ふたつをひとつに―ロボットと仏教―
 
             東京工業大学名誉教授    (もり)  政 弘(まさひろ)
1927年、三重県に生まれる。名古屋大学工学部電気学科卒業。工学博士。東京大学教授、東京工業大学教授を経て、東京工業大学名誉教授、日本ロボット学会名誉会長、中央学術研究所講師、NPO法人国際ロボフェスタ協会特別顧問を務める。ロボットコンテスト(ロボコン)の創始者であるとともに、「不気味の谷」現象の発見者であり、約40年にわたる仏教および禅研究家としての著作も多い。紫綬褒章および勲三等旭日中綬章を受章、NHK放送文化賞、ロボット活用社会貢献賞ほかを受賞する。
             インド哲学者・東京大学名誉教授 丸 井(まるい)  浩(ひろし)
1952年東京都生まれ。1976年東京大学文学部印度哲学印度文学科卒業、同大学院修士課程、博士課程修了後、文部省給費留学生としてインド・プーナ大学(英語版)サンスクリット高等研究センターに留学およびインド哲学仏教学、比較思想学の世界的巨匠、中村元博士創設の「財団法人東方研究会」専任研究員を経て、1992年東京大学文学部印度哲学科助教授、1999年東京大学大学院人文社会系研究科教授。2018年定年退任、名誉教授となる。
 
司会者:  よろしいでしょうか。それではいきます。レディー・ゴー。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ナレーター:  今年五月、東京工業大学で、ある記念碑の除幕式が行われました。通称ロボコンとして親しまれているロボットコンテストのアイディアが、この地で生まれたことを記念して作られたものです。ロボコンとは、学生が手作りのロボットを持ち寄り、その発想力や独創力を競い合う競技です。NHKで放送が始まったのは一九八八年、全国の高等専門学校が参加しました。その後、全国の大学が参加する大会も始まり、今では世界大会も開かれています。ロボコンの発案者森政弘さん。日本のロボット工学のパイオニアとして知られています。森さんは一九六○年代、手のロボットを開発。遠隔操作ではなく、自動制御で指の繊細な動きを実現し世界を驚かせました。七○年代に発表したロボット、一つ一つのロボットが自律的に動きながら、互いの位置をはかり、鳥や魚のように群れを作ります。世界初の自律分散制御システムでした。ロボコン誕生のきっかけとなったのは、一九八一年森さんが東京工業大学で始めた授業でした。半年にわたる授業で、森さんが出した課題は、「単一乾電池二個だけの力で人を乗せて動く車を作れ」。わずかなエネルギーをいかに効率的に車輪の回転運動に変えるのか。学生自身に考えさせ、創意工夫を引き出すのが狙いです。授業の最終日には、完成した車のスピードを競う競技会を開きました。この森さんの発想には、意外な背景がありました。それは仏教です。森さんは、ロボットの研究の傍ら、仏教に関する著作も数多く出版しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

森:  ただ何とはなしに、一九八一年の八月二十九日に、お風呂に入ってる時にフッと思った。乾電池で走らせられるかなぁと。あとで考えたら、仏教へ変わっていった。ロボコンが仏教に変わってました。ロボコンと普通の授業と合わせて「二元性一元」。大学の知識の授業と、それから体を動かす知恵を育てる授業と、この正反対の二つが一つになって仏教の理念にかなっている、とこういうことです。
 
 
ナレーター:  ロボコンが仏教に変わっているとはどういうことでしょうか? かねてより森さんの考えに注目していたインド哲学者の丸井浩さんが、森さんを訪ねました。
 
丸井:  どうぞよろしくお願い致します。
 

 
丸井:  私の専門はインド哲学でございまして、どちらかというと仏教と論争し合うインドの土着の哲学を研究してまいりました。次第に仏教思想に興味を持つようになりまして、若いときはですね、わからなかったような仏典の言葉をなんだか面白いなと思うようになってきた近頃なんでございますけども、最近縁がございまして、森さんの仏教関連の著作をあれこれ読ませていただいて、なんで森さんはこんなに仏教に通じておられるのかな、あるいはなんでこんなにうまく仏教思想の魅力をスパッと表現されているのかなと。ぜひお会い出来ることがあったらお話を伺いたいなと思っておりまして。
 
森:  それは光栄です。
 
丸井:  それで単刀直入に最初お伺いしたいのは、先生はロボット工学の第一人者でいらっしゃるんですけども、ロボット工学と仏教という、これがどんな接点になるのかなということを、今日のお話の大きなテーマでございまして、単刀直入に申しました。
 
森:  それはね、「ロボットをやってる、お前はどうして仏教をやっているんだ」と、皆さん不思議なようですね。よく出る質問です。だけど私は別に、自分自身では何の抵抗もなくて、皆さんどうも「どっち」というものを、本屋の棚のように思っていらっしゃる。ここがコンピュータの本、ここが仏教の本、ここが料理の本、というふうに思われる。そうすると、「ロボット」と「仏教」というように、こういうようになる。ところが僕みたいなのは、全部仏教だと思っているから、仏教の中におるわけですよ。仏教が説くのは、あれお釈迦さんのイデオロギーじゃないわけですから、仏教って。あれはお釈迦さんが発見された「天地の道理・真理」ですからね。あらゆるものがそこに入っちゃってる。つまり孫悟空だったかな、どこから見てもいつもお釈迦様の手の平の上に載っかって出られないと。あれと一緒でロボットもこの中に入っているわけですよ。
 

 
ナレーター:  森さんは、昭和二年の生まれ。名古屋の裕福な家庭で育ちました。小学生になると、模型作りに熱中。四年生のときには精巧な爆撃機の模型を作り教師を驚かせるほどの腕前になります。
 

 
森:  あれ小学校の三年生ぐらいでしたかね、『子供の科学』という雑誌がありまして、それを近所の中学生が持ってて、それで貸してくれたんですよ。それを読んだときに病み付きになっちゃいましてね。それからその中学生に習ってね、小っさいこれぐらいのソリッドモデル(木材などを削り出して作る模型)というか、ちょうど年賀状を刷るために朴(ほお)の木なんか売ってました、文房具屋に。それで削って作ったりすることは、その中学生から習ったんです。それでそれを今度きれいに磨いて、ヤスリかけて、サンドペーパーかけて、エナメル塗るときれいにできるもんですから面白くなって。その当時に日支事変(日中戦争)の頃ですから、それで日本陸軍が開発した最新の重爆撃機というのをですね、それで発動機が二つ付いててね、翼の長さこれぐらい、胴の長さこれぐらいのやつを、八月の夏休み一ヶ月かかって作りました。これ大変でした。その頃にちょうど模型の電車も作りたくなって、それで模型屋へ行って、車輪とモーターだけ買ってきた。後はお菓子の箱を、杉の木の箱があるでしょ。あれ切って作って、
 
丸井:  車体を作って、
 
森:  はい。で、畳ですから、当時。畳の上にレール敷いて、そこにやっと作ったのを載せて、右回りだと回るんですよ。左回りだと脱線する。それで畳で縁(へり)でちゃんと出ないからでしょうね。ところがそれが左回りでも脱線しないまで頑張っちゃった。夜中の二時。そうすると、母親が来て、「もう寝なきゃ、明日学校に遅れる」とか、いろんなことを言っているんだけど、僕止めないんですね。それで母親くたびれて横で寝ている。それで僕はやってたと、こんなこともありました。
 
丸井:  そうですか。ですから三昧(さんまい)という、集中するという。物事に夢中になって、我を忘れて集中するというね。
 
森:  結局振り返ってみると、その時一種の三昧に入っていたんですね。
 
丸井:  でしょうね、多分ね。ですから何か後から振り返ってみると、なんか物作りと仏教との出会が生まれているんだなと。
 
森:  これが高じてね、中学生になってから、ラジオの裏を見るようになったんですね。ラジオの受信機の中が見たい。蓋開けてみると、真空管がポッと明るく光っているんですよ。これが魅力でして、うわーすごい、面白いなと。それでそこから始まっちゃって。真空管をこれも買ってもらったんだけど、ラジオを作って聞いたりして、電気が面白くなっちゃった。それで、じゃ俺は将来は電気工学の技術者になるんだと志を立てちゃったんですね。
 

 
ナレーター:  昭和十九年、戦争の最中、森さんは高校に進学します。アメリカ軍による空襲が激しくなり、ラジオは命を守る重要な情報源でした。森さん自慢の工作室。近所の人たちは、ラジオが故障すると、次々と森さんのもとへ持ち込み修理を頼んだといいます。昭和二十年、戦争が終わると、それまで禁止されていた欧米のラジオ放送を聞こうと、短波放送の受信設備を自力で作りあげました。間もなく森さんは、名古屋大学の電気学科に進みます。そこで、その後の人生を決定づけることになる、ある書物と出会います。
 

 
森:  この本買ったわけですわ。これがradio laboratoryのシリーズで、これが十九冊目、これが二十五冊目、
 
丸井:  何のシリーズですか?
 
森:  レーダーの本ですわ。レーダーの中の技術が明解であった。こういうもの見ても全部真空管のマークです。よく考えてやったもんですね。それでその中に一冊これがありまして、これが『CYBERNETICS』(サイバネティックス:人工頭脳)という。これはもう世界中を轟かしたというか、世界で有名になった本です。この「サイバネティックス」というのは、「舵を切る」という意味です、ギリシャ語で。ここに僕が当時アンダーライン引いたけど、ここに書いてあります。「contorol and communication」―だから「制御と通信の理論が機械でも動物でも同じようにいける」と、ここに書いてあります。
 
丸井:  機械でも生き物でも、
 
森:  共通した理論とやれると。それを言い出したのは、著者の―本当に天才ですけど―ノーバート・ウィーナー(アメリカの数学者:1894-1964)という人です。
 

 
ナレーター:  サイバネティックスは、制御と通信という科学技術の視点から、機械と動物の間に多くの共通点があることを指摘した著作です。科学技術と生命現象を橋渡しする画期的な研究として、当時注目されていました。
 

 
森:  ある部分、そうかと。これは面白いと。動物も機械も同じにいけるんなら、じゃ、一つやってみる。非常に大きな人生の分かれ目ですね。
 
ナレーター:  森さんは無線技術の研究から、自動制御で機械を動かす研究へと転身。この自動制御の技術がロボット開発へとつながったのです。一九六○年、森さんが初めて作ったロボットです。スタートボタンを押すと、指に付いたセンサーが、棒の存在を感じとり、落とさないように適切な力とバランスで回転させます。
 

 
丸井:  ロボットの研究を始めるにあたって、特に指ですね。指の研究をなさった。この指の研究をしていくことが、人間を知らないと駄目だという、こういう行動につながったということが、本にも書かれておられますけど、その辺ですね、なぜ指の研究から始まったんですか?
 
森:  ちょうどその頃、「東大の生産技術研究所で一人自動制御をやっている研究室の席が空いたから、お前来ないか」ということで、東大へ転勤になった。僕は〈自動が大事だろう〉と思ったんですね、戦後の経済成長と。日本人は器用な指使って仕事してますから、この器用な指を研究しないと、これは日本の自動化は―工場の自動化も駄目だと思ってやり出した。みんなね、「鉄腕アトムの真似がしたかったんだろう」って、おっしゃる方が多いけど、そうじゃないんですよ。それでやっと作ってね、こういう動作、これロボットにできるようにさせたんですよ。これ十六ミリに撮って、英語のナレーションをつけて、持って行って、アメリカで見せたらびっくりしましたね、アメリカ人、これできないんですよ。ところが皆さん、こういう器用なものはね、ダメな指だというようなふうに考えていらっしゃる。細くて弱いものはダメだと。それで学生にこういう問題出したことあるんですよ。「自分の性格を指に当てはめてこれは何指だ≠ニいうことを言ってみろ」と。こういう宿題を出した。自分がダメな学生だと感じているものは、小指は細くて短いのでダメだと。熱心な学生は、親指とか人差し指がよい指だと考えている感じがしました。それやっぱりあんまりよくできないのが小指ですよね。それでそんなこと言ってちゃだめだ。小指が非常に大事な指だと。逆立ちしてみろって。逆立ちしているときは、小指が利かないと立っていられない。一番頑張るのは、外側の小指です。それから汚い話だけど、「鼻ほじってみろ」って。小指でないとほじくれない。だからピンセット(小指)ね、僕がいうと。こっちはペンチ(小指以外の指)。だからみんないるんだと。みんないるけれども、形が違うと。ここは平等ということです。これ『法華経』の中に、いいたとえ話がありますね。「法華七喩(ほつけしちゆ)」と言って、七つの譬えがありますね。その中の「三草二木(さんそうにもく)の教え」がありますね。あれと同じこと。「三草二木の教え」というのは、大木もあるし、下草もある。雨が平等に降る。だけど下草は下草なりの雨を受け取って、誰も不足だとは言わない。大木がたくさん受け取るからずるいとも言わない。大木は大木なりに水を受け取る。しかも大木と下草は助け合いで、大木があるから下草は枯れずに済むし、下草が水を保っているから、大木にいつもの水が供給できるという関係。そういうことを言いますよね。それと指同じなんですよ。
 
丸井:  お互いに支えあって、それそれの領分があるわけですね。約束する時も小指ですね―関係ないですけどね。
 
森:  そうそう。だから指一本の中に一が入っている。
 
丸井:  『華厳経』の世界が、
 
森:  『華厳経』の「重重無尽(じゆうじゆうむじん)」(あらゆることが、相互に無限の関係をもって一体化し、作用し合うこと)の話になっていく。
 
丸井:  だからロボットの物作りが、仏教といろいろ重なるところが、先生の中で調和しているなという感じがいたしますね。
 

 
ナレーター:  森さんはロボットを作るだけでなく、ロボットと人間の関係について考えを重ねてきました。その一つが、森さんが一九七○年に発表した「不気味の谷」現象です。ロボットの姿を少しずつ人間に似せていくと、親しみが徐々に増していきます。ところがある一線を超えると、今度はロボットのことを気持ち悪く感ずるようになるというのです。森さんはこの現象を「不気味の谷」と名付けました。そして、ロボットが更に進化し、人間に似てくると、人が再びロボットに対して親しみを持つようになるだろうと考えました。森さんが五十年ほど前に発表したこの考えが、今改めて注目されています。
 

 
森:  これを私が東大にいる頃ですけど、これに医学の方で、心臓の手術が始まったんですね。ところが心臓の手術するときに、心臓を止めなければいけない。人工心肺を置いて、切り換えて、患者の心臓を止めて、それで血を回して手術する。それはお医者さんだけではできないから、工学部の先生手伝ってくれと。こういうことになって、じゃ、やるかといって僕らも手術着を着て、こう手を洗って手伝った。そういうことをやってるうちに、今度は整形外科と仲良くなった。ロボットというと、整形外科は義手・義足―手と足の話しで得意分野ですから。その頃にオーストリアで―ウイーンですけど、「いい義手ができたよ」という話があって、それで僕見に行ったんです。日本よりよっぽど進んだ義手。日本のその頃の義手というのは、見るもこんな鉤みたいな奴だったんですが、みんな五つのこういう指紋までついたもので、握手してくれる、並んでて。「森さん、いらっしゃい」というわけです。ところがね、握手すると、ふんやりしてるんですよ。で、冷たいわけよ。ちょっと気味悪くて。そこからこれはもっと握手した時に、気味悪くないようにしなければいけないよ、と思って。それから「不気味の谷」という考え方が出てきた。思い出したら、人間にどんどん近づけていくと、にわかに気持ちが悪くなるという。それは後で気がついたら、子供の時に蝋人形が嫌いで〈あぁ、あれだな〉と思って、それで言い出したんです。だんだんとまぁロボットを、手を付け、顔をつけ、眉毛つけ、口をつけ、目をつけて、こうやっていくと、人間に似てきますね。それで似ていくけれど、あるところまで行くと急にガァッと〈気味悪いな〉と感じがする。単に気味が悪いだけじゃなくて、もう〈恐ろしい〉という感じ。これは人間にとってマイナスのイメージ。そこのところをなんか「不気味の谷」という言葉をつけちゃったんですね。それでそのことを知らずに、ロボットを作ったり、あるいはCG(Computer Graphics:コンピュータで作成・加工された画像や動画のこと。工業製品の設計(CAD)やビデオゲーム、映像作品の制作など様々な分野で用いられている)を作る。ハリウッドでこの「不気味の谷」のことを知らなくて、CG作った会社が、二社倒産したんです。ハリウッドから僕のところへ取材に二回ぐらい来ましたね。
 
丸井:  それはいつ頃の話ですかね?
 
森:  どうだろう? 十年くらい前ですか。だから世界中、「不気味の谷」と言い出しちゃって。
 
丸井:  それは面白いですね。
 
森:  結局ロボット研究し出して、さっきのように医学なんかとも関係があると。当然人体とロボットと対比するというか、お互いこう参照しているわけですよ。そのうちにいかに人間がよくできているかということがだんだんわかってくる。そのお分かり方が、これ解剖学者とかお医者さんよりよっぽどよくわかる。お医者さんの気がつかないことに気がついてくるんですね。例えばね、お医者さんは解剖するときに、例えば目玉が二つあるということは、要するに前提条件。ところがロボットは自由ですから、四つ付けてもいいわけですし、目は。一つでもいいし、何でもありますから。じゃどうして二つなんだと、これが問題になるわけです。これなんかそうすると、お医者さんの考えることより、もっと深いところにいきますね。
 
丸井:  それはやっぱり解剖学者じゃなくて、人間を参照しながら、ロボットをどうやって作っていくのかという時に、気づく事柄ということで、普通だったら疑問に思わないようなことを疑問に持たざるを得ないというところですね。
 
森:  もっといくと、今度は動物のロボットじゃなくて、植物のロボットを考える。そこから今度は脳無しで、植物がちゃんといくのはどういうことだと。あれの制御はどうなっているのか。この疑問があります。そうすると今度は、ロボット何かやりだせば、すぐ心の問題になっちゃう。脳が心を出している。これが難しいですよ。
丸井:  もう限りなくロボットを人間に近づけていくといって、最後に残ってくるのが心の問題ということになろうかと思いますけどね。
 
森:  まぁお分かりのように、原子力との差、ああいうことで、「技術は人間にとって善か悪か」という話があります。それで技術のそこのところに対して明快な答えを出すのが仏教ですね。
 

 
ナレーター:  森さんが本格的に仏教の研究を始めたのは、四十代。臨済宗の僧侶後藤栄山(ごとうえいざん)(静岡県三島市の龍沢寺住職)老大師との出会いがきっかけでした。以後三十年間、森さんは老大師のもと、坐禅と仏教の教理を学びます。二○一三年、森さんがそれまでの仏教研究の集大成として現した一冊の本『ブッダの教え』に始まり、『法華経』や『般若経』、そして「空の理論」に至るまで、「仏教の教え全体が一つ」という考え方で貫かれていると記しました。「互いに異なり、対立した二つの概念を一つに融合すること、それこそが仏教思想の核心であり、比類無き深さをもった救済の哲理なのだ」といいます。ロボット作りにおいても、ロボットを歩かせることに成功したのは「二つの正反対の機能を合わせる」発想からでした。
 

 
森:  ほんのちょっとロボットをやっていくと分かりますけど、失敗というか、悪いことというか、それを活用して良いものにする。これが実はロボットを歩かせる根本なんです。倒れないものは歩けないですね。
 
丸井:  そのことはなかなか面白いですね。倒れないものは歩けないですよね。
 
森:  歩くということは、ちょっと研究してみるとわかるけど、倒れることを利用して歩くんです。盤石な岩なんかは歩けないですよ、坐っちゃって。
 
丸井:  そうですね。
 
森:  そういうことを考えていくと、身の回りにいくらでもあります。これ、刃物一つ見ても、これ刃物というと、切るものと思っちゃうけど、そうじゃなくて、本当に切れるものならば―ちょっと危ないですがね―これ(刃の部分)だけじゃ切れると思うんです。ところがこれで切れないですよ。これもってやったら、自分の手切っちゃいますから。だからこの切れないものをここ(柄(え)の部分)にくっつけておかないと刃物として役に立たない。同じようなことが、我々が工作物で使う半田鏝(はんだごて)ですけど、これもあります。ここは熱いところ、だけどここだけでなく全部熱かったら火傷しますから。だからは熱くない所がないといけない。これも正反対のものが同居してうまくいっていると、こういうことですよ。
 
丸井:  そうですね。だから技術、ものの世界ですね、ものの世界を役立てようと思う、この技術に携わる人というのは、そういった無意識のうちに使っているわけですね。ロボットというもの、あるいは技術一般ですね、これはそれ自体が善なのか悪なのか。要するに「善・悪」の問題ですね。どのようにして、できれば技術というものは、善なるものに使用するのが良いわけですけれども、じゃ悪の使用―使用が悪である、善であると。一体どういうことなのかと。このあたりがやはりまた非常に仏教的なものの考え方と関わっていると思いますね。
 
森:  そこのところは仏教に非常に大事な点ですわ。どうも多くの方は、善悪というものについて、これは三十パーセント悪だけど、残りの七十パーセントは善だとかね、そういうふうに考えていらっしゃる方が多い。それでそんなことはないんですね。またよく「物には善悪両面がありますよ」というようなことでわかったようなことをおっしゃる方もあるけれど、そこのところをすっきりと説いて説明するのが仏教の中の「価値の三性(さんしよう)の理」です。その「三性」(善・無記・悪)というのが善とぶつかるわけですけれど、こういう話があります。戦前の話ですけど、説教強盗というのが現れて実在した人物です。で、その説教強盗というのは、どういうのかというと、戸締まりの悪い家に入って、そして、お金や貯金通帳なんかを脅しとって、それでそのまま逃げるんじゃなくて、家の人を縛っておいて、その前でタバコ一服吸いながら、お説教するんですよ。「お前のところは、ああいう戸締まりの仕方じゃダメだぞと。もっとここはこうしなさい」というようなことを言って、悠々と引き上げていく。不埒ですわ。だけどとうとう捕まって―当時刑が厳しかったな―無期懲役だった。無期懲役になったんだけど、戦後恩赦かなんかで出たんでしょうかね。それで出てきたらね、何と今度モテてね、例えば浅草ロック座で講演しようという話。なんかと思うと、それは防犯のことについて。なるほど、そうか、防犯で一番詳しいのは、泥棒なんですね。お巡りさんよりよっぽど詳しい。そこで彼は心を入れ替えた。心を入れ替えて、そうしたら今まで知っていた戸締まりの知識、それを捨てた訳じゃないんですよ。それは全部持っていて、それを今度は悪用から善用したんですね。一軒一軒回ってね、防犯の実を上げた、という話がある。こういうことになるんですね。こっち(悪)が「強盗」ですよ、こっち(善)が「防犯」ですね。どっちでもない「無記」というのは、これが戸締まり用心の知識ですね。それでだからこっち(悪)に使ったものを、一回無記に戻してこっち(善)へ持っていくと、悪が善に生き返る。でこれをやるのが、一つは「救済」。だから技術も、これに倣っている。もっとわかりやすくいうと、その刃物だけど、あれね両方とも人間の、生きた人間の肉を切れば血が出る。同じこと、ちょっと違うのは、「人助けか、人殺しか」の違いです。それはね扱う人の「技術と心がけ」。人殺ししようと思って刃物を持てばドス(「脅す」が変化したもの。または短刀または凄みのこと)になる。人助けしようと思って刃物を持てばメス(外科手術や解剖に用いられる極めて鋭利な刃物)になる。だけどメスでも手元が狂って脳のそうでもない血管を切ったら殺しちゃいますから、本当にきわどいとこですね。先の尖った鉄があって、善用すれば人助け、悪用すれば人殺し。外側にあるのは「無記」。「無記」というのは、「記する無し」と書いてあります。「記する」というのは、「これはいいから○(まる)、これは駄目だから×(ばつ)」いうことを書くのが「記」。そういうことをしないよ、というのが「無記」。
 
丸井:  ですからそういう、これは仏教的な言葉ですが、今インドの哲学をやってましてね、「無記」に相当するものは実はあるんですよね。
 
森:  あ、そうですか。
 
丸井:  ブッダの少し前にあるウバニシャッド(古代インドの宗教哲学書。宇宙万有の一元を説く)の思想が、「すべては一つ」という考え方でもって、仏教は「一つのもの」をどちらかというと「無」という形で表現してますけど、ウバニシャッドの方だと、本当にあるもの一つで、これは善悪を超えていたり、有る無しを超えていたり、生死を超えていたり、という点で、ですからこの無記に相当する言葉というのは、やはり「いずれとも、善とも悪とも表現し得ないもの」という形でもって出てくるんですよね。ですからいずれにしても、「そういうものを我々は知ることによって、善だとか悪だとか決め付けている我々自身の心に気づく」と、これが非常に重要な点であるということで。
森:  それを結局一般論にすると、こうなっちゃうんですね。あらゆることは、どっちでもいいんだけど、プラス(+)とマイナス(−)で。それでこっちはプラス(+)、こっちはマイナス(−)、と当てはめて物事を考えていくと溶け出す。(+)と(−)が協力し、一つに溶け合っている。「二つ」が「一つ」になす。これがないと二元対立になっちゃいますから。
 
丸井:  ですから、こちらは矛盾律の世界ですよね。いずれか一方を選び取る。だけどもそれを乗り越えていくもう一つの次元のとこがあるという。ここのところをそれこそ目覚める。
とか。
 
森:  今「矛盾」とおっしゃいました。その矛盾は実は形式通りの世界から見るから矛盾に見える。ところが仏教の世界に入ると、その矛盾はないんですね。
 

 
ナレーター:  森さんは、「対立する二つのものを一つ」と、とらえる仏教の考え方を「二元性一原論」と呼んでいます。
 

 
丸井:  二元対立の二元ですね。
 
森:  はい。これ二元ですね。この「原」が大事なんです。「二元性の一原論」の「原」が。急に全体の話になりますが、結局我々こう二つの世界というかな、さっき挙げましたね、大と小の対立の―それで大きい方のあれでいくと、全宇宙になるんですね、それが。その全宇宙というものを知らないと、本当の仏教がわからないんじゃないか、と僕は解釈している。実際全宇宙というものは、実は自分も入っているわけです。そうすると、ここが難しいとこです。一つは仏教の、本当にわかるか分からない、のもう峠ですけど、言葉で言っちゃうと二つになっちゃう。対象になるから。だから言葉で言えない。黙っているよりしょうがない。表現したら、それでなくなる世界があるんです。これが「無」とか「空」という実の世界。
 
丸井:  仏教ではそれで表現していますよね。
 
ナレーター:  宇宙の一部に過ぎない人間に、果たして全宇宙が理解できるのか。それは通常の理性を超えた心の世界で可能になるとされます。坐禅などの修行を積み、三昧(さんまい)という心の状態に入ることによって、その境地に達するといいます。森さんは、自分自身の経験から、科学の教育現場でも、仏教の修行方法が応用できると考えています。
 

 
森:  結局お話ししたこの原理ですね。このパターン(A図)をあらゆるものに応用して考えていけばうまくいくと。これが真理に則したものですから。それでそれを今度頭の構造に、あるいは教育方法というようなものに持ち込むと、こんなふうに(B図)なりますね。だからこっちのプラスの「陽の頭」
 
丸井:  分析して行く方ですね。
 
森:  こっちはマイナスの「陰の頭」の方。
 
丸井:  分析一辺倒であると、このプラスとマイナスの対立が乗り越えられないですよね。乗り越えていくためには、別のファクターが必要で、それがこういった「直観力」とか、「単純化」とか、「体験」とか、
 
森:  しかも「直感」がないと発明発見はできないですよ。こっち「陽の頭」は直観の後で働いている。
 
丸井:  後追いでね。
 
森:  これ非常に大事です。この二つを合わせる。その先に世の中に、今、有名な『般若心経』ってありますよ。あの般若の智慧があります。ただそれは非常に難しいので、そう簡単に放送で理解できるようなものでないですから。
 
丸井:  「無分別智(むふんべつち)」(分別を離れて真理を悟る心)と言われているもの同じだと思いますけれどもね。
 
森:  そうそう。そこで発案したものが「ロボットコンテスト」です。ロボットコンテストやると三昧に入れる、物作りで。これが私も思わなかった。やっぱり本当に素晴らしい効果が出たんですね。実は中学校(青森県八戸市立第三中学校)の美術科の先生でロボコンの放送を見て、「これだ」と思った先生が青森県の八戸市(はちのへし)にいたんです。その先生が自分で、お金なるべくかけないで、それで廃品業みたいなものをやってロボットを作らせた。そのロボットが、例えばこんなものなんですよ。これなんかバレーボールだけど、これプラスチック切ってね、五千円ぐらいで作るんです。車輪がありますけど、買ってきた車輪ではなくてね、ガムテープの芯にゴム巻き付けてヤスリで擦る。そういうことをやって作ったロボットで、これやったら、もう中学生たちが本当にパッと熱中した。その時の先生が感想文を彼らに書かせた。それでこれくらいまとめてもっておられた。それを僕は『心の名言集』ということにして編集したのがこの冊子です。 ここの中の一つの作文を読ませて頂きます。
 
 










 

苦しく楽しかったロボコンも、あっという間に過ぎ去ってしまった。
僕は、機械というものは、必ず動いて人間の役に立つものだと思っていた。
動かない機械は、役に立たないので、お払い箱にしていた。
しかし、このロボコンを通して、機械が好きになった。
動かない物なら動かせばいい。役に立たないなら、役に立てるようにして
やろう、という考えをするようになった。今回の事を通して、僕は機械を
愛する心とすばらしさを学んだ。これからまた多くの人生を通して、機械 と知り合うかもしれない。その時その機械をうまく使えば、よごれてる空 気、水、大気、大地、を浄化出来るかもしれない。
 










 
 
「苦しく楽しかったロボコンも」―正反対が二つあるでしょう。楽しいだけではダメなんです。苦しいだけでもダメなんですよ。苦しくて楽しいならいい。「苦しく楽しかったロボコンも、あっという間に過ぎ去ってしまった」―このアッという間にというのが集中している証拠。「僕は、機械というものは、必ず動いて人間の役に立つものだと思っていた。動かない機械は、役に立たないので、お払い箱にしていた。しかし、このロボコンを通して、機械が好きになった。動かない物なら動かせばいい」―これ仏さんの心。「役に立たないなら、役に立てるようにしてやろう、という考えをするようになった」―仏教で言いますよね。役に立たないもの、この世の中に出てこないって。なんらかの意義があって出てくるんだから、その意義を生かせと。三草二木の教えにぴったり。そうすると、目が開いてくる。結局「今回の事を通して」―今回の事とは、ロボコンですよ。「僕は〈機械を愛する心とすばらしさ〉を学んだ。これからまた多くの人生を通して、機械と知り合うかもしれない。その時その機械をうまく使えば、よごれている空気、水、大気、大地、を浄化出来るかもしれない」―エコーの話まで出てきた。
こっちの隣の子なんかは、「僕は物を絶対に粗末にできないだろう」と書いていた。物は大事にする、と教えるわけじゃない。それだけ変わってくる、人間が。
 
丸井:  この「体験が大切」で、頭でっかちではなくてね。結局物作りという体験を通じて、物を大切にする。物の大切さ、ありがたさ、それが身にもってわかるという。作文の中に溢れていますよね。
 
森:  これを仏教の立場からいうと「ロボットが人を育てた」んです。だから「物が人を育てている」。
 
丸井:  だから自分のことばっかり考えていたのが、逆に我が身も忘れて、物作りに専念したことが、結果的に「人づくり、自分づくり」になってくる。
 
森:  「物は先生」です。
 

 
丸井:  人には「物を大切にする」という気持ちが、おのずから出てくると。これはまさに今の環境問題にですね、自然破壊であるとか、あるいは大量生産の中で、物がむやみやたらに捨てられていくという、こういった問題などにも何か非常に見直す上では大きなメッセージだと思いますけれども、そのお話の中でですね、「物というもの、あるいは技術というものは、善でも悪でもない無記の存在なんだ」と。「それを善に使うか、悪に使うか、これは人間次第だ」という中で、これをいかに善に活用していくのかと。
 
森:  とにかく悪を善に転じるのも、心の制御と腕の制御のようにコントロールに通じます。自動車だって制御の塊ですわ。ハンドルなんか制御そのものですが。それで制御を失すると、今度逆に善が悪になっちゃう。非常に制御というものは大事なもの。身近に制御なんていうことは難しそうに思えるけど、食事をして排泄するまでの食道に、胃から腸に通って行く所、もう制御の塊ですよ、自分の。ここの制御を失うと胃潰瘍になったり、お腹壊したり、もう病気になりますから。だからある意味では、本当に『聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭には、「始めに言葉ありき」とありますね、あれと同じくらい。「はじめに制御ありき」と言いたいぐらい。偉い宗教家と二人でお話を伺ったことがある。その時に僕が「制御」と言った。そうしたら「仏教は心の制御ですね」パッと言われた。ほんとに仏教というものの別の面から見れば「心の制御」です。
 
丸井:  「制御」という言葉でもって、仏教の用語の中にそれにあたるもの、何かなといって、私の知識の中では思いつくのは「調御丈夫(じようごじようぶ)」という言葉がございまして、ブッダはそれこそ欲望に流された荒れ狂う馬のように、欲望にある狂った人間を調御する、つまり調教するんですね、これに優れた方という形で、現代欲望に流されたですね…
 
森:  「欲望に流された話」ですけれど、これは本当にこれからの時代に大切なことだと思います。こういうパターンを一つ用意しましたけど、「欲望の二つの傾向」ですが、縦軸は「欲望の強さ」、横軸は、供給される「供給度」、つまり普通の食欲なんかは、こう(青線)なってますよね。食べるほど美味しくなくなって、お腹がいっぱいになると食べません。ところが今の人間を見ると、こう(赤線)なっている。お金とか、名誉欲というのは、欲しくなるともっと欲しくなる。どんどんどんどんこれ科学ですると爆発する曲線です。これを一度にドカンと爆発です。これが今百年ぐらいかかって徐々にこっちへ行っているわけですが。欲望というのは無記です。欲望は無記だけども、悪いわけじゃないが、それの傾向を変えなければいけません、この青い方になるように、そう思います。
 
丸井:  それがまさに制御―コントロールですね。それは仏教的なものの考え方が、制御しなければいけないんだという。特に煩悩わね。この煩悩というものに支配されている限りは。
 
森:  制御というと、いかにも嫌なことを制御するというような感じがありますけど、そうじゃなくて自律的な、自ら主体性をもって自分を制御していれば、快いです。
 
丸井:  そうでしょうね。嫌々じゃなくて、自ら進んでコントロールできる形、
 
森:  その制御もいろいろあって、だから僕は植物の制御ってどうなっているんだろうと。人間は脳があって、体をうまく制御している。植物には脳がないですよ。植物のようなロボットを作ってみたいと思ってます。だから一輪の花見ても、あれ、こんなところで花が咲いて芽が出てくる。何かどっかから命令が来て、咲くのかわからない。それで作ったのが七匹の「みつめむれつくり」という、群れをなすロボットです。
 

 
ナレーター:  「みつめむれつくり」は、森さんが一九七五年に制作した七体のロボットです。それぞれが前方と左右に三つの赤外線センサーを持ち、仲間を見つけると追いかけますが、五十センチ以内には近寄らないようにプログラムされています。すると興味深い現象が起こります。ロボットは単体ではランダムな動きをしますが、何体かが集まり始めると鳥や魚の群れのように列を作ります。みつめむれつくりが先駆けとなった自立分散制御システムは、現在ではロボット工学の分野を超えて研究が進んでいます。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
丸井:  これはロボット工学に入られてから間もなくですよね。
 
森:  間もなくです。沖縄国際海洋博に出品しました。面白い催しができました。中央にコントロールするボスがおって、コントロールしてるんじゃないんです。思うようにめいめい動いていて、みんな自分は自分をコントロールする。小さいコンピュータ持っているけど、それはお互いがぶつからないようにうまくむれ作って動いている。実は群れの研究して、群れを作ろうというと集まると皆さん思って、くっついちゃうダメです。群れというのは、ある程度距離離さないとダメ。面白いもんで人間でも必要以上に付かれると疲れるでしょう。それと同じこと。だから如何に近づかないかが大事なんですよ。
 
丸井:  それが植物がヒントになって中枢の頭脳がないという形で、これで思いつくのは、二つあるんですけども、一つは東大元総長の小宮山宏(こみやまひろし)さんというのが、「今は知識爆発の時代だ」と。知識情報がもう急速に増えていまして、これと同じで、知識情報が、到底一人の人間でコントロールできない。私はある時にですね、環境問題というのをネットで調べたら、百年間続けてようやく検索し終わるだけの量が既にあったんですね。そうすると、検索してる間にどんどんどんどん情報はバージョンアップしますから、要するに文字通り一人の人間で処理することはできない。それは今AI(Artificial Intelligent:人間が持っている、認識や推論などの能力をコンピューターでも可能にするための技術の総称。人工知能とも呼ぶ)がやっているわけですけれども、そういった知識爆発の時代の中で、それでもどうやっていったらいいのかといったときに、それを知識を構造化してやらなければいけないと。この構造化のアイディアの中に「自律分散協調系」という言葉が、自律分散ですから、森さんが「自律分散」という言葉を使われています
 
森:  僕が、みつめむれつくりを作って、何十年か経ってから、世界のどっかで言い出したんですね。
 
丸井:  もう一つは、別のところで出会ったのは「分担協調」という言葉がある。これは要するに、仏教的な縁起のすべてが依存し合っているという、この縁起の思想を実際の人間社会の中にいかに実現するのか、という中で、結局一人一人はみんな自分自身の持って生まれた能力だとか、そういったものを活かしていけばいいんだと。ただそれがそれぞれ自分が分担しながら協調しあっているという、この「分担協調」という言葉は、なかなかこれ素晴らしいなと、こう思ってね。生かされている。それぞれが生かされている。ですから、その「みつめむれつくり」の森さんのお話を伺ったときに、これまた仏教的なものとも重なっているなと思いながら感心しました。
 
森:  変なことばっかり言いました、僕、
 
丸井:  なんか「花咲かじいさん」ですか、
 
森:  私は学生に言われるんですよ。「森先生は鼻がきくらしい」と。たしかに私は、なんとなく鼻がきくんです。私が今までロボットだ、オートメだという世界でやってきたことは、たとえると、ここ掘れワンワンの花咲かじいさんの犬がやったことなんです。花咲かじいさんの犬というのは、土の中に埋まっている宝物がわかる。犬だから、それをかぎつけて、ワンワンと吠える。これが私のやったことです。しかし宝物があるよ、ワンワンとやっているけれども、宝が見えないと人は掘りにこない。世の中には嗅ぎつける人と掘る人があって、学者というのは普通は掘る人だ。私は掘ることは下手で、仕方ないから、下手だけれど、自分でちょっと掘ってみると、チカッと私から見える。そうすると、ウワーッとみんなが掘りに来て、ゴールドラッシュになる。そうすると私は、掘るのはそういう人にやってもいいから、今度は別の宝物の上へ行ってワンワンワンワン。そういうことを学生は知っている。森先生は吠えているだけだ。ということは、手はきかないけれど、鼻はきくということです。
 
丸井:  だけど、それは素晴らしい役割ですね。やっぱり少年時代に物に夢中になったというお姿と、仏教的なものの考え方、これを合わせたような、
 
森:  そういうふうに大きな面でいうと、救われたんでしょうね、僕はね。僕も九十二歳ですけどもね、生きている間は何か若い方の負担だけ与えるんじゃなくて、何かちょっと役に立たないといけないと。
 
丸井:  森さんの話は夢がありますよ、とっても。だからその一端でも今日私の拙い導きだったですけれども、いろんな面白い話を伺いまして…
 
森:  結局結論は人間の心が自然に帰らなければいけない。仏教では「自然」とか言って「じねん」と読みますね。あの「じねん」の状態にみんながなることが、地球が救われることだと思います。そうして、「畏敬の念」ですわと、ゲーテも言っていますね。「人間が忘れている大事なものがあります」って。「なんでしょう?」って。しばらく考えて「畏敬の念ですわ」と言って。そういうところがあります。自然に対する畏敬の念をもちながら自然(じねん)の心を持つと。これが結論だと思います。
 
丸井:  どうもありがとうございました。
 
     これは、令和元年六月三十日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである