唯識に生きるC深層からの健康
 
                    立教大学名誉教授 横 山(よこやま)  紘 一(こういつ)
                    き き て    草 柳  隆 三
 
ナレーター:  四世紀から五世紀のインドで、無著(むじやく)と世親(せしん)という兄弟によって打ちたてられ、仏教の根本思想とも言われる「唯識」。小説「西遊記」の主人公として知られる玄奘三蔵(げんじようさんぞう)法師が中国に持ち帰り、日本には飛鳥・奈良時代に伝わりました。「唯識」では瑜伽行(ゆがぎよう)―坐禅もその一つ。瞑想を行い、自己の奥深くにある心のメカニズムを観察・分析するのです。唯識は「心と体を調えるさまざまな知恵を持っています。日々の暮らしに生かせる唯識の具体的な活用法を、小野文惠アナウンサーが体験リポートします。
 

 
草柳:  「こころの時代」では、毎月一回「唯識に生きる」と題しまして、日本の仏教の根本的な思想とも言われる唯識について、六回シリーズでお伝えしています。今日はその四回目になるんですが、お話はいつものように立教大学名誉教授の横山紘一さんです。どうぞ今日もよろしくお願いいたします。
 
横山:  よろしくお願いいたします。
 
草柳:  横山さん、実は今回はですね私どもはスタジオから出て、唯識ゆかりの法相宗(ほつそうしゆう)のですね大本山興福寺にお邪魔しているんですがね。
 
ナレーター:  興福寺を大本山とする法相宗は、唯識を根本の教理としています。唯識は、ここを一つの拠点として日本国内に広まり、多くの僧に学ばれてきました。興福寺の一角にある北円堂(ほくえんどう)。鎌倉時代に建てられ国宝に指定されています。堂内中央には、本尊の弥勒(みろく)如来。その両脇に唯識を打ち立てた無著と世親の像があります。運慶の工房が手がけたもので、実在した兄弟を写実的な手法で表しています。兄の無著は、インド大乗仏教を代表する学者で唯識思想の基礎を築きました。それを弟の世親が「唯識三十頌(ゆいしきさんじゆうじゆ)」にまとめ、後に法相宗の経典となりました。
 
横山:  自分のことから話して申し訳ないんですが、縁あって五十七、八歳の時に、ここで頭を剃らせてもらったんですよ。
 
草柳:  ここで得度をなさった。
 
横山:  ええ。ここに無著と世親がおられるわけですね。実在された二大論陣によって組織大成された思想ね、それが唯識思想なんですね。心のメカニズムというかね、そういうものを究明し分析し、それで最後にまとめていくというね。そのお二人のこれは国宝なんですが、その国宝の前でこうやってお話しできるっていうのは、私にとって生涯の忘れられない大きな感動的な出来事だって私は思ってね。
 
草柳:  僕などは本当に身が引き締まる思いで、今お話を伺っているんですが。
 
横山:  私、身が引き締まるどころか、心が破裂しそうな感じで…(笑い)。感激でね感動でね。
 
草柳:  そうですか。その興福寺でお話をこれから伺っていくんですが、いつものようにですね、前回三回目をちょっと振り返って、そこから始めたいと思うんですが、前回は「唯識を体得する」ということでしたですね、体得。
 
横山:  体得というのは、結局体で得るわけでしょ。言葉じゃないんですよね。それはどういうことかというと、言葉には限界と束縛があるということでね。
 
草柳:  イラストを使って説明して頂いた方が分かりやすいですね。
 
横山:  我々は、言葉を用いて「ここにリンゴがある」と考えるわけですよね。それは当然言葉で考えていくわけですが…。
 
草柳:  普通はそう考えますね。
 
横山:  だけど、よくよく心の中を分析観察してみると、見た瞬間はリンゴでも何でもないわけです。リンゴの映像が心の中に―この場合は視覚的な映像が生ずるわけですよね。それに対して「リンゴ」という言葉でそれを限定し、それで更にそれが自分の外にあると、というふうに考えていて。まあリンゴではあんまり執着しないんですが、お金があるとかね、欲しいものがあると考えて、人間は執着するわけだ。執着することによって、我々は苦しんでいくというね。もうこれは間違いない因果関係なんですね。
 
草柳:  その執着というのはですね、あらゆるものにわたっている。単なる空間的なものだけではなくて、それはしかも時間的にもそれがあるんだと。
 
横山:  時間的なことの方も結構我々の心を分析するとありますよね。「何で?何で?何で?」って言う人、世の中多いですよね。「何でそんなことをしたんだ」って言いますね。それは過去の出来事に執着してるわけですよ。それ忘れ去ればいいけど、忘れ去れないですよね。もう一個は未来を憂いて、ああこんなことをしなきゃいけないからね、心配だ心配だと思うね。だから時間的にも執着というものの対象があるわけですよね。
 
草柳:  そうしたことが全てその言葉に関わっている。だけどしかし我々は言葉によって考えるわけですから…。
 
横山:  もちろん我々は言葉で迷ってるわけだ。言葉で迷うからこそ、逆に言葉によって正していかなきゃいけない。
 
草柳:  言葉の限界に気付くと言いますか、それが一つのキーワードだとすれば、もう一つのキーワードは前回はですねヨーガの実践を通して知ることがある。
 
横山:  無著・世親によって大成された学派のことを唯識瑜伽行派というんです。瑜伽行の瑜伽は、ヨーガの漢訳音訳なんですけどね。だからヨーガの実践を通して深層の心を発見したという。ヨーガというのは結び付けるという、そういう意味なんです。身体と心が分離してるわけですよね。それを吐く息、吸う息を、一つの手がかり―方便として身体と心を結合させる。そこで新しく結合された心身と、今度は真理・真実を結び付けていくというね。
 
草柳:  つまりそのヨーガの実践というのは、頭の中だけで考えていたのではダメで、やはり体と一つになった実践といいますか。
 
横山:  そうですね。唯識を頭で理解するだけじゃダメなんですよ。やっぱりヨーガ―日本では坐禅がありますがね、そういうもの、または最近はやりのヨーロッパのマインドフルネスとかね、そういう実践を通して、この唯識思想を学んでほしいと思うんですね。決して頭だけで理解してるうちは力も何もありませんから。
 
草柳:  四回目の今日のテーマは、「深層からの健康」ということでしたですね。この場合の健康というのは、唯識ではどういうふうに捉えてるわけですか?
 
横山:  健康というよりも、健康の反対の不健康ね。その話から始めていけば、健康が何であるかって分かってきますからね。不健康ていうのは、結局煩悩を持った心のありようが不健康であるというふうに大きく定義することができますですよね。我々いろんな煩悩持ってますよね。
 
草柳:  その状態を不健康というわけですか?
 
横山:  そうですよね。そのように定義して間違いないし。じゃあ煩悩はどういう煩悩があるかっていう問題ですよね。
 
草柳:  このイラストを使ってですね、ちょっと説明して頂きたいんですが。
 
横山:  まず大きく煩悩といったものを、「根本煩悩」と―上の方ですね。根本となる煩悩と、それから「随煩悩」と。その根本的な煩悩から付随して起こってくるセカンダリーな煩悩と、こういうふうに分けていくんですが。根本的な煩悩としては、「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あつけん)」という六大煩悩なんですがね。「貪」ってのは貪り、「瞋」はこれ怒り、これは分かりますね。「癡」ってのは愚かさというんでね。
 
草柳:  根本となる煩悩の他に、下に「付随的な煩悩」というふうに書いてあるわけですが、この中で特に挙げて頂くとどんなものがありますかね?
 
横山:  皆さんご覧になってね、字から思いつくのがありますが、例えば「嫉(しつ)」ね。これは何が…?
 
草柳:  嫉妬(しつと)の嫉(しつ)。
 
横山:  嫉妬。嫉妬することなんですよ。「慳(けん)」っていうのは慳貪(けんどん)といって、けちなことね。けちなことだ、これ分かりやすいですね。それから「無慚無愧(むざんむき)」というのは反省しない心。この無がない慚愧(ざんき)はいい心の働きなんですがね。
 
草柳:  慚愧?
 
横山:  慚愧ってのは、これは反省することなんです。何か悪いことしたら、間違ったことしたら、ああ…っていうね、反省する心はいい心と考えて。「無慚無愧」というのは大きくいうと反省しない心ね。だから総体的にいうならば、煩悩というのは、身心を乱れさせる心の汚れ、と。易しくいうと、そういうふうに定義してますね。
 
草柳:  そうすると、下にあるたくさんの煩悩というのは、上の根本煩悩から出ているということなんですかね?
 
横山:  それはそうですよね。全ての人たちに、今さっき挙げた煩悩が可能力を持ってるわけですよね。それが縁を得て、ポンポンポンポン表層に出てくるというね。
 
草柳:  このイラストを使ってですね、その辺のところをちょっと説明して頂きたいんですが。表層心、それから深層心と二つに分けました。表層心の方に現れる煩悩というのは…。
 
横山:  この図にありますように、あれが欲しい、あの人が憎いとか、あの人は許せないとかいうね、これが表層心の煩悩なわけですね。それを総じて「相縛(そうばく)」といいますが、それが種子を植えつけてね、その種子のことを「麁重縛(そじゆうばく)」というんですがね、それがまたどんどん成長発展して、阿頼耶識の中で成長発展して、また表層心に出てくるというね。グルグルグルグル回っているというね。それが我々の表層心と深層心の心の否定的な面であるわけですね。
 
草柳:  そしてその唯識ではですね、二つに分けて、上が表層心、そして下の方が深層の心なんですが、それでこういう言い方をされますでしょう。上の表層心の方は、「纒位(てんい)の煩悩」。
 
横山:  これはどういう意味かといいますと、「纒(てん)」というのはまとわりつくという、そういう意味なんですね。この表層心の世界は、いろんなものがまとわりついているというね、そういう段階の心のありようの煩悩という。
 
草柳:  で、それに対して、もう一つ下の深層心の方の煩悩は、唯識では「随眠位(ずいめんい)」と呼ぶようですね。
 
横山:  眠ってる状態の煩悩というふうに考えればいい。
 
草柳:  ということは、煩悩には表層心に現れたですね本当にまとわりつくようなものと、それから更にもっとその深いところに眠っている煩悩の、いってみれば種子―種でしょうか、その二つがある。で今日のテーマは「深層からの健康」ですから、じゃあ唯識では、つまりそういう心の誤りをどうすればですね…。
 
横山:  表層心の中で、そういう煩悩を抑えていかなきゃいけない、なくしていかなきゃいけないわけですよ、まずはね。それはできるわけですよ。まあできるっていうか努力して、人を憎むという時には人を憎まない。あれが欲しいって時にも、欲しいと思わないとかいう。それから深層心の方は、今日のテーマ「深層からの健康」でね、阿頼耶識を浄化していかなきゃ、清らかにしていかなきゃいけないというね、そういう二つのありようで煩悩に対処していくということが重要ではないかと思いますね。
 
草柳:  その深層の心の中に潜んでいる煩悩の種といいますか、種子といいますか、それを何とかしていかなければいけないわけでしょ。
 
横山:  結局根っこ。根っこのありようを変えていかなければ、上のあれは変わっていきませんからね。
 
草柳:  これを使って分かりやすく説明して頂けるのではないかと思うんですが。「正聞熏習(しようもんくんじゆう)」ということは、つまりその…。
 
横山:  正式には、定義としてはね、正しい師匠から正しい教えを繰り返し聞くというね。それを繰り返し聞いて深層心理にその言葉を植えつけていくという、これが正聞熏習という意味なんですね。「熏」というのは、燻製の燻というのも「くん」ですよね。「習」というのは上が「羽」ですよね。
 
草柳:  そうですね。
 
横山:  羽というのは、これはね親鳥が子供に飛ぶことを教えるためにね、何度も何度もバタバタバタバタするというそういう。
 
草柳:  それを表してるわけですか。
 
横山:  だから繰り返すということ。学ぶことを繰り返し繰り返しやっていかなきゃいけない。
 
草柳:  繰り返すことによって、その深層心―心の一番深いところは、どういう変化が生まれてくるわけですか?
 
横山:  この正聞熏習によって、深層心の阿頼耶識に潜在する清らかな種子が成育してくると。成育って、例えばこれ植物の種に例えてますけれども、一回だけの水やりじゃ芽が吹きませんよね。繰り返し繰り返し水をやるし、また肥料を繰り返し繰り返し与えると、どんどんどんどん成育していくじゃないですか。それと同じように繰り返し繰り返し正しい言葉正しい教えを聞くわけね。それが正聞熏習という、そういう意味です。正聞熏習に関して、私の体験を言わせてもらいたいと思うんですが、小学校二年から五年ぐらいまでに、大分でですね万寿寺(まんじゆじ)という専門道場があったんですがね、臨済系のね。当時大西和尚という方が住職されてましてね。その方が、私がやっぱり特に坐禅をしてるのをかいま見てね、「あれ何してるんですか?」って言ったらね、それに対して直接答えられないで、「今度わしが部屋に坐ってたらふすま開けてみろ」と。「真ん中に松の木がボーンと坐ってるぞ」というわけですよ。
 
草柳:  そのお話こんなふうなイラストにしてみたんですけども、この松の木、これは一体何を表してるわけですか?
 
横山:  それは私が自分で坐禅をやり始め、特に唯識を勉強し始めて、それが分かりましたよね。みなさん心の中に松を思い出して下さい。でこの一人一宇宙の心の中に松を思い出すと、自分は松なんだよ。
 
草柳:  う?ん…。
 
横山:  唯識の教理がそっくりそのままね、このことを言ってるっていうことが分かりましたし。我々が対象になりきったら、それなんだね。簡単に言うと。だから大きな海原に行って海を眺めればね、なりきったら海なんだよ、自分は。大空見てね星空見れば、その星空が自分の心のありよう、心なんだよ。だから松の木になる、松の木松の木ってなれるわけ、ず?っと。
 
草柳:  そうすると、正聞熏習の具体的な実践として挙げるとすれば、どういうことになるんですか?
 
横山:  例えば一つは、経典を音吐朗々(おんとろうろう)と誦むという。声を大きく出して誦むということですよね。声っていうのはね、みなさん「真言(しんごん)」っていう言葉あるでしょ。
 
草柳:  「しんごん?」
 
横山:  ほんとの言葉、真言ってね。インド以来、言葉というのは力を持ってるというね、そういう信仰があるんですね。日本でも「言霊(ことだま)」というのがありますよね。そういう信仰のもとに、言葉を音吐朗々と読むと、そのすばらしい言葉の力が深層に刻印していってね、深層をどんどんどんどん浄化していくというね。例えば「観自在菩薩(かんじざいぼさ)行深般若波羅蜜多時(ぎようじんはんにやはらみつたじ)照見五蘊皆空度(しようけんごうんかいくうど)」と、それを毎日毎日音吐朗々と誦んでいくと、どんどん深層に刻印されていきますね。もう一つは、いろんなニュースとか本を読んだり、また何か読んで、ああこういう生き方をした人がこういう言葉残してるという、そういう言葉でも、それを自分で繰り返し思い出して心に刻み込んでいくという、そういうことをされたらいいと思いますね。正しい言葉を聞くことによって、その清らかな種子がどんどん成長していくと。もう一つは、濁った種子をですね、これが煩悩の種子を焼きつくしていくためには、もう一個「無分別智(むふんべつち)」という、分別しないそういう心を日常生活の中で起こしていくというね。分別というのは、分けるってことですよね。人間がやっぱり一番分けることとしては、自分と他者という、自と他というね。これを分けていかない生き方をしていくというのがね。
 
草柳:  ただその言葉だけの問題でいうと、「分別」と「無分別」という言葉はですね、普通に常識的な使い方というか、辞書的な使い方っていったらいいのか、分別ってのはむしろそうあるべきだという意味ですよね。分別心があるとかですね。
 
横山:  日常生活ではそう言っているんでね。だけどもともとはやっぱり「分別」というのは、仏教用語からきてるね、それだと思いますがね。だから分別がないというのは、悪い意味ですが、分別がない方がいいわけですよね。
 
草柳:  じゃあその分別をする心っていうのは、どういうふうな現れ方をするのかというのを、実はちょっとこのイラストでですね、その関係を…。
 
横山:  よく例えとしてね、こういう贈り物をするという人間の行為がしょっちゅうありますよね。その時にこの人を中心にしてね、自分が施者となって、受者―あの人に施物(せもつ)、これをさしあげたというね。そういうふうに三者を分別する。受者、施者、施物の三者を分別して考えると、私はこの人にしてやったという、おごりが阿頼耶識の煩悩の種子に植えつけられて、それが強くなっていくというね。だから煩悩の種子を植えつけるという。また芽吹かせるというね、そういう働きがあるわけですね。
 
草柳:  分別をしない心を育てる。つまり分別でなくて、無分別智がそれが大事なことなんだと。それをですね、またこのイラストを使ってですね説明をして頂いた方が…。
 
横山:  「分別」というのは、自と他とを分けることね。それを分けないで、「無分別智」―無分別の心でね、自と他を分別しない心で、いまここになりきって生きるというね。英語で「be coming one with」といいますが、ひとつになるわけだ。ひとつになった時は、それ分離してないから自も他もないわけですよね。草柳さんの中に自と他とを分ける生活、生き方ってあります? 生活の環境の中で。自と他となんか分けて…。
 
草柳:  改めて自と他と分けるっていうふうなことを意識することってのは、もちろんありませんけれども、でもごく普通に生きていく時にですね、やっぱり今横山さんが言われるような分別をする心でもって、多分生きてるに違いないと思うんですよね。つまり無分別智の心の現れ方というのか、心の持ちようというのはですね具体的にじゃあどういうふうにすれば…。
 
横山:  簡単ですよ。「いまここになりきって生きる」というね。自他を分別しない心で、いまここになりきって生きるという。その生き方をしていくと、煩悩の種子をどんどんどんどん焼きつくしていくというね。もうこれしかありません。煩悩をなくしていくにはね、これしかないんですよ。
 
草柳:  そうすると、やはりこの「なりきる」っていうことも、大変なキーワードの一つになると思うんですけれども、実は小野文惠アナウンサーがですね、このなりきるっていうことに関連して、また体験リポートをしておりますので、それを少し見てみたいと思うんです。
 

 
小野アナウンサー: 「いまここになりきる」ための具体的な方法を、これまで私はいろいろ体験してきました。例えば椅子に座って行う坐禅。大切なのは呼吸です。
 
阿:  今ここに意識を戻す一つのやり方として、数を数えるという方法があります。仏教の禅の言葉だと「数息観(すそくかん)」というんですけれども、ひと?…でゆっくり吐いていきます。で吐ききったら、つ?…でまたゆっくり吸っていきます。
 
小野:  いつもは考えるまでもなくしている呼吸。
 
阿:  でまたふた?…で吐いて。
 
小野:  これほど意識を向けたのは初めてでした。
 
阿:  つ?…で吸って。
 

 
北山:  目の前にあるもの…。
 
小野アナウンサー: 仏教の瞑想法を応用したマインドフルネス。その教室では、レーズンを使う瞑想を教えてもらいました。
 
北山:  どんな物体かをよく観察して下さい。目をつぶって。
 
小野:  一粒のレーズンに集中し、時間をかけて食べます。
 
北山:  口の中あちこちにちっちゃなセンサーつけたように、その口の中の動きそのものを観察して下さい。
 
小野アナウンサー: ふだん食べるという行為をいかになおざりにしているか気付かされました。
 
小野:  唾液がすごく出てきます。
 
北山:  ですね。
 

 
小野アナウンサー: そして今回は…。今日は歩く瞑想だそうです。こんな公園で待ち合わせって…。教えてくれるのは、マインドフルネス教室の北山さん。
 
小野:  よろしくお願いします。
 
北山:  こちらこそ。
小野:  と言いながら、とても戸惑っています。
 
北山:  えっ、何にですか?
 
小野:  歩きながら瞑想ですか?
 
北山:  どんなイメージですか?
 
小野:  危ない(笑い)。ぶつかるのではないか、転ぶのではないか、そんなことを思いながら来ました。
 
北山:  はい。あの歩く瞑想って、目つむっちゃいけないんです。
 
小野:  目は開いて…?
 
北山:  目は開いてて。日常的に歩く時に、頭の中は多分今からどういうスケジュールになるんだろうかとか、何かねお花見たりとかしたら、あっそういえばうちのあの庭、草を刈らなきゃいけないとか、絶えず情報を目からキャッチした分、マインドトーク誘いますよね。それに誘い込まれないように…。
 
小野アナウンサー: マインドトークとは、心の中の雑念や想念のことです。次々と湧き出るマインドトークに、私たちは振り回され、いまここになりきれないでいると、北山さんは言います。
 
北山:  だからごく自然に歩くスタイルで、それで一呼吸ごとに息一息吐く時にまずスーッて吐きながらスーッ…。もっとスタスタ歩いて頂いて、そして息を吸って、また息を吐きながらスタスタスタスタ…。坐禅をされましたでしょ。あの時に数息観をされてましたね。その数息観をそのまま歩きながらするぐらいのつもりで。その一吐きで、何にも気をとられなくて、見えてもただ見てるだけ。
 
小野:  何にも気をとられずただ見ているだけ。
 
北山:  ただ見る。ただ聞く。鳥の声が聞こえてきても、あっあれ何がいるんだろうじゃなくて、ただ聞く。ただ聞こえてくる。足が動いて、で呼吸を…。吐く息に…。
 
小野:  意識を向けて。
 
北山:  それでちょっとやってみましょうか。
 
小野:  あっ、でも蚊にかまれてかゆいとか、そういうのがある時は…。
 
北山:  それは、あっ、蚊にかまれたなって自然でいいんです。それで何か特別かゆかったら、かくなり、何か対処すればいい。我慢じゃないから。
 
小野:  はい。
 
北山:  今、先に何が見えますか?
 
小野:  ブランコをしている子供が見えます。
 
北山:  そこに意識を置いて、ただただそのブランコをしている風景が見えるだけ。吐く息にスーッ…、ただただひたすら意識を置いて。どうですか?う?ん…
 
小野:  二人乗りは危ないんじゃないかって…。思っちゃいました。
 
北山:  で思ったら、また元へ戻せばいい。でただ集中するとか、ただ今の行為をただするとかいうことは、頭に浮かんでくるマインドトークを一切否定することじゃない。気が付いたら今やってることになりきる、それだけ。でマインドトークがなくなるっていうことは、最初のうちはそんなことありえないので、なくなれなくなれとか、そういう思いはそれもまたマインドトークになっちゃうんですね。例えばあそこに草があります。その草に最初はね息を吹きかけるつもりだったらいいかもしれない。一吹き一吐き、その一吐きをハァ?…じっと見ながら。
 
小野:  植物に息をかける…。
 
北山:  うん、そう。
 
小野:  フーッ…。あっほんとだ。今は「ああドクダミだ」って思いませんでした。
 
北山:  でそれをずっと全体に風景に広げても同じ。
 
小野:  同じ…。あれ…先生! あの…花の匂いがしてきました。花の匂いがしてきました。
 
北山:  花の匂いを感じ取って、それで何か反応しました?
 
小野:  ああいい匂いと思いました。
 
北山:  それでそのあと。
 
小野:  そのあとですか? あっこれもしかして瞑想の効果かなって思いました。ハハハ…
 
北山:  それマインドトークですね。だからすぐに反応しちゃうのが私たちなんですね。でもっとこうなりたい、ああなりたいって気持ちがあるから、そっちに反応しちゃう。あっ、いい匂いというか、あっお花が匂ってくるとか、それだけでいいの。「いい匂い」もとてもいいんですよ。でもそのあと…。
 
小野:  あっ効果が出た!というふうに雑念が湧いてくるのをおいといて。
 
北山:  例えば通勤時間内に歩くことってありますよね。あるいは立ってることもありますね、こうして。で立ってる時にも、ただ立ってる。ただ街の中を歩いてるという状況が、毎日毎日日々の瞑想になるからです。だから瞑想っていうのは、特別に場所を設定して、こうしてガーッと坐禅を組むだけが瞑想じゃないっていうこと。もう生活している一瞬一瞬が全て瞑想の対象になるという。そのことを是非ね皆さんが分かって頂くと、すばらしいと思います。チャンスはいっぱい広がってるという形で。
 
小野:  ほんとですね。そしたら、もしかしたらもっと感動することに満ちてるかもしれないですね。
 
北山:  そういうことなんですね。
 
小野:  私の身の回りも。
 
北山:  そうそう。
 
小野:  もったいないことしてるかもしれない。
 
北山:  そうです。
 
小野:  わざと自分で考えないようにすることが、あっできるんだっていう、なんかその片鱗みたいな、チラッと光明が見えたというような感じでした。何か自分の中で眠ってたものを、ちょっとだけ起こしてみることができたっていうような喜びがありました。
 
小野アナウンサー: 歩く瞑想がもたらした気付き。心に映る風景が少しみずみずしくなったように感じました。
 
小野:  ふだんだったら、パサッパッパッパ…。
 
北山:  それでもいいんです。
 
小野:  空中でやってしまう…。
 
北山:  それでもいいんです。
 
小野アナウンサー: いまここになりきるチャンスは、どんな時にもあります。例えば洗濯物を畳む時。
 
北山:  大体マインドトークしながらこうしてやってる。
 
小野:  いつものように畳んでみます。「雑ですね」って自分で思いながらやってました。それに特にこの洗濯物畳みは、日頃考え事をしながら、テレビを見ながらやってしまっているものなので、より集中しづらいというか、集中してるかどうか、自分でも感覚がないですね…。こうやってしゃべりながらでも畳めちゃうんですよね。なかなかこのながらの感覚から、無心に畳む感覚への移行が難しそうです。う?ん…私にはちょっとシャツは難しいようです。
 
小野アナウンサー: 雑念にとらわれないで畳めるよう、形の単純な四角い布を使ってやってみます。
 
北山:  こうあらねばならないということはありませんので、自分が扱いやすいように扱えばよろしい。
 
小野:  はい。
 
北山:  毎回変わってもかまわない。ただこのものと自分の指先とが一つになるように。ただそこから心を外さないように。左手をスーッと下ろしながら、右手は自然に右の端の方にいきますね。そしてまた息を吐きながらでしょうけどスーッ…そうそう。そしてこれを半分に折りたいので、このまんまこうすると多分うまく畳めないと思いますので、右手を少し下げて頂いて、スーッと筋をつけて頂いてパタンと折って頂きます。
 
小野:  足がしびれました…。すいません。なかなかこの…。え?…集中してるって難しい状態ですね。何か気になることがやっぱりあります。
 
北山:  あのね、そういう癖がある。脳は何かを考えるのが脳の仕事ですから。だから…。
 
小野:  いろんなことが浮かんでくる…。
 
北山:  くるし時間もかかるってわけです。でもやれば必ずできる。もう一回やってみます。動作はどうであれ、このものと手がくっついてる触ってる、触れてる、その瞬間瞬間に心がそこにあればいい、指先に感じてれば。
 
小野:  この指の感覚だけとにかく感じていたんです。これがもし心をここに置くってことだったら、できてたんじゃないかなと思います。それを逃がさないようにするっていう感じは何となく分かりました。他のことを考えまいとするというよりは、布布布布…と思ってるような感じです。
 
小野アナウンサー: 布から指を離さず、ただ感触を感じようと集中するうち、雑念が湧いてもそれに気をとられることがなくなっていきました。
 
小野:  気持ちよかったです。よく寝たみたいな感じなんですよ。気持ちよさとしては。ぐっすり寝て起きた。朝自然に目が覚めた朝みたいな感覚の気持ちよさでした。だから私の理解では、これは脳が休んだのではないかと。実際その間はこの畳むということに一生懸命なわけですから、別に休んでるわけじゃないし寝てるわけでもないのに、何か畳み終わったあとに、ちょっと休んだみたいな、頭がすっきりしたという感じがあって。やっぱり休んだんですよね、私の脳はきっと。
 
北山:  休んだんです。いらないことガチャガチャ…してるのを休憩して。
 
小野:  だからすっきりした。
 
北山:  いい表現してらしたね。休んだあと、ぐっすりと眠ったあとみたいな爽快感がある。まさにそうですね。脳はゴチャゴチャ…どうでもいいことって脳さんには失礼ですけど、マインドトークだらけでいるからエネルギーかなり消耗してますでしょ。それがなくなって、ただ感覚のみですから。
 
小野:  一日に一回でもこの布を畳んで、ああ気持ちいいという、畳み終わってああ気持ちいいって思えたら、その日はとっても活力に満ちてる気がしますし。私がスポーツマンだったら、今だったらちょっとだけ記録が伸びそうな気がする。錯覚だとは思いますけど。
そういう感じです。
 

 
草柳:  四回目の今回はですね、「深層からの健康」というふうに題して、心と体を結び付けることの大切さっていうことを、ずっとお話を伺ってきたわけですね。横山さんは、その辺の事情を「安危同一(あんきどういつ)」という言葉でお話しになっていらっしゃいましたですね。
 
横山:  「安危同一」という考え方はですね、これは深層の阿頼耶識と表層の身体ね、この二つの関係をいってるわけですよ。簡単にいうと同一というのは、一方が安であれば、他方も安であるし、一方が危であればね、悪い状態であれば悪くなっていく。だから身体的なありようが、表層の阿頼耶識と関係しあっているという。同一であるという。だから我々が身体的な健康を考える時には、深層から、つまり阿頼耶識の段階から健康になっていかなきゃいけないという、そういうことにつながっていくわけですよね。安危同一の思想からして、教理からしてね。
 
草柳:  ただあの深層の心の働きというのは、そのこと自体直接それに私たちは触れることできないわけでしょ。とっかかりとして、体をいかに整えるかってことが大事だってことですか?
 
横山:  まあそれが広くはヨーガといいますがね。日本では坐禅をするということにつながっていきますし、坐禅だけではありませんよね。道元禅師が「威儀即仏法(いぎそくぶつぽう)」という言葉ね、有名な言葉がありますが、「威儀」ってのは「四」をつけて「四威儀」っていうんです。四つの威儀ある人間の身体的なありようということでね、「行(ぎよう)・住(じゆう)・坐(ざ)・臥(が)」というね。行は動く、住は静止する、坐は座る、臥は眠るというね。これで人間の身体的なありよう全部を含めていますが、それが仏教が説いていく真理・真実なんだというね。だからどこか遠いところに真理・真実があるんじゃなくて、この日常の身体的なありようの中に真理が顕現している、現れてるというね。僕も好きな言葉なんですね。
 
草柳:  しかもその大事な体を整えていくためにはですね、何も特別なことが必要なのではなくて、もう日常の生活振る舞いの中に、立ち居振る舞いの中で、どんなふうにもできるんだと。やろうと思えば。
 
横山:  やろうと思えばね。呼吸を調えるというのは、坐るだけじゃないから、歩きながら呼吸を整えるとかね、坐ってもいいですし、横になってもいいですしね。臥禅っていうのもあるんですね。寝て坐禅をするというね。変なこと言いますが、私の体験ですがね、何度か手術を受けたわけだ。手術台にこう寝せられて、手術室に行きますね。そしたらまあ人間は心配して、ああどういう手術になるのか、何とか…って心配しますがね。吐く息、吸う息なりきってなりきって手術台に横たわっておけば、これでいいわけですよ。何も怖くもくそもない。ただそれだけ。ただただ息、何があるかといったら命の現れである息があるわけですよ。息になりきったら、それだけなの。それだけっていうことが一番ね簡単ですが強いことなんだね。
 
ナレーター:  横山さんは、東京・目黒の圓融寺で、月一回唯識をテーマにした集まりを開いています。「唯識ライブ」。慌ただしい日常生活の中でひととき心を落ち着かせたいと人々がやって来ます。
 
横山:  深層からの健康というのを、どういうふうに考えるかということをね、皆さんの意見を聞かせて頂きたいと思ってます。
 
ナレーター:  参加者はそれぞれに人生の悩みや問いを抱えていました。
 
参加者A:  私、ちょっと大病を患ったので、自分の病を振り返る上でも、深層意識がどうだったのかというのを考える上で、すごい助けになるのが唯識思想なんですけど…。例えば仕事で残業で今日徹夜だといった時に帰って寝たいと思うのが阿頼耶識で、いやみんな歯を食いしばって頑張ってんだから、お前も働けよって自分自身に訴えかけるのが末那識なのかなって思ったんですけど。
 
横山:  その解釈でいいと思いますよ。それは末那識の一つの働きね、それでいいと思いますよ。
 
参加者B:  自分の中に自分というものがたくさんある。私なんか煩悩の固まりみたいなんですけど、自分をなくすっていうのは非常に難しいと思うんですけど、今の私には。自分の我を…我というか、自分自分をまずなくすように心がけるってことは、私ははっきり言って、すごく嫌い好きが激しくて、本当に嫌だな?と思うことも何回かあるんですね。自分の嫌いなタイプっていう方がいて。
 
横山:  なんかその人の好きなところを見ようとか、嫌いなところを見ようとかね、全部自分の中で右往左往してる思いなんですよ。簡単なことでいいんです。相手になりきろう、相手になりきろう、なりきっていくぞ?!って感じにね。その力をつけるために、坐禅とかね、念の力、念ずる心。だから念仏をされる方だったら、もうねもう一日中念仏されたらいいですよ。なんまんだなんまんだ…。
 
参加者B:  はい分かりました。
 
参加者C:  我というのは幻想なわけで幻想の上で、無我の上で幻の我を我々は生きているわけなんですね。私の場合だと、子供と一緒に遊ぶと、なりきれるので、幼稚園がありますが、幼稚園の子供と一緒にいるというのがですね、なりきるための一番のヒントになるかなと思って、それがまた禅をする時のヒントにもなるんですけれども。子供たちって、ただ遊んでるんですよね。みんなが集まってですね、縄跳びがあったら「あ?縄跳びだ」でパーッと縄跳びしてですね、目の前にボールがあったら、今度はですねそっちのけで縄跳びを放り投げて、今度ボール遊びをして、そしてお家に帰ってきて、お母さんに「あなた今日何してきたの?」って言ったら「ううん何にも」っていうふうに、言ったあの「何にも」だというわけです。何かしてるんですけども、してるところに何か心を残さないっていうことですね。ですから何をするんでも、そこに心を置かない、過去のことを追い求めたりですね、未来に対して不安を求めないっていうこと。ですから結局私たちって物語の中で生きてるので、全部がそうですね、いろんなトラウマを抱えたりですね、苦労経験もあったり、それも大変なことなんです。現実ではないんですね。頭の中でそれを作ってるんです。もちろんそれは苦しいことですし、救わなければいけないことだとは思うんですけど、自分のストーリーを作っちゃってるので、そのストーリーから抜け出ることがなりきるってことかなと思いますけれど。
 
ナレーター:  質疑応答のあとは、全員で坐禅を行います。
 
阿:  今ここの本来の姿に戻ってきて下さい。
 
ナレーター:  唯識は、いまここになりきれば、本来の自分に気付くと説きます。そして人生をいかに生きるべきかと問いかけてくるのです。
 

 
横山:  やっぱり大きな人生というね、大きなスケールで考えた時に、やっぱり我々は、大きな目的を持って生きていくというね。その生き方が深層の阿頼耶識を変えていくというね。一つは「自己究明」。自分を究明していく。自分とは何であるかというのを究明していくですね。二番目が「生死を解決」していく。仏教的には「生死解決」といいますが、それを解決していく。三番目が「他者救済」というね。この三つなんですよ。これもうホモサピエンスであれば、みんなその三つを持って生きれば、深層がどんどん変わっていきます。それ私は、「十牛図(じゆうぎゆうず)」という図から学びました。
 
草柳:  そうですね。その「十牛図」の絵を用意したんですが…。この「十牛図」というのは、禅の修行の過程を描いたものですよね。
 
横山:  禅の修行によって開けゆく心境―心の境涯。それの成長発展を…。
 
草柳:  じゃその三つの目的をこれに当てはめながら教えて下さい。
 
横山:  大きな目的を持って生きるというね、人がこの牧人(ぼくじん)―牛飼い人で描いてるわけですよね。牛は真の自分というというように考えてください。それである日牛が逃げたと。ということは、自分が自分と思ってた自分がほんとの自分じゃなかったって気が付いたわけだ。我々は、ここまで入るの大変なんだけども、この人は入ったわけだね。それでその本当の自分を見つけようといって、「尋牛(じんぎゆう)」という段階なんですが、牛を探し求める。そして、それを進めていくうちに、向こう側にしっぽだけを出した牛を見いだしたってね。「見牛(けんぎゆう)」牛を見るという段階で。で喜び勇んで駆けだしていくわけ。だんだんね牛が見えてくるわけ。これ禅宗の世界で「見性(けんしよう)」といいますが、本当の自分の性(さが)を初めて見いだしたっていうね。
 
草柳:  その辺が自己の究明…。
 
横山:  そうですね。そのあと綱で捕まえて、捕まえるのはものすごく大きな牛になってますがね、大変なことなんですよね。この格闘してるわけだ、バーッとね。それでおとなしくなった牛に乗って、家に帰ってるという。横笛を吹いて、楽しげに歓喜の気持ちで、しかも温かい牛のぬくもりを感じながら家路に就いてるわけだ。
 
草柳:  歓喜ってことは…。喜びは何を得た喜びなんですか?
 
横山:  ほんとの自分というものをつかみ始めたという喜びなわけ。見いだし始めたという喜びなわけ。
 
草柳:  なるほど。
横山:  それで家路に就いて、牛を牛小屋に入れてのんびりとこの牧人はうたた寝をしてるわけですよね。「忘牛存人(ぼうぎゆうそんにん)」といいます。牛を忘れて人だけが存在するというね。つまりここでは生死を解決したわけだ。生死を解決してね、自己究明から出発して、生死を解決した。二番目の人生の目的を達成したわけですよ。ここに有名な「空一円相(くういちえんそう)」という円があるんですが…。
 
草柳:  一つ抜けてますね。
横山:  これが究極の悟りの心境。空という。「空一円相」といいますがね。これ「人牛倶忘(にんぎゆうぐもう)」といって、人間も牛も共に忘れてしまったという図なんですね。それで今度は、それから「返本還源(へんぽんかんげん)」といって、この美しい自然が戻ってくるわけだ。これは自然を訴えてるんじゃなくて、ここを通過した人間は、自然のごとくに生きていくことができるんだと。全く自我意識をなくしてね。自然はほんとにそうですよね。春になると桜が咲き、秋になると菊が咲きますね。みんな自然(じねん)というか、自然(しぜん)が自然(じねん)に存在するというね。で最後の最後は、この「入廛垂手(につてんすいしゆ)」といって、町の中に入ってね、これは童なんですがね、童に手を差し伸べていると。これが他者救済という最後の目的。すなわち自己究明と生死の解決と他者救済というね。三大目的がこの中に全部描かれてるわけです。
 
草柳:  これによってですね、今のご説明と、私たちがずっと今日テーマにしてきた阿頼耶識の浄化ということと、どういうふうに…?
 
横山:  大きな目的を持って生きるというのは、目的というのは意思なんです。人間が生きていくためには、意思がどうしても必要なわけですよ。意思がなきゃ人間は生きていけないわけだ。だからどういう意思を持つかということが、深層の浄化にまで考えてみるとつながっていくというね。知らず知らずに、その大きな三大目的を持って生きていくならば、知らず知らずのうちにね、阿頼耶識が浄化されているという。で、健康になっていくというね、そういうことにつながっていくわけですね。
 
草柳:  最後に横山さんが、ご自身で実践していらっしゃること。いわばその生活信条といいますか、そういうものをお聞きして表にしたのがありますので、イラストにしましたので、これで横山さんが具体的にどういうご実践をしていらっしゃるのかという話を…。
 
横山:  まず第一が「笑顔を絶やさない」っていうことね。これやっぱり人間自分の中に歓喜―喜びがあるわけであってね。笑顔になっていくわけですよ。同時にこれは自分だけの問題じゃなくて、やっぱりこういう笑顔を見ると、他の人もうれしいですよね。
 
草柳:  そして、そうすることによって、いい種子が阿頼耶識の中にたまっていくはずなんだと。
 
横山:  そうですね。二番目の「お経を音吐朗々と読む」というのは、やっぱり言葉には力持ってますからね。これ気持ちがいいですよ。毎朝毎朝般若心経をね。「観自在菩薩行深般若…」って誦んでいくとね。これまあなんかされてなかったら、されるように心がけてごらんになれば気持ちいいですよね。
草柳:  それも知らず知らずのうちに健康に役立つと。
 
横山:  そうですね。それから「整理・掃除をきちんとする」とね。禅宗のお寺へ行けば、禅宗は掃除寺といってきれいなんですものすごく。玄関から庭からね室内から全部きれいになっているんですね。周りはほら心の中のありようでしょ。庭もきれいな庭を見てるとそのきれいな庭は自分の心の中に存在するわけですよ。でしょ、外にある庭じゃないんだな。そうすると、自分の部屋とかなんかを全部きれいにするとね、心がきれいになってるわけだ。これ分かりますね。
 
草柳:  分かりますよ。
 
横山:  唯識の教理からしてね、でこれをきちんとすると。毎日坐禅をするっていうのは、一体何か一体何かを追究しですね、一体なぜかなぜかを追究し、それから最後にいかに生きていくかということをね。とにかく気海丹田に心を置くっていいですよ。この辺にワーッといつもいつもここに気を置いてね、頭の中を空っぽにしていくというね。
 
草柳:  ただ現実の生活で私たちの周りを見ておりますとですね、自分自身のことも当然そうなんですけれども、なかなか思うようにはいかないことの方が多いわけですよね。
 
横山:  そうですね。私がいつも言いたいことはね、無理をしてもいいからね、過去の楽しかった思い出をね心の中に常に再現させようじゃないかってことですよね。だから過去は過ぎ去ったんじゃなくて、過去の楽しい思い出を材料としてね、それを現在に生かしていって、歓喜の世界をね、喜びの世界を、喜びの心をですね自分の中で起こしていけばいいわけですよね。喜びの心というのは、これ「歓喜(かんき)」といいます。歓喜の心はね、心身をですね伸びやかに軽くしていくわけ。「軽安(きようあん)」という専門用語がありますが。「軽(きよう)」というのは「軽い」ね、「安(あん)」というのは「安心」の安ね。そういう状態になっていくんですね。その軽安のありようが最終的に悟りに導いていくというね。最後の最後「歓喜を軽安」というのは、悟りというか、救いに至るというね、こういうことを唯識思想は言ってるんでね。すばらしいです。変なこと言いますが、私、スキーが得意なんです。一度蔵王で滑ってね、ものすごい美しい空を見ながらね白い蔵王でワーッと滑ったことを、私しょっちゅう思い出すの。すごかったなぁと。それで思い出した時は、唯識だからそれなんですよ。その思い出してるという映像が再現してるけどね、それになりきってるわけだ。ここなんだ。これ皆さんがね、思い出は思い出だけに何か…と言うんだけどね。思い出してる時は、それがそのまま自分の心のありようですからね。楽しいことを思い出したら、楽しい状況になってるわけです。再現されてるわけです。
 
草柳:  なるほど。
 
横山:  できるだけね、そういう思い出に浸っていこうではないかという感じですよね。もう一回言いますが、歓喜があって、それはすっきりさっぱり爽やかに生きればいいわけだ。そのありようはね軽安―軽やかで安んじたそういう心のありようをね、それが最後には悟りに至るという真理・真実の世界に至るというね。そういう心理学的な過程を見事に解き示してるんですね。
 
草柳:  ありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年七月十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである