唯識に生きるB唯識を体得≠キる
 
                    立教大学名誉教授 横 山(よこやま)  紘 一(こういつ)
                    き き て    草 柳  隆 三
 
ナレーター:  四世紀から五世紀のインドで、無著と世親という兄弟によって打ちたてられ、仏教の根本思想とされる「唯識」。小説「西遊記」の主人公として知られる玄奘・三蔵法師が中国に持ち帰り、日本には飛鳥・奈良時代に伝来しました。「唯識」は瑜伽行(ゆがぎよう)―修行としてヨーガを実践する人々によってつくられました。瞑想を行い、自己の奥深くにある心のメカニズムを観察することから生まれました。
 
横山:  じゃまず手を見て下さい。
 
ナレーター:  唯識は、日々の暮らしの中で、自分を客観的に見つめ、心のありようを積極的に変えていく具体的な実践を説きます。唯識は「心と体を整えるさまざまな智慧」をもっています。日々の暮らしに生かせる唯識の具体的な活用法を小野文惠アナウンサーが体験リポートします。
 

 
草柳:  ご覧の「こころの時代」。この番組では、毎月一回、六回にわたってシリーズで「唯識に生きる」と題しまして、日本の大乗仏教の基本的な思想ともいわれている唯識について考えているんですが、お話はいつものように立教大学名誉教授の横山紘一さんです。横山さんはこの唯識をもう五十年以上にわたって研究し続けられている方です。まずこの全体はですね、「自分とはいったい何者か」というテーマなんです。
 
横山:  まず第一が、「なに」と。「自分とはいったい何者か」というですね。それで仏教は、「自分なんて存在しない。無我である」とね。じゃ、いったい「なぜここに自分というのは存在するのか」という問いかけですが、それは他の力―「縁(えん)」っていいますがね、不思議な不思議な縁起の力によって自分はここに存在すると。だから「無我のゆえに縁起である」という。これが仏教の基本的な教理なんですね。じゃあ自分が存在しない。すべて他の力であるというふうな、「なに」「なぜ」を踏まえて最終的に「いかに」人間は生きていくべきかという、それはもう人のために生きるべきであるという菩薩行というものが展開してくるわけです。
 
草柳:  この道筋で、唯識は最終的にはいったい真実の自分とは何なのかということを探す。言ってみれば旅をしている、旅のようなもの。ところが本当の自分というのは、なかなか見えにくい。じゃ何が?
 
横山:  例えとして、この空に月が―満月が輝いてます。その前に雲があれば、雲によって月が―満月が遮られていますが、雲が晴れると、月が出てきますよね。我々の心の中にさまざまな束縛―雲に例えられるいろんな束縛ね―障害があるわけです。ということで、唯識はいつも「表層心」と「深層心」という二つに分けて心を考えていくわけですね。表層心は「相縛(そうばく)」という。深層心は「麁重縛(そじゆうばく)」という束縛があると。例えばここにあります「あれが欲しい、これが欲しい」というものに対する執着ですね。束縛ですね。または「あの人は嫌いだ」とか「好き」だとかいう、そういう人間的な関係の束縛ですね。そういうものが「相縛」といいます。広く言うならば「煩悩」と言って、それがこの原因となって深層心に麁重縛というね、から種が落ちて、それで地中に埋まるように「種子(しゆうじ)」という、種というものを植えつけていく。その種がどんどんどんどん大地の中で成長発展していく。すなわち深層の阿頼耶識の中でどんどんどんどん成長発展し、また縁を得てパッと表層心に芽生えてくる。だからその種子から再び表層心に煩悩が生まれるという。生まれた煩悩は、また即座に深層心に種子を植えつけていく。
 
草柳:  そうすると、どこかで断ち切らなければ、グルグルグルグル循環していってしまうと。
 
横山:  一旦人を憎むならば、その憎んだ心がねどんどんどんどん雪だるま式に増幅していくという。考えると恐ろしいことです。
 
草柳:  さて、今回三回目のテーマは「唯識を体得する」ということなんですね。この「体得」っていうのは、どういう意味で捉えればいいわけですか?
 
横山:  体得というのは、身体で獲得するという。「心と身体で感じ気付く」という。前回も言いましたけれども、気づくという人間のありようね。それを心と身体で気づくという。身体で気づくということも重要なポイントになってくるわけですよね。例えばそこに火があると言いますね。
 
草柳:  燃える火?
 
横山:  燃える火があるとね。そうすると、我々は、「あっ、そこにあるのは火だ」って言いますがね。しかし、「火」という言葉を口で言っても熱くもありませんね。これは唯識の経論に書かれてることなんですが、そこに燃えてる、それそのものが火だったら、「火」と言えば熱いわけですよね。それが熱くないというね。従って言葉っていうのは、結局は限界があると。また束縛があると。限界があるというのは、「火」と言っても、その火そのものを言い当てていない。限界―束縛があるというのは、我々はその言葉を出した途端に、そこに火があると思い込んでしまいますよね。そういうことなんですね。
 
草柳:  確かに言葉というのは、ある物事を代表しているかも分からないけれども、そのものではないと。
 
横山:  言葉はですね、対象を言い当ててないという、そういうことをですね。「名義相互客塵性(みようぎそうごきやくじんしよう)」という。「名(みよう)」というのは言葉ですね。「名(な)」というね。「義」というのは、言葉が指し示す対象ですね。それから「相互」というのは、それがお互いに。「客」というのは―お客さんというのは、家に招かれた人ですから、非本来的な人ですよね。「塵」というのは、例えば鏡に表面に塵が付着した、それも鏡の本体そのものじゃないですよね。だから非本来的というですね、お互いに相互に一致しないという、そういうことを言ってるわけですね。人類はいつごろからか言葉を用い始めたんでしょうかね。それによって、ほんとにすばらしい文明を築き上げてきましたけれども、考えてみると、言葉の弊害、束縛ね、そういうものものすごく強いわけであります。それを唯識思想は強調していくわけですね。
 
草柳:  つまりその言葉には限界があって、やはり言葉を離れて、心と身体と共にですね体得をしていくってことが大事なんだということのようですね。
 
横山:  私が四十歳少し前ですかね、縁があって浅草の浅草寺で講演をしてほしいと。その題が難しく「心と物質」という、そういう題だったんです。そして対象者がイタリアから見えてた観光団だったんですね。それで「重力とはいったい何であるか」っていう話に進みましてね。「皆さん重力を身体でもって知るにはどうしたらいいですか?」って言うから、みんなキョトンとしてるわけですよ。私がその壇上の前に行ってね、一メートルかそこらの壇上からポンと飛び降りたわけです。「これが重力を体得することですよ」って、僕が言ったわけですね。そうすると、みんながワーッと拍手してね。ああ、やっぱり民族を超えて体得することのすばらしさということを、私は身をもってこれによって経験しました。
 
草柳:  ああそうですか。
 
横山:  はい。
 
草柳:  あの唯識の大事な、ほんとに大事なキーワードの一つが、一回目にももちろんお話あったんですが、「一人一宇宙(人人唯識)」だっていうことに気づけっていうことがありましたですね。
 
横山:  一番いい例が、例えば夜空を見て、目開けて見ると大きな広大な宇宙が自分の前にあると思いますね。それで自分って存在は針の先の一点だっていうようなことを、昔言ったんですが。しかし広大無辺な星空を前にして、目をつぶってみると、そうするとそれが消え去って、ここに自分だけの世界の中に帰っていくというか、住していくわけですよ。「一人一宇宙」一人一人違うんだと。その時にこうやって、え?っと草柳さん、こうやってここをひねってもらうと痛いですよね。私痛くない。だからみんなみんな一人一宇宙で、別々の心の中に―心を「宇宙」と言いかえて、みんなみんな一人一宇宙の中に住んでいるんだということが実感できますよ。
 
草柳:  分かります。
 
横山:  気づきますね。そこで「一人一宇宙」ということから、いったい何か。いかに生きていくべきかということが、それがやっぱり出発点になっていくと思うんですね。我々は広大無辺な宇宙の中の小さな針の先の一点ではなくて、逆に我々の心全体は、一人一人の心は広大無辺な宇宙であると。それで「一人一宇宙」という言葉を言い始めたわけです。
 
草柳:  で、キーワードは心なんだ。しかも心の働きというのは、全部自分の心の中の働きであって。つまりその心によってつくり出されたものであるということですか?
 
横山:  そうですね。「すべてが心によってつくり出されたものである」と。
 
草柳:  じゃ心はどんな働きをしてるのかって。
横山:  だからよく人と会って「あっ、あの人は嫌いな人だ」ってね、そういうふうに思いますよね。しかし静かに静かに心を落ち着けて心の中を観察してみると、見た瞬間その人の影像がここに出てくるわけですよね。それに対して過去の思い出―経験があって、嫌いだという思いが、その人を付与するわけだ。それで更に「嫌い」という言葉でもって、その思いを強めて、そこでこの影像が外にいる人間だと思って、こういうふうに心の外に嫌いな人がいると思い込んでしまうわけですね。ただ識(=心)のみが存在し、識によってつくられたものであるという「唯識所変(ゆいしきしよへん)」というのは重要なタームですが、唯識の一個の。
 
草柳:  その心の中にはですね、いろんな思いが働いたりですね、あるいはいろんな言葉が浮かんでくるわけですけれども、そういう心の動き働きというのは、つまりどこから生じてくるのか。
 
横山:  それはもうすべて深層心「阿頼耶識」から生じてくると。
 
草柳:  というお話がありましたですよね。
 
横山:  阿頼耶識の中に物事が生じる「可能力(=種子)」という、「可能力」という言葉使いましたが種―種子。すべてのものというのは、もう過去から背負ってきたものもそうですしね、それから今こうやって草柳さんと対談しているこの数十分の間のこの体験も、全部種として心の中に収まっているという。だからまあ例えて言うならば、蔵の中にいろんなものがありますよね。「蔵」というふうに考えていいわけです。もともと「アーラヤ」というのは「蔵」という意味なんですね。だから「ヒマアーラヤ」というのは「ヒマ(雪)」+「アーラヤ(蔵)」で「雪山」。雪をためたそういう蔵だということで「ヒマラヤ」と言いますが、正式には「ヒマアーラヤ」と言わなきゃいけない。だから我々の阿頼耶識も―個人個人の阿頼耶識の中にも、過去の一切、またこの今一瞬の経験というものが、表層の経験というものがどんどんどんどん収められていく。たまっていく、貯蔵されていっているというふうに言ってもいいと思いますね。すべてものも心も、心的なものも物質的なものも、もの的なものも全部が阿頼耶識の中の種子から生じてきているという。だから阿頼耶識のことを「一切種子識」という、そういう別名もあります。今すべてが心の中で起こるものは、阿頼耶識の中の種子―種であるという。その種を植えつけられる縁というのがものすごくあったわけですよ、いろんな縁がね。
 
草柳:  縁?
 
横山:  縁ということがね、次の大きな問題となってきますね。例えば昨日あったことを何か思い出して下さい、今。
 
草柳:  あの夕方家に帰る途中で、夕御飯のおかずは今日何だろうか、なんていう…
 
横山:  私の質問によって、それが考えたわけですよ。私の質問がなければ、決してあなたの人生の中でそういうこと考えることなかったわけだから。それで昨日にもいろんなことを経験されたのに、ひょこっと出てくるわけですよ。ひょこっという縁によってひょこひょこひょこひょこ生じてきたという。全部心の中の存在は「縁起」なんです。縁によって生じてきたものと。それを専門用語で、「縁起(えんぎ)」というのは「依他起(えたき)」という。他の力によって起こるという。心の中の存在は、全部「依他起性(えたきしよう)」であるという。すべてがさまざまな縁によって植えつけられた阿頼耶識の中の種子が、ポンポンポンポン吹き出してくるわけですね。そこには己の力は何も関与していません。
 
草柳:  こんなふうに唯識の道筋をたどってくるとですね、もう一つ大切なキーワードとして、「心の外には実はものがない」というふうに言ってますよね。これってどういうことですか?
 
横山:  専門用語で「唯識無境(ゆいしきむきよう)」といいますがね。境がないということで。ただ識だけであって、無境。境がない。「境」というのは、心の外にあると思い込まれた存在。そういうものは一切ないという、そういう考え方なんです。
 
草柳:  というふうにおっしゃいますけれども、例えば私今洋服を着てますし、横山さんもネクタイをしてらっしゃる。現にあるじゃないですか。
 
横山:  その「ある」というのは、だから心の…。例えば自分の洋服を見ても、この洋服は心の中の影像なわけですよね。みんな心の中の影像から始まって、それにさっき言った思いとか言葉を付与して、さまざまなものをつくり上げているにすぎないんですね。
 
草柳:  でも常識的に考えれば、当然もちろんあるわけですよね。
 
横山:  それは日常生活の中でね、「そこにあるコップを取って下さい」と言ったら取りますよね。しかし問題は、我々は「心の外にあると考えたものに対して執着をする」と。執着というのが一番のポイントなんです。例えば死ぬ苦しみというのは、自分に執着するわけでしょ。ものに対する執着というのは、衣食住といって、いろんなものに対して我々は外にあると思っちゃって執着している。
 
草柳:  で、その執着の話にいきますと、つまりその執着があるということも、言葉との関係。言葉がやっぱり関係してるわけですか?
 
横山:  まああるものをものとして認めるためには、言葉が必要ですよね。それが心の外にあると考えるのも、言葉が絡んできますね。全部言葉なんですね。人間はやっぱり執着してしまうわけです。執着されたものを、専門用語で「遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)」といいます。遍く考えられて執着されたものという、そういうありようを持つものとして遍計所執性といいます。これはまあ唯識独特の言葉ですがね。我々はそれはもう空間的にも時間的にもね、空間的には身の回りにいろいろなものがあるわけです、空間的なね。時間に話を移すと、我々は過去を悔いですね、なんでああいうことをしたんだろうというね。それから未来に向けて不安がるわけですね。一番人間にとって不安なのはいつか死んでしまうというね。未来ですよね。しかし過去は過ぎ去り、未来はまだ来ていないと。
 
草柳:  しかし考えてみると、確かに現在も未来も過去も今も、全部私は今言葉で考えてるんですよね。言葉で。
 
横山:  そうです。だから言葉は日常生活に必要ですがね。いったい「なに」か。「なぜ」か。「いかに」生きるか、という、この三大問題を考えるにはね、言葉っていうものをなくしていかなきゃいけないわけです。
 
草柳:  どういうことですか? 言葉をなくすってどういうことですか?
 
横山:  「ただただただただ今になりきり、なりきってなりきっていく」というね。それ以外にない。 現在になりきるわけだ。「現にあるものになりきっていく」。分かりますね? 現在というのは「弾指(だんし)」っていうね、指を弾くそういう瞬間のあれだというので短いこれなんですよ。この一瞬になりきっていく。その幅のない現在になりきるために激しく行(ぎよう)をするわけです。釈尊もされ、今私が関係している禅の僧堂においては、ず?っと坐って現在の一瞬になりきったら、現にあるものが心の中にフワーッと全部顕現してくるわけです。それが悟った、つかんだというね。
 
草柳:  私どもにできる具体的な方法ってありますか? どんなことが。何をすればいいんですか?
 
横山:  だから今言った何をするにおいてもなりきっていくという。
 
草柳:  なりきる?
 
横山:  英語で「becoming one with」といいますが、one―ひとつになりきっていくというね。すべてのね、何でもいいからなりきっていくわけですよ。掃除、洗濯、何でもいいし。坐禅でもいいですしね。作務(さむ)でもいいですし、何でもいい。
 
草柳:  前回もご紹介したんですけれども、心と身体っていいますか、教理とそれから唯識で言えば瑜伽(ゆが)―ヨーガでしょうけれども、それが一体となって初めて唯識の本質に迫れるということで、今いろんなことが行われていると思うんですけれども、アナウンサーの小野文惠が、その辺のところをまた体験リポートをしておりますのでそれをご覧下さい。
 

 
小野:  私が訪ねたこちらの教室。唯識の教えを日々の暮らしの中で実践することを目指しています。この日取り組んだのは「レーズン瞑想」。レーズンをただ食べることに集中し、その味になりきるというプログラムでした。
 
北山:  食べる前に、よ?くそれを観察して、それで目をつぶって口の中で、それどんな物体かをよく観察して下さい。目をつぶって。口の中あっちこっちにちっちゃなセンサーつけたように、その口の中の動きそのものを観察してみましょう。
 
小野:  唾液がすごく出てきます。
 
北山:  ですね。その物体が一体どこでどうなって、どうなった状態で喉の方に送り込まれていくんだろうかなぁ、っていうのも観察してみて下さい。今気づかれたことちょっとお話し頂きたいんですけど、どんなこと気づかれましたか? 口の中。
 
小野:  どんどんどんどん甘い味出て、唾液出て、甘い味出て、唾液出てっていう繰り返しなんですが、どこから出てるんだろう。
 
北山:  舌、どんなふうに動いてましたか?
 
小野:  自分の意志と関係なく、このパサパサの何かから甘い汁を搾り出すように動いている感じがしました。
 
北山:  動いてる? どのように? 具体的に。
 
小野:  歯と歯の間に、舌で押し合って、同じ所でかまないようにしていました。すごいですねレーズンって。こんなに長いこと口の中で甘かったんですね。こんなに甘かったんだと。まあ甘いですよね、レーズンなんだから。頭じゃ分かっているのに、今までいかにレーズン食べている時、何の意識もしてなかったか反省しました。
 
北山:  だからなりきることの一番シンプルなスタイルを体験していただくということだと思いますね。まあこのレーズン瞑想を通じて、「あっ、こんなにも集中してなかったのか」とか、あるいは「集中するからこそ、発見できることがいっぱいある」っていうことですよね。
 
小野:  おかげでいかに無心にもの食べたり、ふだんしてないんだなってことが分かりました。やろうと思えばできるのに。「あっ、できたんだ」って感じですかね、やれば。
 
ナレーター:  なりきることの大切さ。それは北山さんが「マインドトーク=雑念・想念」と呼ぶ心の中の雑念に気づくことです。このマインドトークに振り回されているために、私たちは何事にも集中できなくなっているのだと、北山さんは考えています。
 
北山:  今これね、このものも初めてのものとして口の中に入れていろいろ観察する。わざと観察するように申し上げたんです。その間、俗に言う「マインドトーク」ってありましたか? レーズンとか、今食べてる状況とかいうことを観察しているその言葉とか何とかって以外に。「あっ、あした仕事だ。こういうことが待ってるわ」とかね。そういったような俗に言うマインドトークっていいますが、それは?
 
小野:  さっきですか? なかったですね。
 
北山:  私たちの心っていうのは、単線のレールを走る電車のように、ただ一つのことしかできないんですね。だから集中して、この単線の上で集中、集中、集中って、その食べる、あるいは何かをしている、その行為に集中している間は、そのことだけでいけるわけです。ところがマインドトークに占拠されると、レーズンを食べながら他のことに占拠されてる。意識はマインドトークに占拠されてるから、そのものの味であったりとか、口の中の感覚であったりとか、もっと身体の全体の動きうんぬんで、そういうものに一切気づくことがないわけですね。これが仕事の上においても、例えば電話で話をしている時も、マインドトークしながら、「そんなこと言うけどさ、そういえばこの人って昔こんなこと言ってたわよね」なんてやってると、その相手の方のおっしゃりたいことがピュアに分からない…理解できない。ところがそのお話の相手さんの内容を、今レーズンを召し上がって下さったように、ただその声、相手の方の声だけに集中してると、ちゃんと分かる。なりきる。この一つ一つになりきり、なりきり、なりきり、なりきりしていけばいいわけですけど、そのなりきることによって気づかされることが本来いっぱいあるんです。それがこうワーッと上がってくるのを、マインドトークが蓋しちゃってるわけですね。今、口の中で味わいながら味わえないという。ふだんの食べ方って、そういうことなんですけど。すべてにおいて、やっぱりそういう一つ一つの味わい、一つ一つの行為、そのものがすごく粗雑になってくるのが、マインドトークが原因なんですけど。それがちょっと外れると、もう何もかもがみんなこう一つ一つ訴えてくるものがあるっていうんですかね。
 
小野:  ぶどうが、元はきっとこのぐらい大きかっただろうなっていう感じがするのが。
 
北山:  グーッと膨らんでね、口の中で。
 
小野:  いや、驚きました。こんなにレーズンが、味があったんだなぁと。人生半分まで来てやっと気が付いたところです。
 
ナレーター:  心の中の雑念―マインドトークに翻弄されがちな私たち。その状況を客観的に捉え、心のありようを整えるために、北山さんが生かしているのが唯識の教えです。
 
北山:  自分の心っていうものが、どんなふうに動いていって、いったい何に自分が引っかかっているのかっていうことを、詳しく見ていくために唯識のこの「五位百方」という図から皆さん理解して頂くんですね。
 
小野:  何か心に引っかかってるものがあるから、それは何だろうということを探していく。
 
北山:  はい。その基本的なものは、ここの「煩悩」って、俗に言われている「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あつけん)」っていう、この六つが基本なんですけれども。この一番中でも、「貪・瞋・癡」の三つが三大根本煩悩って、これが諸悪の根源みたいなところですね。
 
小野:  これですか? 「貪・瞋・癡」。「貪」は、愛着・むさぼり・欲望。
 
北山:  そう。もう自分を中心として、今の現状からもっと上にいく。特に名誉とか権力とか、そういったものももっともっともっととむさぼり続けていくことです。それを「貪」と。その貪が思うようにいかないと、次の「瞋」っていう―怒りにくるんです。
 
小野:  例えば誰かにもっと愛されたいって思う時、かなわなくてそれが怒りに変わる。
 
北山:  そう。次の「癡」というのはね、これは「無明(むみよう)」という言い方したりするんですけど、そういう心がこんなふうに一瞬一瞬いろんな動きをして、そのことに気づいていないことなんですね。よ?く見ていくと、心っていうのは一瞬一瞬動いてるんです。ちょっとも同じものがじ?っとあるわけじゃない。その一瞬一瞬連続の中に、私たちは翻弄されているわけです。私は、あの花から紫色を連想しますと、子供の頃―小学校の高学年、お母さんがあの色を着たかったんですけど、母から「あなたには似合いません」って言われて、ず?っと引きずってる。(笑い声)やっぱりそういうことっていっぱいつながってくるんです。それが何かにつられて、その都度その都度、それが浮き上がってくるんです。それによって私たちは苦しむ。それがもうちょっと広がっていくと慢心。この我慢は、「我慢してなさい」っていうあの我慢ではなくって、自分が一番すごい存在だって。我こそ一番なりという、その慢心なんです。他者と比較する心。これがあるから常に自分が比較して、一番でいたい一番でいたい。だからむさぼるんです。その仕組みは分かります。
 
 
小野:  前回横山先生が教えてくれた唯識の四つのキーワード。皆さん覚えていますか?
横山:  「我癡(がち)・我見(がけん)・我慢(がまん)・我愛(があい)」。
 
小野:  自分自身に執着する心が引き起こす四つの苦しみ。唯識では、これを手がかりにして、自分の心と向き合います。私もこの日自分の身に起きた出来事に照らして考えてみることにしました。
 

 
小野:  新幹線の中で洗面台でちょっと長く口紅を直そうと思っていたら、なんか外でいかにも待ってる風の人がいて、譲って、「お先にどうぞ」と、ちょっと中断して譲ってあげたのに、お礼も言わずに去って行ったっていうことに、ちらっと嫌な感じはしたんですけど。
 
北山:  そうするとね、「私はいいことをした」という思いがあって、だからあの人、譲ってあげたのになぜって。でもそれはよく分析していくと、ここにいくんです。「むさぼり」。「なんで?」って思われるかもしれないけど。私はそういうことを自分の気持ちを評価してほしい。
 
小野:  そうですね。
 
北山:  ありますね。もうとにかく自分が、「我」私が私に私をというね、そこがいつも主語になってるようなものが、自分を苦しめる元だっていう見方ですね。
 
小野:  いっぱいいろいろ分類できるんですね、自分の感情は。
 
北山:  そうなんですね。「あなたの心の中は、実際こうなんですよ」というのが、唯識が明確に論としているわけなんですね。
 
小野:  あの今先生が説明して下さってることを、ここに通ってくる人もみんなそのお話を聞いて。
 
北山:  よく理論で、本を読んで、「分かった、分かった」というのでは力にならないわけです。それを何とか自分のものとして生きていく力にして頂くために、これをちょっと工夫しまして、あそこにシートを作ってあるんです。
 
小野:  これですか?
 
北山:  はい。「マインドトーク」という一瞬一瞬頭の中に浮かんでくるその思いですね、意識。そういうものを、「今日はどのような出来事がありましたか?」って。特に不快な出来事をとりあえず中心に見ていくんです。「会議で自分の発言を無視された」。自分が一生懸命考えたのに、考えただけ余計こう無視されると腹立ちますよね。その大事なことは呼吸をやって頂きましたね。ここのために呼吸をやったんです。
 
小野:  え?っと、呼吸のやり方を教わったのは、意識を呼吸みたいなものに向けるためでしたよね。
 
北山:  そうです。
 
小野:  身体のパーツがどうなるか。
 
北山:  そう。そしてその身体に向けることができるようになってくると、もう微細(びさい)というか、仏教では「微細(みさい)」という言い方しますけど、その微細な身体の感覚、細かいところまで気づく。
 
小野:  気付けるようになる。
 
北山:  なるんです。そうすると、その時の感情というのが、怒りなのか、不安なのか、あるいは悲しみなのか、嫉妬なのか。そして、その時の身体の中で、どこら辺がどんなふうに反応してるのかチェックしていくんです。印つけていくんですね。すると、自分のその時のマインドトークという単なる思い、それが一つ一つ、一瞬一瞬分析されていくと、ず?っとこれがね枚数が多くなってきますと、自分の心のクセが見えるんです。自分は常に嫉妬深い目で周りを見ているとか、あるいは怒りに満ちた目で…。ニュースを聞いても常に怒ってる人っているんですよね。だからそういう人たちも、それを掘り下げていくと、自分の何が原因なのかということが分かってくると、「ああそうか」。これは全部ある意味唯識のノウハウの人間が苦しんでる部分に焦点を当てたものです。でも人間はもっといいもの本質的にありますから、これが「こんな自分嫌だな!」って思い、自分を変革していくと、今度全部こっちに変わっていくんです、善なる心。
 

 
ナレーター:  北山さんの教室で唯識の教えを実践してきた西村留実(にしむらるみ)さん。呼吸に集中してマインドトークに真摯に向き合うことで、多くの気づきが生まれたといいます。
 
小野:  どうやってそれに気づいていったんですか? 実際なんか感情に伴って身体に変化が起きるとか、そういうこともあったんですか?
 
西山:  はい.もうあります。
 
小野:  ほんとに?
 
西山:  はい。
 
小野:  例えば?
 
西山:  例えばそうですね、う?ん…息子との関わりの中で…。
 
小野:  あっ、子供さんもう一人?
 
西山:  もう一人いるんですけれども。五歳なんですけど。なんか私がワーッて怒った時に、今までだと怒っておしまいだったんですけど、「なんで私今怒ってるのかな?」っていうのを、呼吸に集中することで冷静に見れるようになりました。
 
小野:  怒ってる時って、身体に変化が起きますか?
 
西山:  特に私はこの辺がこう上がる。あとはこの辺が熱くなるような感じとかっていうのを怒るたびに気づいたり。
 
北山:  今「呼吸」とおっしゃってたけど、それでスーッと怒りのエネルギーって静まるんですね。で原因に気が付くから、次から対処がね「あっ、もうじき怒りがくるな」っていうことを予期できるわけですよね、自分の中で。そうすると、以前のようにガッと爆発しなくって、その気づいた時点でフーッと深い呼吸をすれば、その上がってきたエネルギーがスーッと静まっていくっていう。
 
小野:  えっ怒りの原因が分かるっていうところはどうしてなんですか?
 
西山:  そこでこれ…。
 
小野:  これをつけるから。
 
西山:  例えば息子が朝用意を早くしてくれない。
 
小野:  保育園行く支度をしてくれない。
 
西山:  支度をしてくれない。「早くしなさい!」って怒った、っていうことを一番最初に書いて、「いらだち」とか「怒り」とか書いてるんですけど、そこに「不安」とかもあって。「あっ、なんで私不安に思ってるのかな」って思った時に、マインドトークの中で、「私が仕事に遅刻すると、上司に怒られてしまう」っていうマインドトークがあることに気づいたんですね。息子を叱る時には、息子のためと思って叱ってるつもりだったんですけど、実は観察してみると、自分のためというか、自分が怒られないために怒っちゃってることがあったんだなって思って。それをもっと分析していくと、自分がいい評価を得たいのかなっていう、むさぼりっていうところにつながって…。会社での立ち位置とかで、むさぼりにつながってるんだなって、ここで分析して気づくことができたので。また次の日に息子が同じような状態になった時に、イラッとするんですけど、私はそういうクセがあるから、むさぼって今怒ってるんだなって、冷静になれば同じことが起こっても同じふうな怒り方じゃなくなる。
 
小野:  お〜…そうか。いいお母さんですね。
      
西山:  いや…。言葉で聞くとすごく難しいですけど、実践は…
 
小野:  そうでもないんですか?
 
西山:  今のところイメージは修行です。(笑い声)修行です。
 
小野:  もうちょっとその日常の中に取り入れられやすい…。ちょっと帰り道に神社でパンパンとやって帰ってくるぐらいの気軽さがあったら、やってみたいなっていう気持ちだったんですが。
 
西山:  むしろ神社でパンパンの方が私できない。できないというか、気軽ではないなって感じていて。もう二十四時間、いつでも呼吸って常に止まることはなく、絶対自分の近くというか自分の所にはあるので。暗闇であろうが、布団の中であろうが、どんな状態であろうが、すぐいつでも呼吸には集中することができる。お寺に行かなくてもできるっていうことと、あとは呼吸以外のところで、私も家事・育児・仕事をして、どこで瞑想しようかなとか思ってたんですけど、もう二十四時間いつでもできるんだ。いつでもしたい時にできる。なるべくする時間を増やすって、今も守ってるんですけど。ここで習った洗濯物を畳む。畳んでることに全意識を集中させるっていうことだったり、服を脱いでる時の服の感覚に集中するとか。日常の中に集中していくっていうことをすると、なんかその集中できる時間がどんどん増えていって、修行っていうよりも、「あっ、今日もまた新しく集中できる場所が見つけられた」みたいな。
 
小野:  こんなに屈託のない笑顔の魅力的な人に、お話聞かせて頂くと、すごくすてきな世界がこの中にあるなっていう感じがしてきました。正直、シートにどんどん自分の怒りを分析していったりするようなところは、ちょっと怖いし、実際テレビで、「私の思ってることはこれです」ってシートで出せるかっていったら、とてもじゃないけど無理、無理って言うと思います。でもなんかこれで自分の知らない世界があって、そしてそこに知らない自分がいて、それを知ることができるんだったら、なんかやってみたいなと思いましたね。
 

 
草柳:  今回は、「唯識を体得する」っていうことでお話を伺っているんですけれども、つまりその唯識というのは、ヨーガということと一緒にやっていかなきゃいけないということなんですね?
 
横山:  唯識を言いだした人たちのことを、「唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎようは)」というんですよね。そういうヨーガを実践することによって、深層心理の末那識と阿頼耶識ね、全部で「八識」というものを―「八識説」というものを打ち出していったわけで。あれほどやっぱり詳細に分析し解明するのは、やっぱりヨーガの実体験というものがあったわけですよね。私はヨーガというのは、ひと言で言うと「人間でありながら人間を超える」というね。
 
草柳:  どういうことですか? それって。
 
横山:  やっぱり人間というのは、自と他を対立して、そのいろんな対立、葛藤とかが生じてくるわけですよね。そういう人間でありながら人間を超えるということは、自分と他者との関係をなくしていくわけですよ。自分というものをなくし、自分をなくすと他者だけになっていきますからね。簡単に言うと、「自他¢ホ立の世界を超えていく」これがヨーガなんです。
 
草柳:  そのためには、どういうふうにしていけばいいわけですか?
 
横山:  人間というのは、何かを行動する時に、自と他と、その間に展開する行為というもの、またものというものを分けていく、分別していくわけですよ。例えば人にものをあげる時に、自分がある人にあげたと。自分と他者―施者と受者といいますね―その間に展開する行為―布施という行為、または布施のものという、三つを分別していきますが、その三つを分別していかない「無分別智(むふんべつち)」によって、我々は生きていくならば、「無分別智」ですね。無分別智は火なんです。その火というのは、人間の深層の中にあります、阿頼耶識の中にある煩悩の種子―煩悩の種を燃やし尽くしていくと。深層に粘っこくある煩悩の可能力を燃やしていくというね。
 
草柳:  この深層心―一番深い所の阿頼耶識の中にある煩悩を、それをどういうふうにすれば焼き尽くしていけるわけですか?
 
横山:  何をするんでも、自と他と、その間の行為、またはものを分けていかないという。分別しない心で、「今ここになりきって生きていく」というね。例えば掃除、洗濯、道を歩く時でも、何をする時においてもできるわけですよ。それを実践していくと、自我執着心も思いも言葉もすべてなくなっていくわけですね。すっきりさっぱり爽やかになった新しい自分というのがそこにあらわれてくるという。どうかどうか唯識を今学ぼうとされてる方々は、やっぱりヨーガでもいいですし、坐禅でもいいですし、こういう実践行が必ずなければ全く勉強しても意味がありません。まあとにかく「心と身体で感じ気づく」ことなんですよね。
 
草柳:  これはもう唯識に限らず、仏教は全般的にそうなんでしょうけれども、結局は、「中道」これを説くわけですか?
 
横山:  「中道」というのは、釈尊が「初転法輪(しよてんぼうりん)」といって、初めて五人の弟子に説いた中で言われた「非常非断(ひじようひだん)」常に非ず断ずるに非ず。人間一番考えることは、死んだらずっとあり続けますか、存在を続けますってことは「常」なわけですね。死んだら虚無になりますかっていったら「断」なのね。そういう質問に対して、「非常非断」というふうに答えられたわけですね。「常」というのが、あり続けるということで「有」と言い直されるし、断ずるというのはなくなるから「無」とね。それで「非常非断」というのを「非有非無」というふうに言いかえていいんじゃないかと思うわけです。
 
草柳:  あることもない、ないこともないということですよね、非有非無。これは少し具体的に話して頂くと。
 
横山:  一番の根っこにある概念というのが、「有」と「無」なんですよ。例えばこのリンゴね。そのリンゴは、「草柳さん、リンゴはあるというからあるわけだ」。有ると言わなきゃ決してあるはずもない。それをリンゴはあると言うからあるようになるわけだ。それを食べてしまうと、草柳さん、何て言います? リンゴは…。
 
草柳:  もちろん無い。
 
横山:  なくなるというわけね。やっぱり「有」と「無」という言葉が、いろんな何百何千とある、何万と言ってもいいけど、人間の概念の中で一番基本になってくるわけですね。だから「有」と「無」というのは、人間の側から出していく一番の心の中にある言葉なんですが、それをまず分かってもらって、いったいじゃどういうふうなあり方をしているのかっていうことなんですよね。例えば今自分は生きていると、あるわけですよ。自分が死んだらなくなっていくというね。それはもう完全に二分法的考え方ですよね。死後のことに憂いているのはね。死んだらあるのかないのかって考えていく。それはやっぱり基本的に一番の人間にとっての大きな問題だと言えますですよね。
 
草柳:  二つに分けて二分法ですか、考えることに、どういう問題があるわけですか?
 
横山:  我々は、二分法的思考で、「あるかないか」というのを必ず考えていくわけですね。これを根っことして、いろんな他の雑念を起こしていく。言葉によって。
 
草柳:  ここのところですか?
 
横山:  そうそう。ざわざわざわざわざわめいてるわけですよね。これが一番左のとこです。全部問題を起こしていくのは言葉なんですよ。だから二分法的思考をやめていこうというね。私は最近ですね、言葉というのは心の中のゴミであると。雑念でざわざわ心が騒がしくなっていく。その中の一番根っこにあるのが、今言った「有」と「無」という言葉ですよね。その「有」と「無」とがいったい何であるかを考えていくために、念の力によって心を静めて、ここで有と無とを浮かべてみるわけだね。有と無というのは、心の中の最大のゴミであることが分かるわけです。その有と無とはスーッと消え去っていくわけだ。これがなくなってくると、人間死んだらあるかないかという、人間の不安がなくなっていくわけですよね。
 
草柳:  なるほど。
 
横山:  例えば月夜に、満月の日に雲がワーッとかかってますよ。雲がどんどんどんどん去っていくと、満月がワーッと出てきますね。同じように我々の心の中で、ゴミ全部心の中からかっぱらってみればいい。自分の心の中から払拭されたら、生きることにおいてなんとすがすがしいでしょう、ということをね。いろんな束縛が全部払拭された時に、心の中に現れてくるもの、それが「円成実性(えんじようじつしよう)」であり、専門的には「真如(しんによ)」といいますがね。真如があらわれてくる。真実にして如なるものがあらわれてくるという。あるがままにあるというね、そういうありようをした―まあ心と言えばいいかな、心というものはね円成実性といいます。先ほど「遍計所執性」「依他起性」という言葉出てきましたが、「遍計所執性」「依他起性」「円成実性」で「三性説(さんしようせつ)」という、これがまた阿頼耶識説に匹敵するような唯識独自の思想なんです。
 
草柳:  唯識では、横山さん死後の世界は、どういうふうに捉えているのか、ということはとても気になるところなんですが。
横山:  ここに「自分」と「時間」と「空間」と「概念」というね、この一二三四個を使って、我々は死後のことを考えるわけですよね。自分が死んだら、死んだあとはと、時間を設定しますね。地獄か極楽かって、空間を設定しますね。有か無か、あるかないか、生き続けるか、全く虚無になるかというね。これ全部心の中で言葉がつくり上げたものにしかすぎないわけですよ。死後の世界というのは、自分の中で言葉でもって創作し、考えたものにしかすぎないということを、我々はこの図から学び取り、この図を自分の心の中にもう一度再現してみると、死後の世界に対するいろんな態度が違ってくるんではないかと思います。すなわち「死後の世界は非有非無≠ナある」と。あるんでもない、ないんでもない。これで使って言うならばね、死後の世界はあるに非ず、ないに非ず。
 
草柳:  何なんですか? いったい。
 
横山:  「中」なんです。
 
草柳:  えっ?
 
横山:  中。非有非無というのは中道だからね。だから死後の世界は中なんだ。
 
草柳:  死後の世界は、中だっていう。その中でもって何を表してるわけですか? 何を言ってるわけですか?
 
横山:  だから二分法的思考を去っていくわけですよね。釈尊が初転法輪で説かれた「中道」ということがありますね。中道というのは、二辺厭離の中道。二辺というのは、今言ったあるかないかというね。人間はあるかないかにこだわって生きていくわけだ。その二辺を離れて真ん中を歩いていくと。真ん中の道をちょろちょろちょろちょろ歩くんじゃないですよ。私は二辺厭離の中道を歩むというのは、天秤を担いで二つの有と無というものをひっ提げて歩く。時には有、時には無になりそうと。そのどちらにもこだわらない、陥らない、柔軟な身心を養成していこうではないかってそういうふうに私考えているんですよ。こだわってはいけないわけですよ。有は有。あるかなぁ。死んだらまだ生き続けるか、死んだら虚無かなって、こだわってはいけないわけですよね。その二つを両天秤にかけて、それで生きていくというね。
 
草柳:  そういうふうに考えていくと、我々も死というものに対する考え方、ことによると変わってくるかも分かりませんね。
 
横山:  それは変わってきますよね。まあそういう釈尊の中道ということを、もう少し詳しくね勉強されたらいいと思いますね。
 
草柳:  どうも今日はありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年六月十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである