今ここ≠ノ気づく
 
                  タイ・スカトー寺副住職  プラユキ・ナラテボー
1962年、埼玉県生まれ。上智大学哲学科卒。タイ・スカトー寺副住職。大学在学中よりボランティアやNGO活動に深く関わる。大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。また日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。
                  き き て     政 野  光 伯
 
ナレーター:  タイの東北部、チャイヤプーム県にあるスカトー寺です。三十年前、一人の日本人が出家しました。プラユキ・ナラテボーさん、現在副住職をしています。プラユキさんのもとに不安や悩みを抱えた数多くの日本人が訪れて来ました。ブッダの教えを聞き、瞑想することで、心が楽になり、生きる力を取り戻せると言います。今回プラユキさんの帰国にあわせ、かつて瞑想会を開いてきた縁のある寺でお話を聞かせていただきました。
 

 
政野:  プラユキさんが副住職を務めていらっしゃるタイのスカトー寺、こちらにこれまで二千人以上の悩める日本人が訪れたということなんですが、みなさんどんな悩みを抱えて来るんですか?
 
プラユキ:  そうですね。いろんな人がそれぞれの悩みを抱えてまいります。親子関係ですごい辛い思いをしている。それから夫婦の関係がすごくギクシャクしてすごく喧嘩になったり、逆に冷たい関係になって対話がなくなって寂しいとか。最近ですとラインとか、そういうのを見てなんかちょっと反応して、それが苦しみにつながっちゃったりとか、そういったような現代特有な苦しみというのがあるように思いますね。
 
政野:  実際今のお話で何か具体的な例で教えていただくと、こんな人がいたんだよという、何か現代社会を象徴するような、そんな例ってありますか?
 
プラユキ:  そうですね。やっぱり最近親が虐待をしてしまったり、あるいは虐めの問題を無視してしまったり、あるいはすごい干渉があるとか、そういったような親に育てられ、何かそれが非常に心で満たされずに、常に自分は否定されている感じを受けて、そういう方だと、どうしても別に周りが否定しなくても、なんかちょっとあると自分が悪かったんだという感じで、自分で自己嫌悪・自己否定になって、それが激しくなれば自分なんか生きている意味がないみたいな感じで人間関係もうまく築けないというかな、そういう人ってやっぱり来られる方の中には多い感じはしますよね。
 
政野:  それらのみなさんとプラユキさんはどんなふうに向き合うんですか?
 
プラユキ:  そうですね。まず安心してもらうという、それは私も受け入れたりとか、周りのお寺の人たちも、それから村人たちもみんなすごく日本人がやってくるということで、すごく優しく対応してくれるんですけれども、そうすると、まず自分の居場所があったんだなという、本当に自分らしくあっていいんだという、その辺の安心感がまず起こると非常に楽になってくる感じがしますよね。
 
政野:  そして、次の段階はどこに進めて行くんですか?
 
プラユキ:  そうですね。こちらは問い掛けていくというか、例えばすごくそういう親子関係で、非常に親に対して虐げられてきたとか、そういったときに辛い思いをしてきて、そこで親に怒りとなってぶっつけてしまったりとか、そういう人たちも表面では怒りなんですけど、その奥にはこうあってほしいと、親にこうやって育てて欲しいとか、こっちをもっと理解してほしい、というような気持ちはやっぱりあるわけですよね。すごい願いですよね。それが叶わなくて、すごい落胆して、やっぱりそういった叫びが怒りになったりしているということなので、こちらとしてはそういった本当に奥にある親にもっとこうあってほしいという願いを、まずその人自身が自分で見つけていけるというかな、そんな感じで。そしてそういう感じで辛かったんだよねって。そういう思いがあるんだったら、じゃそれを一緒にどうしたら叶えることができるか、一緒に考えてみようみたいな感じですよね。まずは本当に起こってきた現象としての怒りそのものも否定しなくていい。怒っている私はすごく悪い人だとか、出来損ないだとかという感じで、自己否定したりとか、自己嫌悪しちゃうと、もうそこですごく自分を痛めつける。そんな感じですごく弱まってしまう、その人自身。最初は本当に怒っているとか、それは本当にそういったあるがままの感情を発露として大事なことだよね。そこをまず認めていくというところから始まりますよね。
 
政野:  まずそこからスタートするわけですね。
 
プラユキ:  そうですね。ブッダが教えているのは、「苦しみがあること」と「苦しむこと」は違うよ。すなわち「苦しみを観る(観察する)ものであり、苦しみ必要はない」という、そこをまず伝えられたわけですよね。ですから本当にブッダがそこで言ったのは、「苦しみは原因があるよ。それでその原因をちゃんと取り除いて、そして取り除ければ、本当に苦しみからの解放があるよ、苦しみから楽になられるよ」それを非常にメーンに伝えたということですよね。すなわち「苦→滅苦」の原理こそが仏教、すなわちブッダの教えの核心です。苦しみとしっかり向き合い(苦諦)、その原因を知り(集諦)、正しい方法で取り組みなさい(道諦)、さすれば誰でもが苦しみを滅することができる(滅諦)という。
 
政野:  そうしますと、ブッダは「苦しみというものはこういうものだ」と、そのあたりのブッダの教えはどんなふうになるんですか?
 
プラユキ:  仏教用語で「無明(むみよう)」という言葉がありますよね。「明るく無い」と書くんですけど、「見ていない」ということ。だから「ちゃんと目を向けて、何がどうなっているかといったことがはっきりわかっていない、見えていない。ただ心がそれに応じて闇雲に動いてってしまう」と。そういうことによって、欲が起こったり、怒りも起こったり、すごく苦しみにはまっていく。ブッダはそこを発見したんですよ。だから「私がその苦しみの原因じゃないし、あなたが原因でもないし、あるいはそれで偶然起こったことじゃないよ。無明のせいで起こちゃったんだよね」という、そういったメッセージが弟子との間で交わされた。「何が本当の苦しみの原因ですか?」と、弟子がブッダに問い掛けたわけですよ。その時に、ブッダは「あなたですよ」という感じじゃなくて、「無明だよ」という。そういった「心の現象として起こっているんだと。はっきり明るく見えるようになったら、本当にそういった苦しみから解放されますよ」という。「そこのところをちゃんと今度は、はっきり見ていこうね」という。これが非常にブッダ流な対応法ですよね。ただただ「我知らずに、心をなおざりにして、結局知らずのうちに苦しんでいくんじゃなくて、そこら辺をちゃんと見極めて、もっと正しく対応していこう」という。反応じゃなくて、対応していこうみたいな。
 
政野:  「反応」じゃなくって、「対応」を。
 
プラユキ:  そうですね。
 
政野:  そうすると、反応はあまりそういうことを考え・吟味した行いではなくて、
 
プラユキ:  ないということですね。「気づいていない」というのがまずありますよね。それが我知らずになってしまって、闇雲な反応になってしまうと。
 
政野:  対応はそこから一歩進んだ、
 
プラユキ:  そうですね。より落ち着いた気持ちができているというところで、一歩進んでいるといってもいいし、まぁ一段階レベルの高い対応といってもいいと思いますけどね。
 
政野:  ではプラユキさんがですね、なぜこういう道を辿ってきたのか、いろいろ伺っていきたいと思うんですが、具体的に仏教というものに触れたり、興味を持ったのはいつ頃で、どなたか影響を与えてくださった方がいらっしゃったんですか?
 
プラユキ:  そうですね。まぁ一番のベースは、母親ですよね。非常に母は真面目に何事もやるタイプという感じだったんですけど、特にお経読んだりとか、母は保育園に勤めたりしていたんですけども、勤めていた保育園が浄土宗のお寺だったりして、そういったこともあって、まぁ信仰心もありました。それで「みんなが幸せになるように、人さまのため」という、そういったボランティア活動とか、そういったことも非常に熱心にやられていて、そういった後ろ姿をちょっとズーッと見てきて、なんかそういったものがじわじわと自分も仏さまを大事にしたりとか、みんな一緒に幸せになりたいという、そういった気持ちが、そういったところから薫陶を受けたのかもしれませんよね。
 
政野:  そして青年期になって、具体的に自分の将来を見据える進学先を考えるとなった時に、その経験はつながっていくものがありましたか?
 
プラユキ:  ええ、ありましたね。やっぱり私、高校時代とか、まぁ本を読むのが好きだったんですけども、その中で出会ったすごく私が影響を受けた本に、宮沢賢治さんのいろんなものを読んできたんですけども、その中でも『農民芸術概論綱要』に書かれてあった「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といったフレーズが非常にスーッと〈そうだよ〉という感じで、なんか直感しちゃったというかな。じゃあ自分だけじゃなくて、みんなと一緒に幸せになるという、そういう道を歩みたいという。それにはやっぱり真理といったことを本当に極めたいというか、高校生のほんとに青臭い考え方とも言えるかもしれないけど、何かそのような感じで、進学の時の志望の学科は、哲学科を選んだわけなんです。
 
政野:  そして学生時代、さらに世界が広がって、いろんなものと出遇ったんじゃないかなと思いますけども、如何ですか?
 
プラユキ:  そうですね。それまでは日本人視点だったんだけど、やっぱりアジアの人とか、アフリカの人とか、そういった人々の間には難民問題とか、非常に食べるものがなくて苦しんでいる飢餓の問題、こういう現実が世界にあるということを、先生から話を聞いて、世界のありのままの現実、そして矛盾に目を開かされた。先生の真摯な問い掛けを受け、いかに生きるべきかを真剣に考えはじめました。先生の問いかけは、私の往く道を指し示してくれました。宮沢賢治の言葉の「世界のみんなが幸せにならないと個人の幸せはないでしょう」という言葉と共鳴し合って、じゃ何か自分もそういった社会活動といいますかね…
 
政野:  アクションを起こしたわけですね。
 
プラユキ:  はい。そういうことですね。一番やったこととしては、ユニセフの募金活動に参加して一緒に募金を呼びかけたりとか、それだけじゃなくてアフリカ難民支援活動、核・原発問題、そして障害者の介助などさまざまな社会活動、ボランティア活動をしてみたりとか、いうなればほんとに頑張って何かそういうような問題は自分も解決していこうという、そんな感じでやったりもしたんですね。
 
政野:  具体的なアクションいろいろ積み重ねる中で、そういったものから社会に触れて、社会を見て、若きプラユキさんはどんな感情を抱いたんですか?
 
プラユキ:  そうですね。実をいうと、私は本当にある意味で闇雲に活動する質だったんですよね。それで一つは、やればやるほど疲れちゃったみたいな、うまくいかなくて落ち込んだりとか、自分の力ではどうにもならないことがあるなみたいな感じで、すごく自分の無力感を感じたりとか、何かそういう感じでちょっとね―今考えれば本当に自分の心にあんまり向き合わずに、何か外の問題外の問題ってちょっと行き過ぎちゃったみたいなところがあったと思うので、それは非常に苦しみにどっぷりはまり込んで、本当に善いことやっているようでもなんか全然自分がハッピーになれないというか、ちょっとそんなような感じを受けましたね。
 

 
ナレーター:  世界の幸福を求めて活動しながらも、壁に突き当たっていたプラユキさんに転機が訪れます。それはタイの農民地域に二週間滞在するというワークショップ(Workshop:一方通行的な知や技術の伝達でなく、参加者が自ら参加・体験し、グループの相互作用の中で何かを学びあったり創り出したりする、双方向的な学びと創造のスタイル)への参加でした。
 

 
政野:  その時のタイの印象とか、その時に発見したタイの当時の姿、どんなものでしたか?
 
プラユキ:  そうですね。そこで私には非常に驚きというか、ありました。日本は経済発展して、タイはまだアジアの貧しい国みたいな、そういうようなイメージがあったわけですね。ところがいざ自分が何ができるかといってみて、そしてその「農村滞在ワークショップ」というプログラムに参加して、非常にタイでも貧困と言われるような農村部にほっぽり込まれるというか、そんなようなワイルド(野生の、野蛮な)なツアーというかね、そこの村に入ったんですけど、本当に水道は来ていない、ガスもない、それから電気もなかったですよ。
 
政野:  貧しい村にたった一人日本人の青年が放り込まれたと。
 
プラユキ:  そういうことですね。
 
政野:  そこで見た現実は?
 
プラユキ:  そうですね。夜になると真っ暗で、ちょっとしたアルコールランプみたいなのを灯して、そのなかで食卓を囲んでみたいな、そんなような生活ですよね。それで農村の人ですから、畑耕したり、薪を拾いに行ったり、田んぼの収穫したりとか、そういったような生活に私も一緒に連れて行ってもらってちょっと仕事を手伝わしていただいたりという。その体験がやっぱり非常に私には大きな体験でした。というのは、〈物があれば豊かですごく幸せになれる〉みたいに、ちょっと日本で感じていたんだけど、一緒にそうやって生活していると、何か村人たちの方が非常に幸せそうにしているし、仲良くやっているし、子供たちも目を輝かして生き生きしている。その姿が非常に印象的で、〈あ、幸せって、あれ、物とかじゃなくて、そこにある心というか、そういうのって関係しているのかな〉みたいな、ちょっとそんなような体験だったんですよね。本当にガラッと私の「幸福観」というのを変わらせてもらえた機会になって、それでやっぱりこれはもっと何度か行ってみたい、学んでみたいという、ちょっとそんな意識になってきましたね。
 
政野:  その中で心の豊かさ、日本に無いものをもたらしているものは何なんだろう、ということはお感じになりましたか?
 
プラユキ:  そうですね。一つはすごく自然と共存している感じですよね。自然を支配というんじゃなくて、本当に自然環境と仲良く、ある意味享受して自然も大事にしてというか、そんなような自然と共にあるという生活というのは、そこに非常にあったと思います。もう一つは、仏教ですね。タイは「仏教国」と言われているだけに、九十五パーセント仏教の信仰があると。もちろん都市部でいろんな問題がおこってたりするわけなんですけども、本当に農村の中では、そういった都市文明とかがドッと入ってこないし、非常に人々は自然の中で穏やかに暮らしながら、かつ仏教の篤い信仰を持ってお坊さんたちをすごく尊敬し、仏教の教えを生活の中にも取り入れているという、そういったところになんか本当の幸せのヒントがあるんじゃないかみたいな感じはしました。一番印象的なのは托鉢をしている光景ですよね。お坊さんたちが早朝から…
 
政野:  托鉢して回る姿。
 
プラユキ:  そうです。そういう中でお坊さんが歩いていくと、もうほんとに軒先に待っていて、そこのところにお坊さんが止まって、村人たちが非常にうやうやしく朝から起きて作ったおかずや温かほかほかご飯を鉢に入れているという光景。そしてそれをまた本当に小っちゃな子供たちがほんとにお父さんお母さんの後ろ姿にしたがっているみたいな感じで、すごく子どもたちからもお坊さんたちに対して布施している姿。非常に「与えるよ」ということの喜びが非常にあるなという感じがすごくして。「奪う奪う、得をして得をして」じゃなくって、ちゃんと与えると徳を積めるという、そういう考え方が非常に日常の中に見られて、その象徴的なのが托鉢の光景かなみたいな感じがありました。
 
政野:  その小さな、決して豊かと言えないその村にそこまで日常の中に仏教が根付いる。
 
プラユキ:  まさに生きているというかね。基本的に僧侶って、タイでは非常に尊敬の対象ですよね。それで昔からお寺ってある種の村のセンターといいますか、非常にいろんな悩み、相談聞いたりとか、あるいはちょっとした寺子屋的なものがあったりとか、そんな意味で非常に村の相談役でもあったり、ある意味でちょっとした薬草に詳しいお坊さんがいて、ちょっとした病院みたいな役割をしていたりとか、非常にそういったような感じで、村と非常に仲良くやっている感じの光景が見られますね。本当に「みんなとともに幸せになれる」という、宮沢賢治がそういう言葉で言い表したような、そういったことをすごく実践されていた姿があったんです。
 
 
ナレーター:  大学を卒業後、プラユキさんは、二十五歳の時、タイの農村地域の小さな村にあるスカトー寺で出家します。
 

 
政野:  本当に自然な流れで、世界に一気に入り込んで、もうそこからタイで出家して修行の日々が始まるわけですよね。
 
プラユキ:  そうなんですよね。お蔭様でね。
 
政野:  我々わかっているようでわかっていないんですが、朝は相当早いと思いますが、修行の朝からお休みになるまで、どんなことをされてきたのか。ちょっと具体的に教えていただけますか。まず起床は何時ですか?
 
プラユキ:  大体は四時から読経が始まります。朝の読経が四時ですから、三時とか、三時半に起きて、ちょっとした準備―顔を洗ったりとか、ちょっとその前に瞑想をしたりとか、その辺はお坊さんそれぞれ任されているんですけど、なんであれ四時に出てきてみんなで一緒に読経するというのがまずスタートですね。それで読経して、先生の説法があったり、一緒にみんなで瞑想したりということがあって、それが大体五時過ぎぐらいまでやります。そうすると、だんだん陽が昇りかける。まだほの暗い時間なんですけども、軽い掃除をしたりして、その後に托鉢に出かけます。まぁタイでは托鉢と言ったら裸足で歩くというのが基本なんです。私の寺では五キロぐらい歩くんですよ。そして、その五キロぐらい大体の時間にすれば、冬とかちょっと時期によって違いますけども、五時半ぐらいから出発して、こうゆっくり歩いて、托鉢の家々を回って帰ってくると七時ぐらいな感じですね。それで七時に戻ってきます。お坊さんたちはいろんなところに托鉢に出かけているので、みんな帰ってきて準備できたら、今度食事をみんなでするというのが大体七時半ぐらいかな、こういう感じですね。
 
政野:  いわゆる自己研鑽の時間と言いましょうか、自分自身の修行の時間というのはあるんですか?
 
プラユキ:  あります。これがほとんどと言っていいんです。ですから今言った朝のお勤め―勤行が朝に一回あって、それで夜六時ぐらいからもう一度読経して、説法聞いて、そしてみんなで瞑想したりという時間が一時間ほどあったりするんですけど…
 
政野:  それぞれ瞑想する時間もあるわけですか?
プラユキ:  そこでみんなでやる感じですね。この空いた時間―日中の時間は本当に全部瞑想していてもOKなわけなんです。
 
政野:  例えば瞑想するとしたら最初は誰か教えてくれるんですか?
 
プラユキ:  そうなんですけど、やっぱり私、今までやったりしていた自分なりの瞑想というか坐禅というか、そういうことの方がなんかちょっとやりやすかったりして、ちょっと集中していくといいかな…
 
政野:  つまり一人でということですか?
 
プラユキ:  ええ。自分の僧坊の中や近く森の中のそんなところにちょっとしたスペースでやっていたわけなんですよね。
 
政野:  じゃあ静かに相当集中して、
 
プラユキ:  そうですね。本当に環境が森の中の自然の中ですので、やっぱり蚊がいたりとか、そういうようなところでやるんですけれども。
 
政野:  「やっぱり」なんていうもんじゃないじゃないですか?
 
プラユキ:  そうなんですよ。雨季とかね雨が降り続く時期もあったりして、もう本当に大きい藪蚊がウジョウジョというか飛び交ってまいりますよね、森の中ですからね。
 
政野:  そこら中刺されて…
 
プラユキ:  もう随分刺されました。非常になんというかやっぱり「修行だ」という意識が強かったんですよね。だからもう蚊に刺されるのに耐えるのも「修行だ」というか、ただただ耐えていって、
 
政野:  そんな環境で集中できましたか?
 
プラユキ:  そこがですね面白いこと起こったんですよ。どういうことかというと、ほんとにどんどんどんどん真っ黒けになるぐらいの感じで蚊がくっついてきて、それってある種のかゆみとか痛みとか感じますよね。ところが、いうなればその蚊がグッとくるからグッと集中するんですよ。そうすると、なんかそれだけで最初かゆいかゆいなんだけど、なんかそれをこう集中して感じているのが、非常に集中力を蚊が促してくれたみたいな感じで、すごく集中に入れて、一般に言われる「禅定(ぜんじよう)」とか「三昧(さんまい)」とか、なんかちょっとその最初の痒みを乗り越えると、すごい集中的になってすごい静かな感じになれたりしたんですよね。
 
政野:  その感覚は私にはわかりませんが(笑い)、
 
プラユキ:  私には、だから「生きとし生けるものとともに幸せでありたい」みたいな、そんなのがあったから、なんか献血しているような(笑い)、蚊もそうやってお腹空かしてきて、それで血を吸って満足感をもってパッと飛び去っていくというのが、なんかすごく喜び感もあったりして、ある意味これってなんかお母さんが赤ちゃんにおっぱいあげて、それで何か喜んでね、赤ん坊が元気に育っている姿、そんな感じがこれやっていて、何かある種のお母さん疑似体験をやったような(笑い)そんなような感じもありましたね。
 
政野:  修行しながら蚊のお母さんになったような(笑い)、
 
プラユキ:  すごく本当に私みたいなものでも、ちょっとそうしたことができるという。ところが今度は取られちゃったんですよ、私。気持ちいいじゃないですか。手放したくない、という感じがすごく出てきて、そうすると、今度は静かな時はいいんですよ。ところがちょっと外からなんか選挙カーが来て候補者が連呼をしたりして、そうすると聞こえてきますよね。〈俺の静けさを壊すな〉みたいな、何かイライラがどんどん湧いてきたりとか、
 

ナレーター:  この時プラユキさんを指導したのが、スカトー寺の住職で師匠でもあるルアンポー・カムキアンさんです。タイでは優れた瞑想の指導者として知られていました。
 

 
プラユキ:  やっぱり自分にとっても悩みだったので、師匠に「こんな感じですごく心地いいんですけど、でもやっぱりそういう感じでなんかイライラが止まらないんですけど」とお話したところ、「お前、ちょっと間違ってるよ、やり方が。そう教えていないでしょ」って。「瞑想というのは、ただ集中して静かになっていって、そこにしがみついて、その境地にズーッとはまり込みなさい、じゃなくて、どういう心の現象であっても、それが例えばそういった静かな時も、あるいはちょっとフッと何かいろんな思考が湧いてきたり、雑念とか妄想とか、と言われているものが本当に湧いてきても、あるがままにそれ気づいてみることだよ。こっちの修行がよりブッダの教えた瞑想の一番核心なんだよ」ということを師匠に言われて、それで最初だからちょっと用語もよくわからなかったんですね。日本人だとやっぱり「集中」ってすごく身近じゃないですか。そして、だから瞑想と言えば全部集中だと思ったりしているわけですよ。ところがあちらでは「集中」という言葉もあるけど、また集中でない言葉もあるわけなんです。
 
政野:  そうしますと、瞑想にもいろんな種類があるということですか?
 
プラユキ:  おっしゃるとおりですね。手を動かしながら目を開いてやっていくという。
 
政野:  目を閉じないんですか?
 
プラユキ:  目を閉じないで。半眼でもなくて、普通に開いて、手も動かして、という。
 
政野:  瞑想というと、眼を閉じているイメージがありますが。
 
プラユキ:  やっぱりそうですよね。ところがやっぱり先生にそういうアドバイスを受けて、「こっちで教えているものをちゃんとやってみなさい」という感じで言われたわけですよ。
 
政野:  目も開けたまま、手も動かすんですか?
 
プラユキ:  そうです。「手動瞑想(しゆどうめいそう)」と言います。手を動かす。だから「手動」ですよね。
 
政野:  狙いとかどういうところにあるんですか?
 
プラユキ:  まず手って、これって昨日の手でもないですよね。明日の手でもありません。それからいうなれば、イメージで描かれた手でもない、物語で作った手じゃなくて、それからどこか他のところにある手でもなくて、ここにありますよね。今ここにあるリアルなものなんですよ。私たち、いうなれば悩み、苦しみっていうものって、結局いろんな過去のことに心がフッとさまよっていって、過去のことをブツブツ後悔していったりとか、あるいは未来にまだきていないことをいろいろ考えてふらふらっと未来の方に立って、「心今ここにあらず」でどんど妄想して、ああなんじゃないかみたいな、心がそうなっちゃっている状態だから、切ってこの現実的なものにハッと気づくと、そういった妄想がパッと消えていくみたいな、そういったところありますね。
 
政野:  今、簡単にイメージ結びつかないですけども、そういう瞑想もあるんですね。
 
プラユキ:  そうですね。そして私が本当に入門した時に、先生がそれを中心に教えてくださった。もちろん目を瞑ってする呼吸瞑想とかも伝統的なブッダの教えの瞑想法なんですけれども、手動瞑想法はそれの非常にダイナミック版というような感じのの瞑想法なんです。しかしコンセプトは同じなんですよ。手動瞑想法の方も、正しくやればちゃんと観察して気づいて覚醒していくという。集中して心を安定させコントロールしていくのが集中瞑想の目指しているところなんだけど、手動瞑想は全然そういうコントロールは要らないんですよ。ただ本当に生じてくるものを、ほんとに起こってくるがままに、ただちゃんと観察して気づいていく。そういったようなスタイルの瞑想法であるということです。
 
政野:  あるものを起こっていることはそのまま受け止めて、ちゃんと理解して、分かった上で気づくということなんですね。
 
プラユキ:  そうですね。
 
政野:  「気づく」という言葉を使われましたけども。
 
プラユキ:  はい。これ「サティー(Sati)」という言葉になりますね。「気づく=サティー・念」。日本語では「念(ねん)」と書かれたりするんですけどね。「今の心」と書きますよね。ですから本当に「今・ここ」にある現象、生じてくるもの、それは手を動かせば手という現象がありますね。それから本当にふっと湧いてくる心からの記憶がフッと甦ってきたり、いろんなイメージが湧いてきたり、いろんな気分がある。それをほんとにあるがままに、こうしようという、そういうものをそこに入れずに、起こったまんまに、解釈加えず、判断せずに、「今・ここ」に起こっているものを淡々と観ていこう、そういった感じですよね。
 

 
ナレーター:  物事をあるがままに観察する「気づきの瞑想」。その核となる「今ここに気づく」というブッダの教えが原始仏典の中に残されています。
 
過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるをおもうことなかれ
過去 そはすでに過ぎ去りたり
未来 そはいまだ到らざるなり
されば ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺らぐことなく 動ずることなく
そを見きわめ そを実践すべし
ただ今日まさになすべきことを
熱心になせ
(原始仏典「一夜賢者経」より)
 
プラユキさんは、近年日本各地のお寺から招かれ、瞑想会を開いています。この日訪れたのは長崎県の禅宗のお寺です。
 
プラユキ:  よろしくお願い致します。
 
住職: よろしくお願い致します。
 
プラユキ:  非常にブッダが一番こう強調されたものといえば、例えば「気づく」ということになるわけですね。気づいていく。「今ここ」、今ここを丁寧に大事にしっかりと生きていく生き方にもなります。皆様の右手ですね、は今膝の上にありますけど、今度はその右手をちょっと立ててみてください、パッとこんな感じ。膝の上に立てましたね。そして上に持ってきます。この辺肩のあたりぐらいまで持ってくる。そしてお腹に移動させます。はい、右手を胸に持ってくる。こんな感じで‥
 
参加者A: 手を動かすことによって意識の向け方というのが全然違うなって感じました。
参加者B: 時々他のことも考えるんだけど、全く今生きているんだなという実感を感じましたね。
 
参加者C: よくちょっとしたことで、こうカチンとなったりするんですけど、怒りの感情ってなんかあまりいいもの生まれないんだなって、最近ちょっと思っていたところなので、それがすごくこうぴったり合った感じでよかったです、はい。
 

 
政野:  プラユキさん、実際にですね、「気づきの瞑想―手動瞑想」をご指導いただきたいんですが、よろしくお願い致します。
 
プラユキ:  はい。まずですね、姿勢は背筋を立ててリラックスしてやっていきます。心は奥にということで、何が起こってもOKよって、こんな感じでやっていただければと思います。では動きを説明したいと思います。
 
@姿勢を正して、両手を太ももの上に伏せる。これはスタートポジションなんですけど、これから動かしていきます。どんな感じかというと、
Aまず右手のひらを太ももの上に立てます。
B右手を右肩の高さで垂直に持ち上げます。
C右手をお腹にもっていきます。
D今度左手の手のひらを太ももの上に立てます。
Eその左手を肩の高さまで垂直に上げます。
F左手をお腹にもっていき、右手の上に重ねる。
G右手を胸元に移動する。
H右手を90度開き、肩の高さにもってくる。
I右手を太ももの上に下ろします。
 
 
 
J右手の手のひらを伏せます。
K左手を胸元に移動します。
L左手を90度開き、肩の高さにもってきます。
M左手を太ももの上に下ろします。
N左手の手のひらを伏せます。
これで一サイクルです。
 
これ続けていきます。まず覚えてもらうのに、ちょっと続けていきますね。(@〜Nの動作をする)A右手を立てますね。B上に持ってきます。Cお腹に持ってきます。Dはい、左手を立てて、E上に持ってきて、Fお腹に持ってくる。G右手を胸に、H外に開いて、I下ろして、J伏せます。K左手を胸に、L外へ出して、M下ろして、N伏せます。
 
まず動きはこんな感じです。このようにただ動かしているだけでも脳的には良いそうですよ。非常にリズミカルな運動みたいな感じなので、そうすると、脳も活性化して、心穏やかになってくる。これだけでもある種の瞑想効果ってあるんですよ。ところで、さらにそれを気づきの瞑想―エッセンスを盛り込んでいくというか、そんな感じのちょっとポイントを申し上げます。動きは今のことを続けていく感じなんですけど、動く時にちゃんと「気づいていく」ということはどういうことかと言ったら、パッと手を膝の上に立てた時に、「今自分の手が膝の上に立っている」ということを、自分で確認する感じです。これが「気づく」という感じです。そして、上にパーッと持ってきたら、この手は膝の上にないですよね。ここにあるよね。「ここにある」これでまたパッと気づくといいんですよ。あんまり手の感覚にグッと集中する必要はありません。この瞑想法では、手は集中の対象ではなく、気づくための手がかりです。
 
政野:  案外パーッパーッとやってしまっていいんですか?
 
プラユキ:  その通りなんです。そこがポイントなんですよ。「コマ、コマ、コマ」という感じでやっていくんです。一コマ一コマで一確認をしていくという感じで、いい感じです。気づきのニュアンス、ちょっとピンとこない、難しいなぁと思われる方があると思うんで、ちょっとこういう感じで背中に片手を回して、グー、チョキ、パーとじゃんけんをやってみてください。その手は見えなくても、自分が今、何を出しているかがわかるでしょう。
 
政野:  何を出しているか、もちろんはっきり意識しますね。出そうと思って意識するんじゃなくて、何が出ているのかは確認意識されますね。
 
プラユキ:  そう、これが気づきなんです。
 
政野:  「気づき」というのは、そういうことなんですね。
 
プラユキ:  そういうことでございます。もう一つ大事なことがあるんです。それはどういうことかというと、私たちまぁ気づきってやってますよ。そしてそのときって非常に「今・ここ」にある状態なんですよ。「今・ここ」に生きている状態が生まれるんですよ。ただ気づくだけで。ところがやっぱり今まで心の癖ってありますよ。さっき言ったようにいろんなふっと記憶がよみがえって、ブツブツブツって心の中でおしゃべり始まっちゃうことありませんか? それを一般的には「雑念」とか「妄想」と言っているものなんですよ。ところが、この気づきの瞑想コンセプトだと、そういう感じで、それもある種の気づけになってしまいます。さっき言ったように、それを「あるがままに」というのがすごい大事なので、それが起こってきたら、多分思考は思考として、気分は気分として、それを「雑念だ。いかん」とかじゃなくって。「雑念いかん、いかん、いかん」と思うと、またそれが雑念をまた攻撃する。そういった思考として増幅しちゃうということなんです。ですから、これ一番大事な対応は、「受容してあげよう」「受け止めてあげよう」という感じ。どういう感じかと言ったら、「ブツブツブツ起こってきたな、OK(オツケー)」みたいな。ただあるがままにそれを起こってきたものとして認めてあげて、そしてそれまたパッと「いま・ここ」に戻ってきちゃうと。このプロセス、何かクッションみたいな、これすごい大事です。そうしないと、どんどんどんどんやっていればやっているほど「これはいかん、あれはいかん」みたいな感じで、またどんどんどんどん増幅して、それがまた苦しみになっちゃったりという。ちょっとそういったずれてきちゃったりするので、気づいて「ブツブツ・・・OK」そうしたら「受容力」がどんどんどんどん培われていくんですよ、「受け止める力」が。仏教語で「捨(しや)」という言葉あります―「捨てる」と書いて。あれは別に無関心という意味ではなくて、「無執着(むしゆうちやく)」という意味なんです。「手放せる力」なんです。ですから、そういったことが起こってきたから悪いじゃない。そういったプロセスを経ていくことによって、今言った受容力も培え、そして無執着力というものも培え、そしていくとだんだん「こうやって心って起こってきて、そのまんま知らず知らずのうちにやっていると、どんどんどんどん膨らんできちゃって、苦しみも増えていく。でもパーッと手放すと、また今度は楽になっていく。ああ、こうやって苦しみって起こるし、こうやって苦しみが消えていくんだな」ということがどんどんどんどん体感的にわかっていくのが「洞察力」「智慧の力」ということになるわけです。ですから何度起こっても、全部学びになっていくというか、それが自分のパワーになっていくというか、そんな感じになるんですよね。
 
政野:  気づきを意識して、もう一回ちょっと一緒にやってみたんですが、よろしくお願い致します。
 
プラユキ:  気づきを意識してやっていきます。
 
@まず両手の手のひらを太ももの上に伏せて置きます。それをしっかり自覚します。これが気づきです。
A次に右手のひらを太ももの上に立てます。気づきます。
B右手を右肩の高さで垂直に持ち上げます。気づきます。
C右手をお腹の上に移動します。気づきます。気づきます。
D今度は左手の手のひらを太ももの上に立てます。気づきます。
Eその左手を肩の高さまで垂直に持ち上げます。気づきます。
F左手をお腹に移動し、右手の上に重ねる。気づきます。
G右手を胸元に移動します。気づきます。
H右手を外に90度開きます。気づきます。
I右手をそのまま太ももの上に下ろします。気づきます。
J右手の手のひらを伏せます。気づきます。
K今度は、左手を胸元に移動します。気づきます。
L左手を外に90度開きます。気づきます。
M左手をそのまま太ももの上に下ろします。気づきます。
N左手の手のひらを伏せます。気づきます。
 
(@からNの動作、一サイクル終了して)どうですか?
 
政野:  そうですね。一連の動作を覚えて、もっとすんなりいけたら、ぱっぱっぱっとこうできるかもしれませんね。
 
プラユキ:  どうですか、気づいている時という感じというのは?
 
政野:  「気づく」ということにもっと集中していけそうな感じが…
 
プラユキ:  なるほどね、はい。
 
政野:  そんな手動瞑想、気づきの瞑想を、日常生活の中で取り入れていくことができたら、もっと楽しいんじゃないかと思うんですが、その辺いかがですかね?
 
プラユキ:  例えば私たち、お皿洗いしたりとか、料理をトントンと作ったりとか、手を動かしていますね。掃除しているときも、拭いたり掃いたり動かしている。まさにこの瞑想のそういったコンセプト、やり方の大事なポイントを押さえてこれをやれば、本当にそういった一挙手一投足の日常の家事であったり、日常の一つ一つの行為が本当に気づきの瞑想にもなるという。
 
政野:  日常の動作そのもの―仕事だったり、家事だったり、そういうことをそのまま気づきの瞑想、手動瞑想に置き換えられるということなんですね。
 
プラユキ:  まぁそういうことですよね。
 
政野:  心の持ちようによっては。
 
プラユキ:  おっしゃる通りです。
 
政野:  なるほど。
 
プラユキ:  そういう感じでちゃんと落とし込める、活用できるというところが非常にあるかなと思いますよね。
 
政野:  改めてこの手動瞑想で得られる心の変化、これを整理していただくと、どんなことになりますか?
 
プラユキ:  そうですね。やっぱりついつい私たち、我知らずに何かを行為しちゃう。それがもしかして、暴言を吐くとか、あるいはちょっと暴力になったり、これ全部心が止められずに、スーッとそこまで発展しちゃうわけですね。そこまでいかなくても、心でブツブツブツと言っている時って、すごく憂鬱な気持ちになったり、不安な気持ちになったりする。それがどんどん覚醒力つくわけだから、フッとまたそこで目覚めて手放す。例えば夢を見ている時って、まあ非常に恐い夢をみたり、悪夢をみることありますよね。でも朝パーッと起きると〈あ、夢か〉みたいな感じで、ホッと終わっちゃう。あの感じと近いです。ああいう感じの「ついつい知らずに行っている、無意識にやっちゃっている」ことが、非常にああ「今・ここ」で起こっていることなんだ、ということに向きあって、「じゃもっといい選択がある」ということを見つけられるというか、暴走させなくなれる心になる。
 
政野:  もっと言えば、例えばいつもカリカリ怒っていて、怒っていることでいろんなことに悪影響を及んでいる人が、その怒りというものの捉え方が変わってくるんですね。
 
プラユキ:  やっぱり怒りに填まり込んだら見えないんですよね。これは「執着」と言ったりともするわけなんですけど。でもところが、「あ、怒っている」がまず見えてくると、今度は怒りがどんどん暴走するんじゃなくて、より奥の気持ちの方に目がいくことが可能になってくるんです。「怒りって必ず原因がある」って、これブッダの教えですよね。「怒り」ってやっぱりその人なりに少し満たされないものがあって、それを「何とかしてくれ」という叫びとしての「怒り」という感じになるけど、まず「満たされないものがあるんだ」とここの辺で見えるようになってくるわけですよ。そして、「よしよし、それは辛いよね」という感じになったり、そう奥には「願いがある」というところまで見えてくるようになって、「あ、満たされないのは、心に願いがあるけど、それが何かうまくしてもらえなかった、出来事として起こってことなくて満たされない気持ちとか、不満感が起こってくるとか」という。この願いをもっと大事にしてあげよう。願いを叶えていくには本当にどうやったら、感情に翻弄されるんじゃなくて、もっと実現していくかなという、そういった非常に吟味できる、分析の意識がそこからだんだんと生まれてくる。苦しみのパターンに陥らないようにするためには、まず自分に生じた思考や感情に巻き込まれずにただそれに気づき、覚めた意識であるがままに眺める練習をします。自分の心の動きに少しでも早く気づくようにするのです。怒りを口にしたところでハッと気づいてわれに返り「ああ、今怒ったな」と。心の動きにしっかりと気づくことができれば、それに続く恨みつらみの物語をつくらなくてすみます。それをもう少し早く、怒りを表現しそうになった時点でハッと気づく。さらにもっと早めに最初の「イラッ」と来たところで気づく。さらに「イ」で気づくというように、心の動きの速さに追いつくのです。一言で表現すれば「怒る人」から「怒りを見る人」になるということです。
 
政野:  そうすると、ブツブツと必要以上に言ったり、人の気分を悪くしたりとか、そういうことも減りますね。
 
プラユキ:  減っちゃうんですよ、自然に。そういうふうに心って機能になっているから、やっぱりそういって培ったものが、ちゃんと今度は心に現れてくるようになってくるというのが非常にあるんですね。
 
政野:  それによって、ですからつい個人のことを考えがちなんですが、そういうことが広まってくると、いい形で影響し合って来られると、例えば人間関係を変えることができたりとか、自分の周りの関係を変えることができたりとか、一対一以上ですね、大人数の関係での人間関係も徐々に変わっていけるのかな、なんて想像するんですが、その辺いかがでしょうか?
 
プラユキ:  はい。まさにそれがどんどん可能になっていく。ということはあると思いますね。例えばやっぱり私たちって、なんか感情エネルギーというかな、そういうものをお互い持っていて、イライラしている人がいると、こっちも影響して、すごいイライラしちゃったり、辛くなったりって影響を受けちゃいますよね。ところが、同じようにイライラしている人がいても、こちらの心が安らいでいると、こっちのパワーの方が強いときに、こっちの影響も与えられるというか、こっちの方がどんどん安らいできちゃって、ほぐれてきちゃったりとか、それが例えば五人十人イライラパワーの人が、十ずつ持ってかかってきても、こちらが十と十で百イライラパワーでも、二百安らぎパワーを持っていれば、まぁ変えられるということにもなります。やっぱりちゃんと受け止めて、やっぱりここでちゃんといいものに自分で加工できて、今度はアウトプットするときに、今度相手にもっと安らぎを与えられる言葉を与えられたりとか、そんな感じでちゃんと展開できたりして、大事なのは一人が出会った人が、そうやってすごく楽になって安らいでいくと、今度はその人が波及効果というか、どんどん周りの人に幸せになってもらいるという。それは自分も疲れないし、すごく楽にできるという感じがすごく今しています。「念(気づき、覚醒力)」や「慧(観察、洞察力)」としっかりと結び付いたときには、自身に生ずるどんな感覚や感情であっても、それを忌避することなくしっかりと味わえるようになる。さらに続けていくと、やがて苦しみが「私」や特定の誰それのものではない、苦しみそのものとして体験され、理解されるときがやってくる。こうして「私」から解放された苦しみは、以降、他者を深く理解し、他者とより密につながる紐帯の役目を帯びはじめる。そして、他者を受容する力、他者と共感する力として展開していくのです。
 
政野:  どうも今日は、プラユキさんのお話をたっぷり伺っていて、私もいっぱいいっぱい心の体操をさしていただきました。
 
プラユキ:  心の体操、いいですね。いろんな人生はほんとに多様なものが起こってくるけど、ちゃんとすごくシンプルなポイントを押さえた対応さえすれば、誰でもがシンプルにある種変容を遂げて、また良い関係をそこに生み出せる。非常にブッダの教えって、本当に何か微に入り細を穿って伝えられた。そして、それを実践的に私たち誰しも体験できるいう。なんかその辺が非常にうまく教え伝えてくれたありがたい教えだと思います。
 
政野:  今日はありがとうございました。
 
     これは、平成三十年十月二十八日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである