ブッダを語るI法を生きる
              武蔵野女子大学教授 前 田(まえだ)  専 学(せんがく)
              き き て     草 柳  隆 三
 
草柳:  この「ブッダを語る」のシリーズも、今回で十回目になりました。これまで私たちは、ブッダの生い立ちから始めて、ブッダがどのような修行をし、そしてどのように思索を深めながら悟りを開いてきたのか。そしてそのブッダの説法を、いわば理論的な側面から考えてきました。今回は「法を生きる」というテーマで、実践の面から仏教というものを考えてみることにいたします。お話はいつものように武蔵野女子大学教授の前田専学さんです。よろしくお願い致します。
 
前田:  よろしくお願い致します。
 
草柳:  ということで、これまでいわば理屈といいますか、理論的な側面からブッダの悟りの内容、そしてブッダがどういうふうにして説法をしてきたのかというお話を中心に伺ってきたわけですけども、今回は然らばじゃあ人はどういうふうにして生きたらいいのかと。まあいわば実践の面の話を少し伺いたいというふうに思っています。
 
前田:  そうですね。仏教は他の宗教と同じように、理論の面だけではなくて、実践ということを非常にやはり強調するわけでありまして、実践面を欠いては仏教ではなくなるわけで、そういう意味で非常に重要かと思いますが、実践と申しましても、それほど難しい、と言えば難しいんですけども、簡単なところから行くとすれば、いろんな経典の中にあちこちにそれに関するようなことが出てまいりますけども、今日は『ダンマパダ』というようなところからお話を拾って見てみたいと思っておりますが。
 
草柳:  その『ダンマパダ』といいますのは?
 
前田:  仏教の原始仏教の聖典の中の経典の一つでございますけども、古来日本で非常によく読まれておりまして、日本でもよく『法句経』というような―漢訳の方では『法句経』でございまして、そちらの方が良く知られているかもしれませんですね。法に関する句というわけですね。真理に関する言葉とでも訳しましょうか、そんな意味の経典でございますね。
 
草柳:  じゃあ今日はそれを見ながら実践のお話をしていただくということにしたいと思います。じゃあこれから早速見てみたいと思います。
 
すべての悪しきことをなさず、
善いことを行ない、自己の心を浄めること
―これがもろもろの仏の教えである。
(ダンマパダ)
 
ということ、
 
諸悪莫作(しよあくまくさ)(諸悪を作(な)すことなく)―すべての悪いことをなさず
衆善奉行(しゆぜんぶぎよう)(諸善を奉仕し)   ―善いことを行い、
自浄其意(じじようごい)(自らその意を浄める)―自己の心を浄めること
是諸仏教(ぜしよぶつきよう)(是れ諸仏の教えなり)―これが諸々の仏の教えである
(七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)
 
というふうにありますね。
 
前田:  そうでございますね。「七仏通戒偈」大変有名な詩でございますけども、過去七仏―仏陀の前に六人の仏が考えられておりまして、その仏陀を含めて七仏という訳ですけれども、その仏たちが共通に尊んでいた言葉なんですね。「諸々の悪をなすことなく、諸々の善を行い奉ると。自ら心を浄める。これが諸仏の教えである」というわけですが、『ダンマパダ』の文言と、これは『大乗涅槃経』の中の漢訳された言葉でございますね。それと対応するわけですけども、古来仏教の本は一体なんだというような時、簡単にこの仏教の真意をいうときには、これを引用するということが多いんでございますけどもね。かつて中国の鳥?(ちようか)(中国・唐代の禅僧:741-824)という禅宗の坊さんがおりまして、白楽天にこの詩を教えたわけですけども、その時に白楽天が「なんだこんな三歳の子供でも知っているじゃないか」と。ところがそれに対しまして、鳥?という坊さんがいうには、「三歳の子供でも知っているんだけども、しかし八十の老翁すらこれを行いんだ」というようなことを言って、白楽天をギャフンと言わせたというような話が伝わっておりますけども。いろんな「諸々の悪をなすことなく、善を行い」これはどこの宗教でも言っていることですし、仏教特有とも言えないわけですが、そしてまたすぐ分かるような文句でございますよね。テキストでは「衆善奉行」とありますが、時々別の版では「諸善(しよぜん)」というふうになっている場合もございますけどね。その仏教特有のところはやはり「自浄其意」自ら心を浄めるというところが仏教に非常に特徴的と申しますか、インドに特徴的と申しますかね、そういう感じでございますけども。
 
草柳:  その前にですねおっしゃるようにまさにこの言葉、つまり「善いことをしなさい、悪いことをしちゃいけませんよ」というのは、まさにこれは本当に三歳の幼稚園児でもわかる言葉だと思うんですけども、ただじゃ何が善い行いで、何が悪い行いなのか、というのは、これは考えてみるとなかなかそう簡単には…
 
前田:  それはなかなか難しいですよね。「善悪」というのは、これは基準がどこに置くかといいまして、大変異なるわけで、仏教の場合には何をもって善とするか、何をもって悪とするかということですけれども、なかなかこれも答え難いんですけれども、仏教というのはだいたい動機を中心に考えるところが強うございまして、物事の動機というのはこれはやっぱり心の問題でございますね。ですから心が清らかであるということが大変重要ですけれども、その目的は一体何かということを考えますと、仏教の目的はやはり「解脱」とか「涅槃」という言葉で表されることが目的になっておりますから、そういう目的に対して役立つこと、有益なこと、これがおそらく善であると考えられていたんではないかと思いますね。
 
草柳:  つまり今まで時々お話に出てきましたけれども、つまり「苦の克服」ということ、
 
前田:  そうでございますね。苦の克服、それが不幸の方にますます苦を強めるようなものがやはり悪ということになるわけですね。苦を克服し、究極的な心の平安というところに導いていくようなものが善であるというのが、おそらく仏教でこの言葉で言われている善であろうと思いますですね。元の言葉は「クサラ」という言葉を使いますけどね。そういう意味でおそらくこの場合は使っているように、私は思いますですね。そういう意味でキリスト教とか、他の宗教でいう言われる善とか悪の場合とちょっと違いますね。キリスト教の場合はむしろ罪―罪悪の方でしょうけどね。
 
草柳:  ただ広くこれは基本的な教えであるということについては間違いないことですね。
 
前田:  そうですね。これはどの宗教的にも通用する、どこにも通用するようなものですけれども、しかしそれぞれによって善悪の考え方というのは異なりますですね。
 
草柳:  そして今の三つ目に出てきた「自浄其意」という、つまり自らを浄めるという。
 
前田:  浄めるということですね。人間のそのものの存在というのは、前回にもお話しいたしましたように、「万物は燃えている」というようなことがございましたが、非常にこの煩悩とか、そういう欲求でございますね、そういうものによっていつも燃えているようなのが人間存在の現実ではないかと思いますですね。そういう燃えている心というものを鎮める、浄めるわけですが、それは前回に申しました欲求をなくすというのではなくて、むしろコントロールするということですね。自分の心を浄めるというのは、結局そういった煩悩をコントロールする。そしていわゆる我執と申しますか、そういうものを取り除くように努力するということになろうかと思いますが、そういうのが善であるということになろうかと思いますですね。
 
草柳:  前回の万物は燃えているというテーマのお話の中では、人間誰しもその欲望がないものはいないわけですね。その欲望を打ち消すのではなくて、今おっしゃるようにいかにそれをコントロールしていくか。そしてそれをコントロールしながら自己を確立していくということが、仏教の、いわばブッダの教えの最大の眼目の一つだという話だったわけですね。
 
前田:  そうでございます。これはそのことを端的に四行―実際は三行の詩で言いつくしていると思いますですね。仏教の特徴が「自浄其意」という、心を浄めるというところですね。仏教の中でも信仰とか、そういうものを強くいうような宗教もありますけども、心を浄めることに関しては、どれも共通のものを持っているわけでございますけどね。そういう心というのは非常に我々の御しがたいものでございまして、非常にある時は永遠の未来にも飛びますし、永遠の過去にまで飛ぶことができるし、宇宙にまで飛びますしね。それから非常に微細な原子の中にも入っていくこともできますし、実に天衣無縫と申しますか、瞬時たりとも止まることのないようなのが心でございますね。そういうのをコントロールするという問題が「自浄其意」の問題でございますね。
 
草柳:  それはしかし本当に大変なことと思いますね。これは人間の欲望なんていうのは切りがないわけですから、例えば所有欲―自分のものにしたいというふうな欲望、これをいかにコントロールしていくのかということなどは、これはなかなかやっぱり凡人にはできない。
 
前田:  できないですね。やはり何でも自分のものであるという、そういうことが我々の意識から離れないですね。何か考えるときには、常に「私」というのが出てきまして、そしてこれは「私のものである」とか、「私のものでない」とか、そういうような意識が常に働くわけでございますですよね。我がものにしたいという欲求にもなっておりますし、そういうような所有欲というのは―所有欲だけではないんですけども―我々の常に感ずる欲求の一つでございますね。
 
草柳:  その辺のところについてまた『ダンマパダ』の中でちょっと見てみたいと思います。
 
「わたしには子がある。
わたしには財がある」と思って
愚かな者は悩む。
しかしすでに自己が自分のものでない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
(ダンマパダ)
 
前田:  そうですね。これも『ダンマパダ』の文言でございますけども、私には子があるという。親なら大抵そういう意識でいるわけですね、私の子であるというのは。しかし前回でしたでしょうか、キサー・ゴータミーの話をいたしましたですね。あの時キサー・ゴータミーという女性が、自分の最愛の一人息子を亡くしてしまったわけですね。そして彼女は大変執着をしていた息子なもんですから、何とかして生き返らないかと思っていたわけで、そして野辺の送りもしないで抱きかかえていたわけで、なんとかゴータマ・ブッダの助けを借りて生き返らせられないかということで、ブッダのところに参るわけですけども、ゴータマ・ブッダは、「いいよ」ということでね。しかし「生き返らせてあげるけども、家々を回って一粒のケシをもらっていらっしゃいと。しかしその家で誰も死んだことがないかどうか確かめてから、死んだ人がいないところからもらっていらっしゃい」というようなことを聞いて、彼女は生き返らせてもらえるというので喜び勇んであちこち回るわけですね。そして結局得られなかったわけで、そういう話は結局我々の所有欲というものが非常に強いものを持っているから、そしてそういう自分のものと思っていたものがなくなったときに、いかに悲しい思いをするかですね。これがまぁ我々の苦しみの大きな原因の一つになっているわけですが、そういう所有欲というのは、自分自身ですらも自分のものでないと。ましてや自分の子供とか財産とか、そういうものがどうして自分のものであろうか。自分のものであり得るかという、いわゆる痛切な指摘をなしているように思いますけどね。
 
草柳:  すでに自己が自分のものではないという、つまりこれが自己浄化ということに、
 
前田:  そうでございますね。結局無我という境地―執着、我執を離れるということ、結局仏教は最終的に強調するわけですけれども。自己すらも自分のものではないと。我執と。自分が、自分自身を自分だと思っているわけですけども、そういうものすらも本当のことを言えば、とらわれた自己に過ぎないわけで、自分のものではないわけですね。思い描いているものに過ぎないわけですから。
 
草柳:  自分の子ですら、自分の子ではないのだという、つまりそういうとらわれから離れなさいというふうに言っているわけですね。
 
前田:  そうでございますね。最近の教育ママなら、あちこちで批判になるかもしれませんけれども。
 
草柳:  今の自浄其意―自らを清めなさい、浄めよということなんですが、その浄めるということはどういう?
 
前田:  そうですね。心を取り出して水でもって清らかに、そんなことができるわけではございませんから、そういうことではなくて、今のような自分の子供は自分のものであると思っているそういった我執でございますね、とらわれ、それを離れることが自分の心を浄めるということだろうと思いますね。前から言っている言葉で言えば、万物が燃えている、その原因になっているいろんな欲求とか煩悩とか、そういうことをコントロールしていく。そういうことがそれぞれの心を浄めるという趣旨だろうと思いますですね。
 
草柳:  でもまたちょっと次を見てみたいと思うんですが、
 
「この世で人間の最上の富は何であるか?
いかなる善行が安楽をもたらすのか?
実に味の中での美味は何であるか?
どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」
 
「この世では信が人間の最上の富である。
徳行に篤(あつ)いことは安楽をもたらす。
実に真実が味の中での美味である。
智慧によって生きるのが最高の生活である。」
(スッタニパータ)
 
これはどういうことでございますか?
 
前田:  これは『スッタニパータ』という、これもしょっちゅう引用している原始仏典の中の一つでございますけれども、その中にアーラヴァカという夜叉の話が出てくるんですね。夜叉の家にかつてゴータマ・ブッダが滞在したことがございまして、そこで夜叉との間の対話がこの文言になっているんですね。最初のこの質問の形になっておりますけども、この質問を発したのは夜叉の方でありまして、夜叉が、「私はあなたに質問をしたいんだけれども、自分で答えてくれなかったならば、お前の脚を取ってこのガンジス川の向こうに捨ててしまうぞ」というようなことをいうんですね。「そんなことができるようなものは誰もがないから、どうぞお尋ねください」ということで尋ねさせたのがこの質問だったんですね。最上の富は何であるか。善行が安楽をもたらすのか。そういう質問をしていくわけですが、それに対してゴータマ・ブッダが、次のところで答えるわけですね。これがゴータマ・ブッダの答えということになるわけですが、「この世で信が人間の最上の富である」と言っておりますが、この場合の「信」というのは、「法」と申しますか、「宇宙の理法」と申しますか、そういうものに対する信頼の心ですね。それを「信」と言っているんだと思いますけども、それが最上の富である。「徳行に篤い」これは法というものを実践することですね。熱心にその法を行うということが、結局は安楽をもたらすんであると。そして真実―虚偽でない嘘でない法の真実という、それが味の中での最上の美味であるというわけですね。「智慧」と申しましても、これも法に関する智慧、法の明らかにするそういう智慧によって生きるのが最高の生活だ。これがゴータマ・ブッダの返答だったわけですね。
 
草柳:  「智慧」というのは、「道理」と読み替えてもいいんですか?
 
前田:  道理とは違いますですね。そういうものを分別する働きが智慧ですね。そういう悟りの智慧というんでしょうか、そういうものの智慧でございますね。
 
草柳:  信というのは法?
 
前田:  法に対する信頼ですね。法というものを、仏教の立場というのは、前にもお話ししましたように、「八正道」のような感じで、一番最初に来るのが「正見」正しい見解を持つ。正しい理解をしなければいけないわけですから、いろんなことを聞きましても、法を聞いても鵜呑みにするんじゃなくて、よくそれを理解して、そしてそれに対して篤い信頼を持つというのが、おそらくそこで言われている「信」という言葉ではないかと思いますけども。後代になりますと、仏教の中でいろんな信、あるいは信仰ですね、そういうような問題がいろんな意味合いを異にしてまいりますけども、この場合の信というのは、おそらくそういった言葉なんですね。元の言葉は「サッタ」と書いてありますけども、サンスクリットで言えば「シュラッダ」と申しますが、それがそういった信頼というような意味合いが強いと思いますけども。
 
草柳:  その法に則って生きることが最高の生活であるということなんですね。
 
前田:  そうでございますね。それが最上の富であると。普通の人は富といえば、財産と思うわけですけども、そういうのではなくて、それこそ富というのは我執でございますからね。自分のものと思っているのが富でしょうけども、そうではなくて信というものをもって最上の富とするというようなのが、ゴータマ・ブッダの答えであったわけですね。
 
草柳:  この場合の「法」というのを、さらにもう少し分かりやすく言っていただくと、どういう内容のものになるんでしょうか?
 
前田:  そうですね。今までもいろいろ仏教の理論的な面をお話してきたわけですけども、仏教の説いている教え、それが法でありますね。その中の特徴的なものを取り出してくれば、例えば「縁起」だとか、あるいは「無我」だとか、あるいは「四諦八正道(したいはつしようどう)」なんてこういうのを法ということができるわけですね。その法というのはいろんな形で現れますから、その時その場所に適した形で出てくるわけですから、これこれのものだとはっきりと言ってしまえば、法でなくなってしまう。そんな小さなものではない。もっと広い大きな、ちょっと言葉では表せませんけども、具体的に表れてくるとすれば、そういった仏教で教えているようないろんな法、大きく言えば「宇宙の理法」みたいなものが、「ダルマ」という、「ダンマ」という―パーリ語では「ダンマ」で、サンスクリットでは「ダルマ」と言っておりますが―語源的に申しますと、支えるですね。ものを支える。宇宙を支える。人間を支える。人間の行為を支えて、人間を人間たらしめているもの、そういうような行為の規範というような意味が基本的なものですけども、その一言では収まりきれない非常にもっと広い意味をもっているわけですが、そういったそれこそ法について論じるとなれば、一冊の本では収まらないようなものですね。実際論じても、実際自分で体現しなければ、それが自分の中に法が体験されなければ、本当の意味で法を知ったとは言えないだろうと思いますけども。
 
草柳:  人間を律しているもの、全世界を律している、支えているもの、そのことが法であると。いろんな言い方ができる。
 
前田:  いろんな言い方ができますですね。
 
草柳:  もう少し今のお経の続きを見てみたいと思うんです。
 
「人はいかにして激流を渡るのであるか?
いかにして海を渡るのであるか?
いかにして苦しみを超えるのであるか?
いかにして全く清らかとなるのであるか?」
 
これも質問ですね。
 
前田:  そうでございます。
 
草柳:  それに対してブッダの答えですね。
 
「人は信によって激流を渡り、
精励(せいれい)によって海を渡る。
勤勉によって苦しみを超え、
智慧によって全く清らかとなる」
(スッタニパータ)
 
前田:  これも『スッタニパータ』の今と同じところの続きでございまして、先ほどのアーラヴァカという夜叉が、今ゴータマ・ブッダに聞いた答えを聞けば、この質問を発するわけですね。いかにして激流を渡るかというわけです。この場合の激流というのは、おそらくこの苦、あるいはそれを引き起こしている原因である欲求とか欲望とか煩悩とか、それをおそらく言っているんじゃないかと、私は思いますけども。それからこの場合の海ですね、海を渡るという場合の海というのは、おそらくは輪廻の海を渡るのかというような意味だろうと思いますですね。苦しみを超えるのは、これは苦しみそのものですけれども、そういう激流、煩悩というものを渡る。どうやって渡ったらいいかということをいうわけです。結局苦しみを越えるということを、いろんな言葉で言っているといってよろしいかと思います。そして最後に清らかなものとなる。悟りの境地に自分の心を浄めるというわけでしょうけども、どうすれば良いか。それに対して信によって激流を渡り―先ほどの信が出てまいりました―「信」によって、法に対する信頼によって激しいこの欲望の流れを渡ると。「精励」―先ほどの中になかった言葉ですけども、精励と訳してありますが、これは怠らないことによってという意味を表す「アッパマーダ」という言葉がありますが、怠りをしない、怠けないで海を渡る。輪廻の海を渡ると。「勤勉」この場合は努力、精進というような意味の「ビリア」という言葉が出ていますけどね。努力これも新しく出てきた、さっきはなかったですね、努力することによって苦しみを超える。「智慧」は、先ほどの智慧と同じ智慧でございますね。そしてそういうことによって全く清らかとなる。悟りの境地に至るということを言っているかと思いますが。この仏教の修行の中で非常に重要なのは、そういった今のような信が最初に重要でございますし、それから精進といいますか、「勤」。「信・勤」。「勤」という言葉はなかったんですが、精進ですね、努力ですが。それから「念」ですね。これは常に気をつけていることですが、「思念」とも訳すことでしょうかね。「定(じよう)」は、禅定(ぜんじよう)でございますね。瞑想に浸るわけですが、「慧」は智慧でございますね。これは仏教の方では五つの根と書いて、「五根(ごこん)」と言っておりますけど。この五根の働きがこの仏教の重要視する修行の項目になっておりますけども、これによって先ほどのように心の清らかにする。その役割を果たす働きを持っているのが五根と言いまして、仏典の中に「五根五力(ごこんごりき)」というような言葉で出てまいりますけどね。五つの働き、五つのものが働きを持っていて仏教の実践としていろいろ重要視されるものですね。
 
草柳:  いわば仏教の実践の基本みたいなもの。
 
前田:  基本の一つでございますね。いろんな形で実践のことが説かれてますけども、五根というのはその一つでございますね。
 
草柳:  それで今の『スッタニパータ』の、さらにその続きをまた見てみたいと思うんですが、
 
「人はいかにして智慧を得るのであるか?」
 
と、今の智慧ですね。その智慧を如何にして得るのであるか、という問いに対して、
 
「もろもろのすぐれた人が、
ニッバーナに至る理法を信じ、
精励し、聡明であって、
教えを熱心に聞けば、
ついに智慧を得る。」
(スッタニパータ)
 
どういうふうに答えているわけですね。
 
前田:  そうですね。これもさっきの続きのようにですね、「ニッバーナ」というのは、前にもたびたび出ておりましたね、「涅槃(ねはん)」の元の言葉でございますね。「ニルヴァーナ」というのはサンスクリットでございますけども、「ニッバーナ」はパーリ語でございますですね。「涅槃」と普通音写―音を写しているわけですが、解脱の境地、悟りの境地ですね。ニッバーナに至る理法ということを信じて努力する。そして聡明であって教えを熱心に聞けばついに智慧というものが大変重要な仏教で強調するわけですけども、そういった智慧を得ることができる。その智慧によって、先ほどもありましたように、心の浄化を行って悟りに至るということになるわけですね。
 
草柳:  今までこう見てきたことに関連して、この経典の『スッタニパータ』には何か面白いエピソードがあるんだそうですね。
 
前田:  『スッタニパータ』のエピソードと申しますと、口伝バラモンのことでございますね。そうでございます。「田を耕すバラモン」という「バーラドブァージャ」という名前になってますけども、これ大変興味深い話でございまして、バーラドブァージャというのは、お百姓さん―農夫でございましてね、田を耕していて、五百挺(ごひやくちよう)の鋤を牛につけて、そして牛に引かせて田を耕しているわけですが、そこへたまたまゴータマ・ブッダがやってまいりましてですね、乞食を期待してそこに立っていたわけですね。乞食といいますか、何かの布施を期待して立っていたわけですが、その時にバーラドブァージャというバラモンが、「私は田を鋤で耕して、そしてそれから食べるんだと。お前は働きもしないで食べるなんていうことはけしからんじゃないか」というような意味の詰問をするわけですね。それに対してゴータマ・ブッダは、どう答えたかというのが大変興味深いところですし、この田を耕すバラモンの話というのはここ『スッタニパータ』だけでなくて、いろんな経典に出てくるんですね。大変有名な話でございまして、しかも仏教の坊さんなんていうのは何も知らないで、凄い徒食しているじゃないかということを、「働かざる者は食うべからず」なんていうような言葉もありますから、それに対していわば答えるというような意味もあるわけでございますが、その答えが、
 
草柳:  どんなことを答えたかということをこの経典からまた読んでみます。
 
「わたしにとっては、信が種子(たね)である。
修行が雨である。
智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)である。
努力がわが牛であり、
安穏(あんのん)の境地に運んでくれる。
この耕作はこのようになされ、
甘露(かんろ)の果実(みのり)をもたらす。」
(スッタニパータ)
 
というふうにブッダは答えた。
 
前田:  そうですね。これが彼のゴータマ・ブッダの答えであったわけですけども。「信が種子(たね)である」と、先ほどの信でありますけども、そういう法に対する信頼というのが種子(たね)であって、自分の努力、修行するその修行が雨である。 智慧が軛(くびき)であり鋤であるというわけですね。努力が牛であって、安穏の境地にそれが運んでくれる。ここで耕作というのが自分でやっている耕作なんですね。信という種子を蒔き、修行という雨を降らせ、そして智慧という軛(くびき)と鋤を使って努力して田を耕している。こういう耕作を行って甘露の果実をもたらす、実をもたらす。甘露というのは、悟りのこと、不死のことを甘露と申しますね。「アムリタ」という言葉を訳すんですけどね。それをもたらすというわけで、実際は手を使って、田を耕すんではないですけども、そういう信とか、そういういわば仏教のそういった修行を耕作になぞらえているでしょうかね、実際のね。そういうような修行をし、耕作をしているんだというのが、ゴータマ・ブッダの返答だったんですね。それが本当に「働かざる者は食うべからず」というのに答えているかどうか、私はわかりませんけども、一つの答えですね。
 
草柳:  実際に自分で牛は引かないけども、あなたと同じようにちゃんと私も努力精進をこういう形でしているんだというふうな答え方をしたわけですね。
 
前田:  一生懸命に努力してやっているんだということですね。だからそしてそういうこと自身が、仏教ではよく「法施(ほうせ)」と、それから「財施(ざいせ)」といいまして、財施の方はいろんな財産―お金とか食べ物とか、そういうものを施すわけですね。それに対してそれを受ける修行者の方ことは、法を施すわけですね。そういう一般の人々に対して法を説いて行う、そういう施しをするわけですね。ものを施すことはできませんから、持っていませんから、そういう法というものを人々に施すという、そういう施しをするわけで、そういうような考え方も、今のような「働かざる者は食うべからず」に答える一つの答えかもしれませんけども。ゴータマ・ブッダがこういうのがなされたわけですね。ちょうどこれもやはり対機説法の一つかと思いますですね。
 
草柳:  つまり相手を見て法を説くという対機説法という。
 
前田:  そうですね。実際耕して、その動きを見ながら、そして人物を見ながら、それを踏まえて説いているわけですね。
 
草柳:  努力だとか精進だとかということが、大変大切だということはよくわかるんですけども、じゃあ努力目標というのは一体どういうことなのか。
 
前田:  そうですね。努力目標というのは、やはり「自浄其意」と、先ほどございましたですね、自ら心を浄める。それが努力目標であり、心を清めれば一体どうなるかといえば、先ほどもありました安穏の境地に行くことであり、それが悟りに行くことなんですね。それが仏教の方で勧めている道でございますですね。
 
草柳:  それでは先ほどの『ダンマパダ』から少しまた見てみたいと思います。
 
ものごとは心にもとづき、
心を主(あるじ)とし、心によってつくり出される。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、
福楽はその人につき従う。―
影がそのからだから離れないように。
(ダンマパダ)
 
前田:  そうですね。『ダンマパダ』の中には心を主題にしたこういう非常にいい句がいろいろございますけども、その中の一つでございますが、物事は心に基づき、心を主として、心というのが非常に重視されていまして、よくそういうようなところから唯心論というような、仏教が唯心論であるというような言い方をされる人がありますけども、心によっていろんなものが美しくもなり、汚くもなり、同じものが見る心によって―この花が手前にございますけども―これ美しいと見る人か、あるいはこれはいろんな過去の物語なんかによせて、これに対していろんな思いを寄せる人があったり、いろんな心の持ち方次第で、同じものが別に見えてくるわけですが、そういう心が自分自身の主なものですから、それをコントロールする。それを清めてやる。それがいちばん福楽に至る。それで心を浄めれば、福楽というのも、それに影の形に添うが如くにやってくるというわけでございましょうけどね。
 
草柳:  つまり諸々の欲望を、心のコントロールというところから見ると、こういうことが言えるというふうに言っているわけですね?
 
前田:  そうですね。心を浄める、コントロールする。これは仏教だけではなくてインドで―日本でもいろいろされる方がありますが、ヨーガというのがありますですね。これは前にも話したこともあるわけですけども、非常に古い歴史をもっておりまして、インダス文明にまでさかのぼると。インダス文明の中におそらく瞑想に耽る、ヨーガをやっているんじゃないかと思われるものが出てきておりますけども、その頃からズッと今日に至るまでやられているヨーガという、インドの実践の仕方がございますね。そのヨーガというのは、いったい何かというと、このヨーガというのは、心の動きというものをコントロールする。同じ仏教の方で「滅」と言っている同じ言葉がここで使われておりまして、心のコントロールする、それがヨーガということだというように言われますけども、そういう心のいろんな欲望とか、そういうもの―心というのは常に外界に向かっていますから、刺激があればすぐに反応していくわけで、心が瞬時も止まることなく動いている。それをきちっと自分でコントロールしてやる。それが求められているところですね。
 
草柳:  心について触れたもう一つ『ダンマパダ』から見てみたいと思います。
 
心は、極めて見難く、
極めて微妙であり、
欲するがままにおもむく。
英知ある人は心を守れかし。
心を守ったならば、
安楽をもたらす。
(ダンマパダ)
 
前田:  そうですね。心は見がたい。自分自身でも自分の心というのはよくわからないですね。いったい自分の本心はなんだろうというようなこと、時々思うことがあるように、くるくる変わるわけでございまして、大変微妙で欲するままにおもむく。したがって心を守ったならば、心をコントロールしてなんら外界の刺激とかそういうものには惑わずされないで、コントロールして保っておけば安楽をもたらす。安穏の境地に達する。そういうことを申しまして、心の鍛錬と申しますかね、そういうことを強調するわけですね。
 
草柳:  確かにおっしゃるように、心を整えることというのが、いわば本当最大の勘どころというか、まぁこれもまた行うに難しというところなんでしょうけどね。
 
前田:  そうですね。
 
草柳:  今まではいわば個人の心構えというか、あるいは個人の修行とかといった話をずーっと伺ってきたわけですけども、その実践ということで言えば、人間というのはひとりで生きている訳ではない。つまり社会的な生き物である。これは当たり前の話なんですね。そういう側面から見ると、ブッダの教えというのは、その辺のところをどういうふうに捉えていってるんですか?
 
前田:  そうですね。人間が自分ひとりで生きているわけではございませんですね。他との関係の中で生きているわけですが、そういうのは仏教では「縁起」という言葉で説いているわけでございますね。前に縁起のお話を既にしたわけでございますが、「因縁」と申しますが、因というのは、直接的な原因ですね。縁というのは間接的な原因。その中で人間生きているわけで、現実に我々今対談をしているわけですけども、この対談が成立するには、我々二人がいないとまず成立しない。それがひとつの直接的な原因でございますね。それから我々だけではなくて、カメラさんまでこれをやっていただいたコーディネーターの方とかいろんな方のそういう間接直接的な原因があって、初めて現実にここに対談というものが成立しているわけでございますけども、それが全て縁起という考え方で仏教の方では説明をしているわけですね。そういう意味で我々の存在そのものは、他のものによって生かされているという、それが縁起の考え方になっているわけだろうと思いますけども。
 
草柳:  その仏教の原理というのがあるわけですね。それはまさにおっしゃるように他者との関係において成り立つということは当然あるわけで、ですからブッダの説法というのは、つまり人間関係においても、今までずーっとお話をしてきてくださった原理に則ってなされているということになりますね。
 
前田:  そうでございますね。そういう縁起の考え方から推し進めていきますと、結局また社会的には慈悲の実践とか、そういうところに行き着いてくることになると思いますですね。
 
草柳:  また『ダンマパダ』の中からちょっと見てみたいと思います。
 
実にこの世においては、
(うら)みに報いるに怨(うら)みを以(もつ)てしたならば、
ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。
(ダンマパダ)
 
これも有名な言葉ですか?
 
前田:  これは大変有名な『ダンマパダ』の中の文言でございまして、これをまた有名にしたのは、日本の第二次世界大戦というものがあったことで、昭和二十六年でしたでしょうか、サンフランシスコの平和条約が締結された時に、その時にセイロンの代表の―今はスリランカですね―代表の方がこの文言を引用されまして、そしてスリランカは、日本に対する賠償請求権を放棄する。怨みに報いるに怨みをもってすれば、その怨みは止むことがないわけで、どうすればいいか。それをやはり自分自身の怨みというものを捨てるということが、いちばん永遠の平和をもたらす原因でありますから、これを引用されたわけですね。この現実にも怨みに報いるに怨みをもってしている戦争みたいなのがいっぱいあちこちに起こっているように思いますけども。これも一つの縁起の考え方ですね。怨みを自分がもっていれば、相手もまたもって、それに対してもつわけです。それは逆のこともあるわけで、どうすればそれが息むかといえば、どっか断ちきらなければ怨みというものはなくならないわけですね。そういう自分がそういうものを捨てることによって怨みというものが起こらない。そういうことだろうと思うんですけども。
 
草柳:  同じように、「殺生するな」というのも大事な教えの一つなんですね。
 
前田:  そうでございますね。「殺生」というのは、結局他の命を奪うことですね。しかし奪う命というのは、我々のこのお世話になっている、我々の存在あらしめているそういうものですよね。自分自身もまた相手にとってはそういうものではあるでしょうけども、しかし自分自身が一番大切なものかということを聞かれてくる場合に、やっぱりそれは自分以外のものはないわけですから、自分がいちばん大切なものと、誰でもそう思うだろうと思うんですけども。それは他の人もそう思っているわけで、それを自分自身のしたくないことを、されたくないことを、他に及ぼすということは大変に道理に反することになるわけですね。そういうことがしょっちゅう起こっているわけですけども、そういうようなことを行わないというのが慈悲の精神になってくるわけですね。「慈悲」というのは、「慈」というのは慈しみという字を書きますけども、これは「メーター」というパーリ語の言葉ですけども、これは「友情」というほどの意味なんですね。相手に対して慈しみの心を与える。楽しみを与える。「与楽」と言っておりますが。それが慈悲の意味なんですね。それから「悲」というのは、これはパーリ語で「カルナー」という言葉ですけども、相手に対して哀れみを持つ。同情を持つという意味ですね。これは「抜苦(ばつく)」という、苦を抜くという。相手の苦を抜くという意味であるというふうに言われてきておりますけども。したがって慈悲というのは、与楽、抜苦という、楽を与え、他の苦を抜くというわけですね。そういう精神が慈悲というように言われておりますが。
 
草柳:  その殺生については、同じ『スッタニパータ』の中にこういう文言が、
 
「かれらもわたくしと同様であり、
わたくしもかれらと同様である」と思って、
わが身に引きくらべて、
(生きものを)殺してはならぬ。
また他人をして殺させてはならぬ。
(スッタニパータ)
 
前田:  そうですね。これが慈悲の精神に反するわけで、人を殺すとか、そういうのはやはり自分自身が殺されたくないわけですから、そういうことを与えるということはダメで、私と彼と同様である。それが人間の倫理の根本のようなところですよね。生き物を殺してはならん。大変重要なことでありまして、仏教のみならず、ヒンズー教でも「アヒンサー(不殺生,不傷害)」という精神になって生きているわけですけども、マハトマ・ガンジーなどの「非暴力」というのは、同じアヒンサーの言葉を使って、その精神から来ているわけですね。
 
草柳:  「わが身に引き比べて」というところがすごいところですね。
 
前田:  そうですね。これはこれも仏教だけでなくて、キリスト教なんかも「隣人愛」という、
 
草柳:  自分にしてもらいたくないものは、他人に対してもするなという。
 
前田:  そうでございますね。そういうところをもう少しこれからの人間のそういう基本に戻って、自分自身の行為を考えてみなければいけない時代に来ているのかもしれませんけどね。
 
草柳:  慈悲の話がありましたけども、もう少し経典を続けて見てみたいというふうに思うんです。結局何かお話を伺っていますと、行き着くところというのは、慈悲というところにたどり着きそうな気がするんですが。
 
前田:  そうですね。仏教の実践の究極的なところというのは、やはり慈悲ですね。それは先程ありましたように、我執を離れると。自浄其意という心を浄めていけば我執が離れていく。そうすると我執の離れていく先は、どこかというと、相手と争ったりなんかするんじゃなくて、相手を慈しむ心、慈悲の精神に行き着くだろうということになろうかと思いますですね。
 
草柳:  じゃあまたちょっと読んでみます。
 
われは万人の友である。
万人の仲間である。
一切の生きとし生けるものの同情者である。
慈しみの心を修(おさ)めてつねに無傷害を楽しむ。
(テーラーガーター)
 
前田:  これは万人の友である。先程もありました慈悲の精神の「慈」の方が、万人の友の精神を表しているわけですね。友情でありますが、万人の仲間であって一切の生きとし生けるものの同情者である。慈しみの心を修(おさ)めて常に無傷害を楽しむ。『テーラーガーター』というのは、これはやはり原始仏典の中の一つですね。「テーラー」というのは男性の出家修行僧が「テーラー」ですけども、そのお坊さん達が自分の修行、あるいは解脱の境地を歌ったのが集められたのが『テーラーガーター』ですね。その中の一つの文言ですね。こういう無傷害とここで訳してありますが、不殺生と同じでございますね。
 
草柳:  しかもこれは「一切の生きとし生けるもの」なんですね。
 
前田:  虫けらのようなものでも、この中に含められるわけで、そういうものもやはり縁起の理法から来ますと、そういうもののおかげで我々は現在存在しているわけですね。そういうわけですから、すべてのものが友達である。友人であって、どんな虫けらも、あるいは生命のないものであろうとも、やはり自分の現在あらしめている間接的な原因になっているだろうと思うんですね。
 
草柳:  そういえば、前の回でいつか最初の頃にですね、仏教の頃にジャイナ教という宗教の話がありましたですね。ジャイナ教などもすべてのものを殺してはいけないと言うんで、道を歩いている時に虫が口から入ってくるからマスクをするという話がありましたですね。
 
前田:  そうですね。マスクをはめたり、払子(ほつす)のような綺麗な箒(ほうき)を持って道を掃きますね。あるいはもっと極端と申しますか、生活の仕方まで規定されていましてですね、農業ができない。農業だと鋤や鍬で田を耕せば、土の中にいる虫を殺してしまうというようなことがありますからね。そういうこのアヒンサーというものが非常に徹底していきますと、結局自殺になってしまいますけど、自分自身を殺すこともダメですからね。なんとか欲望を制することによって生き長らえていくということになろうかと思いますけどね。
 
草柳:  すべての生き物に対する慈しみの心、それを大切にしなければいけない。
 
前田:  そうですね。
 
草柳:  最後にもう一つ経典の中からその辺のところを見てみたいと思います。
 
いかなる生物生類(しようるい)であっても、
(おび)えているものでも強剛(きようごう)なものでも、
悉く、長いものでも、短いものでも、
微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、
すでに生まれたるものでも、
これから生まれようと欲するものでも、
一切の生きとし生けるものは、
幸せであれ。
(スッタニパータ)
 
前田:  これもやっぱり『スッタニパータ』の中に出てくる。そして慈悲のところを説いた文言の中に出てくるわけですが、「メッタスッタ」と言われているとこですけど、慈の教えということを説いたところですね。一切のものを愛せよということになりますが、この慈悲の精神の発露でございましょうね。長いものでも短いものでも、微細なものでも一切の生類、すべてこれから生まれるものまでもというようなところが出てまいりますけどね、幸せであれという、そういうものに対する幸せを願う。これが慈悲の心というものでしょうね。
 
草柳:  この文言、この経典などは、ブッダが言わんとするところを本当に凝縮しているというそんな感じがしますね。
 
前田:  そうですね。やはり我執というのが一切れでもあれば、こういう気持ちはなかなか起きないですよね。生きとし生けるものすべて幸せであれ、というような広い気持ちで、やはりこれはよほどの修行を積んで心を清めないと、こういう気持ちにはなかなかなれないでしょうね。たとい我々の現実に生きていくには、いろんなものを殺さなければ生きていけないですね。例えば食事などの場合考えてみましても、お刺身、肉、すべて動物とかなんか肉をとって殺して食べているわけですけども、そういう現実をやはり反省をしなければいけないと思いますけどね。
 
草柳:  次回は「仏弟子群像」ですね。よろしくお願い致します。
 
     これは、平成五年二月に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである