自然のままということ
 
                  周南市正覚寺住職 柳 田(やなぎだ)  智 照(ちしよう)
                  き き て    金 光  寿 郎
 
ナレーター:  今日は、「自然のまま」ということについて、親鸞聖人の『自然法邇章(じぜんほうにしよう)』を手掛かりにしながら、山口県周南市(しゆうなんし)の正覚寺(しようがくじ)住職で、元くらしき作陽大学教授の柳田智照さんにお話頂きます。聞き手は金光寿郎ディレクターです。
 

 
金光:  戦後の日本では独立自尊とか個性を発揮しろとか、そういうようなことが教育の大きな目標の一つになっているような気がするんですが、それでその結果としては個性を発揮するというのが、自分がしたいことを自由にさせると人間というのはすくすくと伸びるというようななんか非常に大らかなというか、あまり人間の心理を考えないで表面的なところでおっしゃっているんじゃないかなというような気がなんとなくしているんですけれども、現代の自然(しぜん)と仏教という―「しぜん」と言わないで「じねん」と仏教はおっしゃっているようですが、その辺の大きな違いがあるような気がするんですが、自分というものについては、柳田先生はどういうふうに考えていらっしゃいますか。自分というのは、あれがしたい、これがしたいと思う自分がいるわけですよね。
 
柳田:  それはいわゆる欲望の自分でしょう。けど、それは本当の自己じゃないと思います。そういう私というのは、今いうなれば一つは我慢ですね。人に負けちゃいけんというところで生きている。そういうところに今度は優越感と劣等感と、そこで引き回されてしまって、優越感なればいつの間にか高いところに上がって人を見下ろしてしまっている。そして取り残されればイライラハラハラしかなくなる。もう一つは、何かと言えば我が身可愛いの我(が)ありの自己ですね。だからそこで我(が)ありの自己は、我が身が可愛いから人から悪く言われんように、よう見られるように、そして幸せであるように、禍を受けんようにという。善と幸せにおいて自己の確立をやろうとしている。お念仏の御教(みおし)えを聞かせて頂く。仏の智慧そのものの教えを聞かせて頂くところに「あ、これが私だったな。とんでもない私がおった」ということが気付かせて頂くと共に、今度は本当の自己というものをそこに見出して頂くことができますね。それは聞かせて頂くうちに、今度は教えに呼応して、私の内に新しく生まれた自己といってもいい。それはみ教えによって賜る自己ですね。聞かせて頂いてみて「あ、ここでものを考えている私だったな」ということに気付かせて頂く。だからお念仏のみ教えを聞かせて頂くまでは、私がおっても私はおらんと言ってもいい。ただ欲望の自分がおるだけじゃないかな。
 
金光:  むしろ自分が主人公ではなくて、欲望が主人公で、欲望に引きずり回されている意味での自由にあるかも知れませんけれども、本当の自分の自己の確立したところで生きてはいないということになるわけですね。
 
柳田:  そうですね。
 
金光:  「自然法邇(じねんほうに)」という言葉が仏教の場合ありますね。殊に親鸞聖人には『自然法邇章』という有名な文章があるわけですけれども、その冒頭のところに、
 
自然法爾の事
「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。
 
「自然(じねん)というのは」自然(しぜん)と書いて「じねん」と読むわけですけれども、「自然(じねん)というは、「自はおのづから」自分の自でなくて、「自はおのづから」という言葉がありますね。それで「行者のはからいにあらず」個々の人間のはからいではないんだと。あれがしたい、これがしたいというのは、まさにはからいそのものですけれども、そうではないんだと。「然というはしからしむるということばなり。しからしむというは行者のはからいにあらず」これもまた行者のはからいにあらず。個々の人間の、行者というのは修行者という意味でしょうけれども、そのはからいではないんだと。「如来の誓いなるがゆえに法邇という。法邇というは、この如来の御誓いなるがゆえに、しからしむるを法邇という」如来さまがそういうふうにしからしめてくださっている。そのことに気が付くか気が付かないということが、これが大きな分かれ目ということになるでしょうか。
 
柳田:  そうですね。我や我慢で生きている。それは自然(じねん)というても、いうならば仏法では業道自然(ごうどうじねん)と思います。業道自然で宿業(しゆくごう)の世界ですね。
 
金光:  業のままに動かされている世界。宿業の世界。
 
柳田:  そうですね。だから親鸞聖人のおっしゃる自然法邇の自然(じねん)とは、一つ次元が違って、その宿業の自然(じねん)は、実はみ仏に摂(おさ)め取られて救われていくべき一つの転換と言いますか、それはかえってここで生きている私だということを率直に認めるという。その気が付かないでそれだけで走っていっているか、「あ、ここで生きている私だったな」と気付かせて頂くか否かということは大きな違いがあると思います。
 
金光:  ああしたい、こうしたいで振り回されていた自分だったなということに気が付くというのが、大きな転換点のスタートというようなことになるんでしょうか。
 
柳田:  大きな転換点ですけども、行者のはからいにあらずというのは、実はこの私がみ仏の本願に救われていく世界をこう言われているんですね。
 
金光:  ただいきなり「本願」と言われても、なかなか一般の人は分かり難いと思うんですが。
 
柳田:  それはやはりみ教えを聞かせて頂いて、そこにやはり信心の智慧と言いますか、この人のうちにそうした内観の眼が開かれてくる。信心の智慧はいわゆる内観の眼として開かれてくる。だからその眼が開かれてきたところに、今度は「あ、自分はとんでもない私だな」ということに気付かせて頂きますね。
 
金光:  これは頭で考えて、ああかしら、こうかしらというんじゃなくて、自分がそのとこで「ああこういう自分だったな」という。しかも「悪かった、間違っていたな」という懺悔の気持ちが出て来ると、それは同時に次の一歩を踏み出すのと離れていない世界のように伺うんですが。
 
柳田:  「まことにお恥ずかしい私でございます」と同時に、「なんまんだぶ」と、今度は阿弥陀仏の御心の中に摂め取られていきますから、大きな御心の中に安心して生きさして頂く世界の中にいます。
 
金光:  「阿弥陀仏」というと、仏像があったり、映像だったり、阿弥陀さんいろいろいろんな形で表現されているようですけれども、『自然法邇章』の後の方には、
 
無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。
 
と。人間というのは、ある意味では象徴的に、姿・形、あるいは言葉なんかで話して紹介して頂かないと取り付く島がないようなところがあるものですから、そういう意味でいろんな形で、言葉で表現してくださっていると思うんですけれども、「かたちもなくまします」というそういう言葉があるとすると、これはむしろお働きそのものでありますと。
 
柳田:  これはここのところは『自然法邇章』の「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり」この場合は「無為自然(むいじねん)」。仏教の言葉で言えば、無為自然の世界。「無為」というのは、為すことなしと。だから真の一実。真実在そのもの。だから色もない形もない。然れば心も及ばず、言葉も絶えたりという永遠なるものそのもの。真の一実のそのものをこれを無上仏と言われているわけですね。
 
金光:  そうすると、そういう成仏のお働きの中に我々も生かされているということなんでしょうけども、そうしますとこの身体とか、いろんな思いがこう湧いたり消えたりする。それはこの肉体、あるいはこの姿・形を頂いている間だけではない世界の話になるわけですね。というのは、我々はいずれ死んで―これは死んでいないからわかりませんけれども―間違いなく死ぬことは決まっているようで、これは疑うわけにいかないんですけども、でも死んでしまって、はい、お終い、さようなら。何もありません、という世界とは全然違うわけですね。
 
柳田:  そうですね。だからそれは過去、現在、未来を超えて、すぐに働き続けている真のそのものを、これを無上仏と言われているのですね。
 
金光:  有限の人間という姿・形を持っている間は、人間がこうだと思って、これで間違いないと思っていると、その思いというのは、人間の意識というのはどうしても我執みたいなものがそこから離れてくれないところがあるものですから、お言葉としては、なるほど、真如で永遠の実在だと言われても、そうかいなと思ったその途端に自分の変な匂いが、我執がくっつくとこがあって生きているものですから、そこのところは日々どういうふうに、その辺の我執とそういう無上仏のお働きのお味わいというのは、日常の中ではどういうふうに受け取って、どう処理すればよろしいんでしょうか。
 
柳田:  この無上仏というものは、とても私は思いはからう世界ではございません。だからそれは私は思いはかろうても、それの届かん世界であって、親鸞聖人はかえってその無上仏なるものが来たって働いてくださる。それを阿弥陀仏とこうおっしゃっています。
 
金光:  だから帰依なさって「こっちへ来てください、お願いします」というのではダメなわけですね。
 
柳田:  はい。
 
金光:  御和讃には、
 
罪障功徳の体(たい)となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
(親鸞『高僧和讃』) 
 
そういう人間のはからい、あるいは意識で考えるというのは生きて働きを頭の中でとどめて固定してしまうみたいなところがあるわけですけれども、「こういう生き方だったら酷い生き方をしていたな」という、そういういわば罪の方の働きも、それが「罪障がまたそのまま功徳の体となる」ということは、全然別個のものでないということをおっしゃるわけですか。
 
柳田:  それは勿論そうですね。なかなかお念仏の世界は人生経験もどれ一つムダにならないで、みなお念仏の内容として摂め取られますけれども、そういう色のない形もない無上仏という、それはちょうど私の生きている姿というものが、その御親の心の中に納め取られております。それゆえに親様はジッとしていることができないで立ち上がってくださった。これがいわゆる「自然法邇(じねんほうに)」とおっしゃるけれども、いわゆる「無為自然(むいじねん)」と「願力自然(がんりきじねん)」と、自然法邇の場合は二つ言われるわけですね。『自然法邇章』の自然(じねん)というものは、一つは、「業道自然(ごうどうじねん)」ですね。『大無量寿経』が根本でございますけれども、『大無量寿経』の中には、「業道自然」と「自然法邇」と、こう二つ自然(じねん)がなされている。「業道自然」が今の私の生の世界でありますならば、自然法邇の方が今の無上仏というのは「無為自然」と親鸞聖人はおっしゃっている。そして「無為自然」が今の「業道自然」の私を受け取ってくださった今の色もない形もない真実在という哲学的な世界と違うのは、「無為自然」は真実在であるという絶対価値と聞かせて頂きます。ということは、如何なるものも捨てないで摂め取ってくださる、そういう働きが具わっている。ですからこの私も動いている、生きている姿が、一挙手一投足(いつきよしゆいつとうそく)がみな阿弥陀仏の眼(まなこ)に映っている。眼の中にある。ですから、それゆえに阿弥陀仏はジッとしておることができないで、このわれ救わんとして私のところまで飛び込んでくださった。これが「願力自然」の親様で、今も阿弥陀仏とこう表されております。その「願力自然の親」これが私を受け取っていてくださる親様ですね。
 
金光:  願力というのは本願力という。仏さまのお誓いになった願いということで、そこのところは食べてみないご馳走の話を私しているようなものですけれども、やっぱり実際実行されて「あ、こういう世界だった」ということに気付かされると、次の一歩の踏み出し方というのは変わってくるものですか。
 
柳田:  それは変わりますよ。
 
金光:  これは食べてみなければわからんところがあるもんですから。はからいなしとは難しいもんですね。だから同じお念仏を聞いても、聞いて一生懸命これだけお念仏唱えればなんとかなるだろう。もう大分近づいているんじゃなかろうかというのは、まさに自力のはからいそのものだ。
 
柳田:  そのものですから。
 
金光:  私の知っている人で何年も何年もお念仏を唱えてですね、お念仏というのは行証、善悪を問わずですね、年寄りでも頭の少し働き鈍い人でも、みんな救われると。じゃ自分もそれをやればなんとかなるんじゃなかろうかと思って、何年も何年も唱えて、もうそうすると、まだかしらと思って、結局どうにもならなくて、絶望の果てですね、もう仏さまにも自分は見放されたと思って、ちょうど母親代わりのお姉さんが結核で亡くなられるんですね。母親代わりの姉が亡くなったから、自分も姉の後を付いていこうと思って、お姉さんが持っていた睡眠薬を飲んで死のうかと思って覚悟を決めたところに、お手伝いさんがいて、ちょうど梅の花が咲く頃で、「綺麗な梅の花が咲いていますよ、坊ちゃん」と、その様子がおかしいと気付いたお手伝いさんが、庭先から障子を開けて梅の花を見せたんですね。その途端に頭の中で、これだけやってもまだダメだ。どうして自分はダメなのかなと、そんなことばっかり考えていたのが、まったく違う次元でちゃんと梅の花が咲いているではないかと。そこに如来さんの働き、ここにあったということに気が付かれて、それで今まで頭の中でこんがらがっていたのが全部解けちゃっている。それで二日間とか、なんか頭の中の脳味噌が解けたぐらいの印象で、劇的な柔らかい下痢みたいな悪いものが全部流れたような、それで如来さまの世界はこういうことだったということに気付かれた人がいるんですが、やっぱり自力のはからいもそこまでやって、それがストンとこうダメだと気付くことが―これは自分で気が付いたんじゃなくて、あ、そういう世界だったということに、それこそおはからいで、向こうからのお働きに気付かされたという体験の話を聞いたことがあるんですけども、今のお話を伺っていると、まさにおっしゃった自力がダメだというところで、それが壊れてしまうと、そこに新しい、
 
柳田:  そうしたら、あるがままが摂め取られて生かされます。こんなことがありましたよ。こういうような私のところは集まりをしております。そうすると、各地から来られます。で法の集いというのを始めましてね、お見えになり聞きに来られた方が、私のところへはお話をした後、座談をしております。その座談に出られて、その方遠方から来られている方ですけども、「先生、この前聞かせて頂いてありがたかったです。けれども三日ほどしたら信心が壊れました」「何で壊れた?」というと、「孫と喧嘩して、腹が立って壊れました」と。そしてそれから三ヶ月四ヶ月また続いて来られています。また座談に出られまして、「先生、これで頂けるかと思って喜んで帰ったら、今度は娘と喧嘩して愚痴になって壊れました」「そうかい。また壊れたか」。そうしたら今度はそれから五ヶ月していましたら、また座談をしておったら、「先生、いやぁ長い間聞いておったが、これでご信心が頂けたなと思うて喜んで帰りました」「そうか。それはよかったの」「それが十五日ぐらいしたら壊れたんですよ」「そうかい。なんで壊れた?」というたら、「イチジク見た途端に壊れた」「何で? なんで信心がイチジク見たぐらいで壊れるんだ」と言ったら、「私はイチジクが好きなんですよ。それで―それ八月かな―もう食べられるわと思って自分の畑へ行った」。その方は筆の穂を作っていらっしゃる。だからそれを納めに熊野へ行かれて、信心の家へ泊まって五、六日して帰って、ふっと自分の畑へ行ってみると、「ああ、美味しいイチジクの木が枯れているじゃないか。ああ、惜しいな。隣を見るというと、今度はイチジクの木が青々と茂って美味しいのがなっておる。それを見た途端になんで家のだけ枯れるのだ。同じ枯れるんなら隣も枯れやがればいいのにと思って、そうしたら嫉妬の心が出て来て有りがたかったのはどこへ行ったやら。ブツブツ言いながら帰りおったら、孫が、お婆ちゃん、何を言いおる。またブツブツ言うじゃないかね。何のためにお念仏を聞くん。それじゃダメだから止めなさい。もう留守番はせんよ≠ニいうて、先生、もうこれで来られません」というて、寂しそうにおっしゃる。「それにしちゃぁ、あんた、留守番せんよというのによう出てきたのぉ」と言ったら、「もう一遍聞きに行くから頼むね」というたら、「いいよ、いうから出て来ました」「それじゃ何であんたこのままだったら、あんたこれから三十年聞いても信心にはならんで。向きが違う」「それでも私、先生、十八から有りがたい先生に就いてお話を聞かせて頂いてきているんです」「そのありがたい先生というのは私もわかっておるが、あんたの向きが違うよ。あんたなんじゃろう。はじめに三日ほど有りがたかったが、腹が立って信心が壊れた。その次ぎには今度は喧嘩をして愚痴になってまた信心が壊れた。この辺りは有りがたかったと思ったけれども、イチジクが見た途端に今度は嫉妬の心が出てきて信心が壊れたという。それが違うよ。あんたなにかな、消防自動車知っておるかな」と言ったら、「はい、知っております」というて、「消防自動車、あれは誰が作ったんか知っておるかい」と言ったら、「それは知りません」って、「あれは火事が作ったの。火事が作った。だから火事がない時の消防自動車二十四時間寝してもろうておるけれども、火事になったらもう夜中であろうと叩き起こされて行かないかん。あんた薬は誰が作ったか知っておる?」と言うたら、「先生、それは病気が作ったんでございましょう」って。お医者さんが作った、とは言わんかったです。「そうそう。それはそうね。だから健康人には用事がないのがお薬。病人に有りがたいのはお薬。これはあんた愚痴や腹立ちや嫉妬の心が出る」「あれは私の病気で」「だからそれを受け取って、阿弥陀さまはお念仏申せよという、お念仏なんまんだぶつ≠フお薬を届けてくださっている。だからその愚痴が出たら、腹立ちが出たら、あ、この私になんまんだぶつ≠フお薬が届けられているなと気付かして頂いて、お念仏申すんで」と言いました。「それならわかります。それを頂きます」というて、そのお婆ちゃんは帰った。今度はそのお婆ちゃんのお家へお話に行きましたら、若い人がいうんです。「先生、お婆ちゃんが変わりました。今までは腹が立つとプッププップ機関銃を撃つようにいうてたお婆ちゃんがなんまんだぶつ、なんまんだぶつ≠ィ念仏するんですね。お婆ちゃんどうして念仏する?っていうたら念仏の旅が多いのや≠「うて、笑うておりました。変わりましたよ」と。そしてそのお婆ちゃんが亡くなりましたけど、晩年になりましたら、こういうんですね。「先生、私は腹が立つと、有り難うて、嬉しゅうて」いうて。「何で腹が立つと有り難うて、嬉しいのや。気にくわんから腹が立っているんだろう」と。「はい。そうです。それで腹が立つと今度は阿弥陀さんが迎えに来てくださって、なんまんだぶ≠ニ摂め取ってくださるから、ああ、ありがとうて嬉しゅうて」いうて、そこまで転回しましたね。だからそこにあるがままを今度は摂め取られていく大きな阿弥陀様にお会いする。お会いさして頂くことができたら、今度はあるがままが、同じあるがままであっても、今度は阿弥陀仏に摂め取られて、あるがままが今度は生かされていく。そこに罪障功徳の体となる。氷と水の如くにて、氷多きに水多し、障り多きに徳多し、というこういう世界が自ずからお念仏の中に展開せられてまいりますね。
 
金光:  そのお婆ちゃんのように何回も失敗して、そこのところでもっと違うもう一つの違う世界があるでしょうと気付かせて頂けるからその酷い世界、腹が立ってもなんまんだぶつ≠セし、愚痴っぽくなってもなんまんだぶつ≠ナ、大きな世界で生きる喜びが生まれてくる。それが本当の自然のままといいますか、人間というのはそういう世界に生きているんだということに気が付くか付かないかで、本当の生き甲斐を感じるか、虚しい努力で終わってしまうか、という違いが出てくるようでございますね。そういうものを我が身の生き方を内観することによって気付かせて頂ける。そういう伝統というのが仏法の中には伝わっていると。ここでも実践を日々なさっていらっしゃる。そういうのがお婆ちゃんはたまたまそういう時に気付かされたわけですけれども、いろんな方がいろんなところで生きていらっしゃるわけですから、いろんなとこからお話を聞きに来ていらっしゃる方の中には、また違ったところで気付かれた方も当然お出でになるわけですね。
 
柳田:  それぞれにみなありますよね。だから生は個性であると言ってもいいんでしょうけれども、勉強していらっしゃる方もあれば、あるいは勉強していない人もあるし、いろいろあるし、やはり個性というものは人によってみなそれぞれ違いますけれども、しかしなんまんだぶつは、その人の個性は差別はしておりますけど、それをそのまま生かしてくださるといいますか、ちょうど春の世が訪れれば、桜は桜で、あるいはツツジはツツジで生かされてくる。そして桜は桜でなければ現すことのできない花を現します。ツツジはツツジになりきって咲く。ちょうどなんまんだぶつ≠ノ合わして頂くと、宿業を起こしても殺すんじゃなしに、その宿業を起こせばそのままに生かされていく世界が開かれてくる。
 
金光:  ただそういうお言葉を聞いてただ覚えるだけではこれはなかなかそこへ気付くことは難しいような気がするんですが、やっぱり我が身がどういうところに今居て、どういう生き方をしているかというのを、内観と言いますか、我が身の我が心の動き、我が行いがどういうところから出ているかという、そこのところで「あ、こういう自分であったな」という、そこの姿に気が付くか、気が付かないかということがやっぱり大きな違いということでございましょう。そういう意味じゃ機会があるたびにこういう柳田先生のようなお話を聞かして頂く機会を数多くもつ方が気付くチャンスも増えるだろうというふうに思いながら聞かせて頂きました。どうもありがとうございました。
 
     これは、平成二十七年十二月六日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである