外国人収容者と共にありて
 
                   牧 師 柚之原(ゆのはら)  寛 史(ひろし)
 
柚之原;  大村入国管理センターに収容されているということは、強制退去令が全員に出されているわけで、何らかの理由で帰国しない、できない、ということだと思んですけれども、刑務所だと刑期があって、大体いつぐらいに出れると、出口が見えているわけですよね。けれども、入管収容者の人たちは、いつ出れるか分からない。そういった苦しみ。ですから入管の中の方が苦しい、きつい。そういった声は何度も聞きました。
 

 
ナレーター:  長崎県にある大村入国管理センター。二○○五年から十三年間、ここに通い続けている牧師がいます。柚之原寛史さん。今日は月に一度の礼拝の日。日本全国に数ある入管施設の中でも、このような礼拝活動を行っているのは大村だけです。収容されているのは、難民認定を申請中の人や不法滞在の人など、外国人およそ百二十人。中には収容期間が六年近くになる人もいます。この日は四つのグループに分かれ、三十七人が礼拝に参加しました。収容当初は、日本語が全くわからなかった人たちが歌う日本語の賛美歌です。
 
柚之原;  キリストは、迫害を受けている、苦しみを受けている人の気持ちがわかります。それは、キリストが難民だったからです。そのイエスが、今日あなたに語っています。「わたしはあなたを決して見捨てない」。
 
ナレーター:  鍵のかかる部屋で監視の下に行われる礼拝。閉じ込められた生活の中で、アジアの仏教徒や中東、アフリカのイスラム教徒なども、信じる宗教にかかわらず、柚之原さんと会えるこの日を心の支えにして集まってきます。礼拝の最後、一人一人のために祈りを捧げます。
 
柚之原;  神様、こうして触れる恵みをありがとうございます。彼の苦しみを取り除いてください。主は癒しを与えてください。力を与えて下さい。神様どうか今彼の心に力を与えて下さい。助けて下さい。彼を助けて下さい。
 

 
ナレーター:  宗教を問わず開かれた場にしようと願い、柚之原さんはこの部屋を「大村アンテオケ教会」と名付けました。
 

 
柚之原;  「アンテオケ」というのが、エルサレムで迫害を受け、逃げてきた人たちがたどり着いたのがアンテオケという場所なんですよね。そこが外国人の町―異邦人の町だった訳なんですよね。そこで初めて外国人の人たちの教会が誕生した。そういったところから誰にでも開かれている拠点となる教会であるという願いを込めて大村アンテオケ教会というふうにつけさせてもらいましたけれども。教会というのは、重荷を負った人たち、苦しみを負った人たちが共に集まって祈りを捧げる―礼拝をする、その人たちが教会であって、建物ではないわけですよね。あの空間というのは、オルガンもなければ、何にもない空間です。キリストが生まれたところというのは何もないところ。むしろ家畜小屋だったという。最も貧しく最も低いところにキリストが生まれたという。そしてその時代、迫害の時代があったわけです。二歳以下の男の子を皆殺しにするという。その中でキリストは赤ちゃんだったわけですけれども、母マリア、肉の父ヨセフとともに迫害を逃れてエジプトに行っているんですよね。その父・母の難民との背中を見ながらキリストは育っているわけですよね。入管の面会活動、支援活動というのは、入管施設内で苦しみ、重荷を負った人たちということで、そういった苦しみを本当に背負い切れない人たちが、その場所に来て、その重荷を下ろす場所がここにあるんだという。月に一回だけの礼拝なんです。一ヶ月間彼らが耐えて、耐え抜いて、そしてそこに集まってくる空間なんです。
 

 
ナレーター:  柚之原さんが入管で礼拝を始めたのは、あるイラン人からの要望がきっかけでした。柚之原さんの手元に残る彼の手紙。収容生活への絶望が綴られています。イランで反政府活動をしたため、強制退去で帰国すると危ないと訴えていました。
 

柚之原;  最初に会ったのは、二○○七年位だったと思います。イラン政府に対して、言ってみれば反対の意見を持っている、考えを持っているということで、イランにいたときからキリスト教に非常に興味を持っていた、ということですね。ペルシア語の聖書もそこで誰かに差し入れをしてもらっているんですよね。彼がある日礼拝を受けたいと。礼拝というものに参加してみたいという、そういったことを言ってですね、もちろん入管施設で礼拝をするということはまぁ不可能に近いことですね。法務省の管轄でもありますし、だけれども、一人のクリスチャンのそういった願いを叶えたいということから、大村入管に申請書を書いて提出しよう、ということになったんです。一番多いのはイスラム教徒なんですけれども、彼だけではなくて、全員開かれたそういった教会を―教会というか礼拝をしたいということで申請書を提出しました。私が今まで接してきた人の中には、アフリカの民族同士の戦いですよね。それこそもう殺し合いで、そこから飛び出して逃げた人たち、あるいは中東の国を持たないそういった民族の人たちというのは、パスポートも当然ないわけで、そういった彼らが大村の入管に収容されて、自分の親が殺されたとか、妻や子供、娘たちが酷い目にあったとか、そういったことを訴えるときに、彼らは涙を流してですね、「どうにか助けてください」というふうに言ってくるんですよね。何がきついのかというと、二つあるんですけれども、一つは、いつ出れるか分からない。そういった苦しみ。もう一つは、何もすることがない苦しみ。眠れない。けれども、陽が射してきたと。陽が見えるわけではないんですけども、朝が来て、そのまま一日がまぁ何もするすることがない状態で時間が過ぎていくという。そういったことを想像しただけでも、私自身だったら、もうすぐに参ってしまうと思います。だから出れる日が必ず来るんです。自分を諦めないでください。悲観しないでください。生きつづけてください。そういった祈りと願いを、私自身がその重荷を神に委ねて祈るという。
 
ナレーター:  大村市の大通り沿いに間借りした二階の一室。日々の祈りを捧げる柚之原さんの教会です。実は二○○四年に教会を開く八年前、二十七歳になるまで、柚之原さんは、キリスト教とは縁のない生活を送っていました。そんな柚之原さんが、なぜ牧師となったのか。柚之原さんには、入管に収容されている人たちと同様、出口が見えない日々を過ごしたことがありました。
 

 
柚之原;  私が生まれたのは、千葉県の柏市です。父が海上自衛官でして、転勤が二年に一回、三年に一回ずつ、最後の勤務地がこの大村の海上自衛隊ということで、定年退職する少し前にですね、ここに家を構いたんです。父がこの大村に家を建てたのは、母が喘息の病気を持っていまして、この自然豊かな環境・気候が喘息にはいいと。ですので、私にとっては、この大村が故郷というわけではないんですよね。
 
 
ナレーター:  喘息に苦しむ母の紀子(のりこ)さんだけが、家族でただ一人キリスト教を信仰していました。そのことが柚之原さんのその後の人生を大きく変えていきます。柚之原さんが東京の会社に入って三年後、大村で暮らしていた母に異変が起こりました。
 

 
柚之原;  父から一本の電話がかかってきたんです。「母が倒れたぞ。意識がない。至急帰って来い」。買い物中に激しい喘息に襲われて、そして呼吸困難になって、心肺停止の状態になりまして、心臓は再び動いたんですけども、脳に酸素がいかない状態が十五分程度ということで、私が母と会ったときには、もう当然意識がない状態。何回も何回も呼びかけても反応がない。生まれ育った街でもない大村に来る。そして母の介護をする。その道を選びました。父と二人で一日交代で寝泊まりをするという。父は仕事を辞めまして、日中介護に入りました。夜間は私ということで、とにかく母の意識が戻ること、そこに専念をしていまして、脳波の検査を定期的にするんですよね。三ヶ月後に脳波の検査をしましょうと。刺激を与えるリハビリをする。そのことを通して記憶が蘇った、そういう人たちが実際にたくさんいたという、そういった情報を得まして、父とリハビリ―母の手を握って、そして足も握って、体のマッサージをして身体を拭き上げるという。そういった介護と、後は母はクリスチャンでしたので、賛美歌が好きで、当時はテープですよ、まだ。母が持っていたそのテープを繰り返し繰り返し、朝から夕方まで聞かせて、そして時々私も読み慣れない聖書をその隣で読んであげるという、そういう生活を日課としていました。本当にもうあらゆることをしました。検査の時が来ました。若いドクターだったです。その器械を持ってきて、そして頭に器具を何カ所かつけて、そしてスイッチを入れて、そのモニターにはもうフラットの状態。そのドクターが「検査を終わりました。フラットです。以上です」。廊下に帰ろうとしたんですね。「ちょっと待ってください」と。「もう一回検査をしてくれないですか。私たちはこの日のために三ヵ月リハビリをしてきたんです」。ドクターが言いました。「この検査に間違いはないです」。そういった終わりのない介護。いつ終わりがあるのか。それが永遠に続くのか。一年後なのか、半年後なのか、わからないです。先の見えない暗闇を歩くような、そういった介護していました。
 

 
ナレーター:  母を介護する日々は、九ヶ月間続きました。
 

 
柚之原;  ある日こういうことがあったんです。夜中の二時ぐらいに、音がガタガタするんで、電気を点けたら、母がベッドの上で涙を流して、そして口から血が出ているんです。何が起きたんだと思って見てみると、自分の舌を誤って噛んでたんです。痛みで痙攣をしているという。その姿を見たときに、私自身がもう駄目だと思ったんです。私自身が保てないと思ったです。クリスチャンとして熱心に教会に通って祈りを捧げている人生の最期の姿が、この姿か。神も仏もない。イエスなどいない。イエスを呪ったんですよ、私。イエスを怨んだんです。それから私自身が、どんどん醜いというか、私自身の心が病んでしまって、私自身が醜い心になっていたから、すべてが醜く見えるという。何をするにしても、人の粗探し。結局はドクターも看護士も母のことを本当に懸命に看護して、そして接してくれてたんです。周りの人が自分を痛めつけて苦しめているのではなくて、私自身の思いがですね、自分自身を苦しめて、痛めつけていたという。あの九ヶ月の苦しみのあの時が原点だったと思います。ちょうど九ヶ月です。もう限界ということで、ドクターから「親戚の人たちを呼んで呼んでください」。夜、私たち家族が集まって、そして母を見ていたときに、母はですね窓側を向いて、体を向けて寝てたんです。顔が見えないですよね。私の母の一つ上の姉が「姉ちゃん、顔が見えないよ」と言ったら、その声にですね反応して、体をうわぁっとこっち側に向けたんです。私たち自身、母が身体を動かすことができる筋力ももうない。動かせないということはよくわかっていたんですけども、生き返ったと私は思ったんです。そして、その姿で「うおっ!」という大きな声を上げたんです。〈あ、これが母の声だ。これが母の〉というのでですね、久しぶりに聞いた私の母の声だったんです。そしてその大声をあげた後に息を引き取ったんですけど。その母の最期の生き様というか死に様を見ているときに、とてつもない何か神というものを、私はわからなかったですけども、命を与えて、命を取る。そういう大きな存在。それを頭とかじゃなくて、肌でというか、魂でというか、それを感じることができたんです。それでですね葬儀の時です。牧師が、「皆さん、今日は別れの日ではありません。今日は天でまた再び会える約束の日です」というふうにおっしゃったんです。私、その言葉を聞いて本当に救われました。私自身が本当に希望を持つことができました。そこで聖書を読み、母が歌ったであろう賛美歌を歌いながら、少しずつ信仰に入っていった。
 

ナレーター:  柚之原さんの信仰への道を開いた母の死。その原点をいつも見失わないようにと、柚之原さんは母の遺品を傍らに置き続けてきました。
 

 
柚之原;  実は母の愛用していた聖書なんです。かなり聖書を読み込んでいたな、というのがわかるんですが。母は左側に赤線を引っ張るんです。どの聖書の言葉を愛していたというか、読んでいたのかということが、足跡のようにわかるんですね。例えばですね「ヤコブの手紙」というところがあるんですけども、
 
さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると、忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
 
苦しみとか試練とか、そういう箇所が多いんです。喘息がやっぱり苦しかったと思うんですよね。聖書にすがるような思いで読み続けて、線を引っ張っていたんだろうなという。本当にこの聖書を通して母が私に語りかけているような、この聖書は私にとっては掛け替えのないものになっています。
 

 
ナレーター:  母の聖書を読み進めるにつれ、柚之原さんは、母が人知れず祈ってきた救いについて知り、それを自らの人生の中で実践していこうと考えました。
 

 
柚之原;  母もいつも三つの祈りをしていました。祖母が同じ喘息で苦しんでいたんですけども、その喘息が治り、自分の喘息が治るように。でも一番目に叶えたい祈りというのが、私の父。母から見たら夫の救い。自分の病気よりも夫の救いを一番に祈っていた。その母の思いを父が後で知ってですね、父は信仰をもちました。私自身も父の後に信仰を持ちました。聖書の中にですね
 
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。(ヨハネによる福音書12章24節)
 
一つの麦が落ちて死んで、そしてまた実を結ぶ。母は確かに最期はあのような無惨なというか、酷い形での死だったですけども、一つの麦が落ちて、そして父が救われ、私が救われ、家族全員が実を結んで花を開いた。そこに母の本当の一番の願いが叶ったわけです。私が牧師になろうと思ったのはですね、やはり母の生き様、信仰、そして神の存在。それが私自身の大きな力であって、原動力だったんです。
 

 
ナレーター:  柚之原さんは、働きながら通信制の神学校を卒業。牧師となり、教会を開く時も、柚之原さんを支え、今も教会活動を二人三脚で行っているクリスチャンがいます。特別支援学校の先生をしている妻の真美子さん。今日は子供のための日曜学校です。
 
真美子:  皆さん、おはよう。
 
ナレーター:  やってくる子供にイエスの言葉が響くよう、夫婦で様々な工夫を重ねてきました。
 
人形(柚之原):今日のお話は何の話かな?イエス様はたとえ話をされたの?
 
真美子:  「隣人(となりびと)って、いったい誰のことですか?」って、イエス様に聞いた人がいたんです。
 
人形(柚之原):よく聞くよね。
 
真美子:  そうね。
人形(柚之原):「隣人を愛しなさい」ってね。イエス様、どんなたとえ話をしたのか。なんか気になってきたよ。真美子さん、「サマリア人のお話」よろしくお願いしま〜す。
 
真美子:  わかりました。
 
ナレーター:  この日は柚之原さんと真美子さんが自分たちの生きる指針として大切にしてきたお話です。「善きサマリア人のたとえ」。強盗に襲われ、瀕死の重傷を負ったユダヤ人を、同じユダヤの神官や神殿に仕える者たちが見て見ぬふりをして素通りしていく中、ユダヤ人に差別されていたサマリア人だけが救います。この話をもとにイエスが隣人の意味を問います。
 

 
柚之原;  ユダヤ人とこのサマリア人というのは、何百年間犬猿の仲だったわけです。けれども、そのサマリア人は心から引きちぎれるぐらいの気持ちになって助けたという。このたとえ話で一番大事なポイントが、イエスが誰に対してそのたとえ話をされたのかという。イエスが話された相手というのは、イエスの弟子でも、民衆でもなく、律法学者(ユダヤの法の研究者)に対して善きサマリア人の譬えを話された。律法学者は、要するに「自分は隣人(りんじん)を愛しています。その領域というのが、自分たちの仲間内は愛しています」。各仕切りがあるわけですね。けれどもその仕切り以外の人達は愛しません、という。そういった限定された中での愛、理解だったんですよね。実はこの律法学者というのが、私自身でもあってですね、自分の家族は愛します、愛せます。自分の仲間愛します。けれども、自分に対して意地悪をした、あるいは何か良いことを言わない、そういう人に対しては愛せない。イエスはそれに対して律法学者にいうんですよ。その仕切りのある愛ではなくて、それを取り外した、いかなる人に対しても愛し、その愛を行いなさい。行動としてアクションを起こしなさい、というふうにイエスは語ったわけなんです。
 

 
ナレーター:  自らの枠を外し、隣人のために行動する。牧師になった翌年、柚之原さんにその存在を知らなかった隣人に出会う機会が訪れました。大村の入管の外国人収容者。以来、個別の面会活動も十三年間続けてきました。
 
 
柚之原;  これが私がいつも持ち歩いている手帳なんですけども、今大村入管に入っている人たちのバックグランドと健康状態とか。家に帰ればこの何倍もあるんですけども、ここにあるのは、今入管大村に収容されている人たちのリストというか―ネパール、パキスタン、ガーナ、イラン人、ブラジル、フィリピン、インドネシア、スリランカ…
 

 
ナレーター:  面会してきた外国人収容者は延べ三千八百人。最初のきっかけは、東京に住む中国人の牧師からかかってきた一本の電話でした。
 

 
柚之原;  「品川入管に収容されていた中国人女性が、大村入管に移送されたので一度面会に行ってくれないか」という内容の電話でですね、「入管」という、「外国人収容者」、なんで私が、という、そういった気持ちがあったんですけども、とにかく彼女に会いに行きました。しきりに訴えてくるのは自分の娘のことなんですよね。「このままだと自分は中国に強制送還されてしまう。娘ともう二度と会うことができないかもしれない。どうにか助けてくれ」という。彼女と面会してからですね、同じ部屋の人たちがいます。たくさんの収容者が中にいるわけですね。面会依頼というのが複数くるようになりました。
 

 
ナレーター:  以来、柚之原さんは、日曜礼拝でも信徒に外国人収容者のことを伝え、集まった献金を支援活動や面会の差し入れなどにあててきました。
 
柚之原;  これはイスラム教徒の人が収容されてるんですけども、その差し入れです。彼らは豚肉を宗教上食べれないので、豚肉の成分の入っていない塩ラーメン、あとシーフードラーメンとか、そういうの選んでですね、いつも差し入れしています。
 

 
ナレーター:  柚之原さんは、毎週一回、多いときは週に三日、大村入管に通い、外国人収容者の声に耳をすませています。この日面会の撮影が許された場所が、いつもと違うカウンセリングルームでした。礼拝を行う部屋で互いに触れ合うことができます。
 

柚之原;  普段は面会室というのがありまして、アクリル板のこうある部屋ですけども、一対一で、一人入管の職員の人が立ち会うというような環境で面会をしています。
 

 
ナレーター:  最初に面会にやってきたのは、留学生として日本に来たネパール人。トラブルに巻き込まれて不法滞在となり収容されました。
 

 
柚之原;  彼はですね、どんどんどんどん日本語が上達して、ある東京の大学に一発で合格するわけです。学生生活をしていたときに、百八十万(円)とか二百万とか、生活費と学費、すべてを盗まれたという。パスポートも盗まれたと。
 
収容者:  今、私が、動物よりもひどい生活を送っていると、私、思っています。自由に上を見て空も見れないんですよ。ネットが被っているんですよ、空に。自由に空も見れないんですよ。入管での生活四年になりました、この生活。で家族とか誰かがいれば面会もできるし、それもないし、自分がいつ出るか、それがはっきりわからないわけなんですよ。
 

 
ナレーター:  日本に実りがなく、苦しみを訴える相手もいない人にとって、柚之原さんは唯一の話し相手です。面会に来るのは、二年から六年という長期収容の人たち。日本では入国管理局による収容において、その収容期間は裁判所の判断を仰がずに決めることができます。なぜ収容が続くのか。その理由も開示されません。長期収容者は仮放免を申請し、許可されれば一定条件の下、外に出ることができます。しかし仮放免の申請が不許可になったときに、その理由は伝えられません。
 

 
柚之原;  今までは、一年ほど収容されていた人に対しては、仮放免の許可がたくさん出るケースがあったんですけども、昨年春からは許可はされなくなったんですね。その理由はわからないです。二年たっても、あるいは三年たっても許可されない、そういった人たちが増え続けてきたと。
 

 
ナレーター:  このイスラエル教徒のパキスタン人は、ビザの期限切れによる不法滞在で捕まり収容されました。フィリピン人の妻と幼い娘二人が日本で暮らしています。
 

 
収容者:  私はいつもお願いしてる「家族に会わせて会わせて」。私にとって子供がすべてです。それ下の子だよ。三年前に生まれて自分は見たことない。
 
ナレーター:  強制送還されると、日本には戻れず、二度と娘と会えなくなるのではないか。出られる日もわからない中、子供を抱えて働く妻にも限界が押し寄せています。
 
収容者:  奥さんはもうすごいストレスだよ。あんまり話さない。怒ってる。子供いるから、それどうなるか。生活はどうなる。「お前のせいだ」って。私は、私の手では何もできない。どうしたらいいのかわからない。
 

 
柚之原;  家族との関係が切れたら、彼らも孤立してしまうんですよ。家族関係がやはり希薄になって、悪くなってしまうと。実際に別れたというケースもありますし。長期収容になればなるほど、非常に問題は複雑化していくということは実際のところですね。
 

 
ナレーター:  イランで反政府運動をして逮捕され、三ヶ月間拷問を受けたという男性です。
 
柚之原;  ここの傷はなんですか?
 
収容者:  全部あの警察が、全部やって、「話して」と。「グループの名前教えて」と。あと、これも全部、傷も。この傷、
 
柚之原;  それをナイフで、目の前で、
 
収容者:  この傷、ナイフでこう指も入れた。あと(傷口を)閉めるときにも薬も入れてない。
 
ナレーター:  彼は難民申請が認められず、収容され、柚之原さんの洗礼を受けて、キリスト教徒となりました。母国に返されると、反政府活動と宗教上の理由から死刑を免れないです。収容期間が三年半に達しています。自分の思いを手紙に綴ってきていました。
 
収容者:  私、ここ入管の中で日本語を勉強してる。もうごめんなさいね。いろいろ言葉、間違ってるかもしれない。
 
柚之原;  いいえ。そんなことないですよ。
 
収容者:  失礼な言葉、使ってるかもしれない。
 
精神的にも肉体的にも疲れて限界です。私は前疲れて自殺(しようと)しました。けれど、まわりの人たちに助けられました。入管の中で、私たちがどういう生活してるのか。外の人たちはわからないし、入管は二十四時間、三百六十五日、外の見えない部屋の中に入れて、防犯カメラで監視されて、この状態で私たちは暮らしています。こうやって毎日のように、私たちを精神的に虐められています。私は入管の本当の状況を、今ここで教え、お話をしたので、これから何をされるかわかりません。この状況を外の人たちに伝えて、私たちを助けてください。
 
柚之原;  はい。わかりました。ありがとう。よく勇気をもってそこまでね、はっきり書いて、
 
収容者:  なぜなら、柚之原さん、私、イランに帰ったら死ぬ。もう宗教も変わって、いろいろ問題がある、政治のことも。もうそれは自殺、自殺みたい。柚之原さん、もう疲れたよ。もう言葉にならない、本当に。私のような人、いっぱいいるよ。みんな悲しい。
 
柚之原;  お祈りしましょうか。
 
収容者:  ありがとうございます。
 
柚之原;  主よ。ここまで彼を苦しめているものが何か。彼が勇気をもって今証言しました。その言葉一つひとつが決してムダになることがないようにしてください。この祈りをキリスト・イエスのお名前によってお祈りします。アーメン。
 
収容者:  アーメン。
 

 
柚之原;  私自身はですね、対入管職員とか、そういうことではなくて、この入管制度、システム自体に何か大きな誤りというか、間違いというか、私もそういった法律家でもないですし、でも本当に苦しんで命を絶とうとする人たちも、今この時間、この瞬間にいるという。それは間違いのないことです。彼らから教えられることは沢山あります。面会活動を始めたときはですね、僕が彼らに、あるいは彼女たちに、してあげているんだ、という。そういう自分が優位に立った気持ちで面会していました。けれども、ある収容者が私にこういったんです。「あなたの仕事、弁護士を見つけること。あなたの仕事、やれ」。面会室から出た途端、怒りがこみ上げてきてですね、〈なんだ、あの言い方は。その態度は〉ということで。そういう自分がいたわけなんです。けれども、そうではなくてですね、私自身が本当に「してあげているんだ」ではなくて、私自身が本当に気付かされていって、私自身が砕かれていって、最も砕かれなければならないのは、私自身である、という。そこに気がついたんですね。「お父さんが殺されました。家が焼かれました。これが僕の傷です」って、その傷を見せてくれるんですよ。その人に対して聞くことができるんだ。彼らの苦しみを精一杯この耳で、心で聞いて、近づいて、そういう気持ちにある日から変わってですね、何かちっぽけな自分がここにいてですね、あの逆に力を受けて帰っていくという。そういった経験を何回もさしてもらいました。
 

 
ナレーター:  柚之原さんが力を注いできた仮放免の申請。柚之原さんは、身元保証人を全国に探し、その代理人となって外国人収容者の仮放免を数々実現させてきました。全国の弁護士や支援団体とともに仮放免された人たちが、正式に難民に認定されるよう求める裁判などの支援も続けています。ミャンマーで虐殺などの迫害を受けてきたロヒンギャ(ミャンマー西部ラカイン州出身のイスラム系の人たち)の人たちの仮放免は、柚之原さんにとってとりわけ印象深い出来事でした。大村から出た後、彼らはどのように暮らしているのか。仮放免から十年が過ぎた今年八月、柚之原さんはその消息を訪ねました。柚之原さんと連絡を取り合ってきた身元保証人の家です。
 

 
アウン・ティン: お元気ですか。お世話になりました。長くね、ありがとうございました。
 
柚之原;  とんでもないです。
 
ナレーター:  自らもロヒンギャのアウン・ティンさん。貿易会社を起こして日本国籍も取り、苦しむ同胞を助けてきました。
 
柚之原;  失礼します。
 
ナレーター:  柚之原さんが到着して知らせを受けて、大村にいたロヒンギャの人たちが集まってきました。
 
柚之原;  久しぶりです。
 
ルイス・ラハマン: 久しぶり。
 
柚之原;  元気でしたか。
 
ルイス・ラハマン: 元気です。元気でやってます。
 
柚之原;  (ムハマッド・アブドラさんに)あの時と比べたら…
 
ナレーター:  収容中は痩せていた身体。日本語も不自由でした。
 
アナム・ハッサン: 柚之原先生はいつもいつも面会で、ありがとうございました。
 
柚之原;  いいえ。日本語でお話ができるのがとても今感動しています。
 
ナレーター:  ロヒンギャの人たちは、イスラム教徒。収容中戒律や体調不良によって食べられない食事が出たとき、柚之原さんは食料を差し入れていました。そんな柚之原さんにお礼をしようと、ロヒンギャの人たちは前日の晩から料理を作って待っていました。
柚之原;  いただきます。
 
ルイス・ラハマン: 私はそのご飯は食べられないから、胃の病気あるから、いつもお粥とか、ミルクとか、?んでいるから、柚之原さんにその時にお金もないし、柚之原さんにお願いしたらすぐ、すごい助けられた。その時私、日本語はわからないから、英語で言ったから、柚之原がすぐわかってますから。
 
ナレーター:  十年ぶりの再会で柚之原さんは仮放免で大村を出たロヒンギャのうち、いまだに三人は難民として認められていないことを知りました。仮放免のままだと外での生活に厳しい制約が課せられます。彼らは原則として居住地の圏内しか移動できず、仮放免許可証も二ヶ月おきに入管に出向き、延長をしなければなりません。延長申請の場で理由もわからず拘束され、再び収容されたこともありました。
 
ミヨー・ミンラット: 二か月に一回いくと、(入管の)部屋の中に入って、先に調べる。「体、どうですか」とか、「なんか変わってる」とか、それはいつもやってる。その時、部屋の中に入ったら、もう出られないね。
 
ナレーター:  仮放免中の日常生活で最も問題なのは労働の禁止です。収入を得る手段がないため、一切の生活費を家族や知り合いに頼らざるをえません。
 
ルイス・ラハマン: 仕事が全然、仕事できないんだから、「仮放免」だと、どこでも、会社とか、あとバイトとか、全部ダメです。「仮放免だ」と言ったら、もう話もしない。あと、一ヶ月に一回二回くらい入管から人も来てるから。仕事してるかどうか。それのため、確認のため、家に来て「いない」、いないんだったら電話して。電話も出ないんだったら、「もうあなたは絶対仕事してる」と。一ヶ月に二回ですよ。先月、私の家に二回来てます。ずっとこの問題ですよ。どういうふうに生活しますか。
 

 
ナレーター:  仮放免になり、やっとの思いで外に出ても、すぐに生活に行き詰まる外国人は少なくありません。柚之原さんは、生活費の面倒を見る人がおらず、飢えて盗みをしたり、薬物に手を出すなど、犯罪者となって逮捕され、再収容される人たちも数多く見てきました。
 

 
柚之原;  仮放免で出たはいいけれども、仕事ができない。生きるためにものを盗んでしまう。医療費はどうするか。国民健康保険のない状態で十割負担なんですよね。病院にも行けないということで、苦しみの中で薬物を、というような犯罪を犯してしまうわけなんですよ。例えばロヒンギャの難民の人なんかはロヒンギャ民族の人たちが一所に集まって、そして働いている人たちもいれば、働いていない人もいるということで、仮放免で出た人に関しては、経済的な支援、食べ物もそうですけども、衣食住の支援をしていると。ただ単独で生活をしなくちゃいけないという。そういった人たちはどうしてもやはり犯罪を犯してしまう危険性というか、可能性が非常に高くなってしまうということですね。私はもちろん難民の人たちもそうですけれども、罪を犯した人たちの隣人になって、その人に対して出来ることは本当に小さいですけれども、寄り添っていきたいというふうに常に思っています。イエスは、「わたしが来たのは義人(苦人)を招くためではなく、罪人を招くためである。罪人を救うためにこの世にきたのである」。ですからそういった意味では、難民の人も、あるいは罪を犯した人も差はないというふうに思っています。
 

 
ナレーター:  柚之原さんは、今牧師生活の傍ら、介護の仕事にも携わっています。認知症の人たちが寄り添って暮らすグループホーム。九人の入居者と向き合い始めてから四年が経ちました。
 

 
柚之原;  認知症の方たちというのは、自分の記憶がどんどん薄れていくという。家族のこともわからなくなっていく。そういう中での不安や戦いや苦しみというのを、皆さんそれぞれお持ちなんですよね。まあそういった方たちと、いつも向き合っているわけなんですけども、入管の収容者の人たちとの共通点というか、苦しみを抱えている人たち。立場の弱い人たち、その人たちに寄り添っていくという。それはどこも変わらないというふうに思います。「もっとも小さき者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25章40節)というふうにイエスが言っているんですよね。つまりキリストは最も虐げられた人たち、小さきものの心の中にいる。その人たちとともにいらっしゃるという、そういう言葉だと思うんです。「難民」の「難」というのは、「難しい」―「難」というふうに書きますね。「民」であるという。私自身もそうですけれども、乗り越えることができそうもない、そういった大きな困難・艱難・苦難に直面する。そういった経験を誰でもすると思うんです。その苦しみ・混乱を経験している私たちは、ある意味難民であるという。難民であるという「難」を持った私たちであるという。そういった思いからですね、難民というのは地球の裏側にある人たちだけではなくて、私自身も、あなたも、あなたも難民なんですという。これは入管収容者だけではないんです。認知症の高齢者の人たち、行き場を失った人たち、また被災者の人たち、日本人にもいろんな苦しみを負った人たちがいます。表面的にはわかりにくいかもしれないですけども、本当に多い。この日本の社会に私たちは置かれているというふうに思います。目の前にそういった人たちがいる。そういう人たちがいる限りはズーッと面会をしていくと思います。
 
     これは、平成三十年九月三十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである