「熊野古道」旅物語   第4日目 
                  (2002/10/30)

 
  10/30
 
この「熊野古道」旅物語も3日目を終わると、
道を歩いているのは、二人だけであるが、
お陰様で、この旅物語をお読み下さる方から
声援を送って下さる
 
足腰にちょっぴり疲れが出てきて、歩くのにちょっと不自由を覚え、
今は愛車のプリウス君に助けられて
あちこちと精力的に走り回っている愛称”いっそん”君からである。
「歩いて身体に汗をかくのは無理なので、自分は頭に汗をかく」
という彼が、次のようなことをメールしてくれた。
3日目に記載した「王子」のことについてである。
 
「王子」について、少し不明なところがあったので、百科事典で調べてみました。
 
以下はその調査結果の説明内容です。
 
「王子」というのは「王子信仰」のもとになっているもので、
「神が高貴な幼児になって現れるのを信仰する」ところから始まっている。
「熊野信仰」にとりいれられて「熊野詣」の多数の御子神を「熊野街道」の道中に
多数おまつりしたのが「九十九王子」として残っている。」
というのだ。
頭で熊野古道を一緒に歩いてくれるとは有り難いことだ。
  
「ナイフを用意しながらリュックに入れるのを忘れられた、とのことですが、
私も似たようなことが時々あります。やはりボケの症状が出始めたのでしょうかね。」
なんて、僕の嘆きを慰めてくれる便りを寄せてくれたのは
真面目一本槍の男の”保さん”である。

また、「これぞ熊野古道の真髄というところを歩く時は是非声をかけて下さい」
と、
この熊野古道歩きに飛び入り参加をしたいと
名乗りをあげたのが、
陽気な性格で他人に慕われている
愛称”渋ちゃん”である。

小山の”哲っちゃん”と呼ばれる彼は、
「紀伊内原は私の母親の里です。写真にある駅、懐かしいですねエ・・・
私のふるさとは、JRの駅でここから三つ目の「和佐」で降りて4KMにあります。
紀伊内原からどのルートを行くのか、次回が楽しみです。」
と故郷に懐かしい想いを馳せてくれているのである。
 
こんな声援を背中に受けて、4日目を歩くことにした。
 
まず、ルートを紹介しょう。
 
紀伊内原駅から印南駅までが今日の道程である。
平地ではあるが、22キロの長丁場である。
 
 
 
9.38分。
”哲ちゃん”のお母さんの故郷、紀伊内原駅に降りたのは
リックを担いだ僕ら二人だけである。
駅の東はまだ田圃や畑が広がるのどかなところだ。
 
さあ、歩こう!
今日は22キロも歩くんだからね。
車道がどうも熊野古道のようだ。
標識がないので、資料の大まかな地図が頼りだが、
歩く早々、この道でいいのかどうか不安ではある。
できるだけ早く地元の人をつかまえて訊くことにしよう。
漸くおじさんがいた。
道を訊けば「この道でいい」という。
 
今日はほとんど平坦な道・・・それも車道を歩くことになりそうだ。
車道の脇に「一里塚跡」の石碑がある。説明板がない。
 
 
沿道の塀にまだ朝顔が綺麗に咲いている。
 
 
畑には珍しい花が咲いている。
白い花だが、花のほかに、風船のようなものをつけているのだ。
触ってみるとふわふわだ。中は空気だけみたい? 
初めて見るものだ。 
なんという名前なのだろう?
 
 
地蔵さんが道案内をしてくれている。
”道を間違いないように! 車に気をつけて!”と、
地蔵さんに見送られて進む。
 
 
車道のガードレールにある標識を見る。
あれ! 「善童子(ぜんどうじ)王子」をめざして歩いているのに、通り過ぎたらしい。
赤い矢印→が歩いて来た後ろを指しているのだ。
 
「善童子王子」って、全然標識がなかったのに!
もう間違った。とにかく戻ることにしよう。
戻り始めると、女の人に会う。
訊けば、「すぐそこの、左に入ってところですよ」と教えてくれる。
道より50mほど入ったところに、看板が見えている。
 
 
この奥の林の中に鎮座されておられるのだ。
 
 
「恋伝説熊野古道熊野路」の看板がある。
これから僕らが歩く熊野古道の案内をしてくれている。
「恋伝説」とわざわざ銘打っているのは、「安珍・清姫物語」を意味しているのだ。
 
 
この辺は畑が多い。
うっちゃんも僕も野菜を作っているから、どんなものが植えられているか
よく観察している。
ただ黙々と歩いているだけではない。
自然観察も心掛けているのだ。
そら豆がもう大きくなって、花もつけている。
僕は、先日そら豆の種を撒いたばっかりだのに。
 
 
ビニールハウスでナスを作っているのを見る。
立派な枝ぶりだ。花をつけている。
ハウスから出てきたおばさんをつかまえて、ナス作りの勉強だ。
「もうナスの収穫が始まっている」という。
このナスはハウスの天上近くまで枝が伸びる、というのだ。
普通、ナスなんて50センチほどの高さだと思うのだが、背丈以上にもなるというのだ。
確かにナスの支柱も背丈ほどの長いものを使っている。
「わあー、すごいね!」と驚嘆する。
うっちゃんが、「ナスが一本の木から100個か200個だったか、採れる
と聞いたことがあるんだが、
どれくらいとれるんですか?」と質問する。
おばさん、「どれくらいかわからないが、来年、5−6月頃まで収穫するからね」という。
「わあー、すごいね!」と、またまた驚嘆する。
ナスなんて連作がダメだというのに、連作をしているというのだ。
そのために、接ぎ木をしているという。
「土台木はかぼちゃですか?」などとうっちゃんが質問したが、
この辺は企業秘密か「・・・・・」応えてくれなかった。
 
 
僕らは熊野古道を歩いて汗を流しているだけではないのだ。
「頭に汗をかいて勉強にも努めているのだよ」と、”いっそん”君に訴えたいね・・・・ハッハッハ。
勉強も終わったので、「愛徳山(あいちくさん)王子跡」を見よう。
 
車道から入ったこんな竹林の中の道を進んだ奥に、、「愛徳山王子跡」あった。
当時の古道の面影を偲ばせる?ような道である。
 
 
「愛徳山王子跡」は樹々に囲まれたところにひっそりとある。
 
 
僕らは、ここを見終わると、また車道に戻って、「道成(どうじょう)寺」を目指して歩く。
途中に、「吉田八幡神社」がある。
百段以上上った高いところに、本殿とその右側に、
春日大神、若宮大神、天満天神大神、住吉大神、その右端に金刀比羅宮が祀られている。
 
 
「吉田八幡神社」から500mほど行ったところが「道成寺」である。
僕は、2年ほど前に日の岬の国民宿舎に泊まり、
その後、この、「道成寺」を見学している。
うっちゃんは初めてである。
古くは能楽「鐘巻」「道成寺」、歌舞伎では「京鹿子娘道成寺」で有名な「道成寺」は、
大宝元年(701年)文武天皇勅願寺として、紀大臣道成卿が建立した寺で、
和歌山県下に現存するものでは最古の寺である、という。
石段を上り、赤い山門をくぐった正面に本堂がある。
 
 
本堂の右手に、三重塔が建っている。
 
 
三重塔の前に生えている木が、榁(むろ)の樹で、
ここに安珍と鐘とを埋めた、と伝えられているという。
樹の根元にこの看板が立てられている。
 
 
ここが「鐘巻の跡」と言われ、ここに鐘楼があったというのだ。
 
 
境内には「謡曲と道成寺」の看板が立てられている。
 
 
ここで、ご存知の方も多いと思うのだが、「安珍・清姫」物語を記載しておこうと思う。
 
昔昔、熊野権現へ参詣に来た男前の旅の僧 安珍が、
紀伊の国牟婁群 眞砂の庄司の家に一泊させてもらうことになった。
その家の娘 清姫が、安珍に恋をし夜半に寝床まで行って積極的に迫った。
驚いた安珍は「修行中の身なので、熊野からの帰りにはもう一度ここに寄るので、
それまで待って欲しい」と
その場は免れた。
数日後、破戒を恐れた安珍は清姫のもとを素通りし、逃げました。
それを知った清姫は後を追いかけたのです。
そのうち、上野というところで追いついて、
「安珍か?」 と聞いたのだが、
「人違いです」と安珍に返答され激怒した。
そこから追いつ追われつで日高川まで来ました。
その時清姫の姿は蛇体へと変わってしまっており、
その蛇体のまま日高川を渡って安珍を追い続けます。
そのころ安珍は、ここ道成寺に逃げ込み寺僧の助けで鐘の中に身を隠した。
そうするうちに清姫も道成寺にやって来た。
その姿は完全に大蛇と化していた。
安珍の隠れた鐘を見つけた清姫は、その鐘に巻き付き、
炎をはいて鐘もろとも焼き払ってしまった。
その後清姫は、蛇体のまま入水して果てた。
その後住持は二人が邪道で結ばれた夢を見た。
法華経を写し観音様に供養したところ、立派に昇天できたと夢枕にお礼に来たと云う。
 
こういう昔むかしの物語なのだ。
 
バスツアーで三台ほど大型バスが来ている。
たくさんの観光客に出会うのは、僕らの旅もこれが初めてではなかろうか。
 
こんなところで、能楽や歌舞伎の「安珍・清姫」の夢物語を見ているわけにいかないのだ。
今日の道程は長い。
歩こう! 歩こう!
 
「海士(あま)王子跡」に着く。
海士王子は道成寺の本尊を担ぎあげた海士王子を祀る、と言われている。
お詣りして、「岩内王子跡」に向かって出発する。
 
 
その途中に、「湯川子安神社」ある。
寄ってお詣りしていこう。
 
 
境内に、樹齢千年と推定される大木がある。
 
 
説明板、「樟」と書かれている。この読み方が分からないのだ。
うっちゃんが、「京阪に「樟」の付く駅があるのだがなあ・・・」と
盛んに思い出そうするのであるが、とっさに出てこない。
僕も同様に京阪の駅にあるのは分かっているのだが、どうしても出てこないのだ。
うっちゃんは、「この道中の間に思い出す」というのだ。
さあ、思い出すのに何時間かかるでしょうか?
時計を見れば、11.50分である。
歩くより、昼飯が先だ!
ちょうどベンチのある。
うっちゃんは愛妻の作ってくれたお弁当を美味しそうに食べている。
僕は、娘の作ってくれた弁当を食べる。
今日は、家の庭の柿を4個持ってきた。
今度はナイフを忘れていないぞ!
うっちゃんは、「前の柿より、今日の柿が甘味があって美味い」
と言って食べている。
食べ終わって満足! 満足!
  
長めの昼食になってしまった
12.35分に出立する
 
昼食を食べながら、僕は、10/19に、
弁護士の中坊公平氏の
「金ではなく鉄としてー私の生い立ちからー」という
講演を聞いた。
その内容をかいつまんで、うっちゃんに話する。
 
ちょっと面白かったのでここで紹介しよう。
中坊公平の子ども時分の話を聞いて、
「へエー!」とビックリした。
あまりにも僕が描いていたイメージと食い違っていたからだ。
 
「金ではなく鉄として」と題して、朝日新聞に、
2000年7月24日から翌年12月31日までの一年半、
家庭欄に連載された、というのだ。
僕は、読売新聞派なので読んでいなかった。
 
小学校の成績は、甲は作文と、たまにもう一つくらい。
あとは乙と丙が半々だった。
元小学校の教員夫婦の子どもだ。
父親は校長排斥運動で教員を辞めて、その後弁護士となる。
担任の先生が、あるとき父に「息子さんの成績があまりにもひどい。
ご両親とも小学校の先生だったのだから、
少しは家で勉強を見てやられてはどうですか」と忠告した。
そのとき父は、
「残念ながらウチの子は「金」ではない。
勉強でもほかのことでも人より劣る。
それでも、親が見てやれば、一応の格好はつけられるだろう。
でも、それは鉄に金メッキするようなものだ。
メッキはいずれ、はがれる時がくる。
それこそ本当に当人にとって悲劇だ。
それより、鉄は鉄として、メッキせずにどう生きていけるのか、
それをもがいて探させた方がいい。
今は当人にとってキツくても、人生の出発点にこそ、
自分はしょせん鉄なんだと、身に染みてわからせた方がいいー」と。

私はとうとう金にはならなかった。
できなかったら努力して、できるようになっていくのが本筋だろうが、
人間、それが可能な人ばかりではないのだ。
そういう者はダメなのか? 
そうじゃない。世の中には間道だってある。
ただ、間道は多数の人が行く道ではないから、自分で探せなくてはならない。
それぞれが自分の道を求めていくことが、「自立」なのではないか。
そのためには、弱く、みすぼらしい自分の現実を直視することが必要で、
「それこそ教育の第一歩」というのが、父の考えだったと思う。

実際に、虚弱で、友達と遊べず、勉強もできない、だけでなく、
基本的な生活面でも私はあかんかった。
高学年になっても靴のひもが結べない。
ご飯なんかをぽろぽろこぼして、しじゅう服の襟元を汚していた。
16歳まで寝小便をたれていた。
 
勉強でいえば、二と四になるべき答えは、「三でも、だいたい合うとる」。
「珍」という字のヒゲは「二本でも三本でも、似たようなもんやったらエエのやろ」という具合だ。
旧制中学入試で、自分は多数派の合格組に入るものと思っていた。
四人に三人は合格なのに、この3/4ではなく、1/4のなかだった。
母は、「あんたが落ちたんは、軍人を育てようという時代のせいや」と言ってくれた。
子どもの私から見たって、そんなんは全然、理由になってへん、のだ。
あの親の心根を、私は「絶対的な受容」だと思う。
よい子だったら、成績が良かったら、よく頑張ったら・・・私もあなたを大切に思うという、
何かの評価を伴った「条件付き」ではない。
絶対的な受容は、人の心の底に「自分は守られている」という基本的な信頼感をはぐくむ。
 
旧制の第三高等学校の受験にも失敗した。
 
戦後の苦しい日々の夕暮れのことだ。
一日の農作業を終えて、私は父と家路についた。
その父が、ふと立ち止まった。私たちの前を、家族連れが帰って行く。
その日の収穫と子どもたちをリヤカーに乗せ、お父さんが引き、後ろからお母さんが押し、
クワを担いだおじさんが付き添っている。引き込まれるようにそれを見つめていた父が、突然、
「公平、幸せっちゅうのは、こんなもんかもしれんな」とつぶやいた。
その晩になって、私が幼いころから母が口ずさんでいた詩が胸に浮かび上がり、
私に目を開かせてくれた。それは「山のあなた」という詩であった。
 
     山のあなた
 
     山のあなたの遠く
     「幸」住むとひとのいふ
     噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
     涙さしぐみ、かへりきぬ。
     山のあなたになほ遠く
     「幸(さいわい)」住むと人のいふ。
    (カール・ブッセ作、上田敏訳

     (註) 尋めゆきて・・・たずね行く さしぐむ・・・涙ぐむ
 
幸せは彼方にあると聞き、求めて行ったが、むなしく泣いて帰った。
それでもなお遠くに幸せはある、と人は言う。
そういう嘆きだが、しかし、その謎が解けた。
幸せは彼方にあるのではなく、人が気づこうが気づくまいが、
実は日々の暮らしに、何げなく添うておるのやないか。
母も自分にそう言い聞かせていたんではないか。
 
親友の言、
「公平さん、つかむな、放せよ」・・・執着すると多くの場合失い、
そこから自由でいると、不思議に結果としてついてくる。
 
また曰く、
「人と人との間の垣根は、「ある」と思うところに実際、出来てくるのやで」。
 
結婚に反対していた父親が亡くなる前に、入院していたベッドから、義父母に、
「あなた方の娘さんは、ウチの公平にとって二人とない、日本一の嫁さんです。
ありがとうございました」。そうして、頭を下げた、と。
 
自分はイレギュラーな人間の考え方をしてきた。
例えば、景気が悪いと、「いかにするか? どうするか?」と考えるのが普通である。
これを「How文化」と呼ぶ。
イレギュラーな人間は、「何故こうなったか?」と考える。
これを「Why文化」と呼ぶ。自分はこの考え方でやってきた。

イレギュラーな人間の行動の仕方は、「着手先行型を排して理念先行型だ」
着手先行型というのは、まず原因を除去しようとすることだが、
そうではなく理念をもたなかったら、改革は生まれてこない。
弁護士になりたての頃、仕事が全然こなかった時、
町工場の再建を頼まれたことがある。
現場に入り込んで見たら、芯だしが悪くて不良品を作っていたのだ。
自分が三菱で身につけた技術をもっていたので、自分でクレーンを
動かし、芯だしのやり方を教えたら、現場の人たちもついてきてくれるようになった。
そして、再建できたし、弁護士としての仕事がまわってくるようになった。
現場に神が宿っている。生きる手だてを知った。
現実に現場へいって現物を手にとって、初めて神の発見ができる。
ここから、神に従い作戦をつくり実行していけばよい。
現場の体験でこそ、説得ができるのだ。
 
京都の丸和百貨の新幹線工事差止め事件の実力行使など
などなまなましくしゃべられていたが、
長くなるので、この辺で止めよう。
 
10分ほど歩くと日高川にかかる野口新橋に着く。
この橋は相当なが〜い。
清姫が蛇の姿となって川を渡り、安珍を追ったというところである。
「安珍は便船の舟渡しに清姫を乗せないよう頼み、カネで解決しようとして
最後は鐘で失敗をする」と、道成寺縁起に書かれているという。
なかなか今の世の風潮を言い表して妙である。
昔からカネは身を滅ぼすもとだったようである。
 
 
橋を渡ってから少し行って右に曲がるように地図には書かれているんだが、
「熊野古道」の標識が全然見あたらない。
まあこの日高川と並行して歩けば、方向は間違いないのだ。
とにかく地元の人に訊いてみようと思うのだが、なかなか人にも出会わず。
ようやく集落に入ったところで、おばあちゃんをつかまえて訊く。
おばあちゃんは、「ここの道をまっすぐ行けば、
ちょっと先に郵便局があるから、そこでもう一度訊いて」という。
まあこの道を行けばいいことは分かった。
 
おばあちゃんが、「もうちょっと」と言ってくれたのだが、相当歩いてから
やっと郵便局を見つけた。
郵便局で、「岩内(いわうち)王子」を尋ねる必要もなさそうだ。
なあ〜んだ、「岩内王子」は郵便局のすぐ側にあったのだ。
 
 
道端に野菜やミカンが置いてある無人売り場がある。
普通一袋100円とか200円と表示があるものだが、ここはそんな表示がないのだ。
ミカンを歩きながら食べたいので1袋買うことにする。
缶の中に100円玉をポトリ!
100円は買い手の僕が決めた値段だ。
 
うっちゃんが、僕に、「鳥を飼ったことがあるか?」と訊いてくる。
僕は、「ない」と応えれば、
うっちゃんが、メジロの飼い方を説明してくれるのだ。
「餌は、”小糠” ”ハコベ” ”じゃこ”」だ。ハコベは擦ってジュースのようにして、
じゃこは煎って擦って、これを混ぜて食べさせるので、手間がかかるのだ」と、
小学校で飼った経験談をしてくれるのだ。
 
「しんことのはし」と書かれた橋のふもとまでくる。
下の写真の川に横たわる円形状のものご存知かな?
さすが、うっちゃんだ。大きな声で、「あれ、ファブリダムだ!」
まだ退職して間もないうっちゃんにして見れば、懐かしさもこみ上げてくるようである。
この側にある局舎の壁に紛れもなく製造社の名が書かれた銘板が貼り付けられている。
 
 
歩いていると家の庭先にそら豆のようなバカでっかいものを見つけた。
初めてみるものである。
なんという名だろう?
大きさをタバコの箱で比較してみることにした。
これで大きさがお分かりかな。
 
 
これは何という名前か訊いてみようと好奇心いっぱい。
通りのおばさんをつかまえて訊く。
おばさんもはっきり名前を知らないのだ。
そのおばさんは、バイクで走ってきたおじさんをつかまえて、
「あそこの中村さんのこと・・・大きいあれなんだっけ」と、
「あれ」では分からないので、
僕がデジカメの写真を見せて、教えてもらうことにした。
「ああ、あれは”なた豆”というんや」という。
ここからまた僕らの勉強が始まるのだ。
「食べられるんですか?」「どうやって食べるんですか?」と
質問するのである。
学校ではあまり先生に質問しなかったのだが、
こういう実学ではポンポンと質問も出てくる優秀な生徒である。
糠味噌に漬けて食べられるというのだ。
このバイクのおじさん、釣り道具を手に持っている。
「何が釣れたんですか?」と、豆から魚に質問が飛ぶ。
アジが釣れたいう。
 
うっちゃんは先日、須磨に釣りに、釣り場代1,200円だして出かけている。
小アジを釣りに出かけたのだが、さっぱり駄目だったという。
釣りの大先生???も、魚が一匹もいなかったら釣れないからね。
アジは回遊してくるというのだ。
回遊してくればパッパッパッと数匹が一遍に引っかかるらしい。
仕掛けもそうなっているようだ。
回遊してくればパッパッパッと釣れるのであれば、大先生に負けないぐらい
僕だって簡単にドンドン釣れると思う。
大先生を傷つけてはならないから聞き役に回っているのだが・・・
結局、仕掛けを変えて、コダイを一匹釣って帰って、刺身にして食べたというのだ。
愛する奥さんに一切れだけやって・・・・あとぜ〜んぶ自分で食べたというのだ。
 
「塩屋王子神社」に着いた。
塩屋王子は、この地で製塩を始めた際、その発展を祈って小祠を祀ったのが
始まりとされる。祈願すると美人の子が授かるといわれ、「美人王子」とも
呼ばれている。
二人とも、「美人の子を授けてください」と祈願する歳ではもうないからね・・・
うっちゃんは何を祈願したのだろうか。
 
 
 
後鳥羽院が熊野落ちするとき、この神社に忍んで一泊されたところというので、
「御所ノ芝」と名付けられている、という。
 
 
 
この境内におおきな楠の木がある。看板を見ると、200年以上のものだ。
 
 
 
この辺から、国道42号線に並行して熊野古道がある。
この辺りに来て、家の屋根の瓦を見ると、
僕の家の周りでは見かけない瓦が使われている。
どの家もほとんど同じ形状の瓦である。
 
 
鬼瓦ならぬ、これなんだっけ?・・・が釣竿を垂れた精巧な瓦が
屋根の天辺にのっかっているのが見られる。
 
  
「祓井戸(はらいど)由来伝説」の看板がある。
何らかの跡があるのかと見渡して見るも、遺跡はなにもない。
「祓井戸の浜辺に浅い井戸がある。昔、神功皇后が三韓遠征から帰りに紀州に立ち寄ったが、その時、
この井戸水でお祓いしたので、お祓い井戸が祓井戸の名になったというのだ。
 
 
海辺の側を歩くので、ときどき海が眺められる。
御坊市に入っている。関電の御坊発電所を通りすぎた地点だ。
遠くに淡路島と四国がうっすらと見れる。
<この写真ではわからないですけどね>
 
 
上野集落である。国道42号線の道脇に「仏井戸」と呼ばれる井戸がある。
地元では、火事で熱い思いをさせないために井戸の底に仏さんを沈めた、
と伝えているという。
阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩の三尊像を刻んだ一枚岩が、
井戸北側の底に据えられている、というのだ。
覗いてみれば、井戸の中に、4−5段の石段があり、2mほど下には水がある。
暗くて、仏さんは水の中だろうか、一所懸命探してみるも分からなかった。
 
 
今度は、「上野王子跡」に向かって歩く。
突然、うっちゃんが、「あれは”くず”と読むんだ」と言う。
昼の湯川子安神社の境内にあった大きな樹、「樟」の読み方を思い出したのだ。
ちょうど4時である。
あれから4時間かかって思い出したのだ。
「そうだ。樟葉(くずは)という駅があった」と、僕もやっと思い出したのだ。
お互いに60過ぎると、記憶装置も老化してきているのか、
ネットワークが、断線していたのがひよっと繋がって、記憶を呼び起こしてくれるのだ。
 
ここでちょっと付け加えておこう。
この旅から帰った翌日の昼に、僕の家に電話があった。
誰だろうと思って出てみると、うっちゃんからだ。
「昨日はどうも」とお礼の後で、
「”くず” でなく ”くすのき” と読むんだ」と言うのだ。
「樟」の読み方についてだ。
「昨日の晩寝られなかった」という。
僕に連絡せねばと思って、やきもきしていたらしい。
彼らしいところだ。
「辞書を引いて調べたのか?」と問えば、
「そうだ。一字で、”くすのき”と読む」と
わざわざ電話してきてくれた。
”くすのき”は、「楠」とも、「樟」とも書く。
 
京大の総長をされていた平澤興(こう)(明治33年ー平成元年:神経解剖学者。
元京大学長)先生が亡くなってから出された語録の中に、
「人間によってちょっと違うけども、70歳から、或いは、72歳、75歳、それから後の
10年間。だから80、82、85。その十年間というのが、著しく成長する」
というようなことが書いてあるというのだ。
脳外科の先生だからまあそんなにいい加減なことは言っていないと思うわけだ。
 
ということは、僕らはまだ60をちょっと越えたところだから、
大いに成長期にあるということだ。
悩む必要は全然ないのだ。
こんな「熊野古道」歩きをしているんだが、
衰えるどころが、脳みそを活性化???しているんだから、
まあ当分大丈夫だとうと、自分で元気づけているのだ。
 
「上野王子跡」に着いたのが、4.10分である。
そろそろ薄暗くなり始めているのだが、まだ先は遠い。
どうも5時半か6時近くになりそうだ。
予定より遅くなることを覚悟する。
昼食後、歩き出してから全然休憩としては、時間をとっていない。歩き詰めである。
 
 
ほどなく行くと、イカをを干してあるような光景に出会う。
これなんでしょうか? おわかりかな?
分かった人は手を挙げてください!
答えは、「??????」。
正解者は皆無でしょう。
答えはいくら考えても分かる筈がないのだ。
答えは訊くに限る。
作業しているおじさんに、「これはなんですか?」
「あ、これは”うつぼ”だ」
「どうして食べるんですか?」と向学心旺盛だ。
「2−3日干して、乾いたのは、あげて、醤油に砂糖で食べる。
少し生のものは焼いて、醤油に砂糖で食べる」というのだ。
 
 
今日の最後の「津井王子跡」に着いたのは、ちょうど5時だった。
この「津井王子」は、「叶(かのう)王子」とも言われ、「おかのっさん」と呼ばれ、親しまれ、
願いごとが叶えられると信仰されているというのだ。
境内はもう薄暗い。石碑がよく分からぬほどだ。
 
 
 
この後は、印南駅まで歩くだけだ。
国道をテクテク歩いて、駅に着いた時には、5.35分だった。
お疲れさん! お疲れさん!
 
6.10分まで待って、電車に乗る。
電車の中で、ぐっすり寝ていくことにしよう。
 
    ― 「熊野古道」旅物語 第4日目 おわり ―
 
 
ご覧いただき有り難うございました  引き続きご覧ください