私の聖地発見
 
         京都大学こころの未来研究センター教授 鎌 田(かまた)  東 二(とうじ)
一九五一年、徳島県阿南市生まれ。國學院大學文学部哲学科博士課程修了。二○○八年、京都大学こころの未来研究センター教授。宗教哲学・民俗学・日本思想史・比較文明学などを幅広く研究。文学博士。フリーランス神主、神道神道ソングライター。NPO法人東京自由大学理事長。著書に「宗教と霊性」「神と仏の出逢う国」「聖地感覚」「原子力と宗教」「霊性の文学」ほか
 
ナレーター:   今日は、「私の聖地発見」、京都大学こころの未来研究センター教授鎌田東二さんのお話です。鎌田さんは、宗教哲学、民俗学、比較文明学など幅広く研究され、また各地の聖山・聖場を訪ね歩き、『聖地感覚』『究極日本の聖地』『古事記ワンダーランド』など数々の本を出していらっしゃいます。先ずは鎌田さんの鈴と石笛(いわぶえ)の演奏からどうぞ(演奏)。
 

 
鎌田:  みなさん、こんにちわ。鎌田東二です。今日は、「私の聖地発見」というテーマでお話をさして頂きます。僕は、毎朝比叡山に向かって祝詞(のりと)を唱え、般若心経を唱え、各種真言を唱え、石笛、横笛、法螺貝、太鼓、鈴、そういうようなものを演奏します。埼玉県の大宮市から京都に移ってきたのが、十一年前です。埼玉県の大宮の家では、神棚を設けておりました。京都に移って来た時に、その神棚を持って来ようかどうかと考えました。しかし結果的には、それを持って来ず、京都の方では何もない状態で、比叡山をご神体として、また仏の座として、比叡山に向かって拝むというふうなスタイルに決めました。そういうような比叡山が、私にとって日々の聖地ということになります。一週間に一回ほど比叡山に登ります。そこのつつじヶ丘というところに行くんですね。ちょうど四月末、五月にかけて、ツツジが全開になる頃は、ほんとにツツジ天国と言えるぐらいの美しいところです。そこにお地蔵様が二十体ぐらいあるでしょうか、ありまして、そこで合掌をして般若心経や、それから比叡山の仏様は、本尊が薬師如来、そこのお地蔵さん、そして琵琶湖を臨むので弁財天、それらの真言を、弁財天ですと「オン ソラソバテイエイ ソワカ」、お地蔵さんは「オンカカカビ サンマエイソワカ」、薬師如来は「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」このような真言を唱えて、そこで合掌をして、私は、「六方拝(ろつぽうはい)」と言っているんですが、「東西南北天地」六方拝をして、後方宙返りを三回します。それが私にとって祈りの形式なのです。こういうふうなことを行っているのも、私の聖地文化と共にある生活の一端であります。
 
ナレーター:  鎌田さんは、十七歳の時、高校二年の終わりの春休みに、十日以上の長い自転車旅行をしました。徳島県阿南市の自宅を出発、四国を横断、フェリーで九州に渡り、九州を一周、さらに本州へ渡って、山口、広島を経て、四国に帰るという行程。公共施設などで、ただで泊めて貰ったりしながらの長旅でした。この時もっとも鎌田さんの心に残った場所が、宮崎県の青島(あおしま)。鬼の洗濯板の岩場や森と神社のある中に、神秘の島でした。
 
鎌田:  その時に立ち寄った青島というのが、私の聖地発見の第一号地であったわけですね。何故その青島がそれほど私にとって決定的に重要であったかというと、十歳の時に、『古事記』を読みました。その『古事記』を読んだ時に、イザナギノミコト(伊邪那岐命)が黄泉(よみ)の国から帰って来て、その穢(けが)れを落とすために筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)というところに立ち至って、川の中つ瀬で左目を洗うと天照大御神(あまてらすおおみかみ)という日の神が、右目を洗うとツクヨミノミコト(月読命)という月の神が、鼻を洗うとスサノヲノミコト(建速須佐之男命)が誕生してくるという場面を読み進んだ時に、光に包まれるようなこの上なく至福の体験をしたものですから、その時の「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」というのが、頭の中に完全に入っていたわけですね。あ、「筑紫(つくし)の日向(ひむか)」の日向(ひゆうが)の地というのはここだ。十歳の時に読んだ『古事記』が―その『古事記』の物語の最後が「海幸(うみさち)山幸(やまさち)」の話で、ここが「日向神話」と呼ばれるところなんですが、海神(うみのかみ)の竜宮のようなところに行って、山幸であるニニギノミコト(邇邇芸命)の子どもであるホヲリノミコト(火遠理命)が、トヨタマビメ(豊玉毘売)という海神(ワタツミ)の娘と結婚する。そしてそこで出産したのが、鵜戸(うど)神宮(宮崎県日南海岸にある)のウガヤフキアヘズノミコト(鵜葺草葺不合命)だ。そのウガヤフキアヘズノミコト(鵜葺草葺不合命)の子どもが神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこのみこと)と言い、苦難の末に大和の国に入って大和朝廷を打ち建てた神武(じんむ)天皇である。それが初代の天皇になる。このような建国神話が、その後語られるんですが、それは日向という国が重要な場所になっているわけですね。その日向の一番元になる物語の元が、イザナギノミコトが「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」というところで禊(みそぎ)をした。「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」の「橘」というのは、実は私の育ったところが桑野町(くわのちよう)というんですが、桑野町の隣の町が、「橘町」と言いました。「橘」というのは、立っている岬というのか、「はな」というのは、顔の鼻もそうですけれど、突き出たところ、つまり岬の突端とか、海と境を接するところとか、そういうような意味合いがあって、それが地名になっています。その「橘」という育ったところの地名と日向の国の神話上にある「橘」、このようなものが、自分の中で青島という具体的な一つの島を通して結び付いてきた、というのが、一つ大きい神話と場所、つまり聖地というものがこういう形で繋がっているんだというのを、自分の中で確認したんですね。で、聖地は、単に場所が重要なのではなくて、場所の中に聖なる物語があるんだ、と。その聖なる物語というのは、神話である。その神話は、日向神話というその神話を背景にしている。つまり場所は、単なる土地の物理ではなくて、そのような非常にイメージ豊かな物語伝承というものを―そのような物語情報ですね―と結び付いて一セットになっている。これが第一の私の聖地発見でした。そのようなことなので、神話というのは、僕の中では非常に重要な意味合いを持ち、聖なる場所というのも重要な意味合いを持っていたんですが、大学に入って一年の時に、無銭旅行で上野から夜行列車で出発して、新潟の佐渡島(さどがしま)に行きまして、佐渡島を一周して、秋田県の方へ行って、そして青森県に行って、下北半島をぐるりと廻って、恐山(おそれざん)に行ったわけですね。大学の授業なんかはほんとに全然出ませんで、放浪ヒッピー(hippie:1960年代にアメリカに生まれた若者の集団で、既成の体制や慣習を拒否した行動をとる)―その頃「フーテン」と言いましたが―私はフーテンでしたので―今でもフーテンですけど―放浪していたわけなんですね。この恐山にまだ雪が残っていました。誰一人この寒い時期に、恐山に登って行くような人はいませんでした。そして行きますと、円通寺(えんつうじ)というお寺がそこにあるんですが、何ともこう浮き世離れした、この世離れしたような感じのお寺がありまして、「血の池地獄」であるとか、「賽(さい)の河原」であるとか、「一つ積んでは母のため、二つ積んでは父のため」とかというような、そういう石積みの風景が連なっているわけですね。恐山の中に宇曽利湖(うそりこ)という、これもまた美しいコバルトブルーの湖がありまして、そして空は青い、土は灰色であったり、岩がありますから茶色であったり、そういうような極彩色の状況の中に風車―子どもを供養する人たちが立てたような風車がクルクルと回っている。この世ではない、なんか別世界のようなところに入って来たと感じました。これが私にとって聖地第二号なんですね。後々ふり返って考えてみますと、第一番目の聖地に古代から続いている神道の神社の聖地があって、第二番目の聖地を感じた場所は、仏教のお寺の聖地であり、そこは死者がその恐山という山に死んだ後、霊として集まって来て、七月の恐山大祭の時には、イタコと呼ばれる盲目の老女の、シャーマン的な霊能的なその人たちが、死者の「口寄せ」と言って、死者の霊を呼んで、その死者の声を伝えるというような儀礼文化が残っていたわけです。その重要な民間信仰にとって、最も重要な場所の一つが恐山ですが、その恐山に大学一年の時に、何気なしに行き着いた。この二つは、私の聖地類型の両極―陰と陽のような両極になりました。私は今でも、この世の果てを覗いてみたいという、そういう神話的な願望が強くあって、そういう地の果てを覗き込みたい、地の果てというのをいつも感じていたいというのが、私の聖地発見の重要な部分なんですね。世界はこの世ばかりではない。あの世というのか、目に見えない不思議な世界がある。聖地というのは、その目に見えないあの世の不思議なところと繋がっている。これは非常にハッキリと感じたとこであります。青島は具体的には豊後水道の中にあって、海と陸との間の接点をなす小さな島であります。だけれども、この東の海上には常世(とこよ)の国というのがある。もっともっと目に見えない魂の世界、神の世界があって、そこへ通じているし、そしてさらにそれから西に行くと、高千穂の山という―峰という、その峰を通して、それが高天原(たかまがはら)なのかどこなのかわかりませんが、天上他界と繋がっている。海上他界にも天上他界にも繋がっている。そういう場所が青島であったし、また恐山の場合は、それが黄泉(よみ)の国なのか、常世の国なのかよくわかりませんけれども、死者の世界と繋がっているのだ。その異界感覚というか、聖地の持っているあの世と繋がっているという意味でも、この世の果てというのは、十七歳の時から強く感じてきて、そういうところが好きというか、本能的にそういう場所に立ちたいという気持ちが強くなったわけですね。そういう自分の聖地経験の中で転機になったのが、水の聖地である奈良県吉野郡天川村坪内(てんかわむらつぼのうち)というところにある天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしや)というところでした。そしてそこは天河大弁財天社というところは、役行者(えんのぎようじや)小角(おづの)が開いたという水の聖地で、役行者が奈良県の葛城(かつらぎ)というところの出身―加茂(かも)一族の出身なんですが、修験道の開祖に後にされていきます役行者が、修行している時に、祈っていると、最初に感応してきて現れたのが、弁才天女であった。ところが厳しい修行の後にその女性の弁財天女では相応しくないと思ったので、それを天川に据えたというのか、置いた。二番面に感応して現れてきたのが、お地蔵さんであった。お地蔵さんというのも、厳しい厳しい男の修行の場所には相応しいと思えないといって、お地蔵さんも捨てた。それが捨て地蔵として川上村の方へ祀られることになった、と地元の方では言われております。三番目に、感応して出てきたのが、蔵王権現(ざおうごんげん)という。これが吉野の蔵王堂(ざおうどう)に祀られることになる蔵王権現という、あの青い右足を力強く踏み上げたあの独自の像なわけですね。それを本尊として厳しい修行に相応しい修験の本尊としていった。こういうような形で、この吉野・熊野の大峯七十五靡(びき)を巡っていく修験道のルートができてきて、その中心をなす「吉野熊野中宮」と言われる中央の吉野川金剛界、熊野川胎蔵界が合体するところが天河大弁財天社というところになる。そういうようなことがよくよくわかってきたわけですね。そして神道(しんとう)と仏教―私の中では青島神社的な神道と恐山的な仏教の、この二つが、天川の中では、弁才天という水の古来からの水の神とインドの水の神・サラスヴァティという、これは「オン ソラソバテイエイ ソワカ」という弁才天の真言になっていくわけですけれども、そういう弁才天信仰とが結び付いて天川という不思議な名前の天の川ですから、そして天川村を抜けて、それが南に下って十津川村(とつがわむら)になると名前が地元では十津川になって、その十津川村を抜けて、和歌山県側に入ると、熊野川という名前になって、そして熊野灘に注ぎ込む。つまり熊野川も天川も、もともと同じ一本の川沿い―川の上流か、中流か、下流かの違いだけである。水が繋いでいる聖地、ネットワーク、つまり天川も熊野三山も、結局は同じとは言いませんが、その熊野の流域、水の流れの中で、大きく大きく広く、点ではなく、線として、あるいはそれ全体紀州、近畿全体の面として大きく繋がりをネットワークされてもっているんだということがわかってきて、そういうものが近畿地方にやがて西国三十三場、つまり観音様の三十三身に化身して民衆の苦しみを救うという観音霊場が生まれてくる。その第一番札所が、那智の大社の青岸渡寺(せいがんとじ)である。つまり那智の大滝のあるところ、この観音様が第一番になって、日本国中にある仏教の聖地と、それから神仏習合で、特に那智大社なんかがそうですが、那智大社の場合は、イザナミノミコト、クマノフスミオオカミ(熊野牟須美大神)と観音様が本地垂迹説(ほんじすいじやくせつ)の本地として信仰されているので、そういう神仏連合体が生まれているわけですね。神道と言っても仏教と言っても、他界観念、日本人がもっている他界観と結び付いて、あの世の果てというのは、そのような形で具体的にそれぞれの場所で感応されて、感受されて維持されてきたんだ、ということがだんだんよくよく見えてきたわけです。私の三十代四十代というのは、そのようなことの中で、いろいろな不思議な体験というか、いろいろな体験をもつことになりました。中でも一番私にとって決定的な癒やしの体験というのは、「魔境にはまり込んだのか?」と激しく動揺し、また衰弱し、今にも気が狂いそうになっていた。四十日間一睡もできない不眠状態に入った時に、三十六歳の誕生日に、一九八七年三月二十日なんですが、お彼岸の前の日なんですけれども、山梨県身延山(みのぶさん)の西側にある七面山敬慎院(しちめんざんけいしんいん)というところに登ります。そこから東の方を見ると、富士山の山頂のど真ん中から春分、秋分の二日、朝日が昇ってくるのが見える。そこで三月の十九日の夜、夜通しかけて私は山を登りまして、未明に敬愼院に着いて、真っ正面に富士山が見えるので富士山から上ってくる朝日を拝もうとした。ちょっと雲があったので富士山の真っ心から上ってくるその瞬間というのは見ることができませんでしたが、雲間からその後出てくる朝日が見えました。せっかくここまできたので、七面山の山頂まで行って、もの凄い深い七十センチぐらいあったでしょうか、膝を越えるぐらいの雪の中をずぶずぶとほんとに運動靴のまま入り込んで行って、汗水垂らして山頂まで一時間ぐらいかかって行った時に、富士山がほんとに目の前か、ちょっと下のような感じで見えて、その富士山の右手上の方に、太陽が割と高く―一時間ぐらい経っていますから―右手の方に見えました。それをすべてを包み込む円周の虹がかかっていたんですね。富士山が真ん中、そして右手上方に朝日ですね。下の方までくるりと見えて、そし円周になった包み込む虹が見えて、信じがたい光景が広がっていた。〈こんなこと、ありかよ〜!〉という、言葉はなく、ただただ滂沱の涙あるのみ。そして「助かった!」という感覚。そういう感覚の時に、私の中でふっと深い呼吸ができたというか、それまで張り詰めていた緊張の糸がプッと切れて、風穴が開いたという、シューッと今まで詰まっていてパンクしそうになっていた思念とエネルギーがすべて解放さて、風通しがよくなって、自分の中から抜けていく感覚がありました。その後涙がわぁっと出てきて、私は救われた、助かったという、無上感に浸されて、大泣きしてしまったわけですね。そのようなことが聖地巡りというのか、望むと望まないとに関わらず、そういうところが好きで、こういろいろと犬も歩けば棒に当たる式でこう巡っていた最中にいろいろとありました。
 
ナレーター:  平成七年(1995年)一月十七日の阪神淡路大震災。震源は淡路島。『古事記』の、「国生み」神話の縁の地です。そして三月二十日には地下鉄サリン事件、偶然にも鎌田さん四十四歳の誕生日でした。
 
鎌田:  この二つは、阪神淡路大震災とオーム真理教事件は、私は根底から覆していくような力をもったわけです。そういう中で、勿論日本は災害の多い、地震の多い、火山の爆発の多いところであるが故に、このような美しい聖地も残されて伝承されてきているんですが、もう一度その聖地なるものも含めて、日本の宗教文化というものを、根本のところから捉え直し、現代の中に位置づけ直さなければいけない。リセットしなければいけないというのか、リファイン(refine:洗練する)しなければいかんというのか、もう一回甦らせるようなルネッサンス(文芸復興、再生、復活)建て直し必要だ。そんな感じにとらわれ、どうしたらいいのか、とい思いの中で、猿田彦(さるたひこ)神社の祭りと出会い、猿田彦の「おひらき祭り」というのをやり始め、そういうことを通して、日本の聖地文化のありようというものを、もう少し具体的な地域の文化信仰とか、地域の文化の発見というものと、地に足の付いた形で繋がっていくような探求というのが、次の段階で始まりました。それで五十代―今六十過ぎですけれども―五十代六十代になって、京都に移って来まして、先ほど冒頭で話しましたように、私は比叡山と出会ったわけですね。「東山三十六峰(ひがしやまさんじゆうろつぽう)」というその峰峰のところに、日本の神社仏閣の大本山「大社」と呼ばれる宮が、軒並みに数珠繋ぎのように並んでいるんですね。特に東山は多いですね。北は比叡山延暦寺から始まって、その東側に日吉大社があるわけですね。一番南の方には、三十六峰の一番南が稲荷山ですから、伏見稲荷大社があるわけです。このようなそこに天台宗、浄土宗、浄土真宗などさまざまな、真言宗では智積院(ちしやくいん)がありますし、いろいろな宗教伝統の大本山とかがある中で、どうしてここにこれだけの日本の宗教者、宗教精神というのが宿され、輩出し、そこで大きな宗教改革というのが生まれてきたのか。そういうことをいろいろ考え、もう一度そういう精神を現代に継承しつつ甦らせていかなければならない、ということを強く思うようになりました。京都は、聖地の密集地とも言えるようなところですが、特に京都の場合は、先ず豊富な水がある。賀茂川(かもがわ)も桂川(かつらがわ)も―この前洪水になりましたけれども―そういう水によって私たちの生活が支えられているので、その水の都という一面がある。賀茂川、鴨川の聖域に中に、上賀茂神社、下鴨神社がある。その水に対して祈りを捧げるという、祈りの都。これほど神社仏閣が多い歴史の都市は、世界中でも少ないと思うんですけれど、そのような祈りとしての都としての機能がある。そしてそこで古代からの染色であるとか、機織りであるとか、陶芸もそうですね。いろんなもの作り文化というものが洗練される形で作られてきて、そういう中で厳密には千二百年と言えるかどうかわかりませんが、京都というものが平安時代から現在に至るまで、日本の文化の中枢にあるものというか、平生あるものを連続的に保持してきた。応仁の乱やいろんな乱があって、それが途絶えたかに見える、あるいは切り目があったかに見える時でも、どこかで維持されて今日に至る。その時に神社仏閣を含む京都三山、京都の山々や川やまた神社や仏閣というものが大きく、それらを吸収して溜め込んで眠らせておくというのか、次の時代に甦らせるような芽を維持していくところとして極めて重要であった。現在京都大学こころ未来研究センターというところにいて、私が取り組んでいる研究というのは、人類文化の中で心というものを、人類がどう捉えてきたのか、ということを研究する「こころ観研究プロジェクト」。そういう心というのは、目に見えないんですけれども、働いていることは非常によくわかるんで、身体やモノとの繋がりを通して、その心が立ち顕れてくることを我々は日々経験しているので、それを顕在化させる働きとしてワザというものがある。「ワザ研究プロジェクト」。そしてその心やワザが集中的に込められている文化センターというか、文化財的な活動センターとして、神社仏閣を含めていろいろなところがあるそういうのが聖地なので、―三年前に起こりました東日本大震災の後、今その震災を受けた中での聖地や、そこに伝わってくる神楽や民族芸能のようなものが、一体どういう働きと力をもっているのか、というのを研究していく研究プロジェクト。そういうものを通して、人間の心や身体がどう変容し、活力を甦らせ、次の世代へそれを繋げていくことができるのか。そういうことをいま日々研究しながら自らも実践しております。私にとって比叡山というのは、ほんとに親のようなというのか、いのちの源のようなというのか、土台をなしているというふうに感じています。それが私の聖地発見であります。
 
     これは、平成二十六年五月四日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである