人は何のために生きているのか
 
                              作 家 田 辺  聖 子
昭和三年、大阪市に生まれる。昭和二十二年樟蔭女専国文科卒業、すぐに大阪の金物問屋に勤める。女学校在学中から小説を習作。昭和三十九年『感傷旅行』で芥川賞を受賞。平成十二年に文化功労者に。昭和四十一年川野純夫と結婚。エッセイ「カモカのおっちゃん」シリーズに読者は、そのイメージを重ねた。
                              ききて 西 橋  正 泰


ナレーター:兵庫県伊丹市の閑静な住宅街。その一角に、作家・田辺聖子さんのお宅があります。田辺さんの夫・川野純夫(すみお)さんが亡くなったのは、去年二○○二年一月のことでした。七十七歳でした。田辺さんは、一九六六年(昭和四十一年)、皮膚科のお医者さんだった川野純夫さんと結婚。再婚だった川野さんの四人の子どもたちも含めて、新しい家庭生活を始めました。川野純夫さんについては、田辺さんのエッセイ『カモカのおっちゃん』に読者はイメージを重ねてきました。川野さんは五十歳の終わり近く、脳梗塞で倒れた後、晩年は車椅子での生活でした。川野さんの葬儀の時の田辺さんの挨拶が「文藝春秋」に記録されました。その一部をご紹介 します。
 
まあでも、一緒に居れば居るほど変な人でした。私はちょっと前ごろ、求められると、よく色紙に、
 
老いぬればメッキも剥げて生きやすし
 
なんて書いていました。でも、川野純夫という人は、老いなくても、若 い時からメッキじゃないんですね。そのままなんです。裏も表もなくっ て、そしてもう人間が大好き、お酒が大好き、その両方が出会った好き な人とお酒を飲む席というのが大好きなんでございますね。男も女も好 きでしたけれど、0・1パーセント位は、女の人の方が好きでした。ま た神戸という街が、女の人が元気な街で、よく働いて、よくしゃべり、 よく食べ、飲み、楽しい街なんですね。私は川野と結婚してから、神戸 を知り、神戸と神戸の女性たちが好きになりました。
 
 
西橋:  お連れ合いの川野純夫さんとの、そも馴れ初め、と言いますか、 出会いをちょっとお話頂けますか。
 
田辺:  川野の前の奥さんの川野彰子(しょうこ)さんという、ペンネームでございますけれども、この方が、私が芥川賞を取った時に、彼女はやっぱり直木賞の候補だった。そして近くの神戸で─それまでは存じ上げなかったんですよ。まあ一緒に候補になって、と思っていたら、彼女は次の機会にということになった。私はたまたま頂いたんですけれども。それからいろんなパーティで知り合って、まあお近くで、小説のこういうふうな勉強しておられるって、なかなか当時の阪神間はいませんでね。まあ素敵なお友だちが出来たこと、と思って。間にちょうど共通の友人の女流の作家で、神戸の島京子さんがいらっしゃって、三人でいつもパーティで会うと、別室に引っ込んでお喋りばっかりしていました。ああ、とってもいい勉強友だちが出来た、と思っていたの。でもそのお付き合いが短くて、その一月 に出会ったのに、八月に亡くなられたんですよ。急死なさったんです、川野彰子さんが。それで、私は早速あっちこっちに持っていたコラムに、「川野彰子さんを悼む」というのを書いたり、お葬式にも伺いましてね。とっても残念で、力落とししていました。そうしたら、そのご主人になる方が、「お礼に」と言って来られて。私はその時に、もう徹夜を二晩位続けて、髪もボッサボサで、「何ですか?何のご用ですか?」なんて出ると、「あんた、そんなことをなさっていると、いけませんよ。ほんとにあんたもいかれますよ」ということで、「ちょっと陽にあたったらどうですか。裏表、陽にあてなければいけません」と言われて。あの頃まだ車もそんなに多うございませんでね。あちこち連れてって貰って、ドライブして貰って。それから時々お喋りしたんですけどね。どちらも戦中派でございますから、向こうは大正十三年生まれなんですね。鹿児島の学生生活ですけれども、鹿児島市もやっぱり大阪と一緒で空襲と艦砲射撃でメチャメチャになって、何にも無くなって、そして学生だけれども、一所懸命アルバイトしないと食べていけない、って。「余力があれば、以って学を学ぶ」という状態だったんですって。そんな話をしていますと、切りがありませんのね。ただちょっとずつ、少しずつ違いますのは、いろんな当時の政治情勢に対してね。彼は医学部でしたので、最後まで学徒動員と言いますか、学徒兵にはやられなかったんですけど、普通の学生のお友だち、みんなやられて、死んでしまったって。それを忘れられないって。そういう面から発想して、日本の国の現在とか、将来とか考えるんですけど、私はまだもう少し若い、四つの年齢差というのは、大分違いがあるんですね。違いますから、その当時の考え方で、少し左傾していて、いちいち思想的に、というと、大袈裟ですけれども衝突していた。その衝突ぶりが可笑しかったんでね、喧嘩友だちだったんですよね。そんなことでだんだんに、「こないお喋りしているんだったら、一緒になった方が、朝晩喋られて、よいのと違うか」なんて(笑)。ほんとにずーっと喋っていて、切りがないので、彼はいつも時計を見て、「あ、晩の診察時間だ」。慌てて帰るような状態でしたのね。そんなですから、何となく、何となく。でも向こうは四人ちっちゃな子どもがいましたから、「そんなところでとっても書けない」って、言ったんですけどね。「そんなものなんとでもなる」と言って。「お喋りしていたら、何とかなる」と言うんですよ。
 
西橋:  四人、一番上のお子さんは当時でおいくつぐらいでした?
 
田辺:  中学一年だったか、二年だったか?下が小学校二年、
 
西橋:  小学校二年生で、
 
田辺:  女の子二人が、二年、三年と続けて。あと五年に、中学一年ですかね。まあほんとに大変でした。とにかく食べることに終わるって感じで。「食べるのに」と言いますのは、山のように食料買い込んで来ても、たちまちのうちに、少年少女の胃袋へ入ってしまうわけ。家事のそういうのが大変でしたけどね。でも、なんでしょうね、面白かったのね。
 
西橋:  大家族だったそうですね、その他にも。
 
田辺:  はい。舅、姑がいまして。そして川野の弟、妹がおりました。でも、弟、妹は大 変年齢(とし)が離れていますのでね。ちょうど彼の長男、長女みたいね。弟は神戸大学 医学部を出まして、今お医者していますけれども。まるでそれが長男みたいなも んですから、川野としては安心していますけれど。でもその時は大変だった。
 
西橋:  子育てもせないかん。大家族の世話もあるし、それから連れ合いとお話もせない かん。勿論書かないけませんね。
 
田辺:  そうですね。家事の合間に走っていって書いていましたよ。そのうちに、舅(義父)が先に亡くなりましたね。お葬式の間でも書いていたんですから(笑)。お坊さんの読経が済んだら慌てて走って行って書くとか。まあ忙しかったわ。
 
西橋:  川野純夫さんは、鹿児島県の奄美大島のご出身ですね。
 
田辺:  はい。そうです。
 
西橋:  田辺さんも何回も奄美にもいらっしゃったんでしょう?
 
田辺:  そうですね。でもやっぱり一番初めに行ったのが印象的です。初めて行った時はビックリしましたのよね。歓迎してくれまして。義母の里にまず行ったんですが。もう小さな奄美大島の突端の村でございますけど。小さな村なんですけどね。海が綺麗で、そして小さなお家で、そこでご飯が出て。そうしますと、お酒が─焼酎でございますね。焼酎がでますと、すぐ歌がでますの。これ、我々大阪者には嬉しくってね。一座みな唄を歌いますからね。歌いますと、今度は、三線(サンシン)(沖縄・奄美の弦楽器)て、三味線がでますね。歌と音楽が出ますと、たちまち踊りと、三点セットになっていますの。すぐ踊るというのは、一番先におばあちゃん、村で一番お年寄りじゃないか、というおばあちゃんがヒョロヒョロと立って、手つきも楽しく踊られる。「危ないですよ」と支えられる、それがお嫁さんで、これもおばあさん。これを皮切りに、みんな席を立って踊ってしまう。あれよあれよ、という間にですね。狭いものですからね、庭へ下りられて。そうすると、庭は垣一つで海っぱたなんです。今度は渚の方へ、海岸目がけてみんな─海岸というほど大袈裟なもんじゃなくて砂浜なんです。綺麗な砂浜に、向こうに月が昇ってきますの。そして海がキラキラ光っていますの。そこへ行って、「しまやだぬしまも〜」と言いながら歌って。まあ夢みたいっていったら・・・。シマ唄。浦島太郎が竜宮へ行ったら、こうもあろうかと思いまして、楽しかったんですよね(笑)。
 
西橋:  純夫さんも踊られるんですか?
 
田辺:  あの人は踊りはしないです。唄は歌いますけど、「かなり規格からはずれている」 と言っていました。内地で暮らして、長いので。でも、お酒を呑むと出ますから。 私も聞きおぼえでちょっと歌うんですけど。彼の一族みんな、「おねえさんのは小学唱歌だ」と笑う。私は洋楽の音譜でやっぱり採譜出来るようなふうにして歌っちゃうんですね。
 
西橋:  シマ唄を、
 
田辺:  シマ唄を。でも本当は採譜出来ないメロディですね。リズムもそうですし。そこで生まれて、あそこの空気を吸って、あそこの出来物を食べた人間じゃないと歌えない歌ね。でも、とってもとってもいい唄。沖縄の唄もいいんですけど、奄美の唄は、もう少し哀感があって、骨身に沁みるような唄。それとやっぱり物書きとしてビックリしたのは、古語が残っています。古い言葉が。
 
西橋:  あ、そうですか。
 
田辺:  万葉集で、「母」のことを「刀自(とじ)」といいますでしょう。「いませ母(おも)刀自(とじ)おめがは りせず」って。あの「とじ」っていう発音じゃなくって、今、奄美では、「つじ」 というんです。「TU」とか、そういう言葉なんです。「つじ」というのは、奥さ んのことなんですね。「純夫さんは、大和刀自(やまとンとじ)を連れて帰った」。「大和」という のは内地のことね。内地からお嫁さんを連れて帰った。「大和刀自(とじ)」 と言うんです。私は、「大和の刀自(とじ)」なんですよ。「刀自(とじ)」なんていう言葉を、初めて聞いてビックリした。
 
西橋:  普通、日本人の男の場合、例えば、家庭なんかでよく言われる、帰って来たら、「風 呂」「飯(めし)」「寝る」というような、それぐらいしか物言わないというようなことよ く言われますけれども、純夫さんの場合は、もの凄く会話がお好きだったみたい ですね。
 
田辺:  そうですね。誰とでも話するのが好きだったみたいだけれども、いろんな考え方 の違いを楽しむ、というか。考えが違うからと言って怒らない人で、「え、なん で?」って。「どっからそんな考えを拾ってきた」とか、いろいろあるんですね。 何を喋っていたんでしょうね。今になったら忘れてしまったけれども。例えば、 凄く象徴(しょうちょう)的なことばっかり。「隣、今日、何食べてはるんやろか」、こういう 即物的な言い方は、大人の人は言わないって。そんなんじゃなくって、「神サン、居るかどうか」とかね。「神サンって、どういうもんだと思う」とか、そういう話をしていたら落語になっちゃうんですよ。
 
西橋:  それを何か哲学的に、難しい方にもっていくんじゃなくって、
 
田辺:  そうそう。
 
西橋:  割合日常的なところで、いろんな話、その神サンの話いろいろする。
 
田辺:  神サンの話とか、それから、「あれは大人じゃないね」という。「おっちゃん、大 人って、どういうのをいうの?」とか。そっから話が始まるから、終わらないん ですよね。
 
西橋:  なるほど。
 
田辺:  例えば、「大人というのは、自分を嗤(わら)うことが出来る」っていうのね。「嗤う」っ て、普通の笑いの芸人の「笑(しょう)」じゃなくって、「嗤(し)」という。「自分で自分を嗤(わら)う」 と。「わい何してんねん」とか、「わて何してんねんやろ」と。「自分のことを嗤うのが大人だ」とかね。
 
西橋:  客観視出来る、ということ、
 
田辺:  そうですね。そういう「成る可くね、漢字で書けるような言葉を言わない方がい い」と言うんですよ。だからいろいろ言い方を変えてみて、大和(やまと)言葉に直さない といけないから。漢字で言えば済むんですけどね。「そういう言葉は余所(よそ)からの借り物だ」と言われるから。そんなことを喋っていると、お酒いつまでも終わらなくって。
 
西橋:  お友だちもたくさん来られるし。
 
田辺:  友だちも来ますしね。私の主人の弟が、友だち連れて、「今日、よろしゅうおまっ か」と言って、廊下から入って来るから、「どうぞ、どうぞ」と言って。「今、飲 みかけたところよ」と言ったら、後ろに五、六人友だちが続いてたりして。楽しいことがいっぱいで。
 
西橋:  でも、そういう純夫さんの発想とか、物の言い方とか、それから集まられる方た ちとの会話とか、そういうものがまた田辺さんの作品の世界に影響していった?
 
田辺:  そうですね。作品もそうでしょうけど、なんか人間的に、なるべく漢字でものを 考えないとか、そんなことをやっていると、そうか、と思っちゃいますね。
 
西橋:  大和言葉で考えよう、と。
 
田辺:  難しいですよ。大和言葉の手持ちの数が、私は引き出しが少ないもんですから、 増やさないといけない。そんなこととか、「普通に喋っている、子どもらに喋っているそんな言葉でいわんといかん」とかね。「英語使うなんてもってのほか」で。「使うにしても知らないから」。「ワシも知らんけど」なんて。
 
西橋:  此処にも小さいお写真がありますけれども、目が優しい。それから隣のお部屋に あったお写真は、この辺に鬚(ひげ)を蓄えて、精悍(せいかん)な感じのする。
田辺:  いや、何であんな鬚をしたか、と言いますと、私は、『カモカのおっちゃん』シリーズというのを、週刊誌に連載致しました時に、たまたま挿絵の先生は何遍も変わられたんですけれども、あるとき高橋孟さんという神戸の漫画家でいらっしゃった方が、担当して下さって。その方が、「おっちゃん」をモデルにお描きになったんですけど、鬚をその時、生やしていなかったんだけれども、後で、「阿波踊りに行こう」ということになって、「鬚があった方が格好つく」というので、鬚を生やしたもんですからね。
 
西橋:  カモカ連?
 
田辺:  そう、カモカ連。なんとなく、七、八十人で、毎年八年ぐらい行っていましたの。
 
西橋:  そうですか。
 
田辺:  それから鬚を生やして。普通剃っていたんです。でも、阿波踊りの季節が近付く と、孟さんのマンガを見ながら剃っているんですよ。
 
西橋:  似せようと。サービス精神もあったんですか。
 
田辺:  そうなんです。お茶目精神が。「お茶目でないと生きていけない」と言っていまし た。でも、「大人のそれも一つの資格」ですって。「お茶目で自分を嗤って」って。
 
西橋:  川野さんが、脳梗塞で五十歳代の終わり近くに倒れられてからは、川野さんの介 護ということもお有りだったでしょうし、それからお母さまもご高齢でいらっしゃいますよね。今九十七歳位でいらっしゃいますか? お母さまの介護もお有りだったでしょうし、その一方でまた書かなければいけないし、大変だったでしょうね。
 
田辺:  そうね。まあこの介護というのは、たくさんの方が経験していらっしゃる、と思いますけど、このことばっかりは、した人でないと苦労が分からないし、なされない方には申し上げてもお分かりにならないというところがあるかも知れないので、とっても難しい話なんですけどね。川野もそうですが、おばあちゃんも口から先に生まれたような人ですからね。可笑しいのね。なるべくみんなで、「言ったことを笑ってあげよう」とか、「拍手してあげよう」とか。もういつもいつもお酒飲んでいるとうるさくって、一番うるさいのは母なんですよ。今でもアシスタントとか、友だちと飲んでいますと、「みなさん、それなら、お先、私は失礼しますが、あんまり飲み過ぎないように。飲み過ぎると頭悪うなりますよってな。もう手遅れやろうけど」というんですよ。
 
西橋:  最後に、
 
田辺:  友だちは、しょうがないから、「申し訳ありません」なんて、
 
西橋:  一言ビシッと、
 
田辺:  そういうのはうるさいんですよ。
 
西橋:  そういう感じは大阪人ですね。
 
田辺:  生まれは岡山ですけどね。でもやっぱり大阪にドップリということでね。でもお ばあちゃんがそういって、「はい、お先」と言いますと、 
 
西橋:  「手遅れだろうけど」と、
 
田辺:  「手遅れ」。「分かっているけど」と、みんな言いたくなる。
 
西橋:  お母さんの勝世さんですけど、同居なさる時に、大分抵抗がお有りだったようで すね。
 
田辺:  そうですね。阪神大震災の時も、やっぱり布団の上に家具が載ったりして、独り 住まいでしたの、ずうーと。九十になっているのに。そして姪たち夫婦が助けに行ってくれて。それからまた見栄張って独りで暮らしていたんですよ。そうしましたら、ある時、トイレの中に入って、そのままで倒れていたんですが。私たちが、いくら言っても忘れてしまって、中からチェンを掛けちゃうんですね。行ってくれているお手伝いの人が、「いくら呼んでも出て来られないし、チェンが中から掛かっている」というので、管理人さんに言って、それを切って貰って、中へ入ってみたら、そんな状態でしたのでね。それでやっと納得させて、此処へ連れて来たんですけど。「もう嫌だ嫌だ」と言って。「聖子の家に厄介になりたくない」と言って。その時はまだ川野も元気でしたから、「川野さんに申し訳ない」なんて言いまして。「そんなことはないわよ、おばあちゃん」と言って、「離れがあって、陽当たりもいいし」って。「もしかして、そこがね、普通のアパートやったらそこに住む?」っていったら、「それやったら、話、別」というんですよ。私は、プレート屋さんに頼んで、「すみれ荘一号室」というプレートを作って貰って。
 
西橋:  離れに?
 
田辺:  はい。離れの庭からの入り口と、廊下からの入り口 に両方作って貰って。「おばあちゃん見てね、此処はね、アパートですよ」って。「伊丹の小さなアパートで、おばあちゃん独り住んでいる。一室に住ん でいる。中でちゃんとお水も使えるようになってい るし」と言ったら、やっと来ましたのよ。未だに、「すみれ荘一号室」。私、宝塚が好きやから。「すみれ荘一号室」にいることになっているの。
 
西橋:  そうですか。
 

 
ナレーター:田辺さんは一九二八年(昭和三年)、大阪市上福島の写真館を営む家に生まれました。此処に田辺家の古い写真があります。一九三八年(昭和十三年)の撮影です。日中戦争が勃発し、写真館の若い従業員が応召(おうしょう)し、田辺さんのお祖父(じい)さんや、お父さんが中心になって送る会を開いているスナップです。十歳の田辺さんは、左の端に坐っています。左の奥に、大きな写真が掲げられていますが、これは女優の高 峰三枝子さんの写真です。田辺さんは大阪の下町で、戦争が酷くなるまでの時期に、大家族の中で多くのことを学んだのです。
 

 
西橋:  田辺さん、多い時は写真館に二十人位住んでおられたんですって。
 
田辺:  それはおりましたでしょうね。あの頃はお手伝いさんも住み込みですし、見習い 技師さんという人、大概住み込みですのでね。二十人位いましたでしょうね。
 
西橋:  そういう中でいろんな人の、いろんな動きとか、ものの言い方とかを少女の田辺 さんがジッと観察しておられた?
 
田辺:  観察していたかどうか。ただたくさん人がいますとね、例えば、私は子どもの頃 から浪費の大家だったんですね。お小遣いすぐ使っちゃうんですよね。それで夏 祭りなんか忙しい時─昔は写真館って、お正月とか、お祭りとか、入学式、卒業式、忙しかったの。
 
西橋:  家族で撮りに来ましたものね。
 
田辺:  そうなんですよ。カメラがない時代ですから、みんな写真館へ来ますから、かきいれどきでね。忙しそうにしているもんですから。夏祭りなんかで、私が頂いた小遣いみんな使ってしまって、走って帰って、そしてなるべく忙しそうな人のズボンの裾なりね、着物の袂なりを掴まえて激しく振るんですよ。「一銭頂戴!一銭頂戴!」って。恥ずかしい子どもね(笑)。うるさいもんですから、みんな慌てて早くおっぱろうというので、蝦蟇口(がまぐち)から大きな一銭出して─一銭って、昔の一銭は存在感があるんですよ、大きくって。それを出しますでしょう。大家族ですから、四、五人、そんなことを言って回ると集まるんですね。そんなことばっかりやっていましたわね。それから誰か一人に徹底的に叱られますね。子どもたちはみんな。昔の大人はふだんはそんなに喧しく言いません。自分たちも忙しいし、子どもは三人いますから、細かいことは言わないですけど、ほんとに悪いことをした時、たとえば嘘付いた時、隠しごとをしていた時とか、そんな時はほんとに母なんかに徹底的に叱られて、ワンワン泣きますのね。そうしましたら、私の泣き声が─二階だったんですけど、下にいた曾祖母の部屋まで聞こえて。
 
西橋:  曾(ひい)祖母(おばあ)ちゃんの。
 
田辺:  そうなんです。曾祖母ちゃんという人は、ふだんほんとにはばかり(トイレ)しか、立たないという人で、その部屋が一家のサロンになっているんですけど、そこからヨタヨタと出て来まして、食堂を突っ切って、階段を上がって、二階へ行って、まあ部屋から出たことのない人だから、泣いている私も、叱っている母もビックリしてしまって。そうしたら、ちょっと喘息の気(け)がある人ですから、「ゼイゼイ」言いながら坐って。また大きな女なんですよね。坐って、「まあ、そない、やかましゅういわんかて、まだちっちゃいのよって」と、言ってくれるんですね。
 
西橋:  庇(かば)ってくれる。
 
田辺:  こういうことは、昔の子どもはみんなありましたのね。誰かが叱られていると、 誰かが庇うという。自然にそういう役割が決まっているんじゃありませんけれど も、その時は、曾祖母ちゃんで。これはただ事じゃない、と思ったらしいのね。 私の泣き声が派手だったから。
 
西橋:  今、お話に出たおばあさんですね。おばあさんが、普段は家長であるおじいさん のいうことを、「はい、はい」と聞いているけれども、いざ、自分のお部屋で、女 の人たちだけで集まったら、「お父さんは何を言いはるやら」と言っていた、とい う。
 
田辺:  そうですね。私も、今も覚えていますけど、祖父が、「お栄」と言って、祖母の名前呼びましたら、もうすぐその場に居なくて。みんなが、家中笑うんですが、「へえ!」と。その時代の女の返事は、「へえ!」なんですね。西鶴や近松の時代でしょう。「へえ!と飛んで行ってはる」と笑っていたぐらい。ちゃんと祖父の言うことを聞くんですけど、祖父が時々なんかへまを致しましてね。なんか壊したかなんかでしょう、それをまた自分が直そうとしていると、引ったくっていました、祖母は。「もうおじいさん、ほっといておくんなはれ。私らでやりまっさ」と、そう言って。そうして陰で女たち、女中衆(おなごし)サンと言いますね、お手伝いさんのことを。「ほんまにおじいさんって、鈍(どん)やから」と。「鈍(どん)くさいのに、自分でしようとしはんね。あれがいけまへん」とか。面白いですね。でもそういうのをちゃんと女の人と男の人の裏表なんていうのは、見ないようで、見ていたんでしょうね。たくさんの人間がいる大家族というのは、ほんとに子どもにとっては大発見。面白いですね。そういうのは。人生に少しずつ蓄積されていくわけね。
 
西橋:  太平洋戦争が始まったのが一九四一年(昭和十六年)十二月八日ですね。
 
田辺:  もう女学校に入っていました。
 
西橋:  入っていましたか。その頃の記憶というか、世の中がだんだん、さっきのお写真 なんかでも、出征兵士を送る会をなさっていたりしますよね。
 
田辺:  そうね。まだ女学校三年位までは、女学校の食堂にアンパン売っていた、という 記憶があるんです。だからまだ大丈夫だったんですね。四年生になってもう怪し くなってきたわけね。
 
西橋:  アンパンが切れた?
 
田辺:  十七年になると、アンパンが。食堂そのものが閉鎖されましたからね。
 
西橋:  勤労動員とかに行かれた?
 
田辺:  それは女学校の三年生から四年生にかけて、大阪城でタマのさびおとしなんか。上級学校へ進んで、樟蔭女専では学校工場で、兵隊さんの服を縫うという仕事。やっぱり父兄がうるさかったんでしょうね。徴用工の方やら、挺身隊の方なんかと一緒に、大人と混じってというよりは、学校工場でということになって。でも、兵隊さんの服というのも被服科というのが家政科の中にあって、そういう方はさすがに動力ミシンでも手慣れて使われますけど、我々国文科でございますんで、全然そういうのが出来る人ってなくって、兵隊さんの服のボタンの、ボタンのホールという係りでした。だから私は今でもボタンホール上手いんですよ。
 
西橋:  そうですか。
 
田辺:  それだけしか出来ない。それも暫くすると、たちまち資材が無くなりました。仕 事が無くなっちゃったんですね。学校工場へ行って、張り切って、「兵隊さんの軍服ね」って、縫い掛けたら、もう何ヶ月ですかね、凄い投資していろんな工場作ったのが忽ちにして資材がつづかなくなりました。いやぁ追い詰められていたんですね、日本はね。
西橋:  その頃ですか、小説の『のびゆくもの』というのを、
 
田辺:  それはね、もっと前の女学校、
 
西橋:  女学校時代、
 
田辺:  女学校時代から、
 
西橋:  書いておられたんですか、小説を?
 
田辺:  多分、吉屋信子さんとか、いろんな人の少女小説の抜き書きみたいなもんじゃな いですか。真似して書いていました。
 
西橋:  そうですか。
 
田辺:  大体あの頃から私、活劇が好きなんですよ。蒙古なんかを馬に乗って走り歩く、ジンギスカンなんかが好きで。そんな蒙古の歴史の小説を書いたり、長い小説、「長編小説一・二」とノートに書いていて。みんな友だちが、先を争って、「私、三まで読んだわ!」って、「四、誰か持っているの?」って、言ってくれるから、嬉しくて(笑)。
 
西橋:  そうですか。その頃から、ちゃんと物語を書いておられたんですね。
 
田辺:  そう。でもそれは幸いにして残っているんですよ。
 
西橋:  そうですか。
 
田辺:  空襲に遭いました時に、「これだけは持って出てね」って、母に毎朝学校に行きま すのに、言い置いて出るのが、四つ五つあったんですけど。現実に空襲に遭った ら─私は帰ってから後で聞いたんですが、「焼夷弾がもう数十発、ドバッと降って、ほんとに火の雨の如く降ってきて、持ち出すなんてもんじゃない」って。写真屋でございますから、「とにかくカメラのレンズさえあれば、というので、レンズの大きな箱、それを持ち出すのが大変で。でもそれも半分も持ち出せなかった」ということでした。早いんですって、とにかく。
 
西橋:  焼夷弾が、昭和二十年の六月の空襲ですか。焼けたのは。
 
田辺:  もう終戦二ヶ月前ですね。
 
西橋:  その田辺写真館はもう焼けてしまったんですか。
 
田辺:  ええ。勿論あの辺全部一望千里焼け野原ですよ。私はその時、学校へ行っていま してね。樟蔭(しょういん)は大分大阪から離れておりますのでね。空襲警報鳴っても、防空壕 へ入って、みんなで何を喋っているかというと、まあ浮き世離れしていますわね、「あんた、源氏物語の中で、どの女の人好き?」って。
 
西橋:  防空壕の中で?(笑)
 
田辺:  防空壕の中で。「そうね」なんて言いながら。向こうの方ではトランプ出して、「ト ランプでもしない」とか、「今日は大丈夫よ。大阪の西の端と言っているから」な んて、ラジオを聞いて言うていたんですよ。で、空襲警報が終わったから、「解除 になった」って。「すぐ家に帰りなさい」と言われて行ったんですけれども。あの 頃城東線と言っていました、今の環状線。城東線が不通でございましてね、鶴橋 までしか近鉄が行かなかったんですね。そこから(城東線の鶴橋から)歩いて帰らないといけない。友だちと、三、四人固まって行ったんですけれども。上本町の方はその前、三月に焼けていましたから。これも一面の焼け野原。ただ、その時フッと上本町の方を見て、「あ、上本町台地というけど、なるほど、高くなっている」って。それが分かるくらい焼けていたの。それで歩いて歩いて。場所が分からない。「とにかく北を目指そう」と行ったんですけど。一人離れ、二人離れして。そのうちにまだ燃えているところがあって、「あ、やっとこれ御堂筋」というのが分かったんですよね。兵隊さんのトラックがきましたね。友だちが手を挙げてくれて、「この人ね、足が不自由だからこの人だけ乗せてあげて!」と言ってくれたんですよ。とっても優しい子で。そうしたら荷台の上に突っ立っていた兵隊さんが変な顔をして手を振るんですよ。そのままスーッと行っちゃいました。見送ったら、振るのが当たり前で、山と焼死体を積んでいました。真っ黒でしたよ。五、六十人の焼死体を山のように積んでいました。そんなのが何台も来るわけ。不思議だったのはね、なんか狂った如く鐘を鳴らして、消防車が走っている。「どこへどうやって消しに行くの?」という感じ。消防車が走っていたんですよね。でも何とか北へ北へと行っていたんですが、行くほどにも梅田新道なんかぼうぼうと燃えているんですよね。桜橋から梅田新道まだ燃えていました。そして辺りなんかいっぱい死骸が。市電が止まっていましたのね。そうしたら、それ御堂筋に出るまでですけど、止まっていた市電に火の粉がかかるものですから、見ている間にボオッと燃えてしまった、というのを見て。御堂筋の広い通りは煙でいっぱいで前へ通れないんです。そのうちに友だちともはぐれてしまって。御堂筋に着いたら大体の地理は分かりますので、そこから左へ折れて、なんとか帰って来たんですけど。家も、辺り全部白い煙をあげて。でも父が、「よう帰ったね」と言って。「みんな元気だった」って。私の弟も早く帰ってくれたので、「大分持ち出せた」というんですね。妹も無事で。「まあみんな無事だったから良かった」って。その前に、祖父とそれから曾祖母はもう亡くなっていましたのね。これはお葬式をきちんと出せました。祖母は田舎へ疎開していましたから、私たちだけで家にいたんですけどね。もう従業員が─見習い技師さんなんかみんな応召して居なくなった。そしてお手伝いさんも田舎へ帰らないと。徴用工になっちゃうんですね。そんなので人手がありませんでしたのね。親類の私の従姉なんかが、ちょうど大阪に働いている子が、家に居てくれて、元気盛りの女の子ですから、よく働いてくれた。そんなことがあったんでね。それから後尼崎の方へ移りましたから。もうそれから大阪市内には住めませんね。その周りをウロウロしておりますけどね。
西橋:  でもその空襲の中から、その田辺さんの小説を書いたノートはお 母さんが持ち出してくれた?
 
田辺:  そうなんですよね。頼んでいたから、と思って。その中にほんとはたくさんある中のわずかなんですけど、そういう昔の小説が詰め込まれていて。それがあるから思い出したんですけど、多分無かったら忘れていたかも分かりません。母が全身、ドロドロになって、水と泥を被って、顔には涙の跡があって。私の顔を見て、「よく帰ってきた。よく帰って来た」と。「もうどうしようか、と思った」って。「よく帰れたね」と言って。「あんたに頼まれた本がね、カバンがたくさんあったんだけど、一つしか持ち出せなかったの。ごめんね」と言われた。でもその晩が辛かったですよ。たくさんたくさんいろんな人の声でね、「なんとかちゃん!」と言って。
 
西橋:  家族を呼ぶ。
 
田辺:  「なんとか兄ちゃん!」とみんな呼んで呼んで。暗い中をずうーっと帰らない家族の名を呼んでる。
 
西橋:  田辺さんに残っているわけですね。
 
田辺:  そうね。そして向かい側に、私たちがよく遊んだ原っぱが、戦争中は高射砲陣地 になっていましたけど、もう高射砲なんかやっぱり格好だけであって、そんなも の全然役に立たないですが、そこが死んだ人を焼く焼き場になりまして、炎々燃 えていましたね。
 
西橋:  遺体を、
 
田辺:  私が通った小学校が近くにあって、「そこへ被災者は集って下さい」と言われたん ですが、私たちは三、四軒隣に焼け残った家があって、そこの方が、「家の二階、空いていますから、みなさん、休んで下さい」と言われて。私は三、四日歩けませんでしたのでね、そこでお布団を敷いてもらって寝ていましたのよ。
 
西橋:  そうですか。お父さんの貫一さんが亡くなられたのは、その年の十二月ですか?
 
田辺:  そうなんですね。やっぱりガックリきたんじゃないですか。十二月に亡くなりま したね。
 
西橋:  まだお若かったんでしょう。四十代でしょう?
 
田辺:  四十四なんです。写真館が大好きだし、写真を写すという仕事も大好きだった人 ですから、口では言っていましたけどね。「また元通りになったら、家建てて写真 館作ろう」なんて。でも来て下さったお医者さまに、父が言っているのが台所にいた私に聞こえているんですよ。お茶を入れようと思って用意していたら、「子どもらがみんな学校行きですのでね、もうちょっと生きててやりとうおますねん」と言って。その時はあんまり子どもって考えないもんですね。ただそういう言葉だけ覚えていて。今になると、父が死んで、私は二倍くらいの年を生きてきたけども、今になると、「ああ、父は大変だったんだろうな」と思いますのね。
 
西橋:  そうしたら、その後はお母さんが大変だったでしょうね。
 
田辺:  そうなんですよね。母一人で働いて、それこそ闇屋みたいに一所懸命物を運んだ り。三宮が闇市盛んでしたから。三宮の闇市に行って、焼け残った物を売ってき たり、
 
西橋:  神戸ですね、
 
田辺:  その頃は何を並べても売れるんですって。鍋を売ったら、「付けていた値段で売れた」って、ビックリして帰ってきました。
 
西橋:  それは着物とかそういうものですか。
 
田辺:  着物とか。疎開していたんですよ。疎開していた物をみんな売り払ってしまって ね。戦災を受けて無一物になると、その場その場で、すぐお金が要りますからね。食べ物が無いのが大変でした。だからみんな弟もアルバイトして大学出たり、それはもう他のあの当時の若い人みんなそうだと思います。私もいつも母に言うんですよ。「私はね、女専の卒業式の明くる日から働いたのよ」と言ったら、「何遍も言われて、耳タコになっています」と母に叱られるんですが。でもほんとそう。若い人はみなそうでした。もうすぐ働きに。すぐ即戦力にならなければね。弟、妹が居るし、親のいない長男長女はみんなそうだった。でもそこで面白かった。働きに行ったところが、商売屋さんだったから。祖父みたいな人ばっかりだった。可笑しい冗談ばっかり言って。だから大阪弁の面白さというのを再確認しました。みんなお喋りして、冗談を言い合いして、そして商売しあって。
 
西橋:  辛い状況の中でも、みんなで冗談を言って笑って、
 
田辺:  よく笑っていましたよ。
 

 
ナレーター: 田辺さんの作家活動が本格的になったのは、一九六四年(昭和三十九年)、『センチメンタル・ジャーニイ』(感傷旅行)で芥川賞を受賞してからです。その後は恋愛小説を中心に、エッセイ、評伝、さらに『源氏物語』を現代小説風に書いたりと、常に新しい分野を開拓してきました。田辺さんの書くこと、生きることのエッセンスを読ませて頂きます。
 
私は人生を楽しむために生きるのだと思っている。そして私の場合楽し むことは人を愛すること、人に愛されること、にほかならぬのである。 仕事をするというのも、読者に愛されたいためであるように思われる。 つまり私が美しいと思うこと、飛びきりのユーモアと感じること、心を 痺れさせる恋、哀しいこと、そんな諸々の感動を、心一つに押さえ難く て、書くことに対して、「ほんと、私もそう」と読者の方がいわれる。す ると私は、「そう、あなたもそう思う。そうでしょう」と勢い込んで言う。 そんな感じの小説。「私と一緒ね」と感動を分かち合うような小説を書き たいと思う。小説を書くのは、そのために書くのである。
 

 
西橋:  田辺さん、少女時代から小説を書いてこられたということですが、実際に小説家 になろうと思われたのは、どんなことから?
                         
田辺:  どうでしょうね。かなりそれは遅いと思うんですよ。楽しみに書いていただけで すからね。でも率直なところは芥川賞を頂いてから、後へ退けなくなっちゃった、 と思ったからじゃないかしら。それまではね、一応同人雑誌を作ったり、物書き仲間とお付き合いしていましたけれども、小説家なんて食べていけると思えなかったから。でも賞を頂いたもんだから、どうしようもなくなっちゃって。背中からやっぱり何かに押されたって。神サンが居てはるのかも知れません。
西橋:  そういう時代ですか、『私的生活』とか、
 
田辺:  そうなんですね。もう五十年代に入っていたかしらね、長編は。『私的生活』とか、『苺をつぶしながら』とか、『言い寄る』とか。でも「言い寄る」というのは可笑しい思い出があるわ。「私、今度ね、連載小説書くんだけど、『いいよる男』という題にしようかと思っているんだ」とお酒を飲みながらおっちゃんにいうと、「お前はアホやなあ。いい寄るのは大体男に決まってる」と。「そうか、「言い寄る」だけで分かる?」と。「分かる」というから。
 
西橋:  「男」取ったわけですか。
 
田辺:  「男」取ったりして。おっちゃんが私の小説に口出しすることはまったくありま せんでしたけど、その時だけ。
 
西橋:  そうですか。あの田辺さんの言葉で、「無限の興味を掻き立てられるのは、日常の ただ事の中に潜むドラマである」と書いていますね。
 
田辺:  そうね。例えば一組の恋人が、仲良かったのに、どことなくなんか違和感を片方 が感じて、「ううん。こんなんじゃない。こんな人じゃなかった筈なのに」と思 う。ごくごく目に見えない、小っさなひび割れですけど、だんだんにそれが大きくなっていって、そして後戻り出来なくなって、収拾つかなくなって、そして片方から見れば心変わりということになりますけれども。こちらの方から見たら、そうじゃなくって、やっぱり小っちゃなことからだんだんこんなになってしまったって。もう手の施しようがないわ、という。そういうふうに思った時に、仲が壊れますね。これは大変大きな問題で、国と国とが戦争するぐらいのもんだと思うんです。それに匹敵するぐらいの人生の大きなドラマだと思いますね。だから私の書く恋愛小説は、そういうふうなごく小っちゃなひび割れ。それに対して両方が気が付いてなんとか修復しようと、両方から橋を渡せればいいけれども、片方が気付かなかったまま─気付かないというのは、驕りもあるわけね。我々はそんな仲じゃないと思ってしまう、と。この驕りがあったり、それからそうね、観測の不十分という。観測不十分は、愛が不十分だと思うんですね。ジッと見ていると、ものの言い方、返事の仕方によって分からないといけないんだけど、それが足らないというのは、その人が頭が悪いんじゃなくって、心がやっぱり少し思いやりが足りなかったとか、そんな小っさなことの、グィチグィチにくいちがって組み合わせられなくなっていく。これは凄いドラマではないかと、私は思うんですね。そういうのを書きたい、と思ったんです。
 
西橋:  僕も、かみさんにぐずぐず言われることがありますが、「そんなのちゃんと言葉で 言えばいいじゃないか」って言っても(笑)、そういうのは、「分かって欲しい」とかと言われるんですよね。
 
田辺:  でも、それは反対に、男性側もあるかも知れないですね。男性の側もそう思って いらっしゃるけれども、男だから口に出されないじゃないか、と思っていらっしゃるのがあるかも知れない。「分かるだろうになあ」となんかこういうふうになっていくというのが。
 
西橋:  俺は我慢していると、
 
田辺:  向こうもそう思っている。ひょっとして、「自分がこんなに我慢しているんだか ら、向こうも我慢しているかも、かも」と。そこまではなかなか普通私ら考えま せんものね。だからいろんなことを積み重ねて、いろんな人生引き連れて、みん なすっかり分かった頃には、人間は七十になっています。でもそこが人間の面白さでね。たくさんいろんなことを知って、「そうだなあ、あんなんだろうなあ」と思う時に、もう取り返しのつかないことになっていたり、年頃がもう昔に戻れないとか。昔に戻れないのもいい人生じゃないですか。人間のいいところじゃないですかね。みんな昔に戻れたら詰まらないわ。
 
西橋:  破局を迎えても、田辺さんの小説はなんか明るいですね。
 
田辺:  どうでしょうね。私ね、あんまり展望のないままに切ってしまうのは嫌なの。一 点救いがあるとか、ほんとにちっちゃな光だけでも見えていて、その一点にかけ て後々の人生生きていかなしょうがないなあと思ってくれればいいという、そう いう感じがあるんですね。だから大概好きなのはハッピーエンドなのね。でもそ れだって一点光が残ればハッピーエンドですしね。
 
西橋:  恋愛小説の他に、俳人の杉田久女(ひさじょ)とか、小林一茶(いっさ)とか、それから吉屋信子(よしやのぶこ)(1896-1973)とか、それから川柳作家の岸本水府(すいふ)(1892-1965)ですね。『道頓堀の雨に別れて以来なり』という評伝を書いていらっしゃいまが、評伝に田辺さんが託す思いというのは、どういうことなんでしょう。
 
西橋:  大概文学者の評伝ですので、『ひねくれ一茶』もそうですが、その人の作品が好きということ、それから尊敬しているということもありますし、それからちゃんとして適正に評価されていないことに対する義憤というのもありますね。ことに吉屋信子なんかは、大変な才能で、そしてどんどん自分でも変わっていって、充実していって、高みへ昇っていった。晩年に近い『女人平家』とか、『徳川の夫人たち』なんかは、凄い完成度の高い作品ですけれども、何故かあの人は、とかく女性主義者みたいに思われて。そして男性の評価は低いんですけど、そんなことない。とても素敵な文学者で、「一個の文学者ですよ」ということを言いたいとか。それから岸本さんの場合は、川柳というものが、俳句に比べて、一段低いように思われている。でも凄い川柳があるんだから、そういうことを知らせたいとか。「川柳も一個の文学である」というのを、生涯叫び続けた人なんです、岸本水府はね。だから今みたいに何か変な、ちょっと狂句めいた名前で発表する。それは川柳に似ているけど、それは川柳じゃない。こういうのは人生の潤滑油として勿論あっていいけれども。でも本当の川柳はきちんとした文学であって、笑わせる川柳と違うんですよ。品があって、人生の真実を穿(うが)つものでなければいけない。こういう主張に私自身共鳴した、ということがありますね。
 
西橋:  岸本水府の川柳で、田辺さんがお好きな川柳というのを挙げて頂 くと、
 
田辺:  そうですね。日中戦争の時に、水府さんはニュース映画を見てよんだ句、日本の戦車隊が進んでいきます。そして高粱(コーリャン)畑の中─中国の農民たちが一所懸命育ててる高粱(コーリャン)(中国産のモロコシ)畑ですが、それが踏みにじられていきますね。その時の水府の句です。
 
高粱(コーリャン)は戦車に起きるよしもなし
 
踏みにじられたままになっている。その裏側に、何で戦争をするんだろう、という意をにじませた反戦句ですが、当時でございますから、表だって大きな声で言えません。そういうところは水府の凄いところで。平和の句もいっぱい作りまして、楽しい句がいっぱいあるんですけどね。そういう反戦句も作っている骨っぽい川柳作家ですね。それを言挙(ことあ)げ出来ない時代でしょう。もう一つ、
 
耐へしのぶテントの雨に似たこころ
 
戦争中の句です。テントで雨を聞いているのは嫌でしょう。でもそれと同じように、この時代だって、そうだって、「耐へしのぶテントの雨に似たこころ」。水府は賢い人ですから、そういう反戦川柳は、軍部の目に触れないように、そっと奥の方の後ろのところへちっちゃな活字で組んでいる。そして表には、「皇軍赫赫(かっかく)の戦勝」なんというような句を載せて、軍部の検閲を逃れているんですが。とにかくどんなふうにしてでも、「番傘」(彼の創刊した川柳誌)と言いますけど、「番傘」を存続させて、伝えないといけないって、そう思いましたから。もうとっても普通の掻撫(かいなで)の考えがある人だったら、こんなこと出来ません。大変芯のある男性的な文学者だったんだなあと思って尊敬しています。
 
西橋:  田辺さんは、「人生というのは楽しむために生きるんだ」と。
 
田辺:  まあ、ねえ。せっかく生きているんだから、楽しまなければ、と思いますけどね。 なるったけいろんな言葉を蓄える。それで喧嘩になりそうになった時に、いろん な知っているそういうのを総動員して出して、なんとなく衝突を回避するという。 衝突しないといけない時もあります、若い時は。若い時は衝突することによって、 新たな局面が展開して、それがまた割れていって、という。これで新しい人生が 出来る、ということもありますけどね。守りの人生というのもありますから。そ の人生によって、楽しみ方が違うと思いますけどね。どうなんでしょうね。いろ んなことというか、例えば何も歩けなくって、家の中の部屋にだけ閉じこもって いるような人でも、窓から見て楽しむとか、ラジオを聞いて楽しむとか、いろん な楽しみ方が広がっていくという場合があるのでね。こういうふうにしたら、と いうことは言えないですけどね。
 
西橋:  純夫さんが亡くなられて一年ということですけども、改めてこの一年間、また新たな川野純夫像というようなものが、田辺さんの中で、
 
田辺:  どうでしょうね。私、なんかアンタッチャブル(untouchable)というふうなところへまつりあげたくないけれども、時に応じて、「ああ、でもやっぱりこんな考え方を教えてくれたというのは面白かったかも知れないなあ」とか。息の抜き方なんですね。ひょっと「自分を嗤う」というのもそうですけれども。「なんでもものごとを裏からみな、いかん」「横からみないかん」とか言われて。私は、ある時凄く素敵なお皿を他人様から頂いて、「どうしてこんな高いものを下さったのかしら。何でやろう」というと、「裏見んかい」という。「すべての贈り物には裏がある」というから、本当に裏返して見たら、「メイド イン イタリー」と書いてある。「ほんまにお前はアホやな」と言われたんですが。そういうふうな息の抜き方、腰の引き方ね。つまり逃げ道を探す方法とか。そこからして、自分でも考えるようになります。「人生行き詰まりやと思ったらいかん」とか。そんなことを、そうですね、言葉で書くと、修身の教科書になっちゃうんですけれども、お酒を飲みながら聞くと、「かもね」なんて思いますね。やっぱり人に、「かもね」と思わせるところがあったな、と。またよう忘れているんですよ。「おっちゃん語録って、どんなのがありますか?」とよく人に聞かれますけれども、「そんなの覚えていない。拳拳服膺(けんけんふくよう)(心に銘じて守ること)しているわけじゃないんだから」。それは身について私のコトバになっていることかも知れませんね。
 
西橋:  生き方として。
 
田辺:  そうそう、生き方考え方として。でも、あの人、「絶対に神サンなんて腹黒い」というんですよ。「人の虚を突く」っていうのね。「あ、そうかも知れない」と思うのね。私の神サン観というのは、「学校の試験官みたいな感じ」がしてね。時間がきますでしょう。私は学生時代にずるこい学生だったから、時間がきても、チョコチョコ書き足したりね。「そこまで」と怒られる。「すぐ立つ!」とか、恐い声で言われる。多分そういう神サンだろうと思うんですね。「すべて持っているものを置いて立つ。これが神サンだ」と。私は恐い神サンだと思うんですけどね。おっちゃんは、「そんなことはない」というんです。「大体神サン自身がずるっこいんだから、神サンが向こう向いている間、悪いことしたらいい」と。こういうことをいう人だったから、「そうか、逃げ道いっぱいあるんだ」と思うのね。
 
西橋:  神サンも時々向こうを向くこともあるんや、と。その間にこっちで、
 
田辺:  「神サンかて、けつまずいて転ぶ、転んだ隙に悪いことをしたらええねん」とか、いろいろ。あの男は口舌(こうぜつ)の徒(と)やね。そんなこといったりすると、みんな飲みに来た連中が、凄くいいこと聞いたみたいに控えたりする。「控える奴はアホや」と叱るの。「すぐ忘れてしまえ」って。「どんないい言葉も悪い言葉でもすぐ忘れたらええ」というんですよね。でも、「どっかに残っていれば、その言葉はその人が必要としていた言葉なんや」って。「そんなもん控えることなんかいらへん」って、いうんです。だからおっちゃん語録というのは、初めからテープでも取っていれば面白かったかもしれへん。全部忘れちゃって。時々そう言われれば、ある機会、機会、人生のいろんな時に応じて思い出し たりすることがある。こういうのはほんとに遺言かも分かりませんね。─でもこれも、実をいうと、私の考えとまじりあっている。
 
西橋:  失わない魅力というのは、川野純夫さんの場合はなんだったですか。
 
田辺:  そうですね。正直なんです。率直なんですね。自分を飾らないというか。私でありますと、「前はこうこう言うたやないか」。「そんなこと言うてません」とか、いろいろ言い繰ってね。強弁して自分をよく見せようという気があって。ところがおっちゃんは、「そんなこというた覚えはありません」ではなくて、「言うたかもしれんな」。覚えがなくってもね。
 
西橋:  覚えがなくても、何か言われたら、「なんか言うたかもしれん」と。
 
田辺:  「言う筈はないけど、言うたかもしれん」とか(笑)。
 
西橋:  いろんなことを言うわけですね。
 
田辺:  いろんなことを言う人ですね。なんかそういう弁解の仕方に味があるわけですね。
 
西橋:  そのことも楽しく生きる一つの知恵なのかも知れないですね。
 
田辺:  そうですね。その人の持って生まれたもので、難しいかも知れないけど。でも相手に対して、好き嫌いという前に、この男なり、この女なり、「こういうところもあるねん」と。「みんな悪いようにいうけれども、しかしいいところもある」と。或いは「みんないいようにいうけど、あれはこういう点、こういうところもあるな」と。「自分が先に出ようと、片手でそれとなしに人を押し退けていくというような、こういうところがあるかもしれんな。でもそれもおもろいやんか」ということになったら、みんなに面白がられるでしょう。私はあんまり目に付かなかったけれども、今思いますのに、なんかそういうふうなものの取り方ですね。よく人と話をする時に、「これは悪いように取られたら困りますけれども」と、前をふってこういうふうに喋ったりというか、ありますけども、ものの取り方なのね。それがごく多様なんですね、あの人は。
 
西橋:  純夫さんは、
 
田辺:  あんまり人生経験も豊富じゃないし、そんなに世の中知っているようでもないん ですけどね。なんとなくね。多分持っているものに加えて、若い時から大家族を 養っていましたでしょう。一番上だったので、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言わ れて。「お兄ちゃんが学校を出て、一人前のお医者さんになったらば、なったら ば」とばっかり家族は思っていたんでしょうね。それで責任感があるもんですか らね。昔の人間ですから、彼の昔の友だちみなそうね。責任感があった。だからそんなふうにして、「いいところばっかり見る」とか、それから「あいつはむしろ悪いところが面白い」とか。こういう考え方をするようになったのかも分かりませんね。
 
西橋:  はい。今日はどうも長時間有り難うございました。
 
田辺:  こちらこそ有り難うございました。失礼しました。
 
 
     これは、平成十五年二月九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである