鴨長明の仏教観
 
               城西国際大学教授 三 木(みき)  紀 人(すみと)
一九三五年、東京生まれ。一九五九年、東京大学文学部国文科卒業。六六年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。静岡女子大学講師。七一年、成蹊大学文学部助教授。七五年、お茶の水女子大学助教授。八○年、同大学教授。二○○一年、同大学定年退官、名誉教授。城西国際大学教授。現在、城西国際大学国際人文学部客員教授。お茶の水大学名誉教授。専門分野は中世文学、特に説話、随筆。鴨長明や兼好法師など隠者とその作品。
               き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、城西(じようさい)国際大学教授でお茶の水大学名誉教授の三木紀人さんに、「鴨長明(かものちようめい)の仏教観」というテーマでお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  今日は、鴨長明の人生観とか、あるいは仏教観を中心にお伺いしたいと思うんですが、現代二○一三年という今の時代に、鴨長明の『方丈記(ほうじようき)』なんかが読み返されている。その原因はどういうところにあるとお考えでございましょうか?
 
三木:  不思議なことに、昨年が『方丈記』(建暦二(1212)年)が書かれてからちょうどは八○○年の節目に当たる年でして、このことはしきりに専門家というか、関係者の中では、何年も前から話題になっていまして、大いにそれに向けてみんなで何かしなくては、という話があったんですけども、それがあまりはかばかしく、いわば活性化しない中で東日本大震災が発生して、あの直後に凄まじい震災の事実に接しながら、多少古典にたしなみのある方々から、『方丈記』の中の記事・文章と、あの現実があんまり一致しているのでビックリされながら、『方丈記』への再認識・再評価が始まって、それが八○○年目の前の年だったということが、現実と思えないぐらい不思議な巡り合わせになっておりまして、その二年間の進行の中で、『方丈記』が読み直され、『方丈記』に基づいたいろんな議論が行われ、イベントなどもあったんですけども、そろそろ下火になるのかなと思っていたら、実は今年に入ってから―これは私の個人的な感想なんですけども―今年の文化の世界での最大のトピックの一つが、アニメ作家宮崎駿(みやざきはやお)監督の『風立ちぬ』が非常に商業的にも大成功して、ズッとこの七月から始まって、日本人の心―暗い事実がありますね。それが宮崎さんの引退宣言と結び付いて、宮崎さんの世界がしきりに振り返られ論じされている中で、これは私の思い込みかも知りませんけれども、あの『風立ちぬ』の中にも、『方丈記』が一種の潜在した世界として横たわっているのではないかと。
 
金光:  私は見たことないんですけれども、なんか聞くところによると、零戦を設計した堀越二郎さんを主人公とした番組とか聞いているんですが。
 
三木:  そうです。
 
金光:  そういう中に『方丈記』的なとこがあるわけですか。
 
三木:  その後周辺に戦闘機を設計した技術者の物語の傍らに、あのアニメでは堀辰雄(ほりたつお)(小説家:1904-1953)という二十七、八年頃に亡くなった
 
金光:  題名自体が、堀辰雄の『風立ちぬ』からきているのかなと思いながら、中身がちょっと違うのかと勝手なことを考えていましたが。
 
三木:  違うかなと思っていると、最後の方でだんだん意味するところが見えてくる。影と思ったのがだんだん光、表になってくる。そういうことで私はワクワクしながら、そんなことも夢にも思わずに映画館に入っているうちに、だんだん調べて見ると、宮崎さんがもっとも尊敬する作家は鴨長明ではないんですけども、鴨長明を現代に引っ張り出した『方丈私記』を書かれた堀田善衞(ほつたよしえ)(小説家:1918-1998)さんなんです。堀田善衞さんが、最大の尊敬すべき現代作家だということを、もう暫く前に講演などでお話になったんですが、私は最近知りまして、その宮崎さんの理解している堀田さんの尊敬すべき一番の仕事は『方丈私記』なんですね。その影響なのかどうなのか。スタジオジブリ(アニメーションを主体とした映像作品の企画・制作を主な事業内容とする日本の企業)で、今『方丈記』に関するアニメの企画があって、それは宮崎監督は直接タッチされていないし、むしろそれに対してはやや批判的というか、屈折した思いでいらっしゃるらしいんですけども。その後も堀田善衞さんの向こうに、『方丈記』の世界を仰ぎ見ながら、例えばその憧れの堀田善衞さんと、もう一人、同じくらいに尊敬されていた司馬遼太郎(しばりようたろう)(1923-1996)さんと三人で対談された本がありまして、それが『時代の風音(かざおと)』ですが、昭和という時代を生き抜いた人の中で、絶えず耳に聞こえていた風の音を語り合おうかという、そういうディスカッションじゃないかと、私は理解しているんですが、その中で直接『方丈記』の「ほ」の字も出てこないんですけども、後書きの中で、「お話合いが終わった後で、見送った時の堀田さんの後ろ姿が、日野山(ひのやま)に戻って行く鴨長明の面影を彷彿させる」という、そういう興味深い一節がありまして、それは私の個人的な思い込みであって、どなたも「風立ちぬ」についてのいろんなコメントの中で、そういうことをおっしゃった方はいらっしゃらないかと思うんですけども、そういうことを追々わかっていくと、『方丈記』を廻る静かなブームの第三年目に「風立ちぬ」の中にさりげなく『方丈記』が作用していたように思っていたんだということが明らかになっていくんじゃないか。それをいつ宮崎さんご自身が公になさるか。私は一人で興味ながら楽しみにしているような次第でして。
 
金光:  それは興味深いお話ですね。それで私なんか特に『方丈記』を読んだ記憶もないんですけれども、昔の教科書に例の有名な「ゆく河の流れは絶えずして」という、これは現在の教科書に載っかっているんじゃないかと思いますが、鴨長明の『方丈記』というと、先ずその冒頭の有名な見事な文章ですけど、その文章とか、それから後の京都の街が災害に―台風だとか火事だとか、地震だとか、もういろんな災害に遭うその状景が非常に克明に描かれている。その辺は非常に印象に強く残るんですけれども、お終いの方になるとあんまりぼんやりした記憶しかない人が多いんではないかと思うんですが。
 
三木:  ほとんどそうだと思うんですね。
 
金光:  その彼の最後のあたりに、彼の生涯を終わるまでの当時の世界―死に対する考え方、あるいは仏教に対する考え方、隠遁をするための考え方みたいなものが盛られているんではないかなという気がして、改めて今度もお終いの方をちょっと見てみたんですけれども、生存した鴨長明が生きていた時代の宗教人としての彼の存在観とか、生き方など、あるいはちゃんと仏界に入る法名(ほうみよう)を貰っていらっしゃるようですが、その辺についてのお考えを聞かせて頂けませんでしょうか。
 
三木:  彼は、自分のことを、例えば「宗教人」というような言い方で言われたら随分照れるのではないかと思うんですけれども。一宗一派を開くとか、特定の場所で広く人々に法を説いて、道を自らも究めていくというような、そういう立場ではなくて、彼の立場はむしろ自分を教材というか、人々へのヒントとして提供しながら、苦しみ悩み悶えながら生きていった人間も、それなりに新しい生き方を持つことができる。そこで得た自分の新しい世界は、それなりに人々の心を打つのではないか。一種の教訓材料と申しましょうか、こういう生き方、あるいは死に向かっていく意識も悪くはないということを、平凡な至らない人々に、自らを標本として示すような位置にいたのではないか。彼の名前は蓮胤(れいいん)という名前ですね。その「蓮胤」というのは、表面的には自分を蓮をシンボルとする極楽浄土に向かっていく人間で、そこに向かってまだ至らないながらきちんとした目的をもって生きているものだという、そういう極楽往生するものということを控え目に表すつもりで作った言葉かなと、一方で思いながら、名前というのは、必ずしも一面的とは限らなくて、その底というか、下の方に他の意味合い、意味付けもあるのではないかと思ったりしていまして、その一つが、蓮というのは、ご承知のように泥の中に芽生え花咲くもので、そういう泥まみれの存在も美しく、それなりの生を広く指し示すことができるんだという、そういうことに向かっている至らない人間だというような意味で、蓮胤(れいいん)という名前を選んだのではないか。これは彼の出家の経緯に関係してくるんですけども、決して彼は崇高な思いで、この世の無常を感じたとか、あるいは世のため人のために救済者の手助けをしようと思って出家するとかという、そういう立場ではなくて、怨みというか不満がきっかけになっているんですね。自分の追い求めたポスト―下賀茂神社の神官としての位をだんだん上って極めていく。その目標に向かってのステップが目の前に現れたのに、それを他人に奪われた。自分を支援してくれるかと思っていた方が―その方は後鳥羽上皇(ごとばじようこう)という方ですけどね―途中で自分を捨てて向こう側に付いてしまった。このことへの怨みとか、不満とか、ショックとか、それから挫折感とか、そういったことが出家の動機になっていまして、これは彼自身の書き残したものの中には出てこないんですけども、後々人の言い伝えの中に、「鴨長明というのは、そういう人だった」ということが、一種の短い物語として書かれておりましてね。世を恨んで出家した人だった。恨んで出家した彼に、いわば先輩に当たる山里の住民の誰かが、「お前さんは、どうしてここに来たんですか?」みたいな質疑をしたらしいんですけども、あるいはこれはフィクションというか、仮にそう問われたならば、という気持ちで長明が答える詠んだ歌かも知れませんけども、
 
いずくより人は入(い)りけん真葛原(まくずはら)
  秋風吹きし道よりぞ来(こ)
 
「いずくより人は入りけん」どこからあなたは来たの、と問われたならば、私は答えましょう。「秋風吹きし道よりぞこし」秋風が吹いている寂しい道の中を、いわば風圧を背に受けながらこの山里に来ました。そういう内容なんです。ここはまた「風立ちぬ」にチラッと見えるんですね。その「真葛原(まくずはら)」というのは、地名のような、あるいはそういう荒涼とした葛の葉が風を受けて翻(ひるがえ)るような野原を、一般的に示す言葉なのかわかりませんけども、もし地名だとしたらば、今の京都の八坂(やさか)神社の奥一帯が真葛原(まくずはら)といわれたんですね。あの辺は昔から隠遁者の住まいで、のちのち松尾芭蕉なんかも隠遁したりしていますけども。秋風が吹くと、その風圧で葛の葉が翻り裏が見えます。その裏返る時の風景の変化が、緑から白に転ずる。その変化を歌人たちは「裏見(うらみ)」と言うんですね。その単なる植物の葉っぱの表が裏になる。それが人の目に緑から白へ変化に移る。これが「恨み」という言葉を通じる。「風立ちぬ」の話では、怨みの思いを詠う歌。つまりさっきの歌は、「私はここにどうして来たのかというと、他ならぬ怨みの思いを抱えて、寂しい風に吹かれながらここに入ってきた人間だ。そのことをご承知おき頂きたい」そういうメッセージとして読めると思うんですね。
 
金光:  今ちょっとお話になりましたけれども、賀茂(かも)神社の禰宜(ねぎ)というと、当時としては京都ではもっともエリートの世界に生まれたというふうに言えると思いますが、しかも彼は歌人としては若い頃かなり名前も知られていましたし、それから琵琶(びわ)の方もかなり腕前がよかったようですが、そういういわば教養人としては、京都でも認められるような若い頃だったと思うんですが、それが今のような歌で自分の隠遁の気持ちを述べたという。その辺はかなり彼自身の心も屈折した時期があったということなんでしょうね。
 
三木:  そうでしょうね。その屈折は、勿論人生そのものの屈折と繋がっていると思うんですけどね。若い頃の彼は確かに二十代で歌人として知られていて、滅多に弟子を取らない。滅多どころか一人も取らないような歌人から、将来の有望な歌人として弟子扱いされたりしていまして、まことに有望な人だった。それから彼の父親は、賀茂神社で最高の地位を極めた人だったこともあって、早く死なれてしまうわけですけども、そういうこともあり、それから琵琶については、もしかしたら彼のもっとも得意とする分野だったらしい。それが二十代から三十代にかけて彼の立場だったんですけど、それが突然消えてしまうんですね。その消えてしまう時期が、ちょうど災害の続く時代で、京都の人の誰も彼もが非常に衝撃を受け被災者となった。災害とどっかで結び付いているかも知れないんですけど、それから三十代、四十代にかけては鳴かず飛ばずであって、どこでどのようにしてしたのか。知られざる人になっていたんではないかという気もするんですね。それが四十代に歌人として復活する。それに手を貸したのが後鳥羽上皇。新古今時代のできあがっていく歴史の中で、彼が暫くぶりに復活するんですね。その栄光とか幸福を何かの事情で手放して、自ら招いたものというよりは、誰かの仕打ちというような被害者的な気分で諦め―歳も歳だった―五十(いそじ)の春を迎えていたんですけどね。その出家したものの、そういうことでどうしたとか誰と何をしたとかということは、暫くの間あんまりハッキリわからなくて、たださっき私が半ば憶測で申し上げた東山の真葛原(まくずはら)の辺りは住まいした形跡はなくて、比叡山の麓の大原に移ってですね、大原に籠もって五年間を過ごし、その五年間の中で自分の得たものは虚しさだけだった。
 
むなしく大原山の雲に臥して、また五かへりの春秋をなん経にける
(大原で無為の生活を送るうち実に五年の歳月がたったのである)
 
その間の彼の修行とか学問とか交流関係とか成長したのか衰えていったのか、というようなことは分からなくて、その後で彼は日野山に籠もって、
 
金光:  山科の方ですね、北から南に移ったわけですね。
 
三木:  まったくその通りで、対照的な里へ移って、もしかしたら健康管理上の問題もあったのかと思うんですけどね。しばらくというか、長く生きていくためにはこんなところに居られないという、そういう気分もあったかなと思うんですね。それからまた五年が経ち、だんだんだんだん老い先が短くなっていく中で、彼は不思議なことに突然鎌倉に、
 
金光:  源実朝(みなもとのさねとも)に会っていますね。
 
三木:  そうですね。しきりに何度も何度も余人を交えない会談を行って、懇ろに語り合ったということが、鎌倉側の記録の中に出てきて、
 
金光:  歌人同士の話し合いということなんでしょうね。
 
三木:  なんとなくそう思われているんですけども、実はその会談の直後に彼が京都の日野に戻り、そこですぐに『方丈記』を書くんですね。
 
金光:  そうなんですか。
 
三木:  「実朝との関係が『方丈記』の執筆を促したのではないか」ということが、折々言われておりまして、それは一般的には新しい文化の担い手である東国武士の勢力の中心地の鎌倉も荒れている。寂れかかっていて、それを通して彼が無常を感じながら、都も鎌倉も大同小異―無常という原則を考えれば同じようなものだと。そういう認識に立って『方丈記』を書いたんじゃないかという考え方が一般的かと思うんですけども、もう一つ私は、「災害」というキーワードで考えると、鎌倉で実朝がしきりに関東で起こった災害について、心を悩ましていたようなんですね。それも同じ鎌倉側の記録の『吾妻鏡(あづまかがみ)』に書いてある。その夥しい災害記事を見ると、政治を司る将軍として、災害についてどう対処したらいいのか。それからいずれ近付いてくる災害をどう受けたらいいのか。何がどうなんだという、そういうことを、昔の京都の災害の実在の生き残りとしての長明から学ぼうという、そういう話題があり、その話し合いをしているうちに、長明の中にいろんな二十代の強烈な記憶が甦ってきて、あんなに実朝が積極的に質問してくれたんだからと思いながら、自分の中にその経験したものの使命感がだんだん芽生えてきて、それで自分が書いておかなければ誰も何もわからない状態で、歴史が進行し、また大被害が出たら大変だから、そういう思いで書き、その書きながらまたさまざまな思いが彼の中に閃いて、その災害の後のいろんな記事の世界が展開していったんではないかと、そんなふうに考えております。
 
金光:  書いているうちに、やっぱり自分自身の考えみたいなものも、だんだんイメージがはっきりしてくるということもございましょうね。
 
三木:  いろんなことが頭の中に閃いて、あれも書かねば、これも書かねばという思いと、それからあんまりだらだら広げていくのは、何か表現する者としてのあるポリシー(policy:意味や解説、類語。政策。策略。また、事を行う際の方針)と言いましょうか、自分の立場が許されないと思いながら手短にスーッと書いた。その一つひとつの言葉が力を持っていて、非常に優秀なコピーライターが作ったメッセージのような非常に読んでいて心に残る。『方丈記』を読んで味わう。耳で聞きながら味わい理解する。そうなったのは、短さとか、的確な言葉の選ばれ方、使い方ではないか。そういうことを考えていくと、『方丈記』はいろんな意味で汲めども尽きせぬ味わいがあるかと思うんですね。
 
金光:  彼が最後に到達した世界を、いろんなふうに書かれている、発表されている言葉で表現しますと、どういう言葉が印象に強く残っていらっしゃいますか。
 
三木:  いろいろありますけれども、一番最後の文章が一般的には印象に残っているんですけども。元暦二(1185)年七月九日の地震を回想した文章の末尾です。災害の締めくくりの言葉の中で、
 
すなわちは、人皆あぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後(のち)は、ことばにかけて云ひ出づる人だになし。
 
「その当座は、誰もがこの世のはかなさを述べて、多少は心が浄化されたように見えましたが、月日が替わり、何年か経った後は、そんなことを口にする人さえなくなりました」ということが災害記事の締めくくりのところに出てくるんですね。言葉は非常に正確で、これはその後の歴史にも繰り返し繰り返し同じ現象が起こっている。この数年間の行き着くところ、もしかしたらそうなるんじゃないかと思いながらいるんですけど。そういうフレーズがたくさん出てきましてね。
 
金光:  そういう晩年の彼の気持ち・心持ち、そういうものを仏教の立場から見ますと、彼のいわば仏教の受け止め方、これはどういうところで収まったとお考えでしょうか。有名なと言いますか、最後の言葉が非常に私なんか気になるんですが、
 
不請(ふしよう)阿弥陀仏(あみだぶつ)、両三遍申してやみぬ。
 
三木:  これが一番謎の言葉で、「不請(ふしよう)阿弥陀仏(あみだぶつ)」―この「不請(ふしよう)」にも補って読む読み方がありますけれども、これを自分は、「両三遍申してやみぬ」念仏を二、三遍となえたというだけならわかるんですけども、上に「不請(ふしよう)」と書いてありまして、この「不請(ふしよう)」が如何なる意味なのかということは、いろんな説が古来あって、未だに決着が付いてない。
 
金光:  あれはもともとは人間がお願いして、というんじゃなくて、お願いしないのに阿弥陀さんの方から全部与えられた念仏が一番もとの「不請(ふしよう)」の意味だとか、昔聞いた記憶があるんですが。
 
三木:  そういう有力な説もありますけども、一方ではこの「不請(ふしよう)」は、口先だけの「不承不承(ふしようぶしよう)」だとか、いろんな学説があって、私も若い頃それを分析したり、調査したことがあって、ついに結論に至らずにおりまして、最近もこの研究のテーマもいろいろありますけれども、「こうだ」ということになかなか至らずにおりますのと、これが何のために書いたのか。つまりこのことが作品の一番結末ですから、一番大事な言葉なので、そこに込められた彼の意識とか、これを結論の言葉とすることの理由だとか、それを考えると分からなくなる。それからもう一つ、気になるのは、これで彼が著作を止めたんならともかく、この後でまた書くんですね。『発心集(ほつしんしゆう)』という本を書いて、この『方丈記』の中で触れたことのおさらいをしたり、中には発展的な文章を書いたり、それとこれとの関連はどうなのか。どうもなかなか長明が表明者としてはくせ者ですね。
 
金光:  そういう意味では、今日は興味深いお話を聞かせて頂きまして有り難うございました。
 
     これは、初回放送二○一三年十一月十七日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で平成二十七年八月二十三日に再放送されたものである。