「熊野古道」旅物語 ― 小辺路コース―
               (2003/10/6/10/9)


高野山から本宮までの「熊野古道小辺路コース」の旅である。
一緒に歩く相棒は、中辺路コースを歩いた”うっちゃん”である。
「中辺路コースを歩き終えたら、今度は高野山から熊野本宮まで歩こう」と、
中辺路を歩いているときから、うっちゃんと話し合っていたのだ。

当初、9月に入ったら歩こうと計画したのだが、
うっちゃんの指導する子どものラグビーチームの試合があり、
10/6〜10/9に決行することになった。

計画の概要は次の通りである。
第一日目 高野山三昧院→大滝集落→大股。野迫川(のせがわ)村大股 津田旅館泊まり。約6時間
第二日目 大股→檜峠→伯母岳→三浦口→三浦峠→西中大谷橋→西中大谷。 約11時間。 十津川温泉 ホテル昴(すばる)泊まり
第三日目 十津川温泉柳本橋→八木尾。 約9キロ 約4.30分。 湯の峯温泉 湯の峯荘泊まり
第四日目 湯の峯温泉→(奈良交通バス)→近鉄八木駅

熊野古道の小辺路って、どこを通っているのだろうか?
疑問にお応えして、まず、地図でお示ししましょう。

高野山から本宮に向かって山岳地帯を一直線に縦断する峠越えの
黄色の線がほぼ小辺路コースである。
熊野への最短コースである。資料によれば、72kmあるという。
西国三十三ヶ寺霊場の参詣道としてかなり早くから成立していたルートだといわれる。


この計画で一番問題になるのが、二日目の行程である。
大股から西中大谷まで、 約11時間の強行軍である。
昔は三浦口に、玉屋という民宿があり、宿泊出来たのだが、
電話してみると、「今は廃業している。どうしてもというのならば
自炊であれば、泊めてやることもできる」というのである。

うっちゃんとも相談の結果、
大股を5時位にスタートすれば、西中に夕方5時位に着けるだろう。
10月に入れば、夕方5時になれば薄暗くなってくる。
明るいうちに是非着きたい、と思う。
西中大谷に着いても、そこにはホテルや民宿がないのだ。
十津川温泉まで行かなければ宿がない。

十津川温泉のホテル昴(すばる)に泊まることに決め、予約する。
ホテルの人に尋ねれば、「西中から十津川温泉まで二時間近くかかる」というのだ。
「西中大谷には5時頃着く予定である。車で迎えはお願いできるのか?」と訊けば、
ホテルでは、「西中大谷に着いたら、公衆電話があるから、電話してくれたら、車で迎えに行く」
と言ってくれる。
ホテル昴と事前打ち合わせをしておいた。

万一、歩いてみて、西中まで無理な場合には、三浦口の玉屋に頼み
素泊まりだけでもお願いしよう、と心づもりをする。
「そのための一日分の非常食としてラーメンかパンを用意するように」と、
うっちゃんに連絡する。
また西中到着が予定時間の5時より遅くなる場合もあり得るので、
必ず懐中電灯またはヘッドランプを用意することを打ち合わせておく。

下のルートの起伏図は、十津川温泉のホテル昴に着いて、貰ったものである。
十津川村が発行した村の紹介資料の中にあるものだ。
当初の計画段階では平面ルート地図しかなく、
伯母子峠という1334mの高い山を越えて行くことは分かっていたが、
三浦口に着いてから、さらに三浦峠を越えて行くのだが、
標高が1140mもあるとは思ってもいなかったのである
事前に資料を読んで調べたのだが・・・・・十分ではなかった、と反省する。

                                          (十津川村資料より)
この辺で第一日目の旅を歩き始めよう。

  第一日目(10/6)

5.20分に家を出て、南海難波駅に向かう。
うっちゃんと落ち合い、6.58分発の電車に乗る。
7.44分橋本駅着→乗り換えて、8.44分ケーブルカーで高野山駅に着く。
8.50分のバスで、9時に千手院橋バス停に着く。
ここから歩くのである。
雨が降っている。

第一日目の行程は次の通り

                     (十津川村資料より)

  (この十津川村の資料では、高野山〜大股まで、距離が19.3km、所要時間 約9時間と記載されている)


雨具を着て、傘をさして、金剛三昧院への参道を歩き始める。


金剛三昧院の境内に入り込み、
歩き始めて、早々から、「間違った!」と
山門に引き返す。
最初から方向を間違ってはいかん、と
通りすがりの人に確かめて歩き出す。
山門の前から、右手に緩やかな坂道がある。
これが熊野古道だという。



坂道を登り切ったところが、「ろくろ峠」を呼ばれるところらしい。
道路標識がある。
ここに「大滝口女人堂跡」の看板が立てられている。
女人堂は女人禁制であった高野山の入り口に設けられた女性のための
籠もり堂で、女性たちは、七つの女人堂をつなぐ女人結界線から
高野山内の諸堂を遙拝した、といわれている、という。

  

林道から靄の立ちのぼる素晴らしい景色が見られる。


古道は大滝に向かってどんどん下っている。
この道沿えには「熊野参詣道(小辺路)保存修理工事 第22工区」という
表示板が目につく。
熊野古道は、2004/6月に、世界遺産登録を目指していると聞く。
その一環の道路整備事業である。


下りきったところに川が流れている。
これが御殿川(おどがわ)で、架かる橋を渡ると今度は登りである。
登って行くと、車道に出る。
高野山龍神スカイラインらしい。大滝集落がある。
スカイラインを暫く歩くと、「小辺路(熊野古道)略図」の看板がある。
うっちゃんの記念写真を撮る。
小雨が降り続いている。
雨なのでなかなか楽しい笑顔になれないのだ。


昼食は、雨がまだボツボツ降っているが
木の葉の茂った下で、雨にあたらないようなところを
見付けて昼食する。
雨がポツンポツンとしたたり落ちてくるのを、我慢しながら・・・・・

大股の津田旅館に着いたのは15時である。
  

今日は我々だけかと思ったが、もう一人お客さんがあるのだ、という。

遅れて4時に、もう一人のお客さんが到着する。
年輩だ。歳を訊けば、「76歳だ」という。
「この歳になれば、一緒に歩いてくれる友だちがいないので、
一人で歩いているんだ」という。

雨の中を歩いて来たので、何よりも風呂に入りたかった。
しばらくして風呂に入って、5時に夕食。
鍋料理であった。
鹿の刺身がでる。鹿の刺身なんて初めてである。
レバーに近い色をしている。
食べてみると、柔らかくて美味しい。
うっちゃんは以前に大台の方で鹿の刺身を食べたらしいが
いい思い出がなくて、食べないで残している。

宿のおばあちゃんが、うっちゃんの歳を76歳という。
僕はうっちゃんより一つ若い75だというのだ。
僕は、うっちゃんより10歳は若く見られてしかるべきだと思っているのに、
たった一つ違いとは何たることだ。
歳も「60歳ぐらい」と云われるだろうと思ったのに
75歳とは何たることだ、と思う。

明日の西中までの行程について訊けば
10〜11時間かかるだとう、という。
明朝5時出発することに決め、
朝食は4.30分とし、昼の弁当の用意を頼む。
7時に寝る。


   二日目(10/7)

朝3時に起床。
4.20分朝食。
5時に出発する。
夜中に目を覚ました時に、雨の音がしている。
「困ったなあ、朝には止んでいてくれればいいが」と、
思ったのだが・・・・・朝起きて、おばあちゃんに訊けば、
「あれは池の水音だ」という。
「鯉を飼っているので、水を流し込んでいる音だ」というのだ。
ああ、よかった。

今日の行程は次の通りである
大股から十津川温泉の手前の西中までである。


十津川村の資料によれば、
大股〜三浦口までの距離 16km 所要時間 約9時間
三浦口〜西中までの距離 11.9km (所要時間 十津川温泉まで約10時間)

従って、この資料では29.7km歩くことになるのだ。











                     (十津川村資料より)

外は真っ暗で、ヘッドランプを点けてのスタートである。
うっちゃんは懐中電灯を点けて。
旅館のそばから、すぐ熊野古道への登り道が続く。
5.30頃になって、漸く明るくなってきた。
道中からの朝靄の景色が素晴らしい。


伯母子岳(1,344m)に9頃到着。山頂からの眺望である。


僕の持ってきたレモンを囓りながら、しばし休憩する。
うっちゃんの今朝の顔はすがすがしい。
気分が良さそうである。


山頂からグルッと見渡して、写真を撮る。
ここから夏虫山、果無山脈、護摩壇、山上ケ岳など眺められるというのであるが
僕は、どれが何という山か、名前がさっぱり分からない。


9.20分、さあ、出発だ!
山頂から下る坂道には、今朝、通った猪の足跡だろう、
クッキリとあちこちにある。
山頂から10分ほど下りると、
山の家(無人)がある。

  

さらに進むと、弘法大師座像が見られる。掌を合わせる。


五百瀬というところにくると、
平維盛(これもり)の墓」「腰抜田(こそぬけた)」という看板が立っている。
平維盛の墓」には、
「平安時代末期の武将で平清盛の孫・源平合戦の最中、
屋島から逃れ高野山に入り出家。まもなく那智の海で入水したといわれている(享年27歳)。
しかし、十津川村に残る伝承によれば、「維盛は五百瀬に亡命し、その血統は代々小松性を
名乗り、平家重代の宝刀小鳥丸を伝え、屋敷は政所屋敷といった」とある
ここにある祠が、平維盛の墓と伝えられている

と書かれている。
『平家物語』には、「平家絶ゆ」と記されtいるというのだが、
ここ五百瀬は平維盛が姓を小松と改めて住んだと伝えられるところだ。
また大股近くの平(たいら)の集落には、維盛終焉の地として、
維盛塚が建立されている、という。

腰抜田」には、
南北朝の頃、五百瀬を通ろうとした大塔宮護良親王は、五癪瀬の荘司に行く手をさえぎられ、
止むなく錦の御旗を渡し通行を許された。
遅れてきた宮の家来村上義光は大いに怒り、荘司の家来を水田に投げ飛ばし、
御旗を奪い返す。その時家来が腰を抜かしたので、その田を腰抜田というようになったが、
明治の大水害で埋没し、今は川底にねむっている。(50米 下手に石碑があります)


と書かれている。


こちらの「腰抜田」の看板には、
南北朝の頃、大塔宮護良親王は北朝方の手を逃れ、一時十津川郷に難を避けられ
五百瀬を通過されようとした時、五百瀬の荘司に行手をさえぎられた。
荘司は宮の通行を認める代わりに、「家来か御旗を置いていけ」と要求した。
宮は大事な家来を置いていくわけにはいかないと、止むなく錦の御旗を置いて
通行を許された。暫くして、宮の一行に遅れた家来村上彦四郎が荘司の館を通りかかり、
錦の御旗のあるのを見付け、大いに怒り、荘司の家来を水田の中に投げとばし、
錦の御旗を奪い返して宮の後を追った。
その時投げとばされた家来が、腰を抜かしたので、その田を腰抜田というようになったという。
腰抜田は明治の大水害によって埋没し、現在は歴史を秘めたまま川底にねむっている。


と書かれいる。

  

三浦口に着いたのは12時である。店屋の外に置かれたベンチをお借りして
昼食する。店番のおじさんが出てきて、
お客さんがせんぜん無いものだから、話し相手に好都合のようにいろいろ話し掛けてくれる。
店の前を流れている川の鮎が土岸工事で、水底が変わって鮎が捕れなくなったとか、
仕事が無くなった。これは小泉の失政であるとか、
西中までの行程のことを訊けば、目の前に聳えて見える山を指し、
「あの三浦峠を越えて行くんだ」というのだ。
(ここから三浦峠の写真を撮っていないので、お見せできないのが残念)
三浦峠は1140mもあるという。
今居る場所の標高が約350m位であるから、
これから約800mも登ることになるのだ。
ビックリする。

資料で「三浦峠」を通っていくことは調べていたが、
標高が記載されていないものだから、まさか1,140mもある峠とは思ってもいなかった。
5時位には西中に着く予定なのだが、
目の前の山を眺めて、5時に着けるかどうか、心配になってきた。

とにかく一刻も早く出発しよう!
12.30分に出立する。

峠の頂上近くになると、「世界遺産に」という幟が迎えてくれる。


峠に着いたのが、2時半であった。
お菓子を食べながら、30分の休憩をとり、3時に出立する。
後は下りである。何とか5時近くには着けるだろう、と目論見する。

生い茂った草をかき分けて歩くようなところもある。
これが熊野古道かな、道を間違ったのではないか、と思われる
ようなところもある。
途中に、「古矢倉跡」の表示板が立てられ、地蔵さんもある。
以前、茶店があったところだという。
  



かなり下って、西中ももう近いかなぁ、と思われるところに来たら、
「熊野新道」の表示板が立てられていた。
左右に道は分岐している。
左に行けば、古くから歩かれている道らしい。
右の方に行けば「熊野新道」だというのだ。
この表示板に、マジックで新道の方がいい、というような文字が書き込まれていた。
マジック書きは、この古道を歩いた人が書き加えたものである。
僕は、「熊野古道の世界遺産登録」のことで、役場が新道を整備したんだ、と思った。
時間的にも暗くなる前に西中に着きたい、という気持が強いものだから、
「熊野新道」が歩きやすく、時間的にも早く着くだろうと思った。
うっちゃんと、右の「熊野新道」を通っていこう、と決める。

ところが大分歩いてくると、
道が土砂崩れで通れない。
土砂というより、岩石を細かく砕いたような状態で、サラサラとしている。
上にも下にも急斜面で迂回もできない。
その箇所には7−8mぐらいだろうか、ロープが一本張られているのだ。
ここから落ちれば土砂とともに、相当下まで流されてしまう。
まったく上から崩れた土砂で道が無くなって、足の踏み場がなくなっている。
足を踏み入れればもろい土砂でボロボロと崩れ落ちていくのだ。
通り過ぎるには、この一本のロープにぶら下がって前に進むようなことになる。

まったくどうなっているんだ!
これが「熊野新道」だというのか!
と怒り心頭に達する。

うっちゃんがロープの弛みをできるだけ少なくするため引っ張る。
僕がロープにぶら下がるようにして、土砂の中に足を踏み出す。
足場がズルズルと崩れ落ちる。
しかし、慎重に慎重にと、なんとか渡り終えた。
うっちゃんも同様にして渡って、ヤレヤレと思う。

さらに歩いていけば、
今度は歩いても歩いても緩やかな道で、なかなか下らないだ。
同じ位置をグルグル回っているような感じである。
道標もまったくない。

どのくらい歩けばいいんだ!
いつになったら下に着くんだ!

うっちゃんがぼやきが頻繁にでてくる。
普通なれば、つづら折りでどんどん下に向かっていくんだが
そんな気配がまったくないのだ。
うっちゃんは左足を引きずるような歩き方になってくる。

時間はどんどん過ぎていく。
「新道」と名前が付いているが、
森林の作業道のような荒れた道である。

何で「熊野新道」なんて表示板を立てたんだ!
役場は何やっているんだ! 実際に歩いて見ているのか!
誰だ! 「熊野新道」の表示板に、新道の方がいいというようなことを書く奴は!
道標を立てて、それには距離、または所要時間を書いておくべきだ!

二人でいろいろ文句を言い合う。

うっちゃんの脚が痛いので、ペースも、もうスロー、スローである。
距離としてはもう目的の西中で着いてもいい頃なのに、
と思うのだが、なかなか下の方に下っていない。
歩けども歩けども、平坦な道を歩いているような感じで、
急な下り坂がまったくないのだ。

もう5時を過ぎる。暗くなってきた。
ヘッドランプを点ける。
うっちゃんは懐中電灯を点けて歩く。
森林の中であるから、視界がないし、真っ暗闇で、
集落はまったく見えてこない。

とにかく歩いて行くより、しょうがないのだ。

西中大谷の集落の灯りが見えてきたのはもう6時15分を過ぎていたであろうか。
西中大谷のバス停に着いたのは、6.45分であった。
しかし、バス停のところに着いて、ホテルに電話しようにも電話が見当たらない。
近くに家が一軒もないのだ。
遠くに灯りが見えるのだが、そちらの方に行けば大きな川の対岸である・・・・
真っ暗闇になっているから状況がさっぱりわからぬ。
どっちの方に行けば、家があるのか、さっぱり分からぬ。
右の方へ行ってまた戻り、左の方にかなり行って、
やっと公衆電話が見付かった。

ヤレヤレ。ホテルに電話する。
ホテルに電話したら、「今どこですか?」と訊いてくる。
僕らから電話のかかってくるのを心配して待ってくれていたのだ。
「車が近くに行っていますから、公衆電話のところで待っていてください。すぐに行きますから」
というのだ。
ホテルまで20−30分かかると聞いていたのだが、
「5分位で着くだろう」というのだ。
あれー!とビックリする。

電話のところで待っていたら、車が迎えに来てくれた。7時である。
話を聞くと、支配人で、「4時頃に来て、待っていた」というのだ。

新道でなく、従来の道の降り口のところで待っていた、というのである。
ほんとうに申し訳ない、と謝る。
「5時頃着くだろうから、着いたらホテルに電話して迎えに来てもらう」
ということにしていたのだが、
僕らが早く着くかも知れないと思って、早めに迎えに来てくれたのだ。
それが遅れてしまったから、そのまま3時間も待っていてくれたのだ。
感謝感激である!

車の中で、支配人に、「熊野新道」の表示板のマジックの書き込みの問題、
表示板に距離か、または所要標準間を明記をすべきこと、
ロープを渡してあるところの危険箇所をすぐ通行止めにするために、
「熊野新道」の道標を取り外し、対策すること、等々を話し、
役場関係者への連絡し、即刻対策するよう、頼んでほしいと、お願いした。
支配人も役場に連絡すると約束してくれた。

7.20分にホテルに着く。
荷物を片付け、すぐに風呂に入る。
8時から夕食。

所要時間11時間の予定が、14時間ほどかかってしまった。
明日は、果無(はてなし)山 1,114mの山を登るのだが・・・うっちゃんの脚の痛みが心配である。
しかし、うっちゃんは歩くというのだ。

ビールが心地よく回り、眠気を催す。
9時である。さあ、休むことにしよう・・・・・・スヤスヤ・・・・・・・


    三日目(10/8)

今日のルートをお示しすれば、
柳本橋をちょっと行ったところに登山口がある。
そこから八木尾まで歩く予定である。


資料によれば、
柳本〜八木尾まで 距離 10.3km

とある。













                                                        (十津川村資料から)
8.30分にホテル昴の車で登山口まで送ってもらう。
ここで昨日から大変お世話になったことに、深くお礼を申し上げて別れる。
歩き始める前に、登山口のところで、うっちゃんの朝のすがすがしい顔をパチリ!
しかし、脚の痛みはまだ残ってのであろうが・・・・


今日のコースには、石仏が柳本橋近くから八木尾のところまで、
33体設置されているのだ。
この石仏は、西国三十三観音石像で、観音様の名と第xx番 XX寺と、
札所番号と寺名が刻まれている。
八木尾の方から、第一番から始まって、第三十三番まで、古道沿えに祀られている。
この観音石像は十津川村、本宮町の信者たちによって寄進されたといわれる。
大正末期の11年から12年にかけて造立されたものである、という。

写真に撮った石仏の一部をまとめてお見せしましょう。
表情豊かなお姿をしているのであるが、小さくてお分かりにならないでしょうが・・・・・・


果無峠への中腹に、「天水田」という看板が立てられている。


さらに登っていくと、観音堂がある。
一間四方の小さなお堂で三体の石仏が安置されている。


観音堂を過ぎたところで見られた景色である。


果無峠に着いたのは、12.05分である。
観音石像が安置され、その足下に「果無峠」の表示板が置かれている。
この峠は樹木で覆われており、見晴らしはない。
ホテルで用意して頂いたおにぎりを食べる。

  

昼食を終えて、12.30分に出発する。
果無峠をしばらく下りると、本宮町が眺められる。


なだらかな歩きやすい道である。
うっちゃんの歩みは、脚の痛みでスローである。
普通の速度の60%ぐらいではなかろうか。

八木尾のバス停に着いたのは、4.50分であった。
湯の峯行きのバスの時間を見れば、5.35分までない。
それまでに、石仏第一番を見ることにする。
これが公民館の横にある、第一番目の石仏である。
無事に歩き終えたことに感謝し、掌を合わせる。


バスに乗り、湯の峯温泉の「湯の峯荘」に着いたのは、6.15分であった。

風呂に入り、うっちゃんとビールで乾杯したことは云うまでもない。

    四日目(10/9)

当初計画では奈良交通で近鉄八木駅に帰る予定としていたが、
昨日、バスの運転手に時間のことなど尋ね、またホテルのフロントで
帰りの一番便利な方法を尋ねれば、
バスでJR田辺駅に出て、電車で天王寺に行くのが一番いいとのことで変更する。
9.38分のバスで田辺に出て、
田辺駅 11.39分発の特急「くろしお」に乗って帰ることに変更した。

8時に朝食をして、
出立前に、ホテルの前で、イノシシさんと一緒に記念撮影である。
ポーズOK・・・・・パチリ!
  

熊野古道小辺路コースは、八木尾から本宮大社まで
約4キロほど、車道を歩くことになるのだが、
僕らの小辺路歩きはこれで終わることにする。

        ― お疲れさんでした ―