聖書によむ「人生の歩み」@誕生・いのち
 
関西学院大学名誉教授・東京女子大学元学長 船 本(ふなもと)  弘 毅(ひろき)
一九三四(昭和九年)年、静岡県生まれ。一九五九年、関西学院大学大学院神学研究科修了。ニューヨーク・ユニオン神学大学大学院、スコットランド・セントアンドリュース大学大学院に留学。同大学よりPh.D(哲学博士)の学位受領。関西学院大学教授、南メソジスト大学客員教授、東京女子大学学長、東洋英和院長を歴任。現在関西学院大学名誉教授、高槻教会名誉牧師。著書に「水平から垂直へ―今を生きるわたしたちと聖書」「イエスの譬話」「人を生かすキリスト教教育」ほか。
 
 
ナレーター:  聖書に読む「人生の歩み」その第一回。このシリーズでは、現代を生きる我々が、人生の節目節目に聖書から何を読み取ることができるかを、十二回にわたってお送りしていきます。お話は、関西学院大学名誉教授で東京女子大学元学長の船本弘毅さんです。
 

 
船本:  今年度の「宗教の時間」は、聖書によむ「人生の歩み」という総合的なテーマのもとで、私たちが人生の歩みの中で直面するさまざまな出来事、あるいは課題について、聖書はどう語るのかということを共に考えたいと願っています。人生のさまざまな局面において、聖書から私たちは何を聞き、導かれるのか、と言い換えてもよいと思います。私たちは今、それぞれの場で自分の人生を生きています。喜びや悲しみや苦しみのある人生です。時々ふと立ち止まって、自分の歩みを考えてみますと、私たちはいつも今までどのように生きてきたのか。今どのように生きているのか。今からどのように生きようとしているのか、という問いの前に立たされているという思いが致します。「紆余曲折(うよきよくせつ)」という言葉があります。一番新しい国語辞典は、「曲がりくねること。事情が込み入っていて、途中でいろいろに変わること」と説明しています。人は誰でもみな出発点と終着点をもっていますが、その二点の間を真っ直ぐに最短距離で生きるのではなく、あちらにぶつかりこちらに突き当たりながら曲がりくねった遠い道を生きています。人生には多くの節目があります。節目を潜り抜けることによって、人は強められたり、深められたりしていくのですが、時にはそこに躓(つまず)いて挫折感を味わうこともあります。旧約聖書に登場する予言者エレミヤは、南ユダ王国の衰亡期に活動し、孤独と苦難を味わう歩みの中で、真実を求めてきた「涙の予言者」と呼ばれた人ですが、次のような予言を語っています。
 
主はこう言われる
さまざまな道に立って、眺めよ
昔からの道に問いかけてみよ
どれが、幸いに至る道か、と
その道を歩み、魂に安らぎを得よ
 
人生の岐路に立たされる時、私たちは何を基準にして人生の道を選び取っているのでしょうか。人生の諸相、この世のさまざまな現実に対して、聖書は何を語るのでしょうか。四月は、その第一回目として、私たちは、「誕生・いのち」といった問題を取り上げて考えてみたいと思います。昨年の十月二十日、これは日曜日の朝でしたが、新聞の第一面のトップの記事に驚かされました。見出しは、大きく「デザイナーベビー? 遺伝子解析 好みの赤ちゃん」とあり、記事はこんな言葉で始まっていました。「青い目で、足が速く、乳がんになるリスクが低い子どもが欲しい―。親が望む特徴をもつ赤ちゃんを作る『デザイナーベビー』につながる遺伝子解析技術が考案され、米国で特許が認められた。自分と、精子や卵子の提供候補者ごとに遺伝情報を解析して、望み通りの子どもが生まれる確度を予測するシステムだ」。とうとう、これまで来たのかという科学的進歩の早さへの驚きと共に、しかしこれが本当に良いことなのだろうか、というのが、私のその時の率直な気持ちでした。利用者と、精子や卵子の提供者の唾液から遺伝情報を解析して、二人の間に生まれる赤ちゃんに出る確率を計算し、点数の高い提供者を知ることができるようになるというのです。その日の新聞記事によれば、親が希望できる特徴の範囲は、身長、性格、寿命、酒の強さ、運動能力、病気の発症リスクなどに及ぶというのです。親は当然生まれてくる子どもにさまざまなことを期待しますから、その希望というか、欲求、あるいは欲望は、際限なく広がる可能性があります。こうなると、赤ちゃんは生まれてくるのではなくて、つくる物ということになり、その結果遺伝子の段階から、親が子どもの人生を支配して良いのか、という極めて重要な根源的な問題が生じることになります。また現実の問題としては、親の希望が、ある確率でかなえられるとしても、希望通りにいかなかった場合はどうするのか。あるいは望み通りの特徴を持たない子どもが生まれた時の親子の関係はどうなるのか。親は、そのようにして生まれた子どもを、本当に自分の子どもとして愛せるのか、といった深刻な問題を生じることにもなるでしょう。人間のいのちとは何なのか。生と死の意味はどこにあるのか、ということが、今改めて問われている、と言ってよいと思います。聖書は、旧約聖書三十九巻、新約聖書二十七巻、合わせて六十六巻からなる書物ですが、「初めに、神は天地を創造された」という言葉で始まっています。ユダヤ人イスラエルの民は、一番大切なものを、最初にもってくる習慣がありましたから、この「神が創造主である」という宣言は、聖書全般を貫く基本的な宣言であるということができます。そして天地を創造された神は、人間をも創造された、と、聖書は語ります。「創世記」一章の二十七節は、
 
神は御自分にかたどって人を創造された
 
と語り、また二章の七節では、
 
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった
 
と語っています。言うまでもなく、このような聖書の言葉は、現代の科学や医学を否定して、人間の誕生や地球の始まりを明らかにしようとしているものではありません。今から三千年以上も前に生きた人たちが、自分たちの生存の不思議さを、このような信仰の言葉で言い表されたものです。聖書は、古い文書でありながら、彼らがこのような表現で言い表そうとしたこと、後世に伝えようとした意味や思いや信仰は、今この場で生きる私たちに語り掛けてくる新しさといのちをもっていると言えると思います。神が人を創造されたという場合の、「創造する」という言葉は、陶工が粘土をこねて、心を込めて陶磁器を作るように、神は深い思いと意思を込めて、人を形づくられたということを意味しています。そして神からいのちの息を吹き込まれて、人は生けるものとなったというのです。「御自分にかたどって」というのは、人間は「神の像」(イマゴ・デイ)をもつ存在であるということを意味しており、聖書の特色ある考え方であります。これは外的な形や姿においてではなくて、内的に神に似せて造られたということを意味し、人間は神と特別な関係にあるということを明らかにしています。聖書の中に、「いのち」という言葉は、旧約聖書に三百三十五回、新約聖書に百二十九回、合わせて四百六十四回出てきます。そのいのちは、神が与え、神が取り去りたもうものだと、彼らは考えていました。イスラエルの民が、十戒という戒めを守ったのは有名であります。これはイスラエルの、いわば憲法のようなものであり、彼らの生活の規範でした。イスラエルの民は、この十戒に従って生きる契約の民であると考えられてきました。この十戒の第六番目―第六戒は、「殺してはならない」と語っています。これはもともとは、反社会的殺人、即ち故意に人のいのちを絶つことを禁じた戒めでありました。そして聖書は、殺人を禁じるのは、殺人は惨いから酷い行為だからといったことではなくて、根源的には人間は神の像(イマゴ・デイ)に創造され、いのちの息を吹き込まれて生きるものとなった。尊い掛け替えのない存在であるという考えがあるからなのです。端的に言えば、いのちは神から受けたものであるから、人間が勝手に奪ったり、無くしたりすることは許されないというのです。「創世記」の九章六節に、
 
人の血を流す者は
人によって自分の血を流される。
人は神にかたどって造られたからだ。
 
と記されています。この「神にかたどって造られたからだ」という、この言葉は、既に述べたように、外面的なことではなくて、むしろ関係の概念であり、人は神から呼びかけられ、それに応答する責任のあるものとして造られているということを意味しています。人間は、神に対して、我と汝の関係に置かれており、それゆえに人間は、人格的な存在であり、神に応答することによって、真の人間になると考えられています。ですから殺してはならないのです。しかし聖書の中に、「死んではならない」という戒めはありません。要は、苦しみの中で自分の生まれた日を呪っています(「ヨブ記」三章八節)。「エレミヤ書」も、「わが母よ、あなたはなぜわたしを産んだのか」(「エレミヤ書」十五章十節)と、自分の出生を呪っています。あるいは「コヘレトの言葉」二章十一節は、
 
しかし、わたしは顧(かえり)みた
この手の業(わざ)、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空(むな)しく
風を追うようなことであった。
太陽の下(もと)に、益(えき)となるものは何もない。
 
と、世の虚しさを嘆いています。聖書は、人間が生きることには、たえず苦しみや悩みが伴うことを、決して無視していません。自分のつくった世界は、こともなく、ただ平穏で幸せいっぱいの夢のようなところだとは決して言わないのです。しかしそれにも関わらず、この世は汚れており、苦しいことばかりだから、死んだ方がましだとは決して言わないのです。そしてこのような人生への肯定は、その生命観に根ざしているということができます。私たちは、いのちを与えられて生きている。即ち人は生かされている存在なのです。ですから聖書は、生きることの大切さは自明のことであり、殺すことは許さないと語るのです。言葉を換えれば、生きることは人間にとって責任であり、生きること自体が神の恵みであり、祝福だというのです。人は生かされている生を、生き抜くことが大切であり、それは人間にとって相応しいことだ、と語っています。新約聖書も、旧約聖書のこの素朴な生の肯定を受け止めて、さらに深め進展させているということができます。イエスは、あの有名な山上の説教の中で、ただ殺すことを禁じたのみではなくて、怒りによって人を傷つけ、人を陥れ、人の名誉を辱め、人の存在を無視するも禁じていらっしゃいます。使徒パウロは、「わたしにとって、生きるとはキリストである」と述べ、罪の故に失われた存在になっていた人間が、キリストの救いによって、神との正しい関係を回復され、新しいいのちを生きるものとされた。それは信仰による生であり、人は生かされている生を、感謝と喜びと責任をもって生きるように、と進めているのです。ギリシャ人や現代人の多くが、人間の根源を、人間の頭脳や知性に求めたのに対して、聖書は、いのちの根源は人間の内臓・はらわた、腎臓にあると述べていることは注目されなければならないと思います。人間は、人間の科学的技術や知性によって作り出されたのではなく、母の胎内に形作られるその時から、神に知られている人格存在であり、神の像を持つ者として、いのちの息を吹き込まれて生きるものとなった、と、聖書は主張しています。私たちは今、少子高齢化の社会に生きています。二○一二年に、日本では、六十五歳以上の高齢者の数が、三千万人の大台を突破して、三○七四万人になりました。これは総人口の二四.一パーセントに達したことを意味しています。それに対して子どもの数は一六五七万人で一三パーセントに過ぎません。昨年日本の全都道府県において、高齢者、即ち六十五歳以上の人々が、子どもたちの数を上回ったそうです。この事実は、公的年金、医療介護などの社会保障のための財政問題に関わる大問題であります。そして同時にこのことは、若者自体にも大きな影響を与えています。若者たちの希望や夢を奪い取り、若者たちを無気力にしている。そういう風潮が生み出されています。また三万二千人を越える無縁死(むえんし)―誰からも看取られることなく、孤独な死を迎える人がいるという現実があります。私たちは、今このような現実の中を生きているわけであります。第二次世界大戦の最中を生きたディートリッヒ・ボンヘッファーというドイツの神学者がいました。彼は、「究極のものと究極以前のもの」という独特の論議を展開し、究極以前のもの、即ちこの世のものが、究極のもの神の関わりのゆえに保持されなければならないということを主張して、いのちについてこのように述べています。「殺すことと生かすこととは、決して同価値的な決定ではない。いのちを尊重することは、それを否定することに比べて、遙かに優先する権利である」と、彼は主張します。彼はまた、「生きる権利を、社会への有用性に基づいて判断することも許されない」と主張します。近代の合理的な思考は、すべていのちは社会に対して有用性を持たねばならず、有用性が失われれば、そのいのちは存在すべき正当な権利を持たない、という考えを前提にしています。しかしこのような考え方に対して、聖書は、神の目から見れば、存在に価しないようないのちはないことを明確に宣言しています。何故なら、生きることの権利は、価値ではなくて、いのちそのものだからであります。いのちの生命の創造者、保持者、救済者である神は、どのようないのちをも、たとえば、人間的にはもっとも哀れに見えるものであっても、神の前には生きるに価するものだとしてくださるというのです。ボンヘッファーは、重い不治の遺伝子的な病気が、社会の深刻な問題であり、確かにある危険を伴うことは否定できないことを認めつつも、その危険はそのいのちを否定することによって取り除かれるべきではなく、私たちは、その不幸ないのちを共に担う用意がなければならないし、そのことを通して、私たち自身の健康を感謝し、その重要性を認識することができるのであると述べています。例外的な限界状況の中でのみ、その決定は自由にゆだねられるとしても、それはまったく特別の場合であって、悪用されてはならないと、彼は主張しています。ボンヘッファーの立場は、次のようにいうことができるでしょう。神は究極以前の現実の只中で、究極の言葉を語る。即ち神の言葉は、現実の只中で認識されるべき具体的な戒めなのである。神が、人間のためにこの世に構成したもう現実に参画することが、私たちの倫理的な責任なのである。かくして倫理の究極の言葉は、「罪人が恵みによって贖(あがな)われ、人間の存在は神の現実と共にあるということだ。従って、彼は、ただ一度限り善であるものが問題なのではなく、キリストが如何にして、今日ここで我々の間に形を取りたもうか、ということが問題である」と語っています。イエスの地上の歩みは平坦ではありませんでした。しかしイエスは十字架への道を歩みながら、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか。自分のいのちを買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(「マルコによる福音書」八章三四―三八)と語られました。ここで「いのち」と訳されている語は、「プッシュケー」という語ですが、それは肉体的な生命を意味すると共に、人間が思考や感情の根源、即ち「魂」という意味を持ち、「人間それ自身」を意味する言葉でありました。イエスは、人がもし全世界を思いのままにすることができるようになったとしても、「わたし」という「今」「ここ」に生きている自由な主体的な人間が失われ、損なわれるとしたら、どうなのかと問われたのでした。あなたの「いのち」、あなたという一人の人間の存在、それは他の何物によっても、代えることのできないものであった。人間はかけがえのない存在だと言われたのでした。そしてその人間のために、主は十字架に架かり復活して、今も私たちと共にいてくださるのです。即ち神によって創造された私たちのいのちは、主の十字架によって守られ、保持されているのです。私たちは、このようないのちを生きているものだと、聖書は語っています。現在は、人のいのちが軽んじられている時代であると言えるかも知れません。しかし私たちは、創造され生かされているものとして、この時代をいのちを大切に人々と共に生きるものでありたいと思います。
 
     これは、平成二十六年四月十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである