親鸞聖人からの手紙Gアミダ仏はいろもなくかたちもなし(無上仏)
 
               武蔵野大学名誉教授 山 崎(やまざき)  龍 明(りゆうみよう)
 
ナレーター:  「親鸞聖人からの手紙」その第八回「アミダ仏はいろもなくかたちもなし」、お話は武蔵野大学名誉教授の山崎龍明さんです。
 
山崎:  本日は、「アミダ仏はいろもなくかたちもなし」というタイトルでお話致します。お手紙第十四通になります。「法語(ほうご)」というものについて、最初に申しますが、親鸞聖人の手紙には四十三通ありますけれども、この中に実は法語と言われるものが、いくつかあります。「法語」というのは、文字通り仏法の言葉、こういう意味です。日本では在家の信者に向かってなされた易しい説法を仮名文字で記したものを従来「仮名法語」と呼んでいます。もっとも古いものは比叡山の横川(よかわ)に住じた源信(げんしん)(平安中期の天台宗の僧。恵心僧都・横川僧都。比叡山で良源に師事し,横川恵心院に住す:942-1017)の『横川法語』というものです。鎌倉時代になりますと―今から八○○年前ですね―鎌倉新仏教の祖師たちが布教のために―教えを広めるために消息―手紙の形で弟子たちに法語を与えられたと考えられております。『横川法語』というのは大変有名な法語ですが、
 
まづ三悪道をはれて―いわゆる迷いの世界ですね―人間に生まれること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなし。このゆえに人間に生まれたることをよろこぶべし。
 
こういう書きだしであります。とにかく人間に生まれさしてもらったということは素晴らしいことなんだという、書き出しから始まるのが『横川法語』であります。私は、「法語」と言いますと、先ず挙げたいのは、親鸞聖人の先生でありました法然上人の『一枚起請文(いちまいきしようもん)』という法語があります。これは
 
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知(いちもんふち)の愚鈍(ぐどん)の身になして、尼入道の無知のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。
 
要するにアミダ仏の教えに生きる人は一代の法―仏教を詳しく深く勉強したとしても、しったかぶったりかしこぶったりしないで、本当の自分にかえって利口ぶったり賢ぶったりせずして、ただ一向に念仏すべし。こういう大変魅力的な言葉が記されているのが、法然上人の法語であります。さて親鸞聖人の手紙四十三通の中で、三つの法語といわれるものが挙げられております。それは本日の第十四通、これは「自然法邇章(じねんほうにしよう)」と呼ばれている手紙第十四通が一つであります。もう一つは、二十一通目のお手紙に、「浄土に生まれるというのは、涅槃を覚ることである」とか、また「無上覚(むじようかく)―この上もない尊い智慧を得ることである」とか、こういう法語があります。もう一つは、お手紙第四十二通の「弥陀の本願は行(ぎよう)にあらず、善にあらず、ただ仏名(ぶつみよう)をたもつなり」。これ難しいんですが、アミダ仏の教えに生きるということは、私が実践行することでもないし、私が善を積むことでもないし、ただアミダ仏の名前を称えることであると。教えを聞くことである。この三つが法語と消息の中で言われております。法語と言いますのは、他から求められたものでなくして、親鸞聖人自らが書き留め、それを多くの人に伝えたかった重要な言葉を集めたものと、こういうふうに私は考えております。さて本日の本題、この「自然法邇章(じねんほうにしよう)」というのは、とても難しいところでありますので、どこまでお話申しあげられるかわかりませんが、その「自然法邇」とは、「自然(しぜん)」と書いて「じねん」と読みますが、自然(しぜん)というものとは、その意味が本質的に違います。私たちは、「自然現象」ですとか、「自然の摂理(せつり)」といった言葉がありますけども、ここではアミダ如来という仏の教えの働きが必然的に人々を救いに導く、その道理を「自然(じねん)」とこういうふうに表しているわけですね。ですから自然現象ということと、この自然法邇ということはまったく違うということは、私は意識しておくことは大切だと思っております。この自然(じねん)の思想というのは、経典が中国で翻訳される中で大変中国思想の影響を受けているということを否定することはできません。例えば親鸞聖人の書物の中に中国の善導(ぜんどう)大師の言葉を引きまして、
 
仏に従ひて逍遙(しようよう)して自然(じねん)に帰す。自然はすなはちこれ弥陀の苦になり。
 
仏の教えに従って―逍遙(しようよう)(ぶらぶら歩きとか自然ということ)自然(しぜん)に帰っていく。この自然(じねん)というのは即ちこれ弥陀の国なり。こういう言葉があります。ここには私はこの言葉が好きな言葉なんですが、「自然(じねん)は即ちこれ弥陀の国なり」と、こういう言葉があります。先ほど申しました「逍遙」というのは、辞書によりますと、「ぶらぶら歩き」と書いてありますから、自分のはからいで何かをするんじゃなくて、自然に委せておく、行為する、行いをすると。これが逍遙ということの意味であります。自我を交えずにただぶらぶら、ということでしょうか。これはアミダ仏如来の教えのままに、と理解することがいいと思います。つまり私自身のあれこれというはからいといいましょうかね、計算を交えないで、教えを聞くということが大事なことなんですよ、というのが、この言葉の意味であろうと。特に私は、後で触れると思うんですが、「自然(じねん)がアミダ仏の国である」という言葉に、私は長年惹かれてきたわけであります。アミダ仏の浄土と言いますと、浄土というものをこの世で語る人、そういう人もいらっしゃる。あるいはこの土をまったく超えた彼の土のみで浄土を語る人、種々さまざまでありますけれども、自然法邇と言いますので、これをイコール(=)でいうと、他の力と書いて「他力(たりき)」ということでアミダ仏の教えの働き・教えの導きということで、私自身のあれこれというはからいを交えないというのが、自然法邇というところで説かれている教えであります。言葉で申しますと、全文で申しますと、
 
自然法邇の事。
「自然」というふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法邇といふ。
 
現代語訳で申しましょう。
 
自然法邇ということについて。
「自然」ということについて、「自」は「おのずから」ということであり、念仏の行者のはからいによるのではないということです。「然」は「そのようにあらしめる」という言葉です。「そのようにあらしめる」というのは、行者のはからいによるのではなく、阿弥陀仏の本願によるのですから、それを「法邇」というのです。
 
現代語訳ではこういうことになると思います。要するにここでは教えに対して、私たちが自らの理性とか、知性とか、あるいは経験であれこれはからって自己流に解釈したり、理解するということは誤りであるということを説いているといのが、私はこの自然法邇という言葉の意味であると思います。さて従来「自然には三つある」と言われるんですね。
 
一、無為自然(むいずねん)=これは我々が何か意識的に行うというんじゃなくして、自然そのものの働き、これを中国では無為自然と言いますし、これは中国の老荘思想なんかの説くところです。
二、業道自然(ごうどうじねん)=人間の行いそのものが苦しみや楽しみを引き起こしていくんだ。
三、願力自然(がんりきじねん)=これが親鸞聖人の願力自然。仏の教えの働き。その働きがそのまま人々を救うんだ。これを願力自然。願いの力ですから、アミダ仏が教えによって多くの人々を幸せに導きたい。その願い。その願いが自然に働いているということを願力自然と。
 
この三つが昔から説かれるわけであります。要するに、ここでは無為自然とも業道自然とも違って、願力ですから、仏の願いですから、アミダ仏の教えの働きの必然性を願力自然という言葉で表しているわけであります。私は、この「自然法邇章」ということを考えますと、ちょっと言葉を換えて申しますと、先ほど「自ずからしからしめる」とありましたけども、これはアミダ如来の教えの働きが、人間の救いを必然的に実現する。導くものである。こういうことだと思います。これを「他力の仏道」と、親鸞聖人は述べるわけですね。自力というのは、自分の力。自分の力によって戒律を守り修行して迷いを超えて悟りを開いていくから自力の道。親鸞聖人は、他力の道。「他力の仏道」というのは、アミダ仏の教えの働きと導きによって真実に目覚めていく。だからこれは自分の力でないから、これを他力。即ちアミダ仏の働きの世界と。これを「他力の仏道」と、親鸞聖人は説かれるわけであります。自力というのは、今申しましたが、実に難しい。相当な方でないと山に籠もって仏道に励んで悟りを得ることはできません。ですから非常に私たちから見たら尊い崇高な道であるといえるかも知れません。親鸞聖人や法然上人は、そういう道はいつでもどこでも誰でもが実践できる道では残念ながらない。こういうことに大変心を痛めました。それが法然上人とか親鸞聖人でありました。その悩みと求道(ぐどう)―求めの中からアミダ仏の教えに出会っていかれるわけですね。当時智慧第一の法然坊と言われまして、法然上人は実にも秀才、優秀な方である。その法然上人が、「私は自力の道はとてもじゃないけど、迷いを超えて悟りを開けない」と言って、アミダ仏の教えに帰依をされた、という言葉が残っております。この自然法邇ということで申しますと、私は今この自然(じねん)というのは即ちこれは阿弥陀仏の仏の導きということで、「他力」ということで申しましたけれども、この「他力」と「自力」ということを、きちっとその違いを認識しておくということは、私は大変大事なことでないかと、こういうふうに思うんですね。親鸞聖人は、「他力」というのは一体何か、ということを一箇所だけ明確に示している箇所が『教行信証』という書物がありまして、それは、
 
他力といふは如来の本願なり
 
「他力」というのは、自分の力、誰かの力ではなくて、アミダ仏の教えの働き、教えの力を他力というんですよ、ということが説かれております。それは自力を軽視するというんではなくして、自力において悟りを得ることができない私たちのために阿弥陀仏が説かれた教えが他力の教えであるアミダ仏の世界であると。まあこういうふうに理解することができるかも知れません。そこでその「自然法邇章」の中で大切な言葉と致しまして、こういう言葉があるんですね。ちょっと原文で読んでみますが、
 
ちかひのようは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然(じねん)とは申すなり。
 
これをちょっと現代語で読んでみましょう。
 
阿弥陀仏の本願は、すべてのものを「無上仏にならせよう」とお誓いになっています。「無上仏」というのは、かたちを超えたこの上ないさとりそのものをいうのです。かたちを離れているから、「自然(じねん)」というのです。かたちがあると示すときには、この上ないさとりとはいいません―つまりかたちがあるということはかたちに限定されるわけですから、つまりかたちがないから無限大であるんだと。だから私はよく阿弥陀仏の悟りというのは、無限大の悟りと。こういう表現をさせて頂くことがあるんですね。―かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されたすがたを、阿弥陀仏というのであると聞いています。
 
こういうふうに、親鸞聖人がこのあたりで述べておられる。くどいようですが、アミダ仏はすべてのものをこの上なき至上至尊(しじようしそん)というんですかね、もっとも尊い仏にしようという願いを立てられた。無上仏というのは、形を超えた、つまり形にとらわれない悟り、仏ということですね。だから「アミダ」という言葉は、ご承知のように、インド語は「無限」とか、「無量」限りないというのが「アミダ」という言葉の意味でありますから、無限、無量にして一切の形を離れているから、それは自然(じねん)というのがもっとも相応しいんであると。形があるということは、今申しましたように形にとらわれるということであります。従ってこのような仏は、この上なき仏、無上仏とは言いません。形に限定されない。この上ない悟りを知らしめようとして示された姿をアミダ仏とお呼びするんだと、こういうふうに説かれておる。大変難しいことかも知れませんが、別の言い方をするとどうでしょう、私たちは、形あるというものを確かなものであるとみます。これは間違いがないと思うんです。形のないものは無いものだという考え方をすることがありますね。私は必ずしもそうは思いませんで、かえって形のあるものの不確かさというのがあるんじゃないでしょうか。逆に形のないものの確かさというんですかね、そういうものがあるような気がするんですね。ですから仏の悟りというのは、色も無いし、形も無い。真理ですから。真理というものは、色も形もありません。で、あるが故にそれはいつでもどこでも誰にでも、その教えが働くことができる。無限大の悟り。それを「アミダ仏」と申し上げるんだというのが親鸞聖人の、これはアミダ仏という仏に対する親鸞聖人見方であると、こういうふうに申し上げてもよろしいと思うんですね。ちょっと具体的に申しますと、親鸞聖人の言葉では、「いろもなし、かたちもましまさず、しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」。だから心も言葉ももってしては表現することができない。「この一如より」ですから、真如より「かたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして」だからそれは色もない形もない世界から、私たちに認識できるために現れた姿が法蔵比丘という菩薩なんだと。それを方便と言うんですね。形のないところから形を表すことによって、私たちに具体的な姿を示すことを方便と申しますから、これが実はアミダ仏の全身であると。これをちょっと現代語訳で申しますと、
 
真理というものはいろもなく、かたちもなく、私たちの言葉をもってしても言い尽くせない無限大のものです。この真理の世界からかたちをあらわして、私たちの救済のためにあらわれて(方便法身のすがた)、法蔵という名の修行者となり、人々の幸せと救いのために大誓願(本願)を発(おこ)したのです。この方をインドの聖者である世親(せしん)菩薩はあらゆる世界の人々を照らしてやまない光の仏(尽十方無礙光如来はアミダ如来の異名)と名づけられたのです。この如来を願いと修行が報われた仏というところから、報身仏(ほうじんぶつ)と申しあげるのです。
 
ちょっと難しいんですが、こういうことを親鸞聖人は文章にされ、聖人の著述によりますと、アミダ仏に対しまして二つの見方があるんですね。一つは、インドの国王が、素晴らしい説法を聞いて、つまり国王である世俗のトップである自分の生き方に疑問を持ったんですね。そして国を捨て、王の位を捨てて、修行してアミダ仏になった。こういうふうに経典に表れます。もう一つは、アミダ仏というのは、色もない、形もない、真理そのものの体現者であって、その真理である智慧をもって一切の人々の苦しみや悩みを解放する仏。こういう二つの見方が親鸞聖人にはあります。私はこれは二つは二つであって一つであると。この二つがお互いに関連しあっている。これがアミダ仏というものの姿であるということを、平生は考えるんですね。言ってみますと、国王が説法を聞いて出家した。これは人格的なアミダ仏という理解ですね。もう一つは、真理そのものの体現者であるという場合には、ちょっと抽象的ですが、これは真理的なアミダ仏観。宇宙に遍満する真理。こういう二つの見方が親鸞聖人にはあります。最後になりますけれども、アミダ仏にはいろんな異なった呼び方がありまして、「真実の明かり」とか、「真実明(しんじつみよう)(いつわりなき光)」とか、あるいは「大安慰(だいあんに)(大いなる安らぎを与える仏)」、これみんなアミダ仏の別の呼び名なんですね。というのは、アミダ仏は偽らなき光の持主であり、その光で人々を照らし、「大安慰(だいあんに)」というのは、慰めですが、単なる同情とか、慰めでなくて、アミダ仏の教えによって人生を営むことによって、その場かぎりでない苦悩とか迷いというものが根源的に解放される―教えによってね。だから大いなる安らぎ―「大安慰(だいあんに)」と、アミダ仏を別の呼び名で表現することもあるんですね。いろんなことを頂かなければならないんでありますけども、私はそのアミダ仏の世界を「自然法邇」という言葉で表現されたということの意味は、具体的にどういうことにあるかというと、それはアミダ仏というものをどこかにあるものとして考えない。例えば浄土と言ったら、宇宙のどっかに存在するというものとして考えると、これは私は誤りだと思うんですね。悟りの境涯。真実、空なる。悟りの境涯をそういう形で表現しているという理解が、私は大切なものでないかと、こういうふうに考えるわけであります。このアミダ仏如来の教えの働きというものが自然(じねん)である。その自然の道理に則して、私たちがアミダ仏の救いを得ていく。ですからそこに私たちの知識とか、教養とか、あるいは善悪、こういったものを持ち込んでアミダ仏を理解するということが誤りである。自然(じねん)に反することであると。こういうふうに私は、親鸞聖人は示しておられるんではないか。こんな理解をするんですね。すると、「自然法邇」というのは、私たちが救われたいとか、あるいは自ら信心、より確かな信仰と言いましょうか、信心を得たいとか、こういう思いをまったく必要とせずに、そういう思いでなくして、既に救われずにおかないというアミダ仏の智慧の光に包まれているということに目覚める世界。それが実はアミダ仏の世界である。この言葉は、親鸞聖人八十六歳の時のものでありますから、亡くなる四年前の言葉でありますが、体力もかなり失われた高齢な親鸞聖人が一言ひと言心の奥底から紡ぎ出した言葉、それが私この自然法邇の法語となったのではないか。実にその内容は若々しくて、八十六歳とは―みなさん当時の八十六歳というのは八○○年前ですから大変ですよね―凜とした響きがあります。私はこの言葉が親鸞浄土教の根本と言いましょうか、精髄と言われるものであると言ってもよろしいんではないかと思うんですね。ここに、
 
「弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りよう)なり」
 
料(りよう)というのは、手立てとか方便ということでありますから、私たちの先輩方は阿弥陀仏の教えがこの阿弥陀仏の自然(じねん)に成立する教えを私たちに示されるために現れた仏。それが実は阿弥陀仏であると。先輩たちは阿弥陀仏の教えを「呼び声」と言ってきました。あるいは「呼び掛け」というんでしょかね。それはどういうことか。阿弥陀仏が現実を生きる私たちに対しまして、「あなたの生き方それで大丈夫、確かな生き方と言えるの。例えば名誉とか地位とか財産とか健康の中に我々は埋没して生きているけども、本当にその生き方が誤りなき正しいものであると言えるの」という呼び掛けですね。そういうところから念仏の先輩方は、阿弥陀仏の本願を「呼び声」―私は、「呼び掛け」という言葉で表現するんです。我々は呼び掛けるとハッとします。街の中で「○○さん」と言われて、それは自分だったらハッとして立ち止まりますよね。私は、教えに出会った時に、私がハッとして立ち止まる。そしてそこから今生きている私の生き方の軌道修正がはかられていく。そういうところを私たちの先輩方は、阿弥陀仏の本願、教えを阿弥陀仏の「呼び声」である、という言葉で表現されたと思うんです。私は、「信心」というのは、価値観の変革。今までは健康、地位、名誉、財産、これだけが究極の幸せと思っていたと私。しかし教えを届けられますと、教えに出会ってくると、そのことに疑問が起こってくる。そういう意味で私は価値観の変革。「信心」というのは、「信ずる心」と書きますけれども、そんなに難しいことでなくて、そういう価値観の変革に生きる世界が仏教の生き方。そこから新しい生き方が開かれるんではないでしょうか。昔の方は、「阿弥陀仏、ここを去ること遠からず、みな呼ぶ人の袖や袂に」。つまり阿弥陀阿弥陀仏の教えというのは、阿弥陀の御教えを考えたり、聞いたりする。そこに見在(げんざい)しているんだ。色もない、形もない、その阿弥陀仏が私たちの身近に見在(げんざい)しているんです。こういうことを私たちの先輩は、言葉を尽くして私たちに説いてくださいました。ですからそれは南無阿弥陀仏という教え、そして南無阿弥陀仏という、御名(みな)を私たちは称えることによって、常にこの自己自身が問われていく。そこから私が育てられ、私が育まれていく。そういう世界が私は親鸞聖人の説かれた阿弥陀仏の教えの世界である。それを「自然法邇」という言葉で表現をされたんではないか。大変難しいことになりましたけど、このように私は親鸞聖人の教えを理解しております。
 
     これは、平成二十七年十一月八日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである