「熊野古道」旅物語  第2日
                    
(2002/10/3)


   
10/3

まえがきをちょっと書かせてもらおう。
 
9/27に、第2日目を予定していたのであるが、
前日に天気予報を聞けば、
「明日は雨、所により大雨、雷もある」というような予報である。
うっちゃんに電話する。
 
「明日もまた雨だということだが」
うっちゃん曰く、
「雨が降っても、槍が降っても≠ニ言ったんではなかったのか」と
前に自分が言った台詞を、
僕があたかも言ったように返してくるところは、
憎めないところだ。
彼は、「雨男に、僕は負けたよ」と、
僕を相変わらず「雨男」にして、
彼は、「晴れ男だ」と自認しているのだ。
うっちゃんは歩きたいのか、少し未練があるような話し振りである。
しぶしぶ同意し、10/1に予定変更した。
週間予報では、10/1は曇りで、雨予報ではない。
 
9/30になって、明日の天気予報を聞くと、
「明日(10/1)は、台風21号が近づいており、
東海、関東地方は台風に注意、近畿地方にもっとも
近づけば和歌山南部をかすめることあり」と
もう雨予報である。
これではまたダメかぁー、と、
また、うっちゃんに電話する。
 
「おーい! うっちゃんが台風をつれてきたのか!」と
電話をかける。
彼を、「晴れ男」から「台風男」にしたいほど、
予定日が雨予報になる。
さすがの彼も、明日は台風が近づいているので、
すんなりと日程変更にうなずく。
10/3が天気がよさそうだ、と
この日に決めたのだ。
テレビの天気気象では、近畿地方が晴れマークで
真っ赤っかである。
 
10/3 「天気予報は、競馬のごとし」とは言え、
今日は馬券が当たったように、快晴である。
 
天王寺駅7.26発の電車で、紀伊宮原駅に向かう。
紀伊宮原駅到着は、9.11分だった。
 
ここで、今日のルートの地図を示そう
JR紀伊宮原駅から紀伊内原駅までの
22km 8時間コースが、今日の予定である。
 
 
駅前の観光案内図で、今日歩く、熊野古道のルートを確認する。
「得生寺」に向けて出発!
 
 
駅を後に、少し行くと、宮原橋に着く。
ここを流れているのが有田川である。
「有田川は2級河川だ」と、うっちゃんが教えてくれる。
彼は、建設省関係の営業の仕事を担当していたので、
こういうことになると
詳しいのだ。
1級河川と2級河川の管理者などについて、一通りの講義がある。
 
 
橋の上から下を覗いたうっちゃんが、「魚がいる!」という。
彼は、ラグビーの唯一の趣味かと思っていたが、
魚つりも彼の趣味の一つだったことを思い出した。
水が綺麗である。魚は鯉だ。
よく見れば何匹か泳いでいるのが見える。
「魚釣りをやってみたい。魚釣りは面白いよ」と、
20年以上前にやっていた魚釣りの興味を思い出したように、
突然言い出す。
こんなところで魚に見とれているわけにいかない。
急がなくちゃ。
この堤防沿えに、500mほど歩いていくと、
中将姫寺の看板が見られる。
 
 
「中将姫寺」というは、別名が「得生寺」である。
得生寺の門の入り口に下の石碑が建てられている。
「得生寺」は中将姫のゆかりの寺である。
僕は、この得生寺があの中将姫のゆかりの寺とは今回始めて知った。
 
ここでちょっと中将姫のことにふれておこう。
 
「中将姫の父は右大臣藤原豊成。母は柴の前。
五歳の春、病で母が亡くなり、継母の照夜の前に育てられる。
継母が豊寿丸を生んでから、姫を邪魔者に思い、暗殺しようと
する。父が留守の時、家士伊藤春時に命じて、雲雀山で
姫を殺害させようとした。しかし、姫の浄土経を読誦して
両親を幸せを祈念するその徳風に感化され殺害することが
出来ず、姫をかくまって養育した」という。
 
 
 
「得生」は、中将姫をかくまって養育した家士春時が剃髪し、名を「得生」と改めた。
「得生寺」の寺名はこの得生の名より興る。
 
 
正面の建物が、中将姫御影堂である。
その右手に本堂がある。至勢菩薩が祀られている。本尊である。
「紀伊之国十三佛霊場第9番札所」と書かれいる。
「西国三十三霊場巡り」は有名であるが、いろいろな霊場めぐりがあるものだ。
賓頭盧尊者が置かれていたので、頭を撫ぜて、自分の健康を願う。
左側にある赤い構築物は、中将姫のご命日にちなんで
毎年5月13、14日の両日盛大に行われるのが、 この来迎会式で、
またの名を『二十五菩薩練供養』とも言い、
姫のような美しく 聡明なお徳を得させてもらおうと
子供た二十五菩薩となってお渡りするのである 。
下の写真のように、この上を歩かれるのだ。
 
 
奈良の当麻寺は牡丹(ぼたん)の名所として知られているが、
この當麻寺の
練供養会式(5月14日)をかつて一回だけ見たことがある。
また中将姫の織ったという曼荼羅を見たことがある。
下の写真は、当麻寺の練供養のものである
 
 
當麻寺春の大祭で、中将姫の現身往生を再現する行事。
観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が、現世に里帰りした中将姫を迎えて、
極楽へ導くという儀式だという。
 
中将姫(ちゅうじょうひめ)は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、
あえて恨むことなく、万民の安らぎを願い、
現世の浄土を求めて都を離れ、16才の時に當麻寺で
一心専念仏道を行ぜられたという。
菩薩の加護を得て蓮の糸による織物を感得し、
織られたのが下の写真の當麻曼荼羅(たいままんだら・国宝)だという。
29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。
 
 
 この得生寺を見終わってしばらく行くと、「糸我村の一里塚」がある。
江戸時代には、和歌山を起点に一里毎に塚が設けられ、この「糸我一里塚」は
五里(約20km)にあたり、県指定の史跡である、という。
 
 
ここからまた少し行くと、「糸我稲荷神社」があり、糸我峠の麓にあった「糸我王子社」が
合祀されているという。
 
 
この神社の横に、「くまの古道歴史民俗資料館」がある。
有田市内の史跡や民具の紹介されているというのだが、
拝観しようと思ったら、「休館」の札がさがっていた。
残念ながら見られず。
 
 
「すく熊の道」の道標を頼りに進む。

 
「すぐ」というのは、「まっすぐ」ということである。
ここから数分歩くと、雲雀山の登り口に着く。看板が立てられている。
この看板に、中将姫のことが記されている。
 
 
この「雲雀山」の説明板の横に、こんな道路標識が立てられていた。
僕らは、これから「糸我峠」を目指して、歩いているのだ。
この矢印の道を登って行ったらいいのか、と思ったら、そうではないのだ。
この矢印の方に登っていったが、間違いに気づいて戻った。
みなさんはこの標識をどう思われますか?
 
 
ここからほどなく行くと糸我王子社がある。

 
 
 
ここから糸我峠への上り坂となる。道の左右はみかん畑である。
第一日目を歩いた時のミカン畑より、ここはミカンが黄色くなっている。
うっちゃんが、「みかんが誘惑してくる。取るとどこかで誰かが見ているようだからなあ」
と自制心が働いている。
 
 
 
それほど長い坂道ではないが、細い竹林を通りすぎると、
峠の頂上に着く。
ここに峠茶屋があったという看板が立っている。
ここから醤油の発祥地の湯浅の家並みが遠くに見られる。
 
 
 
この峠を下り始めると、みかんの手入れ作業をしていたおじさんに出会う。
「みかんの収穫ですか?」と声をかける。
「いや、みかんはもう少し先だ」という。
「来る途中、ミカンが手の届くところにあるので、
みかんが誘惑しますなあ」と、おじさんに声をかけると、
おじさんは一瞬どういう意味かわからず。
もう一度、「ミカンが誘惑します」と繰り返すと、こちらの意味が分かってくれたようである。
「ああ、ここのはまだ晩生で、まだだ。あっちの方のミカンがいいかな」と、
僕たちにミカンをとってくれる様子だ。
「いやいや、おじさん、いいですよ」と言って断るが、おじさん、本気に僕たちに
みかんを取ってくるつもりだ。
「あっちのみかんが・・・」と、50m先ぐらいまで、わざわざ取りに行ってくれている。
まさかそこまでしてくれるとは思ってもいなかったのに・・・・しかし、ミカンも
食べて見たいと思っていたから、取って帰ってくるのを暫く待つ。
10個ほど両手に抱えて持ってきてくれた。
「わあ、すみません。こんなことをしてもらって」「作業中のところをお邪魔までして」と
申し訳ないやら、嬉しいやら。
うっちゃんと二人で、5個ほどずつ分ける。
さあ、またここから作業の邪魔をすることになるのだ。
みかんのことについて質問したら、おじさんが講義をしてくれたのだ。
 
おじさんの講義内容の要点は次のとおりだ。
 
「ここのミカン畑は、晩生だが、
ミカンには、早生、中生、晩生を種類がある。
ここから、上の方が古世層で、下の方が中世層である。
みかんは古世層がいい。
古世層で取れたみかんは、糖度もあり、酸味も残って美味いのだ、という。
中世層のものは。古世層より味が落ちる。
みかんは、水はそれほど必要ないのだ。
だから、山の傾斜地でいい。
平地のみかんは、水が多いから、糖度も少ないし、酸味も早い」、と。
 
みかんをくれたうえに、講義までしてくれる親切なおじさん。
手を伸ばしてみかんを取りたいと思っていた僕らの煩悩を
満たしてくれたおじさん。
これぞまさしく菩薩であるぞよ。
お礼を行って、別れる。
 
坂道を下っていくと、「夜泣松」の看板が立っていた。
看板だけで、松など跡形もないのだ。
 
 
 
この夜泣松を過ぎると、民家もそろそろ近いところに、「行者石」と呼ばれる石がある。
 
 
坂を下ったところに、「逆川(さかさがわ)王子社」がある。
 
 
 
この逆川王子社に着いたのが、11.08分である。ここからは湯浅駅をめがけて
歩くことになるのだ。
この逆川王子社の近くを逆川が流れている。この下の写真が逆川である。
草ぼうぼうとした中を細いところを水が流れている状況だ。
「逆川」と呼ばれた由来が書かれた看板が立てられている。
ここから西の方が湾であるのだから、東から低い西に向かって水が流れる
筈なのだが、ここの水は、西から東にむかっって流れているのだ。
 
 
ここからすぐに広い国道に出る。
そこには高校の美術部が描いたという熊野古道の絵が掲げられている。
絵を引き立たせようと思って、うっちゃんに横に立ってもらって、写真をパチリ!
さて、引き立ったのはどちらかな?
 
 
この国道を進むと、「弘法井戸」がある。
弘法大師が杖で地面を突いて水を湧かせたという井戸である。
覗いて見ると、水が1m位の深さまであり、底が見える。水は濁ってはいなかったが、
昔、旅人ののどを潤したという、有り難い井戸も、今は投げ入れられたミカンが数個腐って浮かんでいた。
 
 
この「弘法井戸」をちょっと過ぎたところが、「方津戸(ほうづと)峠」と呼ばれるところだ。
この祠の右手に、湯浅町の町並みが遠くに見える。
 
 
「瓦屋の辻」を過ぎると、いよいよ町並もにぎやかになる。
こんなカッパまで道案内をしてくれて、お出迎えだ。
 
 
古い町並みが残っている。
町中の細いメーンストリートが熊野古道である。
どんどん湯浅駅をめがけて歩く。
 
 
12時に湯浅駅に到着した。
昼食にしよう。
駅の構内のベンチで昼食する。
 
 
さあ、腹ごしらえも出来た。
出発だ!
12.30分である。
湯浅駅を出て、JR紀勢本線のガードをくぐって、
しばらく行くと、湯浅氏の菩提寺であったという勝楽(しょうらく)寺に着く。
 
 
このお寺の裏に、この地で生まれた
江戸時代の商人・紀伊国屋文左衛門の石碑が建てられている。
 
 次に着いたところが、「久米崎王子跡」である。
国道からわき道をちょっと中に入ったところにある。
 
 
 
ここを見終わる。
入って来た道をまっすぐ進む。坂道が続いている。
僕らは、てっきりこの道が熊野古道を思い込んで、どんどん坂道を登っていった。
ところが、坂の中腹近くに来たら、その道の先はミカン畑となった。
 
「あれ! 道がない! しまった!」
道を間違ってしまったらしい。
「どこで間違ってしまったのか!」と叫んでもあとの祭りだ。
「こんな急な坂を、もう10か15分も歩いて登ってきたのに!」と、
うっちゃんと二人でぼやく。
また下まで戻るとなると、ガクッと疲れを覚える感じだ。
 
二人して、道を間違ったことに、
「道路標識が不備だ」
「間違いやすい」
「必要と思われるところに標識がない」と
ぼやきながら、標識の不親切を嘆く。
また、久米崎王子跡まで戻る。
道路標識を再度確認する。どうしても分かり難い標識だ。
熊野古道は、どうも広い国道を歩くようだ。
 
とにかく国道を歩いて行こう。
「新広橋」というところまで歩いてくると、
「熊野古道」の小さな矢印表示が目に付く。
 
「熊野古道の標識があるぞ!」と。
やれやれと思う。
「こんなところに表示があっても分かり難い」と、
うっちゃんは、表示の位置まで文句をつけている。
僕も大いに同調する。
国道からそれて細い道の方向に指示がついているのだ。
 
歩いていくと、三叉路に出逢う。
標識がまったくない。
「どっちに行ったらいいんだ!」と、先ほど間違ってきたので、
声を出して、道路標識の不親切さをののしる。
「まあ、こっちの方向のようだ。誰かに聞いてみよう」と、
歩き始める。
聞こうと思う時には、なかなか人に出逢わないものだ。
やっと人に出逢う。
訊くと、ちょっと行き過ぎていた。
「ちょっと戻って橋を渡って・・・」と道を教えてくれた。
また戻るのか! 
疲れがどんどん増えてきているような感じだ。
それほど、とにかく道が分かり難いのだ。
他の人は間違いなく歩いているのだろうか!
 
「蟻の熊野詣」といわれて、江戸中期の享保元年(1716)には、
田辺の旅宿に泊まった参詣人は、6日間に4,776人、
1日800人というおびただしい人の数だったと、資料に載っている。
 
今日は、熊野古道を歩いている人には、これまで一人も会っていない。
僕らのように、熊野古道を歩く粋狂な人はいないのだろうか?
 
「おーい、うっちゃん、休もうや」と、
道路わきの石に腰を下ろして一服だ。
うっちゃんはタバコを取り出して、うまそうに一服だ。
僕は、親切なおじさんから貰ったみかんを取り出して食べる。
食べながら周りを見渡したら、ミカン畑の木の下だ。
手の届くところにみかんがなっている。
「みかん取って食べている、と間違われるね」と、
もらったみかんなのに食べるのに気がひける。
 
ところどころ「熊野古道」のちょうちんが軒先などに掲げられて
いるのを見ると、ホッとするのだ。
2、3回人に道を聞きながら、「井関王子跡」のところまで来る。
 
もう「井関王子跡」はどこにも見られない。この案内板で面影をしのぶだけだ。
井関地区の家並みを通っていくと、道路わきに昔の様子をしのぶ様子の絵が描かれていた。
この辺は宿場で、たくさんの宿屋があった様子が描かれている。
 
 
「何々旅籠跡」とたくさん表示がされている。
 
 
この辺は井関だ。時計を見ると2時になっている。
今日の予定では、ここからまだ相当あるのに・・・と思う。
今日は、22kmで、8時間かかるコースである。
完歩できるのか、心配になってきた。
あまりにも道を間違ったために時間をロスしてしまった。
精神的ダメージが大きい!
 
河瀬(ごのせ)橋の近くに、この「丹賀大権現社」がある。
井関王子と津兼王子がここに合祀されているのだ。
 
 
河瀬橋を渡って、「河瀬(ごのせ)王子跡」に、2.20分に着く。
 
 
とにかく急ごう。時間が気にかかるのだ。
これから鹿ヶ瀬(ししがせ)峠を越えなければならないのだ。
ここから なだらかな坂道となる。
「馬留(うまどめ)王子跡」に着く。
この「馬留王子跡」から、鹿ヶ瀬峠まで、2300mほどある。上り坂だ。
ここから、駕籠を降りて、牛馬に乗って越えた峠道だ、という。

 
 
時間が気になり、しきりに時計を見る。
とにかくどんどん道をまっすぐ歩いていく。
 
途中わき道もあるので、標識には二人とも十分注意する。
なかなか熊野古道の標識は見あたらないが、
真直ぐの道を進めばよさそうだ。
道が2つに分岐しているところに来た。
まったく同じような道で、どっちを行ったらいいのか分からない。
 
「何故道路標識がないのだ!」と、二人で文句をいう。
とにかく真直ぐの道を行ってみよう。
暫く行くと、ミカン畑だ。
道がないのだ!
「道がない! また間違った!」と
大声でうっちゃんに告げる。 
引き返し、別の道を行く。登り坂の道だ。
これも上に行くと、草薮に出て、道がない。
わき道も行ってみたが、行き止まりだ。
また間違った。
「とにかく分岐点まで戻ろう」。
 
分岐点まで戻って、どっかと腰を下ろして、
お茶を飲み、うっちゃんはタバコで一服。
タバコ中毒のうっちゃんは、おやつなど必要ない。
タバコがあれば腹が煙でいっぱいになるらしい。
これからの行動を考えることとする。
 
道を訊ねたいが、誰もいない。
犬もネコも一匹たりともいない。
犬がいたら、「こっちだ、ワンワン」と
吠えて教えてくれたであろうに。
 
時間は3時を回っている。
とにかくもう今日はこれ以上無理だ。
今日の予定の紀伊内原駅までは到底だめだ、と諦める。
しかし、今度のために、道を聞いておかねばならない。
下って地元の人に聞いてみよう。
結論は案外簡単に出せる。
 
さあ、戻ろう!
3、15分に下り始める。
戻りながら、途中のわき道が「熊野古道」かどうか、
確かめながら下りていく。
 
「河瀬王子跡」に近いところまで下りて来たところに、
「鹿ヶ瀬峠まで 2,030m」と書かれた標識が立っている。
この標識は登って行く時に、見ていたものだ。
「鹿ヶ瀬峠まで 2,030mだ」と言って、通り過ぎたのだ。
 
 
ここは下の写真のように、道路が分岐しているところである。
 
 
左へ道が分岐している。
僕らは、行くとき、手前の方から、真直ぐ進んで行ったのだ。
車の横に立っている先ほどの写真の標識を見ながらね。
 
左の道の50mほど先には、扉があり、扉が開いているのを見ている。
この道は、ミカン畑などへの作業道路だな、と思いながら見て通り過ぎた。
 
ところが、戻ってこの標識を下からよくよく見ると、
木の葉に隠れたところに、熊野古道への矢印が付いていたのだ。
標識の側に来て、下から覗きこまなければ分からないのだ。
「なんたることだ!」
 
木の枝を取り除いたら、初めてこんな矢印が見えるのだ。
下の写真は、左が木の葉を取っ払った写真である。
右が、肝心の矢印がぜんぜん見えなかった標識だ。
 
 
この熊野古道は最近は誰も歩かないのだろうか?
こんな状況では、初めての人は誰も間違うであろうに!
他の人は道を間違っても、僕らは道を間違う筈はない、という
少々傲慢な自信を持っての発言が飛び出すのだ。
 
左の道路を行かなければならなかったのだ。
ところが、左の道路の50m位先には、扉があるのだ。
扉は開いてはいたが・・・。
扉の側まで行ってみたら、
下のような写真と同じような扉と表示があるのだ。
<この写真は別のところのものだが、内容はこれと同じものだ>
 
 
これを分岐点から見れば、ミカン畑への作業道への扉としか見えないのだ。
「これでは、初めて熊野古道を歩く人は、みんな間違ってしまう!」と
言ってぼやく。
しかし、それでも、うっちゃんは大物だ!
記念に「笑った顔を記念に写してくれ」と言われて、
撮った写真が下のものだ。
心の中はどんな心か分からぬが・・・・。
 
 
みなさんは、この顔を何と見るかね。
僕には、笑おうとしたけど、どうも顔の頬が突っ張っているように見えるのだが・・・
彼は、昨日の夜、ラグビーの会合?かで、お酒を飲んで、今朝1時に寝たというのだ。
それで疲れ果てた顔か?
あまりにも道を間違ったので、精神的ダメージを受けたせいか?
推察はみなさんにお任せする。
 
河瀬橋まで戻って、ここからバスで湯浅駅まで帰ることにした。
4時にバス停に着く。
4.39分まで待って、5時に駅に着く。
5.07分で電車に乗る。
 
これで2日目の旅は終わることとしよう。
 
今日、歩いたところを赤線で示そう
残念ながら、予定の行程の6割ぐらいとなっていまった
 
 
お疲れさまでした。
 
      一 「「熊野古道歩こう」旅物語 第2日目 おわり 一
 
               
ご覧いただき有り難うございました  引き続きご覧ください