唯識に生きるD唯識の科学性
 
                    立教大学名誉教授 横 山(よこやま)  紘 一(こういつ)
                    き き て    草 柳  隆 三
 
ナレーター:  四世紀から五世紀のインドで、無著と世親という兄弟によって打ち立てられ仏教の根本思想とも言われる「唯識」。小説「西遊記」の主人公として知られる玄奘・三蔵法師が中国に持ち帰り、日本には飛鳥・奈良時代に伝わりました。「唯識」では、瑜伽行(ゆがぎよう)―修行としてのヨーガを実践します。坐禅もその一つ。瞑想を行い、自己の奥深くにある心のメカニズムを観察・分析します。唯識は、心と身体を調える様々な智慧を持っています。
日々の暮らしに生かせる唯識の具体的な活用法を、小野文惠アナウンサーが体験リポートします。そして今回、唯識を五十年以上にわたって研究している横山紘一さんは、重力理論と量子力学の統合という科学の最先端に取り組む物理学者と意見を交換。唯識と科学、その共通点と相違点を浮かび上がらせ、それぞれの役割の違いを考えていきます。
 

 
草柳:  「こころの時代」では、毎月一回「唯識に生きる」と題して、日本の仏教の根本思想とも言われる「唯識」について、六回シリーズでお伝えしています。今日もお話はいつものように立教大学名誉教授の横山紘一さんです。どうぞよろしくお願いいたします。
 
横山:  よろしくお願いいたします。
 
草柳:  五回目になるんですけれども。
横山:  早いですねぇ。
 
草柳:  今回のテーマは、「唯識の科学性」ということなんですが、その前に、今日の本題に入る前にですね、前回のおさらいをまたちょっとしてみたいんですが。前回は「深層からの健康」ということでしたですね。
 
横山:  深層の阿頼耶識(あらやしき)を浄化して、清らかにしていくというね。そのためにいかに日常生活を送っていったらいいかという、それがポイントだったですね。
 
草柳:  不健康の大もとであるところをいかに浄化するか。そのためにまず大事なことの一つはこれであると。
 
横山:  「正聞熏習(しようもんくんじゆう)」といって、正しい師匠から正しい教えを聞くという、これがまあ定義なんですが、経典を読んだりするだけでも結構だと思いますよね。声を大きくして、その声を深層の阿頼耶識に熏習していくというね。「熏習」というのは、繰り返し繰り返しそれを刻印していくという。そうすることによって、深層心の阿頼耶識に潜在する清らかなですね素晴らしい可能力―種子(しゆうじ)といったものを、生育させていき、それが結果として芽を吹いてくるというね。この「正聞熏習」が一つ、一番まずは大切なんです。
 
草柳:  これが大事なことの一つ。それから次がですね「無分別智(むふんべつち)」。
 
横山:  こちらの方が「正聞熏習」よりも大切か分かりませんね。分別をしないというね。何を分別しないかって、人間はいつも自と他とを区別して考え生活してますですよね。この自と他とを分別しないで、いまここになりきり、なりきって生きるというね、その表層のありようが、深層に眠っているこの煩悩の種子を焼き尽くしていく、焼尽していくというね。
 
草柳:  なりきって生きる。
 
横山:  はい。何においてもね、物でもいい、人間でもいい、自然界でもいいね、全ての出来事に対してなりきって生きるという。それが「無分別智」なんです。
 
草柳:  前回のキーワードとしてはですね、とても印象に残っているのは、言葉の問題なんですよね。「言葉に頼りすぎるな」。
 
横山:  言葉というのは、みんな物事の表面を説明しているだけであって、物そのもの、物事そのものを決して表現しているのではないと、捉えてんじゃないとね。言葉というのは、限界があるし、束縛があると。ならば言葉を離れて、物そのものになりきってなりきって生きていくというね。
 
草柳:  さて今回五回目のテーマはですね、「唯識の科学性」ということなんですが。
 
横山:  科学というのは、まず定義してみると「科学とは存在するものを対象として観察し、思考する人間の営みである」。というならば、唯識はまさしくその存在するもの、これを「一切法」といいますが、一切法を、これをやっぱり対象として観察し分析していくわけです。
 
草柳:  その「一切法」というのは、あらゆる現象、あらゆる事柄ということですか?
 
横山:  そうですね。まあ科学では、決して自然科学では決して問題としない現象にならないもの、これを専門的に「無為(むい)」といいますがね。それをも分析していくというですね。
 
草柳:  その結果見えてくるものっていうのは?
 
横山:  無我(むが)なんですよ。全て無我を証明するために、いろんな構成要素に分解するわけだ。存在するのは、構成要素だけしか存在しないというふうになっていくと。例えば自動車ね。自動車…車があってね、ドアがあってね、エンジンがあって運転のあれがあったとね。それを全部取っ払うと、車なんかないじゃないですか。同じように、この己も構成要素だけが存在すると。
 
草柳:  その構成要素というのは、一体何なのかということでですね。仏教では古くから「五蘊(ごうん)」という分類の仕方、分析の仕方がありますよね。
 
横山:  「五蘊(ごうん)」は、もちろん釈尊が考えられたものだと思いますがね。「色(しき)・受(じゆ)・想(そう)・行(ぎよう)・識(しき)」という、五つのですね、「蘊」というのはこれは「集まり」という意味ですがね。「色」というのは、これは物質的な存在というね。人間的存在に当てはめるならば、身体といってもいいと思いますね。身体的な要素。それから「受」というのは、これは感受作用ですね。苦しいとか楽しいとかね。それから「想」というのは、これは知覚作用ですが、知覚というのは、言葉が必要ですから、言語を起こす心のはたらきといっていいと思います。それから「行」というのは、これは根源的には意思というね。人間が持っている生きる意思というもの。一番最後が「識」といって、認識作用といっていいですよね。
 
草柳:  人間の構成要素というのは、こういうことなんだということをですね、今からもう二千五百年前に釈尊が、こういうふうにまとめられたということなんですね。
 
横山:  「五蘊」というのは。すごいですねぇ。
 
草柳:  今後ろに大きな絵が出てまいりましたけれども、「五位百法(ごいひやつぽう)」と書いてありますね。
 
横山:  これはもう有名な唯識の教理ですね。これをこういうふうに一覧表にした図です。
 
草柳:  先ほどの五蘊とはですね、これはどういうふうな対応のしかたといいますか、しているわけですか。
 
横山:  この中で、「心」「心所」「色」までは、これは先ほど言った五蘊と同じなわけですよ。五蘊というのは、まあ現代でいえば現象的な存在だけに考えているわけですよ。まぁそれは専門的には「有為(うい)」といいまして、有ることが為すことが有るという、有為ね。だけどここを見てもらうと、五番目に「無為(むい)」と入ってきますね。
 
草柳:  「無為」っていうのは?
 
横山:  非現象的な存在も含めてくるわけだ。それからもう一個は、この「心不相応行(しんふそうおうぎよう)」というですね。これがもう本当にもう仏教独自の考え方で、もともとは「識心不相応行(しきしんふそうおうぎよう)」と。識に相応しない。心にも相応しないというね。そういうものを考えていくわけですよね。全部で五位。五つのグループに分けて百法―百の構成存在に分析していくわけですよね。
 
草柳:  とにかくすごい精緻な分析をしているんですね。
 
横山:  まぁもともとインドの人たちは、分析力がすごいですよ。もちろん唯識は、瑜伽行派と言われるように、ヨーガを組むことによって深層に沈潜し、心を観察し分析したわけですよ。心を観察し分析するという、そういうことが非常に重要だと思いますね。
 
草柳:  今、ヨーガというお話もあったんですけれども、「こころの時代」ではですね、毎回小野文惠アナウンサーが、ヨーガを実際体験をして、その体験リポートを放送しております。今日はその完結編ですので、どうぞご覧下さい。
 

 
小野アナウンサー: これまで私は、仏教の瞑想法を土台にしたマインドフルネスを体験してきました。最初に教えてもらったのが呼吸です。
 
可児:  (可児雅昭トレーナー)深呼吸みなしてるんですけど、思ったほどちゃんとできてない方が多くて。この下の方です。ここがちゃんと動いてほしいんですけど。
 
小野:  ここが?
 
可児:  はい。
 
小野:  そんなこと人生で考えたことがないです。肋骨の間が広がるような息…?
 
小野アナウンサー: 瞑想の時、一番大切なのが呼吸。
 
北山:  (マインドフルネス教室代表北山喜与(きたやまきよ))おへそを床にくっつけたまま。肘と膝を同時に。
 
小野アナウンサー: 体全体で深い呼吸をするためのエクササイズを習いました。目指すは、ヒョウのようにしなやかな動き。
 
小野:  なんか迫力のないヒョウですよね。(笑い声)
 
小野アナウンサー: 呼吸をきちんとできるようになると、日常のあらゆる場面が瞑想のチャンスになります。例えば布を畳む時。
 
北山:  ただこのものと、自分の指先とが一つになるように。ただそこから心をはずさないように。
 
小野:  この指の感覚だけ、とにかく感じていたんです。これがもし心を置く、ここに置くということだったらできてたんじゃないかなと思います。
 
小野アナウンサー: 布に意識を向け、呼吸に集中することで、いまここになりきるのだといいます。
 
小野:  よく寝たみたいな感じなんですよ。気持ちよさとしては。ぐっすり寝て起きた朝。自然に目が覚めた朝みたいな感覚の気持ちよさでした。だから私の理解では、これは脳が休んだのではないかと。
 
小野アナウンサー: そして今回は、お寺で坐禅を体験します。お邪魔したのは、兵庫県西宮市にある禅寺臨済宗妙心寺派海清寺(かいせいじ)です。この日は、マインドフルネス教室の北山さんが、禅の修行僧雲水の皆さんに講義をしていました。唯識にも通じるマインドフルネス。修行を始めて間もない雲水たちの気づきのきっかけになればと、住職が北山さんに頼みました。まずは正しい呼吸のための体の動かし方を習います。
 
小野:  いやちょっと怪しいですけど頑張ってみます。
 
北山:  じゃ前回ちょっとやって頂いたので少し見て下さい。そのね背中が、このようにウネウネウネと、曲線を描きながら動いてますでしょ。ああいうふうになるように、ちょっと皆さんもどうぞやってみてください。
小野:  まさかお手本になるとは思いませんでした。
 
北山:  足の指しっかり立てて。足!指がまず立ってない、三人とも。そう、しっかり足の指を立てて。そう。で体をしっかりひねって。
 
北山:  見ててどうでした?
 
雲水:  ロボットのように。
 
北山:  ロボットのように。
 
雲水:  かたかった。
 
北山:  この人の場合、背骨が硬い。ちょっと私の格好見てね。普通猫の形っていうと、まずおへそが上にいってこういう形するでしょ。これダメね。で、そうじゃなくて、ここの尾骨。そこのところから中にず?っと入って。そして最後に頭が。で息を吸う時も、尾骨の方がず?っと上に出て、伸びていって、最終頭が上がる。はい。それちょっと自分でやってみて、もう一回。自分のペースで。息を吐きながら吐いて吐いて吐いて。頭はちゃんとおへその方をグッと見る。そうです、そうです。お尻が前に流れないように。そう。OK、OK…はい。じゃ今度息を吸う。そう。おおきれいきれい。動いてる。肘曲げないでね。そうです、そうです。すごくきれいに動いた。これねここがね下がってるの分かるね、自分で。でここもグッと力抜けてるの分かるね。はい。で今度、四つんばいちょっとやってみて。そっからこっちでいいから。はい。右を出して…ゆっくりやろう、右を出して、左足を出す。そうそうそう。で今度右を出して、そうです。おおぉ、きれいきれいすごいきれい! わあ?めちゃくちゃきれいになった!
 
雲水:  動きやすくなりました。
 
北山:  そうよかった。それじゃあ今から座り方、坐禅の座り方ですけど、座骨って分かります? 骨盤がこうまわっていって、そこ先っちょのとこポンと二つ飛び出てるところがある。でそこを意識して。これで坐禅の…例えば坐を組むとします。その時にも座骨を意識して下さい。左右グラグラ、後ろグラグラって。座骨がちゃんと分かりますか? 分かります? 座骨がしっかりときちっとついてて、骨盤がしっかりと立ってる。この姿勢が正しい。で猫のポーズやりましたけど、あの時のこの背中のこの動きね、背骨の動き。それがこの今の座骨のとこから、こう順番に伝わっていく。というふうに、一呼吸一呼吸は、全身でやっているんですね。その動きによって、呼吸が整ってくると、初めて心も落ち着いてくるんです。だから体がきちんと整った正しい姿勢をしてね。正しい呼吸ができて。そうすると、初めて心が落ち着く。心を調える。ここが難しいですね。
 
自分の心を坐禅中に見ていらっしゃるんですけど、自分で自分の心を客観視する力を磨いていくんですよね。そのためには、唯識の五位百法。あの中味がものすごく意味があるんですね。本当の心って何?って。心って、どんなふうに動いてるの?って。どんなふうに人間というものを翻弄していくの?っていうことを、自分の内面を見てきた人だからこそ、将来檀家さんとお話しをされる時に、ご相談された相手の方のお役に立つんじゃないかと思う。
 
小野アナウンサー: 雲水の皆さんは、毎日朝と夜坐禅をします。体を調え、息を調え、自分の心と向き合います。
 
雲水:  なんて言いますかね、後ろから引いたところからこう見ているような感触がいたしました。その時には集中ができているような、はい。それまでは、ただこう坐禅といいましても、我慢をすることというような印象が強かったんです。あんまりこのなんといいますか、禅僧として成長しているのかどうかというところは、いまいち感じづらい部分があったんですが、体を動かしながら、神経一本一本に集中をしてというようなお話を聞いたあとに、改めてそこを意識しながら生活を送っていくとですね、考え方がすごく変わったような気はいたしております。
 
小野:  お寺では、もともとそういうことは教わられていないんですか?
 
雲水:  そうですね。やはりあのまあ禅の世界というのは、人から教わるものではなくて、自分でつかんでいくものだと思うんです。
 
小野:  教えにきて下さるのは、歓迎だなみたいな感じですか?
 
雲水:  そうですね。そのきっかけがなかったら、多分私はまだ今でも何で坐るのかという意味が分かってなかったでしょうし。まあまずは己のことをきちんと理解して、最終的には、周りの方々のお役に立てれるような、そういった禅僧になれればなとは思っておりますけどね。
 
小野:  私も皆さんの修行の場をお借りして、坐禅を体験します。
 
小野:  瞑想できたかどうか分からないんですけど、とりあえず座骨の動き、動いているのだけ意識して過ごしておりました。息をこうやってしてるうちに、指がくっついたり、離れたりするなっていうのに気がつきまして、途中でちょっとそれが面白くなりそうになったんですけど、まあいいかと。気持ちがいいものですね、ものすごく。今回の番組のおかげで、日常的にも階段を上がりながら、瞑想瞑想…。瞑想瞑想って思わないんですけど、週に何回か会社の階段を上がりながらやってるんですが、そういうことをやってる日常が何となく自分を整えてくれてるなっていう気がするんです。このとても素敵な空間で坐禅ができて幸せでした。気持ちよかったです。ありがとうございました。
 

 
草柳:  今日はですね、「唯識の科学性」ということでお話を伺っているんですけれども。更にどういうふうなことがありますか? 展開としては。
 
横山:  まぁ科学というのは、現象を観察し、分析して、「因果法則」を探るというね。
 
草柳:  因果法則ですか?
 
横山:  因果法則を打ち立てていくというね。
 
草柳:  今のお話の因果法則ということについてですね、この図を使って説明をして頂けるとありがたいんですが。
 
横山:  因果法則の基本としてですね、現代の言葉でいうと、「根本原因」と「補助原因」があると。仏教の言葉でいうと、「因」と「縁」といいますね。種を地中にまくわけだ。これが根本原因をまくわけね。そこで水とか適当な温度を与えることによって、それが補助原因で「縁」ですよね。そうすると、数日後に芽が吹いてくるというね。皆さんよくご承知の「縁起」という言葉を聞いたことがあると思いますがね。
 
草柳:  縁起がいいとか悪いとか。
横山:  もともと「縁起」というのは、正式には「因縁生起」といって、根本原因があって、その根本原因に補助原因が作用して、最終的に結果芽が出るというね。結果が出るというね。
 
草柳:  つまりこれは、仏教が人の生き方を追究するということから、ただものの結果の関係だけではない。
 
横山:  唯識思想は、根源的に阿頼耶識から全部生じるわけです。阿頼耶識の中に、根本原因が全部あるわけね。根本原因を引き出してくる縁が、どういう縁があるかということがいろいろ問題となってくるわけですよね。まあいわゆる普通でいう科学は、物の因果性を考えていきますが、仏教ではそうじゃなくて「心身一如」心身が同じであるというね「一如」ね。「心身一如の因果性」と、こういう表現ができると思うんですね。「十二支縁起」というですね。順縁起は、無明(むみよう)→行(ぎよう)→識(しき)→名色(みようしき)→六処(ろくしよ)→触(そく)→受(じゆ)→愛(あい)→取(しゆう)→有(う)→生(しよう)→老死(ろうし)→(無明に繋がる)。逆縁起は、老死→生→有→取→愛→受→蝕→六処→名色→識→行→無明。これはもう釈尊自身が考えられた縁起観だと思うんですが、釈尊のやっぱり出家の出発点は、なぜ生き物までも含めて、生きとし生けるものと―衆生といいますがね、衆生はここにある生まれ老い死んでいくかという苦しみね。苦の原因と苦の滅ね。人間は原因を考えれば、その原因を滅していけば分かるわけだから、まずは原因を考えたわけだ。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、死んでいく苦しみ、というものがあるのかというね。生老死はなぜあるか。受愛取(じゆあいしゆう)。この愛のところが一つのポイントですね。男女の愛だけじゃなくて、渇愛といって、いろんなものに対する欲望が起こってくるわけですよね。「渇愛」というのは、自己執着心があるわけですよ。最終的に、ここにあります「無明(むみよう)」という根本原因。明らかでないと。「明(みよう)」というのは「智慧」といってもいい。真理真実を知っている智慧がないんだという、これが無明の心なんですね。
 
草柳:  私が、こう悩み苦しんできたのは、一体どういうことだったのかっていうことをたどっていくと、最後に無明というところに…。
 
横山:  そう。無明にぶつかったわけですよね。今度は逆に、この生老死をなくすためにはどうしたらいいかということで、まずは根本的な無明をなくすと、行もない、識もない、名色もない、ずっとなっていって、生老死がなくなっていくというですね。
 
草柳:  では実際いかに生きるべきか。もちろん最終的にはどう生きるかっていうことが目的、目標の一つなんでしょうけれども、唯識は唯識として、また別の縁起を。
 
横山:  そうですね。無明を明にするためにどうしたらいいか。これは愛欲ね。渇愛をなくすにはどうしたらいいかというので、今度は新しく「阿頼耶識縁起」という縁起観を打ち立てていくわけです。この図にありますですよね。表層心理のありようを変えることによって、深層心の業を、潜在的な業の種子を全部焼き尽くしていくというね。無明を明にするわけだ。この表層心理を、明にするにはどうしたらいいか。すっきりさっぱり爽やかに、心の中に何も束縛がないような状態に持っていくわけ。そうすると、その心の中にあるがままにある「真如」という、そのものが表れてくるわけだ。
 
草柳:  なるほど。
 
横山:  まあ「真如」を月というふうに例えるのがね、いろいろお能の文句なんかにありますが、僕は月よりも太陽が好きだね。太陽は光と温かさを持ってるでしょ。そういうふうに心の中に光と温かさを持つものを、心の中に顕現させていこうじゃないかと。それが真如というね。これをつかむと、これが最終的な悟りになっていきますがね。そこまではいかなくても、自分の心の本性は真如であるということに気付くだけでもいいですよね。気付くというね。
 

 
ナレーター:  今回横山さんには唯識を巡って話をしてみたい人がいました。訪ねたのは東京大学の研究施設。ここには宇宙の成り立ちを解き明かそうと、数学や物理天文学などの研究者が集まっています。
 
大栗:  あ、どうも。
 
横山:  どうも先生、お忙しい中、今日はありがとうございます。
 
大栗:  今日はよろしくお願いいたします。この研究所で主任研究員をしております大栗博司(おおぐりひろし)と申します。
 
ナレーター:  大栗博司さんは、素粒子論が専門の理論物理学者です。大栗さんは、宇宙のあらゆる現象を説明する「究極の理論」を求め研究を続けています。
 
大栗:  毎日三時の時間に、研究者がみんなここに出てきて、それで議論をすると。黒板を前にして議論をする。そうすることで、分野を横断するような新しい発見ができるということを期待してるんですね。でこの真ん中にこれイタリア語で、この「宇宙は数学の言葉で書かれている」という文字が、文章が書いてあるんですけれども。今から四百年少し前にですね、天体望遠鏡を宇宙に初めて向けてですね、近代科学の扉を開いたと言われているガリレオ・ガリレイの言葉が、ここに書いてあるんですね。
 
ナレーター:  世界はどのようにできているのか。人間とは何か。この世の真理を探究する二人の対談です。
 
大栗:  私は、仏教には暗いので、まずそもそも唯識というのはどういうものか、というのを教えて頂けますか。
 
横山:  まぁ簡単に言えば、字のとおりですね、「唯だ識」。識がちょっと難しいですが、唯だ心と。唯だ存在するものは、本当に心しかないというね。それでその心が、深層と表層があると。それで表層のありようを変えると、深層に影響が出てくると。だからまずは表層のありようを変えることによって、深層―深層これ「阿頼耶識」というんですが、それを変えていこうと。結論から言うならば、いろんな苦しみ悩みね、阿頼耶識を浄化、清らかにしていくと、表層心がいつもすっきりさっぱり爽やかに生きていけるというね。そういうことで、人間の苦しみというものも、また対立というのもなくなっていくと。簡単に言えば、そういう思想なんです。
 
大栗:  ああ、なるほどね。
 
横山:  はい。
 
大栗:  今、お聞きしただけですと、う?んそんなことあるのかなというのが、最初の僕の反応で。と申しますのは、その心しかないということは、だから心の外には世界はないというそういうことですよね。その科学の方法で自然とか、この世界を理解する時には、外に世界がまずあるということを仮定して、それでその世界がどういう仕組みで働いているかというのを理解していこうとしているわけですよね。ですから、心しかないとするとですね、そうするとじゃあそこに対してどういう、それからどういうことが分かっていくんだろうかと…。
 
横山:  自然の現象とかね。その世界というものも、心の中にある世界なんですよ。だから例えば夜空を見てね、やっぱり空を眺めると広大無辺な宇宙が見えますね。それでそれに比べて人間の存在は、針の先の一滴であって小さなものだってことなんですよ。それがだんだんとだんだんと坐禅やったり、唯識を勉強したりしたら、その広大無辺な宇宙は、心の中の映像…映像ですね。
 
大栗:  はいはい。映っているものってことですよね。
 
横山:  そうそう。感覚のデータでね。それで言葉でもって、あっ大空だすごい!というようなね。その大空に対して、大栗先生は外界にあるんだというふうにね。
 
大栗:  ああ…あっその辺の区別というのは重要で、あの実は科学者が世界を理解する時も、ある意味でこの世界自身について何かを理解しているというよりは、今おっしゃった意味ですと、その世界の映像を理解しようとしているということ。でももう少し正確に申しますと、科学の世界ではモデルということをいうんですね。
 
横山:  モデルね。
 
大栗:  モデルというんですけれども、それはどういう意味かというとですね、こう世界の現象なんかを…現象とかいろんな現象を観察したり実験したりしましてですね、でそのこの世界がどういうふうな仕組みで働いているのかということを想像するわけですよね。で先ほどちょっとここの柱に「宇宙は数学の言葉で書かれてる」というガリレオの言葉を引用しましたけれども、それを数学という言葉で表現する。宇宙の現象を、そういうふうに一組の数学の言葉で表現することを、「モデルを作る」というふうに、科学者は言います。まあだから宇宙そのものではなくて、人間が理解できるようなモデルをまず作るというわけなんですね。そのモデルというのが、どうもその今先生がおっしゃった映像という、宇宙を見た時にね、自分の心に映る映像というものに近いような感じは受けますけれどね。
 
横山:  映像とですね、言葉ね。ただ私は言葉というのが、まぁ唯識では全部言葉が全存在をつくり出しているということですけど。まあ先ほどのね、あのガリレオ・ガリレイの「宇宙は数学で書かれている」というね。あれ読んで僕はね劇的に驚きましたね。
 
大栗:  あのそもそもどうして数学というものが、この近代物理でこれだけ重要になってきたかというとですね、四百年前にガリレオが近代科学の扉を開いてからですね、私たちはですね非常にミクロな、原子の中の更に小さな世界からですね、銀河を超えた大きな宇宙の広がり、果ては宇宙の始まりのような、僕らの経験を超えた世界のことまで、科学で理解できるようになったわけです。そうすると、こういう日常的な日本語とか英語とかの言語では表現しきれない部分があるんですよね。そこで登場したのが数学という人工的な言語。人工言語―まぁエスペラントみたいなものです。
 
横山:  数学が言葉ね。
 
大栗:  数学が言葉なんです。だからガリレオも「宇宙は数学の言葉で書かれている」というのは、そういうことなんですね。ただですね、じゃあその本当に宇宙の本質は数学と言っていいかと。そこまで僕は言い切る自信はないんですね。というのは、なぜかというとですね、二つ理由がありまして、一つは、私たちの科学者の宇宙の理解、自然の理解というのは、あくまで近似。それ自身を理解できるわけではなくて、それに似せたものを理解するということなんですよね。それはなぜかというと、例えば太陽の動きなんかを観察してですね、毎日朝何時に太陽が出てくると。これはだから明日も太陽が出るだろうと思っていると、なんか十年後に日食があったりするわけですよね。ですから何度何度観測したり実験したりしても、百パーセントの真実にはならないかもしれないですよね。ですからそういうふうに、科学者というのは自然を見てですね、それをできるだけ説明できるような仮説を作って、それを確かめていくんですが、百パーセントの真理に達することはないと。それが一つですね。それからもう一つはですね、人間の脳に本当にその、だからそういう宇宙の本当の真実が理解できるだろうかと。あの例えば僕の家にですね、テリアって犬飼ってるんですけれども、僕のうちの犬は冷蔵庫の中に食べ物があるということは知っているんですよね。でもその冷蔵庫がどうして冷たくなるかというのは、僕の犬に聞いても説明できないですよね。ですからそれはだから彼女には、それは限界なんですね。それと同じように、人間の脳にもですね、なんかここまでより先は理解できないようなところというのはあるかもしれない。ですからそういうわけで自然の真実はこれだって言っちゃうことは、科学者にはできない。
 
横山:  真実、真理とか、そういう言葉が割合使いますけどね。その前に立つ真実と、なりきる真実ね。
 
大栗:  はぁ…。
 
横山:  「なりきる」って、言葉はあんまりお使いになったことないと思いますがね。結局ヨーガとか坐禅とかは、なりきって対象と、対象を認識し、つかむわけですよね。例えばキリスト教なんかの場合は、神というものが真理で、その前に立つわけですよ。仏教の場合は、「成仏」といって仏になることね。
 
大栗:  真理というものが、何かその自分がそれを理解しようとする対象ではなくて、ということですか?
 
横山:  なりきっていくというね。これが、例えばなりきると、この世は一切夢だと。もう本当にこれは幻想であって、もう虚像であると。夢なんだよ。だから夢から覚めた人間がブッダなんですよね。だから覚めたというわけ。
 
大栗:  本当の真理を理解したということですか?
 
横山:  そうそうそう。やっぱり大栗さんたちが求めているのは、その前に立つ真実ってやっぱり対象としてあるわけですよね。
 
大栗:  それはそうですね。何かそういうものが、自然というものがあって、その仕組みというものがあって、それを理解しようと。
 
横山:  そうそう。だけど仏教の場合は、なりきっていくとね。だから全然追い求める真理、真実が別なんだ。
 
大栗:  その科学の、現在のそういう僕らの理解のしかたというのは、より確かな事実を理解したいという希望があったんだと思うんですよね。それは今先生がおっしゃったように、あくまでそういう仮説を立て、しかも実験検証して確かめていく対象があってということだと思うんですよね。それでそのなりきるということが、じゃあどういう形で真実に迫れるかというのは、ちょっと私には理解できてないんですけれども。しかもそれがですね、それがそういうふうにして真実に至ったということを、どうやって確信するかということはどうですか? 例えばブッダが、今先生はですね、真実に到達されたとおっしゃったわけですけども、それは先生はどうしてそれは真実に到達されたと思っていらっしゃるんですか?
 
横山:  それね、私、四十なんぼの時にですね、インドの菩提樹の下に、釈尊が悟ったことを記念してですね、アショカ王が大きな記念碑をそこに置いたんですね。そこへ四十なんぼの時に行った時にもう感動してね、涙ながらにそこに額をつけて参拝したわけね。ここにこのここにこの釈尊が悟られたという、それが原動力でそれにみんながついてきたんですね。そういう意味で本物なんですよ。
 
大栗:  ああ…なるほどね。なんか僕らは科学者というのはどうしてもそういうの懐疑的になりがちですね。確かに先生がそこでそういう経験をされたというのは非常に貴重なことだと思いますし、それからそれを信じている人がたくさんあって、そういうものをサポートする組織があるというのも、そういうのを見るとなんかこれだけの人が信じてるんだから正しいだろうって思うこともあるかもしれないですけれども、本当にその釈迦のおっしゃったことが真実であるということは何で担保されているんだろうなんて、科学者である私は思ったりするんです。
 
横山:  正しい教えというふうな意味の正しさについて言うならばね、その教えを実践して本当にこの苦しみから楽になる世界ですね。迷いから悟りに至ることになれば、これはあなたの言った検証…それが検証されれば、それが正しい教えになるわけですよ。
 
大栗:  ああなるほど。だから検証するしかたが…手続きが違うんですね。
 
横山:  違うわけですね。
 
大栗:  すなわち科学者の場合には、こう何か予言があってですね、でそれを実験や観測で検証していくわけですけども、その仏教の教えの場合には正しさの検証というのはそれでどれだけ多くの人が救われたかと。そういうことが検証ですか?
 
横山:  うん。だけど自然科学はいろんな人の共通な検証があるわけだけど、やっぱり仏教的なことから言うならば、個人によって違ってきますからね。
 
大栗:  だから救われたかどうかというのは、その人の心の問題ですよね。
 
横山:  そこだからね。
 
横山:  何をして、だから救われたと言うかということですよね。
 
横山:  そうそう。これはやっぱり精神的な意味の出来事だからね、人によって違うわけですよ。
 
大栗:  ですからね、そうすると、例えば先生が唯識とおっしゃって、これはだから科学者ではどうお考えになるかとおっしゃいましたけれども、私の科学者としての見解ということでは、やはり心の外にも世界があると思った方がより多くの予言ができる仮定であるということを、先ほど申したんですけれども。しかしですね例えばより多くの人を救うという見地に立つとですね、唯識というのはそういうふうに考えることで、これまでの悩みから解消されると。そういう面はあると。でそういう意味で正しいというふうにおっしゃっていると。ですから何というか正しさとは何であるかということが、やはり仏教の考え方と科学の考え方で違うということですね。
 
横山:  それがはっきりしましたね。まあ唯識は一切が言葉ね。簡単に言うと、言葉が作り上げているというね。例えば私いつも言うんですが、このコップをね、例えば講義とか講演を聴いてる人に、「このコップはあるんですか?」って言ったらね、「ある」と言うわけですよ。あなたが「ある」と言うから、あるんじゃないかっていうわけだ。それである日どっかから言葉が出てきたんじゃなくて、人間の中でこれももちろん唯識で言うなら、阿頼耶識の中にある根源的なアレから、「ある」という言葉が出るわけですよ。「ある」と言うからあるんだ。「ない」と言うからないんだとね。だから全部言葉が作り出してるという。それで一番根源的な言葉は、「有」と「無」なんですよ。だから「ある」ということが一番言葉の根っこにあるわけです。それから逆に「ない」というのも、なくなっていくわけね。で唯識は「存在する」とは一体何であるかっていう、その根源的な問いかけを問うてるんですが、そういうことは…。
 
大栗:  科学では、だから物自身が何であるかと。存在とは何であるかという問いには、答えること多分できないと思うんですよね。科学が答えることができるのは、物自身ではなくて、物と物との関係なんですよね。例えば点というものがあって、線があるというふうに、定義して話を進めていくわけですけれども、その点とか線というのはただ単に物の名前なんですよ。重要なのは、その点とか線とかの間にどういう関係があるかということなんですね。その関係から世界が現れてくると。ですから例えば先生のご本にも、「自分」とは言葉の響きがあるだけである、ということを書かれているんですけども、例えば科学では恐らく「自分とは何か」という問いにも答えられないんですね。それはなぜかっていうと、「自分」というのを分析していくと、やはりそれは何か物があるわけではなくってですね、まあ脳細胞があるわけですけれども、脳細胞の間の関係として「自分」という現象が現れてきているんだと思うんですよね。ですからそういう意味では、それ自身、物自身というものについては、「ある」「ない」という問いは科学的には立てられない。
 
横山:  もう全てが関係性をしていると。
 
大栗:  そうなんです。
 
横山:  それに対して、仏教では、「縁起」という言葉ご存じだろうけどね。
 
大栗:  縁起というのは、だから物と物との関係ということ。
 
横山:  関係なんです。釈尊自身から始まった仏教、ないしは唯識はね、全部関係で捉えていくわけ。だから縁起のゆえに一切が、一切の存在は縁起によって生じてきているというね。
 
大栗:  今こう脳から心が起こりますよね。そういうふうに考えてますよね。
 
横山:  脳から出た心が、脳を問うわけだ。「お前よ一体何者か」ってね。考えるわけだ。
 
大栗:  自分自身が何かを問うわけですね。
 
横山:  うん。だから脳から出たとする心がね…だからいつも脳、脳、脳と出てきますがね。逆に心が脳を作っているというふうな考え方を…。それに対してどうお考えでしょうか。
 
大栗:  どういうふうにお答えしていいかよく分からないんですけど、この脳というものが思考をつかさどっていて、それがこの世界を理解しようとしているわけですよね。そもそも人間の脳っていうのは、進化の過程で、人間がこの世界によりよく適応するために発達してきたものなのだと思うんですよね。でよりよく適応するためにはどうしたらいいかっていうと、それは世界のことをよく把握してそこの中で一番生存しやすいように判断しようと。だから脳の進化的な目的っていうのは、この世界のありようをより正確に理解しようということだったんだと思うんですよね。そうすると、例えば脳の中でどうも自分というものが現象的にはあって、自分というものがあるように感じると。自己というものがあるように感じると。そういう現象自身は何であろうかというのを、脳が問うということはあるわけですよね。
 
横山:  それはね言葉が問うんじゃないんですか。
 
大栗:  いやもちろんね。でもその問うているわけですよね。私たちの思考っていうのは言葉で思考しているわけですから、私が「自分は何であろう」と問うというのは、言葉で問うている。もちろんそのとおりですよね。でもそういう言葉を表現できるということは、そういう思考がその背後にあるということだと思うんですよね。
 
横山:  脳が言葉を作り出したと言われている。
 
大栗:  そうですね。ええ。
 
横山:  「自分」という言葉が指し示すものは一体何かと。簡単に言うとね、「自分」ってあるかどうかは科学で証明できないと言われましたけど、私はもう単純に「自分!自分!」と。それでこう手を見て、「誰の手ですか?」「自分の手だ」とね。それで「手」という名詞は、見えるけど「自分」という言葉ね、これに対応するものをこうやって目を開けてもいいし、目をつぶってもいいから、その言葉そのものが指し示すものを探してみろって言うんですよ、みんなにね。そしたらもう誰も見つからないわけだ。
 
大栗:  でもそういう意味では、手もないかもしれないですよね。というのは手っていうのも、これは手の中の分子がこういうふうに結び付き合っているわけで、それをどんどん分析していくと、ただ単に原子がこういう形に関係し合ってここに存在してるわけですから、分析していくと、手自身はなくなってしまうわけですよね。そういう理解のしかたの時に一番難しいのは、その個々の要素からどういうふうにして、こういう手というこの一つの機能を持ったものが、一体として動くものが現れてくるか…。科学では「創発(そうはつ)」という言葉を。「創造」の「創」と、「発生」の「発」と創発と。そういうふうに個々の原子みたいなものから出来ているものが、関係し合い相互作用し合って、手という一つの機能を持った実体が出てくるというのは、これ創発という現象なんですね。でもそれをよくよく見てみると、その手というものはそれは一個としてあるものではなくって、その原子たちの集まりとしてしか存在してないものですよね。ですから「自分」というのも、それと同じものの意味でないという。つまり脳の中に個々に分けていくと、結局脳の脳細胞とかニューロンの間の相互作用で、そういう情報処理が行われてる。それをまあ世界モデルとして「自分」というふうに考えているわけだと思うんですけれども。
 
横山:  あの変なことを聞きますが、素粒子論とかね、それから宇宙論をやっても、人間の苦しみとか悩みはなくなりませんよね。
 
大栗:  それはもちろんなくならないですよね。
 
横山:  そこが全く方向性が違うわけだ。
 
大栗:  科学の目指すものというのは、私たちの住んでいるこの世界の仕組みを理解しようというのが、科学の目指すことなんですけれども、唯識の目指すものというのは、むしろこの世界の自分がたまたま生まれてきてしまったこの世界がどんなものであるかというよりは、その中の私自身の心の働きがどういうものであるかと。そういう理解したい方向が違うということ…。
 
横山:  やっぱり苦しみなんですよ。なぜ苦しみが起こるかと言ったらね、全部自分が主体的に真ん中にあるわけだ。自分の身体、自分の家庭、自分の国、自分の会社、自分ってね。全部自分なんですよ。その苦しみをどうやってなくしていくかというところが、まあ唯識の目的だけどね。やっぱり自然科学…科学っていうのは、やっぱりどんどんどんどんそれを分析していって、苦しみということには全く関与しませんね。
 
大栗:  そうですね。その自然のことを理解するということと、それから自分自身の心の中にある苦しみを解くということは全く違う問題ですよね。
 
横山:  違うわけだね。宇宙とか素粒子、量子力学とか何かやってたら、人間は生きる意味がないと…ないんですか? 生きる意味を…その研究から「人間が生きる意味が分かった」っていうことは全くないわけね。
 
大栗:  ないと思いますね。
 
横山:  そこなんだよ。
 
大栗:  だから科学ですから、全く…絶対ないとか絶対あるとか言えないんですけれども、科学から恐らく生きる意味とか、目的というのは説明できないだろうと思いますね。まあ有名な物理学者でスティーヴン・ワインバーグっていうノーベル賞をとった人がいるんですけど、その彼が宇宙論に関して、一般の人向けに本を書いてるんですけども、『宇宙創成はじめの三分間』っていう本ですけれども、そこの中で、
「宇宙のことがわかるにつれて、そこには意味がないように思えてくる」
 
っていう言葉があるんですね。でその私たちっていうのも、宇宙の中でたまたま生まれた太陽という、星のまわりをたまたま回っていた地球の上に、進化の偶然で生まれてきたもので、そこにはあらかじめ目的というものは与えられていないと。そういうのがワインバーグの考え方で、それは多くの科学者が共有する考え方だろうと思うんですね。一神教の場合には、神様からあらかじめ与えられた人生の目的っていうのがあるわけですけれども、近代科学の発展によって、そういうものはあらかじめ人間には与えられてないんではないかということになる。じゃあ生きる意味はどういう…生きる意味とは何かっていうことですね、みんなが思い悩むようになったんだと思うんです。
 
横山:  大栗先生は、そういう科学者としてではなくて、人間として生きている…人間として、何が幸福か?
 
大栗:  ですからそういう意味ではね、意味とか幸福というのは、恐らく人間にあらかじめ与えられたものではないだろうと。
 
横山:  与えられたものじゃないとしても、人間は生きてるわけだ。自分で創造していくね。
 
大栗:  そう。だから自分でそういうものを見つけていかなきゃいけないわけですよね。
 
横山:  先生自身は。
 
大栗:  それはだから一つはですね、いろんなここに…この世界にあるものというのは機能が与えられているわけですよね。でそのものっていうのは、その機能を発揮してる時が一番幸せなんだろうなというふうに思うんですよね。例えば僕のうちで先ほども言いましたようにテリア飼ってるんですけど、テリアっていうのはもともと狩猟犬だったので、例えば家にいておとなしくしてるよりも、野原に連れて行ってリスとか小鳥を―うちのテリアは全然不器用で捕まえられないんですけども―追いかけてる時の方が幸せそうなわけですね。だからそういうふうに、あらかじめ持っている機能を発揮する時が一番幸せなんだろうと思うんですよ。じゃあその人間の幸福は何かといったら、一つはですねそうしたら人間の本来持ってる機能というものが、何であるかということだと思うんですよね。僕は人間の脳っていうのは、この世界の仕組みをよりよく理解して…この世界の成り立ちを理解することを目的に出来てきたものだと思っているんですね。で僕はたまたま自然界の基本法則ということに興味があったので物理学を選んでですね、素粒子論というものを研究して、今こういう宇宙を研究する研究所でお手伝いしてるわけですけども。でもまあ世界を理解するというのは、いろんな在り方があるわけですよね。例えば家族と一緒に住んでる時にですね、子どもの気持ちが分かるとか、親の気持ちが分かる。それから結婚してる時に、相手のことを愛しく思うっていうのもですね、それが幸福だと思うのは、相手の心っていうものが、自分にも共有できてですね、この家族という成り立ちがより親密に自分に分かってくるっていうことだと思うんですよね。ですからそれはまあ一つ幸福。でも先ほども申しましたように、普遍的な意味はない…どうしてもないので、それはそれが幸福だと思うということ、意味があると思うってことは、自分で引き受けなきゃいけないことだと思うんですけどね。
 
横山:  先生は、「幸福とは何か」に対して「普遍的な答えはない」とね。これものすごく私反対するんですよ。
 
大栗:  ああじゃあお願いします。
 
横山:  普遍的な答えがあるんだと。
 
大栗:  じゃあどういう答えですか?
 
横山:  普遍的な幸福を実現してるそういう人々の中に入っていくと感じるわけだ。それは、例えば人のために生きるっていう。みんな人のために生きてるんですよ。そのねそこにいると、もう温かく感じるし、ものすごい幸せを…こちらも幸せ感じるし、みんなすばらしいお顔をしているわけね。だから要は人のために生きるっていうね。それが簡単に言うと、それが人間にとっての一番の幸せじゃないかなっていうんですよ。ただ私はこの定義が一番好き。その機能が発揮できることが幸せであるとね。これちょっと専門的な言葉ですが、「全機(ぜんき)」って言葉があるわけね。全体の働き…「機」というのは「機械」の「機」。これは道元禅師の『正法眼蔵』の中にあるんですが、だから全部生きとし生ける生き物が対象になってね。それがあなたが言ったみたいに、その機能を発揮できるようなことがあればいいと思っててね。
 
大栗:  そういうことですね。
 

 
草柳:  大栗先生と話をされていかがでしたですか?
 
横山:  やっぱり心の外に物を認める科学者と、唯識は認めないですね…私とはね、食い違うところが非常に多かったんです。もちろん追究していくというこの姿勢は同じですよね。だけど追究していく対象が違うわけだ。唯識の場合は、自分の内面を観察するわけだけど、科学というのは、心の外にある物・現象…そういうものを追究していく。ただ最後のところで、非常に一致したのはね、幸福とは一体何であるかっていうことなんですよ。で大栗先生は、「その存在そのものが持つ機能を全面的に発揮してる時が…これが幸せである」とね。大栗先生は言われなかったけど、自分自身がこういう研究して、どんどんどんどんいい成果を出して生きてるという生き方が、大栗先生、幸せだなというふうに僕は想像したわけですけどね。その己が持つ、そのものが持つ機能を全面的に発揮するっていうのを、仏教では「全機」と。全くの…完全な機というのはね、「機械」の「機」ね。完全な機、完全な働きというふうにね。そういう言葉があるんですよね。自然というものはもう全機なんです。「全くの働き」をいつも出してるわけだ。春になれば桜が咲くし、秋になれば菊が咲くしね。みんなみんな全ての働きを全面的に出してるわけだ。そこで一番人間が大切なことは、自然を眺めることであるということになっていくわけですよね。私のことで申し訳ないけど、家の前にすごい丘陵が、川が流れてまして、いろんな鳥が飛んでんですよ。私、暇見てね、じ?っとそれを眺めているわけ。「ああすごいなあ」。最近アサガオを買ってきて、アサガオのツルがどんどんどんどん…長くなっていくわけだ。すごいなあと思ってね。大栗先生の対談を通して、いろいろな新しいことに気付かせて頂きました。どうもありがとうございました。
 
草柳:  今日はどうもありがとうございました
 
     これは、平成二十九年八月二十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである