レンズで見つめた生と死の時
 
                     写真家 江 成(えなり)  常 夫(つねお)
1936年生まれ。アメリカに住む日本人の戦争花嫁や中国残留孤児、旧満州国、原爆など主に日本の負の遺産を撮った写真で知られる。また近年は九州産業大学教授、ニッコールクラブ会長、ニコンサロン運営委員も務めた。1998年、右脇の下に悪性腫瘍が見付かり、2000年5月手術を行い回復したが、現在も闘病中である。また、この経験から、自分自身や身近にある何気ない風景にも眼を向けたテーマで写真を撮っている。
                     ききて 鈴 木  健 次
 
ナレーター:  戦後の日本を占領統治したアメリカ軍の兵士と結婚し、母国を追われるようにして海を渡った日本人花嫁。旧満州で日本軍に置き去りにされ、家族と離散して中国人に育てられた戦争孤児。南洋の島々に未だ祖国に帰ることもなく散らばる、忘れられた兵士。物言わぬ風景や遺品の中に死者の声を聴こうとした広島長崎。満州事変から敗戦まで続いた昭和の戦争。その痕跡を追い、連なる峰峰のように半世紀かけて築かれてきた作品群。写真家江成常夫さんは、人々に過酷な生と死を強制した戦争の正体を撮り続けることを自らの仕事の文脈としてきました。八十三歳になった江成さんは、今、自宅の庭で撮影を続けています。向き合うのは、朽ち果てて土に還っていこうとする野菜や果物。時の移ろいとともに変化する姿を見つめるのが毎日の日課です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
江成:  アジア太平洋戦争の十五年をずーっと見続けるということは、それを四十年続けたというのは、これと繋がっていますよね。歴史を見ることと、この小さな世界を見ることは違うんですけど、その根っこでは繋がっている。
 

 
ナレーター:  写真家になって四十五年、その最初の頃から鈴木健次さんは、江成さんの写真に魅せられ、以来親交を結んできた友人です。追い続けてきた戦争の記録と、庭先の野菜や果物を見つめることは、どのようにつながっていったのか。その思いに至るまでどのような人生をたどってきたのか伺います。
 

 
江成:  私が生まれましたのは、二・二六事変―一九三六年の事件が起きた八ヶ月後、十月八日生まれなんですね。相模川(さがみがわ)が滔々と子供の頃は流れておりまして、鮎も捕れた。家は農家です。それも地主ではなくて、小作農で、米と養蚕でしたですね。養蚕の方は年三回あって、三回の養蚕が盛んになると、母屋が占拠されるわけですよ。子供などは座敷の脇の方にやられましてね。
 
 
 
 
 
 
 
鈴木:  そういう話が、農村だったんでしょうが、戦争中ですかね、陸軍士官学校というのができますよね。ずいぶん軍事色も出てきたと思うんですが、
 
江成:  軍部独裁のような時代から戦争に突入していくと。で中学校を出る頃、高校に入るくらいまで、戦争の時代を生きてきたように思うんですね。
 
鈴木:  その頃ですね、江成さんは既にカメラ少年だった?
 
江成:  いやぁ、これも一つエピソードがありまして、僕は何人かの写真家に手紙を出したことがあるんですね。写真で生活していくにはどうしたらいいか、みたいなことを、手紙を出したんですけど、たった一人土門拳(どもんけん)(昭和時代に活躍した日本の写真家である。リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる:1909-1990)さんから手紙が来たんですよ、返事が。短い文章でした。ほんの一言だったですけども、「技術はいつでも覚えられる。勉強せい」という、そういう意味の諮問だったですね。『筑豊の子供たち』というのがありますけど、土門さんという方は、時代に非常に敏感に反応してるんですね。九州の炭鉱が閉鎖されていく中での貧困ですね。土門さんのおっしゃる「大事なことは社会や歴史を学ぶことが先なんだと。技術は手先でついてくる」。
 
鈴木:  それで東京経済大学で、経済学を専攻された。
 
江成:  ちょうど大学二年の時に、六十年安保にぶつかります。樺美智子(かばみちこ)さんが亡くなられた。デモの中で亡くなられたこと。あの時もあそこにいました。そこでワイワイ先に立って騒ぐことの力がないですけども、後の方にくっついて、そこの中でこのオレオレとは何なのか。死とは何なのか、というようなことを考える上での体験は、学問とは違うものを教えた、と思うんですよ。 六十年安保の時に、岸内閣が倒れる。で池田内閣から始まる高度経済成長、その時期がこの相模原地区にそのまま風が吹くわけですね。まずこの三菱重工とか、NECとか、それに連なる付嘱された中小の工場が入る。それが我が身の、我が家にもそれが直接降りかかった中で、農家がどういうことなのか。開発とは何かみたいなことを、大学にその頃はかなり強く思いがあって、その延長に写真があって、年に一回のコンテスト(日本報道写真連盟コンクール)に毎年のように出しました。我が家自身が被写体ですから、家のお袋の表情とかですね、あるいは開発されていく、畑がどんどん工場化されていくような時間の動き、そういったものが被写体だったですね。
 

 
ナレーター:  社会を見つめようと夢見てきた写真の世界。江成さんは毎日新聞写真部に入社し、その第一歩を踏み出します。朝刊一面を飾る航空機事故のスクープをものにし、全国の大学に広がった七十年学生闘争、本土復帰を控えた沖縄など、数々の現場に駆けつけ撮影を続けました。しかし、日を追う毎に自分はこのままで良いのかという思いが募りました。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
江成:  新聞の基本は、公共性・公器性という意味で、大義名分が客観性というものが基本だったんですね。客観的な視点で対象と向かい合うと。自分勝手なことは許さない、ということだと思うんですけど。例えば事故の現場に行っても、僕はこういう大きな事故だから、こういうふうな目で見たんだけれども、客観性というものを優先させるデスク側には、そういう面がないというか、制限されるわけですね。そこには常に軋轢が起きる。自分の固有の写真を信じて、対象と向かい合うことがなかなか窮屈になってくると。心の渇きは常にあったですね。それが時代の動きに反映して、たまたま七十年この前後、数年の間、高度経済成長の一つのツケとしての公害が起きるわけですね。川が汚染され、多摩川が死の川と化すということが身近に起きるんですね。それが日常の新聞の仕事の中での渇きと重なって、それが後ろ盾になって、目を向けるようになって、休みごとに行くんですよ。上流は丹波山村の山奥から清流の、この源流ですね、秩父の山奥から、それからずーっと下流の羽田の河口まで、ずーっと無垢な源流から死の川と化すその形を通して、やはりいろいろ考えさせられたですよね。経済発展とは何なのか。自己の価値観で身を以て目を向けたものについては、どんなに厳しい状況でも続けていく。これがやっぱり個と組織の中の違いだった、僕の場合は違いだったと思いますね。
 

 
ナレーター:  一九七四年四月、江成さんは十二年間勤めた新聞社を辞めて独立。写真家としての道を歩み始めました。結婚して八年になる妻と幼い三人の子供を残し、江成さんはニューヨークに渡ります。自分はどのように生き、何を撮るべきか。頼れる者もいない異国の地で、一年間生活し、原点に立ち戻ろうと考えたのです。当時、アメリカは泥沼化したベトナム戦争に揺れていました。その直中で江成さんは、自分に染み付いた報道カメラマンとしての写真の撮り方を棄て、独自の視点から社会を見つめる道を探りました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
鈴木:  すぐニューヨークへ飛んで行かれた。何か決まって撮りたいというようなテーマがあったんですか?
 
江成:  積み重ねてきた写真の仕事をゼロに戻そうと。本当の意味での写真とは何かの問いを、一年かけて考えようと思ったんですよ。それと同時に、僕はニューヨークにわたって、翌年にベトコンが入城するのをテレビで見ているんですけど、大国アメリカが小国のアジアのベトナムに負けた。ベトナム戦争に負けたアメリカの庶民はどんな生活をしているだろうと。ただ、通りを覗くだけではなくて、より奥に目を配ろうと。そういう思いが起きた。そういう中で結果的に写真を撮ってしまったのは、写真を口実に入り込んだんですよ。それが『ニューヨークの百家族』になるんですよ、初めての写真集に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鈴木:  写っているのは、シングルマザーと子供とかね、あるいはリタイアした静かな老夫婦とかね、子だくさんでなんか子供ズラーっといるような黒人家族とか、
 
江成:  そうですね。黒人もいれば、アフリカ系もいれば、アジア系もいれば、アングロサクソンもいるという人が、隣り隣りに住んでいるんですね。日本から見ればアメリカと、アメリカから日本というのはまるで違いますね。そういう中に身を置いたことの表の面と裏の面。それが見れた。目撃できたということは、その戦争だけに関わらず、人間としての生まれたときの、考えた時に、この一年というのは、僕は非常に大きな時間だったというふうに思うんですよ。
 
江成:  いいですね、だいたいね。ちょっとシャッツが白いからこの辺が飛んでますね。
 

 
ナレーター:  アメリカで一年間、さまざまな出会いを重ねながら、江成さんは生涯にわたって続けるテーマを見出していきます。それは敗戦後占領軍兵士と結婚し、焼け跡の日本を離れてアメリカに移り住んだ日本人の女性たち、いわゆる戦争花嫁の知られざる人生でした。積み重ねた取材の成果は、やがて一冊の特集写真雑誌となって発表されます。『花嫁のアメリカ』。江成さんが訪ね歩いた、およそ百人の女性たちの肖像と暮らしぶりが載せられています。それは当時異色の写真集でした。写真とともに、彼女たちの声が詳細に文字起こしされ載せられています。それは写真家としていかにあるべきか。模索の中で考えた末に、江成さんが編み出した独自の手法でした。二百時間にも及ぶ録音。江成さんは敗戦後、蔑(さげす)まれながら日本を離れた女性たちの生々しい肉声を掘り起こし続けました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
通りすがりのおばさんが、長男をみて「ああ、また彈よけが生まれたな」って言うんです。わたしなんのことかわからなくて「おばさん彈よけってなんなの?」って聞いたんです。そしたら、「彈よけってのはね、戦争が、またはじまったら、この子のような〈あいの子〉を戦地に出して彈よけにすんのよ―よく覚えておきな」って…。
 

 
鈴木:  この雑誌を見たとき、本当に感激したんですよね。忘れられない江成さんとの最初の出会いですよ。
 
江成:  そうでしたね。初めての仕事は、人探しの仕事だったですよ、やっぱり。初対面の人と会話として、話を聞いているうちに、もの凄く響くものがあったんですよ。同世代のお姉さんにあたる人たちですよね。その人たちがどういう実生活をしたのかということはほとんど知らなかったわけですね、僕は。戦勝国のとこに寄り添うとは、何事かというような目で見られた。僕はやっぱりそういう経験がありますので、はっきりと覚えているんですけれど、罵詈雑言を浴びた―浴びせた側にいた僕自身とまるで違う個人の体験だった。その中で非常に印象に残った方、キヨ・アルウッド(Kiyo Alwood)さんという宮城県塩釜の出身の方で、その出会った相手というのは、GHQのコックをしていた人のようですね。お母さんも非常に悩んだようです。で「結婚すてもいいけど塩釜には来てほしくない」とかね。それで結婚の書類をとると、「役場に取りに行った時に、役場の戸籍係にその話が広がってしまうと困るのでサツマイモとか野菜を持っていって口止めをした」というんですよ。そうしたら、役場の職員が「キヨさんだけではないから心配するな」と言われたというんですよ。それからもう一人ですね、タキコ・ライト(Takiko Wgight)さんという方ですけど、五十三年に黒人の方ですけど、海兵隊の戦車部隊かなんかのアメリカ兵と出会って、その時にタキコさんは高校生だったんです。それで若気の至りか、とにかく妊娠しちゃうんですね。それで身のやりどころがなくて、実家とはほとんど断絶されて、勘当されてたような状況だったですね。それでカルフォルニアの市の近くに住むということなんですけど、「私の家は貧乏ですけれども、ミリオンの愛があります」というようなことを言ってくださったと。それがものすごく嬉しかったというようなことを言ってましたけど。人によっては、話はするけど、写真は撮らせないというような人もいましたね。奄美の方だったようですけれど、敗戦を神戸で迎えるんですね。その焼け跡の中で出会った米兵と同棲をして、子供ができる。臨月の時が来て、産院で子供を産むことになるわけです。そこにおられたお医者さんが、「どうせヤンキーの子だろう。そんなものはいらん」と言って処理されちゃったというんですね。それでこれは対象の写真を撮るだけではないなと。
 
鈴木:  彼女たちの証言ですね。これ単に写真のキャプション(caption:写真や絵などの説明分)なんてものじゃ全然ないんですよね。
江成:  文章ではないです、あれは。花嫁の肉声をできるだけ正確に文章化し、写真と言葉を積極的に拮抗させた。写真とも文章の世界とも異なる、私流に言えば、「フォト・ノンフィクション」の方法論で、花嫁たちの足跡と心のうちを表現することにした。声なんですね。声の意識をとってアレ作ってるんですよ。音をそのまま文字化しただけなんですね。
 
鈴木:  ああいう言葉と映像、
 
江成:  写真ですね。
 
鈴木:  それを結び付けることでフォト・ノンフィクションというのかな、やっぱりそれは江成さんの仕事の非常に重要なポイントじゃないかと思うんですけど。
 
江成:  それは見えてこない、写真だけで読み切れない、後に隠れたものが表に出るからだと思うんですけど。特に歴史や政治に関わるようなテーマと向かい合うときには、写真だけでは伝えきれない。むしろ伝えないことで間違いを起こすと。解釈が間違いを起こすと。写真の場合、撮った人間としての逆の面の言葉が持つ力、それをすごく感じておりますけど。それが自分のホームグラウンドとしての写真に言葉を加えると。
 

 
ナレーター:  追い続けた日本人花嫁たちの戦後。江成さんは、二十年後にも続編の写真集を出します。『花嫁のアメリカ―歳月の風景』。日本人花嫁とアメリカ人の夫の間に生まれた娘さんが成長し、結婚して新たな生活を始める門出にも立ち会いました。しかし、再会できた女性は、半数以下。二十年の間に四十人ほど減っていました。
 
 
 
 
 
 
 
 

江成:  会ってくださった方々は、よくぞ生き延びてこられたなぁと、そんな話もあった。離婚はもう体験者多かったし、耐えられなくて自死したり、サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジから身を投げたというような話も「花嫁」づたいに聞きましたし。
 
ナレーター:  消息が掴めた人の中には、驚くべきその後をたどっていた人もいました。
 
江成:  ナオミ・キャンベル(Naomi Campbeel)さんという方で、屏風絵にしても、ナオミさんという方は、人一倍日本を思っていた気持ちが強く伝わったんですね。ご主人は非常に寡黙な方でニコニコしながら対応しているような人でしたけれども、脇にいるご主人に対して、「私、言ってるのよ。最後まで私は日本人だから、亡くなった時は骨は日本に帰してください、ということを旦那に言ってるんですよ」と言われたんですね。その時に脇にいたご主人の方が、こうやってね無言で、わかってるよ、というようなことを示されたのが非常に印象的でしたね。それがまた後になって、二十年後につながって、実は二十年経って行きましたら亡くなられてるわけですよ、ナオミさんは。行きましたらハズバンド(husband)もいなかったですね、もう。その家も人手にわたっていて驚いた。聞けば、ご主人の方もナオミさんの遺言だったと思うんですけど、遺骨を日本へ帰して、で自分も佐世保に住み着いて、そこで墓守をして、ご主人の方も長崎で亡くなるんです。僕はそれを訪ねて行って、お墓参りをして写真を撮ってきました。向かい合うことで、出会うことで、一つ一つ何か教えられてきた。無言のうちに教えられて、それに引き込まれて次の仕事につながった。
 

 
ナレーター:  一九八一年、江成さんはもう一つの隠された戦後を知ります。それは敗戦間際の旧満州で置き去りにされてきた日本人孤児たちが、肉親捜しのため来日したというニュースでした。自分と同世代の人々がたどってきた全く別の人生。衝撃を受けた江成さんは、中国に渡り、孤児たちを訪ね歩きます。
 
『シャオハイの満州』、「シャオハイ」とは中国語で「子供」を意味し、二つの国の狭間に生きた孤児たちへの思いを込めました。『花嫁のアメリカ』と同様、一人一人の思いに耳を傾けています。取材を助けたのは、支援活動を民間で立ち上げた住職山本慈昭(やまもとじしよう)さん。彼もまた妻や子供と生き別れてソビエトに抑留され、戦後帰国した人でした。
 

 
江成:  新聞が取り上げて、テレビが報道して、厚生省が孤児たちの身元調査に腰を上げたのは、三十六年経ってからですね、敗戦から。それでその十年前に山本さんは厚生省を訪ねてそのことを訴えたそうですよ。これは山本さん個人から伺って記憶してるんですけど、「そんなことに手を出したら、眠っている子を覚ますもんだ」と言われたと。厚生省の役人が。それが国家ですよ。
 

 
ナレーター:  『まぼろし国・満州』。江波さんは孤児たちの人生を翻弄した国家の正体を記録して残そうと考えるようになります。孤児の取材から足かけ十四年。江波さんは何度も中国大陸に通い、日本軍の遺構や風景をフイルムに刻み続けました。
 
 

 
鈴木:  戦争花嫁、戦争のしわ寄せをですね一身に受けた人たちの取材が、次の中国に置き去りにされて孤児になってしまっていた人たちの取材につながっていくんだと思うんですが。
 
江成:  仕事の文脈、その対象との関係性というものに繋がるということで、呼び込れるようにして起きたのが戦争孤児の存在だったんですね。僕はそれまで知らなかったです。で僕は敗戦が九歳ですから、ちょうど戦争孤児の対象になる人たちと同世代だったですね。かつて農家でしたし、ひょっとしたら満州―旧満州に行かされたかも分からないという立場の同世代でしたから、これこそつながる仕事だと思って中国へまいりました。これは一九八一年四月だったと思うんですけど、その初日の日に三人の孤児が突然現れるんですね。そのうちの一人が張(シヤン)(文普(ウェンブウ))さんです。背が一メーター五十位しかないんですよ。小さくて、着ている上着が人民服といいますか、ズック靴―大体ズック靴でしたね、当時の孤児の人たちは。それもなんかかなりくたびれたもの。それでまず悲しかったのは、言葉が通じない。「?好(ニハオ)、?好(ニハオ)」(《中国語》こんにちは。お元気ですか)だけ。彼が話した断片を申しますと、大勢の死者―子供や大人たちの死体を見た。祖母や母や姉がいたように思う。しかし、その当時の中でわからなくなったと。その前後の繋がりがないんですよ。もう一人の馬(マァ)(靖葉(ジンイエ))さんという方がおりましたけれども、この人は死屍累々のなかで、近くの中国人に救助されたと。それで後に結婚をするんですけれども、文化大革命の時に、日本人ということで仕事がなくなるわけです。その時に結婚した奥さんが、日本人ということが分かって、家族から離れていったと。ですから戦争の、やはり精算が終わり、おかれたことに重ねて、二重にも三重にも彼らというのは苦しめられてきた。それを忘れてきた自分とは、という問い。自分に対しての、その思いが強かったです。この悲惨な同世代の人たちを生んだ植民地としての満州国とはどういう形だったのかということを、そこで考えて撮影を続けるんですね。国家の欺瞞性というのは至る所にそれが残っている。高級官僚や軍はもとより、満鉄(南満州鉄道株式会社)の人たちのようなエリートは帰えちゃっているんですよ、先に。国のやっぱり体制を守るために、ソ連の国境まで入植させておいた人たちを切り捨てたんですね。農民を集めるときには五族協和(ごぞくきようわ)(五族は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指す)だったわけですよ。国民も欺いているんですね。だけど国策の下で送り込まれた人たちは、中国からすると侵略ですよね。国の被害者であり、中国人にとっては加害者だったわけです。だからその二重三重の苦しみを受けているいると。それが三十六年も放置されてきたということ、それも山本さんのような人がいて世論になって国が動いたという、僕は経緯があるということを聞いて、戦後の経済発展というのは何だったのか。その側にいた僕自身は何だったのかということを感じましたですね。それは撮っていくことが必ずや今はこういう状況でも、後になって、未来への道標になるのではないかという、今はそう思っていますけどね。そういう期待があってこそ続けられてきたんだと思うんですね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
ナレーター:  戦争孤児の取材から生まれた国家への問い。中国に通い続ける一方で、江成さんは新たなテーマにも挑んでいきます。『ヒロシマ万象』、そして『被爆 ヒロシマ・ナガサキ いのちの証(あかし)』。それは声を聞くことができない死者と向き合う試みでした。残されているのは、風景と遺品のみ。多くのカメラマンも撮ってきた対象を、自分はどのように見据えるのか。困難なテーマを前に、江波さんはまず十年にわたって被爆者を訪ね、その聞き取りを土台に、死者の思いを汲み取ろうとします。証言を記録するとともに、載せる写真はあえて風景や遺品に限定。目に見えない死者の姿をそこに映し出そうとしました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
鈴木:  最初言葉を集められたんですか?
 
江成:  言葉を聞くということを始めました。僕はお会いした皆さん一人ひとりが、ほとんどの人がですね、まず声にしたのは「亡くなった人に申しわけのうて」という、広島弁でその言葉が非常に強く響きましたね。つまり自分が生き残ったことへの罪悪というか、後ろめたさと言いますかね、それが被爆されて生き残られた方の共通した心のように、僕には思われた。僕はそこでハッとしたのは、亡くなった人の視覚化。亡くなった人を弔うことを通して、写真にすることで原爆悪を写真で伝える、語るということだったんですね。「過ぎた時間は映らないよ」という解釈、これが非常に危険なんですね、写真の仕事にとって。だから過去を呼び戻す作業というのは、スナップショットとは違った思考回路がないといけないんだと思うんですけど。死滅した人間の形そのものは撮れないですね。広島のすべてが被害を受けた、原爆を受けた森羅万象、二十四時間広島に立っておりますと、あらゆるものが、立木がそこに当たっている証言などを通して、亡くなった人の化身にも見えてくるんです。
 
鈴木:  もう一冊、『被爆:ヒロシマ・ナガサキ いのちの証』という作品をまとめられているんですが、この言葉に何か込められた意味があるんでしょうか?
 
江成:  特に生ある人に向かって確認を取って撮らしていただく。「いいよ」と言って確認を取って撮る。断られたら撮らないということができますけど、死者というのはそれの答えがないわけですね。断りなしに霊魂と向かい合うわけですから、それはやっぱり生ある人と向かい合う以上に、感じなければいけないことだと思います。広島には、今も五千、七千、一万五千と言われたぐらい遺品の数があるわけですね。その遺品には、幸いにも収集したときに、資料館が寄贈した人から遺品に関わる物語を聞き取っているんですね。それに関わる亡くなった人の魂も含めて、そういうことで『被爆』は作りましたけど。
 
 
 
 
 
 
 
 
まさに写真には写ってないものが、聞き書きの中に、聞き取りの中にあるんですね。例えば具体的な例を挙げますと、少年がいた。たまたま被爆したときに、列車に乗っていて、その駅で被爆をすると。それで倒壊した駅舎に挟まれて動けなくなる。悲鳴をあげて助けを求めた。すぐ近くにいた交番のおまわりさんが、助けようとするんですね。ところが身動きもできない。それでギリギリのところに火の迫る中で、どういうことが起きたかというと、その挟まれて逃げられない少年が「これを家族に届けてください」。そのおまわりさんにいうんですね。おまわりさんは「申し訳ない!助けられない!」といって、それで終わるんですよ。そこに猛火が襲ってきて焼け死ぬというか、絶命するわけです。その遺品は定期券なんですね。それは全く焼けても何もないんですよ。普通の定期券なんですね。だから閃光浴びて溶けてしまったような瓶とか、そういったようなもののある一方で、なんの傷跡もないけども、そこの後ろ側にある物語は壮絶な状況が起きていたと。
 

 
江成:  もう咲いてますけど、椿なんですね。それが自然に落ちて、そこに絨毯のようになる。色あせて消滅していく。その時だけで終わるじゃなくて、それに自分を重ねて撮っていましたね。
 
 
 
 
 
 
 
ナレーター:  目に見えない死者を風景の中に追い続け、還暦を過ぎた頃、江成さんを病魔が襲います。胸の脇の下にできた癌。手術後も抗がん剤や放射線治療を繰り返しました。深刻なうつ病を発症し、精神科に通う日々の中で、江成さんは、庭先の椿に引き寄せられていきます。
 

 
江成:  命が危ないのかなと。今日か明日か、もうわからなくなる。特に鬱に入ると、彼岸と此岸がわからなくなるんですね。僕自身経験したことがあるんですよ。病院から飛び降りたくもなりましたし、そういう中での生きている証というか、あんまり深い理由ないんですね。よんでくれるというか、目につく。そういうそれは三年四年と続きました。
 
ナレーター:  ただひたすらレンズを向けた庭の椿や風景。それは期せずして手術を受けて六年後、一冊の写真集となりました。『生と死の時』。その冒頭は、病に冒(おか)された自分の姿から始まっています。
 

 
江成:  手術前の朝起きて、手術室に運ばれる前に、病室の鏡に自分を映して、シャッター切ってるんですね。反射的に撮ったんですね。死相の出たものを出すと。現実に体験するならば、それを隠すんではなくて、そういう思いもあったですよ。
 
鈴木:  そういう自分をさらけ出して、撮った写真が『生と死の時』という一つの作品としてまとめようというような気になられたのは?
 
江成:  少し動けるようになってからですね。かなり経ってからです。四年目に鬱から少し遠ざかって―ずーっと薬飲み続けるんですけど。
 
鈴木:  今でも飲まれている?
 
江成:  今も飲んでいます。もうずーっと二十年。それで命つなげようと思いますね。
 
鈴木:  広島の写真を撮るときに、風景で死者を、というような手法が生まれたんだというお話を伺いましたけども、死者への思いというようなのは?
 
江成:  これは自分の死の問題と重なって、二重映しになるんですけれど。そういう思いが強くなってきたことは確かです。悪性腫瘍という病魔に冒されて、広島とは違った、また広島の時の死者への思いとまた違った思いが、というのは、この身近なところで感じられるようになったと。身近というよりも自分自身の心の内で、それを感じるように急になっているんですね、ここ数年。
 

 
ナレーター:  こだわってきた昭和の戦争という仕事の文脈。死の淵から生還した江成さんは、年号がいかに代わろうと終わらないその問題のありかを探し求めて取材を再開、沖縄や南洋の島々に向かいます。そこには未だ回収されない兵士の遺骨が置き去りにされ、無惨に散らばっていました。沖縄では投降を呼びかけるアメリカ兵に応じなかった日本兵と投降を許されなかった多くの住民が火炎放射機とガソリンで焼かれたガマ(穴。洞窟。沖縄地方や鹿児島などの方言)にも身を置きました。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
江成:  天井がこんなになっている。真っ黒ですね。ものすごい、これ火炎だったと思うんですよ。もう何万年も経って形作られた鍾乳石ですね、これが真っ黒に焼かれている。焦げてるというもんじゃないですね。ここなんかも焦げた場所がなんかね年老いた何か老人みたいな顔にね。こっちが思っているからでしょうね。人間の顔に見えたり、霊魂とも言う、そういう見え方がしてきますね。手がこう効かなくなっちゃったかな。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
ナレーター:  癌の闘病中に続けられた撮影は、『鬼哭(きこく)の島』という写真集にまとめられました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
江成:  ニューギニアの近くのビアク島という淡路島の三倍くらいの島(「南のアッツ島」の呼び名もある)。そこには立派な慰霊碑が立ってるんですよ。碑の脇にはコロコロと遺骨が、これはやっぱり一つの国の形を、僕は非常に現していると思いましたね。僕はそこで小さな慰霊祭をやったのに参加したんです。遺族も一緒だったですよ。年配の人がいて。日章旗に向かって「お兄さん、一緒に日本に帰りましょう。今の日本はお兄さんが信ずるような日本ではありませんけれども、一緒に帰りましょう!」と大きな声で語りかけていたことがすごく印象に残っていますけど。それはね、すごく遺族の心を表象しているなというふうに思えたのは、全滅を玉砕とし、美化し、あるいは敗戦を終戦として収めている。極力その本質を距離をおいて、その後の教育をしてきたわけですね。それが公的な機関でも定着しちゃっていると。公器である新聞やテレビも、それを平気でそれがまかり通っている。僕は未だに戦争の昭和というのは終わっていないと。国家の不条理、それが常にまかり通っているということ、現実に。これは僕は今でも繋がっているというふうに僕は思いますけどね。それと同時に、死の戦争に象徴される人の終焉の場に立ち会うということ。重ねて自分が自らの病に冒されるということ。そういう人生の中での経緯が次第にそういう写真、あるいは対象と向かい合うことと、やはりかなり深くつながっているのかなということは自覚。特にこの数年感じ取っていますね。右手の手がすでに機能しないような状況になっている。肉体的なやっぱり苦痛を毎日こう強いられているわけですよ。もう生きるという時間というのは、下がっているなと。そういう思いがかなりありますね。その中でどうやって限られた時間を過ごすかということは、重要なやっぱり状況にきているというふうに感じ取っています。
 

 
ナレーター:  鬼哭の島の取材を続けている最中に起きた東日本大震災。江成さんは、津波で命を落とし、原発事故で故郷を奪われた現場にもレンズを向けました。
 

 
江成:  災害の現場を見る目も、あるいはかつて撮ったものを見るにしましても、それが自分のいずれ訪れる自分の死に繋がっているようにも思えたりしますね。いずれ訪れる死を重ねながら、どんなふうにして終わっていくんだろうというようなことも含めて、庭先で遊びの写真を撮ったりしておりますけどね。これは果物たちを守る装置なんですけど、ハクビシンとかそういったものに、夜になると持っていかれちゃったり。せっかくいいモデルだったんだけど、起きて見て、あ、やられたと思って。毎日のように自然に足を運んで、今日はどうなるかなと。あ、これなくなっちゃった。これなくなっちゃったんですね。これに入ってたんです。これ残っているけど、これまだここから面白いんですね。これが崩れていって、なんかいろいろ言葉を向けてくれる。今、黄色から黒になりましたけど、そのうち白くなるんですよ。変わっていく形が、この形相が全部違いますので。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
ナレーター:  スーパーで買ったり、友人に分けてもらった果物や野菜を庭先に置き、毎日その朽ちていく様子を撮り続けて五年になります。
 
 
 
 
 
 

 
江成:  このつやつやした娘盛りのような果物、それをずっと見ていくと、自然と人間の老い、自分は弱くなっていくことと重なる面がある。自分が何処へ行くのかということ、どういう形で死を迎えるのかということ。僕この歳になって八十の齢を過ぎた。今振り返ってみると、いろいろ変わる。あるいは太平洋戦争に目をおく。そのレンズを見つめる作業で大方が終わってしまった。その死を見つめてきた作業だったということもできると思うんですけど。当時、過ぎた時間を振り返ると、それが自分のものと直結するような思いではなかった時代があった、特に当初。それは社会が役割というような意識の中で、その対象と向かい合ってきたように思うんですよ。ところが歳をとるごとに、つい最近になって尚更その他者を見つめてきた死と、それから自分に迫っている死の時と、それが一線で繋がるような心境なのかなぁと。それは時間が教えてくれた結果というふうに思うんですよ。本性を見分けるには、常に時間がかかるというか、時間が必要だということですね。回り道をしなければ本質が見えてこないということが、日毎に撮っていますカボチャの腐って行く状況を見る作業からも見えてくるというか、そんな思いがしますけど。でも救いはそこに芽はまたそこに光が現れると。新しい命がそこからまた再生されるということでしょうか。そこには朽ち果てていく過程とは違った、逆の光がそこには見えると。朽ちていくカボチャの過程も、それが地獄に見えたり、それから再生する若芽―芽が出てくるというようなことも含めて、光と影、人生は光と影の旅だというふうに思うんですけど、それを今見つめている庭先の果物たちの表情に教えられて、と言いますか、そこで果物が朽ちていく中で、消えた後に命の転生が起きる、救いがありますけど、ゴールデンゲート・ブリッジから身を投げた戦争花嫁、彼女には救いがないですよね。忘れられただけでは。戦争孤児もそうですよね。それを伝えていく。伝えていくということは、消滅していく果物が再生することと繋がりますよね。そういう存在でありたいと言いますかね、そんな思いがしますけど。
 
     これは、令和二年三月二十九日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである