美しい人
 
                 ノートルダム清心学園理事長 渡 辺  和 子
昭和2年2月、北海道旭川市に生まれる。昭和11年2・26事件で青年将校の銃弾に倒れた陸軍大将、教育総監・渡辺錠太朗の次女。昭和26年聖心女子大学卒業後、29年上智大学院終了、31年にノートルダム修道会に入会。37年にボストンカレッジ大学院で博士号取得。帰国後岡山に配属され、38年ノートルダム清心女子大学学長に就任、その間附属小学校長、附属幼稚園長も一時兼任。平成2年4月学校法人ノートルダム清心学園理事長に就任。
著書: 「人をそだてる」(中央出版社)、「美しい人に」「信じる『愛』を持っていますか」「愛をつかむ」(PHP研究所) ほか。
                 き き て         金 光  寿 郎
 
金光:   今日は、ノートルダム清心学園の理事長をなさっていらっしゃ います渡辺和子さんにお越し頂いて、人間誰に取っても魅力のある美しい人について、いろいろお伺い致したいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
渡辺さんは、長い間、ノートルダム清心女子大学で、若い女性の方の教育に携わってこられたわけですが、その間、やっぱり美しいということについても、いろいろお考えになっていらっしゃるんではないかと思いますので、今日は、その一端を聞かせて頂ければと思います。どうもこの頃、日本ではいろんな各方面で、美しいとか、清潔だとか、潔(いさぎよ)いとか、そういう感じの事柄が少なくて、どうも何か薄汚れたような変な事柄が多いようでございますが、たくさんの若い方に接して来られまして、美しさということについては、どういうふうにお考えになっていらっしゃいますでしょうか。
 
渡辺:   はい。やはり一番気を付けたかったのは、「綺麗さ」というも のは必ずしも「美しさ」と同じではない、ということでございます。ご承知のように、今時は街中、綺麗なものが溢れておりますし、着るものも、持つ物も、住むところも綺麗でございますが、「綺麗さ」というものはお金で買えるものだ、と思うんですね。そして、どちらかというと外面的に着けて化けることが出来る。お化粧というようなことでも出来ますけれども、「美しさ」というのは、必ずしも生まれつき持って、備えているものではなくて、自分の心の問題であり、そして、勿論お金で買えないものでございますし、お化粧を落とした後の素顔の美しさ、そういうものがあるのだということを、長い間、学生たちと一緒に話してまいりました。
 
金光:   そういうのは、何も生まれたままで、何もしなくていいということではないわけでございますね。
 
渡辺:   決して、そうではなくて、本当に自分の毎日の生活の中でどれだけ自分を見つめて闘っていくことが出来るか。それと同時に、人さまを温かく見つめて受け容れていくことが出来るか。そういうようなこと、更に言えば、人間の分際とでも申しましょうか、そういうものをきちっとわきまえて、自分の在りかをしっかりと持っている安定感と申しましょうか、そんなものが必要じゃないかと思います。
 
金光:   そうしますと、「自分自身がどういうものであるか」ということをよく見て、それに気が付くことがやっぱりそこのスタートとしては、非常に大事なことということになるようでございますね。
 
渡辺:   はい。今時、情報の社会でございますから、テレビその他のもので、いろいろなものを見ますけれども、私たちは、外のものに目を奪われ過ぎて、自分の内部を見つめることを忘れているんじゃないだろうか、というような気がしております。
 
金光:   やっぱり、日頃の生活の中でも、自分に足りないものが他の人のところにあると、それを自分も欲しいと思ったり、そういうことは言われなくとも、すぐ気が付くんでございますが、自分自身というのは、なかなかどういうものが足りないとか、そういうことは気付き難いところがあるようでございますね。
 
渡辺:   そうでございますね。あまりにも自分の欲しいものがたくさん溢れておりますから、つい、目に見えない大切なもの、本当の大切なものというのを見失いがちなように思います。
 
金光:   その辺のところに、やはりいろんな方が世の中にいらっしゃいますから、いま、おっしゃいましたような点で、その辺の非常に目に見えないところが、日常のお仕事の上でも伺えるような、そういう方もいらっしゃるわけでございましょうね。
 
渡辺:   そうでございますね。何年か前でございましたか、インドのカルカッタにマザー・テレサという方がいらっしゃいますね。あの方のところにボランティアをしにいらっした日本人のお医者さまがお戻りになってからのお話をしていらっしゃったのを、私、ちょっと伺ったことがございまして、その方が「マザー・テレサのところには、見るべき医療はなかったけれども、真の看護がありました」ということをおっしゃっておりました。丁度その頃、私、大きな建物を建てておりまして、私どもの大學に、見るべき建物は増えていっているけれども、果たしてその中に、「真の教育」と呼ばれるものがあるだろうか、と反省させられました。「真の教育」は何かと言われると、勿論、「人間が自分の可能性を実現させていくことだ」と思いますけれども、最近、とかく忘れがちなものとして挙げられるのが、人間としての「温もり」とか、「優しさ」、それから「強さ」、そういう最近の教育の中で忘れられているようなものが、私どもの学校の教育の中に大切にされているだろうか、と反省させられたことがございます。
 
金光:   マザー・テレサという方の場合は、例の「死を待つ人の家」、行き倒れているような方を、お迎えになって、最後を看取られるというようなお仕事をなさったり、いろんな医療関係のお仕事をなさっていらっしゃいますけれども、「真の看護」があったというのと、「真の教育」という言葉と、「看護」と「教育」は違うようですけれども、「真の看護」という中には、「ぬくもり」もあるし、それから「優しさ」もあるし、と言って「ぬくもり」とか「優しさ」だけではなくて、やっぱり「強さ」というものもなければ、実行出来ないことでしょうから、やっぱりその基本のところには、「真の教育」の中にも、「真の看護」の中にも共通のところがあるようでございますね。
 
渡辺:   そうでございますね。真(しん)という字は、「まごころ」の「ま」という字に使うことも出来るかと思いますけれども、やはり本質的なものと申しましょうか、マザー・テレサのところには、日本のちょっとした診療所でも備えているような点滴の道具とか、それから有り余る程のお薬、注射の針とか、注射器等は乏しい、見るべき医療がなかった。ですけれども、そこに「真の看護」があった、と。その「看」という字は、「手」と「目」という字を合わせて、「看」という字になるんですね。
 
金光:   はい。
 
渡辺:   そこに運び込まれて、「死を待つ人の家」に運び込まれて来た人たちに、その温かい手と温もりのある優しい眼差し、そしてそこには又、そういう方たちに対して、本当に心を込めて看護をなさる真心の籠もった強い看護人の姿があったと、そういうことをおっしゃりたかったんだろうと思うんです。私たちも、やはり見るべきものに追われてしまって、これがあったらいい、あれがあったらいい、これも欲しい、あれも欲しい、と求めています。しかしその底に流れている人の心が本当に求めているもの、それを家族でも、教育の場でも、社会でも、医療機関でも、これからもっともっと大切にしないといけないんじゃないかと思います。
 
金光:   それは同時に、教育、学校なんかでも、そういう「温もり」とか、「優しさ」みたいな、そういうものを実践していく為には、やはり「強さ」がなければいけないと思いますが、そういうものがあれば変な「いじめ」みたいな現象も起きないんじゃないかと思いますが、そういう点では学校で教育されながら、日頃、具体的にその辺の真の教育の「ぬくもり」とか「優しさ」とか「強さ」みたいなものを身に付けるためには、どういう方向に行けばいいと言うことで、これまで教えて来られたんでございましょうか。
 
渡辺:   私は家庭もとても大事だと思います。やはり子供たちが最初に習う教育の場は、家庭でございますから。ただ、その家庭教育というものが、割におろそかになっております今日、学校はそれを補うという点でも、求められているものが多いかと思います。私は教師の生きる姿勢というものが、とても大事だと思っております。そしてあまり物わかりのいい教師が増えてしまいまして、私どもは幼い時に母親から躾けられました時に、「躾」という言葉は、「身体」という字に、「美しい」という言葉を合わせた字でございますけれども、とにかく、身のこなしを美しくするためには、繰り返し繰り返し同じようなことでも、言われたようにすることが大事なんだ、ということを叩き込まれてまいりました。学校が、あんまり子供さんに遠慮なさらないで、子供さんの中にある素晴らしい力を、もっと信じてあげて下さって、人間として、当然の持つべき美しさを引き出して下さったらいいなと思っております。
 
金光:   その子供さんの場合ですと、最初から全てを理解して実践するというよりも、理解出来なくとも大事なことは、やっぱりそれこそ躾けていくという、そういうことが大事になるわけでございましょうね。
 
渡辺:   多分、日本舞踊とか、茶道とか、その他、道を極めてまいりますためには、ある意味では言われたように形にある程度填(はま)る、ということも大切かと思います。人間は心だけで生きていませんから、身体と心を持っておりますから、やはり身体、形、目に見えるものから入って、しかしながら、その目に見えるものの底にある真心(まごころ)と言いましょうか、真(しん)の大切なものに到達して欲しいと思っております。
 
金光:   そこのスタートのところというのは、これをしたらどうなるからこうしようとか、いわば計算尽くと言いますか、そういうところからのスタートではないわけですね。とにかく、よく理解出来ないけれども、まずこれをやる。いいと言われたことをまず実践する。やっている中に、だんだん意味が解ってくるというか、そういう理解の仕方ということになるようですね。
 
渡辺:   そうでございますね。損得勘定、そういうものをある程度、度外視しないと、私たちの中に美しさというものは育っていかないと思います。私は、実は学生たちと面白い日本語を使っておりまして、「面倒だからしよう」と。
 
金光:   あ、面倒だからしなくていいじゃなくて。
 
渡辺:   はい。それこそ今の合理精神と申しますと、面倒だったらしないでおく、まあ易しいものから片付けていく。ところが、やはり美しい姿を自分が持つためには、「面倒だからしょう」、例えば、「面倒だと思ったら、すぐにお礼状を書きましょう」。
 
金光:   はあ、なるほど。
 
渡辺:   「面倒だと思ったら、ポケットから手を出して挨拶しましょう」「面倒だと思ったら、自分の使った洗面台を、ちょっと後を拭いて出ましょう」という、そういう日常生活の中でございますけれども、普通、日本語では、「面倒だから、よそう」という、そういう言葉を、むしろ「面倒だからしましょう」、そうすると「美しくなれるんですよ」というふうに。
 
金光:   面白いですね。「面倒だから、先に延ばそう」とすると、面倒さが、だんだん増えて来ますね。
 
渡辺:   そうでございますね。
 
金光:   面倒だと思っても、その時、片付けてしまうと、それでパッと済んでしまう、という。面倒さが一番少なくて済む、という。非常に面倒だからしようという中には、かえって、合理的な結果というのが、そこにあるのでございますね。
 
渡辺:   これは多分、躾についても言えるかと思いますし、一つの道を極めた方のお姿を見ておりますと、無駄がございませんね。その意味では、損得勘定抜きということを申しましたけれども、結局は、人間にとって、最もシンプルなものの美しさと言いますか、そういうものが積み重ねられて、自分の中に、内面的に出来て来る。決して、非常に安易に、お金で買って外から身に付けるものではない、というようなことを感じさせられてまいりました。
 
金光:   そういう本当の合理性と言いますか、深いところでの合理性というようなものは、「面倒だからしましょう」という、そういう中に、かえってあるわけですね。
 
渡辺:   はい。これも実は、マザー・テレサのお話なんでございますけれども、この方が、日本にお出でになりました時に、私は通訳をさせて頂いたことがございまして、その時に、実際に伺ったことなんでございます。先程、おっしゃいましたように、「死を待つ人の家」に、余命幾ばくもない方たちを連れてお出でになりまして、それこそ、足りない、見るべき医療がないわけでございますから、もう、なけなしの医薬品、それから、足りない人手をその方たちに充分にかけてやっていらっしゃいます。そのことにつきまして、一人の方が質問なさいまして、「マザーが、していらっしゃることは、とっても素晴らしいと思うけれども、無駄があるんじゃないか。有り余っているお薬ならともかく、不足勝ちなお薬を、なぜ、あげても必ず死ぬに決まっている人たちにあげて、そしてその薬をあげたらば、生き返るかもしれない、または、よくなるかもしれない人にあげないのですか。それは薬とか、人手の無駄ではありませんか」というふうにお尋ねになったんです。
 
金光:   合理的な質問ですね。
 
渡辺:   私は一瞬、「あ、本当にそうだ」と思いましてね。通訳しながら、そう思っておりましたら、マザーが非常に毅然として、「自分はそう思わない」とおっしゃいました。そしておっしゃいましたことに、「死を待つ人の家」に連れて来られる人たちというのは、生まれた時から、産み捨てられた、望まれないでこの世に生まれて来た人たち、そして一生の間、「汚い」とか、「臭い」とか、「邪魔だ」とか言われて、自分はこの世に居ても居なくとも同じなんだ、と考えて生きて来たような人たちなんだ。その人たちが死ぬ本当に数時間前、人によっては数十分前に、生まれて始めて優しい手と温もりのある眼差しで見つめられ、看病して貰い、名前とか、宗教を尋ねて貰って、生まれてから飲んだことのないお薬を頂く。そうすると本来ならば、辛い人生を送ってきましたから、親を恨み、神仏を呪って、この世を去って行っても構わない人たちが、ほとんど残らず「ありがとう」と言って死んでいくんだそうです。
マザー・テレサは確かアルバニアの方でないかと思うんですけれども、あちらの方ですから、少し訛がお有りになりましたけれども、そのお話をなさいましてね。「It is so beautiful 」とおっしゃったんですよ。「それは本当に美しいことです」という。私はその時に、やはり「美しさ」と「綺麗さ」は違うんだと思いました。つまり、「死を待つ人の家」というのは、どっから見ても美しいとは言えない。がらんどうの廃屋でございますね。そして床の上に、ただ、寝かせられて、異臭が漂い、蠅が飛び交い、周りの人と言っても本当にみすぼらしい人たち、自分自身も骨と皮のような方が亡くなっていらっしゃる時に、「サンキュウ(Thank you)」と言ってお亡くなりになる。それを「It is so beautiful」と。
 
金光:   「It is so beautiful」と。
 
渡辺:   「 pretty 」 とおっしゃらなかったんです。
 
金光:   「beautiful」ですか。
 
渡辺:   はい。日本の病院などを見ますと綺麗でございますね。真っ白で清潔で、「pretty」という言葉そのままですけれども、こう鼻からも、どっからもゴムのチューブが刺さっていたり、まともに人さまとお話も出来ないで死んでいらっしゃる方たちと、そういう温かい手と目に見守られて、真の看護を受けてお亡くなりになる方と、どちらが本当に幸せなんだろう。どちらが本当に、「beautiful」なんだろうと考えさせられたことがございます。
 
金光:   しかし、そこには、確かに物はそんなにないけれども、人間の心の通い合い、温もりとか、優しいとか、そういうものがその場に溢れているというお話を伺いながら、そういう景色が頭の中に浮かんで来たんでございますが、そういうのは設備だけではなかなか出てこない。学校の教育なんかでも、やはり建物とか、いろんな器具が揃っても、それだけでは、やっぱり「so beautiful」にはならないという、そういう人間の世界の深さと言いますか、複雑さと言いますか、そういうものがあるようでございますね。
 
渡辺:   はい。私は見るべきものも大切だと思うんです。それがなければ充分な教育とか、医療は出来ません。しかし、丁度、シルバーシートも一つのいい例だと思うんですけれども、シルバーシートが出来たから、お歳を召した方が大事にされているかというと、決してそうでなくて、仮になくても、席を譲る心と言いますか、それこそ本当に目に見えない大切なものが、今、日本の国で置き忘れられている。その美しさを取り戻したい、と思います。
金光:   そういう意味では、しかしいろんな自然の美しさにしても、目に見えないところから出て来ているものの美しさ、見かけの華やかさと違った美しさ見たいなものが、日本の伝統の中には、昔からあったようでございますね。
 
渡辺:   そうでございますね。お花に例えますと、今はカサブランカとか、大輪のカーネーション、バラ、非常に華麗なものが、しかも多く使われておりますけれども、私は日本古来の一輪挿しの、それもまだ花が開き切っていない、蕾のような、又は寒さに耐えて咲きます梅のような品格と申しますか、気品と申しますか、そういうお人の姿が、だんだんと失われていっているのではないか。日本には、古来そういう美しさがあって、言葉遣いにしても、礼儀作法にしても、挙措動作、そういうものにしても、日本、本来の美しいものを、私たちは失っては勿体ないように思います。
 
金光:   そういう伝統が、私たちの身体の中にも流れているわけですけれども、そういうものを、いわば喪失し無くさせないで、育てていくという方向にいくのには、どうすればよろしいんでございましょう。
 
渡辺:   これも私たち一人一人の問題だと思いますし、特に若い方たちには、私たちの後ろ姿と申しましょうか、私の生きている姿そのものが、お手本にもなるんだろうと思います。私は、「顔の化粧」も大事だと思いますけれども、「心の化粧」というものを怠ってはいけないんじゃないだろうか。心に皺を付けないで、心の肌を何時も生き生きと、つやつやとさせて生きていくために、学生たちに「三つの化粧品」という話をよく致します。
 
金光:   「三つの心の化粧品」ということですね。
渡辺:   はい。それはちょうどここに出ておりますけれども、
 
        ほほえみ
        思いやり
        主体性
 
という化粧品の喩えでございまして、お店では売っていないものです。この「三つの化粧品」に共通して言えることは、「幸せというものは、人にしてもらうものではなくて、自分がなるものだ、自分が作るものだ」という、自分の意欲、
 
金光:   買うものじゃなくて、自分が出すものですね。
 
渡辺:   はい。自分が作り出すもの、生み出すもの、ただ自分との闘いなしには出来ないと思います。そしてその闘いなしには出来ないという意識とその闘いを通してでも、この「三つの化粧品」を身に付けようと言う意欲、そういうものがいま必要なんじゃないかしらと思います。
 
金光:   そうしますと、まず「ほほえみ」からいきますと、具体的にはどういうことになりますでしょうか。
 
渡辺:   「ほほえみ」は、「笑い」とは違うんで、笑うためには寄席に行ったり、またはいろいろギャグとか、そういうものを聞いたりすれば出来るのかも知れませんけれども、私は「ほほえみ」というものは、物事が上手く行っているから、自然に生まれてくるものだけではなくて、特に美しさを作り出す「ほほえみ」、又は人の心を癒す力を持った「ほほえみ」というのは、「自分との闘いなしには、生まれてこないものだ」と思っております。言葉を換えて言いますと、「ほほえみ難い状況の中でほほえむことに慣れますと、その「ほほえみ」が美しさを作り出し、また人の心を癒すほほえみ」になるんではないだろうか。
 
金光:   そうしますと、状況が自分の思うようにならない中でも、その「ほほえむ」という為には、そこで自分自身が、そういう物事に縛られっぱなしではなくて、その周囲の状況を離れて見て、その状況から自由さと言いますか―ある程度、離れた自由さがないと「ほほえみ」も出てこないということでございましょうね。
 
渡辺:   そうでございますね。物事の上に立つと申しましょうか、その物事のもっている深い意味にまで、自分が思いを致す時に、あ、このことは確かに自分にとっては苦しいことだし、辛いことだし、悲しいことだけれども、何らかの意味を持っているかも知れない。そしてその意味を見出そうとする。それこそ先程の「真心」へ戻りますけれども、「真(まこと)」をその中に見出して、表面的なものにだけ流されないでいる時に、「ほほえみ」というものを、私は生み出せるように思います。
 
金光:   そうしますと、大体世の中の出来事というのは、自分の思う通りにはならないことが多いわけですけれども、そういう自分の思い通りでない。来てもらっては困るような状況が現実に目の前に来た時も、自分としては管理はしないけれども、そういう状況になったら、何故こういうことになったのかと言いますか、そこの意味ですね、個々の出来事に対して自分はどうすればいいんだろうか、何が出来るだろうか、ここに何か意味がないのかしらと、何かそこをもう一つ越える姿勢というのがないと、ほほえみも出てこない、ということになるわけでございましょうね。
 
渡辺:   はい。聖書の中に一人の目の不自由な方のお話がございまして、キリストのもとに連れて来られて、キリストに向かって人々が尋ねるんですね。「この人が目が不自由なのは、この人の罪からでしょうか、それとも何かほかの理由でしょうか」と。つまり人々は何故この人は生まれつき目が不自由なのかという、英語で言うと「why」と言いますか、「何故」ということを尋ねたのに対しまして、キリストが、「この人が目が不自由なのは、神の栄光が現れるためである」という、そういう答えをしていらっしゃる部分があったかと思います。結局、人々は「何故」と尋ねたのに対して、キリストの答えは、「何のために」ということでございます。ちょっと考えますと、両方とも同じように思えるんですけれども、「why」というのは、過去を振り返りまして、「何故でしょう」。ところが「for what」は、「何のために」という「将来に対して持つ意味」への問いかけです。
 
金光:   生きる姿勢が違うわけですね。
 
渡辺:   私はそう思います。
 
金光:   未来に向かって、
 
渡辺:   はい。
 
金光:   「神の栄光が現れるために生きる」ということになると、「生きるその時から、未来へ向かって一歩踏み出す、二歩踏み出す」ということになるわけですね。
 
渡辺:   ですから、私もかつて仏教徒でございましたけれども、いわゆる「神も仏もあるものか」という、神さまというと、お願いごとの対象になるように思いまして、それを叶えて頂かないと、また頂けません時には、
 
金光:   それこそ今の「神も仏もあるものか」と。
 
渡辺:   そうでございますね。後ろ足で砂をかけるようなことを致しがちでございますけれども、やはり私ども世の中は全て神さまがいらっしゃるから、どこかで辻褄が合うんだ、と。私どもには解らなくとも、どこかで神さまは辻褄を合わせて下さる。これを信仰というのかも解りませんけれども、そういう表面的な災害とか、病気とか、苦しみとか、そういうものに留まらないで、その奥にある、真(まこと)に到達することが大切なんじゃないだろうかと思います。
 
金光:   そうしますと、常に今、置かれている自分の意味が直ぐに解らないにしましても、これは「自分が新しく一歩を踏み出すための出来事だ」というふうに思いますと、「一見不幸な出来事でも、そこに新しい意味が発見出来ると、また、ほほえみも出るし、勇気も出るし、力強く大地に踏み出すことも出来る」と、そういう大きな転換がそこにあるわけですね。
 
渡辺:   はい。私、存知あげておりましたプロテスタントの牧師さまでいらっしゃいますが、河野(こうの)進先生とおっしゃって、
 
金光:   この番組にも出て頂いたことがございますが。
 
渡辺:   そうでございますか。
 
金光:   倉敷、玉島の方ですね。
 
渡辺:   玉島の方で、数年前にお亡くなりになりました。この方が私が四苦八苦しております時に、一つの詩を下さいましてね。その詩と申しますのが、短い詩でございますけれども、
 
        天の父さま
        どんな不幸を吸っても
        はく息は
        感謝でありますように
        すべては
        恵みの呼吸ですから
            (河野 進)
 
金光:   「天の父さま、どんな不幸を吸っても、はく息は、感謝でありますように、すべては、恵みの呼吸ですから」―全ては恵みの呼吸だと思えると、自分にとって都合が悪くても、はく息が感謝に換えることが出来るわけでしょうね。
 
渡辺:   そうでございますね。私がこの詩をとても素晴らしいと思いますのは、人間の性(さが)と申しましょうか、悲しさで、不幸を吸わないでは生きていけないと思うんですね。どんなにお金を持っていても、権力を持っていても、やはりその人には思いがけない不幸が見舞ってくるんでございます。その不幸をしっかりと吸いましてね。私は吸って、すぐ吐き出してはいけないと思うんです。また増幅して、大きな不幸にして、吐いてはいけないので、しっかりと吸い込んで、そして自分の中にある不幸を感謝に換える自由に気が付く。「自由」という字は、「自らに由る」と書きますから、他から与えられる病気とか、災害とか、不幸とか、死別とか、そういうものをしっかりと受けとめて、「それは神さまが下さっている」と思うんです。それを、「ああ、このことがあったために、私はこれがなかったらば、見えなかったものが見えた、有り難いことです」とか、または、「こういう病気をしたお陰で自分は前よりも少し優しくなれた、有り難いことです」という、その感謝に換えて、そしてさっきおっしゃいましたように、頂くものは全て恵みの呼吸なんだ。「神さまの愛というのは、人間を試練に遭わせないことではなくて、力に余る試練には、決してお遭わせにならない」と信じて生きる生き方です。
 
金光:   はい、なるほど。
 
渡辺:   これは聖書の中にもある言葉なんですけれども、神さまは、私たちが試練に遭うことから遠ざけることで、ご自分の愛をお現しになるんではなくて、私たちは不完全な人間ですから、お互い同志、傷つけ合っています。またいろんな災難に遭いますけれども、何時も後始末をして下さると申しましょうか、「力に余る試練をお与えにならない」。そのことを信じて生きておりますと、自然にほほえみというものも、生まれてくるのではないかと思います。
 
金光:   そうしますと、何か思いがけない、自分にとって不幸だ、と思われることも、今のように「神さまは、自分に出来ない不幸、試練は与えられない」という気持ちがお腹の底にあれば、それに対して「困った、困った。私には出来ない」ではなしに、「とにかくやってみよう」と。それで「出来る範囲で受けとめていると、また確かに事実、新しい方向というのが見えてくる」、そういうものでしょうね。
 
渡辺:   道は開けてくるように思います。
 
金光:   それはその出来事に出遇う前に、自分の頭の中で予想していたものとは 全く違う方向かもしれませんけれども、やっぱりそこに新しい意味が見えてくる。そういう世界があるわけですね。
 
渡辺:   そうでございますね。
 
金光:   そういう試練を通しながら、だんだんほほえみというもが、身に付いてくるということなんでございましようか。
 
渡辺:   そうだろうと思います。
 
金光:   そういうお化粧品の「ほほえみ」はそういうことなんですが、その「ほほえみ」の現れ方というのは、そういうお話を聞いていると、何時も、ニコニコ、ニコニコする。微笑んでいるだけかというと、そこの「ほほえみ」の中には、相手に対する共通性、思いやりとか、そういうものも、ばらばらでなくて、裏側にはそういうものがあると自然に微笑みも出やすくなると、そういうこともあるわけでございましょうね。
 
渡辺:   はい。私ども人間は一人で生きておりませんから、そこに人さまがいらっしゃるわけでございますね。私は「思いやり」という言葉は、「自分の思いをやる」ということだと思います。その為には「自分の中に思いがあることが必要で、無ければ差し上げることが出来ない」。その点で修道者がこういうことを言うのはおかしいかも知れませんけれども、私はいまでも、「悔しい思い」とか、時には「憎しみ」とか、「人さまに褒めて頂きたいな」とか、「愛されたい」、そういう思いを大事にして生きております。それが頂けたらとても、嬉しいんですけれども、必ずしも、何時も頂けるわけではございませんが、何かそういうものがカラカラに乾いてしまった修道者とか、人というのは、相手のことを思いやることが出来ないんじゃないだろうか。「自分はこんなことを言われて悔しいから、人さまには、こういうことは言うまい」とか、「こういうことは言って頂いて、本当に嬉しかったから、今度はあの方を褒めて差し上げたい」とか、やはり「自分の傷つきやすい心」と言いましょうか、そういうものを大事にしたいのです。「私が欲しい、なのに貰えない」ということがあります。先程も、この「三つの化粧品」の底に流れているのは、「幸せは人にして貰うもんじゃなくて、自分でなるものだ」ということを申し上げましたけれども、「私が欲しい、感謝して欲しい、なのに感謝してくれない」「ほほえんで欲しい、なのにほほえんでくれない」でなくて、「ほほえんで欲しい、だから人さまにもほほえんで差し上げたらお喜びになるだろう」。これも先程のほほえみ、不幸と感謝と同じで、「視点を換える」と申しましょうか、「相手さまの身になって、相手の立場に身に置く」というようなことで出来ていくんじゃないかと思います。
 
金光:   いじめられたからいじめるんじゃなくて、いじめられて厭だったから、だから私はいじめないと、そういうことにもなるわけですね。
 
渡辺:   はい。これは随分、高貴な魂と申しましょうか、私はそういう魂を必要とするような気が致します。ちょっとやそっとで出来ることではなくて、これも自分と闘いながら。私は三十代の半ばで、学長を命ぜられました。生まれて始めて参りました岡山という土地で、しかもそれまで、アメリカ人の学長さんが二代続いておりまして、三代目は、そうでなくても身上を潰すと言いますが、三代目の学長に私が日本人で初めてなりました。最初の方は七十才代で、二代目の方で六十代の後半でいらっしゃったかと思います。それなのに私が三十代の半ばで命ぜられて、学長になりましたものですから、皆さま、本当に生意気だと思いになったかも知れませんし、こんな若造に任せて何が出来るか、とお思いになったのかも知れませんが、私にしてみたら、学長なのに、どうして皆さま、もう少しいろんなことを教えて下さらないのだろうかとか、挨拶をして下さらないんだろうかとか、スピーチに対して良かったとほめて下さらないのかとか、私も若気の至りで口惜しい思いをしました。その時に、東京にいらっしゃるお友だちから一つの詩を頂きまして、それは「ほほえみ」という詩でございましてね。ほほえみというのは、お金を払う必要のない安いものだけれども、貰った者にとっては、とっても大きな価値を持つものだとか、そういうほほえみの効能が、ずっと書いてありまして、一番最後に、
 
        もしあなたが
        誰かに期待したほほえみが
        得られなかったら
        不愉快になる代わりに
        あなたの方から
        ほほえみかけてごらんなさい
        実際ほほえみを忘れた
        その人ほど
        あなたからのそれを
        必要としている人は
        いないのだから
 
という言葉で締め括られておりました。
 
金光:   「もし、あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら、不愉快になる代わりに、あなたの方からほほえみかけてごらんなさい、実際ほほえみを忘れたその人ほど、あなたからのそれを必要としている人はいないのだから」―その通りです。けれどもなかなかこれは出来難いところがございますね。でもその時の詩を受け取られてどういうふうにお感じになりましたですか。
 
渡辺:   最初に思いましたのは、「あ、私は損ばっかりする」と思いました。
 
金光:   ハッハッハッ・・・
 
渡辺:   当然、先生方から、「この間助成金を貰ってありがとうございました」と言って頂いていいのに言って下さらない。その先生に、何故私の方が、「先生、この間ありがとうございました」と言わなければいけないんだろうかとか、それから挨拶をして下さらない方に、私の方から学長であるのに、どうしてそうしなければいけないんだろうとか、そういう、「あ、これは私が損するばっかりだ」という気持ちが正直申し上げて致しました。ただこの最後の行でございますね、「実際ほほえみを忘れたその人ほど、あなたからのそれを必要としている人はいないのだから」と、それで納得をしました。私は納得を致しますと、割にそれを受け入れることが出来る人間なんでございます。その日から、「ああ、私はこれを生きよう」と思いまして、自分の方から廊下を歩きまして、先生方や学生さんたちに会いました時に、「おはようございます」とか、「さようなら」という人になりました。そう致しましたらね、不思議なことに、幸せになりました。
 
金光:   ほう、ほう。
 
渡辺:   自分が。
 
金光:   あんまり、それまで私は学長だから、だから当然云々といういろいろあったのが、そのご自分からなさるようになると、そういうことを考える必要が無くなったわけですね。出来事が変わって来たわけですね。
 
渡辺:   そういうことでございますね。それが、結局、三番目の「主体性」という。
 
金光:   なるほど。
 
渡辺:   化粧品と非常に深く関わっていると思うんでございます。つまり相手の出方で、相手がほほえんで下さったら、私もほほえみ返してあげよう。相手がお詫びをおっしゃったら、私も、「いや、私も悪かった」とお詫びを言いましょう、というような気持ちで生きておりました時には、いつも人さまの出方ばっかり伺っていたように思います。ということは、人さまの顔色を見ていることであり、人さまが私を果たして満足さして下さる方なのか、それとも私に対して私が持っている「こうして欲しい、ああして欲しい」という要求を満たして下さらない方なのか。
 
金光:   しかし考えてみると、「相手がこうしてくれなければ、自分はしない」というのは、非常に不自由ですね。意志の商売じゃありません。損得勘定で利害関係、バーター制みたいなもので、向こうがこれだけ下さったら、私もこれだけ出してあげよう。でもそれは一見、理屈には合ってますけれども、しかし相手が何もしなきゃ、何も出来ないということは非常に不自由なことで、相手がどうであろうと、自分は「こういうことをこの姿勢でいこう」ということになると、非常に自由に生きられる、ということでもあるわけですね。
 
渡辺:   結局、「幸せを作る」というのは、それにもありまして、「相手の方がこうして下さったら、私は幸せになるのに」「労(いたわ)って下さったら幸せになるのに」「優しい言葉を下さったら幸せになるのに、下さらない」。
 
金光:   全部周りを条件次第ということになると、
 
渡辺:   そうでございますね。
 
金光:   さっきおっしゃった主体性が全くない生き方になりますね。他の人がこうして下さったら自分はこうだ、という。
 
渡辺:   はい。ビクター・フランクルという人の名前をご存知でいらっしゃると思いますが、アウシュヴィッツで、大変苦労した精神科のお医者さまで、『死と愛』という本を書いていらっしゃいますが、その中に素晴らしい言葉で、「人間の自由というのは、諸条件からの自由ではなくて、諸条件に対して自分のあり方を決める自由だ」と。私はこの言葉を読みました時に、「あ、人間の自由というのは、本当にそうなんだ」と思いました。私は今日、風邪をちょっと引いておりますけれども、この風邪を引いているという条件からは自由になれません。ただこの風邪を引いている自分をどのように処していくか。風邪を引きながらも、人さまと気持ちよくお話をさせて頂くかどうかは、これはもう風邪と無関係に―全く、とは言いませんが、ある程度、無関係に自分でほほえむことが出来ますし、相手さまを思いやることも出来ますし、そこに主体性というものが保たれていくんじゃないか、と思います。
 
金光:   しかもそのほうが「自分を大事にした生き方が出来る」というのは、相手次第で振り回される、そういうことが無くなって、「自分がこう、この場合はこうした方がいい、と思うことが、自由に出来る」という、そういう生き方になるわけですね。
 
渡辺:   そうでございますね。今、「お大事に」という言葉をお遣いになりましたけれども、丁度、今から四五0年近く前でございましょうか、一五四九年に、フランシスコ・ザビェルが日本にキリスト教をもたらしました。その後、宣教師の方たちが、とても言葉で苦労なさったようでございます。万里の波濤を越えて非常に苦労して日本に辿り着いて、辿り着いた日本で、また迫害に遭ったり、言葉の苦労をなさいました時に、これだけはどうしても日本の人たちに伝えたい、とお思いになったのが、「神の御大切」「神の愛」という言葉だったんだそうですね。その「神の愛」という言葉を「神の御大切」という言葉で表していらっしゃいます。これは今、残っておりますスペイン語、ポルトガル語、オランダ語などの辞書に残っておりますが、
 
金光:   「御大切」「神の御大切」という言葉が?
 
渡辺:   はい。ローマ字で 、「G・O・T・A・I・X・E・T 」―「GOTAIXET」というスペリングで、私も手許に一冊持っておりますけれども。その「御大切」という言葉が、結局、「愛」という言葉に匹敵するようでございます。多分、その当時の「愛」という言葉が持つ、仏教的な意味、それを避けて使ったのかも知れないと思いますけれども。つまりあなた方一人一人は、身分とか、家柄、性別、年齢、その当時、非常にそういうことが喧しゅうございましたね。そういうことと全く関わりなく、「御大切」なんですよ。神さまにとって、あなた方一人一人は本当にもう掌中の玉のような「御大切」なんですよ。だから「自分を大切にして生きなさい。粗末に、ぞんざいに生きてはいけませんよ」ということを、福音(ふくいん)と申しましょうか、よき知らせとして伝えたかったらしゅうございます。私はいまおっしゃいましたように、振り回されないで、「自分が自分らしく生きる」ということが、「自分を大切にして生きる」ということと、深く関わっているのではないだろうか。そして今日、いじめとか、いろいろな恐ろしい事件とか、たくさん起こっておりますが、学校などで人間尊重とか、生命の畏敬の念というようなことを教えている割に、私たち自分自身を本当の意味で大切にすることを忘れているような気が致します。
 
金光:   今のことに関係しまして、確かに周りの人に振り回されないという、そういう主体性、強さも大事なんですけれども、それは自分の中のいろんな思い、いろんな欲望に引きずり回されて、いろんな自分の中に浮かんで来る思いというのは、いろいろあるわけですけれども、どの思いでも、好きなように自由に出来るという。その思いに引きずられる自由じゃなくて、浮かんでくる思いを越えて自分が本当にしたいことをする。そういう主体性ということにも共通するところがあるようでございますね。
 
渡辺:   おっしゃる通りだと思います。そこにやはりセルフコントロールと申しましょうか、自分の生活を丁寧に生きる、ぞんざいに生きない。「しゅたい(主体)性」から「ゆ」の字を抜きますと、「したい性」になりまして、私はよく子供たちには「したい性」が育っていて、「主体性」が育っていないんじゃないかな、ということを冗談にいうことがございますけれども、「あれもしたい、これもしたい、あれはしたくない、これはしたくない」。そして親や教師がその言いなりになってしまっている。私の母は大変厳しく躾けてくれまして、いわゆる不自由を教えてくれました。不自由に耐えること、それこそ、先程、寒さに耐えて咲く梅の気品というようなことを申しましたけれども、人間というものは苦労して磨かれていくんだ。「買ってでも若い時には苦労しなさいよ」というような言葉を聞かされておりましたが、「本当の自由」とは、今おっしゃった通りに、「自分の心の中に起きてくるさまざまの思い、それに対しても主体性を持って取捨選択して生きる」と申しましょうか。
 
金光:   以前、聞いた言葉で「本当の自由は、不自由をも自由に出来なきゃ、本当の自由にならない」と。自由があって、不自由がある限りは、必ず不自由に出来ましたら、自由になくなるんで、不自由が自由に出来るようになれば本当の自由だ、と。確かにそうだろうなというふうに―その時は変なことをいう方だなと思ったんですけれどもね。やっぱりそういうことがあるので、と言いますのは、本当の主体性と言いますのは、先程おっしゃった諸条件からの自由ではなくて、その人間というのは、ある老年になると死というものに直面しなければいけないわけですけれども、その時でも、病気にならない、老衰なり、そういう条件を最後は逃れることは出来ないわけですけれども、しかし、それに対して自分はどう生きるかという、新しい一歩を、新しい姿勢というものを持つことは出来るという、そういうところに、何か時間の使い方と生きる姿勢と言いますか、それに対して、先程からのお話の中に、どうも答えがあるんじゃないかな、と伺いながら考えていたんですが。
 
渡辺:   そうでございますね。私の好きな言葉に、「時間の使い方は、命の使い方だ」という言葉がございます。結局、私たちが「どういう一生を終えるか」ということは、その間に、総理大臣になったとか、どんな立派な建物を建てたとか、どれほど沢山の人を救ったとか、そういうことも大事なことだと思いますけれども、それこそ今、こうやってお話をしている間にも、一刻一刻と、私たちは死へ向かって歩いているわけございますし、反対から言えば、この時間が私の人生を刻んでおります。ですから、上等な人生を送ろうと思ったら、上等な時間を過ごすこと。丁寧な人生を送ろうと思ったら、やはり一つ一つのことに心を込めて、愛を込めて、お座なりなことをしないで生きていく。そこに選ぶ自由があるんじゃないか、と思っております。
 
金光:   なるほど。そういう丁寧に生きようとか、或いはこういうふうに生きようという、その生き方、そのままが、その人のそれこそ美しさを決めるということに繋がることだと思うんですが、ずっと前に、この番組、或いはその前の宗教の時間だったかも知れませんが、渡辺さんがおっしゃったお話で印象に残っていますのは、真山美保さんがお作りになった「泥かぶら」というドラマの中の主人公の生き方ですね。あれが非常に印象に残っているんですが、ちょっとその話をして頂けますでしょうか。
 
渡辺:   実は今日、お話を致しました「三つの化粧品」というのは、非常に醜(みにく)かったので、「泥んこのかぶら」と言われた一人の女の子を美しくした化粧品なのです。
その「泥かぶら」は綺麗にはなれなかったんですね。しかし旅をしているお爺さんから、「お前がそんなに自分の顔が醜いことが悔しいのならば、三つのことをこれから来る日も来る日も実行しなさい」と言われます。
 
        「いつもにっこり笑うこと」
        「人の身になって思うこと」
        「自分の顔を恥じないこと」
 
「いつもにっこり笑うこと」というのは、「ほほえみ」という化粧品に当たるかと思います。「人の身になって思うこと」というのが、「思いやり」という化粧品でございますね。そして、「自分の顔を恥じないこと」―泥かぶらはいつも自分の顔を他の子供と比べて、何故私はこんなに醜いんだろうと劣等感を持っていたわけでございますけれども、「私は私、人は人」という「主体性」です。劇を観ておりますと、「泥かぶらは泥かぶら!」と言って叫ぶところがあるんです。私はそこのところが、とても好きなんです。これは結局、「主体性」―「他の誰にもなれない自分」と同時に、「他の誰も私にはなることが出来ないんだ」と。「私は私で、私なりに美しく生きていけばいい」ということなのです。お話の結果と申しますか、最後は人買いの人が「ありがとう、仏のように美しい子よ」と。
 
金光:   その泥かぶらに対して。
 
渡辺:   「綺麗な子」と言わなかったんですね。「綺麗な子供」とは言わなかったんですけれども、「仏のように美しい子よ」と言って、泥かぶらを置いて去っていくところがございます。この「いつもにっこり笑うこと」「人の身になって思うこと」「自分の顔を恥じないこと」、この三つが人を美しくする化粧品として、『泥かぶら』に書かれております。
 
金光:   しかも、それによって人買いの人の気持ちまで、柔らかく変えることが出来たと言いますか、そこに本当の美しさ、優しさ、強さ。そういうものを優しさとか、美しさというのは、決して弱いことじゃないわけですね。
 
渡辺:   「優しさとは強いこと」でございます。「強くなければ本当に優しい人にはなれない」と思います。
 
金光:   それはゴツゴツした強さではなくて、「柔和さ、しなやかな強さ」と言いますか。
 
渡辺:   それこそ、竹に雪が降りました時に、撓(しな)いますけれど折れませんね。私は、あの竹の強さを若い人たちに持って欲しい、と思います。
 
金光:   そうですね。そういう意味で本当に美しい人、そういう生き方が出来る人が本当の美しい人になれる、ということだと思います。
今日はありがとうございました。
 
渡辺:   とんでもございません。ありがとうございました。
 
 
     これは、平成七年六月四日に、NHK教育テレビの
     「こころの時代」で放映されたものである。