親鸞聖人からの手紙 E子の義おもいきりたり―善鸞の義絶 第八通
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
 
ナレーター:  「親鸞聖人からの手紙」その第六回「子の義おもいきりたり」、お話は武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎:  本日は、「親鸞聖人からの手紙」六回目でございます。今日は、「聖人晩年の悲劇」と私は申しております。親鸞聖人八十四歳の長男・善鸞義絶(ぜんらんぎぜつ)事件とその周辺について、手紙を中心にお話致します。この事件につきましたは、後に作られたものではないかという異説もありますが、そのことにつきましても、後で触れてみたいと思います。さて、八通の手紙は、親鸞聖人が長男・善鸞―慈信房善鸞(じしんぼうぜんらん)と申しますが、義絶したことを、念仏者の性信房(しようしんぼう)へ知らせたものであります。次の第九通の、いわゆるこれが善鸞義絶状と言われるものですが、この九通と同じ日に書かれております。私が、「聖人晩年の悲劇」と言っている善鸞義絶事件に関する手紙であります。この手紙を通して、私は人間というもの、あるいは人間関係、あるいは信仰を巡る問題、さまざまなことをここから学ぶことができます。聖人にしてみれば、自分の息子が、自分を裏切ることなど考えてもみなかったことだと思います。しかしそれが残念ながら事実となりました。でも残念ながらそういうことは、私たちのこの社会ではままあることだ、と私は思います。お手紙を少し読んでまいりますと、現代語訳で読んでまいりますが、
 
慈信(じしん)(善鸞)の説く教えによって、常陸(ひたち)や下野(しもつけ)の人々の念仏理解がこれまでとは、ずいぶん変わったとお聞きしています。なんとも情けないことです。これまで往生はまちがいないと思っていた人々が、慈信と同じようにみな嘘をいっていたとは、信じていたばかりに、なんとも嘆かわしいかぎりです。
 
こういう手紙が残っております。ご承知のように、親鸞聖人は、念仏弾圧で流罪になった越後から関東へ入りまして、およそ二十年間を過ごしました。四十二歳から六十二歳ぐらいまで、この関東で二十年間過ごされます。念仏者の名簿―お名前といってもよい『親鸞聖人門侶交名牒(もんりよこうみようちよう)』。その念仏者名簿というものには、関東者の念仏者の多くの名前が記されていることはよく知られております。関東を去って、ですからおよそ二十年後―厳密にいうと、二十二年後ですが―八十四歳頃、その事件が起こりました。まさに私は聖人にとっては痛恨の極みだったと思います。「慈信善鸞などのいうことによって、関東の人々がみな念仏の信心を取り違えてしまったことは、何としても認めがたい」。非常に強い言葉で述べられるわけでありますが、親鸞聖人の胸中はいかばかりであったでしょうか。「慈信のような者に唆(そそのか)されて常陸の人々、下野の念仏者が動揺してしまい、私が書き写して送ったものをすべて捨ててしまったと聞くに及んでは言う言葉もありません」という言葉に深い悲しみが見られます。「常陸・下野の念仏者の、みな御こころどものうかれて」とこうあります。「うかれて」というのは、文字通り動揺して、ということでしょう。「さしもたしかなる証文を、ちからを尽くして数あまた書きまゐらせて候へば、それをみなすてあうておはしまし候」即ち懸命に書いた大切なお書物を、みんなそれを捨ててしまったという、もう言葉がありませんと、こういう内容であります。ちょっとその辺りが大事ですので、原文を少しだけお手紙読んでまいりますが、
 
まず慈信が申し候ふ法文(ほうもん)のやう、名目(みようもく)をもきかず。いはんやならひたることも候はねば、慈信にひそかにをすふべきやうも候はず。また夜も昼も慈信一人に、人にはかくして法文をしへたること候はず。
 
こういう原文でありますが、それはまず慈信が説いている教えですが、そのような教えの名前は私は聞いたことがありません。勿論私は習ったこともありませんから、慈信一人に密かに教えることなどもあるわけがありません。また夜であれ、昼であれ、慈信一人(いちにん)に―一人(ひとり)ですね、などに隠して教え示したことなどありません。もしこのことを慈信には申しながら、嘘を隠して人には教えないで、慈信に教えたということであれば、仏、法、僧―仏さまと教えと仲間―三つの宝ですね。三宝はもとより、三界の諸天善神・四?の竜神八部・閻魔王界、こういった神々の罰を、親鸞は一身に引き受けましょう」。こういう手紙があります。確固たる親鸞聖人の強い意志が表れております。私は、この義絶を示す手紙に見られる「仏・法・僧」―仏さまと教えと仲間への誓いはともかく、「竜神八部」ですとか、「閻魔王界」とか、「冥界の神々」といったこういう表現は、私はちょっと違和感を覚えます。というのは、親鸞聖人の基本線というのは、仏に帰依するものは、ついにまたその世のもろもろの天の神、地の神に仕えてはならない。帰依せざれ」と。こういう『涅槃経(ねはんぎよう)』というお経を引いて述べておられますし、「仏に帰依する者は、天、神等に帰依せざれ」と示しておりますから、ここでいろいろな神々の名前が出てくるということについて、ちょっと考えなければならない問題があるかも知れません。このような視点からしますと、さっきの神々へのための誓いというのは、少し親鸞聖人の教えからいうと違和感のあるところであります。このことに関しましては、昔から実はこの善鸞義絶事件は、酷い方は、捏造というんですが、後に作られたものであるという学者も昔からおられます。それは一つは、これは親鸞聖人の真筆でなくて、書き写されたものであると、後に。それが一点。もう一つは、今申しました神に仕える必要がないと言われた聖人の教えと、この神々の罰を受けるということは明らかに矛盾する。こういう二つの点から、これは後の人が作り出したものであろうという方もおられるわけであります。そのことはともかくと致しまして、親鸞聖人は、
 
自今(じこん)以後は、慈信におきては、子の義おもひきりて候ふなり
 
要するに「これより以後は、慈信については親子の関係を断ち切ります」強いことばで手紙に述べておられます。要するに世間のことであるならばともかく、大変大事な信心に関わる問題であるから、私はどうしてもこれは黙視することはできないという、そういう内容のお手紙であります。いろいろこの辺りのことが手紙には詳しく述べられております。親鸞聖人が関東を去られてからおよそ二十年少し経っております。聖人を失ったのちの関東の念仏者たちの間で、私はかなり混乱があったんではないかということを予想致します。今申しました、例えば阿弥陀仏一つに生きるというあまり、伝統的な神々を軽視したり、あるいは軽侮したり、そういう動きも関東であったようでありますし、また以前に申しました悲しいもの、悪なるものを先ず救うという阿弥陀仏の教えであるならば、どんなに悪を造っても構わないという、いわゆる「造悪無碍(ぞうあくむげ)」こういう教えが横行する状況にあった中に、善鸞さんは、京都から聖人の使者として関東に下ったものと考えられます。なかなかしかし関東にはまいりましたが、問題は解決せず、また関東の有力な親鸞聖人に直接教えを受けた門弟たちとも、私はさまざまな軋轢が実はあったんではないか。こんなことも手紙から知られるところであります。そういう意味でひょっとしたら慈信房善鸞は、自己の権威付けのために、「私は父親鸞から深夜夜一人伝授された秘密の法がある」などと言ってしまったことも、手紙から見られます。懸命に関東の念仏集団の混乱状況を収拾しようとしたのではないかと考えられます。ですから私は、単純な善鸞悪玉論というものには組しないものの一人でありますし、事実が大分誇張されて手紙などに残されていたのではないかということも考えることであります。月並みですが、ボタンを一つ掛け違えますと、すべてがおかしくなりますね。小さな錯誤が―誤りが大きな誤りに繋がっていくこともあります。その中で八通の後ろに性信房の書かれた『真宗の聞書(ききがき)』という本がありまして、これは親鸞聖人が、「この書はとってもよく出来ていて、私の考えとまったく異なっていません。とても嬉しく思います」と、こういう言葉が見られます。「うれしう候」と、こうあります。この書物と性信という念仏者の存在は、親鸞聖人にとってはとっても頼もしい存在であったと思われます。闇夜の中の光のような一冊の書物であったかも知れません。この『真宗の聞書』につきましては、真宗田派専修寺蔵(せんじゆじぞう)(三重県津市一身田町)の一二八○年の写本『真宗聞書』のことであろうと言われております。そのお手紙の最後に親鸞聖人は、哀愍房(あいみんぼう)という念仏者が書いたと考えられる『唯信鈔(ゆいしんしよう)』という書物、これは実に酷い内容で燃やしています。親鸞聖人としては、珍しく激しい言葉で書いておられます。その手紙をちょっと読んでみますと、
 
また哀愍房とかやの、いまだみもせず候ふ。また文一度もまゐらせたることもなし。くによりも文たびたることもなし。
 
云々と書いて、
 
あさましう候へば、火にやき候ふべし。
 
要するに、「哀愍房などという人には、私は会ったこともありません。また手紙を一度も出したこともありませんし、あちらから貰ったこともありません。親鸞から手紙を貰ったと言っているそうですが、とんでもないことです。この『唯信鈔』に書いてあることは酷い内容ですから燃やしてしまいます。なんとも情けないことです。この手紙を他の人々にもお見せになってください。五月二十九日親鸞」こういうふうに手紙には書かれております。そしてこの八通には、追伸のようなものがありまして、「なお、関東の念仏者が信心は間違いなく定まっている、つまり私の救いは間違いないといっていたのは、まったくの嘘でした(みな御そらごとどもにて候ひけり)とありますから、まったく嘘であった。このように大事な阿弥陀仏の教えを捨てている人々の言葉を信頼して、これまで過ごしてきたとは、なんとも情けないことです。この手紙は隠す必要のないものですから、どうぞ他の人々にもお見せになってください」こう示されております。そして第八通の手紙は、次の第九通と密接に結び付いております。そのお手紙のところに「父子の義」親子ですね、「あるべからず候」というしかないと、こう書いております。次に母の尼(慈信房の母である恵信尼)という女性のことですが、対して考えられない嘘いつわりをいっていることに対し、「あさましう候」なんとも嘆かわしいことだと、親鸞聖人は言っています。その手紙によると、壬生(みぶ)の女房がこちらに来て、慈信房がくださった文というものを、ここにおいていきました。原文をちょっと読んでみますと、
 
ままははにいひまどはされたると書かれたること、ことにあさましきことなり。世にありけるを、ままははの尼のいひまどはせりといふこと、あさましきそらごとなり。
 
つまり「今も健在であるのに、継母が親鸞を言い惑わしているということは、とんでもない偽りです。また、この世でどのように過ごしているかも知らないのに、壬生(みぶ)の女房(伝は不詳)そのもとへも手紙を出して思いも及ばないほどのいつわりを言っているのは情けないことであります。こういうお手紙が見られます。また善鸞慈信房は、関東の念仏者たちを鎌倉幕府に訴えたようであります。
 
まことにかかるそらごとどもをいひて、六波羅の辺、鎌倉なんどに披露せられたること、こころうきことなり。これらほどのそらごとはこの世のことなれば、いかでもあるべし。
 
世間世俗のことならばどうでもいいんだけれども、「いかにいはんや、往生極楽の大事をいひまどはして」ですから、信心そのもの、大事な大事な問題を言い惑わしているということは、どう考えても許すことのできないことであると。こういうことも手紙には見られます。最後に少し纏めて申しますが、第十八番目の阿弥陀仏の教えを、親鸞聖人はもっとも大切にされたんですが、
 
第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法(ほうぼう)のとが、また五逆の罪を好みて、人を損じまどはさるること、かなしきことなり。
 
「しぼめる花」に念仏の教えを譬えて人々に捨てさせた、ということの誤りを、花は咲いている時は美しいのです。しかし枯れてしまったら、まったく無価値なものだとは思いませんが、花は咲いている時こそ、光輝きを放っているんですね。それをしぼめる花に譬えたということに対する親鸞聖人の悲しみの手紙の一節であります。慈信房は、阿弥陀如来の法で結ばれていた関東の念仏者たちの絆を断ち切ってしまった。当然関東の念仏集団は混乱に陥りますね。そのことを悲しみ、親鸞聖人自身に対して「破僧の罪」いわゆる同じ教えに生きている仲間の和合、協調を破るものである。念仏者を惑わし、混乱させた大きな罪をつくった、というように書かれております。仏教者の中では、集団の和を破るということは最大の罪、教えを謗ることと並んで最大の罪であるということを、ここで述べておられます。特に善鸞さんが、「私が父から聞いた教えこそが真実であって、関東の他の方々の称えている念仏は、すべて無意味だ」こういうことも言われたと。そしておおぶの中太郎という人のもとにいた九十人あまりの人―念仏者がみな慈信房の方へ付いていってしまった。中太郎という人を見限ったと聞いていますが、いったいどうなっているのでしょうか」と問い正しております。しかし親鸞聖人はよく考えてみれば、結局のところみなさまの信心が、確かな信仰が定まっていなかったということでしょうと、まあ冷静に分析する人でした。この親鸞についても、えこひいきする人だという噂が聞こえてきます。私はさまざまな本を書き写して送ってきましたが、すべて無意味なものとなったことはまことに残念なことであります、という手紙に見られます。かなりさまざまな意味において複雑な問題が、そこに私はあったんだろうとこう思うわけであります。では少し纏め的に申しましょう。善鸞さんの異なった信仰理解の数々、私は、五つに分けて考えております。
 
一、自分(慈信房)一人が、父である親鸞から夜中に密かに教えを伝授されたと伝えられたとこう言いふらしたこと。
二、阿弥陀如来の第十八番目の教えを、しぼめる花に譬えて人々に、それはもう意味のない教えであるとして捨てさせてしまった。
三、継母の尼が、親鸞をいい惑わしていると周囲に言っている。
四、関東の門弟たちを「造悪無碍」(悪をすすめる)―どんなに悪を造っても救いに関係がないと誤った、こういう主張する人であるとして、幕府に関東の念仏者を訴えた。
五、仏法は権力者と手を組んで広めていくべきであると主張した。
 
力ある人と結託して念仏を弘めていくべきである。これに対して親鸞聖人は、あってはならないことである、ということを「ゆめゆめ申したることもそうらわず」あってはならないと厳しく否定をしております。こういった以上五点につきまして、私は纏めて考えておきたいんですが、これらによって関東の念仏集団は大変揺れ動いてしまいました。私は本来の信仰とは宗教とか信心というものに、異義―異なった見解という、理解というのはつきものだという考え方を致します。親鸞聖人の有名な『歎異抄』という書物は、異なったことを嘆き悲しむ書物として生まれたわけですから、私は宗教には、異義・異端というものはつきものだということを考えております。私はそういった誤った理解、異義という悲しみの中から、逆により確かな信心が見開かれていくとしたら、私はそれもまた貴い仏縁ではないかと考えます。誤解されるかも知れませんが、私は信心が動き、働いているところには、そういった異なった異義もまた生まれてくるんではないか、こう考えます。決して異なった信心の奨めなんてことではさらさらありませんけれども、そういう方向性が出て来ても、おかしくはないんではないかということを私は考えます。それは真宗の歴史を見るとよくわかるところでもあります。言葉を換えて申しますと、信心というんでしょうかね、真の信仰のないところには、私は異義もまた生まれてこないんではないか。異義とか異端というと、それだけでけしからんという方がおられるけども、私はその異義を見ることによって、真実・正しい信心というものがそこで生み出されてくるということもあるように思うんです。失礼な言い方ですけど、信心とか信仰というようなものがない―仏教で無安心(むあんじん)と言いますが、無信心、そういうところに私は異なったそういう理解も生まれてこないんではないか。こう言ったらお叱りを受けるでしょうか。江戸時代には、西本願寺教団に起きましたそれは大変な大異安心事件―異なった信仰理解、江戸幕府を動かすような大変な事件が起こりました。その一つは、三業惑乱(さんごうわくらん)事件という大変有名な、そのために命を落とした僧侶がいるんですけども、そういう事件が起きました。詳しくその内容に立ち入ることはできませんが、その事件によりまして、教団は、正しい念仏理解、信心理解の整合性というんでしょうかね、統合を図るために、教えはこのように理解するものであるという「安心論題(あんじんろんだい)」というものを設けまして、つまりこれに則って親鸞さんの教えは理解すべきであるという。安心論題というものをその大事件が起こった後に作り出しました。それは純粋に信仰に救いに関わる信心のいうものを理解して、それを論理化したものであります。ですから教団に所属する人々のテキストとそれがなるわけであります。これは今申しました「安心論題」というんでありますが、従って私は一言言わして頂くならば、この論題に示される信仰理解、信心理解に異なるものは、異安心(者)として罰せられたりすることがある。このことを実はちょっと懸念するんですね。勿論勝手気ままな理解がなされていいということではありませんが、私の懸念はこういう論題というものをキチッと設けることによって、それぞれの信仰が画一化しないか、あるいはダイナミック(動的)な信心信仰という生き生きした信心に生きるものが生まれ難くなるんではないか、ということを私は考えておきたいんですね。あまり教条的なものになってしまうと、信心というものの素晴らしさが失われるんではないか。組織化された教団というものには、統制という問題が当然生じます。しかしそれがあまりにも過度にわたりますと、教団や信仰の躍動感というんでしょうか、瑞瑞しさ、こういうものが阻害されることになるとしたら、これは私はとっては残念に思うんでありますが、そういう傾向が実は教団の歴史の中に、私はなきにしもあらずであると、こんなことも一人の求道者としては考えることがあるんです。安心論題の必要性を踏まえながら、常に親鸞聖人の求められた求道の心に直参しながら、自らもまた求道し続けたいと、私は思うのです。聖人の後を求めず、求めたるところを私もまた尋ねていきたいと思いながら、今日まできてしまいました。しかし日暮れて道遠しという言葉がありますけれども、その感を否めないような気が致します。聖人のこのお手紙には、深い悲しみと寂しさが、読む者に直接伝わってくるような手紙がこの手紙であります。くどいようですが、この第八通のお手紙は、関東念仏集団のリーダー格であった下総国、横曽根の性信房に善鸞義絶したことを知らせたものです。一般に善鸞義絶通告状と言われております。第九通が慈信房義絶状とも言われます。これは四十九年後に、一三○五年ですが、田の顕智(けんち)という念仏者が書き写したものが残っているわけです。慈信房の背信に対する悲しみ、あるいは怒りが見られます。同時に、関東時代、あれほどともに道を求め、求道あるいは教えを聞き、聴聞し、多くの書写本を、参考書を親鸞聖人が与えたにも関わらず、善鸞の説くところにみな付き従っていったことに対する失望が見られます。しかし聖人は、このたびの悲しい出来事も結局、「信心のふたしかさ」が明らかになったものである。むしろそれは悲しみの中であるけれども、良かったことかも知れないと、親鸞聖人は記しております。他力の教えに生きる者の「信」の、私は力強さをその手紙から感ずるものであります。
 
     これは、平成二十七年九月十三日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである