極悪深重の衆生として
 
            東京都本龍寺住職・親鸞仏教センター所長 本 多(ほんだ)  弘 之(ひろゆき)
1938年、満州国三江省生れ。1961年、東京大学農学部林産学科卒業。1966年、大谷大学大学院を修了、大谷大学助手に就任。1976年、大谷大学助教授に就任。1984年、「教区会館を会場に開催された「親鸞講座」の講師に就任。2015年現在、東京都文京区本郷にある東京大学仏教青年会ホールを会場に「本郷親鸞講座」を開催。1986年、東京都台東区にある「臨川山本龍寺」の住職に就任。2001年、東京都文京区にある真宗大谷派の研究交流施設「親鸞仏教センター」の所長に就任。
            き き て           菊 池  雅 典
 
ナレーター:  今日は、「極悪(ごくあく)深重(じんじゆう)の衆生として」と題して、東京都台東区(たいとうく)にある本龍寺(ほんりゆうじ)住職の本多弘之さんにお話頂きます。本多弘之さんは、一九三八年(昭和十三年)のお生まれで、仏教学者の安田理深(やすだりじん)(兵庫県美方郡温泉町(現:新温泉町)生まれの仏教学者。真宗大谷派の僧籍を持つ:1900-1982)師に師事して、親鸞の思想を研究し、大谷大学助教授を経て、二○○一年より親鸞仏教センター所長を務めています。月に一度の「親鸞講座」を三十年以上に亘って続け、主に『教行信証(きようぎようしんしよう)』を読み解きながら、現代における親鸞の教えの意味を伝えています。聞き手は菊池雅典ディレクターです。
 

 
菊池:  本多さんと、親鸞の教え―親鸞教学の出会と言いますか、そこのところをちょっと教えて頂きたいんですけども。勿論お寺は真宗のお寺ということですね。
 
本多:  そうですね。私は、十六代ですから、ズーッと代々親鸞の教えを伝えるお寺だったわけですね。
 
菊池:  本多さん自身も、住職を継ぐのかなというようなことは、お気持ちはあったわけでしょうか?
 
本多:  いや、それは全くなくて、お寺にいることが辛くて、ここ東京浅草は下町ですので、子どもたちが私をからかい半分に虐めると言いますか、そんな中で、自分の中で宗教というものに対する評価ができないものですから、仕事としてこのお寺の仕事をやっていこうということに対してはまったくこう反発的で、反逆的と言いますか、ここから出ようとばかり思っておりました。
 
菊池:  東京大学にお進みになられて、農学部に入られるんですね。それは反発ということがやっぱりあったからですか?
 
本多:  基本的にやっぱり目に見えるものを相手にして、自分で納得できるものを作るような仕事がしたいなどと思ったものですから、それで理科系を選び、そして林産学科というところで、木を相手にして物を作る学問ということをやってみたわけですね。当時はたまたま学園紛争―六十年安保真っ最中の世代だったものですから、何かやはり人生に不安というか、なんかわけのわからない不安感があって、それでちょっと親鸞を勉強してみたいと。こんなことで京都へ行くことになったんですね。
 
菊池:  自分の人生の生き方というのを問われるそういう時代だったんですかね、みなさん一人ひとりが。
 
本多:  時代としてそういうやはり大きな、人間が生きることと、国が戦争で一旦負けながら、もう一回こうアメリカと組んで軍事国家になっていくような、そういう方向に対する大きな反発感というか、不安感というか、そういうものもあったと思いますね。何か人生の基礎をどっかで据えて、この社会を生きていきたいというような、見えないものに対しての要求があったんじゃないでしょうか。
 
菊池:  京都に行かれて安田理深(やすだりじん)先生にお会いになったということですけれども。
 
本多:  一応宗門が建てている大学が、京都の街の北の方にあります大谷大学というのがあるんですけど、ここに席は置いたんですけれども、先生方のお話は、自分にとってなんかピントが外れているというか、ピッタリこないというか、そういうことがある中で、安田先生の言葉は難しくてわからないけれども、本当に自己の全存在をぶつけて自分の生きる一番大切なことを解明したいという強い願いですね。これを先生は「学仏道(がくぶつどう)」と。仏を学ぶ道―「学仏道」というふうにおっしゃっていましたけど、教義を学ぶと言うんじゃなくて、また祖師の説かれた言葉を学ぶと言うんじゃなくて、自分自身が生きることとは何であるかというか、そういう哲学の根本問題と関わるような、そういうような問い方で、厭(あ)きることなくというか、倦むことなくというか、深く追求していくという、そういうことが難しいんですけども、なんかこうこちらを打ってくるというか、動かしていくというか、そういうことがあったと思いますね。
 
菊池:  親鸞の言葉として、「極悪深重の衆生である」ということを我々認識すべきではないかということですね。これから伺ってまいりたいんですけれども。
 
本多:  近代文明ということで、人間が自然を征服したり、自然を利用できる力とか、物とかを作り直して、人間に都合良くしていけるという形で、人間にとって便利な、生活するのに楽な、ある意味で豊かな形の生活が作られてきていることが、ほぼ昭和の時代が終わる頃を頂点にして、バブルが弾けたということがありましたけど、なんか行き詰まってきていたところに、この大震災がぶつかりましたね。それとそこにたまたま福島県に作ってあった原発の事故と、こういうことが重なって、非常にこうなんか人間はみな有限であるし、人間存在って何だろうというような問い返しが与えられたということで、日本の全体の気分が変わったとまで言われるぐらいでしたね。使い放題のエネルギーだったものが、少しみんなで節約しようよというような気分も出てきましたし、けども、なんかやっぱり経済ということを優先に考えるとエネルギーをもっともっと使って、もっと経済活性化という方向で動こうとする、そういうことに関して人間一人ひとりが何を本当に大切にすべきかということを問い返されるような事態になっているというふうに受け止めた方がいいんではないかと、私は思ったものですから。それで親鸞の教えは、有限の自覚、自分が本当に有限の側から無限に行けないという悲しみをもっている。その有限だということを言い表す言葉として「煩悩に縛られている」。「煩悩具足(ぐそく)の凡夫」というような言葉だとか、あるいは自分がより向上して近づこうとしても、それに背くような形でしか生きられないという。それを「罪悪」ということでいうわけですけど、罪悪が深い身だなと。心の底に自分でも気が付かないほど、仏に背くような心をもっているんだなと。仏に背くというか、自分を閉じ込めるような方向でしかものが考えられないという意味で、いのちの本当のあり方に反逆するような自分だと。それをもうちょっと現代の自然界に対する謙虚さとか、あるいは科学文明に頼りすぎていることに対する反省とか、特に原発のような放射能をどんどん出してしまうような物質を量産してしまうような形で、豊かさを謳歌するということがどれだけ罪なのか。自分たち自身が今罪を犯すだけじゃない。将来のいのちに対しても、将来のいのちを壊してしまうようなものを量産する形で生活していいのか、というようなことが問い直されている。それを「罪悪」という言葉で、自覚的に自分たち自身をもう少し考え直してはどうかということで、「罪悪深重の衆生」という形で自分たちを自覚する言葉にしたいなということで問題提起をしているわけですね。
 
菊池:  言葉として「罪悪」というふうに、「極悪」とか非常に強い言葉と言いますか、果たしてそんなにその仏に背く心をもっているつもりはないんだけどな、という方は多いんではないかと思うんですが。
 
本多:  まさにその通りで、私自身もそう思いましたから、「罪悪深重」とか「煩悩衆生」という言葉が、とても暗く感じられて嫌な言葉だなと思いました。初めはですから親鸞という人にあんまり近づきたくないなと、私自身思っていたぐらいなんですけど、だんだん教えを聞く中で、また自分というものを教えられる中で、それは結局表面的に、表に出ている意識の上の悪というよりも、生きていることの根にくっついている―これは浄土教の言葉では「宿業(しゆくごう)」というような言葉で言われるわけですけど、いのちが生きてくる過程で生きるということが、どういうことかということ。生きるということは他のいのちを取ったり、他を踏み台にしたりして生きてきた歴史を引き受けて今のいのちが与えられていますから、生きるということは、自分の意識よりも深いところにそういう生きることがもっている罪を踏まえているというか、その上でなりたっていると言いますか、そういういろんな事実があるわけですけれども、現に私たちは他の生き物―牛とか豚とか鶏とか魚とか、他の生き物を殺して食べて生きている。現にそうだし、その長い間、その歴史が人間を支えてきているということ。そして、人間同士も相手を殺して自分が戦利品を取ってくる。あるいは近代で言えば、貧しい国、弱い国を属国にしてそこから生活の糧を奪ってくるというようなことが、近代文明がなしてきたことなんですね。そういうことは自分たちの豊かさのためには何でもするという、そういうのが生きるということの本質にある罪なんだという。なかなか自分で悪いことをしているとか、自分はそんな罪悪人だとは思わないという感覚が、我々共通なんですけど、でもやっていることの上に実はそういう罪悪性の上に立って生きているんだ、ということを知らされるというか、そのことは自分がそうなんだと気付かないと、本願他力が私を「それでもお前を助けてやりたいんだ」と言っているんだということの意味が響いてこない。自分が善人であり、ちょっとましな人間だと思っていれば、自分を足していけばもっとましな世界ができるんじゃないか。自分がもっと立派な人間になれるんじゃないかというふうに考えている場合は、本願他力の教えが響いてこない。やっぱり自分は助からない身だと。こんな罪の身で自分が生きていることというのは、ほんとに罪悪だなあというふうな悲しみと言いますか、限界を気付かされると、にも関わらず、「助けんばやまないと。必ず助けるぞ」と言っているようなお心があるんだという。そこに拠り所にして立ち上がるということは、いろんなものを見る眼が随分変わるんですよね。蜘蛛が生きていれば虫をとると。その蜘蛛をまた他の虫が食うと。そういう生の連鎖と言いますか、これはじゃ蜘蛛はお前は虫をとるのは悪いんだと、蜘蛛を殺したって蜘蛛を助けることにはならないし、蜘蛛が居なくなったから虫が助かるかと言ったら、助かるわけじゃない。そういう生きるということが悲しいけれども、そういう罪悪性をもって生きているんだということと、大きな働きの中にいのちが恵まれてあるんだと。罪悪性を拒否して、自分は立つ瀬がない。罪悪性の上に成り立たして頂いているんだなと気付いてものを見ますと、大自然の大きな恵みと言いますか、本願力が呼び掛けるような大きな恵みもまた気付かされてくるということが起こるんですね。
 
菊池:  人間だけに留まらない、動物も含めて生きるということは、苦しみ、罪悪性があるんだというお話ですけれども、人間が生きていること自体、濁りの世を生み出しているというようなことも、親鸞聖人はおっしゃっているんでしょか?
 
本多:  「五濁(ごじよく)の世は無仏の時」という言葉があるんですけど、仏が居ない五濁の時代が、でもこの時代に生きざるを得ない人間はどうしたらいいんだというところに本願他力の教えを信じようということが強調されるんですね。「自分たちでなんとかしていこう」って、やればやるほど傷つける。あるいはやればやるほど汚してしまうという。この疑いに気付いて、しかしやめるわけにはいかないんだよ、ということを悲しみと共に認めて生きていこう。そうすると、それで濁りがなくなるとは言わないけども、濁りに堪えて生きていって、濁りを少しでも減らしていく方向をもう一回考え直すことも可能なんじゃないかと。だからさっきの豊かさで言うなら、原発をどんどん作って豊かになっていくということがほんとに豊かさなのかと。なんかそういう人間の欲望をお互いに燃やして豊かになったと思う思い込みが、例えば都市生活をみればわかりますけど、この五十年前、百年前の生活に比べて格段に文明利器は普及しているけれど、人間が果たして幸せになったのかと。人間の心が豊かになったのかというと、必ずしもそうではない。なんかこう殺風景な非常に孤独な人が多くなり、ものを深く喜んでいくようなことができにくい。表面的に時間を潰してしまって人生を無駄づかいするような考え方が多くなってしまっている。なんかこう非常に自己放棄的だというか、自己の大切さをほんとに探すというような方向が見えにくくなっているという。そういうのは現代生活じゃないかなと思うんですけどね。
 
菊池:  その罪悪性というものから、どう前向きに生きていくかという時に、本願他力ということを信じることが大事になってくるかと思うんですけれども。
 
本多:  そうですね。結局親鸞は、信じるという。人間が大きなる慈悲を信じるということがどうしてできるかと言ったら、大きな慈悲自身が人間に働いて人間の心を転換するからだと。自分からそうなれない。自分からはそんな慈悲を信じるなんてということはできないような愚かじゃないんだけれども、実は私たち一人ひとりの妄念というか、自己の執着の心で自己正当化をしようとして考えていることが窮屈だから破れざるを得ないんだと。破らせる働きが大きな慈悲として、我々を翻すと言いますか、そういう心が起こることが信心なんだと。しかしその心、信心が気付くためには今の一人ひとりが罪が深いんだということに気付いて、その気付くことによって罪悪の深い者をも助けずんばやまんと働く慈悲の心が本願なんだと。本願を信じるということは、本願慈悲が働いて、我々の心の中に立ち上がるようなものなんだけれども、やはりそこに気付きとして、自分は愚かである、罪が深いということを知らされて、知らされることによって大悲がわかってくる。こういう論理が親鸞の信巻の信ずるということの論理なんですね。だから一番初めは「罪悪深重(極楽深重)の衆生が、大慶喜(だいきようき)心を得る」と。つまり本当に極悪で助からないような衆生であるからこそ、大きな喜び―大慶喜心(だいきようきしん)を得るんだと。こう普通矛盾するんですよね。善人が喜ぶならわかるけど、なんで極悪深重が喜ぶの。でも極悪深重でほんとに助からないいのちを生きているのに、本当の喜びが与えられるんだと。こういうふうに、親鸞は信の巻の一番初めに出すんですね。だから罪が深いということは、人間は嫌だし、自分はそうなるわけじゃないと思いたいし、だけどそう思っている人間は助からない。自分で自分を「こんなんじゃダメだ」と言って傷め付けたり、なんか鬱(うつ)から出れない。ですから出れなかったり、自分が自己正当化できないで、苦しみに対することはどうしてかと言ったら、ほんとに罪の自覚が足らないからなんだと。その「罪」と言っても、自分がどんな悪いことをしたかというんじゃなくて、生きていることの根にある罪の深さを知らされると、助からない身なんだなと知らされて、にも関わらず、こうして生かされているんだと。いのちが与えられているんだと。この貴重さというか、尊さを本当に喜ぶことができると。こう転換するわけですね。だから親鸞の教えというのは、ただ説明じゃなくて、ものの見方がガラッと転換するんですよね。回心(えしん)という言い方があるんですけど翻(ひるがえ)される。ものの考え方が翻される。相手が悪いんだと思っていたのが、自分が悪いんだというふうに、簡単に言えばね、そういうふうに眼が転換させられると言いますか、そうするとズーッとこの辛い人生、暗い人生を明るく生きる智慧が与えられてくるんですね。これ不思議なことだと思うんですけど。
 
菊池:  では、私たちはこれから親鸞の教えを抱きながら、何をこうできるのか、するのかと。
 
本多:  親鸞の姿勢というのは、結局自分が何か善いことをしようとか、自分が人類を救おうとか、そういった発想ではなくて、大きく本願他力が衆生を支えて衆生を救ってくださるんだと、信じるという考え方ですから、我彼と共に本願他力を仰いで、本願力の働きを信じて、罪の身であるけども、心明るく生きていこうよということですから、行為として何かをするという発想というよりも、ほんとに大事なことは、本願がやってくださるんだと信じていくというか、自分からこれが善だからこの方向でやっていくとか、これが正義だからこの方向でやっていくとかという、そういう発想がもたらす大悪性をどっか見ておられると思うんですね。どうしても人間は、自分の了見というか、自分の与えられた範囲内で正義とか、正しいとか、善だとか、思うことをやりたいと。そういう方向がいいんだと思いたいわけですけど、それが実は人間の妄念があって、人間にはそれぞれ邪見があって、それぞれの立場でいいと思うことがもたらす大悪性が大きいんだと思うんですね。だか我々の眼は非常に小さい眼というか、狭い眼ですから、その範囲内で何かやろうというふうに考えますけど、それは必ずしも本当に人間を立ち上がらせたり、救ったりする方向になるとは限らない。難しいことですけれども、やっぱり有限の身としては有限の中で、有限的に何か善をやらないといけないんじゃないかと、人間は考える。でもその善がその状況の中での相対的なある考え方から見た場合の善であって、他の考え方からみれが、それは善とは言えない、悪かも知れない。だから相対の中で、こっちの方向と決めることを、人間は善しとするけれど、それが危ないということをどっかで知らされるんじゃないかと思うんですよね。今特に日本はなんか大きく動いて、武器を持って正義のために人を殺しに行くというような方向に動き上がっていますけど、これが実は第二次大戦の多いな悲劇を生んだことにもなったわけですから、恐いことですけども、人間はなかなかやっぱり自己正義を立てたいというものがどっかにありますから、お互いにそれが殺し合いにまでいってしまうという。やっぱりそれはなんか人間のもっている罪が見えないまんまに、上に善を作ろうとしますから、罪が上にあって出てくる善は危ないんですよね。そういうことが気付かされるだけでも違うんじゃないかなと思うんですけどね。
 
菊池:  もっと謙虚になって生きることのみということになりますか。
 
本多:  そう思いますね。一人ひとりがそういう心でこのいのちを本当に貴いいのちとして感謝して喜んで、そして全力を何か自分の与えられた仕事なり願いなりに懸けていくということで、これが善だからとか、正義だからというふうに考えないで、与えられたいのちの中に自分の一丸として精一杯生かしてもらうという発想で生きていけばいいんじゃないかなと思うんですけどね。本願という形で教えが説かれているということは、無限なるものが働くものとなって我々に関わってきてくださるんだという教えですから、だから本願というのがよくわからないものですから、生きているうちはダメで、死んでからと考える考え方もあるわけですが、親鸞聖人が言おうとしているのは、本願は衆生を救いたいという働きの場になるんだと。摂取不捨(せつしゆふしや)を受け止めるのは、愚かな罪の深い凡夫なんだと。凡夫が本願の働きを受け止める証明をする場になると言いますか、そういう意味で単につまらないいのちじゃなくて、つまらないいのちのように見える場所が、大悲の本願を生きる場になり、大悲本願を証明する意味をもってくるという。なんか前向きな、受け身なんですけども、受け身の身に前向きな意味が与えられてくるということがあるんですね。
 
菊池:  願いの場でもあると。
 
本多:  場はですから、浄土というふうに教えられますと、浄土というのは、本願の場だから、今のこの我々が生きている濁世の場とは違うんじゃないかとも考えられるけど、大悲の側からすると、苦悩の衆生を救いたいという願いが働くんだから。どこに働くという言ったら、苦悩の衆生のところに働くわけですから、苦悩の衆生が居なくなった場所で働いても意味がないわけですから。例えば我々苦悩の場所に本願が働いてくるということ。念ずる衆生のところに阿弥陀仏が現れ、その阿弥陀仏がおられる場所が浄土ですから。だから我々が穢土に生きているんだけども、浄土の功徳がくるということにおいて、我々を支えているのは、浄土の場であるというふうにも言えなくもないと思うんです。本願の側の働きとして、そこに出会うところに浄土の功徳がくるんだという。名号を信ずるところに名号の中に包まれている一切の功徳が衆生に与えられるんだと。ということは、この苦悩のいのち、穢土のいのちの真っ只中に浄土が開かれるんだというふうに思い切って表現しても間違いではなかろうかと思うんですけどね。だからどんな衆生でも人間として生きているところには、実は如来の願いがかかっているというのが、本願の教えの信じ方ですから。だから鬱状態だとか、不安な心とかというのは、逆に言えば、催しが働きているわけなんですよね。それの自覚できない。親鸞の教えが聞けていないから自覚できない。教えに触れてみると、その不安な心は、実は本願の呼び掛けだったんだと。不安な心は、本願が実は働いてきたから、今生きていることは、今このままじゃおかしいんじゃないかと感じさせられるんだと。だから本願の働きを信じてみると、鬱状態は単に否定的な媒体ではなくなって、積極的な意味を持っている、と考えられてくるというか、そういう意味で、現代は宗教がないというか、自覚的になっていないけれども、むしろこれから本当に宗教が要求されている時代だと言ってもいいのかも知れませんね。
 
菊池:  どうも今日は有り難うございました。
 
     これは、平成二十七年十月四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである