「熊野古道」旅物語   第3日目 
                  (2002/10/15)

 
初めに、「熊野古道」旅物語をご覧頂きましたところ、
次のようなご質問を頂きましたので、お応えしましょう。
 
ご質問は、
「○○王子」というところが沢山あるように 思いますが、
全て人の名前に由来するのですか、 教えて下さい」
とのことです。
資料よれば、
 
王子(社)というのは、
大阪の天満付近の窪津王子から始まり、
熊野までの道中に百ヶ所近くもあるのです。
「熊野九十九王子」と呼ばれるもので、
熊野三山の御子神、あるいは摂社である。
 
王子社では、参詣者によって奉幣や経供養の儀式、
里神楽、馴子舞を舞ったそうです。
一つ一つの王子社で、これら神に手向けた儀式を行い、
身を清め、熊野に向かったのでしょうか・・。
とある。(海南市、大上敬史氏の資料から)

 
第3日目 10/15
 
さあ、今日は、 第2日目に歩き残したコースを歩くのだ。
天王寺を9.12発と、いつもより遅い出発である。
湯浅駅に到着し、すぐ11.10分のバスで、河瀬橋まで乗る。
ここまでは2日目に歩いているからだ。
 
2日目に歩いた河瀬王子跡、東の馬留王子跡を通り過ぎる。
大阪・天満の窪津王子が、第1王子とされているが、この河瀬王子、
東の馬留王子は、第47、第48王子に当たるのだ。
 
僕らは、間違った分岐点まで辿り着く。
 
前方に見えるみかん畑への作業道の扉だと思われた扉を
通過して、この道をまっすぐに行けばいいのだ。
 
 
ここから鹿ヶ峠まで、1230mである。
 
この鹿ヶ瀬峠は、歌人・藤原定家を「次にまたシシセの山をよじ昇る、
崔嵬(さんかい)の肩嶮阻(けんそ)」と嘆かせた難所だという。
駕籠では上れず、牛馬に乗り換えてのぼったという峠だ、という。
 
コンクリート舗装のなだらかな坂道が続く。
標識もあり、はっきりしている。
 
歩きながら、僕は、うっちゃんに、
先日聞いた比叡山延暦寺長寿院住職・大阿闍梨(あじゃり)の
酒井雄哉(ゆうさい)師の千日回峰行(かいほうぎょう)のことを話題にする。
千日回峰行は、千日を七年かけて、一年を100日、200日単位にして、
一日40キロを歩くのである。
千日で地球一周したと同じ、4万キロを歩くというのだ。
僕が、「地球の半径はいくらだったかなあ」と、
地球の周囲が4万キロかどうか、確かめるために
うっちゃんに聞くと、彼は、
「学校で習ったな、35万キロで、地球を4周りするんじゃなかったかなあ」と、
光りが地球を何周するかというところから、
地球一周4万キロが正しいか証明しようというわけだ。
「光りの速さは、35万でなくて、30万だろう」と、
「7周りか、7.5かと思うが」とやり取りしながら、
30万キロで、7.5周だったら、ちょうど4万になるから、
7.5周ということに答えがなった。
なーんだ、二人で、4万キロを証明するより、7.5周の答えを導き出したようである。
 
僕は、人間が一日でどれくらいの距離を歩けるのだろう、というのに興味があるのだ。
先日、道頓堀に本社のあるお好み焼きの「千房(ちぼう)」の中井政嗣社長の話を聞いたら、
彼は、一日100kmウオーキングイベントに参加して歩いたというのだ。
「100kmを23時間42分かかって歩き通した」と。
この時、わあー!すごいな!と驚嘆したのだ。
僕は、精々一日40から50キロ位が限度だと思っていたからね。
 
登り坂から一呼吸いれて、眼下を見下ろせば、
バスを下りた河瀬橋の方面が一望だ。
 
 
今日は少し雲ってはいるが雨は降らないだろう。
夕方ごろには雨になりそうだが・・・
 
僕が、「12日に木曽駒ヶ岳に登ってきたが、素晴らしい天気でだった」
と、うっちゃんに言ったら、
うっちゃんは、
「それは、一人じゃないだろう」と。
「ツアーだ」といえば、
「それは他の人がいいからだ」と、ワッハッハと笑う。
 
僕以外はすべて晴男で、天気も多数決の原理に従うのだ、
という論法だ。
 
峠まで坂道の途中に、道路が扉で閉まったところに
出っくわす。
もうこの扉には騙されない。
堂々と開けて通ればいいのだ。

作業道路でもないところに、なぜ扉を設けて締めているかと
いえば、それは猪の通行防止のようである
 
 
道路はきれいに整備されている。
広川町が、「ふるさと環境整備事業」として、平成7年に造らったものだ。
 
峠のちょっと手前に、「法華壇」の石柱が立っている。
50mほど脇に入ったところに、「南無妙法蓮華経」と書かれた
石碑がある。
屍が経を読んだ、と言われているところだ。
 
 
12.30分に鹿ヶ瀬峠に着く。
この峠は、「難所の一つだった」と書かれているが、
「しんどいなぁ」というようなことはなく、
スーッと上ってきた感じがする。
ここは海抜354mである。
 
ちょっとした広場があり、ベンチもいくつか設けられて、
休憩場所になっている。
ここで昼食にする。
ここには、茶屋、旅籠があって賑わったというのだが、
今は、椎(しい)の大木が一本聳え立っている。
何百年も経っていると思われるこの大木が、昔の面影をとどめている。
 
 
 
 
僕の家の庭に植えてある柿の木に、
今年は実がだいぶなって、食べ頃になったので、
5個ほどもってきたのだ。
リンゴも一個ね。
食後にと、皮を剥こうと思ってナイフを捜すけど見あたらない。
たしかに、昨日準備しておいたのに!
なぜないのだろうか?と
再三リックの中を確かめるの出てこない。
うっちゃんに食べて貰おうと思ったのに・・・・。
どうもリックの側までナイフをもっていきながら、
リックに入れ忘れたらしい。
自分ながら、ボケ症状が進んでいるのかと、
前途暗澹たる思い。
登山やウオーキングに出かけるときには、
チェックリストで準備しているのだが、
「チェックリストでチェックしたのに」と言えば、
うっちゃんは、「チェックリストなんか役に立たない。
リックに入れたかどうかが問題だ」と、
ボケ症状をグサリと突き刺すのだ。
うっちゃん、食べたくとも食べられない。
うっちゃんは、リンゴ一個を皮ごと食べて
まあまあ満足しているようだ。
柿は持って帰って、食べてもらうことにした。
 
1時15分だ。さあ、出発しよう。
峠を下る道にこんな表示があった。
 
 
叫べば、コダマが返ってくるというのだ。
「ヤッホー!」と叫んでみようと思ったが、
なんだか恥ずかしい思いがして叫ばれず。
「おーい!」と一声叫んで?みたが、
何の反響も戻ってこなかった。
写真を撮っている間に、4、50m先を行くうっちゃんからも
なんの反響もないのだ。
どうもこの表示は間違いだ、と独りで結論づける。
「熊野古道」のちょうちんも一個だけ木にぶら下がっていた。
こんなのを見ると、なんとなく歩くのに潤いをもたせてくれる。
 
 
しばらくなだらかな坂道を下っていくと、石畳の道が続く。
これが熊野古道で現存する最長の石畳と言われている。
503mある、という。
石はうっすらと苔むしてみどり色している。
 
 
道の両側には、俳句同好会の書かれた句柱がかなりの数、立てられている。
 
 
石畳が終わるところに、「熊野古道散策公園滝ザクラ」の看板と狭い公園があり、
小さな桜の木が植えられている。
 
 
表示板に「三春滝ザクラ」と書いてあるので
「三春滝ザクラ」を資料で調べてみる
 
(「福島県の文化財−国指定文化財要録−」福島県教育委員会 1989)
 
エドヒガン系の紅枝垂桜(ベニシダレザクラ)で、大正11年に国の
天然記念物の指定を受けた名木(桜の巨木)で、日本三大桜の一つ
といわれており、岐阜県の淡墨桜とともに東西の横綱に位置づけら
れている。

樹齢は1,000年以上といわれ、樹高は12m、根回りは11m、枝張り
は幹から北へ4.6m、東へ10.7m、南へ13.9m、 西へ14.5mの巨木
という。

「ししのせ山にねたる夜鹿の声をききてうかれむ
妻のゆかりにせの山の名をたずねてや鹿もなくらむ」
という増基法師の「いぬほしの歌」よりという歌板もある。
 
 
ほぼ坂道を下り終わったところに「板碑」と呼ばれるものがある。
 
 
この辺を歩いていると、幹が黒っぽい細い竹が見られる。
なんと呼ばれる竹だろう。
家の裏山は竹林である。
家の庭先に切り取られた竹が見られる。
 
 
 
「金魚茶屋」の看板がある。
旅人を慰めるために金魚を飼っていた、というのだ。
民家はあっても、人の気配がまったくない。
小川が流れている。
「金魚がいないかなぁー」と言って、小川を覗きこむ。
うっちゃんが、「魚がいる!」
見ると10cmほどの小さな魚が、たくさん泳いであるのが見られた。
「あれはなんだ」といえば、
うっちゃんは、「ハヤだ」と即座に答える。
ほんまかいな?と思っても、釣りの先生、自信満々である。
 
 
 
川の側に立派な建物がひときわ目を引く。
何の施設だとう、とぐるりを回ってみるも、
どうも一般の住宅だと、建物を一回りして結論する。
この建物は大阪のど真ん中に持っていっても似合うようなものだ。
このひっそりとした山村では似合わない感じだ。
 
金魚茶屋を過ぎてから、ポツポツ雨が降り出してきた。
家の軒先でちょっと雨の止むのを待つ。
暫くしたら、雨も小止みとなったので、傘をさして歩き出す。
空は陽が照りだしているが、まだ小雨がポツポツあたっている。
うっちゃん、ここでも晴れ男自称論の片鱗を覗かせる。
「雨男にやられそうだ」という。
今まで晴れていたのが、急に雨になりだし、
陽が照っているのに、雨がまだポツポツあたるものだから、
こんな表現になるのだ。
 
程なく行くと、「伝馬所跡」の立て札がある。
なんて書いてあるのかな、とみれば、
「紀州藩祖徳川頼宣は領内の道路網の整備に力を入れ、
領内38ヶ所に伝馬所を置き、
各伝馬所には人夫、馬などを常備した。
郡内では原谷、小松原、印南、南部の四ヶ所におかれた」
とある。
 
 
ここまで歩いて来れば、
「沓掛王子跡」が、もうなければならないのだが、
それらしき標識が見あたらない。
資料で取り出して見ると、どうも通り過ぎているように思われるのだが・・・。
人に訊こうと持っても、人に出会わないのだ。
この「法華経塚遺跡」の側に来て、漸く竹作業をしているおじさんがいた。
「踏み掛け王子跡はどこですか?」と訊ねる。
「もうちょっと行ったところだ」という。まだ先だという。
ついでに、「この竹はなんというのですか」と訊く。
先ほど見てきた竹が、「黒竹」と呼ばれているのを初めて知る。
 
 
「日本一の黒竹」ちょうちんがぶら下がっていた。
ほおー! ここが日本一の黒竹の産地なのかと、初めて知る。
ここは日高町の原谷である。
 
 
おじさんの言われた通り、
行けどもそれらしきものは見あたらない。
聞こうと思っても人に会わないのだ。
ようやく奥さんがいた。訊いてみよう。
訊けば、「もうちょっと行ったところにあるのが、それでしょう」と
方向を指差してくれる。まだ先らしい。
 
それらしき祠がある。
「あった!」と側に行って見れば、
「爪かき地蔵さん」の看板である。
この土地の人にも、「沓掛王子跡」と訊いても分からないようだ。
もう忘れ去られているようである。
もう通り過ぎたようである。しようがない。
お地蔵さんにお詣りしていこう。
今日は、日高町の史跡めぐりでもしているようだ。
 
  
「紀州黒竹民芸品組合」という看板を掲げたところがある。
ちょっと覗いてみることにした。
おばあちゃんが二人仕事をしていた。
「靴のまま、どうぞ上がってみてください。どうぞ、どうぞ」と声をかけてくれる。
このなかには黒竹の民芸品が飾られている。
 


  
日高町は紀伊半島の西端、和歌山県の海岸線のほぼ中央に位置し、
温暖な気候と豊かな自然に恵まれた地域である。
 
「黒竹は、中国から古く渡来した「はちく」の変種で、茎ははじめは緑色で、
すべすべしていますが、2〜3年経つと黒く変色する珍しい竹である。
日高町の原谷地区は、全国でも数少ない黒竹の産地として知られ、
日高郡誌によると、明治初期には、すでに山林に黒竹が群生していいた」
と記されている。
黒竹は秋から冬にかけて切り出されます。枝を落として、太さや長さを揃え、
火であぶるといい艶が出てきて、同時に歪みも直すことが出来ます。
これらは主に建築用や園芸材、装飾材として全国に出荷されています。
このほか身近な材料として、箒やはたきの柄にも利用されている。
現在30人余りが花器や瓶敷き、色紙や短冊かけなどの民芸品や、土産物
づくりに取り組んでいる。
というのだ。
 
このすぐ側に、神社がある。
お詣りしていこう。
 
 
「何という神社だろう」と思って、
あちこち捜しても、どこにも神社の名前は書かれた石碑など、
どこにも見あたらない。
お詣りして、戻ってくると、さきほどのおばあちゃんがいたので、
訊ねてみる。
「ここは氏神さんで、原谷皇太神社というんですよ」と教えてくれる。
おばあちゃんが、「どこから来たかね」と、僕らに訊く。
「大阪と奈良から」と応えれば、
「休みの日はバスでツアーの人たちが神戸辺りからも来るんですよ。
にぎやかですよ」という。
僕らは、2日目も、今回の3日目も、熊野古道を歩いているのに、
歩いている人に、一人も会っていない。
こんなところへ来るツアーなんてあるのだろうか?と思う。
おばあちゃんに、「沓掛王子跡が、どこだかわからなかったんだが」と
訊けば、
「金魚茶屋を通ってきたでしょう。あそこからちょっと来たところの
道路の上の方にあるんだよ。今、道路の拡張工事をしているから
上の方にあがっている」というのだ。
僕らが、雨宿りしたところが、道路拡幅工事をしていたところだが、
雨がポツポツ降っていて、傘をさしていたから、
上の方を眺めることもなかった。
まさか、道路の上の方にあるとは、思いもよらなかったのだ。
「百年以上経つ昔からの金魚茶屋の古い建物が
あそこにあったでしょう」
と聞かれたが、
僕らは普通の民家だと思って気にかけず、
写真も撮らずに通り過ぎていまったのだ。
金魚茶屋のところにあった新しい建物は、
金魚茶屋の娘さんの新しい住居だ、というのだ。
おばあちゃんにお礼を言って別れる。
 
神社の前には、「四ツ石聖蹟地」の看板と石碑があった。
 
 
さあ、ここからは、「西の馬留王子跡」を目指して歩く。
 
この辺は田圃も畑も多い。
畑にサツマイモが植えてあったので、それを話題にする。
僕が、「家でサツマイモを煮て、オヤツ代わりに僕は食べて
いるよ」と言ったら、
うっちゃんが、
「サツマイモ、南京(かぼちゃ)、蛸を食べるのは女性だ」
という。
「何故だ」と訊けば、この3つは女性が好んで食べるものだという。
僕は、この3つとも大好きだ。
僕を、女性の仲間だ、と言わんばかりだ。
男だって、みんな好んで食べる筈だ。
彼の論拠は薄弱である。
サツマイモの茎を食べた子ども時分のことも話し合う。
「この頃は、葉を食べる品種のサツマイモが
開発されてきた」と、テレビで見たことを紹介する。

道中で、うっちゃんは、100円を拾う
御利益があったようで、喜んでいる
 
暫く行くと、「馬留王子跡」に着く。
時計は、3.10分である。
 
 
 
ここを後にして、暫く行くと、「光明寺」の看板が目につく。
ちょっと寄ってみる。
特に珍しいものはなかった。
 
 
さあ、今回、最後の、「内の畑王子跡」を目指して急ごう。
ここへは、あぜ道ようなほんとに細い道を歩かねばならない。
「今熊野神社」がある。まず神社にお参りしよう。
高い階段の上に、社殿があるのだ。
僕が、うっちゃんに、
「さっきお金拾ったお礼として、賽銭は100円あげなきゃだめだよ」
と言ったのだが、
うっちゃんは、ここでも10円お賽銭上げて、お願いしているのだ。
階段を下りる時、石段を数えたら、107段あった。
 
 
神社の側が、「内ノ畑王子社跡」である。
木の生い茂った下のところに、石碑がポツンと見える。
うちゃんが、僕の写真を撮るというので、一枚パチリ!
 
 
 
これで、今日の歩きを終わった。
16.25分に紀伊内原駅に着いた。
16.52分の電車に乗る。
これで第3日目も終わりだ。
どうも、お疲れさん!
 
 
 
             一 「熊野古道」旅物語 第3日目おわり 一
 
ご覧頂きありがとうございました。 引き続きご覧ください