密教と現代
 
                  東洋大学教授 金 岡(かなおか)  秀 友(しゆうゆう)
1927年、埼玉県生まれ。1952年東京大学文学部印度哲学科卒業。東洋大学助教授在職中、セイロン大学に招聘される。東洋大学文学部教授、92年定年退任、名誉教授。新義真言宗系妙楽寺 (八王子市)住職。2009年遷化。
 
金岡:  みなさん、こんにちは。今日は現代社会において密教―仏教の中でも特に密教、そのうちでも「加持祈祷(かじきとう)」あるいは「現世利益(げんぜりやく)」というようなことが、どういうように考えられているか。また考えられなければならないか、ということをしばらく考えてみたいと存じます。一口に現代社会、あるいはそれに先立つ近代社会というようなことを申し上げましても、それをどういう社会であるかと、捉える角度は様々になろうかと存じます。とてもひと口でそれを尽くすことはできませんけれども、そのうち目安になろう、一つの大きな目安になるだろうと思われることを取り上げてみますと、「合理主義」というものが近代の大きな特色になっていると思います。「合理主義」は改めて申し上げるまでもなく、読んで字のごとく「理に合う考え方を尊重する。理に合わないものは排除する」という考え方でございまして、これは日本独特の考えでないことはもちろん、むしろこの考え方の主流はヨーロッパから渡ってきたというように考えてよいのではないかと思います。然らば、その場合の「理」というのはどういうことであろうか、ということをございますが、この「理」という言葉は、ヨーロッパでは古い歴史を持つ言葉でございまして、ギリシャ・ラテンの昔から近代になって、独・仏の諸国に広まっていった言葉の一つでございます。向こうの言葉そのままで申しますれば、ここに書きましたように「ラシオ(ratio)」という言葉があります。綴り字はその通りで、下に書いたとおりになるわけでございますが、これの本来の意味は「メジャー(measure)」ものさし、尺度でございます。ご年配の方ですと、これから出てきた言葉を終戦直後にお聞きになったことがあろうかと思います。それはアメリカの兵隊さんが持って歩いていた戦時食糧ですね。これを英語になりますからおしまいに一つ「n」をつけると名詞ができまして、「レーション(ration)」という発音になります。「レーション」というのは、日本人には慣れないものだったので、この「ラシオ」が、「理」であるとか、「尺度」であるとかいう言葉はうまく持ち込むことができませんでしたようで、少し難しい言葉になってしまいましたけれども、軍隊言葉を生かして、「携帯口糧(けいたいこうりよう)」というように訳していたようですね。若い方はもちろんご存じないと思いますが、私も一、二度見た覚えがございます。バックにしてある点では、今のニコニコ弁当とか、ああいったものに、ほかほか弁当ですか、といったものによく似ている感じで、いろんなものが入っているんですね。ところが今、家庭の主婦が買ってきて、提供するなんていうときは、保存ということをあまり考えないで、手近にすぐ食べられればいいというだけでしょうけども、なんといっても兵隊さんの食事ですから、保存が効かなければいけない。傷まないものをうまくパックしてあるんですね。中にはバターも入っているし、それからソーセージみたいなものが入っていたように記憶します。びっくりしたのはチョコレートまで入っていて、それを兵隊さんが持って歩くと、それが一日じゃなかったかな、一回分の食料になるんですよ。それを「レーション」と言っていた。それで日本軍はそういった美味いものはなかったんで、強いて似たものというと私の記憶にあるのはどうやって作るんでしょうか。お醤油と鰹節を混ぜたものがギュッと押したものがこんな小さなものになる。ご飯を押したものを、小さくなっているのを見せてもらったことがあります。そういうのをお湯やなんなりに入れるとパッと膨らんで食べられるんですよ。それとこちらと比べてみると、やっぱり向こうの方がはるかに豪華で栄養も行き届いていて、飽きないようにできている。それがレーションでございます。今この「ラショナリズム(rationalism)」合理主義という言葉の元になった「ラシオ」という言葉を思い出しますと、すぐこの携帯口糧を思い出します。要するに規格品ということですね。規格品―メジャーにちゃんと入っている規格品のことを、そういうようにいうのだろうと思いますけれども、その「規格」という言葉が、外国ではやはり長い間使われていたわけです。でこの「理」という言葉がですね、そのままものを考える基準になったのが、今問題にしている「合理主義」ということになります。理屈にあっている考え方ということになります。ですからここで次の段階にまいりますと、この合理主義という考え方にはいろいろ功罪があるだろう。いいところもあろうけれども、不都合なところもあろうということをお考えいただきたいわけですね。そうすると、この「ラシオ」という言葉そのまんまでですね、非常に都合のいいところは何かというと、ものさしを当てがう限りは、我々はその対象をかなり正確につかむことができるということでございます。例えばこの部屋は、私の何度となく通していただきましたけれども、この部屋の広さということになれば、目分量というのは甚だ不確かなもんでございまして、やはりこれはメジャーを当てなくちゃならない。そうしますと、昔のメジャーだったらば、「何坪の部屋」ということが出てきましょうし、今だったら「何平方メートル」ということが出てまいりましょう。その時の基準になるのが「ラシオ」です。メートルであるとか、尺であるとか、そういう基準がでてくるわけですね。しかしそれは一つの基準です、あくまでも。ですからもしどうしてもメートルというのを固執するメートルラシオということになりますれば、この部屋は「何平米」という形で出てくるでしょうけれども、それだとピンとくる方もいらっしゃいましょうし、ピンとこない方もあるわけですね。それは法律で強制しようとしてもうまくいかない場合がいくらもございます。ですから大抵今の日本では、併記法といいますか、両方並べておりますでしょう。「何平米」と書いた中で、後括弧入れて「何坪」とやっている。これは急にはできない証拠でしょう。「坪」というのはちょうど人間が座って立ち居するのにいい広さだと見えまして、これを消すことはなかなかできない。それの何よりの証拠に、私はびっくりしましたのは、台湾に行くと「坪」という言葉が残っているんですね。お出でになられた方はご存じでしょうけど、台湾は未だに日本人が残していった財産で「坪」と言っている。向こうの人が「坪」と言っている。なんか間違えて、何に言ってるんだろうと思うと、日本人の「坪」なんですね。そういうように一つの基準にはなるもののことを、確かに「ラシオ」といいます。しかしこの「ラシオ」は、いろいろあるからいっぺんに律しきれないという合理主義の限界というのがまず一つあるんですね。合理主義は、大勢の人の共通の理解の上に立たないと使いないということが一つございます。では次に考えてみると、どういう問題があるかといいますと、それでは尺差しであろうと、メートル尺であろうと、そういう物差しは何でも計ることができるかということが出てまいります。測れないものがないのではないかということですね。この考え方を次に検討してみたいと。密教というのは、いろんな定義が出来ましょうけども、私は、「密教」の「密」というのは、「ものさしで測れないもの」という単純な定義を、一回は検討してみる必要があろうかと思うんですね。そうなりますと、確かに測れないものが出てきます。知ることのできないものが出てまいります。知ることのできないものがあるはずだという考え方は、今黒板に書いた「知るべからざるものあり」という議論―「不可知論(ふかちろん)」とこう言います。向こうの言葉では「agnosticism」と言いますけれど、知ることのできないものがある。何でも知ることができるか。いやそうじゃなかろう。知ることのできないものがある、というこの考え方ですね。合理主義という考え方を考えるときには、実はこの不可知論を考える方がもっと重要。もっと先に立つべきものではかろうかと思うんですね。いくらでもその例を挙げることができます。例えば「死」死ぬことでございます。ここに皆さんいらっしゃいますが、ここの生きている我々に共通なことは、ここにおられる方はどのような高僧であり、どのような知識であっても、死をご自身で経験したお方は、一人もいらっしゃらないということですね。これは人間がどんなに変化していこうと、良い方向に変化しようと、悪い方に変化しようと、生前の人間は死を経験したことのない人だという定義は絶対に動かすことはできない。つまり言葉を変えれば、死は永久に未経験の事実として我々の前にあるわけです。しかしその未経験の事実が、無関係たり得る限りは、死は所詮我々の関心の一つで終わるでしょう。しかしその死という経験は、絶対に我々にとって重い意味を持っているわけですね。その重い意味というのは、いろんな角度から考えることができますけれども、生まれた時からもうすでに死に向かって一歩数歩ずつ歩き出している。「成長」という言葉は、積極的な響きがありますが、「老化」という言葉は消極的な響しかありません。しかし成長は同時に老化でございます。「老化」というのを別の言葉を使えば、「死への移行」ということでしょう。少しずつ死に向かって移っているわけです。もっとすごい言葉を使っても皆さん方は驚かれない。仏教のお方ですから驚かないと思いますけれども、今日ここでお目にかかった方々のうち、明年お目にかかるときには半分亡くなっている―そんなことはないと思いますけども―そういうことだってあり得るわけです。誰も分からない。しかしそのことを善いの悪いの、心がけが善いの悪いのと言って脅かす宗教があるとすれば、もってのほかです。「因縁不可思議」という言葉の通りですね、我々一寸先はわかりません。お釈迦様のお母さんにしたって、お釈迦様を産んで七日目には亡くなっているわけでしょ。お釈迦様のお母様が心がけが悪かったというはずがないわけです。われわれはただ生死(しようじ)という事実が動かし難く、我々の運命であるということを覚(さと)ればいいんだろうと思いますね。だから「生死(しようじ)」という言葉は、仏教徒にとっての「死」という言葉です。私も「死」という言葉だけ取り出して書物の題にしたことがありますが、あれはやがては「生」生きるという本を書く約束でお引き受けしたわけです。生あれば死あり。死は必ず生の帰着であるということでございます。それぐらい生死が不可分である。生と死ということは分けられないとすれば、我々が死についていろいろ考えるのは当たり前の話ですね。ですから別な定義をここでもしいたしますれば、こういうことからも近代ということを考えることができます。つまり近代前、現代前ですね、にとっては、死に対する関心は、生に対する関心と同じくらいあったです。これは出版物の上ではっきりしていますね。しかしどうでしょうか。今私が頂戴しましたこの現代、その中での密教ということを考えますと、生に対する論究は極めて増えてまいりました。しかし死に対する論究は一時期非常に減ったわけです。また増えだしたことについては、また後で申しあげます。我々の関心は大勢からすると、いかに生きるかということです。そうなると、その生のいかなる部分を取り上げるかということについても、やはり特色が出てまいります。最もよく生きた、あるいは生きた結論に近づきつつあるということで考えれば、当然今の言葉で言えば、「熟年」とか「実年」とか「老年」とか、いろいろいうでしょう。人生を長く経験した人を「長老」と称して非常に尊んだわけです。しかし生の充実を生物学的な側面から主としてとらえれば、若い人の時代ということになるわけです。そこのところも近代の大きな特色で、我々の考える力は、若い人によって若いことの意味が考えられる。昔は人生を考える場合でも、歳長じた人によって人生の長い意義を考えられるという特色があったように思う。単純に括るのは危険でございますが、近代前において考えられた人生の全体像が、現代においては人生の生物学的な充実期、若い時というのにだんだん絞られてきたというように、全体としては考えられるように思います。さぁそうなると、部が悪くなるのは死ということです。近代において死についての議論はある時期までは西洋においても東洋においても出てこなかったように思う。西洋において生と死を一つに考えて人生全体を考えたのは、やはり大勢から言えば、古典哲学の時代でしょう。私は西洋のことを存じませんけれども、カントなんかの出た時期まではやっぱりそっちが主だったように思います。しかしカントが古典哲学を大成してからは、ある人たちは心理学という方法を作ってそっちに行きましたでしょう。ある人たちは弁証法という新しい方法を考えて、哲学を別の面から捉えようとした。どうもどっちを見ても死について一生懸命考えるというやり方は実存哲学というまた別の個人経験というものを重く考える一派が出てくるまでは、ヨーロッパでも死に対する思索はしばらくおしまいになっていたようですね。仏教でも同じようなことが考えられます。東洋でもやはり死に対する関心は江戸時代半ば過ぎまでは非常に盛んだったようですけれども、江戸時代も半ばを過ぎると同じ仏教を考えるのでも、生きるということを主に考えるようになったですね。普通これは生きるということについて考えるのは、明治以後にというような議論が多ございますけれども、そうばっかりではないようです。さて私がこういう事実を踏まえて、皆様方と考えてみたいのは、黄色いチョークで書いた「不可知論」ということの意味です。知ることのできないものが人間にはあるという考え方です。これが実は私はこの「不可知論」という考え方こそ、合理主義の双子の兄弟だろうと思うんです。双子の兄弟でございますから、どっちかが先に生まれないことには、後は生まれてこないわけですね。私は順序から言えば、不可知論が合理主義を生んだんじゃないかというように考えます。これはもう今までの私の申し上げたところでご理解いただいている向きもいらっしゃいましょうし、もうちょっとご説明した方がいい場合もございましょう。つまり「不可知論」というのは、わからないものは切り捨てるという切り捨ての考え方です。わからないものがあるはずだし、あっても当然である。そこにいつまでもかかわり合っていては、思索―ものを考えることですね―ものを考えることは一歩も進まない、こう考える。そうなれば、つまり尺度に合わないものは切り捨てていく、あるいは別の言い方をすれば、この物差しで測ることのできるものはなんだろうということを見定めるわけです。ですから合理主義の生みの親はなんだと言ったら、啓蒙主義であるとか、科学であるとか、いろんなことをわれわれは科学史とか、哲学史で習いますけども、もう少し東洋と西洋と尺度の両方に出て考えますと、測るものは何だ。逆に言えば測れないものは何だという物差しの適、不適ですね。これが私は近代の合理主義ということを育てた直接の生みの親、ないしは間接的に言えば、兄弟だろうと思うわけです。そこで先ほどからちらちらと頭を出している死の世界、あるいは死という経験、それに連関して「冥界」、この二つが不可知論の対象として真っ先に槍玉にあがってくるだろうと思います。ここでどうぞ皆様方ご自分の読書の経験をお振り返りになっていただいて、死や あるいは冥界を扱った近代的な書物というのが、どれだけあったかをお振り返りになれば、思い半ばに過ぎるものがおありかと存じます。例えば渡辺照宏(わたなべしようこう)博士の『死後の世界』というような大変面白い御本もありました。渡辺先生がお出しになっている参考書の中にもございましたけれども、西洋人がこういう死や霊界、あるいは冥界について持っていた関心はまあ大変なものがございまして、そういったものだけを集めた字引のようなものさえございます。そういうのを見てみますと、まあ実に長いこと人間は見ることのできないものとして、死や、あるいは死の世界に関心を持ってきたかということがわかります。この下の「冥(めい)」という字をどうぞご覧ください。この「冥」という字は、「くらし」と読みます。真っ暗闇のことを「冥」というわけですね。ですからこれに目偏をつけても「瞑(めい)」でございます。これは「瞑」―「くらし」と読むわけで、目をつぶってしまえば、どんなに綺麗なところにいても何も見ることができない。これが「瞑目」なんていう「瞑」です。それから「瞑想」といって目をつぶってものを見ること。目をつぶってものを見るということはおかしなことでけども、目に頼らないで真実を見る。あるいは心の目で見るということでしょう。そういう「瞑想」であるとか、「冥界」であるとかいうものに対して、我々が持ってきた長い関心がございますが、それはどうも「不可知論」という新しい尺度、新しいものの考え方によって、どうも現代の思想界では登場してくる機会が少なくなったように思います。なぜでしょうか。それが実は密教というものの考え方が今見直されるであろう、私は最大の理由の一つではないかと思うんですね。見ることのできないものというのは、では何によって見ることができないのかと言えば、それは今ここに書きましたように、仏教の整理の仕方でいうと、「六根(ろつこん)・六境(ろつきよう)・六識(ろくしき)」ですね。これが目を始めとする我々が外界を知る力の根源でございます。皆様にはわざわざ申し上げる必要もございませんけれども、「六根」というのは、我々の体にくっついている外を知る道具―六つでございます。「眼(げん)」と言えば目でしょう。目玉の目の字は「げん」と読みます。「耳(に)」と言えば耳です。「鼻(び)」鼻でございます。「舌(ぜつ)」といえば舌です。「身(しん)」と言えば体というか皮膚というか、皮膚感覚ですね。それから「意(い)」といって頭の働きがございます。「眼・耳・鼻・舌・身・意」これが六根で、この「六根」、般若心経で何度も出てくる「眼耳鼻舌身意」というこの六つの外を知る働きがある。その中でも一番大きな働きを持っているのは、「眼」であろうと思われます。あるお医者様から伺った話では、「六根」とこう言いますけれども、六根の働きは決して十数パーセントずつで我々の認識を助けているんじゃない。だから圧倒的に大きい意味を持っているのは目玉の働き、目の働き、見る働きでございまして、これは大体お医者様にもよるんでしょうけれども、我々の外界認識の六十パーセントの、いわば情報源だそうです。ですからお目がご不自由ということは実に大変なわけで、六十パーセントの能力の欠如の上に勉強なさるわけですから大変だろうと思いますが、それを最初として、あと耳、鼻、―耳鼻合わせて二十数パーセントぐらいだというようなこともちょっとその時に耳にしました。そういう力によって我々の外にある世界をつかんでいく。この世界を掴むこともいちいち申しあげないでもご承知の通りで、これも般若心経にいう通りです。掴まえられるものは「色(しき)・声(しよう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)」という六つの境ですね。「境」というのは外境ということで、西洋哲学である対象と、それに対する働きかけを意味した言葉だと思いますが、目は色を掴むといいますが、この色はものですね。物の形、物の色を掴む。これがですから六十パーセントぐらいの重さを持っているんでしょう。それから後はもうこれ我々の常識と一致するわけで、耳は声を、声は音と声と両方意味しますね。香り、味、接触が、それから「法」というのは、この場合は真実ということですね。抽象的には真実でございます。それをこの目玉と色とが結びあった結果が、目が見たという意識ということになるんで、これを「眼識」といい、後は耳がつかんだという「耳識」になり、以下同様でございます。これを「根境識(こんきようしき)」と言ってですね、我々がものをつかむ仏教全体に通じての公式でございます。これは宗派と関係ない。お釈迦様ご自身のおっしゃっていますし、小乗仏教と言われる人たちも一生懸命このことを研究した。チベットあたりのお寺に行って勉強している様子を見せてもらっても、これがチベット語に変わるだけで、みんな小僧さんが後ろに先生の書いた紙を見ながら、「六根、六境、六識」を一生懸命覚えるわけです。勉強の仕方は同じです。昔の日本のお寺や、あるいは戦前の小学校と同じです。できなければ先生が鞭で叩くわけですけれども、鞭は向こうの方がよくできている。日本は短い鞭ですから、先生がそこへ行かないとひっぱたけないわけですけど、向こうは長い鞭ですから一番後ろにも届く。あれは日本には取り入れたらいいと思うくらいよくできている鞭で、一生懸命やるわけですね。そういうことを覚える。そういうのを一生懸命覚えた後で、それぞれの宗派に分かれるわけですね。初めからなになに宗じゃないわけです。そういう勉強をやる。ここで見てもやっぱり我々はこういう目なら目、耳なら耳、鼻なら鼻、舌なら舌、体なら体、意(こころ)なら意(こころ)、こういう我々の中にあるいわばレシーバーを使って外のものをつかむわけですね。このつかめるもののことを今日最初から申しあげている「理」と言ってよろしいと思うんですね。仏教では「理」という言葉は使いませんけれども、そういうつかめるものがあるという考え方が一つございます。しかし、つかめないものもあると考えると、お大師様がおっしゃるように、つかめるものとつかめないものという考え方が当然でてくるわけです。もちろん弘法大師だけに限らず、仏教の世界というのは、六根六境六識で尽きるものじゃないわけですから、目に見えないもの、耳に聞こえないものがあるということは、どのご宗派、どの宗祖方も百もご承知のことでしょう。しかし目に見えないものも掴まなければ宗教的経験とは言えない。どこまでがつかめて、どこまでがつかめないか、というだけだったら、それは学者の仕事です。つかめないものはどうやってつかめるか。これが密教だと私は思う。私の理屈を申し上げるよりも、このプリントにも書いておいたことでございますけれど、ここまでではまだ学者の仕事なんです。「因分可設(いんぶんかせつ)」「果分不可説(かぶんふかせつ)」といいますね。これは『華厳経(けごんきよう)』の言葉です。これは弘法大師も再々引用なさっておりますから、みなさんももう何度もご覧になったと思います。これが実は私がズーッとさっきから申し上げておりますように、ヨーロッパにおいても似たような表現というよりも、似たような考え方があちこち述べられております。これは改めて申し上げる必要もないと思いますが、念のために申しあげますれば、「原因の世界、原因の分際」。「因分」というのは、「原因の分際」ということですね。「分際」という言葉は、今ちょっと意味が違って、「なんとかの分際で」なんていうふうに使うと大変失礼な言い方になりますが、普通の言い方で言えば、「原因の世界」とでもいったらよろしいでしょう。この原因の世界は、いかようにも説明することができるというのが「因分可説」です。原因の世界は誰に言わなくたって自分は一番良く知っているということなんですね。よくわかるわけです。例えば入学試験みたいに結果のはっきりしたものをいう場合でも、「あの時はちょっと人数が多かった」なんて言い訳している倅がいますけれども、そういうのは大体出来が良くないんですね。人数が多いのは当たり前の話で。人数が多いからこそ試験をやって選ぶんでしょう。できない者から順に選ぶなんていう入学試験は聞いたことがない。ですからこれはもう採点する方からすれば、私どもみるとよくわかりますけども、同じ点数がズラッと大勢並ぶんですからね。一点でも余分になると合格点に入る。これはもう明々白々です。因分可説です。ただしどうして俺はこうやって三年目だけどまた落ちた。隣のなんとかちゃんは一年目でスルーと入った。神も仏もないもんかとこうやるでしょう。神も仏もあるんです。あるからこそやったものは受かるし、同じやったものでも先祖代々頭の良いものは受かるというわけですよ。因分可説です。これはもう他の説明は自分を慰める以外には説得力はないということになる。さぁっと考え込んで「先生、どうして私は何年やってもいい卒論が書けないんでしょう」いうようなことを嘆く人もいますよ。それはもっともだと思うんですけども、親に会ったら納得したなんていうそういう場合もあるわけですからね。まぁこれではちょっと気の毒ですけれども、およそ人間世界のことは、ご本人だけはなんとか体裁良い言葉を作るでしょうけれども、因分可説です。しかし、じゃ結果の世界。この場合の「結果」というのは、今言ったような人間世界の結果―入学試験に落ちたの、あるいは自分が結婚したい人と結婚できなかった。これなんかも分からないですね。どう見ても自分の方がいいと思うのに、向こうの方は、他の人選ぶということは、みなさんはご経験かどうか存じませんけれども、経験する人は多いわけですね。まぁ大抵自分が一緒になりたい、誰も一緒になりたいという人は、嫁一人に婿八人というように、どうしても不公平に集中するわけです。そういう結果、もっともっと大きな結果は人生全体を締めくくる時に当たって、果たして因果の法則の言う通りに、つとめ励んだ人が、世でいう幸福をつかむかどうか。それこそ今ここでこれから問題になる「現世」ということだけに限って言えば、現世で決着がつくと考えるんだったらば、それこそ本当に仏様はどこで我々の世界を評価していらっしゃるんだろうという疑問は湧いてくるわけです。我々が日常接するお葬式一つにしても、非常に賑やかなお葬式を迎える方もあれば、いいお方であったにもかかわらず、昔の人の言葉でいう「あなばたが寂しい」―「あなばた」というのは人を葬る昔の土葬の穴です。そこのところで集まってくれる人が少ないというのは、やっぱり寂しく生きて寂しく死ぬという感じは確かにするわけです。一体そういう人間の生涯の締めくくり、どこで決めるんだろう。中国の人たちは、「棺を蓋いて後定まる」棺箱の蓋をしてはじめてその人の評価なり、幸・不幸が決まるといいますけれども、これは中国の人がそうでしょうけれども、インドの人や、それからおそらくインドの影響にも依りましょうけども、日本の人たちは、棺を蓋いてもまだまだ定まらないと考えていたところがあると思う。生きている間のこともわからないとすれば、死後のことはなおわからないというのが「果分不可説」の本来の、あるいは実際の意味合いだろうと思います。原因世界はともかく説明はできる。しかし結果に至っては説明がほとんど不可能に近いというのが「因分可説、果分不可説」です。しかしそれでいいだろうか。これはこの説という言葉に出ているように、言葉に乗せて我々人間世界を説明しようとする、その意気込みから二つに分けた説明になったんだろうと思いますね。しかし、この説というのは、また後に申しますけれども、言葉に乗せるというだけで、理解しないで第六感、あるいは仏教で言えば第七識、八識、そういうもので直接につかむということになれば、この因果を両分して説明する、説明しない。説明できる、説明できないという分け方がすでに非常に論理的だと思いますね。この場合の論理的というのは、いい意味で言ってるんじゃないんです。論理にだけ頼っているという感じがする。こういうように分ける前の人間世界というのがあるんじゃないか。つまりそれを「因果不可分」ということは、これは古くから行われていたわけです。「因果不可分」ということを言ったわけです。お釈迦様も盛んにそのことをおっしゃる。いよいよのところになりますと、仏典でよく出てくる言葉として「言語道断」という言葉が出てきます。普通「言語道断」といいますけれども、「言語道」というのは言語による表現方法ということで、それが主語になって、三文字が主語になって「断」断たれると。受け身に読むべきですね。そうすれば、言語による表現方法は不可能である。もっと通俗的な言葉に直せば、「口では言えない」ということです。口で言えるものもありましょう。しかし口で言えないものもありましょう。その口で言えないものこそ、実はお釈迦様がいちばん大切な経験、つまり生きている間の人間の能力、あるいは半面から言えば、人間の無能力、あるいは半分しかない能力―半能力を超える唯一の道だとお考えになったように思います。それで考えていただいても、お釈迦様ご自身のご経験、あるいはお釈迦様ご自身のご経験の「再経験」。あるいはご自分の体験を他の人にも追わせる「追体験」。これを考えてみると、いわゆるお説法ばかりではないんです。これを原始経典では、「無言説(むごんぜつ)の説法」と呼んでおります。「無言説の説法」これは読んで字のごとく、言葉をお口にのぼせないで、しかも説法をなさっているということです。これはこの頃は中村元(なかむらはじめ)先生はじめ原始経典の研究が非常に進みまして、いろんなものを見ることができます。そういうものでご覧いただきたいと思いますが、お釈迦様の最初の説法のことは「初転法輪(しよてんぼうりん)」というわけです。「初転法輪」初めてのお説法ということですね。これは普通お悟りを開いたブッダガヤからお歩きになってですね、最初のお説法の場所だと言われる鹿野苑(ろくやおん)にお移りになって、ご自分と昔一緒に修行していた五比丘の人たちにお説法された。これが「初転法輪」として有名でございますけれども、別の経典によりますと、お釈迦様は、ブッダガヤでお悟りを開いて、それから鹿野苑にお移りになるまでの間、人間や龍ですね、人間の中にはバラモンもいましたし、他の人もいたし、龍というのは仏典ではなかなか程度がいいんですね。人間がお説法聞くのは当たり前の話ですけど、それから「何とか天、なんとか天」という天も、お説法を聞くことができる。それからさらに仏典の面白いところは龍です。これは真言密教でも、龍はなかなか大切な動物で、まぁ仏教全体でもいろんな仏具に龍が絡んでくるのはご承知の通り、この人(にん)と天と龍は、いかに尊重されるかと言いますと、「五戒」五つの戒律の中で殺生は非常に重いわけですけれども、その殺生の中でも特に「大殺生」大きな殺生と言われるのは、人間と天と龍とを殺すことだとされるわけですね。なぜかというと、人、天、龍は転生・化生しないで―「転生」というのは次の世に生まれかわること、「化生」というのは、他の動物に、生き物になり変わることですね―転生(てんしよう)・化生(けしよう)を経ないで、そのままに説法を聴聞できるのは、人と天と龍だというわけです。ですから、私の仏様の説法に例えるのは、大変妄断になりますけれど、こういうお経の話をしているときでも、「人(にん)」は勿論ですけれども、「天」と「龍」は同様に説法の会座(えざ)に連なってですね、対告衆(たいごうしゆ)になれるということだそうで、ワンちゃんやネコなんかが説法を聞くことができないのとは違うわけですね。その「人」と「龍」にお説法することが三回あったわけです、その鹿野苑に移るまでに。しかし、その場合のお釈迦様のお説法というのは、ただそこのところにお坐りになっておいでになっただけだというんですね。お坐りになっているだけが説法なんです。これは私は初転法輪も面白いけれども、もっともっと大切なことで、特に我々の密教のものにとっては、銘じて忘れべからざる大事実だと思うんです。それに対してそれじゃあそういう説法を聞いた人たちはどうすればいいのかと。お説法を聞いてノートをとってと言いたいところですけれども、お言葉をお出しにならないわけですから、合掌礼拝することはもちろんでしょうけれども、実際にやったのはそこの菩提樹の下に結跏趺坐(けつかふざ)していらっしゃるお釈迦様に対して、飲食(おんじき)の供養をしたというんですね。飲み物食べ物を差し上げたというわけです。いかがでございましょうか。この二つは同じ事実の両面です。お説法される方は、言葉をお出しにならない。同様に聞いているお方も、言葉はお聞き申しあげない。あるものは「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」と言いました。仏様の経験という大きな経験があって、その経験の中に供養する人も、されるものも入っているということでしょう。皆さんの下にこういう楕円を書いておきました。これはここに自分の力がある。「自力」というのがある。ここに仏様の力がある。「他力」というのがある。でこれら全体を包むこの世あの世の区別を超えた大きな世界がある。そこにも一つの力が働いておりますから、これを「法界力(ほつかいりき)」という。「自力、他力、法界力」とこう申しますけれども、この「自力、他力、法界力」という言葉は、実は興教大師(こうぎようだいし)覚鑁(かくばん)上人(平安時代後期の真言宗の僧。真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖:1095-1144)の言葉ですね。こういう関係がこの「無言説の説法」と、それに向かう「飲食供養」にあるんじゃないでしょうか。この「無言説の説法」というのを、こういう赤丸にしてここに移せば、これが無言説の説法です。それから飲食供養をここにこうやって移せば他力の場所に来るでしょう。この二つの大きな力が仏の悟りということで包まれて、今新しく紀元前五世紀のインドに実現したとすれば、ここで仏教は成立したわけです。お釈迦様という円(まる)ができた。それを崇(あが)めて、それに接触するという他力の人たちが大勢できたわけですね。だから今の言葉で言えば、宗教的な礼拝対象と宗教的な修行者と、それを包む大きな宗教的な世界というものができれば、これは仏教の言葉でいういわゆる「一体三宝(いつたいさんぽう)」でしょう。この楕円の中で「仏法僧の三宝」は、もうすでに備わっている。これがお寺の形を取ったり、経典の形を取ったりすれば、それがいわゆる形を帯びた仏教になる。「住持(じゆうじ)の三宝」。中国の人はこういうことをうまく整理していますけども、一体の三宝が成立すれば、住持の三宝が成立かどうかは、歴史であり、時間ですもんね。その精神さえ滅びなかったらば、仏教はいつでも蘇るわけです。この前の戦争で日本中のお寺の何割ですか、焼けましたでしょうけども、「仏法僧」という考え方がきちんとあって、お釈迦様の昔に戻る仏がいて、それに対する対告衆(たいごうしゆ)、信者がいて、そこに仏教的な世界、これは仏教圏ということになりましょう。具体的な地上でもいいし、精神世界でもいいし、この法界力の世界ができる。この基本構想ができさえすれば、仏教は永久に滅びないわけです。ただ門俗の目には、形をとったものが残らなければ仏教衰滅ということになりましょうから、それぞれに我々は活動して形を整える努力がまた必要になるわけですね。そういう世界ができたとすれば、では密教の正念場はどこであろうかという最後の問題に移りたいと思います。そこのとこで、私はまず一つとして、我々がいかに我々の声を仏に届かせるか。つまりこれは楕円の構造様式の中ですけれども、この楕円はもう今更いうまでもなく中心点が二つある円ですから、この二つの円の中心点が近づけば近づくほど、経験は凝縮してくるわけです。つまり仏様が我々に近くになればなるほど、仏様は我々の身近に見えてくるわけですね。実際に仏様を見たという経験なども、密教の世界では大事でしょう。こういうのを「観仏(かんぶつ)」と言います。仏を観るという言葉を使います。「観仏」これは日本にもいくつかの経験が語られております。御大師様にもそういうご経験があるようですし、それから一般的に言えば、大和の当麻寺の法如尼(ほうによに)といいます。法如尼というのは、在俗の時のお名前は中将姫(ちゆうじようひめ)といったお方ですけれども、このお方が亡くなったお母様が極楽国にいるのを見たいと思って、一生懸命五色の蓮の糸で極楽国を織りなした。お母様と極楽国を見た。これは観仏の典型的な例で、当麻曼荼羅はそうやってできたんだという縁起が伝わっております。チベットなんかの伝説を見ましても有名な無著論師が信仰していたのが弥勒菩薩であって、なんとか弥勒菩薩を崇みたいものと思って、毎日修行していて、見られなかったのが、十二年目にとうとう見ることができたなんていう話があります。ですから仏様を見るなんていうのは、あんまり便利すぎてはいけないんですね。 十二年かかってやっとご自分の信心してた弥勒菩薩を拝んだなんていう話があるくらいですから、簡単に拝めるのも考えもんですね。お寺にお参りに行くというのは、まず最低の努力でしょう。ところが今はなになにデパートで見られるなんてね。弥勒菩薩どこへ行って見られる。何何屋でやっているぞなんて、やってるぞなんていうところへ出かけていって五百円払ってだれでも見せるぞなんていうのは、善いような悪いようなところがあろうかと思う。私はやっぱりこの仏様をなんとか拝もうとする努力というのが、非常に必要だと思うんですね。その仏様を見るのは、今のようにお姿を見ることが一つです。もう一つは、自分の努力というものの限界、これが自力でございますけども、その自力というのをどんどん推し進めて行くと、同様に仏様の方もご自分の方にだんだん近づいてきてくれて、この中心点がついに一つになれば、この円は楕円じゃなくて一つの円になります。こうなった時を仮に「成仏」と言っていいとすれば、私は、「現世利益」というのは、その目標がもし悪に渡らない限りは、現世利益はこの楕円の中の無数の星のひとつと考えていいと思うんです。これは私の独創でも何でもないんです。これを言っているのは、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)が『大日経疏(だいにちきようしよ)』の中で何度もやや違う表現でおっしゃっていることです。ですから「現世利益」という言葉だけ取り出すといろいろ誤解を生むと思うんです。密教の世界に入っていらっしゃる方は、今申し上げたように、「現世利益」というのもたくさんある密教の功徳の一つだと。「利益」というのも実は功徳の一つだということは、中にお入りになった方はよくわかるんです。例えば健康ということをお考えになっていただきたい。健康を願うというのは、やはりそれ自体取りだせば現世利益の一つでしょう。しかしですね健康でなくて、仏道修行ができるかとお考えになれば、最も現世利益に似ている「身根具足(しんこんぐそく)」というような願いですね。これを一つにしても、これは決してただの現世利益でないはずです。お釈迦様の言葉で言えば、これを私は非常にありがたいことだと思う。原始経典に出ている言葉ですけれども、これはもうお釈迦様ご自身が、「現当二世(げんとうにせ)の利益」現世利益だけではないんです。現世と当来世―「現当二世の利益」とこういうわけですね。「現当二世の利益」といったならば、現世の利益というのは、今申しあげているように、体が健康であるとか、まあ在家の方であったら、家族が家内安全であるとか、そういうことでしょう。今の世の中でも誰でも願う現世利益です。しかしこの現世利益というのを、現世だけに取り出して考えることができるかということをお考えになっていただきたい。成仏(じようぶつ)を願うというのは、まさにやっぱり当来世の利益です。しかしその当来世の利益ということは、決して当來世だけに終わらず、まして現世だけに終わらず密着しているわけです。お釈迦様のお言葉でいけば、「不求自得之利益」です。体が丈夫になりたいということだけ願う人は、仏教者ではまずないでしょう。しかし体の丈夫を願わない仏教者もまたないでしょう。体が弱くって、年中ぴったらぴったらしていて何が出来るかと言ったら、やっぱりそれはできることに限界が出てくる。弱い体の中で精神力を掘り起こすということも一つですけれども、またそれよりも望ましいことは、なんとか健康を維持する。お弱い方だったら健康を回復する。そこからいわゆる「不退転の勇猛心」というのも出てくるんでしょう。もう一つ大切なことで、今日お伝えしようと思っていたことは、今これはいわゆる原始仏教の言葉で言ったわけですね。これは密教の言葉で言ったわけです。これはいわゆる小乗仏教の言葉『倶舎論』などに出てくる言葉で、どなたもご承知の通りですけれども、「三世実有論(さんぜじつうろん)」というのがやかましく繰り返されたわけです。「三世」というのは、「過去世」と「現在世」と「未来世」です。「過現未(かげんみ)の三世」というやつですね。このうち本当にあるのはどれだ。みんなあるのか。一つだけあるのか、という議論がいろいろ出て、『倶舎論(くしやろん)』では四つの説なんかが出ています。これはもうみなさんもご承知通りですね。結論を言いますと、それぞれみんな仏教の人が言ったわけですが。一番仏教でこれがオーソドックスとして受け入れられたのは、「現世実有」「過未無体」と説いた説です。「現世実有」というのは、我々が確かめることのできる経験。だから非常にヨーロッパ人なんかのいう、この頃になってヨーロッパ人の言う実存主義なんて言うのと感じが似てくる。現在ただいま自分のやっていることだけが、感覚でもつかめるし、責任も持てる。それに対して過ぎたもののことを過去という。また来ないもののことを未来という。文字通り未来は未だ来たらずですからね。そうだとすれば、仏教者の認識論でも、あるいは実践哲学でも一番良いことは現在に専念することだというのが、四人の論陣の中でも一番オーソドックスに認められたようです。やはり仏教者としての行動の仕方は、現在只今に専念するわけです。過ぎ去ったことにはくよくよしない。まだ来ないことにはもちろんまたくよくよしない。だから一番、例えば受験生で大事なことを言えば、現在只今受験勉強に専念することで、去年落っこったことをくよくよしたって、去年の入学試験の結果が再発表になることはないわけですからね。それから試験が終わっちゃってからの発表までの十日の方が、受ける前より嫌だと言った人は大勢います。私自身もそうだったんですけど、それもいくら考えたって自分の手は離れているわけでしょう。採点官は別のところでやっているわけですから。そのことをいくら考えたってしょうがない。とすれば、ジーッと腹据えて十日待っていて、十日目に見に行って、あったらばめでたく学生になるし、落っこったらばもう一回一年待てばいいということで、実際的に言っても人間の行動の仕方は、現世実有・過未無体でいくしかない。とすれば、これが仏教の時間論の一番の基礎だとすれば、どうしても我々は行動目標の一番手近な、しかも常に手近なところにあるのは現在のことです。私は、現世利益ということの哲学的な意味をとれば、私は現在に専念することに対する仏様の手助け、これが現世利益だと思いますよ。現世利益と言うのをもう一回申しますと、現在に専念する我々仏教徒、我々はそれしかできないんですもの。明日のことを今日からやるわけにはいかないでしょう。明日の準備はできます。手帳を開いて、「明日何か。教授会か」なんて見て、ああそうだ。こいつと組んでこいつを攻撃しようなんて、それは準備です。それはできるけど、実際に教授会に望まない限りは発言も何もできないんでしょう。そうだとすれば、やはり現在が我々の行動の基準です。その現在に対して今言ったような「教授会」なんていうのは、ただの例えですよ。もっと正しいことをやる場合でも、急に胃が痛くなった。腹痛くなったでは仕方がない。そういう時にいろんな条件を我々自身ではどうにもならない、因縁果で言えば、縁の世界に仏様が手助けして下さるのが、現世利益だろうと思う。これは現世利益は当然だから来世利益にも通じるわけです。哲学的には、過現未は無体なんですから。過現未はどれもこれもお互いに絡み合っていて、ただ時間の経過で、今を現在と思い、あるいは過去と思うだけでしょう。そうだったら仏様が利益を与えるか、与えないかと言うのは、一向に時間とは関係ないと思います。それじゃそれはなんだと言ったらば、仏様がご利益を下さるかどうかは、善、不善です。善なるものには仏様はご利益を垂れて手を貸してくださる。不善なるものには手を貸してくださらないという、それだけの基準だと思う。ですから簡単に言えばですよ、私どもが、「善」と仏教でいうのは、一口に言えば「自利(じり)利他(りた)」でしょう。自分の解脱、それから他人の済度でしょう。利益と言えば、それ以外にはないわけです。この自利利他円満の方向に沿ったものだったら、必ず仏様は力を貸してくださいますよ。これはご自分でお考えになれば、どなたでも、子供だってわかるわけです。今の世の中はすべてのことを分けて分けて個人の家でも嫁と姑、親と子、国際的に言っても、共産圏と自由圏というように別れて、このままで行ったら世界は一体どこまで細分化するのかという時期に来ていると思う中で、分けられない世界がある。いちばん大切なものは、分けられないといったのが、私は、密なる世界であろうかとこう考えております。私も微力ながらこの教えの末端にふして、皆様の後について布教の、あるいは研究の一端を担わせていただいております。どうぞお互い様にこの優れた教えを世に広めて法滅、仏滅の世の来たらざらんことを願うわけです。どうもご静聴ありがとうございました。
 
     これは、昭和六十一年十一月二日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである