戦争の時代に生まれて
 
                 関西学院大学名誉教授 湯 木(ゆき)  洋 一(しよういち)
 
ナレーター:  今日は、「戦争の時代に生まれて」と題して、関西学院(かんせいがくいん)大学名誉教授の湯木洋一さんにお話を伺います。湯木さんは長く実践神学やキリスト教主義教育を研究、牧師を志す人たちにさまざまな社会の課題と向き合うための実践的な神学を教えると共に、教育と人権などキリスト教主義教育がもつ意味などを探究してこられました。その原点には戦争の時代に生まれたご自身の体験があるとのことです。今、教育の現場で何が問われるべきなのか。ご自身の体験からお話頂きます。
 
湯木:  マイクの前で大声で時代を論ずる内容を持っている私ではありませんけれど、受け止められるかどうかは別にして、八十四年間生きてきた私が、今何を現実として捉え、考えているかを短く語ってみたいと思います。まず最初に最近のさまざまな身近な出来事から話しましょう。この国の支配者はやたらと大きな声で叫ばれる今日この頃でありますけれども、それはそれとして私にはどうしても気になるいくつかの問題があります。一つは、二○一四年一月に理化学研究所の小保方晴子(おぼかたはるこ)さんが発表したSTAP細胞に関する論文を巡る問題であります。誤りは誤りであると、それでいいわけですけれど、ただどうしても私の目に映ってくるのは、彼女の周辺の身の引き方の、あるいは身のかわし方の速さであります。さらに博士号を授けた大学がいとも簡単にそれを取り消すと発表したことであります。この問題はそんなに安易な問題ではないでしょう。精査をした人の責任はどこにあるんでしょうか。これは私にとって大きな問題であります。第二に、二○二○年の東京オリンピックの国立競技場、あるいはエンブレム(emblem:日常会話においては、「エンブレム」という語はしばしば「シンボル」(象徴・シンボル)と同じ意味で使われるが、厳密には両者の間には区別がある。「エンブレム」は、観念または特定の人や物を表すのに使われる図案を指す)の問題に関する責任問題であります。税金をあれほど無駄遣いしながら、何もなかったように笑顔で再募集を語ることがどうしてできるのでしょうか。第三は、横浜に始まる杭打ちの問題であります。次々表面に出てくる嘘の報告書の問題。その無責任さ、大企業の姿勢をどう理解すれば良いのか。その現実から見えてくるこの世界の本質をどのように理解すれば良いのでしょうか。この国の将来が気になります。第四は、このような問題の末端に浮かび上がってくる肥大化に熱中する大学の問題であります。それを守り続けるジャーナリズムの問題。それらに置かれている子どもたちの非常に危険な現実を、私たちはどのように見ればよいのでしょうか。そこには非常に大きな共通のこの国のものの考え方の曖昧さ、ご都合主義があるように見えてなりません。そこで何故私がこのようなことを語るのか。私の生涯を語ってみたいと思います。私が生まれたのは一九三一年九月十八日。柳条湖(りゆうじようこ)満鉄爆破事件を口実に、日本の国が中国東北部をかつての満州で戦争を始めた日に生まれました。広島県の呉で生まれました。呉はもう全部軍港の街。それも海軍工廠で知られております。中学一年で戦争に負けるまで、私の、あるいは私たちの生活は戦争以外の何もありませんでした。学校でも国旗掲揚、東郷遙拝から始まり、またそれを中心に展開されます。私たちが歌った歌も「敵は幾万ありとても、すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ」、それから「兵隊さんのおかげです」。最後には、これは私が小学校で講堂で独唱させられた歌ですので、今でも覚えておりますけど、「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりや地獄へさか落とし」。これが私の小学校時代の生活でありました。一九四五年四月、中学に入学。「それで天皇陛下のために死ねるのか!」「それで幼年学校に行けるのか!」「兵学校に行けるのか!」。木刀でしごかれながらも毎日が始まります。この中である体験であります。小学同級生であった友人が工場で勤労奉仕に出掛けて爆弾で亡くなりました。多くの人が弔問に訪れます。お母さんは、「国のために働いていたんですから」と、みなさんにご挨拶をしておられます。しかしみんなが帰った後、自分の部屋に入ると彼の寝間着を抱えて、「何でうちの子だけが!」と大きな声で泣いておられたあのお母さんの二つの心を今に忘れることができません。八月六日に隣の街の広島に原爆が落ちました。八月十五日に敗戦の詔勅が朗読されました。それはそれで仕方がなかったかも知れません。しかし私にとってどうしようもない大きな出来事は八月十六日であります。その頃夏休みはありませんでした。学校で先生たちが口を揃えて、「俺は民主主義だった。そこを間違わないように」。私は学校から帰る日、学校の道具を全部川に捨てました。そして学校をやめる決心をしました。帰宅して母にその話をしましたら、母も私と一緒に涙を流しながら話を聞いてくれました。これからは自分でものを考え、自分で自分の意見を育っていかなければならないとすれば、それは友だちの言葉を聞くことではないか。私は勉強しなくてもいいから学校へ行って坐っておくだけの中学校の生活が始まりました。一九四六年の春、父親の仕事の関係で兵庫県に引っ越してまいりました。そして一九四六年十一月三日に、「日本国憲法」が公布され、一九四七年五月三日に施行されました。その頃先輩であった国会議員が「今度こそこの憲法を命を懸けて守ろう」と、涙を流して講演をしてくれました。私は一生懸命に「日本国憲法」を読みました。そしてあの序文に心を打たれました。しかしその意味がよく分かりませんでした。
 
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて
 
ある女性の先生に質問を致しました。「どういう意味ですか?」と。その先生は私にこう答えました。「私はうまく説明はできないが、私はクリスチャン。この言葉のもつ気持ちはよくわかる。その日から教会での私の傾倒が始まり、それから高校を卒業し、一年働き、一九五三年に、私は深く静かで自由な大学を一生懸命探し、そして関西学院大学を見付け入学致しました。そこで四年間神学を学ぶ。大学院は文学部に移って古代ギリシャ哲学を勉強致しました。そしてそのテーマは、それを日本語で「教育」、そして英語で「education」と呼ばれる思想の歴史でありました。これが必然的に中学生の時からの私の課題である教育の問題に繋がってきますし、教育の歴史を顧みてみようと。日本の近代教育史への関心が次第に深まってまいりました。語り合い、論じ合う友だちは少のうございましたけれど、これが私の生涯の課題になりました。こういった中で今申しました日本の近代教育史の定見について、お話をしたいと思います。そこで先ず『明治六法』を初めからの影響力を持った人物二人を取り上げてみたいと思います。一人は、横井小楠(よこいしようなん)(儒学者、政治家。維新の十傑の一人:1809-1869)という人物であります。一八○九年(文化六年)に生まれ、一八六九年(明治二年)に京都で殺害された人物であります。洋学を学び、選挙の自由、家と身分からの解放を語った小楠が、何が故に明治二年に京都で殺害されなければならなかったんでしょうか。『国是七条』『国是十二条』といった書物からも読み取ってみたいものと思います。二人目が福沢諭吉であります。一八三五年(天保五年)生まれ、そして一九○一年(明治三十四年)まで生きた人であります。十九歳で大分県から長崎県に渡り、二十歳で大阪に出て蘭学を学んでおります。二十三歳、一八五八年に江戸で英学を学びました。そして一八六○年から一八七○年までを幕府の一員として仕事をしております。その間に渡米の経験もあります。一八七二年(明治五年)自分の母校の西洋学の開学の養成に当たり、『学問のすすめ』を書き送っております。その中にこういう言葉があります。
 
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。
 
そして同じ序文の中に、
 
唯學問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無學なる者は貧人となり下人(げにん)となるなり。
 
我々は当然の議論して聞き流してきてはおりませんでしょうか。私はこれをどうしても思わずにはいられません。人間の尊厳や人間の自由、生活などをどう理解するのか。下人とは何なんでしょうか。ちょうど蘭学を学び、英学を学ぶ。そして日本の教育について論じたわけです。その頃にオランダからスコットランドを経て米国に一つの考え方が現れてきます。それは「国家が教育のお金を出す。しかし教育の内容については、国家権力が指図をしてはならない」という考え方でありました。二○○年以上経って、これがヨーロッパ全体で大変大きな課題となっておりました。その頃であります。ですから「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」というのは、ちょうどその頃に言われたことが個人の所有物ではないと。そういう議論と噛み合わせて考えなければならない問題であろうかと思います。先ず日本の教育については、その後一八七二年(明治五年)に、「学制」が発布されます。それは義務教育と自己負担主義の法令であります。しかしその明治五年の「学制」は多くの問題を引き起こします。その頃子どもは畑の労働者でもあったわけでもありますから、お金を出してまで学校になんで縛り付けなければならないのかということであります。同時に一八七八年頃から天皇親政(しんせい)運動が始まります。そしてその歩みの中で一八七九年(明治十二年)に「学制」を改めて「教育令」が制定されます。そうすると今度は、地方の地方官たち、行政人たちの間から自分たちの権益をどうしてくれるのかという問題が湧き起こってまいります。それを解決するために一八八○年、教育令が改正されます。俗にこれを「改正教育令」と申します。それを読んでおりますと、国が全国の教育に対してお金を出すのはいいと。よく考えてみなければならない。ヨーロッパでもっとも教育が遅れている国の英国でもお金を出している。しかしその教育の内容はバラバラだと。日本ではそうあってはならないと。教育の内容について、政府は責任を持たなければならない。ここに教育中央集権化の、あるいは統制の強化が盛り込まれていきます。この世界の動きの中の問題をこういう捉え方をしたということについても、そこにみられるのは世界の教育制度の変革の過(あやま)てる解説。そして「改正教育令」が出てまいります。一八八一年から一八八三年までに、これに伴う諸制度への修正改定が次々と出てまいります。一八八六年「公文式(こうぶんしき)」(法律・命令の公布方法を規定した日本の旧法令(明治19年勅令第1号)。公式令(明治40年勅令第6号)の制定により廃止された)という勅令第一号が出ます。それは教育と軍事に関する重要な問題は勅令によってこれを決定するということであります。そして一八八三年(明治二十一年)には枢密院(すうみついん)が設置され、勅令作成の業務はそこで行われます。憲法草案もそこでできてまいります。一八八七年に「大日本国憲法」成立。一八九○年(明治二十三年)、「教育に関する勅令」が公布されます。一九二三年(大正十二年)には、「国民精神作興に関する詔書」(第1次大戦後の個人主義や民主主義の風潮、社会主義の台頭に対処し、関東大震災後の社会的混乱鎮静のため出された)。一九二五年(大正十四年)には、「師範二十号」が交付されます。一九三六年(昭和十一年)に、「思想犯保護観察法(二・二六事件と岡田内閣の総辞職の後、廣田内閣期の5月に成立した。 昭和維新運動の弾圧や治安維持法の罪を犯した者に再び罪を犯させないために、本人を保護し、その思想行動を観察することを目的とする刑事政策の一環であった)これで大勢の人が特高警察によって留置場に入れられて、そのまま敗戦を見ずに亡くなっております。一九三七年(昭和十二年)に、「国体の本義」(「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。神勅や万世一系が冒頭で強調されており、国体明徴運動の理論的な意味づけとなった。「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と国体を定義した上で、共産主義や無政府主義を否定するのみならず、民主主義や自由主義をも国体にそぐわないものとしている)。一九三八年に「国家総動員法」(戦時体制下の統制法。日中戦争の長期化に対処するため、人的・物的資源の統制運用を目的としたもの。これにより広範な権限が政府に与えられ、戦時体制が強化された。46年廃止)。「一億一心」こういう言葉がその当時出てまいります。やがて戦争の末期には「一億総決起」という言葉が出てまいります。そして一九四一年(昭和十六年)、ハワイの真珠湾攻撃が起こります。そして一九四五年に敗戦。そして一九四六年(昭和二十一年)に「教育基本法」の審議の時の国会の文教委員会である議員が「教育基本法と教育勅語には矛盾はないのか」という質問をします。そうすると文部大臣は答えて「何の矛盾もございません」。そのまま終わってしまっています。何も矛盾もないんでしょうか。以後今日に至るまで、何が問題なのか検討する必要があろうと、私は思えてなりません。今、私が思うことは、日本の学校教育の中で毒されてきた問題をきっちり問い直すことによって、日本の教育をほんとに自由な人間の尊厳性を生かされるような世界に向けての子どもたちが育つような、そういうふうに子どもたちは作られるような学校教育というものがなければならないんではないか。宗教によって権利とする学校というもの、そこのところをきちっと踏まえて自己主張していかなけらばいけないでしょうと。ギリシャの勉強しながら私がやったのは、プラトンの『テアイテトス』に出てくる「タイベイア」ですが、「教育」と訳されるんです。聖書の中にも出てきますけど、それは「真理は神が育てられる。我々はそれに協力するんだ」という姿勢ですわよ。国じゃない。いずれエデュケーション(education)という言葉になっていくんですけど、ラテン語の「educatio」という言葉があります。「educatio」という言葉に二つの意味があって、一つは「educere:エデューケーレ」という動詞と「educare:エデュカーレ」というもう一つ動詞がある。「educere:エデューケーレ」というのは「教え込む」という。「educare:エデュカーレ」というのは「育てる」という意味です。日本では教育のことを「educere:エデューケーレ」の「教え込む」の方を取っている。ところが問題になるのはやっぱり「educare:エデュカーレ」の「育てる」でなければならない。私を問い、そして人間を問うということが教え込まれるんじゃなくて、自分で問うことのできる人を育っていくということですわね。人間が自立した人間として育っていくために協力をすると。それが学校教育の本筋じゃないか。だから暗記したものをどれくらい暗記しているかということで、テストでそれを測ろうとする。そんなのは教育の名に値しない。そういうことを思うんですね。死ぬまで問い続けることになるんじゃないかな。
 
     これは、平成二十七年十二月二十日に、NHKラジオ第二の
     「宗教の時間」で放送されたものである