ほっとけない ただ共にある
 
                   僧侶・ボランティア 鈴 木(すずき)  隆 太(りゆうた)
 
ナレーター:  阿蘇外輪山の麓、人口七千の熊本県西原村です。去年四月の熊本地震で大きな被害を受け、今も八百人ほどが仮設住宅で暮らしています。震度七の激震と相次ぐ余震で、西原村では六割を超える家々が全半壊しました。
 
被災者:  網戸が外れて、はまらないけんね。
鈴木:  はまった。
 
被災者:  アハハハハ、ありがとうございます。
 
鈴木:  ちょっとだけ役に立った。お母さんの実家は?
 
ナレーター:  鈴木隆太さん、四十一歳。地震の直後から西原村で復興支援の活動を続けています。鈴木さんは、阪神淡路大震災をきっかけに生まれた被災地支援のNGOに所属。二十年以上にわたり、地震や水害などさまざまな災害救援に取り組んできました。西原村で特に被害の大きかった古閑地区です。道路や宅地が地盤もろとも崩落。家を再建するには多くの費用と時間がかかります。ふるさとに住み続けることができるのか、厳しい選択を迫られています。
 

 
鈴木:  やっぱり住宅の再建って、ただ家建て直すっていう意味だけじゃなくて、これからどうやって生きていくかっていう話だと思うんで。新しい所に今から、例えば年齢の高い方が新しい所へ移っても、知り合いの人がいなかったりとか、今まで自分が住んでた所の暮らし方と多分違う部分とかかなりあるだろうし。
 
取材者:  一年二ヵ月、まだまだ感じですね?
 
鈴木:  うん。これからですね。
 

 
ナレーター:  村にある一軒家が、鈴木さんたちの活動拠点です。NGOのスタッフや遠方から来たボランティアたちが、ここで寝泊まりしながら支援活動を続けています。鈴木さんは、今、古閑地区の人たちに頼まれ、ある地図を作っています。地区に残り、家を再建するのか。離れた場所に移転し、生活を立て直すのか。住民全二十八世帯の意向を聞き、まとめています。
 
鈴木:  ええと。水色が現地で再建をする予定の方で、この赤とかピンクですね、再建が済んでいるところで、緑がまだ検討中という所。そこで再建をするのか、また別の場所に移るかも含めて、今まだちょっと検討中であるっていう方で。黄色の宅地のところというのが、一応何かあれば宅地を提供しますよ。で、そこにまた別の方が入ってくるなりとかっていう時には、うちの土地を使って頂いていいですよということで、黄色になっていて。ただ茶色のところは別の場所に再建する予定ですという、一応色分けなんです。こちらの方は、この上の山のあたりは崩れていたり、亀裂が入っている部分もあるんで、もう既に雨で崩れて、土砂がまた流れてしまってる所もあるんですけど、この赤いところなんかは、雨で崩れたりとかということがないようにしてほしいとか、そういう要望が一番あがっているところですね。その再建に合わせて道路をもう一回ちゃんと引き直した方がいいんじゃないかというので、赤の点線、こういうふうな形で道路をひいたらどうだろうっていう、皆さんの意見を一応ここに入れているという感じですね。
 
ナレーター:  住民の意向は、村の復興担当課とも共有。行政との橋渡しをすることで、少しでも早く落ち着いた暮らしを取り戻してもらうためです。
 
鈴木:  地震からの復興って、一年二年で終わる話ではないっていうのは、もちろん神戸の震災の時からずっと感じてることだし、むしろこれから地元の方々がふんばっていかなきゃいけないっていう場面でもあるんで、なんかこんなことしたいんだっていうふうに思われてることというのをこうそうね…支えるっていうよりもなんか「一緒に」っていう感覚の方がやっぱり強いですね。うん。一緒になんか…復興に向けて一緒に取り組んでいくっていう感覚でお手伝いしてることの方が多いですかね。
 

 
ナレーター:  鈴木さんには、もう一つボランティアとは別の顔があります。佐賀県の山間六代にわたって続く曹洞宗東禅寺(武雄市)。鈴木さんは、この寺の副住職をつとめています。鈴木さんは、ボランティアの現場で妻育子さんと出会い、二十六歳の時に結婚。育子さんの実家の寺に入りました。
 
鈴木:  月半分ぐらいですかね。熊本行って、月半分ぐらい佐賀にいてという感じですね。
 
ナレーター:  曹洞宗の開祖道元。鈴木さんは、その教えの中に被災地での活動に通じるある言葉を見いだしました。
 
鈴木:  たまたま自分が今ご縁を頂いているその曹洞宗という宗派の中で、永平寺を開かれた道元禅師が『正法眼蔵』というものを書き残していらっしゃる。その中の一つに「同事(どうじ)」という言葉が。「事を同じくする」。相手の気持ちに立つとか、相手と共にあるとか、そういう姿であることが大事だというふうに説かれているんですね。心惹かれるというか、今まで自分がやってきたことと、それに対しての道元禅師からの回答じゃないけど、何となくこう触れたなっていう。
 
取材者:  経典の中ではどういう表現で、どういう言葉で示されているんですか?
 
鈴木:  例えば「海の水を辞せざるは同事なり」という言葉があって、要は海というのはどんな川の水であろうと、どんな水であろうと、全てを受け入れていく、受け止めていく。その海の姿そのものというのがもう同事であるっていう。分け隔てのないという。そのことっていうのが、私自身にとってとても大事なことなんじゃないかなというふうに思っているところなんですけどね。
 

 
ナレーター:  阪神淡路大震災。鈴木さんはこの時初めて被災地でボランティア活動をします。当時、出身地の名古屋で浪人生活を送っていた鈴木さん。被災地へ向かったのは、予備校でのふとした出来事がきっかけでした。
 
鈴木:  朝起きたら、阪神高速道路がこう倒れてる映像というのが一番最初に目に飛び込んできて。何が起こったのか、最初ね理解ができないというか。でも朝、その予備校で一緒だった人たちと話をしてる中で「これで(受験の)倍率が減るな」って言ったやつがいて。この地震を受けて、その発言として。その感覚にすごく驚いてしまってというのか、それに対してこう何ていうのかな否定できない自分もいて。真っ向から。ただそこに自分がいるっていうことにすごい違和感を感じたというか。割とそれがきっかけの言葉になったところはあるかなという気はしますね。
 
ナレーター:  鈴木さんは、地震の一か月後神戸に入ります。向かったのは、ピーク時には三千人以上が身を寄せていた最大規模の避難所でした。
 
鈴木:  なんか行ったら、何かできることあるのかなと思って。行ったけど、まあ…。
もうだから何というか目に映る状況全部が「どういうこと?」という状態。火災の跡もあったり、家が傾いてる、電信柱が傾いてる。この先ここはどうなるんやろうというのも分からなかったし。何というかな、「想像を絶する」っていうのはこういうことなんだろうなっていう思いはあって、その中で避難所になってる小学校のグラウンドで俺ぼ?っとしてたら、そこに避難してるおばちゃんがつかつかって来て「あんた何しに来たん?」って言われて「ボランティアです」と言って。「ボランティア、ボランティアって、そんな別に何か頑張らんでも、一日一個何かしたらええんちゃうん」って言われたんですよね。そんなおばちゃんがおって、「そんなんでいいんや」と思って、できることをやろうというので始めたのがきっかけかな。え?っとね、車いす…障害を持った方が、車いすでその学校のグラウンドにある体育倉庫の裏で、体育倉庫と金網の間で、上にブルーシートを張って避難生活をしてる。「体育館とかって入らないんですか?」と言ったら、「いやいやもう車いすやし。迷惑かけるから」って。障害をお持ちの方とかと接する機会っていうのもほとんどなかったし。うん。そういうことひとつとってもすごく衝撃だったですよね。衝撃というか、印象的というか。で、「ちょっと悪いけどトイレ手伝ってくれへんか?」って言われて、その時に尿瓶を使ってトイレ介助をしたんやけど。「すまんな」って。「ごめんな」って言ってはって。なんかこういう状況で、なおかつ見知らぬ人に頼まなきゃいけない。「すまんね」、「ごめんね」って毎回言わなきゃいけないって。それこそきついやろなって。大変な状況だけど、そういうところで目に見える事柄っていうのは、自分が今まで何も知らなかったということを、こうなんかまざまざと教えられるというか、そんなことの連続だったような。なんかそれを消化するのに精いっぱいやってきた。
 

 
ナレーター:  神戸には、半年で百万人を超えるボランティアがやって来ました。
 
ボランティア:  どなたかいらっしゃいませんか?
 
ナレーター:  しかし徐々に避難所が閉鎖されると、その多くが神戸を去っていきました。そんな中、仮設住宅への引っ越しの手伝いをしていた鈴木さん。仲間から思わぬ言葉をかけられます。
 
鈴木:  「いつまでやってんだ」と。「責任が持てるのか」と。「自立の妨げになってるんじゃないか」って言われて。いやぁ、俺、すごいびっくりしてというか、避難生活をしてる方々の自立の妨げになる。そんな大したことしてるわけじゃない。我々ボランティアというか、やってたことっていうのは。それがその甘やかしてるだの、自立を妨げてるだのっていう、今でも多分その話って出るとは思うんですけど。そういう話が出る度に、なんか何ていうのかなどこかしらこう目線が上であったり、対等じゃないなっていう感覚があったり。その人に対して、その思いをはせていないというのか。でも人それぞれのタイミングがあって、例えば仮設の入居の期限が迫っている状況の中で、次、自分が例えば住宅の再建ができないとしたら、じゃあどこで生活をするのか。公営住宅に入るなり、何なりっていう決断を自分自身でしていかなければいけないっていうことを、ご本人が一番分かってることじゃないですか。多分、人それぞれのタイミングはあろうけども、そういう時期っていずれにせよ、くることだろうし。う?ん。それはその何ていうのかな…自立…う?んそう。自立ができないとかっていうこと自体が、「甘えだ」とかって言ってしまう社会って非常に冷たいなと思うなっていう気がする。自分はそういうことを言える立場だからいいのかもしれないけれども、いざ自分がそういう立場になった時に、その言葉投げかけられたらどう感じるのかっていうこと。
 

 
ナレーター:  震災から三年。鈴木さんは、仲間たちと被災地支援のNGOを立ち上げます。「一人一人に寄り添い、最後の一人まで救う」。地域の自立を見据えた息の長い支援活動を目指しました。
 
鈴木:  やっぱりいろんなところがどんどん復興していく中でも、取り残されるという人が、どうしても出てしまうだろうし、そういう中でそういう人にもちゃんと目を向けるというか。仮設で神戸の時だって、「孤独死」っていって、誰にも気付かれずに亡くなる方がいらっしゃったりとか。結局つながりがないから。亡くなってしまって、切れてしまって、どこかのタイミングで切れてしまって、結果的に一人で亡くなってしまうっていう。神戸の時なんかは、「最後の一人までの復興を」っていうことを、こう言葉に意識して活動をしてた。そこはすごいやっぱり意識するかな。「最後の一人まで」っていうところは。
 

 
ナレーター:  その後、鈴木さんは、九年間神戸で活動を続けました。そして被災地で人を支えることを生涯の仕事に決めます。幼い頃は内向的な性格だった鈴木さん。今の仕事を選んだのには、当時抱えていたある悩みが影響しているといいます。
 
鈴木:  ちっちゃい頃からアトピー性皮膚炎を患っていたので、割とそれが良くも悪くも性格にすごく響いてた部分はあるかなという。やっぱ小学校入ったりした時に、やれ気持ち悪いといっていじめられたりとか、運動会で誰かと手をつなぐみたいなのも嫌がられたりとか、買い物に行ってお釣りをもらう時とかも、相手の顔色をうかがうというか、自分のこと気持ち悪いと思ってるんじゃなかろうかとか、っていうふうに、なんかすごく人の顔を見てしまう。すごい否定的に自分のことずっと考えていたんじゃないかなというふうに。相手にとってみて、自分の手が気持ち悪いと言われたら「気持ち悪いんだろうな」しか思えないから。何ていったらいいかな、その…うん、それに対して「そんなことないわ」って言えないじゃないですか。多分自分自身がどっかで理解してほしかったからだろうね、と思います。自分がしんどい時に理解してほしかったっていう思いはずっと持ってたし、もう何ていうのかな人の痛みは分かりたいって思ってたところも。いじめるやつとか、いじめる人とか、やれ気持ち悪いって平気で言える人にはなりたくない。実際目の前で大変な思いをされているんだろうなという人たちのことを考えたら、何かをせずにいられなかったってところではあるんですけどね。
 

 
ナレーター:  鈴木さんが、毎年のように訪れる場所があります。
 
鈴木:  すいません忙しいところ。
 
中越地元の男性:  お?どうもどうも、久しぶりです。
 
ナレーター:  かつて支援活動を行っていた新潟県中越地方です。
鈴木:  久しぶりです。元気ですか?
 
中越地元の女性: あ?、おかげで…。口だけは元気です(笑い)。
 
ナレーター:  地元の人たちとの交流は、十年以上続いています。
 

 
(ヘリコプターから中継の声)山古志村の上空です。画面中央に見えている崖が大きく崩れています。
 
ナレーター:  二○○四年に起きた新潟県中越地震。大規模な土砂崩れが発生し、全村避難を余儀なくされた山古志村など、山間の地域が甚大な被害を受けました。鈴木さんが、現地に入ったのは、地震から一週間後のことでした。
 
鈴木:  どうも。寒っ!寒いですよね。
 
ナレーター:  地元の支援グループと協力し、各地からやって来るボランティアに仕事を割りふるなど調整役を担いました。更に仮設住宅が出来ると、神戸の経験を生かし、被災者の孤立を防ぐため一人一人の声に耳を傾けました。半年後には、家族を呼び寄せ一緒に暮らし始めます。現地に腰を据え、その後四年九か月にわたって被災地と向き合いました。
 
鈴木:  きっかけでしかないなと思っていて。ボランティアって、なんか声高に言うほどのことでもないだろうし。最初のきっかけは「ボランティアで来ました」っていう。私もやっぱ便宜上、今でも、例えば熊本行って、「どこから来たんですか?」って言われたら、「佐賀からボランティアで来ました」って、便宜上使いますけど…きっかけとして。でもなんかねそれから何回か会う中で、相手の名前が何となく分かって、向こうも何となく自分の名前を覚えて下さったりとかってしていく中で、当たり前の話、人間関係って生まれてくるじゃないですか。でもなんかむしろどちらかといったら、そういうことの方が大事なんじゃないかなというふうに思うので、それほどボランティアだから、被災者だからっていうことに、とらわれすぎるのもどうなのかなって。それにとらわれすぎていくと、本来自然な人間関係っていうもの自体が、今度なんか見過ごされていくというか。それはボランティアのやることじゃないからとかっていう話がよく出てくるじゃないですか。例えば農業で、今ちょうど農繁期だから本当はしなきゃいけないけど、でもそれはボランティアがやることじゃないからとかって。「いやいや誰が決めたん?それ」っていう。いろんな年齢も問わず、いろんな人たちがいろんな形でつながりをつくっていく。つながっていくっていうことが大事なんじゃないか。そのための最初のきっかけが、多分ボランティアってことなのかなっていうふうには。いろんな方々がいろんな形でつながって…つながることによって、どんどんこう孤立をするかもしれない人っていうのが減っていきますよね。
 

ナレーター:  長岡市栗山沢(くりやまざわ)地区。かつては三十三世帯、八十六人が暮らしていましたが、地震のあと、住民は半分にまで減りました。しかし、人々は以前と変わらない山の暮らしを続けていました。
 
鈴木:  あの…すごいんですよ。何ていうかな…。あの…こう…。その人たちから四季を感じるような、そんな暮らし方をしてて。雨が降ったら家にいて、晴れてたら畑行って、田んぼ行って。で春になったら作付けして。夏は夏野菜育てて。秋になったら刈り取りして。冬は冬で家に閉じ籠もりながら、時々近所で集まってお茶会を、自分たちのうちでしたりとか。「何にもない所だけど、おらここが一番いいや」って。ぼそっと言われたりとか。地震後、避難生活で息子のところに行って、スーパーとか行ったら、平らで駄目だって言うんだよ。「平らで歩きにくい。うちに帰ったら、山坂があって、私はずっとそういう所で生活をしてきたから、坂がある方が歩きやすい。山に行きゃどこに何があるかも大体分かるし」って。スーパーと大体同じような感覚で、山を見てるっていうのもすごいし、とにかくその人たちが言ってることに耳を傾けていると、すごいなって思うことの連続だった気がするんですよね。
 
ナレーター:  栗山沢地区で鈴木さんは、山間の土地ならではの被災地支援に取り組みます。月に一度、街から学生を呼び、一緒に畑仕事をするなどイベントを企画。三年間続けました。ある時、一人暮らしの井田ヤスさんが学生と交わしたやり取りを、鈴木さんは鮮明に覚えています。
 
鈴木:  田植えを手で植えて、秋になったら刈り取って、それを天日干しして。すごいお米をいとおしそうに作るおばあちゃんなんですけど、看護学生が、「ここってすごいいいとこですね」って。「住んでみたいわ」って言ったら、ヤスさんがすっごいうれしそうに、「ああ住んだらいい。住んだらいいよ」って。「ほんで何年かして、こんなばあちゃんがいたなって、たまにおらのことを思い出してくれたらそれでいい」って。それをなんかこう横で聞いてた時に、すごいそうやってうれしそうにっていうか、明るく言ってるヤスさんの姿を見て…。誰かとつながるっていうことで、人が元気になるって、こういうことなんかなっていうことを教えられたというか。例えば何年後か、自分がひょっとしたらいないかもしれないけど、その時にそうやって自分のことを、「こんなばあさんがいたな」って思い出してくれたらそれでいいって。誰かの中に自分の存在が生き続けるというか。っていうことがなんかこうすごいうれしいというか。誰かに覚えててもらえたら、私はそれでいいんだって。それで私はすごくうれしいんだよっていうことを、すごい表現してるような気がして。やっぱ人って、人によって癒やされたり、元気にされたりとかってするんだなってことをすごく教えてくれた。だからこそ、やっぱいろんな人がつながっていくっていうことって、ほんとに大切なんやなっていうことを教えられたですよね。
 
ナレーター:  地震後、栗山沢地区の平均年齢は、五十代から七十代に。高齢化で山の暮らしの担い手が減れば、都市の暮らしにも大きな影響があるといいます。
 
鈴木:  都市部と中山間地っていわば川でつながってるんですよね。大体都市部って下流域にあるじゃないですか。東京だってそうだし、名古屋だってそうだし、大阪もそうだし。そうやって実は生活している我々っていうのは、川を通じて上流の人たちの暮らしの営みの中で治水をされていたりだとかっていうことで、実は我々生かされてるというのか。自分たちの生活が実はそもそも支えられていたんだということに気付かされたんですよね。単純に棚田って地形的にそうせざるをえないからって部分もあるかもしれないけど、それ以上に自然の天然のダムみたいな意味合いがそもそもがある。あそこは土砂崩れが多い所で、だから治水をしっかりしなきゃいけないっていった時に、あの棚田をつくって。風景自体もすごくいいけれども。その棚田ってそれだけじゃなくて、治水の役割を果たしていたとかっていうことも。それが結局下流に水や土砂がいかないようにするっていう効果ももちろんあっただろうし。だからもっと多分言うと、今後本来ならばそろそろ伐採しなきゃいけない杉の木だとかっていう植林をしてきた木がいっぱいあるけど、結局そのままになってる地域がかなり多い。それがそのまま手つかずのままにしておいた時に、人手がいないというところで、そのままにしておいた時に、今度その…いつどこでどんな大雨が起きるか分からないってところで、そういうのがどんどん土砂崩れとかって起こしていったら、それが今度流れ出して、流木とかが下流域に被害を及ぼしたりとかっていうことにもなりかねないとなると、実はここでもともと住んでたその暮らし方の意味って、森とか林とかを管理するっていうのも、単純にそれを収益として杉なり檜なりを育てて木材として売ってっていうだけじゃなくて…。そこの管理をすることで、下流域の生活に支障がないように、被害が出ないようにしてくれていたっていう側面は大いにあるんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。人口が減っていく中で、お金をかける意味があるのかみたいな。だったら町なかにおりてもらって、でかい公営住宅を建てればいいじゃないかっていう話も、多分議論としてはあったと思うんですけどね。でもそこにいる人たちがそこにいるということをよしとされるっていう社会にならないと、例えばその…農村部とか中山間地とかで暮らしている人たちの営みによって支えられてる都市部の生活っていうものが、例えば場合によっては危険にさらされるようなことにつながっていくのかもしれないし。場合によっては効率を優先することによって、誰かの暮らしを切り捨てていくっていうことが、まかり通る社会になっていくならば、いずれ何かの時に何かが起きた時に、自分自身がそういう立場に立たされる可能性だって大いにあるってなった時に、やっぱり…誰かを切り捨てていく社会を目指すというよりも、共にいることができる社会っていうことをやっぱり目指していくべきなんだろうなというふうに。大層な言い方になるかもしれないけど。それってまさに「同事」っていうことを追究というか、深めていくというのか、そういうありよう、在り方っていうことがすごく大事になってくるんだなということを感じますね。じゃあそれができてるかというと、多分できてないからすごく意識するんだろうとも思うんですけどね。できてない部分も多々あるからだと思うんですけど。
 

 
ナレーター:  二○一一年三月十一日、東日本大震災が発生。地震直後の一か月だけで全国から十一万人のボランティアが駆けつけました。この時、鈴木さんは被災地へ支援に行くことができませんでした。長崎にある寺で僧侶として本格的な修行を始めていたのです。
 
鈴木:  世話役の方から修行…修行僧を面倒見て下さる世話役の方から聞かされて。よくよく聞いてみたらね大変なことになってるというので。なんかこれ何かしなきゃいけないんじゃないか…。知り合いの友人気仙沼にいる友人に連絡しても、もちろんつながらないし。ひょっとしたら何か手伝いに行かなきゃいけない行くべきなんじゃないかと思ったんですよね。ほんで翌日ぐらいかな。修行僧を指導して下さるそのご老僧の方に相談をしたんだけど。その時に「お前何しにここに来たんだ」と言われて。「お前はいったい何になるんだ」って言われて。まあ結局手伝いに行くことはかなわなかったんですね。何のために今自分がいるのかって言われて、何とも答えられない自分もいたし。とはいえ、なんか大変な状況の中で何もできない自分というもどかしさもあったし。結構何ていうのか、つらかったですね、その時は。すごいつらかったですね。多分、行ったら帰ってこなかったんだろうなとも思うし、少し行かせて下さいって、その「少し」がどれだけになったかも、何年後になったかも多分分からないし。でも少なくともその修行道場に入って修行させて頂くっていうところのその…。いろんな人たちから支えられて、そこまで来てたっていうのも事実。お檀家さんもそうだし、よそのお寺さんにもいろんな形で支えて下さったりとか。その方々の何ていうか、そういう思いも全部むげにしていたかもしれないなって思うんです。もし行ってたら。もどかしいですよね。なんか動けない自分に対してイライラもあるし。「ボランティアのくせに、いつまで関わるつもりだ。それに対してどこまで責任持てるんだ」と言われたことへの自分なりの回答として、やっぱずっとつながっていくこと、つきあいっていうか、人としての関係を続けていくということだって思っていたから、そうすることが正しいみたいな思いをどっかで持っていて…。でもそれは「被災地に行ってつながることで」っていうことが、大前提としてあったと思うんですけど、それ自体がかなわないってなった時に、今までそうできてたからそうやって言えてたけどっていう部分に関して…えらいおこがましいことを言ってたんだなと片や思うようにもなったというか。動けてるからそう言えるけど、いろんな環境があって動けないっていう人たちも中にはいて、そこに対しての思いをはせていなかったんだなという自分自身思うようになったっていう部分もあるし。そのことを改めて確認させられたり、なんか改めて気付かされたりというのか、という時期になったんじゃないかなっていう気がします。
 

 
ナレーター:  鈴木さんは、長崎での修行を終え、妻の実家の寺の副住職になりました。これを機に被災地での長期間の支援には区切りをつけたつもりでした。そのやさき、最大震度七の激震が熊本を襲います。熊本までは車で二時間。鈴木さんは被災地に向かうことを決意します。
 
鈴木:  ほっとけない。ちょっと車で走れば来れる距離というのもあったし。実際何ができるか。どんなふうにできるのか。全然自分では分からなかったからあれだけど。それこそ最初は手探りでやったんですよね。
 

 
ナレーター:  鈴木さんは、寺の仕事の合間を縫って熊本に通い始めます。拠点にしたのが西原村です。NGOの調査で、被害が大きい割に支援の手が行き届いていないことが分かっていました。中でも葛目(かつらめ)地区は、十世帯全ての家が地震で被害を受けていました。ほとんどの家に倒壊の危険を知らせる赤い紙が貼られていました。この紙に法的な拘束力はなく、住むかどうかは、最終的には住民の判断に委ねられています。
 
(テレビを見て、声援を送る園田ミエ子さん): 頑張れ?稀勢の里!はい、頑張れ頑張れ!ああ?押せ押せ押せ!ああ?。あ?頑張れ!押せ押せ!あ?負けた。惜しかった?!
 
ナレーター:  園田繁継さんとミエ子さん夫婦。一旦は避難所に移ったものの、三週間で壊れたままの自宅に戻っていました。
 
ミエ子:  1と2は分からないようになった。しょっちゅうだから。人に気遣うけんですね、やっぱ。自然なもんば、いつも見られるけんですね、家がいい。
 
ナレーター:  鈴木さんは、水道が止まったままの園田さんの家に、飲み水を届けていました。
 
ボランティアの女性:  こんにちは持ってきましたよ。
 
ミエ子:   ありがとう。
 
ナレーター:  鈴木さんは、安全のためには避難所に戻ってほしいと考えていました。
 
ボランティアの女性:  わあ、いい匂いがする。
 
ミエ子:   無農薬だからね。
 
ボランティアの女性:  わぁ、いい匂い。
 
ナレーター:  しかし、園田さん夫婦は、「住み慣れたこの家がいい」と笑って答えるばかりでした。
 
ミエ子:   疲れたときは、ばあちゃんの梅を食べて。だけん頑張って漬けなんと。
 

 
鈴木:  家で住めば、そんななんか迷惑になるからみたいな。人に迷惑はかけられんってことも言われてたような気もするし。多分それ以上にやっぱり自分の家がいいというとこもあったんだろう。自分の土地がいいっていうのもあったんだろうとは思うんですよね。
 

 
ナレーター:  地震から二か月が過ぎた去年六月。記録的な豪雨が西原村を襲います。鈴木さんは、村の避難所に向かいました。
 
ボランティアの女性: あぁこんにちは。
 
ミエ子:  ありがとう。
 
ナレーター:  園田ミエ子さんが避難していました。夫婦が暮らす地区に避難勧告が出ていたのです。
ミエ子:  ありがとうございました。ご心配かけて。ありがとう。
 
ボランティアの女性: また来ますね。
 
ナレーター:  避難所に移って五日。ミエ子さんが体調を崩していました。地震の前から癌を患っていました。
ミエ子:  ごはん食べれないから栄養剤を。飲めるかしら。
 
園田:  のまなけん。昨日は戻してしまうから。
ミエ子さんは手術のため入院することになりました。夕べは救急車で行かないとって心配してたけど、ここで寝てたんでよかった。
 
ミエ子:  食べたら戻す。
 
ナレーター:  ミエ子さんは手術のため、入院することになりました。一人家に戻った繁継さんは、止まったままの水道を自分の手で直し始めます。繁継さんたちが地区で守ってきた水源は、地震で大きな被害を受け、使えなくなりました。地震から四か月。他の水源から水を引くめどがようやくついたのです。
 
鈴木:  こんにちは。ご苦労さまです。水?
 
ナレーター:  水道管をつなぎ直すのに二日間かかりました。真夏の炎天下に作業を急いだのには、理由があります。ミエ子さんの症状が思わしくなく、家に帰れたとしても短い時間だと言われていました。帰ってきたら、家の風呂でゆっくりさせてやりたいと思っていました。
 
園田:  うちの風呂でゆっくりさせたい。
 
鈴木:  命があってのことだと思うので。やっぱりその命のこと考えたら、危険性のことも考えて仮設に入居してほしいって思ったけど、でもやっぱり一方でその…何ていうかな…ここで生きていくんだ、この家で生きていくんだというその思いみたいなところがあるからこそ、なんか元気でいられるというのか。繁継さんなんか、それによって出てくる力なんかも、ひょっとしたらあるのかもしれないし。そこはもちろん命が一番大事だけど。その人の命を突き動かしている思いみたいなものも大事にしたいですよね。
 
ナレーター:  入院から三か月がたった去年十月。ミエ子さんは病院で亡くなりました。風呂に入れてやりたいという繁継さんの願いはかないませんでした。
 
鈴木:  やっぱりその…大切な場所にいたいっていう強い気持ちというか、思いというか…を尊重するべきかどうかも分からない。した方がいいとも思うし、でも危ないし。命のことを考えたら、もう一度避難をしてほしい。でもだからね、それで避難をしました、じゃあそれが答えかっていったらそうじゃない。そうじゃないと思うので、その先もまだ続いて…暮らしは続いていくわけだし。分からないから向き合い続けるしかないっていう。一人一人、人によっての向き合い方とか、多分きっと違ってくるんだろうし。いや全然できてないですね。何ていうかな、そもそもができないからやり続けるっていうことだろうと思うんですよね。でこれができました。はい「同事」という在り方・実践を達成しましたっていうゴールって、多分ないと思うんですよね。「同事」…何も拒まずに受け入れていく海のようにあり続ける姿勢というのか、その過程そのものが多分「同事」というか。同事という実践をし続けていくということが、あるべき姿というのかってなった時に、多分ゴール自体はそもそもないことだと思うし。ついなんか寄り添うとかって言ってしまいがちですけど、本当に寄り添うっていうことはどういうことかっていうのは分からない中でもこう…何ていうか、正解というのかっていうのが、それでいいのかどうかっていうのは、常に分からない中で悩ましくも向き合い続けるっていうこと…なのかなということは、具体的な何ていうかな事柄を通じてすごく考えさせられているというか。
 

 
ナレーター:  熊本地震から半年。鈴木さんは、西原村でビデオの上映会を開きました。新潟県中越地震で被災した人たちからのメッセージ。鈴木さんが熊本の人々を励ましてほしいと頼むと、三十人以上が応じてくれました。
 
(メッセージを送るAさん): とにかく諦めずに、いろんな人と絆を作って頑張ってください
 
(メッセージを送るBさん):一人ではない。みんなが見てるよ。全国のみなさんが応援しているから、必ず戻れる。元に戻れるよって思いながら、私らは過ごしてきました。
 
(メッセージを送るCさん): 土壇場になったら、自分の判断で右か左か、決めれば決めた方に進めば、何か先が見えてくるから、ぜひ負けずに頑張ってほしいです。
 

 
鈴木:  熊本の地震のあと、中越に行って。その中で栗山のハルさんってばあちゃんが、やっぱずっと心配してんだよねって。ひとことだと思えなくてっていうか、ひとことじゃなくてっていうふうに。自分自身ももちろん地震を経験してるからということだと思うんですけど。なんかそういうことがこう自然と出てくるというか。震災あの中越地震から十二年っていうタイミングだったと思うけど。でもやっぱその長きにわたるそのプロセスというのか歩みというのか。多分いろいろあったと思う地震のあと。そのこともやっぱり思い返しながら…いろんな苦労もあったっていうところの中で思い起こされるものもあっただろうし。だからこそその地震を受けたということ自体の痛みにも容易に想像ができて、その痛みを抱えているであろう顔見ぬ熊本の人に対して思いを寄せようとしてる。でだから同じようにこう心配をしてるって。その姿っていうのが、もうまさに「同事」なんじゃないかなっていうふうに思いますけど。自然とそういう言葉が出てくることに対しての驚きもあるし、そうやってそういう言葉を聞かせてもらえること自体もすごくうれしいというか。それはねたまたまその中越で被災を経験した方からの言葉だったけど。そういう経験がなくても、やっぱり思っていらっしゃる方も多分いらっしゃるだろうし。そういう人たちがこうつながって、そういうその「同事」っていう教えを軸にして考えた時に、何ていうのかな相手を思いやるっていう気持ちみたいなものがこう広がっていくというところに対して、なんか自分なりに何かしらお手伝いができれば…。ありがたいなと思うし。単純に多分きっとうれしいなって思いますね。
 

 
ナレーター:  熊本地震から一年がたった西原村です。村を離れ、避難生活を送る人たちが、一時的に戻ってきていました。生活再建を優先し、手をつけられないでいるふるさとのお墓。先祖のためにお経をあげてほしいと、鈴木さんは住民たちから頼まれました。
 

 
ナレーター:  この日、新潟県中越地震で被災した人たちが、西原村に桜の苗を届けにきました。復興支援で訪れた福島で譲り受けたものです。春、桜が咲く頃にまた会おうと、地区の公園に皆で植えました。
 
 
 
     これは、平成二十九年七月二十三日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである