老いゆく日々を見つめて
 
                           記録映画作家 羽 田  澄 子
                           き き て  山 田  誠 浩
 
(「平塚らいてうの生涯」公開の劇場の場面から)
 
羽田:  どうもよく来て下さいました。
 
観客:  楽しみにして来ました。
 

 
ナレーター: 今、作品「平塚たいてうの生涯」が公開されている 記録映画作家の羽田澄子さん。映画を作り初めて およそ五十年。七十六歳で発表する最新作です。羽田さんの映画作りは、戦後間 もない頃、岩波映画製作所の創立に参加したことからスタートしました。高度経 済成長を背景に、文化映画が隆盛を迎える時代、女性映画監督の先駆けとして、 脚本や演出を手掛け、数々の賞を受賞しています。しかし、羽田澄子の名前が広 く知られるようになったのは、会社を定年退職した五十代以降のことです。この 二十年の間に、羽田さんは「老い」をテーマにした話題作を次々に発表しました。 尊厳なる老いを如何に生きるか。それをどう支えるのか。海外の先進的な例も取 材しながら、急速に高齢化が進む日本の課題を、記録映画作家として見つめてき ました。
 

(「痴呆性老人の世界」の作品のひとこま)
お婆さん: すいませんが開けてもらいませんか。
子どもが病気しておるけん、看病に帰らな・・・
 
お婆さん: 工事中、ご協力をお願い致します。
 
ナレーター:  羽田さんが老いを見つめる原点となったのが、この 作品でした。
二十年前、まだあまり知られていなかった老年期痴呆の実態を記録し、看護のあ り方に問いを投げかけた「痴呆性老人の世界」。全国各地で千回を越える上映が行 われました。
 

山田:  「老い」と言いますか、老人問題をテーマにずーっ と映画を撮ってこられたんですけれども、最初の「痴 呆性老人の世界」ですね、あれをお撮りになった時 には、こんなに長くやるというおつもりはあったん ですか。
 
羽田:  もう全然、そんなこと思ってもいませんでした。だ から、「痴呆性老人の世界」はよく訊かれるんです けれども、別に私が作りたくて作り始めた作品ではなかったわけですね。あれを 作る前に、ある製薬会社の医学の学術映画を、私が務めておりました岩波映画製 作所が頼まれて、それは、「痴呆老人の介護」という映画だったんですね。これは 学術映画ですから、お医者さんたちがご覧になるものということで作ったんです けど、その時、初めてお年寄りというか、痴呆のお年寄りに接して、ほんとに驚 いてしまって。作っているのは学術映画ですから、観て下さるのはお医者さんと か、看護婦さんとか、医療関係者のわけですね。でも、これは医療関係者だけの 問題じゃないんじゃないかと、その時、取材しながら思ったんですね。で、改め て、もっと一般の方が観て頂けるようなものがいいんじゃないかと思って、で、 企画を立てて、岩波映画に提案したんです。提案してから実作品として作るもの ですから、いろいろ条件を調えることが大変で、二年ほどかかったんですけど、 それから作って出来たのが、「痴呆性老人の世界」だったんです。
 
山田:  でも、若い頃に、「人間の老い」ということについては関心をお持ちになったらし いですね。
 
羽田:  そうなんです。それは、「老い」ということに純粋に関心をもったというよりは、 私が居た映画の世界というのは、映画の題材になるというのは、みんな大体集中 的に青春時代ですよ。ドラマにしろ、ドキュメンタリーでも、その年代の人たち が題材になるし、もっと若ければ子どもがいろんなテーマになっているわけです ね。考えてみると、全然お年寄りという者が私の世界の中に出てこない。みんな 子どもが、「こうだ、ああだ」と。「いろいろ青春時代がこうだ」という話がある けれど、年寄りになったら、どうなるだろうと思って、そういうことからちょっ と、「人間の老年というのはどうなるんだろう」と思ったんですけど、殆どなんの 情報もないという感じでしたね。
 
山田:  それで実際に痴呆性老人を撮るために現場に入られて、お年寄りの様子をご覧に なった時に、初めはどういう感じでお年寄りを見ていらっしゃったわけでしょう か。
 
羽田:  何しろ、行ったところが病院の老人病棟で、そういう痴呆の方たちだけを集めて いるところだったんですね。そこに約五十人位の方がいらっしゃったわけです。 それまで私は、老年期の痴呆なんて全然具体的には知りませんでしたから、そこ に行ってほんとに呆然とした、というのが、正直なところですね。周辺のお年寄 りと言えば、母がおりましたが、母はまだ七十代でシャキシャキ働いていました し、ご近所にもあんまりそういう方もいらっしゃらなかった。なんかたまにそれ こそ「恍惚(こうこつ)の人」の話やなんかがありましたけど、実際のイメージがなかなか湧 かなかったし、実際にはそういう人を知りませんでしたから。老人病棟に行って、 とにかくまともに対応出来る人というのは、一人もいないわけですね。そういう 方が四、五十人もいらっしゃるわけですから、ほんとにショックでしたね。「人間 がこんなになっちゃうのか」と思って。なんか非常に絶望的な気持になりました。 寝ていてもしょっちゅう夢に見るんですね。そのお年寄りのいろんな姿を。そし てビックリして目が醒めると、「ああ、そうか」と思ったりして。「どうしたらい いだろう、どうしたらいいだろう」と、ずーっと思っていたんですけど。ただ、 そこで非常に救われたのは、そこの病院の院長先生が何故その病院に行ったか というと、そこの病院が非常に、その当時では、日本で考えられないほど進んだ 考えで、痴呆のお年寄りのケアにあたっていたわけですね。九州のある病院だっ たんですけどそこで院長の室伏君士(むろぶしくんし)先生が、とにかく、「痴呆というのは治らな い」というんですね。「落ちていった知能のレベルを治すということは出来ない。 だけど、情緒を司る脳の部分は、相当最後まできちんと残っている」というんで すよ。だから、「落ちていく知能を見てはいけない」というんです。「介護する人 が、それに気を取られてはいけない。残っている情緒の部分に注目してケアをし なさい」というわけですね。それは長い間見ていると、「成る程なあ」と思うんで すよ。最初何を言っても話はとんちんかんになって、こっちの言うことが分から ない。どうなっちゃうんだろう、という感じなわけですね。すること、なすこと、 なんか不思議なことなさって。だけど、確か情緒の部分というのは、ほんとにち ゃんと残っているんですね。私は、ほんとに最初の一週間位はウロウロしていた んですけれど、そう思って、一人ひとりのお年寄りの話も聞いて、「この方はこう です、ああです」というのを聞いて、ずーっと見ていると、その方なりにある理 の通ったというか、気分の通った行動をなさっているわけですよ、それなりに。 これはある方だったけども、朝からとにかく廊下を擦ったり、窓を擦ったり、と にかくウロウロしているんですね。「あの方は此処へ入る前、ビルの掃除をしてい た方だ」って。だから、なんか一日中彼女は働いているわけなんですよ。それか ら、とにかく、「自分は孫のお守りをしなければならないから、こんなところでウ ロウロしていられない」というお婆さんがおられて、とにかく「出して下さい。 すぐ家へ帰って孫のお守りをしなければいけない」って。それは 徘徊衝動も酷い方なんで、普通でいえば、「徘徊衝動だから」と いう話になっちゃうけど、そのお婆さんにしてみれば、こんなと ころでぼんやりしていられないと思うわけですよ。ただ、パッと 見て思う時に、「なんだ、あの人たち、なんてとんちんかんで変 なんだろう」と、最初パッと見ると思いますよね。でも、一人ひ とりよく見ていると、その人なりに、「義が通っている」という と変ですけれども、そういうことをする、まあさっきお掃除して いるお婆さんというのがおりましたが、その人なりに何か考えてやっているわけ ですね。そうすると、こうやって見ていると、みんな真面目なんですよ、とって も。なんか生きるということに。それでついホロリとするようなことがあります ね。それから、なかなかお食事しない方がいらっしゃったりするんですね。一所 懸命勧めていると、「あの・・・実は、今日お金を持っておりませんので」とおっ しゃって、なかなか食卓に付かなかったりされるわけですね。そういうのを聞く と、「痴呆になって、何も分からなくなったらいいんじゃない。分からなくなって いれば気楽じゃないか」なんて、最初思ったんですけども、とてもとてもそんな ものじゃない、と思いましたね。やっぱりみなさん、それなりの生きることに、 非常に真面目に苦労していらっしゃる、と思いましたね。
 
山田:  それは、そういうお年寄りの行動を自分が以前やっていたことをずーっと追い 求めているんだとか、いまある気持に非常に忠実に動いているんだとか、そうい うことが分かってこられて、お年寄りへの気持みたいなもの、って、かなり変化 してきたんですね。
 
羽田:  そうですね。だから、なんかこっちもある親しい気持でお年寄りと接することが 出来るようになるし、なんか本当にガタガタしていて、何を言っているか分から ないようなお婆さんがおられたんですけれど、その方がなんか私と並んで、フッ と見ていて、穏やかな顔をして、「あんた、婿さんおるのかね」と訊かれたんです よね。私、このお婆さんがそんなこと訊くなんて、まともな口の訊き方に初めて 出合ったものですから、「ええ、おります」と言ったら、「よか婿さんかね」と訊 かれたんですね。だから、「ええ、とってもいい婿さんです」と言ったら、「ああ、 それは良かった」。凄く喜んで下さったんですよ。なんかこっちもほっとして涙が 出そうになっちゃったんですけれど、なんかそんな情緒の部分というのには、み なさん凄く理解が出来るというか、不思議なものですよね。
 
山田:  そうなんですね。
 

 
ナレーター: 羽田さんは、一九二六年、旧満州の大連(だいれん)で生まれま した。進歩的な教育で知られた東京の自由学園に進 学。恩師の羽仁説子(はにせつこ)(昭和期の教育評論家。女性運 動、児童福祉の発展に尽力:1903-1987)さんに誘わ れたことがきっかけで、岩波映画製作所の創立に参 加することになりました。岩波写真文庫の編集を経 て、社員として、八十本以上の記録映画を制作して います。自主制作の映画を作るという転機が訪れた のは、四十代半ばの頃、岐阜県根尾(ねお)村で、樹齢千四百年とも言われる桜の老木に 出逢い、その妖しいまでのいのちの力に魅せられたことがきっかけでした。初め ての自主映画を制作する前、羽田さんはたった一人の妹さんを癌で亡くしました。儚く消えた肉親のいのちへの思いが、歳月を越えて生きる老木をテーマに映画を撮りたいという強い願いとなりました。
 

 
羽田:  やはり、これで一本映画が作れるじゃないかと思う 時、やっぱりそこに千数百年生きているいのちがあ るという、その存在感というのはやっぱり非常に大 きかったと思いますね。で、その時間と空間が醸し 出す雰囲気があるわけですよ。それはどこにでも感 じることの出来ない、非常に不思議な空間の雰囲気ですからね。 だけど、それを作ろうというふうにまで思ったというのは、一緒 にこの桜を妹にも見せてやろうと思って、「こんな不思議な桜が あるだ」ということで、妹にも見せたわけですね。一緒に見に行 った。その翌年、ほんとに翌年、一年後に、妹は死んでしまった わけです。そうすると、なんか一緒に千数百年生きている桜を見 て、「これで映画を作るわね」なんていう話をした人間の方が、 翌年はもう居ないわけですからね。そうすると、やっぱりこの桜 のいのちということのもっている不思議さというか、そういうも のをいっそう強く感じるようになって、たまたま妹と一緒に見た桜という想いも あって、まあ最初にこれで映画が出来るというふうに、自分が感じたものでもあ るし、これはやっぱり映画にしなければいけないんじゃないか。「いけない」とい う言い方は変ですけど、やっぱり私は、これを映画にする何かを背負わされちゃ ったというんでしょうかね。それをやらなければなんか自分の人生がそのさき進 めないような感じがあって、それで作ったわけです。つまり余生幾ばくもないと いう思いにとらわれたものですから、あんまりぐずぐずしていられない。やっぱ り自分が思ったことをとっととやらないけないと思ったのがきっかけといいます かね。
 
山田:  じゃ、自分の中にあるものをとにかく作りたい、と。
 
羽田:  そうです。ええ。もうとにかくそれをやらなくちゃいけないと思いました。
 

 
ナレーター: 老木のいのちに魅せられて作った「薄墨の桜」から 四年、定年を迎えた羽田さんは、次々と自主映画を 作り始めます。定年の翌年に撮影を始めた「痴呆性 老人の世界」以降、老いは羽田さんの作品の大切な テーマの一つになっていきました。老いゆくものが 尊厳をもって生を全うするためには、何が必要なの か。安心して老いるためになど、老人問題を扱う映 画を作り続ける中で、羽田さん自身も母親の介護と いう現実に直面します。今の仕事部屋は、五年前、母・淑子さんを看取った部屋 です。自宅での介護は、九十歳の母の死まで、二年に及びました。
 

 
羽田:  まあ私たちの部屋は二階だったものですから、初め は二階に居て、何かあると下に下りてきたんですが、 もう終わりの方になると、二階とか下と言っていら れなくなって、母のベッドの脇に、ちょっとしたチ ェアを置いて、それで夫か私か、どちらかが側にい るようにして。だから、まあ寝るのもちゃんとベッ ドで寝られないみたいな感じでしたけど。玄関から この母の部屋までというのは、ヘルパーさんが行っ たり来たり、行ったり来たりする。台所やなんかも そんな有り様でしたけど。
 

 
ナレーター: 羽田さんと母・淑子さんは、人生の殆どをともに暮らしました。仕事柄時間が不 規則な羽田さんに代わって、母・淑子さんが、家事や生活のすべてを切り盛りし ました。娘の映画作りを陰で支えているということを、淑子さんは長く誇りにし ていた、と言います。
 

 
羽田:  だんだん働く量が減ってきたりはしていましたけれども、「安心 して老いるために」という作品を作った後、私はそれに纏わるビ デオを二本ほど作って、その時に、その一本にオーストラリアの 老人のケアシステムを紹介したものがあるんですけれども、オー ストラリアにロケに行っていた留守の間に、なんか帰ってみたら、 母が酷い目眩を起こして倒れたというんですね。それで、「もう 良くなったけど」なんて言っていたんですけども、どうもそれが 始まりで、それが母が八十五歳位の時でした。ですから、亡くな る五年前ですね。それから、時々、フッと目眩を起こして、一年に一回とか、二 回とかというような軽い目眩は時々やっていたんですけどほんとになんか 「ちょっと」というような目眩は二回位起こしたんですね。そうすると、その後、 ちょっとものを言うのも少しスラッと言えなくなったりとかして、結局、検査し ていないので何だか分からないんですけれども、お医者さんが、「これは脳のCT スキャン撮って貰いたい」って、言っても、母は、「絶対病院に行かない」という ものですから、ついに分からずじまいなんです。まあ軽い脳梗塞もあったかも知 れないし、なんか三半規管の障害だったかも知れないし、結局、分からずじまい ですけれど。話の繰り返しが多くなるとか、聞いたことをまた何遍も聞き直すと か、ということが、だんだん増えてきましたね。でも、まだほんとに介護、「これ は」と思ったのは、最後の丸二年位でしょうか。
 
山田:  そうですか。
 
羽田:  ええ。
 
山田:  一方ではそういうふうに映画でいろんなお年寄りと関わられたんですけど、実際 にお母様は日常毎日ですから、その過程でずーっとお母さんの様子を見ていらっ っしゃると、やっぱり現実はなかなかいろんなことがあるなあ、と思いになった こともありますか。
 
羽田:  ええ。まあ病気というのは、私が思ったのは、毎日毎日ある時間、まあ仕事に出 ることがあっても、ずーっと流れで母の変化を見ていることが出来るわけですね。 そうすると、そんなに人間の症状というのは、一方的に、ただスーッと悪くなる というのでもなければ、あるところでフッと良くなったり、あるところでガタッ と落ちたり、また戻ったりしながら、だんだんとこういうふうに落ちていくわけ ですね。そういういのちの流れ方みたいなものが見えるんですね。ずーっと一緒 に側にいると。だから、入院して居て、たまにお見舞いに行くとか、病院のお医 者さんでも、一日に一遍診察するとか、なんとかということじゃ分からない。こ う生きている姿が見えて、ああ、こういうふうにして、人間って衰えていくのか なあ、ということは、やっぱり母が家に居てくれたんで、非常によく分かりまし たね。それは父も病院で亡くなったし、妹も病院で亡くなって、しげしげと見舞 いには行ったけれど、そういうふうにはなかなか分からなかったですね、病院に 入っていると。やっぱり朝、昼、晩、ずーっと側に居て、一緒に暮らしていると いう中で見ていて、ああ、非常にデリケートなものなんだなあ、というのがよく 分かりましたね。
 
山田:  その具合がウンと悪くなられた頃というのは、癌が見つかるわけですね。
 
羽田:  そうなんです。だんだん凄く体力が落ちていったものですから、いろいろ食事を 作っていたのが作れなくなる。私が全部作る。それも外に出る時には、作って、 「食事の時間に帰れない時には、電子レンジで、チンしてね」なんて言って出て、 それで間に合っていたのが、そのうち、電子レンジでチンをすることが分からな くなるみたい。だんだん落ちていくわけですね。そうなると、やっぱり家にいな ければいけないし、私が居ない時には、誰かに居てもらわないといけないし、と いう形になっていって、それがどうしてそういうふうに落ちていくのかというの が、何だかよく分からなかったんですけど、私がロケーションに行くのに、母が 弱っているので、どうしても二十四時間誰かに居てもらうということが出来ない ものですから、ショートステイに入って貰ったことがあるんですね。それも入っ て貰うのが騒ぎだったんですけれども、とにかくそこに入って、そこを出る時に、 そこが病院と連結していたものですから、「どうしても病院は嫌だ」と行かない母 を騙して、そこは分割地帯なものですから、外来に行って診て貰ったんです。そ うしたら、酷い貧血だと分かったんです。それで、「こんな貧血じゃ大変だから入 院して下さい。点滴と輸血しなければいけない」って。それはもう母が病院に行 かないものですから、なかなか分からなかったんですけど、あんまり衰弱するん で、診て貰ったら、結局、そういうことで。その結果、何故貧血するかというの を、調べたら、胃に癌があるというのが分かったんです。もうそれは随分長いこ と経った癌で、幽門部に出来ていて、もうちょっと大きくなると、幽門を閉塞し てしまうから、ということだったんですけど、でも、まあその時の輸血や点滴で 随分元気になって、それで一旦家に帰ったんです。暫く、ほんとに半年位かなあ、 割合庭に出て、花いじったりなんかする位元気が出ていたんです。それが、今度 は急速にずーっと落ちていって、物が摂り難くなったりしてきたものですから、 やっぱり先生の云われていた癌が大きくなったんだなあと思って、どっちしても 一度診て頂かないと対応の仕方が分からないものですから、母に、「もう一度ちょ っと病院に行って診て貰おう」と言ったら、とても嫌がったんですけど、まあ騙 し騙し、とにかく「診て貰いましょう」と言って、連れて行ったんですね。そう したら、私は凄く油断していたんですけど、前の入院の時に、母が割合そこが気 にいっていたものですから、大丈夫だろうと思ったんですね。それで、とにかく 病棟に入って、まだその頃母にトイレにも行けていましたし、とにかく検査の間 だけと思って、入ったんです。で、ポータブルトイレもベッドの脇に置いて頂い て、そこで用が足せるように、って、いうふうにして下さったんです。翌日行っ てみたらポータブルトイレがないんですよ。「あれ、どうしたんだろう」と思った ら、母がオムツあてたのね。オムツあてていたんです。それで母は生まれて初め てです、オムツあてられたのは。なんかとっても浮かない顔をしているんですね。 で、見たら点滴をするんで、腕を縛られたりもしているんですけれど、それは短 時間は今までも、そういうことがあったんですけど、オムツは初めてだったんで す。それでなんか非常に混乱しているんですね。そして、その辺りから、「此処は 恐い所よ、恐い所よ」と言い出したんです。母にしてみれば、非常なショックだ ったらしくて。それからちょっとおかしくなったんですね。なんか一種の錯乱状 態になって。で、検査が終わって、「検査が終わったから、家に帰れるわよ」と言 ったら、もの凄く喜んで、「もう此処に居たくない」というんですね。だから、お 医者さまが、「中心静脈栄養をすれば、あと二、三ヶ月というか、普通にしている よりは持ちますよ」と言われたんですけど、そんなことして持たせることを、母 が喜ぶとは、とても思えなかったものですから、即、家へ連れて帰ったんです。 もしも、母が、「痛い」とか、「苦しい」とかと言えば、家ではとても対応出来な いから、何とかしなけれなならないと思ったんですけども、最後まで痛いという ことがなかったんですよ。物の通りがだんだん悪くなるということはありました けど。だから、近所のいつも診て貰っていたお医者さまと相談して、ただ、その お医者さまは、「自分が出来ることは、限度があります」とおっしゃるのね。「点 滴も出来ないし、通っていろんな栄養剤の注射とか、ある対処療法は出来るけれ ども、その位しか出来ないけど、いいですか」というから、「いいです」と言った んです。で、とにかく、「本人があれだけ病院に居るのを嫌がっているんですか ら、何とか家で平穏に最期が迎えられればいいと思いますから」と言ったら、「じ ゃ、そういう意味で協力しましょう」と言って下さったんです。で、もうそこで 覚悟を決めて家で最期までみようと思って。
 
山田:  中心静脈栄養にするかどうかとか、そういうことって非常に迷うことだと思うん ですけど、そういう決断というのは、やはりお母さんの病院が嫌だということに 沿われたということなんでしょうか。
羽田:  そうですね。それと、担当のお医者さんからも訊かれて、「どう 判断されますか」と言われたんですけど。これが、例えば、若く て何かし残したことがあって、その時の一ヶ月、二ヶ月のいのち で、その人の生涯で何かやりたいと思っていたことが、やり遂げ る時間として、それがある、と言うんだったら、私はやっぱり少 しでも長生き出来る方を選んだと思いますけれども。母は既に九 十歳でしたから。で、今、そんな苦しいいのちを一月(ひとつき)、例えば獲得したとしても、 母にはそれは苦しみしかないわけですよね。生きるということは、苦しみでしか ないわけです。それよりは安らかな、穏やかな死を迎えた方が、母の将来にとっ ては幸せなんじゃないか、と。此処で時間を稼ぐということは、母の場合には、 あまり意味がないことだと、私は思いましたから。やっぱり母が安楽に死ねる方 向を、それは迷えなく選びましたね。
 
山田:  ああ、そうですか。妹さんは早く亡くなったんですね。妹さんの時の何か想いが、 お母さんの看取りのいろいろに関係をしましたでしょうか。
 
羽田:  それはとてもあるんですね。妹は病院に入院して亡くなりました。これはほんと に最期の時なんですけれども、もう危ないんじゃないかなあと思ったら、お医者 さんと看護婦さんが駆け付けて来て、「ご家族の方はちょっと外へ出て下さい」と 言われたんですね。それでビックリして、私は最後までその部屋でぐずぐずして いたら、今まで管が入っていたのを全部外して、人工呼吸というか、心臓マッサ ージと言うんでしょうか、なんかし出したわけですね。それもお医者さんがベッ ドに飛び乗っているわけですよ。で、私は、そのまま追い出されちゃったんです けれども。「ご家族の方、どうぞ」と、入られた時には、もう全部綺麗にされて、 妹は死んだ後なんですよね。妹がもう危ないなあと思った時、私は妹の側に居て、 妹を抱いてやるなり、妹の手をとってやるなり、なんか声をかけてやっている時 に、妹が死ねればいいな、と思ったんですね。だって、もうダメだということは 分かっていましたから。だから、私も側にいたわけですからね。だけど、そうい うのを追い出して、あんなに心臓マッサージのために、ベッドの上に飛び乗って、 なんか身体をこんなになって揺すったりしていてね。決して本人は楽じゃなかっ たと思いますね。だから、病院で母を預けていれば、きっとまた終わりにああい う騒ぎを演ずるんじゃないか、と思ったんですね。医者は成る可く生かそうとす るわけです。それが医者の使命だと思っていますから。でも、そうじゃないと思 うんですよね。やっぱり人間というのは、如何にきちんと死ねるかということが、 一番ある意味では大事ですよ、人間にとって。だから、母の時には絶対に病院で 死なせたくない、と思いましたね。
 

 
ナレーター: 自宅で、最期まで母を介護すると決意した羽田さん。その決断を支えたのは、母 が自分に絶大な信頼を寄せているという実感だった、と言います。幼い頃から、 羽田さんを信頼して、やりたいことを自由にさせてくれた母。その母の最期の日 々を平安なものにすることが、自分の人生の大切な使命だと、羽田さんは感じて いました。
 

 
山田:  お母さんの家庭での看取りというのは、どういうふうにしたい、というふうに思 っていらっしゃったんですか。
 
羽田:  母が、したいと思うことが出来るように。それから、とにかく気持ちよく暮らせ るように。で、やっぱり母は母のプライドがありますから、母が、自分のために なんか他人(ひと)を犠牲にしているという意識をあんまり持たずに暮らしていけるよう に、というようなことは、気を使いましたね。だから、母が居て、大変だ、大変 だ、という雰囲気は絶対作らない。やっぱり家の中の雰囲気は、穏やかな雰囲気 の中で暮らせるように、ということは思いましたね。
 
山田:  そういう意味では、「安心して老いるために」を作っていらっしゃった頃でしょう か、その頃、お母さんを羽田さんが仕事を辞めて看たいというふうなことを考え ていらっしゃったのは。実際には仕事を続けるまま、お母さんの介護をなさった わけですね。
 
羽田:  ええ。というのは、母と話していると、母はとにかく、「自分がいろんなやってあ げているから、あなた、働けるのよ」というのは、母の非常に大きな支えになっ たんですね、母の生きていく中での。それが非常によく分かってきたわけですよ。 分かってきたって、別に、母はそう言わないけど、何かの雰囲気でそのことを感 じるようになって、これで私が、ママがあれになったら、全部仕事を止めるなん て言ったら、母にショックになるな、と思ったんですね。だから、これはそうい うことを言っては拙いし、そうしたら拙いんだ、ということに気が付いて、それ からとにかく、母をちゃんと看るけれども、仕事もちゃんと続けよう、と思った んです。だから、まあ大変でしたけど。だから、最後には私の夫だけじゃ見切れ ないものですから、いろんな公社のヘルパーさん、それからNPOの「まごころ サービス」というNPOがあるし、それから生活倶楽部のメンバーの人たちにも 手伝って貰うし、それから最後には、家政婦協会の方にも来て頂くという。とに かく二十四時間、誰かに母の側にいらっしゃるような体勢を組んだわけです。ほ んとに物が通らなくなったら、それが最期だと思ったんですけども、最期までと にかくいろんな形で、母は口から物を食べられたんです、最期までね。だから、 きざみ食がミキサーになって、それから流動食になって、お水もとろみをつけて、 というふうにして、だんだんやって、最後はゼリーをちょっととお水くらいにな りましたけれども。でも、最期まで口から食べられたんです。
 
山田:  やっぱりずーっとその年老いて、体力がだんだん衰えて、物が食べられなくなっ て、というふうになっていかれる、という、その過程を見ているというのは、な かなか辛いものですか。
 
羽田:  そうですね。自分の身体が動かなくなる。なんか分からなくなる。それでやっぱ り自分が分からなくなることは分かるわけですよね。だから、そういうのを見て いるのは、ちょっと辛かったですね。例えば、母は、毎日毎日、新聞を読んで、「あ なた、これ読みなさい」なんて、私、言われたりしていたんですよね。で、何か の事件があって、「え、そんなことあったの」と言ったら、「あんた、新聞も見て いないんですか」なんて、いうような結構厳しい母だったんですけど。それで毎 朝ちゃんと新聞を見ているんですけど、「これは、何が書いてあるの。私、分から なくなった」と言った時、ちょっと可哀想でしたね。まあそうやって人間ってだ んだん衰えていくんだな、と思って、母の場合は、そういう意味で知能のレベル が落ちた。そうじゃない人もいると思いますけど、母の場合はそうでしたね。た だ、それが分かっているということが可哀想だったんですよ。自分が分からなく なるのが分かるということが。
 
山田:  いろいろ状態が悪くなっても、いろんな会話をお母さんとよくなさったですか。
 
羽田:  ええ。それはよくやりましたね。それはほんとに、「痴呆性老人の世界」を作って いたお陰で、やや客観的に母の状況を見ることができるわけです。これ全然知ら なかったらほんとにこっちが混乱するだろうと思うんです。ある意味で、ハッと 気が付くわけですね。昨日話していた「あれは、今日はこうなった」とか、「この 前あんなに拘っていたのがだんだんそれがなくなった」とか、やっぱり私もやや 観測しながら話をする。やはり情緒が大切だということは、私も身に沁みている ので、母のそういう情緒を大切にすることを、それは最後まで気を付けましたね。 でも、なんか身内だとついうっかりしてね。それに母のレベルが落ちていく非常 に初期の頃なんて言うのは、何回も、「あれどうだった」と、ちょっとの間に、何 遍も訊かれたことがあるんですね。「なに、ママ、さっき訊いたじゃないの」と言 ったら、「いいですよ。もう訊きません」と言われたのね。「ああ、しまった」と 思ったです。「これだ」と思ったのね。で、やはり身内というのは、ちょっと油断 しているところがありますからね。それから非常に気を付けてきちんと対応する ようにしました。そうすると、それだけのことはありますよね。やっぱりこっち がちゃんと優しくしているということは、母にも分かるわけですから。
 
山田:  最期を迎えられるというのは、どういう状態だったでしょうか。
 
羽田:  ほんとの最期というのは、さっきも言いましたけども、二十四時間誰かが側に居 ないと気持がもう落ち着かないという状況になりましたから、そうなったら、私 が仕事をしている、していない、という次元をもう超えちゃったわけですけれど、 だから、可能な限り、私か夫が側に付いている。それが出来ない時には、ヘルパ ーさん来て下さって付いている、という形で、とにかく誰かがベッドの側にいる という形を取ったわけですね。それはやはり母に大きな安心感を与えていた、と 思うんです。だから、ほんとの最期の時というのは、一番母が信頼していたヘル パーさんの日だったんですね。そのヘルパーさんは、夕方帰られて、その後看て いたらなんかちょっと呼吸があれーっと思うようになって。まあ幸い私も夫も家 に居て、「ちょっとママが変だから側に看て居て、私はお医者さんに電話を掛ける から」と言って、主治医の方に、「ちょっと様子が変ですから、お願いします」と 言って。で、電話を掛けて、夫が側に居て、声を掛けているところに、私が戻っ て来て、フッと見たらその瞬間にスーッともう呼吸が止まったんですね。なんか ほんとに、「あれー」と思うような、静かな死でしたね。だから、それまでなんか ちょっと声を出したりして、なんか「あ」とか「う」とかいろいろ人を呼んだり なんかしていたのが、スーッと静かになって、見る間になんかとってもいい顔に なったんですよ。それはほんとに見る間に綺麗になったんですね。私は、「あ、死 ぬというのはいいことなんだ」と思いました、その時に。なんかいろんな苦しみ から解放されて、実に穏やかな、綺麗な顔になって、「ママ、良かったね」と思わ ず言いたくなるような表情でした。
 
山田:  前に交わされた言葉で、覚えていらっしゃる言葉はありますか。
 
羽田:  ええ。それはいくつか印象に残ることがあるんですけども、母は死ぬということ をもの凄く怖がっていた人間なんですよね。なんか自分の親しい人が亡くなって もその死について触れるのも嫌だし、親戚が亡くなっても、ちゃんと対応出来な いほど、臆病な人だったんですよ。だからましてや、自分が死ぬなんて、という ことはとても恐くて、考えられないような人だったんですね。でも、私なんて冷 酷だから、「ママ、人間はいつか死ぬのよ」なんて言っていたりしていたんです。 そうすると、困ったような顔をしていましたけどね。でも、それが、二度目の病 院から退院して来て、間もなく、「あのね、私はもうすぐ死ぬのよ」と言うように なったんですね。だから、母でもついにこういうことを言うようになったか、と 思いましたね。それで、その時、ほんとに忘れられなかったのは、「私はもうすぐ 死ぬのよ、だけど、死にたくないの」というから、まあ母はそうだろうなあ、と 思ったんですね。そうしたら、「私は死にたくないの。私はあなたと別れるのが寂 しいから死にたくないの」って言うのね。それを聞いた時に、ほんとにショック でしたね。だって、それはほんとなら、私が母に言うべき言葉ですよ。「別れるの が寂しいから死なないで」というのが、私が母に言う礼儀だと思ったんだけど、 その時は返す言葉がなくて、思わず母の手を握ったままでしたけれど。その言葉 と、もう一つは、あんまりヘルパーさん、しかも、一人の人じゃなくて、一週間 毎日誰かが来て母の面倒を看てくれたわけですよ。私たちが外へ出るものですか ら。だから、一体母がどう思っているかと思ったんですね。あんまりそういうこ とをいろいろ言わない人でしたし、やや錯乱していたから、何が分かっているの かなあと思ったんです。時々、フッと普通の状態に戻るんですね。その時もなん か母が庭をジッと見ていて、何か庭の植木やら見ているから、「ママ、庭見ている の」と言ったら、「うん、綺麗ね」なんて言っているんですね。そして、私の顔を 見て、「どうしてみんなあんなに親切なの」と言ったんですよ。で、私はとても気 にしていたんです。いろんなヘルパーさんが見えるから。母はそう思っているん だなと思ったんで、凄く安心したんですね。それからものの五分もしないうちに、 錯乱状態に入っちゃったんですけど。でも、ほんとになんか正気になった時に、 そう言ってくれたんで、私は救われた。そういうことがありますよね。いいなと 思ったのは、歳をとって、徐々に衰えていくというのは、そんなに悪いことでは ないんですよね。それはやっぱり人間、いのちは限りがあって、なんらかの形で 老衰して死ぬわけですから。それが、例えば、苦しむとか、痛みがあるとか、な んとかになると、ほんとに可哀想だと思うんですけれど。まあ母の場合は、癌だ ったけれど、全然痛みが無かったんです。だから、これはほんとに良かったと思 いますね。だから、それはそういう意味で、死が悲しいという意味では悲しいし、 衰えていくのを見るというのは、ほんとに辛いことではあるけれど、これはやっ ぱり人間が背負ってる、やむを得ない運命ですよね。なんかどっかでやっぱり覚 悟を決めなくちゃしょうがないな、と思いましたね、看ながら。
 

 
ナレーター: もう一人、羽田さんに老いの生き方の手本を示してくれた人がいます。歌舞伎役 者の十三代目片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)(1904-1994)さん。歌舞伎界最長老の役者として、殆 ど視力を失いながら、九十歳で亡くなる直前まで舞台に上がりました。その芸の 深みは、老いてますます輝きを増していったのです。羽田さんは、仁左衛門さん の最晩年、七年間を映像に記録し続けました。
 

 
羽田:  仁左衛門さんの芸が非常に評価されたというのは、 私は、仁左衛門さんが七十、あれは確か六、七の時 なんですけれども、国立劇場で「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」 を通しで出したんですね。創立十五周年記念かなん かで。その時に、仁左衛門さんが、菅丞相(かんしょうじょう)(菅原 道真)を演じられたんですけれども、その芸が素晴 らしかったんですね。その時に、非常に絶賛されて、 それから後、お年を召す毎に、芸域は限られてきた けど、なさること、なさること、みんな凄く評価されるようにな ったんですね。これは、ある意味では、仁左衛門さんは歌舞伎の 役者さんの中で最も長生きされた方です。これから長生きされる 方がいらっしゃるかも知れないけれど、それまでおられないわけ です。七十代後半、八十、九十になってまで、芸をなさった方と いうのはおられなかったわけですね。そうすると、いわゆる歌舞 伎の役者さんが到達していた芸域とは、また異なる芸域を、仁左 衛門さんは獲得されていたと思うんですね。だから、非常にそれ までの歌舞伎の芸に見られなかったある深さとか、ある芸境を開 かれて、そのことが大変評価されたわけですよね。
 
山田:  非常にそういう意味では、充実しておられた時期でもあるわけですね。
 
羽田:  そうですね。精神的には非常に充実。なんか身体が動かないとかということがあ っても、そういうものを超えたものを表現なさっていた。で、八十代、九十にな られる頃は、もう殆ど視力が無くて、舞台は一切お見えにならなかったわけです よ。だけど、日常生活の中ではほんとにどこも手を取っていかないと行かれない し、八十過ぎられると、やっぱり足元も弱ってこられるし、だけど、そういうこ とでありながら、ちっとも老いを感じさせない方なんですね。それはやっぱり仁 左衛門さんのなんか気分の持ち方というのがあるんじゃないかと思うんです。そ れと姿、形の美しさというのもあると思うんですね。そういう自分の肉体的な条 件を一切苦にしたようなことを、口にされたことないわけです。それで、そのこ とによって、他人が気分が悪くなるようなこと、他人がそのことで非常に気を使 うようなことを、一切口にされたことないんです。いつもなんか穏やかで、非常 に面白いお話をなさって、いろいろ生活を楽しんで、人を楽しませようというこ とばっかり一所懸命なさる方ですね。なんて言ったらいいんだろう、なんか歳を 取るっていうことは、確かに悲しいことだけど、でも、仁左衛門さんのようなふ うに歳を取るなら、ほんとに悪くないと思いましたね。
 
山田:  そういう方の最後も撮ってこられたけれども、羽田さんご自身は、これからどう いうふうに、何を大事に生きたいというふうに思っていらっしゃるでしょうか。
 
羽田:  それは難しいんですよね。どうなるんでしょうか。私は今までなんか非常に計画 的に生きてきたという人間じゃないものですから。時々、思うんですよね、今ま でいろんなものを見てきたけれど、そんなこと言うと変だけれど、私は、青春時 代というと、あんまり好きじゃないんですよね。
 
山田:  あ、そうですか。
 
羽田:  そうなんです。だって、青春時代というのは、もう忙しいし、何 をやっていいか分からないし、これから自分がどう生きていった らいいか。それは夢がいっぱいというけど、ある意味では不安も いっぱいなわけですね。夢に相当するだけね。だから、自分の一 生というのが、いろんな形での方向が無限に無限とは言えない けども、選択肢がいっぱいあるわけですよ。どれを選ぶかというのは非常に難し いですよね。青春というのは、ある意味で、希望もあるけど、不安も大きい時代 だと思うんですね。で、六十になった時に、何も不安が無くなったんですよ。だ から、「ああ、なんて生きやすくなったんだろう」と思って、私は、「還暦という のは凄くいいなあ」と思ったんです。
 
山田:  それは、不安が無くなったというのは、やる仕事についても、自分の生活につい ても、
 
羽田:  生活についても、「あ、もうこの道を真っ直ぐ行けばいいんだ」というある方向が 非常にはっきりするわけですよね。そうすると、青春時代というのは、あんなに 迷いが多くて、煩わしいことがいっぱいあったけれど、ああ、六十というのは、 いいなあ、とその時は思ったんですけどね。だから、そんなことを思う人がいる のかどうかよく知りませんけど、私はそう思ったんです。そして、歳を取ったと いう実感がまだなくて、だから、六十というのは、素晴らしくいい年代だと思い ますね。ところが、やっぱり今、七十を過ぎてもう七十六になりましたけど。そ うなると、さすがにそれほどのんびりもしていられないんですよね。やっぱり今 度は、残りの時間というのが気になるし、おそらく母の病気を見ていますから、 これから元気になるということはなくて、だんだん母の後を追って、こうなって いくのかなあなんて、思うと、やっぱりさすがに六十の時ほど暢気じゃないです けれどね。周りの景色も変わっちゃうわけですよね。つまり元気だった母は居な くなる。それから、私のことを、少なくとも私の子ども時代を知っていた人間と いうのは、もう一人も残っていないわけですよ。そうすると、そういう人に囲ま れて、育ってきた私の人生というのは、もう無くなっちゃうわけですよ。そうい う人がいないわけだから。そうすると、周りの人の風景が変わるわけですね。や っぱりこれは七十過ぎる頃から、そのことを非常に思いましたね。そうして、そ れは目上の人が減っていくのは当然なんですけども、私より若い人でも随分欠け ちゃっているわけですよ。同じ友だちも欠けているわけですよね。つまりそうや ってだんだん人が居なくなるということは、自分が生きてきた社会の風景が、私 が認識していた社会の風景が変わるわけですね。で、私の知らない社会がどんど ん出来てくるわけです。若い人たちの社会が。それを眺めているというのは、や っぱりいろんな意味で、「ああ、つまりこうやって人類の社会というのは変わって いくのかな」というのは、今、見ている感じですね。ただ、私が思っているのは、 とにかく自分が動けて、呆けずにちゃんとものが考えられる間は、自分がやりた い仕事をやっていこう、と。これまでやったんだから、もう一本は作らなければ いけないなあというのが、今の私の宿題ですけれど。そこから先、どうなるか、 またちょっと分かりません。
 
山田:  その先、テーマはどっかにはあるわけですね、頭の中に。
 
羽田:  そうなんです。あんまり言うと、恥ずかしいから、ちょっと言わないけど。でも、 ちょっとありますね。
 
 
     これは、平成十四年五月二十六日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」に放映されたものである