ブッダを語るF四つの真理
              武蔵野女子大学教授 前 田(まえだ)  専 学(せんがく)
              き き て     草 柳  隆 三
 
草柳:  今年四月から毎月一回放送してまいりました「ブッダを語る」。いよいよ今日は七回目になりました。前回は、ブッダがブッダガヤの菩提樹のもとでいよいよ悟りを開く。その悟りの内容とは一体何だったのかというお話をしていただいたわけで、数えて齢三十五歳か三十六歳の頃だったというふうに言われているわけです。今回はいよいよブッダが伝道の旅に出るというところに話が差し掛かってきたわけで、いつものように武蔵野女子大学教授の前田専学さんに伺ってまいります。よろしくお願い致します。
前田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  山に例えれば、そろそろですねこれから胸突き八丁というところなんですが、ブッダ自身もこれからがやはりまた大変な時期を迎えてくるわけですね。
 
前田:  そうでございますね。
 
草柳:  いつものように前回のお話をちょっとなぞりながら、また今日のお話に入っていきたいと思うんですが、前回は悟りの内容とは一体何だったのかということを、縁起の話を中心にして聞かせていただいたんですが、もう一度悟りとは何だったのか?
 
前田:  悟りの内容というのは、よくわからないのが本当なんですけども、一応「縁起」ということであったということでお話を進めてまいったわけでございますが、その「縁起」というのは、字に書いてありますように、「何々によって起こる」という意味でございますね。ですから何かある因縁ですね、「因縁」によって起こる。「因」というのは直接的な原因、「縁」というのは間接的な原因によっていろんなものが起こっているんだと。そういう意味でありまして、最初と申しますか、ゴータマ・ブッダが菩提樹の下で悟られたのは、「十二因縁」(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個であり、この12個の支分において、無明によって行が生じるという関係性を観察し、行から次第して生や老死という苦が成立すると知ることを順観という。また、無明が消滅すれば行も消滅するという観察を逆観という)と言っておりますけれども、十二の項目を考えましてですね、そして人間の現実の苦しみというのが一体どういうところから起こっているんだろうと。そういう観察がなされて、そしてその原因というのは、生まれたことが原因なんだ。それでは生まれたことはなんだろうというふうなことで、原因をどんどん遡ってまいりますと、大きな原因に突き当たるわけで、その一つは「渇愛」と申しますか、そういう「煩悩」と申しますか、「欲求」と申しますか、そういうものが一つあるわけですね。それからもう一つ、さらに奥に「無明(むみよう)」というものに行き当たると。そこで十二の項目がずっと並べられておりますけれども、一番頭にくるのは、無明がまいりまして、最後に老死というような、そういう苦のいろんな項目が並ぶわけですけれども、そういうも無明というものが原因であるから、それを滅すれば後のものはなくなるというのが「逆観(ぎやつかん)」と言っておりますけども、「滅すれば」という文字を入れますと、逆に観察するわけですね。その前に申し上げたのが、「順観」と言っておりまして、その原因をたどって行って、そして無明があるが故に、これこれのものがあると。そういうような見方、観察の仕方がこれが「順観」と言っておりますですね。順観と逆観と両方の観察をされまして、悟りを開かれたということが仏伝に出ておるわけでございますね。
 
草柳:  今の「無明―渇愛―苦」というその縁起。その一番大元の「無明」というのはこれは前回のお話では、つまり人間が生来的に持っている無知―知らないことであるというお話だったですね。その無知というのは、例えば「無明の酒に酔う」という言葉があるようですけれども、つまり迷いの世界に生きることというふうに考えていいわけですか?
 
前田:  そうですね。迷いの根源になっているものとお考えいただければよろしいですけども、それは一体どういうものかと質問されますと、なかなか困るわけでございますけどもね。そういういろんな煩悩が起こってくる。そういう根源に無明というものを置いたわけですね。無明というのは何かが、真理なり、それが知られたならばなくなってしまうものでございますから、それ以上の根源と申しますか、原因というのを考えないでいいんじゃないかということがあるわけですね、論理的に申しますと。そういう意味で無明がよろしいんじゃないかと思います。無明というのが最終的な原因として考えるわけですね。
 
草柳:  そして縁起という、言ってみればその仏教の一番根本的な考え方というか、それが一遍に十二の因縁がその当時、もう出来上がっていたということではなかったみたいですけども。
 
前田:  最初はなぜ苦しんでいるんだろうか。その原因を見るというんで、「生」というのがあるということですね。生が根源になっていて苦しみがあると。そういうような二つの項目とか、さらにその三つ目を考えるとだんだん増えていって、一つの系列は「渇愛」というものが根源にあるという考え方。それからもう一つは、「無明」というものが、根源にあるという考え方がおそらく融合されて、結合されて、そして今日見られるような十二因縁の―十二支因縁と申しますかね。そういう縁起と申しますか、そういうものになった。そのためにはずいぶんおそらく時間がかかっているだろうと思いますね。ゴータマ・ブッダ自身がその形で説かれたということではございませんですね。いろんなこの経典の編纂者・組織者がいて、だんだんそういうものを体系化していったと。そして一番まとまりの良い形に収めたということではないかと思いますけどもね。
 
草柳:  そしていよいよブッダは悟りを開いて伝道に出ていくわけですか。
 
前田:  行くんですけれども、その前にですねゴータマ・ブッダが悟ったところで、やはり悟ったにもかかわらず悪魔がまたまたまた登場するというようなことがございまして、「お前が悟ったのであれば、もうそれで終われと。伝道するな」というような悪魔の囁きがまいりますですね。それがゴータマ・ブッダが一体おそらくそこで逡巡(しゆんじゆん)する、そういうところを伝道して然るべきであるかどうかですね。果たしてこういう道理を説いたところで理解してくれるかどうか。理解したところで悟ることができるだろうか。もしそういう理解してくれないのであれば、骨を折って、伝道したところで意味がないというような、そういう躊躇の気持ちが悪魔の登用というような仏伝伝記作者の技巧として出てきたんじゃないかと思いますけども。
 
草柳:  その自分が悟った内容を相手がわかってくれるかどうかということも、これも一つ迷いでしょうし、つまり悟りを開いたということで全てが終わったわけではなくて、ブッダ自身も、今おっしゃるその悪魔というのは、当然これはブッダの心の中の問題として、つまりブッダ自身も悟ったとは言いながら、まだまだいろんな問題を抱えているということの意味でもあるわけですね。
 
前田:  だと思いますね。そういう自分の悟った境地というものを一体伝えるかどうかということですね。悟った気持ちを伝えたい気持ちは一方にあるでしょうし、そこを引き止めるような気持ちが一方ではあるというようなことだろうと思うんですね。悪魔が登場してきたことに対しては、決然と自分はこれから人々に教えを説くというようなことが出てまいりますけども、しかし他方では逡巡してこれでやめようというような、そういう面も、仏伝の中では出てくるわけですね。
 
草柳:  その躊躇する気持ちを断ち切るというのは、これまた大変な決意が必要だったでしょうね。
 
前田:  そう思いますですね。とにかく自分の周りがバラモン教ですかね、そういう人たちばかりがだいたい周りにいるわけですから、そこで新しい自分の境地というものを述べていくというのは、やはり大変な決意がないとできないことだろうと思いますですね。
 
草柳:  前回の後半のところでちょっとお話いただいた「梵天勧請(ぼんてんかんじよう)」という、つまりそういう繋がりの中で出てくるわけですか?
 
前田:  そうでございます。そういう躊躇逡巡しているときに、梵天(ぼんてん)(ブラフマー)というヒンズー教の神様ですよね。その神様が出てまいりまして、ゴータマ・ブッダに「その教えをみんなに説いてくれ」ということを説得するわけなんですね。ゴータマ・ブッダは一回の懇請では決心をまだできなくてですね、二回、三回と、三回こう頼まれましたんですね。やっと決意をするということになるかと思いますけれども、要するに梵天というのは、仏教だと日本にも来ておりましてですね。伊達政宗(だてまさむね)の幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」なんていう名前をつけていましたですね。そういうふうに日本人には大変親しまれているわけですが、ヒンドゥー教の神様で一番重要な神様ですね。その神様がゴータマ・ブッダに、「自分の教えを人々に説いてくれ」ということを説得するわけですけどね。これは一つの理由付けという申しますか、その古い今までの伝統的な宗教に対して、新しい宗教を広めるにあたって、従来の宗教の方からの懇請があって、そして説くんだということで一つのジャスティフィケーション(justification:正当化すること、正統な理由)な感じでできることになりますですね。そんなようなことで梵天勧請というようなことがありまして、決心を彼は固めることになるわけですね。
 
草柳:  それはブッダ自身の心の中の問題も勿論当然あるでしょうけども、おっしゃるようにその当時のインドの社会というものを考えてみれば、当然仏教以前のバラモンが支配する社会だったわけで、それはおそらく強烈なものじゃなかったんじゃないかという気がするんですね。そういう中に言ってみれば、新興の宗教である仏教をブッダが教え広めていこうというふうに考えたら、おそらくいろんな抵抗が多分あったんでしょうね。
 
前田:  そうでしょうね。ゴータマ・ブッダ自身が新しい宗教を打ち立てるというような気持ちはおそらく持っていなかったかもしれませんけどもね。自然に新しくなって来ておるわけですけれどもね。いろんな例えば「バラモン」というような言葉を使ってみたりしているわけですけれども、それはやはり新しい宗教というものをそこで打ち立てるというような意識はなかっただろうと思うんですけどもね。それにしても自分の生き方とか、考え方とか、そういうものを周りのバラモンの人たちに説くというようなことは、なかなか躊躇(ちゆうちよ)・逡巡(しゆんじゆん)せざるを得ないような要素があるんじゃないかと思いますね。
 
草柳:  そういうところで今お話の梵天という、まぁいわば神様の中の神様のお墨付きをもらったということで、
 
前田:  そういうことで、そこでジャスティフィケーションが一つできるわけですね。そういう神の声を聞いたんでございましょう。
 
草柳:  それでどうするわけですか?
 
前田:  それでブッダガヤで彼は悟ったわけでございますよね。それでいったい自分の教えは誰に最初に説こうかということで思いめぐらしますと、一番身近にあったと申しますのは、自分の最初の先生であるアーラーラ・カーラーマという先生のことを想い起こすわけですね。あの先生が多分私のいうことも聞いてくれるだろうということなんですが、七日前に亡くなっているということがわかるんですね。致し方ありませんから、その次に習った先生であるウッダカラーマ・プッタという先生のところにどうかと考えたところ、この方も確か前日でしたか、亡くなったというようなことでございまして、結局ダメだ。ではということで、かつて行動を共にしたことのある同じ釈迦族出身の五人の修行僧たちのことを想い浮かべるわけですね。この五人の修行僧たちは、コンダンニャというのを初めとしてですね、このゴータマ・ブッダにずーっと付き添ってきたわけですけども、苦行をゴータマ・ブッダが捨てるという場面で、ゴータマ・ブッダを見捨ててしまって、
 
草柳:  そうですね。途中で別れたんですね。
 
前田:  そうですね。ベナレスに行ってしまうんですね。ヴァーラーナシーと現在言っておりますが。そこにいるということがわかるんですね。テレパシーのような、そういうことであったのかもしれませんけども。そこで彼はまず五人の比丘たちに教えを説こうというので、二百五十キロあるでしょうか、そういうところをてくてくと徒歩で歩いていくことになりますけれども。
 
草柳:  この地図で見ますと、右下のブッダガヤが悟りを開いた地ですよね。
 
前田:  そうでございます。
 
草柳:  それから左の方にガンジス川を遡っていくとヴァーラーナシーという所、ここですね。
 
前田:  そこでございますね。今でしたらブッダガヤからガヤーというところに汽車の駅がございますから、そこまで行きまして、そこから汽車で四時間ぐらいかかりましてヴァーラーナシーに着くわけですけども、汽車を使ってもそれくらいの時間がかかるわけですから、歩いて行けばおそらく十日とかですね、それ以上かかるかもしれませんけれども、大変な苦労をしてヴァーラーナシーにおそらく行き着いたんだろうと思いますね。
 
草柳:  その五人の仲間たちの出会いというのはどんなふうだったというふうに伝えられているんですか?
 
前田:  そうですね。 五人の仲間たちは、ヴァーラーナシーの近くにあってサルナートですね、ヴァーラーナシーから八キロぐらい北の方に行ったとこでございますけども、そこにおりましてですね、ゴータマ・ブッダが来るということで、しかしかつてゴータマ・ブッダを捨てた人たちですから、約束をするんですね。ゴータマ・ブッダが来ても、普通ならば衣をとって、鉢をとったりなんかして歓迎して迎えるわけですけども、そういうことをしゃいけないというようなことを互いに申し合わせていたわけですね。ところがだんだんと近づいてまいりますと、だんだんそういう約束も忘れてしまって、おそらくゴータマ・ブッダに何か威厳と申しますかね、何か言い知れぬ神々しさのものがあったのでしょうか、そういうものを感じ取って、そういう約束をもうどっかへ行ってしまいまして、衣鉢を取り、そして座を設けるというようなことになるわけですね。
 
草柳:  態度がガラッと変わったわけですか?
 
前田:  そうでございますね。それだけゴータマ・ブッダの修行した悟りを開いた境地というのが体からなんか出ていたんじゃないかと思うんですけどね。
 
草柳:  おのずからやっぱり威厳に満ち溢れた姿というものに、五人のかつての仲間たちが打たれてしまったということなんでしょうね。
 
前田:  ええ。そういう約束を反古(ほご)になってしまいましてね、そこで教えを聞くわけですけども、それは最初なぜゴータマ・ブッダは苦行を捨てたとか、そういうようなことが話題になったんでありましょうし、まぁそのことの詳しいことはよくわかりませんけども、現在残っている文献などは若干その面影を忍ばせるものがありますけども、どこまで詳細に知らせてくれているのかわかりませんけども。
 
草柳:  その五人の仲間と再会をしたサルナートというところは、先生は何回かお訪ねになったんですか?
 
前田:  私、二回まいりましてね。 一回は三十年前に行きまして、二回目はついこの今年の三月の前後に行ってまいりましたが。
 
草柳:  どんな感じだったですか?
 
前田:  いつ行っても素晴らしいとこですね。サルナートの今出ているダーメーク・ストゥーパですね。これも確か三、四十メーターの高さがある堂々たる建物なんですよ。
 
草柳:  いつ頃つくられたものなんですか?
 
前田:  グプタ朝と言われておりますですね。五世紀か六世紀か、それくらいだろうと思われますけれども、詳しいことはよく分からないですね。ここは「鹿野苑(ろくやおん)」と言ったところですが、鹿がおそらくいたんですね。最近それにちなんで鹿がいるようになったと言われておりますけど、私は見なかったんですけどね。これが精舎の跡とか、いろんなあそこの遺跡の光景でございますがね。
 
草柳:  いろいろな宗教家が集まった所なんですね。
 
前田:  そうでございます。仙人と申しますか、そういう人たちがそこに縷々集まってたとこです。今出ておるのが大変有名な初転法輪像(しよてんぼうりんぞう)でありまして、サルナートの横に博物館がございまして、そこに収められているものですね。法座の下のところに五人の弟子がおりまして、左の方は女の人が子供を連れているんですが、真ん中に法輪を転ずるというわけで、法輪で、その前のところにあるのが、鹿が二頭いるんですね。おそらく鹿野苑ですから、鹿のいた象徴になってますけども。
 
草柳:  「初転法輪(しよてんぼうりん)」というのは、簡単にいうとどういうことなんですか?
 
前田:  初めて法輪を―法を説くという。法輪というのは輪ですけども、これは一つの象徴みたいなものでございまして、転輪聖王(てんりんじようおう)なんていまして王権の象徴みたいなもので、王様が世界を支配する。その時に武器とか、そんなもの用いないで支配する。そういうのを転輪聖王というのですけども、法を輪に譬えているわけですね。宇宙の真理と言いますか、仏教の真理というものを輪に譬えておりましてですね。
 
草柳:  いい姿ですね。
 
前田:  これがアショカ王の石柱がサルナートに現在残っておりますけども、それが半分地上二メートル位のところで折れてしまっておりましてですね。
 
草柳:  アショカ王というのは、これは事実上仏教を広めるのに貢献した王様ですね。
 
前田:  ええ。石柱の上に載っかっていたのがこの四頭の獅子の柱頭ですね。これが今のインドの国家のエンブレム(emblem:象徴、表象、紋章)と申しますか、いろんな外国文書とかのちゃんとした物には、この印がついておりましてね。根本のところにサンスクリットの文句が書いてありまして、「真理のみが勝利する」という意味なんですけども、ウバニシャッドの文句ですが、そういうのがインドの国家の紋章になっているんですね。
 
草柳:  獅子というのは、インドではもう象徴的な動物で、
 
前田:  ええ。動物の王様、百獣の王ですからね。
草柳:  これが法輪ですか?
 
前田:  これが法輪でございますね。ですからこれがインドの国旗の中にもこの法輪が入っていますね。
 
草柳:  さてそれで今ご覧頂いたところで、五人の比丘たちにブッダが会っていろいろ話をするわけですね。何をどんなふうに説いたんですか?
 
前田:  それも実ははっきりわからないというのが真相だろうと思うんですね。いろんな最初に説いたことに関する記述がいろんなところで出てまいりますけども、はっきりこうだったということが言えるほどのものではないような気がするんですね。しかしそれでは今日の話になりませんので、まあ一番よく知られておりますのは、『転法輪経』というお経があったりですね。よく引用しておりました『律蔵』の最初の部分のところですが、そこの中に出てくる記述など見ますと、それに従って今日はお話したいと思っているんですけども、「中道」だとか、「四諦八正道(したいはつしようどう)」とか、そういうようなことを説いたというように書かれておりますですね。
 
草柳:  おそらくこれは本当の想像なんですけれども、ブッダがその五人のかつての仲間たちに会ったとき、さっきの話ではブッダの威厳に打たれてまさにひれ伏すばかりという感じだったんですけど、それにしてもやっぱりいろいろな疑問というのは多分ブッダに相当ぶつけたんでしょうね?
 
前田:  おそらくそうだと思いますですね。そこでゴータマ・ブッダが最初に説いて、最初に悟ったのがコンダンニャという長老だったわけですけども、彼が悟ったときには、ゴータマ・ブッダが大変喜んで感嘆の声を上げて「コンダンニャが悟った、コンダンニャが悟った」と。「悟ったコンダンニャ」ということで「アンニャー・コンダンニャ」という名前にその後なったと言われておりますけれども、おそらくゴータマ・ブッダとしては自分の思想、あるいは宗教というものが人によって理解されたということがおそらく大変喜びであったんだろうと思いますですね。ですからそういうことになったと思いますが。それから後の四人がまだ残っておりますから、托鉢に出かけたりなんかしながら教えを彼は説いていたわけですがね。そのうちに四人とも最後には悟るということになります。最初にここで五人の弟子ができまして、ここで教団が成立したというように仏伝ではなっておりますけども。
 
草柳:  なんかいつもなんとなく私の質問すると下世話な話になるんですが、五人の仲間たちとブッダがそうやって今のお話のようにですね、交代で例えば托鉢に出たりなんかという話を伺っていますと、なんか論議しながら丁々発止と、
 
前田:  そうですね。そこのところはどうでしょうか?
 
草柳:  もう二千四、五百年前のことですから、具体的にどういうことがあったのかなんていうことはね、とてもわからないでしょうけども。
 
前田:  わからないですけどもね。でもインドの人たちというのは、非常に議論好きでございまして、インドで論理学が生まれたんですね。世界で論理学が生まれたのは、二つの民族しかないわけで、一つはギリシャですね、もう一つがインドでございましてね。インドの論理学が発達したのはそういった論争の手段として発展してきているわけですね。ですからおそらく丁々発止と論議された可能性はなきにしもあらずだろうと思いますですね。
 
草柳:  しかし、コンダンニャという一人が悟ったというときには、ブッダが嬉しかったでしょうね。
 
前田:  嬉しかったと思いますですね。
 
草柳:  理解されたという。
 
前田:  はい。そのためにしばらく迷って、自分の悟ったことが理解されないんじゃないかと。理解したとしても悟りに至らないんじゃないかと。そんなふうじゃ疲れてしまうというようなことを考えて迷っていたということが出ておりますけどもね。そういう形で決心をして長い道のりを経て、しかも先ほど話が出ましたサルナートというところは、そういう仙人たちの集まるところで、宗教家ですね、全国の宗教家が集まってきてですね、そこで五人の弟子を得たということでございますからね。大変なそこである意味では認められたということになるわけでしょうから。
 
草柳:  さてそれで初転法輪という最初の説法の内容なんですけれども、これについてはどんなふうに伝わっているんですか?
 
前田:  そうですね。内容は先ほど申しましたように、はっきりと分かりませんけれども、一番おそらくは問題とされたのは、「中道」ということだろうと思いますですね。 五人の弟子たちがゴータマ・ブッダがもとを去っていったひとつの理由は、ゴータマ・ブッダが苦行を捨てたというところだったわけですね。ということは、実践ということの上でゴータマ・ブッダの生き方に失望したところがあったんだろうと思いますですね。ゴータマ・ブッダがとられたのが、「中道」という実践の道だったわけですから、おそらくそういうことが非常に大きな話題になったんじゃないかと思いますですね。なぜ苦行を捨てたのかということがですね。これは想像の中に入るわけでしょうけれども。
 
草柳:  そのことについて経典の中に述べられている部分があるということですので、ちょっと読んでみたいと思います。
 
修行者たちよ、出家者が実践してはならない二つの極端がある。
その一つは、ものもろの欲望において、楽しみに耽ることであって、ためにならぬものである。
他の一つはみずから苦しめることであって、ためにならぬものである。
真理の体現者はこの両極端に近づかないで中道をさとったのである。
(サンユッタ・ニカーヤ転法輪経)
 
前田:  そうですね。これが『転法輪経』の中の一節でございますね。『転法輪経』というと、『サンユッタ・ニカーヤ』というお経のグループの中に収められているわけですが、その中に出てくる一節で、まぁ中道ということですが、二つの極端があってですね、その一つが、欲望のままに動くやり方ですね。これはかつてゴータマ・ブッダが自分が王子であって王宮にいた時にしていたようなそういう生活であるわけですが、当時も出家者の中には快楽主義などとる人たちもあったわけでございますけれども、それも一つの極端であるわけです。もう一つの極端は、苦行の道ですね。この二つの道があるけれども、二つともためにならんということで、これは真理の体験者―これはゴータマ・ブッダ自身のことを言っているわけですね。この二つの極端に近づかないで中道を悟ったのであるということで、二つの道の二つを足して二で割るというようなのが中道ではないんですね。二つのものを、どちらに一方に行けば何かそれが目的化してしまいまして、苦行なら苦行というものが目的みたいになってしまう。それに執着―とらわれてしまう。そういうのではなくて、やはり目的はあくまでも悟りというところが目的ですから、そういう快楽主義、あるいは苦行というものを、どちらにもとらわれないで、最もふさわしい道を選んで進んでいく。それが中道だろうと思うんですけどね。それにとらわれない境地ですね。どちらかに偏してしまっていくということは、どうしても偏りができて、悟りに行かなくなってしまう。それを自分は両極端を排して中道を歩んだということを言っているわけですね。
 
草柳:  その中道についてまたもう一つ仏典の中からご紹介したいと思うんです。
 
〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、
清らかに涼しく、とらわれることなく、
全世界にうち勝った健(たけ)き人―
かれをわたしはバラモンと呼ぶ。
(スッタニパータ)
 
前田:  そうですね。これはいつもよく引用します『スッタニパータ』でございますね。「快楽」と「不快」、先ほど「両極端」という言葉が出ておりましたが、一つは「快楽」という極端であり、もう一つは反対の「不快」という、一つの極端になるわけですが、それを捨てて清らかで涼しくて両方どちらにもとらわれない。そしてとらわれのない世界に入ったわけで、全世界に打ち勝った健(たけ)き人と、そういう理想と申しますか、それを達成した人、それをバラモンと呼ぶと。この場合のバラモンというのは、いわゆるバラモン階級のバラモンではなくて、これは内容は、こういったような理想を実現した人をバラモンと言っているわけですね。このバラモンという従来の言葉を使いながら、新しい概念内容を盛り込んでいるわけでございますけどね。
 
草柳:  「これこそ真の最も尊き人」というか、そういう意味合いでございましょうか?
 
前田:  そうですね。本当に清く涼しい、そういうとらわれのない境地、これが悟りの境地なんですけどね。それを実現するような人、それがバラモンだということなんでしょうね。
 
草柳:  ですから、中道というのは、今のお話のように「とらわれることがない。しかも清く涼しくという境地」。決して極端と極端を足して二で割るような、そういう単純なものではない。ましてや、今使われているような中途半端な気分では勿論当然決してないわけですね。
 
前田:  ないですね。非常にある意味では積極的なものでありますね。原語は「パティパダー」という、単なる道ではなくて、突き進んでいく、そういう道を言っているわけですね。ですから消極的というのと全く逆でありまして、極めて積極的な生き方だろうと思いますね。
 
草柳:  この中道の教えについては、ブッダは、前にもお話がありましたけれども、「対機(たいき)説法」ということで、相手を見ていろいろな言い方をなさったということで、いろいろな言い伝えがあるんだそうですけれども、「弾琴(だんきん)のたとえ」というのがあるそうですね。そこをちょっと紹介したいと思うんですが、そこを読んでみたいと思います。これに出てくるソーナというのは、ブッダの弟子のことなんです。
 
「ソーナよ。汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎていたならば、そのとき琴は音声快(こころよ)く、妙なる響きを発するであろうか?」
「尊い方よ。そうではありません。」
「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が緩やかすぎたならば、
そのとき琴は音声快(こころよ)く、妙なる響きを発するであろうか?」
「そうではありません。」
「汝はどう思うか? もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、
緩やかすぎてもいないで、平等な(正しい)度合いを保っているならば、
そのとき琴は音声に快く、妙なる響きを発するであろうか?」
「さようでございます。」
「それと同様に、あまりに緊張し努力をしすぎるならば、
心が昂(たかぶ)ることになり、また努力しないで
あまりにもだらけているならば怠惰となる。
それゆえに汝は平等な釣り合いのとれた努力をせよ。
もろもろの器官の平等なありさまに達せよ。」
 
とこういうふうに説いている。
 
前田:  そうでございますね。いわば「調和」と申しますかね。中道というのは調和というのと非常に近いところがあるわけでございますよね。よくオリンピックなんかでも、日本の期待を背負っていた人がダメになってしまうなんてよくありますね。あれはやはり緊張のし過ぎなんですね。琴の弦を張りすぎているわけでしょう。それを自然体なんてよく言いますけれども、そういうのが無心の状態とか、そんなことで日本でよくいうのですけれども、そんなところと相通ずるものが中道にはあるんですね。怠けているわけでは決してない。中途半端でも決してない。かといって緊張しすぎているわけではなくて、非常に適度の一番心の動きやすい状態ですね。よく心がコントロールされた状態に保っているのが中道だろうと思いますね。なかなかそれは難しいですよね。外界の環境がいろいろ違いますと緊張がつい高まったりなんかいたしますけれども、そういうものに対して常に対応していくという、それが中道の実践の仕方だろうと思うんですけれども。
 
草柳:  今の弟子のソーナへの教えの中にも、「諸々の器官の調和をとりなさい」というふうに言っているのは、つまりそういうこと、
 
前田:  そういうことでございますよね。よく自転車などに最初に乗るときでも、非常に緊張してしまいまして、倒れちゃいけないと思って一生懸命に肩の力を入れるもんですから、かえって倒れてしまう。肩の力を抜いてバランスをうまく取れればすーっと乗れるわけですけども、そういうことでございますね。ソーナというのは、あまり緊張しすぎて体を壊すと。もうやめようかなんていうようなことをゴータマ・ブッダに言った時に、その話をゴータマ・ブッダが彼にしたわけですね。
 
草柳:  ソーナというのは、今のブッダの教えを聞く前には、そういう…
 
前田:  一生懸命悟りを開こうと思って、必死になってやっていたわけですね。焦っていたわけですね。体を壊すとか、そういうようなことになってしまうわけですけれども。そこのとこでゴータマ・ブッダが「弾琴のたとえ」をされて、調和を保てということを言われたわけですね。
 
草柳:  今、お話をいただいているその中道と、それから前回、今日最初にもちょっと話を伺った「縁起」とのことの関係というのはどういうことなんですか?
 
前田:  そうですね。「縁起」というのは、もののあり方の道理を示したものですね。「中道」というのは、そういうあり方が現れてくるのを実現するための、いわば実践道と申しますか、実践の仕方でございますね。そういうふうにご理解いただければよろしいかと思いますけれども。縁起というのは、もののあり方ですね。それを悟るための、いわば道が中道ということであるわけですね。逆に言えば、縁起そのものが中道ということでもあるわけですけどもね。
 
草柳:  縁起というのは、物事の起こる道理である。中道というのはそれを実践する原理。
 
前田:  知ると申しますか、それが道理そのものが自分に現れてくるための道でございますね。
 
草柳:  今日のテーマは、その「四つの真理」というんですけども、その四つの真理というのはどういうことですか?
 
前田:  そうですね。「四つの真理」というのは、「苦(く)・集(しゆう)・滅(めつ)・道(どう)」という。「苦諦(くたい)」、次が「集諦(じつたい)」仏教では「じったい」と読みならしておるんですけどね。「滅諦(めつたい)」「道諦(どうたい)」というのでありますが、「苦」というものがあって―現実に苦があるわけですけれども、その原因が何かというのがこの「集諦(じつたい)」の方ですね。それからその原因を滅すれば悟りというようなところに至れるというのが「滅」でありますし、「道」というのは、実践の仕方を教えているわけですね。これはよく今までは医学の方にならって作ったんじゃないかというようなことが言われておりますけれども、例えばお腹が痛いという、そういう症状が現れるわけですね。それが「苦」ですけども。じゃお医者さんのとこに行きますと、お腹が痛いということを患者から聞いたお医者さんは、その原因は何だろうということをまず追求するわけですね。食べ過ぎたと、あるいはお腹を冷やしたとか、まぁいろんな原因があるわけでしょうけども。そうしますと、その原因がわかれば、今度はそれに対してその原因を取り除いてやればよろしいわけですね。それが「滅」になるわけですね。「道」というのは、どういう処方するかと。薬を―胃の薬とか、お腹の薬とか、それを処方するのが「道」にあたるわけですね。そういうような医学の方から来ているんじゃないかというようなことが言われていたことがありますけど、最近はそれを否定する人もおりますけどもね。なかなかうまい解釈だと思うんですね。わかりやすい説き方ですよね。この四つの真理のこういう形にまとめられたのは、非常に時間がかかってできたんであって、最初から出来ていた訳ではないだろうと思うんですね。
 
草柳:  つまりその中道と縁起を理論付けたというふうに思えばいいわけですか?
 
前田:  そうでございますね。
 
草柳:  では一つずつ少し詳しく見ていきたいと思います。まず「苦諦」、
 
[苦諦]
生れることも苦しみであり、
老いることも苦しみであり、
病むことも苦しみであり、
死ぬことも苦しみであり、
憎い者たちと会うことも
苦しみであり、愛するものと
別れることも苦しみであり、
求めても手に入らないことも
苦しみであり、身心、環境の
すべては苦しみである。
(マハーヴァツガ)
 
前田:  これは「四苦八苦(しくはつく)」という、前にもお話ししたことがございますけども、最初の「生老病死」のところは「四苦」ですよね。人間にとって避けられない苦しみでございますね。どうしても避けては通れない。どんなに科学技術が発達しようともこれは残るだろうと思うんですね。これを説決できるようなものではないだろうと思うんですね。それから後の「憎いもの」とか、これは「八苦」の中に入るわけですけども、最初の四つと、それから後の四つがあるわけですが、全部合わせて八つになるものですから「八苦」と言っておりますけれども。「四苦八苦」という。
 
草柳:  これは今でもよく使う言葉ですね。
 
前田:  これをまとめて「四苦八苦」というような言葉が出来てきているわけですが。
 
草柳:  ただ言葉の問題なんですけれども、「諦(たい)」という、あの字は「諦(あきら)め」という字でしょう。
 
前田:  そうです。
 
草柳:  これは今我々が使う意味の「あきらめ」という意味ではもちろんないわけですね。
 
前田:  そういう意味では決してございません。これはもともと「サッチャ」とか「サティヤ」―「サッチャ」というのはパーリ語で、「サティヤ」はサンスクリットの言葉ですけれども、これは普通は「真理」と訳される言葉なんですね。「諦(たい)」という字は「あきらめる」と、勿論そういう意味ですけども、「あきらめる」というのは、いわゆる「ギブアップ」の意味のあきらめるんじゃなくて、
 
草柳:  「もうだめだ」というんじゃなくて、
 
前田:  そうではないんですね。物事の道理は諦めると。明らかにするという、そういう意味なんですね。そういう意味から、現在用いられるような、「ダメだ」というような、そういう「あきらめ」の意味に用いられるようになってしまったんですけども。本来は「真理」というふうに意味するときに、仏教では「諦」という字を使いますですね。ですから「苦諦」と申しますのは、苦についての真理という意味ですね。「苦聖諦(くしようたい)」という時もありますが、苦についての聖なる真理というほどの意味ですね。苦についてあきらめろということでは決してございません。
 
草柳:  このことは、「苦諦」というのは、ブッダが生まれ故郷を出て出家するもとになったことにあるわけですね。
 
前田:  そういうことでございますね。根本的な仏教にとりましては大変出発点といいますか、原点と申しますか、それがこの「四つの真理」にまとめられている。すべてこの苦に関係しておりますですね、どれをとりましても。
 
草柳:  さて次のそれでは「集諦(じつたい)」の方はどうでしょうか。
 
[集諦]
これは再び迷の生に導き、
喜悦と貪欲(とんよく)をともない、
あちらこちらに快楽を求めていく欲望である。
すなわち、愛欲と生存欲と権勢・繁栄欲である。
 
前田:  「集(じつ)」という集り、先ほど申したかと思いますが、原因という意味なんですね。ですからその苦の起こってくる原因は何かということを考えていきますと、これは縁起の方でいけば、「順観」になるわけですね。そのときの「因」でありまして、それは「生に導き、喜悦と貪欲を伴う」そういう欲望ですね。それが原因になるんだと。欲望があるが故に、この「苦」が結局あるんだということなんですが、その欲望というのは具体的に言えば、何かといえば、「愛欲」とか「生存欲」とか「権勢」「繁栄欲」そういうものが一種の欲望で、人間の持って生まれた時から避けられない、そういう欲望がなければ、また生存欲がなければ、人間生きられませんしね。そういう根源的な欲求ですね。「渇愛(かつあい)」というような言い方もいたしますが、そういうものがこの苦の根元であるという原因がわかってきたわけですね。お腹が痛いという原因は、食べ過ぎであるとか、なんかそういうような原因がわかれば、それに対する対処療法も考えられるわけで、原因を取り除くということが、第一にやらなければいけないことになってまいりますですね。
 
草柳:  この考え方というのは、仏教以前といいますか、それより前に説かれていることなんだそうですね。
 
前田:  そうですね。欲望というのは根源的なものだというような考え方は、バラモン教の方でも出てまいりますですね。大変古い―前に申しました『リグ・ヴェーダ』という『ヴェーダ聖典』の中に、宇宙はどうして出てきたかと。作られたと。そういうことに対する詩がひとつございますけどもね。その中に「彼の唯一物、ただ一つのものがあって、それから宇宙がすべて展開してきた」という考え方ですけれども、まず第一に「カーマ」という欲望が「意欲」と訳しておりますけども、今起こる。それからずーっといろんなものが展開してきたということで、「意欲」とか、そういう「欲求」、「カーマ」というのは、意欲みならず、愛欲とか、性欲とか、そういうことの意味を持った言葉なんですね。そういうものがなければ宇宙と申しますか、人間の生存そのものが成り立たないわけでございますね。ですからそういう欲求というものを人間の存在の奥底に見えているのは、仏教だけではなくて、バラモン教の方でも、そういう考え方はありますですね。
 
草柳:  そこのところをちょっとまた読んでみたいと思うんです。これは『ウバニシャッド』というのは、バラモン教の聖典ですね。
 
前田:  そうでございますね。
 
草柳: 
(こころ)は実に対象を捕捉するものである。
(こころ)はその捕捉するものを超えた欲望によって
捕捉されている。
なぜなら意(こころ)によって、人は欲望を
欲望するからである。
(ブリハッドアーラニヤカ、ウバニシャッド)
 
前田:  『ブリハッドアーラニヤカ、ウバニシャッド』という、ウバニシャッドの中でも一番古いウバニシャッドで重要なウバニシャッドなんですね。意(こころ)というのは対象に向かって常に目を開いているわけで、美しいものがあればつい取りたくなるとかですね、そういうふうになるわけでまあ男であれば、美しい女性がいれば、心が惑わされるわけで、そういう意(こころ)というのは対象を捕捉する。その意(こころ)を捉えているのは何かというと、その奥に欲望があってですね、そして意(こころ)を操っているわけですね。まぁしかし実際に意(こころ)が欲望を起こすのは意(こころ)でございますから、その意(こころ)によってその欲望は欲望するという、そういう形でしょうかね。まぁ欲望したものをまたさらに欲望するというような限りなく…
 
草柳:  つまり人間の欲望というのは、まさに限りなく果てしがないという。
 
前田:  そういうことでございますね。 まぁ際限なく欲望がどんどん現代・近代において広まっておりまして、科学技術の発達とともに、それがますます大きくなってですね、地球環境の破壊なんていうことも、結局人間の欲望の集積だろうと思いますですね。そういう欲望というのは、限りなく大きく広がっていく。そしてまたそれが一旦実現ができないと大変大きな苦しみとなって表れてくるわけですね。
 
草柳:  その欲望をどういうふうに滅するか。コントロールするかということが、最大のテーマではあるわけですね。
 
前田:  そうですね。
 
草柳:  では次の「滅諦」。これをまた読んでみます。
 
その欲望をはなれ去ることが
生滅することであり、
欲望を棄捨(きしや)すること、捨離すること、
離脱すること、執着を去ることである。
 
前田:  そうですね。それが三番目の真理ということでございまして、苦の滅なんですね。苦の滅諦ですけれども。その苦を滅するには、根源であった、今の原因であった欲望というものを離れ去るということが重要なんだ。消滅する。欲望を捨てるとというようなことが出ておりますが、この欲望というのは捨ててしまったんじゃ、人間存在が成り立ちませんからね。「滅」というのは制御する、制止する。コントロールというほどの意味でございますですね。その欲望というのは、いつでも自分の意思の中におけるというような状況に保つのが滅諦の言わんとしているところだろうと思いますけども。
 
草柳:  じゃあどうすれば自分のもとに自分の欲望をコントロールすることができるのかということになるわけですね。
 
前田:  それが「中道」でありますし、その次の「道諦」、
 
草柳:  道諦をまた読みます。
 
[道諦]
これこそ聖なる八つの道
(八正道(はつしようどう))である。すなわち、
正見(しようけん)、正思(しようし)、正語(しようご)、正業(しようごう)
正命(しようみよう)、正精進(しようしようじん)、正念(しようねん)、正定(しようじよう)である。
 
前田:  これがいかにすべきかということを説いているわけで、これが「中道」ともいわれているんですね。八つの道である。
「正見」正しい見解でしょうか。先ほどの「四聖諦」というのが問題になりましたが、この四つの真理に対して、正しい見解を持つというようなことなどが「正見」になるわけですね。
「正思」正しい考え方。
「正語」正しい言葉を語るということ。二枚舌を使わないとか、そういうようなことが
「正業」というのは正しい行為ですね。
「正命」正しい生活。生活も正しく行わなければいけないわけです。
「正精進」努力という意味ですね。正しい努力をしろというわけです。闇雲に努力したって、かえって逆効果な場合がございますからね。ただ適当なふさわしい精進をしろ、努力をしろということになります。それから今まですでに行ってきている悪い業は滅する様な行為をするとか、そういういろいろ言われておりますけども。
「正念」は正しい思念。
「正定」正しい禅定、瞑想といったもの。
こういうようなものが八つの道として説かれているものですね。見れば何だと思われるかもしれませんけれども、これは実際やろうと思いますと、なかなか大変なことなんですね。
 
草柳:  例えばこの「正」という言葉ですね。「的を得た」とか、「的確な」というふうに考えれば近くなりますかね。
 
前田:  そうだと思いますですね。おそらく伏線としてやっぱり「中」というのがあるからと思いますけどね。正しいというか、むしろ「中に則ったものが正しい」ということが出てきているんじゃないかと思いますけどね。極端に走るというんじゃなくて、やはりとらわれないで努力しろということだろうと思いますですね。
 
草柳:  まさに今の「八正道」というのが「中道」であると。
 
前田:  そうだと思いますね。
 
草柳:  それで今までお話を伺ってきた四つの真理。その考え方を最初に出会った五人の比丘たちに話をする。こうしてまとまった話だったのかどうかわかりませんけれども、考え方を彼らに話をするわけですね。五人の比丘たちは、時間的なずれはあったけれども、それぞれみんな悟りを開いた。
 
前田:  そうでございますね。そしてそこで終わったんじゃなくて、それからが仏教の発展していく原因になっていくわけですけれどもね。五人だけじゃなくて、どんどんまた増えていくことになりますですね。
 
草柳:  そしてここで初めて教団というものができると。どんどんそれから仏教は世界に広まっていく。一番その端緒だったわけですね。
 
前田:  そういうことでございますね。一番初めはブッダガヤで悟りを開くという。そこから伝道ということがあって、それからどんどん広がっていくということになるわけですね。
 
草柳:  じゃ続きは次の八回に、どうもありがとうございました。
 
     これは、平成四年十一月二十五日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである