッスン。呼吸を通して、心と体の橋渡しをする唯識の教えに基づくものでした。
 
小野:  見えますか? 指と指の間が広がっている気がするんですけど、これ気のせいじゃないですよね。
小野アナウンサー: 体感したのは、ろっ骨の間が広がるような息のしかた。ところがカギになる骨が実はもう一つあったのです。それは背骨。
 
北山:  起点になるのが、呼吸の吐いたり吸ったりするその一つ一つのところにまずここから動き始める。仙骨(せんこつ)って―この三角のこの骨を仙骨というんですけど、ここから動き始める。
 
北山:  そうそうそうちょっと骨盤引っ込めて。倒す。はい起こす。骨盤を倒す。骨盤を起こす。そうそうそう。
 
小野アナウンサー:  背骨の一番下にある仙骨。そこから背骨を呼吸とともにムチのようにしならせて動かすというのですが…
 
小野:  ここが動いてるんですか?この間に。
 
北山:  まっすぐじゃないでしょ。いつもお尻のところから、私たちは呼吸をしているという、そのイメージがまずある。ここもこういうふうに膨らんだり、肋骨が広がったり、全体でこうなって、
 
小野アナウンサー:  早速挑戦します
 
北山:  骨盤を中にぐーっと。その時にこれが順番に。もっとグッと下げて。もっと下に。もっと下げてもっと下げてもっと下げてそうそうそう…。
 
小野アナウンサー:  背骨を前後にしならせるように動かすには、どこに意識を向けたらよいか、具体的に教わります。
 
北山:  分かります?ここ。
 
小野:  分かります。
 
北山:  これ自分でやってみて下さい。そうそうそう…グッと上げてグッと…そうです。わっすごいきれい。全然違うね、さっきと。このカーブが今すごく丸く…。分かります自分で?
 
小野:  はい。分かります。背骨が自分が思っていたよりもしなる感じ。
 
北山:  深い呼吸ができるようになったら、体がリラックスして、なんか心がほどけてくるようなそんな感じしましたですよね。その呼吸が浅くなってきたと気が付けば、「あ、いけない、いけない」と思って、しっかり深い呼吸を取り戻すようになると、また全体にリラックスしてくるから心もゆったりとしてくる。
 
小野:  なるほど大事ですね。
 
北山:  大事なんです。
 

 
小野アナウンサー:  深い呼吸のしかたについて教わったあとに訪れたのが、東京の圓融寺。横山さんが主宰する「唯識」の市民講座で取り組んでいる「イスで行う坐禅」に挑戦します。
 
小野:  お邪魔しま?す。
 
阿:   どうもこんにちは。はじめまして。
 
小野:  よろしくお願いします。座ってやる坐禅をこちらで教えて下さると聞いて。
 
阿:  そうですね。はい。
 
小野アナウンサー:  教えて頂くのは住職の阿純章さん。唯識ライブだけでなく、自坊でも定期的に坐禅会を開き教えています。
 
小野:  椅子に座ってやるんですか?
 
阿:  ええ。もう日常生活、椅子の方が多いですからね。坐禅というのは、「今ここになりきる」っていうことなんですね。いつも頭というのは、あっちこっち、過去の事、未来の事ですね、いろんなところに動いてるものを、今自分の体と同じところに心も落ち着かせるということなので、それができれば、どんなことをしても―坐禅って「坐」って言いますけれども、立ってたって立禅だってできますし、歩行禅だってできますし、ご飯を食べながらだって禅はできますし、どういう形でもいいんですね。ただ自分の体を動かさないようにすると、一番集中しやすい、リラックスしやすいので行うので、あぐらのような形を使わなくても、この椅子でも十分同じようにできますので、今日はそのやり方をお教えいたします。
 
小野:  分かりました。
 
阿:   まずですね、ご家庭にある椅子何でも持ってきてもらっていいんですけれども、背もたれは使わないので、普通の丸椅子でも何でもいいです。ちょっとこう自分の体を感じるってことが大切なので、なるべく頼らないことがいいですね。
 
小野:  背もたれに頼らない。
 
阿:   なるべく首筋を立てて、後頭部を天井から引っ張られているような、そんなような感じでピンとこうまず立ててみます。その状態から顎を軽く引いてみて下さい。目線もスッと下におろします。もうスッとおろした瞬間って何も見てないですね。木目がどうとかも気になってないですよね。スッと何気なくフッて見下ろしたその瞬間流れに任せればいいです。目をつぶってたらつぶってる。木目が気になったら思う存分気になってもいいですので。その時の流れに任せましょう。
 
小野:  はい。
 
阿:  次にこれが大切なんですが、呼吸を整えていきます。まず吐いていきます。吐ききったら今度は吸う。呼吸の長さはですね、自分のペースでなるべくゆっくり意識を傾けて行っていきます。
 
小野:  眠くなってきました。
 
阿:  そうですね。だんだんこう頭が前の方に…。お仕事でお疲れというのもあるので、そういう場合はピーンと。はい。首筋を立てて、あと顎を引いて。呼吸に意識を傾ける。呼吸をしててもですね、どうしても思考が働く。私が呼吸をしている、どこまで吸おうかな、どこまで頑張ろうかな、今度ここのタイミングで、今度は吐いてみようとかって、脳みそが決めたがるんですけど、呼吸に任せて下さい。もう「私が呼吸をする」というところから「私」を取り除いて、「呼吸が呼吸をしている」そのようなつもりで呼吸をしてみて下さい。もうどこまで吸うか、どこまで吐くか、もうそのタイミングも決めなくていいです。そういうふうにしているうちに、雑念が湧いたり、眠くなったり、集中できないという、これが普通なんですね。それが脳の働きなので、それをネガティブに捉える必要はありませんが、なるべくですね、今ここに意識をこう戻す一つのやり方として、数を数えるという方法があります。まあ仏教の禅の言葉だと数息観(すそくかん)というんですけれども。例えば「ひとつ、ふたつ」というふうに数えていくんでしたらば、「ひと?」でゆっくり吐いていきます。心の中で念じながら「ひと?」。吐ききったら「つ?」で、またゆっくり吸っていきます。また「ふた?」で吐いて…。「つ?」で吸って…。それを十まで数えたら、また一に戻る。それを繰り返し繰り返し行っていきます。呼吸を調えていくと、だんだんと心が整ってくると思います。坐禅に大切なことは、まず体を調える。そして次に呼吸を整える。そして一番大切なのが最後に心を調えるということです。心を調えるというのは、心を今ここに落ち着かせる。今ここになりきるということですね。例えばですね、今あの空調の音。あとミシミシっていう木のですね、しなるような音がしたり、私の声もそうですし、また椅子と椅子に座っている体の感触、体の重さ、手の重さ。いろんなものが今ここに起こってるんですが、その起こってることと一つになるように。
(鉦の音)そのまますぐに坐禅から出る必要はありません。ゆっくりと意識を戻していきます。手をこすり合わせて、少し温めてから体のこわばったところをマッサージ。顔もですねさすって。あまりすぐに坐禅から出ずに、ゆっくりゆっくり出る方がいいと思います。顔つきが変わりましたね。
 
小野:  ほんとですか?
 
阿:  はい。
 
小野:  明かりがさっきより明るい感じがするんです。電気が明るいというか。
 
阿:  すごいことですよね、電気が明るいって。
 
小野:  電気明るいなぁって思いました。
 
阿:  ええ。
 
小野:  人のお話がよく聞こえてくるみたいな感じがあるんですけれど。
 
阿:  どちらもあると思うんですが、坐禅をされて終わったあとですねすごいすっきりして、見えるもの全てが美しくなるって、感想を言って下さる方は非常に多いんですよ。
 
小野:  こんな仕事をしていて何なんですけど、人のお話を聞いているのがしんどいなぁって思う時があるんです。こうやってインタビューしたりすると、人の顔をじっと見ないといけないじゃありませんか。じっと阿さんの顔を見ていることを、「ああ、しんどいなぁ」って思ってしまうことがあるんですけど、そういう感じがさっきこの坐禅をやってみる前と後とでは全然違って…。これは合ってるんでしょうか?
 
阿:  はい。境界線が少しなくなってきたってことですよね。
 
小野:  「自分、自分」って思っているものが、ちょっとほどけたような感じですかね。
 
阿:  そうですね。
 
小野:  自分がそんなに人と隔てがあったって思ってなかったんですけど、こうやって「あっ、人の話が聞こえてくるってこういう感じだったかな」と思うと、やっぱり確かに今までの自分はそうではなかったって。何かこう垣根があったような気がします。
 
阿:  先ほど自己を観察してみましたけれど、自分ってありましたか?
 
小野:  まぁ本当によく気が散る女だなと思いました。(笑い)
 
阿:  でも気が散る女っていうのも、自分の頭の中でつくっているだけですから、それも妄想なんですよね。今ここの小野さんって、どういう人物ですか、と言ったらですね、多分説明できないと…。「小野」というお名前も、それもただの名前、記号にしかすぎませんし、職業だって何だって今の自分の体に何も備わってないじゃないですか。体一つ、呼吸して座ってるだけの話ですからね。そこにこう小野さんという人物は存在しない。分かりますか?
 
小野:  まぁそうですね。
 
阿:  いないんです。
 
小野:  この肉体が一個あるだけですよね。
 
阿:  でも、じゃあその肉体は小野さんなんでしょうかね? では心だと言っても、心は自分かと言ったら、どうでしょうね? 自分の心は自分なんでしょうか?
 
小野:  そうですね。それを言われるとそんなものはありませんね。
 
阿:  ってなりますよね。それを仏教だと、「無我」っていう言い方をするんですが、「我」があらゆる問題を引き起こすわけですね。「無我」っていうと、何もなくなってスポーンと消えて真っ暗になっちゃうとか、そういうことではなくって。それよりも「非我」というふうに考えた方が少し分かりやすいかもしれないです。自分だと思っているこの自分は自分じゃなかった。自分が持っているこの所有物も自分のものではなかった。本来この世界の何もかもが誰のものでもない。何の境界線もないと。そうすると、私とあなたっていうと、対立もなくなりますので比較することもないですし、意見の相違があってもですね、それはただ幻の境界線を引いてるだけで行ってるもので、そこにこだわる必要もないんだなということにもなっていくので。
 
小野:  そういう気持ちというか、感覚みたいなものを持っていたら、ちょっと違うかもしれないですね。
 
阿:  自我っていうのが幻なんだ。仮のものなんだってようなことを、どこかで思っとくと、ちょっと生活にゆとりが出てくるかもしれないですね。
 
小野:  坐禅の状態になるために、「呼吸に意識を向けなさい」とおっしゃったじゃありませんか。あれはどうしてなんですか?
 
阿:  体の中でコントロールできるものってあります? この毛を今日はちょっと生やしてみようとか。
 
小野:  無理です。
 
阿:  他のものみんな体が勝手に動いてる。心臓だって自分で今日は止めてみようとか、速く動かそうとかできないですよね。でも呼吸だけは、自分の体の中でコントロールできるんですよね。
 
小野:  意識して変えようと思えば、変えられるもの。
 
阿:  意識してやらないで、自然に自律的にやってるものを、自分のコントロールでできるようになるということは、自律してるもの全てのものに対して意識を向けることのできる一つの取っかかりというか、大きな窓口になるんですね。
 
小野:  体は勝手にやっていることに、心がこう意識を向ければ一緒にできる。イメージですね。
 
阿:  ああ、そうですね。
 
小野:  それで心と体がバラバラだったものを一つにする。
 
阿:  はい。そうです。その接着剤というか、そのパイプ役が呼吸だという。体全体と、それから心との間を取り持ってくれるのが呼吸っていうふうに考えたらどうでしょうか。
 
小野:  こんなこと言ったら失礼ですかね。仏教の世界のことがこんなに即ふだんの生活に役に立つというか。
 
阿:  あ、そうなんですよね。
 
小野:  周りが明るく見えるとか、すっきりするとか、こういうことに役に立つものなんですね。
 
阿:  はい。より親しんでもらって、日常生活にどんどん生かしてもらいたいなと思うんですが、仏教の教えってどうしても難しい哲学だったり、何か宗教だったりって思う方が多くて、特に唯識というのは、本当にお坊さんでもなかなか気軽に触れることができないような哲学教理というようなイメージがあって。でも本当を言うと、唯識というのは実践行なんですね。唯識瑜伽行派といって、ヨーガによって、今ここになりきるという実践をたくさん説いていていい教えがいっぱいあるわけなんですね。まぁちょっと大胆な意見ですけど、仏教そのものを宗教の枠から解放して、そして実生活の皆さんの生きる力の土台にして頂ければ、本来の仏教のこの教えが生かされるんじゃないのかなと、そんなふうに私は思ってるんですが。
 
小野:  でも、こんなにすっきり気持ち良くなれるんだったら、やってみようと思います。
 

 
草柳:  今の映像をご覧になっていかがでしたですか?
 
横山:  小野さんが、坐禅したあとすっきりしたと、なんか明るくなってきたというね。私も同じような体験を若い時にした。二十一のころですかね。悩んで悩んで悩み上げて、円覚寺の居士林(こじりん)というところで坐禅を初めてしたんですよ。その時ですね、僧侶が警策をこう持ちながらずっと私の前を歩かれて、「坐禅っていうのは、ただ単にボーッと坐るんじゃねえぞ。地球の裏のブラジルで線香の灰がポトッと落ちたら、ビクッとするような、そういう感じで座れ」って言ったんですよ。集中することによってですね、地球の裏側まで、反対側まで包み込むような、そういう大きな心になれるんだというね。まあ僕はその時に坐禅っていうのはもっとすごいそういう世界の中に入っていけるんだなってことを知って、よしやるぞ!って気を起こしたんですね。とにかく無になりきれというね。それを一週間ぐらいだったですかね、何があっても「無無無」で押していけっていうね。
 
草柳:  無?
 
横山:  無。無になりきりなさいって。
 
草柳:  横山さんが坐禅を組んだってことですか?
 
横山:  坐禅を組み―坐禅だけじゃないですよ。何してもね、食事する時でも、作務(さむ)っていうか、草を抜いてもね。
 
草柳:  ああなるほど。
 
横山:  それからあと歩くこともあるわけですけどね。そういう時に無になりきれと。そこでなりきったわけですよ。まあ私なりになりきって、一週間ぐらい生活しましたらね、そのあと横須賀線で東京に帰る時に、ほんとに周りの風景が一変したわけです。ほんとになんか美しく見え始めたんですね。で乗ってる人がみんな笑ってるような感じでね。そういう体験が私の中にありましたですね。すごい私にとって、それが大きな坐禅の初体験でしたが、坐禅ってすごいなぁっていうね。風景はみんな心の中の影像なんですよね。だから心が変われば、しかも深層心理が変わってくると、表層心理が変わるわけだ。だから同じ風景―まあ同じ風景といってもいいけど、そうね以前に見た風景がね、同じ風景だったのが変わって見えたというね。それがヨーガとか、坐禅のすごい力だと思いますね。
 
草柳:  なるほど、そうですか。さていよいよ更に突っ込んで今回のテーマである「自分とは何者か」ということについての話を深めていって頂きたいんですけれども。唯識では、自分―私というのを、そのありようをどういうふうに捉えているわけですか?
 
横山:  我々、この自分ということについて、四つのありようがありますよね。
 
草柳:  この四つ。
 
横山:  一つは、一番上の「自分」は何者かを知らないというね。それを専門的に「我癡(がち)」といいます。我(われ)に対して、我(が)に対して愚かである。自分について愚かであるとね。二番目が「自分」は存在すると考えるという、「我見(がけん)」といいます。我は存在するという見解ですね。それから「自分」は優れていると慢心するというですね、驕り高ぶるという、これが「我慢(がまん)」といいます。それから最後は「自分」は愛おしいと考える「我愛(があい)」という。この四つが自分についての心のありようではないかと思うんですね。まあ四つの煩悩といってもいいですよね。「我癡」「我見」「我慢」「我愛」という四煩悩。
 
草柳:  それは全て人の煩悩であると。
 
横山:  煩悩ですね。四大煩悩。分かりやすいですね、この言葉ね。
 
草柳:  それでこの唯識では、こうした煩悩というのは、全て深層の心―深層の心にも二つあるということなんですが、そのうちの末那識(まなしき)にあると。
 
横山:  そうなんです。
 
草柳:  その八つの識については、一回目にもこの図を使って説明して頂いたんですが、これ一番上のところが「表層心」ということでしたですね。「表層心」というのは?
 
横山:  これは黄色いところが五感覚ですね。現代の言葉でいうとね。視覚から始まって、触覚までですよね。それから一番右が「思考」と書いてます。これが「意識」という。物事を言葉で考えていくという、そういう心ですよね。これが「表層心」。下の方にあるのが「末那識(まなしき)」と「阿頼耶識(あらやしき)」と。今、問題としていこうとするのは、第七番目にある自我執着心である「末那識」ね。
 
草柳:  今挙げて頂いた四つの「私」は―自分というものは、こういうふうに唯識では捉えているんだというのが、全てこの末那識の中にあって。
 
横山:  その末那識が寝ても覚めても―専門的には「恒審思量(ごうしんしりよう)」というんですが、生死をするかぎり、生まれて死ぬまででもいいし、また生死輪廻する間ずっと、この心に付属して働いているという、そういうことを唯識は強調していくわけです。
 
草柳:  ただ末那識というのは、深いところ―深層にある心の働きでしょ。文字どおりこれは深層の心の働きですからなかなか見えない。ただもちろん表層心として、それが芽を出してくるってことがある。だけれども、なかなかそのことに気づくっていうのがですね、なかなかちょっと気づきにくいところもあるんですけれども、横山さんは、例えば具体的にどういう時にその末那識っていうことに気づくっていうか…。
 
横山:  そうですね。最近はあんまりどこに行っても緊張することはなかったんですがね。まあ若い時なんか人前で話す時ね、これは誰でも緊張していきますよね。例えば「自己紹介して下さい」って言ってね。例えば何百人でも、何十人の前でもいいですよね。そういう時にやっぱり自分というのを意識しますね。それまで意識しなかったにしてもね。それからもう一個は、若者なんかに多いんですが、電車にお年寄りが乗ってくると、席を譲った時に、なんか多分恥ずかしい気持ちが起こって、自分はいいことしたんだっていうそういう心が自分の中に起こって、周りの人が見てると思うんで、それで出口の方に歩いていったりね。そういうことがよく見かけますよね。それから最近はやりのボランティアをやってる人は、いろいろ心の中で葛藤があると思うんです。自分というものは、人のためにいいことしてるっていうけど、本当はもしかしたら自分のためにやっているんじゃないかなっていうね。やっぱりいいことをしてるというその行為が自分に跳ね返ってきて、ちょっと自分を誇りに思ったりなんかするというね。それはないこともないでしょう、みんなあると思いますがね。
 
草柳:  例えばボランティアを一生懸命やっていて、やったことに対してあからさまにそんなこと考えなくても、やっぱり今おっしゃったような気持ちが心のどこかに起こるっていうのは…。
 
横山:  どうしても人間っていうのは、ボランティアだったら人のために行為してるんだという、そういうことなんですけれども、どうしても自分は何かいいことをしているんだという、その思いが心の中に残るんですよ、どうしてもね。それがやっぱり末那識というものがあるという、一つの証拠になっていくんじゃないかと思います。その六つのこの表層的な心のありようから、深層には寝ても覚めても働いている末那識があるということが推測されるわけです。もちろん坐禅してヨーガをすることによって、それをじかにつかまなきゃいけないですがね。
 
草柳:  表層的なっていうのは、つまり外側に現れて、それと分かることでしょ。
 
横山:  そうですね。
 
草柳:  今おっしゃった具体的な人の心の動きみたいなものも、全てそれは、つまり末那識と言われるものから出てるということなんですか?
 
横山:  はい。そういうふうにね。これはもう見事な僕は教理だと思いますね。教理といってもいいし、心のメカニズムを解明してると言っていいと思います。
 
草柳:  二回目のお話は、横山さん、「自分とは一体何者なのか」ということでずっと伺ってきたわけなんですけれども、つまるところ結局というか、唯識ではそれを端的にどういう言い方をしているわけですか?
 
横山:  自分とは何者かっていうとこで、本当の自分、真実の自分、それは一体何であるかっていうことを、やっぱり最後に考えていかなきゃいけないと思いますよね。例えば夜空に月が照っていると。で月の前に雲があると、雲によって遮られますよね。雲がこうずっと払われてみると、月が前面に出てきますよね。同じように、我々の心もいろんな障害によって、雲みたいな障害によって乱れて束縛されているわけですよ。その障害というものを取っ払っていこうではないかという。その障害は、どういう障害があるかということをちょっと考えていってみたらどうでしょうかね。
 
草柳:  つまりいろんなしがらみがあったりですね、その辺のいきさつをちょっと説明して頂くと…。
 
横山:  簡単に言うと、心の中の障害という、束縛といったものね。それには何があるかというと、表層心ではそれを「相縛(そうばく)」といいます。
 
草柳:  表層心というのは、外に現れている…。
 
横山:  「あれは許せない」とか、「あれが欲しい」とか、「あの人が憎い」とかいう、そういう心のありよう。そのありように束縛されてるっていう、これが表層心ですよね。
 
草柳:  つまり煩悩。
 
横山:  まあ煩悩といって…
 
草柳:  いっていいんですか?
 
横山:  煩悩の心をね。それが煩悩の心が、深層心に植えつけられて、種を植えつけるわけだ。その上ですね煩悩の種子によって束縛された深層心という、阿頼耶識ね―阿頼耶識の束縛を「麁重縛(そじゆうばく)」といいます。ちょっと難しい言葉ですが、荒々しく重いそういう束縛がこの深層心に植えつけられるんだと。それがまたずっと時間的な経過を経て、深層心から表層心に、それが再び煩悩が生まれるわけですよ。その煩悩がまた即座に、この深い阿頼耶識に麁重縛を植えつけていくわけ。だから「相縛」と「麁重縛」っていうのは、これは相関連して、相互因果関係でグルグルグルグル展開してるわけですよ。
 
草柳:  そうすると、じゃあどっかで断ち切らないかぎりは、もう永遠にここを循環してると。
 
横山:  これがやっぱり人間の心全体のメカニズムなんですよ。それが分かったらすごく怖いんですよ。ひとたび人を憎むと、それがグルグルグルグル展開して、雪だるま式に憎い心が出始めてくるわけ。それを遮断していかなきゃいけない。
 
草柳:  唯識では、それはどこで遮断すべきだって言ってるわけですか?
 
横山:  それはこの図から考えていくならば、我々は深層心は統御できないから、表層心を統御していけばいいわけ。相縛をなくしていけばいいわけですね。あれが欲しい、これが欲しいという欲望をなくし、憎いとか、嫌いとかいう煩悩をなくしていけばいいわけですよ。
 
草柳:  つまりそこのところを弱めたり、なくしたりしないかぎりは…
 
横山:  だから断ち切ろうという意思があって、そういうふうにして、自分が実践して、心を浄化していこうという意思がなきゃいけない。誓願がなければいけない。あの人が憎いとか、あれが欲しいとかね。それをまあ一回かぎりじゃなくて、一年二年とやっていくうちに、どんどんどんどん煩悩の種子が植えつけられていかなくなってくるわけですよね。
草柳:  相縛、つまり一番表に現れているところの心の働きを、そこを変えていく。
 
横山:  変えてかなきゃいけない。
 
草柳:  そこを変えていけば、阿頼耶識一番深いところの心の働きも変わってくる。
 
横山:  変わってくるってわけですよね。
 
草柳:  もちろんその大事さは分かるんですけれども、でもいかに断ち切るのか。いかに断ち切るのかっていうことを突き詰めて考えていくと結構難しいですね。
 
横山:  難しくないですよ。それはもう簡単に日常生活の中で、何をするんでも、自分と他者という思い、分別を分けていく思い心を分けていかない。これを専門的には「無分別」といいますが、分別無き心ね―「無分別智」。「無分別智」という心でもって日常生活をできるだけ過ごしていくならば、だんだんだんだん末那識の働きが弱まってくるというね。ずっと今日のテーマ一番最初にですね、「自分とは何であるか」と。自分への執着があるからこそ、現代のこの自他対立の関係なんですよ。家庭内の問題、それから社会の中の問題、会社の中の問題、それからないしは国々の争いとかね。全部そこまで通じている大きな問題を考える中で、一番大事なのは、問題は「自我執着心」。それを我々はどういうメカニズムで起こしてくるかっていうのを、自分の中でつかむ、気づく。それがやっぱり次に必要になってくると思うわけですよね。
 
草柳:  初めの方に「無我」というお話がありましたですね。
 
横山:  人間いかに生きていくべきかっていうことがね。やっぱりこの「なに」から「なぜ」、そして「いかに」という思考のプロセスがある。第一番が、自分は存在しないと。「無我」というわけですね。次に全てが他の力によって生かされてあると。「縁起」ですね。それでいかに生きるべきかという結論として、人のために生きるべきであるという、「菩薩行」が展開してくるわけです。だからまあ言葉をかえて言うならば、自分は菩薩として生きるという誓願をね。
 
草柳:  その誓願っていうことは、最終的には菩薩行を目指す、菩薩行というところにつながっていくんですか?
 
横山:  ろうそくを燃やす、火をつけると暖かさと光が出ますね。「光」がこれが「智慧」の象徴―シンボライズね。「暖かさ」が「慈悲」のシンボライズされたものね。この「智慧」と「慈悲」とを身につけようと。また智慧と慈悲とをどんどん展開して生きていく人間のことを「菩薩」というんです。ろうそくが燃えてますね。だんだんなくなっていくわけです。ろうそくの燃える本体ね。それが僕は今まで問題としてきた末那識にまとわれた、自我執着心にまとわれたこの己の身心なんですよ。それを人のために使い切り使い切り使い切っていこうじゃないかというね、それが菩薩として生きるという生き方であるとね。まあ唯識は難しい難しいと言いますがね、難しくしてるのは人間なんですよね。教理的には難しいわけだ。実践的には簡単なわけですよね。エッセンスだけを、我々はそこから学び、そのエッセンスの教理に従って生きていけば、必ずや深層がだんだんだんだん浄化されていく。末那識の力が弱まっていくし、最後は阿頼耶識も浄化されていくという、そういうことなんです。その心の中のありようをすっきりさっぱり爽やかにすればいいわけですよ。「末那識」「阿頼耶識」というものに気づき、それをなくしたり、それを変革していこう、変えていこうという、そういう気持ちを起こして頂ければ非常にありがたいと思います。
 
草柳:  そうですか。シリーズでお伝えしている「唯識に生きる」。第三回は、「唯識を体得する」というテーマでまたお話を伺ってまいります。どうも今日はありがとうございました。
 
      これは、平成二十九年五月二十一日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである