唯識に生きるEいのちの時代≠フ到来
 
                    立教大学名誉教授 横 山(よこやま)  紘 一(こういつ)
                    き き て    草 柳  隆 三
 
ナレーター:  四世紀から五世紀のインドで、無著と世親という兄弟によって打ち立てられ、仏教の根本思想とも言われる「唯識」。小説「西遊記」の主人公として知られる玄奘三蔵(げんじようさんぞう)法師が中国に持ち帰り、日本には飛鳥・奈良時代に伝わりました。「唯識」では、瑜伽行(ゆがぎよう)―修行としてのヨーガを実践します。坐禅もその一つ。瞑想を行い、自己の奥深くにある心のメカニズムを観察・分析します。最終回のテーマは「いのちの時代≠フ到来」。動物と触れ合うことで「根源的いのち」の存在に気づく。「唯識」の考え方を応用して、子どもたちの心を育む取り組みを紹介します。更に今回は、横山紘一さんが禅宗の老師を訪ねます。私たちの「いのち」は「生かされてある」。禅の修行によって見えてきた「いのち」のありようについて話を伺います。
 

 
草柳:  「こころの時代」では、毎月一回「唯識に生きる」と題して、日本の仏教の根本思想とも言われる「唯識」について六回のシリーズでお伝えしています。今回は六回目、最終回になるわけですが、お話はいつものように立教大学名誉教授の横山紘一さんです。よろしくどうぞお願い致します。
 
横山:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  いよいよ最終回になりました。
横山:  はい。なりましたですね。
 
草柳:  前回のおさらいから今日もまた入っていきたいんですが、五回目は「唯識の科学性」ということでお話を頂きましたですね。
 
横山:  ええ。私としては、科学というものが存在全体を観察分析していく態度なんですが、仏教は心の中の存在を全部に五つのグループに分けて、それを百種類に分析していく「五位百法(ごいひやつぽう)」というね。そういう意味で非常に仏教も科学的な―「唯識」も科学性を持っているということをお話しいたしました。
 
草柳:  その前回のお話の中では、分析観察だけではなくて、次に「縁起」という話がございましたですね。
 
横山:  そうですね。因果性というものを非常に重要視するというので、「因縁正起(いんねんしようき)」といいますが、専門的にはね。そういう面でも非常に科学的な面があると。ただやっぱり物と物との因果性じゃなくて、心の因果性ということで、ひと言で言うならば「阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)」という、これを「唯識」が強調していくという点でですね…。
 
草柳:  「阿頼耶識縁起」。
 
横山:  ええ。表層心と深層心が相互に因果関係にあるという「阿頼耶識縁起」ということをお話ししましたですよね。
 
草柳:  さて最終回のテーマは、横山さん「いのちの時代の到来」ということなんですが、実はこの「いのち」はですね、漢字の「生命」「命」ではないんですね。平仮名の「いのち」。
 
横山:  ええ。漢字の「生命」と、平仮名の「いのち」の違いというのを、私の体験を言わせてもらいたいと思いますが、私は学生時代、水産学科に進みましてですね、魚の血の研究をしてたんですが。
 
草柳:  魚の血の研究。
 
横山:  魚の血の研究です。それは人間が癌になると増える「ハプトグロビン」っていう、ヘモグロビンの一種があるんですがね、それが魚の中にあるかどうかということで実験と研究をし始めたんですが、なんと二十種類の魚の中に全部ハプトグロビンというのがあるんですね。それを発見して、私自身生命は同じだということを、実験的に対象的にそれを確認することができたんです。
 
草柳:  生命はみんな同じだっていうことですか。
 
横山:  そうですね。ほんとに小さなフナの血を実験台でこう切って、その一滴を実験装置にかけてしても、それが出てくるんですよね。しかしだんだんだんだん研究が進んでいくうちに、そういった研究対象というか、分析された生命というものを、そういうものを研究していくことに自分自身疑問を感じてくるわけですね。そういう生命…漢字で書く「生命」というよりも、それを観察追求しているこの己の生命―それを私は平仮名で「いのち」というふうに表現したんですが、この「いのち」を人間であるかぎり、一生これ一体何かっていうものを追求していこうという気持ちがどんどんどんどん強まって、大学院のある時に水産をやめたわけであります。
 
草柳:  一体それは自分の生命、自分の「いのち」というのは何なのかというところに関心が向いてったわけですか?
 
横山:  はい。
 
草柳:  それで自然科学から仏教「唯識」の世界に入っていかれたと。
 
横山:  そうですね。そういう過程が私の中にありまして、「いのち」と平仮名で書いた意味がそこにあるわけです。
 
草柳:  その「いのち」をどう捉えるかっていうことで、この図を使って説明をして頂きたいんですが。
 
横山:  これを「観想縁起図(かんそうえんぎず)」というふうな名前で総括的に呼んでるんですが、仮名で書く「いのち」っていうのは、根源的には三十六億年前の「いのち」。地球上に発生した「いのち」ね。その「いのち」という意味なんです。その「いのち」が、「根源的ないのち」が、単細胞、多細胞とここにありますように、ホモサピエンス。それから流れ流れて両親に流れ込んできたわけですね。それが精子と卵子となって、合体によって誕生し、そのあと教育と環境によって、今真ん中にある一応「自分」という言葉で書いていますがね、そういうものが今あるということなんですね。しかしこれ全部自分じゃないんですよ。自分以外のものなんですね。縁というのは、自分以外の他の力によって、ここにあるこの己というものが起こっている、生じている、存在しているんだという、こういう図なんです。それで横の方が、宇宙の果てがあって、無数の星雲があり、銀河系があり、地球があり、大地があり、そして今ここに存在しているんだ、ということですね。右の方は、これを私の「身心(しんじん)」というか、まあ「肉体」と言った方がいいか分かりませんが、神経・筋肉・骨・臓器があって、総じて六十兆の細胞があって、今この己が存在しているという。そういうことで、もうここに出ている全部ね、他の力によって「生かされてある」という、かけがえのない「いのち」というものを、全ての生命が持っているというね。全ての生命が持ってるっていうところがポイントなんです。例えば私は今朝掃除をするわけです。庭の掃除をしますと、アリがず?っとこう地面をはってるわけです。それをこうやって、アリはゴミ箱の中にポッと入ってしまうわけね。それをそのままどこかゴミ捨ての所に持っていくと、そのアリは自分の住みかまで帰れなくなってしまうわけです。このアリ一匹一匹が私にとって、もうほんとにさっき言ったかけがえのないというか、私にとってはかわいいね、かわいいね、そういう「いのち」なんですね。今アリを出しましたけど、全部ですよ。もう鳥でも何でもかんでも、全ての生命が全部「根源的ないのち」として全部同じなんだと。すなわち「いのち」あるものは仲間なんだというね。今私は、生命って動物とかそういうことを言いましたけど、植物もやっぱり「いのち」の存在ですから。
 
草柳:  つまりもうありとあらゆるものなんですね。
 
横山:  ありとあらゆるそういうものが自分と同じなんだという、そういう「気づき」を人間は持つべきではないか。
 
草柳:  その「いのち」というのは、「根源的ないのち」という言葉で。
 
横山:  …が全部流れ込んできたという。
 
草柳:  が流れ込んでいるっていうふうに言われましたですね。
 
横山:  「根源的ないのち」が、一人一人の深層心理である「阿頼耶識」の中に流れ込んでいるという、そういう表現が一番いいんじゃないかと思うんです。
 
横山:  この図は「阿頼耶識」というものが、まあ別名「一切種子識」と。全ての存在を、心の中に生じる存在全てを生じていく可能力を有した、そういう根源的な心であるということで、「阿頼耶識」これ「一切種子識」といいます。その「一切種子」の種子として、二つあって「倶生起(くしようき)の種子」と、それから「分別起(ふんべつき)の種子」とね。「倶正起の種子」が先天的種子であり、「分別起の種子」が後天的な種子であると、こういうふうに二つ分けることができます。
 
草柳:  では先天的な種子というのは何なんですか?
 
横山:  これは人間はですね、持って生まれて生じるある力を持っていると。それは究極的に言うならば、仏になるそういう可能力を持っているということです。そういう力をみんな共通的に持っているという、そういう考えなんです、これは。
 
草柳:  つまり「悟る力」と言ってもいいんですか?
 
横山:  そうですね。
 
草柳:  一方、後天的な種子の方は?
 
横山:  生まれてからこの方ね、いろいろ心の中で「分別」―あれを考え、これを考えですね、そういう心の状態によって植え付けられた種。種子という。
 
草柳:  そうすると、この後天的な種子にいかにして働きかけをすることが大事なのかということをおっしゃってるわけなんですけれども。
 
横山:  働きかけをするポイントは―その人間的営みは教育なんですね。後天的な種子というのは、やっぱり良い種子と悪い種子がありますよね。だけどやっぱり良い種子を成長発展させる。良い種子を植え付けて熏習(くんじゆう)するというんですかね、そのためにはやっぱり教育というものが非常に重要になってくるわけですね。それで私がずっとやってます「唯識ライブ」の中で、「唯識」の教理を応用して、子どもたちに教育をしてる仲間がおりますから。
 
草柳:  その様子を取材をしてまいりましたのでご覧下さい。
 

 
ナレーター:  月に一度「唯識」をテーマに、横山さんが開いている市民講座「唯識ライブ」。
 
横山:  私が一番好きな言葉は、「いいかげんに生きていこうではないか」とね。
子どもっていいかげんに生きてるんですか? ちょっと話を聞かせてください(佐藤由明(さとうよしあき)にマイクを渡す)。
佐藤:   まあいいかげんに生きてます。いいかげんですし、いいかげんに瞬間瞬間こう生きてますね。
 
ナレーター:  スタッフの一人、佐藤由明(さとうよしあき)さんは心理カウンセラーです。
 
佐藤:   心理学の考え方でも、「大人は萎縮した子どもである」っていう考え方があるんですね。生まれた時の、生まれた瞬間の子どもは、齢重ねるごとに人の目が気になる。「分別」が出てくる中で、こうしなくちゃいけないとか、こうすべきだってものを身につけていくんですね。それを取っ払っていくかどうかが、僕にとっては深層からの健康でもあると思うんですが。
 

 
ナレーター:  佐藤さんは、毎月一回、放課後に小学生のための自然教室を開いています。「馬学(うまな)び」と名付けた子どもたちと馬との触れ合い。動物も同じ「いのち」を持つ仲間だということを実感してもらう試みです。
 

 
子ども: かわいい。
 
佐藤:  かわいい? 耳つけると何か聞こえる?
 
子ども: あんまり聞こえない。足が震えてる。
 
ナレーター:  子どもたちは、ただ馬に触るだけでなく、餌をあげたり、小屋の掃除をしたり、馬の世話をします。
 
佐藤:  こうやって馬房掃除する。ウンコ取って馬房掃除するというのが、彼らも見てますからね。それこそありがとうっていう状態が、これからまた生まれますし、そういう「いのち」の交流つながりを積み重ねて、しっかりやっていくことで、彼らと馬とが当然こう生物の種類は違えど、同じ「いのち」としての交流をどんどんこれからしていけるんで。
 
ナレーター:  この日、子どもたちは初めて馬の体を洗いました。
 
子ども: 君の気持ちのいいとこ 洗ってあげる。う?わすごい首。うわっなんじゃこれ…。
 
ナレーター:  どうしたら馬は喜んでくれるのか。子どもたちは、自然と馬の気持ちを想像して洗っていました。
 
佐藤:  自然とこう何の偏見もなく一緒に遊んでる、一緒に水浴びてると思うんですけど、もうこれが何よりいい状態ですね。馬は馬で子どもたちを信じてくれてる。何にも怖がってないし、一緒だね、ってなってる。触ってるとどういう気持ちになる?
 
子ども: ハート!気持ちいい。
 
佐藤:  気持ちいいな。
子ども: サラサラしてて、かわいくて、気持ちいいから馬も好きになっていくと、もっとやりたいなって思う。
 
佐藤:  もっとやりたいなと思った。
 

 
佐藤:  自分より大きい「いのち」であり、蹴られたら死ぬかもしれないっていう状況なんですけど、だからこそ言葉を超えて感じ合える何かがあって。そこをこう感じてもらいたくてやってます。
 

 
ナレーター:  次に子どもたちがチャレンジするのは散歩です。一見簡単そうに見えますが、馬はなかなか思うとおりに歩いてくれません。
 
佐藤:  一人が一頭で引いていくって、なかなか実は大変なことで、道草を食べるわ、自分の思うとこに行こうとするのを、どんだけ自分で伝える。「もう行こうよ、歩くよ」っていうのを伝えると、ちゃんと並走して歩いてくれる。なんで、それはまさに信用し合ってる。言葉以上の何かが伝わって、「あっ伝わってる」っていう感覚がもっと深いところで、つながる感覚が持てる。
 

 
ナレーター:  馬との触れ合いを通して、全ての生き物が持つ「根源的いのち」に触れること。こうした体験は、今後子どもたちが人間関係を築いていくうえで大きな助けになると、佐藤さんは考えています。
 

 
佐藤:  今の時代、あまりにも情報をお互いに持ちすぎていて、相手をちゃんとそのまま感じたとおりで関係するのがなかなかできにくくなってます。人対人の情報がどうこう…邪魔ですっていう中で、もっともっと根本的に共通してるところまで降りてこうとすると、こう「いのち」っていう状態―「根源的ないのち」にどこまで触れられるか。でその「根源的ないのち」に触れて、同じだよねって。根底で同じものがあるね。そのうえで性格だったり、着ているものやなんだって違いがあってという、そこの根本のところを信じる…強く信じられると、相手のことを受け入れるとか、あるいは違いを認めるというのが深いところでできるんですね。これは「唯識」で言うところの行き着きたいゴール。無我になるというか、我を無くして、全体とつながろうっていうところは、「唯識」の教えにしてもそうだし、僕らが馬と触れ合って、「ああ根源的いのち≠セ。つながった」っていう、この感覚がある意味同じことだと思うんですね。
 

 
横山:  本当に子どもたちの「いのち」と馬の「いのち」が、もう共鳴し合っているというですね。子どもは特に大人よりも純粋で、ストレートですからね。言葉を介さないコミュニケーションというのができるんですね。この子どもたちは、大きな普遍的な「いのち」を感じ取って、その領域で馬と触れ合っているということができるんではないでしょうかね。馬との触れ合いによって、大きな大きなことを学んでいるということができますですね。
 
草柳:  改めて横山さんの教育に対するお考えをお聞かせ頂きたいんですけれども。
 
横山:  最近は「個性を伸ばせ、個性を伸ばせ」というね、そういう教育がうたわれていますけれども、私は個性を伸ばす前に、個性が伸びる素地というものを養成する必要があるのではないかと思っています。例えば植物を育てる場合ですね、それを育てる土壌というものが必要なんですが、土壌に肥料がないと…この左の方にね。個性だけだとこういうふうにしぼんでしまう。しかし土壌に、「共性」という肥料を与えることによって、土壌がしっかりしたものになり、こういうふうに元気な花が、植物が生ずるというね。これはまあ例えですけれども。私の教育論としては、個性を伸ばす前に素地を養成する必要があるということが一個ですね。「共性」という肥料でもって、その土壌をしっかりしたものにするというね。この「共性」というのは、全ての人が共通して持っている。または持つべき普遍的な心のありようと。個性に対応して、「共性」というものが非常に重要ではないかということを強調してるわけです。
 
草柳:  つまり個性と「共性」という二つのものが相まって、いい「いのち」をつくり出していくということですか?
 
横山:  そうですね。
 
草柳:  ではじゃあ「共性」とは、具体的にどういうことなのかということをまたこの図で。
 
横山:  「共性」とは、結論からいうと「智慧」と「慈悲」というこの二つということができようと思いますがね。「智慧」というのは、「事実を事実としてしる智」。「慈悲」は「人びとを慈しむ心、愛の心である」ということができますですよね。
 
草柳:  「智慧」というのは、「事実を事実としてしる智」とおっしゃいましたですね。
 
横山:  ええ。
 
草柳:  その「事実」っていうのは?
 
横山:  全て我々は「生かされてある」という事実ですね。全ての縁によって、いろんな縁によって「生かされてある」という事実を知ることなんですね。それからもう一個は、「他者との関係の中で生きているという、そういう事実に気づく」ことね。まあ「智慧」というのは、最終的には仏陀の悟りです。「無上正覚(むじようしようかく)」ということになりますがね。まあそこまでいかなくて、我々が生きる中で、そういう事実に気づくというね。
 
草柳:  つまりそういうかけがえのない「いのち」というものに気づく。そのことが大事なことなんだと。「気づき」が。
 
横山:  はい。「気づき」ですね。だから私、最近は、「気づきの仏教」という、そういう言葉を言ってるんですよ。
 
草柳:  その「智慧」と「慈悲」を育てていくためには、どうすればいいんですか?
 
横山:  結論として、菩薩として生きていけばいいわけです。菩薩というのは、下に書いてますように、「人間の二大尊厳性に生きる」人のことであって、人間の二大尊厳性というのは、「智慧」と「慈悲」なんですよね。それをまあこの図では、ローソクに火を付けた時に出る光と暖かさに例えてですね、光は「智慧」、それから暖かさが「慈悲」とね、そういうふうにここに絵を描いている。
 
草柳:  このローソクは何を表すんですか?
 
横山:  ローソクというのは、「自我執着心」に執ようにまとわれた人間の己の身心―身体と心ね―これを燃やし尽くしていけばいいわけです。
 
草柳:  このローソクに火を付けるには、どうすればいいわけですか?
 
横山:  そのローソクに火を付けるのが教育である、と言っていいと思います。教育なんですよね。
 
草柳:  さて今回は、横山さんが禅宗の寺を訪ねられましたですよね。
 
横山:  今教育ということが問題となりましたけど、禅宗のお寺で若い僧侶たちを広い意味で教育してるというね。
 
草柳:  相当厳しい修行をされる所だそうですね。
 
横山:  正眼寺(しようげんじ)というお寺ですが、昔から「鬼の正眼寺」と言われる、そういう厳しい禅の修行寺です。
 

 
ナレーター:  岐阜県美濃加茂市(みのかもし)にある禅寺。臨済宗妙心寺派の正眼寺。ひときわ厳しい修行道場として知られています。禅宗では、掃除や草取りなどの作務(さむ)をはじめ、生活の全てが修行です。ここでは数百年前と変わらぬ修行の日々が連綿と繰り返されています。住職で正眼僧堂師家の山川宗玄(やまかわそうげん)さん。二十四歳の時、禅の世界に飛び込み、以来四十年以上禅の道を探求し続けています。私たち全てが「生かされてある」。禅の修行を通して見えてくる「根源的いのち」について山川さんに伺います。
 

 
横山:  まず「生命」と「いのち」というですね、老師はこの漢字の「生命」と平仮名の「いのち」ね、どのように違いをお考えでしょうか?
 
山川:  我々というか、私自身も含めてですけど、修行をする者というのは、平仮名の方の「いのち」ですね。この世界に疑問を抱くというのか、探求をするために道場で修行をするというのが根本だと思いますね。ですから禅の世界では、「本来の面目」とかですね、「清浄の法身」とか「仏身」とかっていうような言葉がありますが、それは全て平仮名の「いのち」ということに集約されると思うんです。ですから、表面的に見えるというか、「生死(しようじ)」という言葉でひっくるめて言うところの「命」というものと、大きな「いのち」平仮名の「いのち」というのは明らかに違うわけでして、平仮名の「いのち」のために、我々はここに来ていると言っても過言ではないですね。
 
横山:  今、「大きないのち」ということを言われましたけど、「小さないのち」もあるんですか?
 
山川:   それは、お釈迦様が悟りを開かれた時にですね、「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしつかいじようぶつ)」とこう言われた。それは石にも木にもですね、もちろん小動物にも皆それぞれ「いのち」があるということですよね。そういう「小さいいのち」を含めた「大いなるいのち」というんですか、その世界がお釈迦様がはっきり悟られたわけでして、そのために我々もあるわけですね、こういう道場が。
 
ナレーター:  正眼寺の境内にある石庭。ここに大小二本の松の木が生えています。実はこれらの松。人の手で植えられたものではありません。風に乗って運ばれてきた種が、ここで芽を出し、育っているのです。こちらの松は硬い岩の上に生えています。なぜ土もないのに根づくことができたのでしょうか。
 
山川:  もう十何年前なんですけども、偶然あそこの場所に行った時ですね、岩の上から僅か一センチか二センチ芽が出ている松を発見いたしまして…
 
横山:  そんなに小さい。
 
山川:  ええ。ただちに雲水―その時の、ここで修行してる雲水全てを呼びましてね、「これ見てくれ」と言って。で「これは取ってはならんぞ」と、もちろんですけど。そして「ここで触ってもいけない。見ることはかまわないけども。そして水もやってはいけない、肥料をやってもいけない」とこういうふうに言いました。以来、順調というわけではないんですが、十数年かけてあれだけ成長したんですけども。その裏側にもう一つ松が生えてますね。まだあれ私が見てから三、四年しか経ってないんですよ。なのにあれほど大きくなってますね。それは普通だと思いますよ。地面に落ちたものは地面に落ちたなりの育ち方をするわけですから。しかし岩の上に落ちた松はですね、簡単には芽を出せませんですよね。根も出せないですよね。なぜというに、そこには育つ環境がないですから。そのままどうしたかというと、ジーッとそこにいるだけです。するとしばらく…一年か二年たつと、そこにホコリが少したまりますよね。ホコリがたまったことで芽を出す条件がちょっと出来たということでしょう。ホコリがたまったことによって、それと自分の種―種子とで、そこで雨が降ったり、雪が降ったり、いろいろこうすると、そこに少しずつ、要するに土壌らしきものが出来ますよね。それを待って根を出し芽を出した。その芽を出したことによって、また環境が変わりますから、またホコリのため方が変わるわけですよ。それでホコリがまたたまるのを待って、また少し伸ばし、根を伸ばす。もう一つこれ重要なことですが、根を出したって下は岩ですからね、絶対にそのままでは、誰かがほじってやらなければ根が行きませんでしょう。ところが植物って不思議なことに、根の先から化学物質を出すんだそうですね。そのことによってその根の先端を溶かすんだそうです。
 
横山:  あっ溶かす…。
 
山川:  溶かして根の行く方向をつくっていくんだそうです。全ての植物がそういうふうな仕組みになってるらしいんですが。岩の所でそれをすると、普通の地面の何分の一か、場合によっては何十分の一の速度しかないですよね。それをもう無限―それこそ気の遠くなるような時間をかけて繰り返してるんだと思いますね。いつの間にか根の行く方向を少しずつ少しずつつくり出して、そしてそこにホコリがたまり、雨が降ってそれが養分となるのを待って、また少しずつ成長して、また根の先を穴を開けていくという、この繰り返しだと思います。そしてその分だけ上に少し成長していくという。これの結果が、今現在七十センチか八十センチになったあの松だと思いますね。
 
横山:  そういうこの松の成長のありようから、我々は何を学ぶべきかという。
 
山川:  それは簡単に言いますとね、「どこでも生きられる」ということのあらわれじゃないですか。
 
横山:  あぁ「どこでも生きられる」。
 
山川:  どれほど厳しい環境だろうが、場合によってはですね、どれほど今の現状で自分がどれほど苦しい…生活環境になっていても、このような松のありようを見れば生きていけるということを訴えてるんではないでしょうか、と思うんですね。それこそ「いのち」だと思いますね。
 
横山:  ほんとにそうですね。
 
山川:  もう一つ我々の世界で、いつもその松のことを人に説明するのにこういう言葉を使うのは、ちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、「現成受容(げんじようじゆよう)」という言葉がありましてね。それはもう今置かれてることを素直に受け取って、そしてどういうふうに生きていくか。生かされていくかということを知らないといけないというんですかね。どのような環境でも、それを素直に受け取ることができたならば、生きていけるんだと。だからあの種は、相当長い間ジーッとしてたんじゃないかと思うんですよ。受け入れるまでの時間ですね。
 
横山:  一つまとめると、どんな環境でも「いのち」は生きていくことができるというね。
 
山川:  …と思いますがね。
 
横山:  それは人間も…。
 
山川:  人間も一緒です、もちろんね。
 
横山:  今、僧堂の修行僧―若い僧侶の方もおられますが、広く現代社会を見て、老師は若者のやっぱり昔と違うとか、またこういうところが問題だということ何かお気づきの点があるでしょうか?
 
山川:  もう他人に関心がなくなっているというんでしょうか。そういう人が若者だけでなく、それの上の大人の世代も含めて、それを感じますね。生かされて今日我々あるはずなのに、生かされてるってことに対する認識がないって言いますか、生きてきたっていうだけの認識というんでしょうか。
 
横山:  私はまあいつもいつも言ってるんですが、人間としての「二大尊厳」ということで、「智慧」と「慈悲」ですね。「智慧」と「慈悲」という面を発揮して生きていこうじゃないか、ということを教育の中で、それを教えていくことが重要ではないかと思うんですね。私は最近気づくことが大切だと。「気づきの仏教」という、そういう言葉をつくったんですが。気づく「自覚する」というね。まあ難しく言えば、自覚ですが、気づくというね。
 
山川:  まことそのとおりだと思いますね。四威儀(しいぎ)(行,住,坐,臥の4種の起居動作)の世界も一つの修行で、この修行のシステムの中で、今まで学んできたこととか、体験してきたことが否定されて、そして自分自身がどうしていいか分からないというふうな指導のしかたをするわけです。そこから本当のものに出会うと。それを「気づき」と言ってもいいと思いますが、修行って実はそれなんですよ。「気づき」なんです。ここでしていることは、それこそ掃除を毎日したり、食事の準備をしたり、鐘をたたいたり、お勤めしたり、托鉢に出たり、坐禅したり、いろんなことをしてますが、その気づくための…まあはっきり言うと「行(ぎよう)」ですね。教育というのは、「教え育む」と書くわけですが、あれを私は違うように取りましてね、「育むことを教えるのが教育」だと思うんです。というふうに取って、それを主張しております。育む。本来育め成長できるんだという。そのことを教えていくのが教育だと思います。だから「気づき」というのは、「大丈夫だぞ。お前さんすばらしい存在なんだぞ」ということを気づけば、あとは大丈夫だ。問題ないんだということを、我々は主張したいんですよね。
 
横山:  今言った人間として生まれたことは、すばらしい存在であるという。それに気づけばいいわけですよね。
 
山川:  そうですね。
 
横山:  それをどういうふうな環境で、どういうふうな状況で気づかせるか。また気づいてもらうかということが、大きな問題だと思いますね。
 
山川:  そうですね。縁というのがありますよね、やはりね。言葉とか教育というシステムでもって気づくかというと、そうでもない。その人その人の「時節因縁(じせついんねん)」という言葉を使いますけども、時が至らなければ気づかない。でもそれの準備をどこかでしてあげないと、永遠に気づきませんよね。
 
横山:  そうですね。
 
山川:  それが教育だと思いますけどね。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
山川:  私もこういう掛塔(かとう)、つまり入門ですね、してもう四十何年もたつわけですが、まあこういう体験がありまして、まずこれは恥ずかしい体験ではありますけど、修行の道場に入って僅か三か月もたたない頃に、もうやめようというんでしょうか、ここ逃げようという時が実はきてしまいまして。それは背骨に最初障害を持ってましてね、ヘルニアに近かったもんですから。それを無理してここに来たんですけども、そういう中でここで腰を使う仕事というのか、行が多いですよね。坐禅もそう、托鉢もそう。作務ではもう掃除ぐらいはまだいいとしても、ものをたくさん持ったりとか。ついにギリギリまできて、そういう中で托鉢で大きな声を出して声帯まで潰してしまう。その三か月たった頃にもうあかん、駄目だなと。このままでは体、ほんとに再起不能になりそうだなと、そういう状況になりましてね。このままでは自分は体を駄目に…もっと駄目にしてしまう。多分他のこともできなくなるぐらいになってしまうだろうと。でも出家をして、ここに来ているわけです。逃げたくはないですね。で逃げることもできなければ、ここで自分自身で体を治すこともできない。「病院に行かせてくれ」って言ってもその当時は無理な話ですので、どうしたかというと考えたんですね。ここで体を壊して死ぬようなことはしたくない。かといって、おめおめと「挫折して帰りました」とも言いたくはない。そうすると、考えた結果ですね、一つの解決策を見つけました。それはどういうことかというと、ここで修行中に坐禅をしてるとかですね、作務をしてる最中にバターンと見事に倒れることですよ(笑い)。倒れたらどうなるか。多分意外に鬼のような先輩たちでも、それはなんでもほっとくわけがないですね。そばへ来て「大丈夫か」とこうなりますよね。うんともすんとも動かなければ、こりゃいかん救急車を呼べということになって、病院に直行させてくれますよね。この体を見てくれれば、明らかにこれはもう腰は駄目だし、いろんな体調がおかしくなっていますので、もうとてもこれは即入院か、故郷に帰すしかないと。お医者さんがちゃんとそういう証明書を書いてくれますね。それを持って帰ればですね名誉の負傷じゃないけど、修行は途中で挫折したけども、ここまでやったんならそれは許せるという、そういうふうになることを願ったんですよ。願ったらどうするか。もう良きことは直ちに始めないかんと。一日でも早く倒れるように努力するしかない。そのためにどうするかって、今までよりきつくすることです。坐禅も作務も托鉢も、自分自身もっと厳しく当たれば多分早く倒れるだろう。それをしたんですね。その当時睡眠時間って、大体一日一時間とか一時間半でしたから、もうそれでも倒れてもおかしくないんですが、そういう時でもやはり倒れなかったんですね。それが二週間続いて、三週間は多分たってないと思うんですが、なぜ倒れないか。意識は朦朧としてるんですよ。そういう中で、そちらの本堂で、ある晩ですね、満月の時に一人で坐っておりまして、夜中の一時とか二時になると時計がボンボンと鳴る。耳に入ってきますね。今ボンボンと二時を打てば、朝は三時半(起床)ですので、ですから一時間半あと時間があるわけですよ。でもその時思うのは、これから禅堂に帰っても一時間半しか寝られんなと思うんですよ。毎日毎日倒れたいと思ってるんですよ。思ってるけども、そのギリギリになると、その時計の音を聞くと、あと一時間半しか寝られんのかと思うんですよ。心の中ではそういうふうに言ってるんです。それですごすご禅堂に帰って寝るわけですよ。ある日その晩は特別だったんだと思いますけども、坐っておりまして、本堂の縁でぼんやり坐っておって二時をボンボンとやはり打ちました。その時「一時間半しか」って昨日思ったんですが、その時に頭に浮かんだのが、「一時間半しか」じゃなくて「一時間半も」ってなったんですよ。これは不思議です。どう説明のしようがないです。ただそのように「一時間半も」という言葉が生まれた途端に、物事がグラグラグラッと変わってしまいましたね。なぜ倒れなかったのか。
 
横山:  「しか」が「も」に変わった。
 
山川:  ええ。途端に全てが変わった気がしました。もう大丈夫だと思いましたね。
 
横山:  もう大丈夫。
 
山川:  ええ。もう死なないって、そういう思いが生まれましたね。
 
横山:  それは「唯識」から言わせると、「倒れるぞ、倒れるぞ」といって、一生懸命精進された、頑張られたね、その表層心理のありようが、深層の「阿頼耶識」にどんどん「熏習」…熏習という言葉を使いますが、それで老師の一番深層心理「阿頼耶識」が根源的に変わったというふうに、唯識的に解釈するとそうですが、私はそうだと信じて確信してますですよね。
 
山川:  まあいろいろ考えれば、そうやって説明はつきますが、余分なものは皆なくなって、ただただ「倒れたい」というのと、「それでも生きている」というのと、二つしかなかったんだと思いますね。その二つのせめぎ合いというのか、それでもって、それでも時間的には「一時間半しか休めない。横になれないのか」という、こういう愚痴が出るんですね。愚痴が出なくなった途端に、それは「しか」じゃなくて「も」に変わってしまうんです。それは縁としか言いようがないですね。そういう時がきたっていうしか言えない。
 
横山:  やっぱり人間って駄目でも、「駄目だ、駄目だ」と言いながら、しかし続けていくというね、そのことのすばらしさということをお聞きしました。
 
山川:  まことに動機は不純なんですけどね。見事に倒れたいから…。要するに帰る一つの言い訳をつくるということですよね。だけども、その中で精いっぱいやってることが、そういうふうに導いてもらえるというのは本当にありがたい体験でしたね。それで悟ったという意味ではないんですが、「生かされている」っていうことの大きな「気づき」でしたね。
 
横山:  それは体全体で「体得」されたという。頭の中で学んだことではないという。
 
山川:  そうですね。まあこういう世界では「学得底(がくとくてい)」「体得底(たいとくてい)」という言葉を使いますが、「学得底」では駄目だと。「そのものは学得底≠セ。体得底≠示せ」というようなことをよく言いますね。
 
横山:  「体得底」「学得底」。
 
山川:  「体得底」でなきゃ意味がないということですね。
 
横山:  掃除をしたりですね、食事の用意をしたりね、全て体得を目指すそういう実践行と。
 
山川:  道場というのは、一日一日が全く同じように経過していきます。そして一日一日は、ひと月の流れでまた変化をします。週ではないんですね。ひと月ですね。そのひと月がまた一年の単位で変化をしていきます。そういう流れをするんですが、つまり一年が一日のごとしで、ひと月が一日のごとしですね。それを全く淡々と行うんですけども、それこそがまさに「体得」なんですね。「身につけてしまう」ってことなんです。朝起きてですね、すぐ皆朝課をします―朝の勤めをする。係の典座(てんぞ)といって、食事を作る者は、昨日用意した薪をもってかまどに火を入れて、おかゆを作っていきますね。それを毎日同じようにするわけです。その中で無駄を省いていく。できるだけ手際よくやっていく。それで手際よくやって時間が余ったらどうするか。そしたら他の事もするとか、あるいはそこで坐るとかですね。無駄にしないという生き方を身につけていくんですね。職業でこれをすればいいんだと。あとは休んでいればいいっていうわけじゃないんです。それが済んだならば、昨日より今日は手際よくできて短い時間でできたならば、空いた時間で何をするという。そういうふうな発想というか、そういうことができなければ修行ではないですね。無駄を省いたうえで、できることを精いっぱいしているだけの話なんですが、それを毎日毎日同じことの繰り返しです。
 
横山:  今言われた毎日毎日同じことの繰り返しですね、これが非常に生きる中で大切だと思うんですが、一般の人たちはなんか目新しいもの何かしたいというね、そういう欲望があると思うんですね。毎日毎日同じことを続ければいいという、その生き方は…。
 
山川:  それはつまり生活全般が修行ですので、その中でものを行ってることは毎日毎日同じことを行うんですが、その中で「己自究明(こじきゆうめい)」といいまして、本当の自分―先ほどの心の世界ですね―心の世界に没入していくんですよ。外から頭で理解するんではなくて、その中にどっぷり入り込んでいくっていう、そのための行なんですね。
 
横山:  毎日毎日同じことをしているけど、やっぱり大きな目的を持っているわけですね。
 
山川:  それをかっこよく言いますと、毎日毎日同じなんですが、毎日毎日違うんですよ。そうならないといけないんですよ。
 
横山:  そうか面白いね。分かりました。どうもありがとうございました。
 

 
草柳:  山川老師とのご対談いかがでしたですか?
 
横山:  そうですね。教育というものは、老師がおっしゃったとおりに、「体得底」を身につけなければいけないということ。これが私としては心に残ったお言葉ですがね。しかし現代は、知識や情報が氾濫している。またそれが偏重されている現代では、それが忘れられているということができますね。「気づきの仏教」も、体得によってのみ得られるものでありまして、体得するということの大切さを、この対談を通して皆さん知って頂きたいと思います。
 
草柳:  ところで横山さん、今日は最終回ですので、ちょっと一回目のところを振り返ってお聞きしたいんですけれども。一回目で、「なぜ今唯識なのか」というテーマを立てましたですね。その中で横山さんは、テロとか紛争が絶えない世界にあって、国内でもさまざまな問題が起きている中で、あまりにも「自分」というものに執着し続ける現代人の生き方に問題があるのだ。それをこう「唯識」を勉強することによって、何とか乗り越えていかなければいけない、というふうな意味のことをおっしゃいましたですね。
 
横山:  今言われたように、戦争や紛争ですね、そして貧困とか搾取が続く世界の状況を見て、その全ての問題の根本原因は、一人一人の人が持っている「自我執着心」と。それに尽きるんじゃないかと思うんですよね。自分の家族で、自分の会社で、自分の宗教、自分の国とかね、こういう思いが非常に強いから、自他対立の意識が生じ、その結果さまざまなね問題が生じているという、これが現状ではないかと思います。
 
草柳:  その「自我執着心」をなくすためには、どうすればいいんですか?
 
横山:  一つは「根源的ないのち」を有した同じ仲間であると。人間同士みんな同じ仲間であるということに気づくこと。これが一つ、第一番に重要なことですよね。それから「根源的ないのち」が流れきたっている「阿頼耶識」の中に、いろいろ我々は煩悩を持ってるわけです。人を憎むとかね、相手を嫌うとかね、そういう思いがあるわけです。すなわち、煩悩の種子を持っていますが、その煩悩の種子を「無分別智」という、以前にもお話ししましたが「無分別智」でもって焼き尽くしていくという。これが二番目に大切なことで。それから人間が持っている二大尊厳性に生きると。菩薩として「智慧」と「慈悲」とを発揮し、人びとのために生きていくというね。この三つがそうではないかと思いますね。自我意識をなくしていくためのね。
 
草柳:  横山さんは、ご自身としてはどういう実践をされていらっしゃるんですか?
 
横山:  これは本当に毎日なんですが、お風呂に入って―今日もお風呂に入って、頭そってひげそってきたんですが―その時に最後に湯船につかって、それで宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」の詩ですね。
 
アラユルコトヲ
ジブンヲカンヂヤウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
 
その一節を唱える。「アラユルコトヲ ジブンヲカンヂヤウニ入レズニ」っていうのは、「自我執着心」をなくすことですよね。それを毎日毎日お唱えして、その言葉を深層の「阿頼耶識」に熏習していくという、そういう実践をず?っともう十年以上行ってますね。以上ですね、平和な世界を築くための方法について語ってきましたが、理屈が分かっても、それを実践することは難しいと、そういうふうに思われる方が多分大勢おられると思いますがね。私は何があっても屈することなく、「いのちの時代」が到来したのだと。「いのち」輝く世界をつくろうではないかという「誓願」を持って生きたいと思ってますし、皆さんもそういう誓願で生きて頂きたいと思います。
 
草柳:  今のお言葉で六回のシリーズを締めくくらせて頂こうと思います。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十九年九月十七日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである